1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な
権力と財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、
宗教改革運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる
殆んどのドイツ人は、法王を支持した。

1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。
プラハ大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人に
とって、神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし
1415年、カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。
チェコ人のフス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、
プラハをはじめ、各地で戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・
ジシュカは、ドイツの街や修道院、教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が
原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に
敗れた。

数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白と
なった。 あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の
穏健派に分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、
急進派を一気に破った。

戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー
王は、後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を
迎えたが、王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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