多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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    タグ:イギリス

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    冷戦下での大陸の共産党政権と台湾の国民党政権の対立を前に、香港では、
    その政治的影響を食い止めるための様々な処置が採られた。 1949年5月には、
    社団条例が制定され、香港で活動する全ての社会団体に登録を義務付け、
    政治活動と香港以外の団体の香港支部の活動を禁止した。 これによって、
    香港では、共産党、国民党共に非合法ということになった。 社団条例に
    基づき、1949年11月には、38の共産党系の合唱団、劇団、学会等が解散を
    命じられた。

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    また、戦前の自由往来から転じて、中英国境は封鎖された。 1949年1月の人民
    入境統制条例は、大陸からの反乱を扇動したり、公共の安寧を乱したりする疑いの
    ある者を入境させることを禁じた。 1950年5月1日以降、香港政庁は、大陸から
    香港に入る中国人に対し、香港政庁発給の『旅行証明書』の取得を義務付けた。
    このように、戦後大陸と香港の相互往来は厳しく制限され、両地の分断状態が
    出現した。

    大陸は社会主義大国の、香港は資本主義の植民地統治の下に置かれ、それぞれ
    全く異なる政治、経済、社会の構造を築き上げて行った。 台湾と同様に、
    香港でも、香港・マカオ以外の共産党政権下の中国全土を『中国大陸』や
    『大陸』と呼称して、自身とは区別するようになった。

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    それでも、分断の有無に関わらず、大陸から香港への人口流入は戦後ずっと
    続いた。 終戦時には、60万人であった人口は、良く1946年には100万人を
    回復し、1950年末には、200万人に迫り、その後も、およそ10万人のペースで
    増加が長く続いた。 香港政庁の難民政策は、比較的寛容で、1980年までは、
    市街地にたどり着いた不法入境者は、強制送還しない政策が採られた。 このため、
    合法的な移民のみならず、戦後すぐには共産党と国民党の内戦、中華人民共和国の
    建国後は、大躍進運動や文化大革命等に代表される大陸の政治的混乱から逃れて、
    多くの中国人が難民となって、密航等の海陸の困難なルートを通って香港にやって
    来た。

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    1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に無条件降伏した。
    戦後香港を中華民国が統治すべきか、イギリスが植民地支配を再開すべきを
    めぐっては、両国の間に意見の相違があった。 中華民国の蒋介石は、1943年の
    カイロ会議で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から、戦後
    中華民国が香港を統治することへの同意を取り付けていたが、イギリスの
    ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスが統治を回復すべきだと考えていた。
    この考えは、ルーズベルトの後を受けたハリー・トルーマン大統領に支持された。
    結局、9月16日、イギリス政府が日本軍の降伏を受ける形となり、イギリスの
    香港統治が再開された。

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    中国大陸の内戦は、徐々に共産党に有利に展開し、1949年10月1日には、共産党は、
    中華人民共和国の成立を宣言した。 南下して来た共産党軍は、10月17日には
    香港との境界である深圳に達した。 共産党は香港を軍事的に攻略する能力を
    備えていたとされるが、結局、香港に侵入する事はなかった。 中国は周恩来が
    提起した『長期的に考え、充分利用する』との方針に基づき、即時に領有する
    ことは目指さず、イギリスに香港統治を続けさせ、外貨の供給源や貿易の窓口
    として、香港を活用しようとしたのである。

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    こうして、戦後もイギリスは香港を統治し続けることになったが、中国によって
    香港が軍事『解放』されるようなことがないために、イギリスは中国を刺激する
    ことを避けざるを得ず、このとは、ロンドンや香港政庁の政策の幅を制限した。
    イギリスは、1950年、西側主要国としてはいち早くから中華人民共和国を
    承認した。

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    イギリス人は、香港を自由貿易港とし、一切関税を掛けなかったため、香港は
    アヘン貿易の中継地としての役割を果たすようになり、それまで広州、マカオで
    中国との交易に従事していた多くの商社が香港に拠点を構えた。 更に中国大陸
    からも、沿岸部を荒らしまわっていた海賊や、アヘン戦争の際にイギリス軍へ
    食料を提供したために、清朝側から敵視された人々等、多くの人達が香港へと
    移り住んだ。 このように、イギリスへの割譲初期の香港は、にわか作りの
    移民社会といった様相を呈していた。

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    1850年代に入ると、香港社会は、中国内外の新しい動向に大きな影響を受ける
    ようになる。 当時、中国国内では大勢の人達が、太平天国による戦乱を避ける
    ために住み慣れた土地から離れることを余儀なくされていた。 一方、アメリカ
    西海岸やオーストラリアでは、ゴールドラッシュにより、鉱山経営者が安価な
    労働力を大量に求めていた。 こうした事情が重なり、中国から香港を経由して
    アメリカやオーストラリアへ移住する人が急増した。

    移民の大半は、男性の肉体労働者であり、欧米の商社が運行する輸送船で渡航先
    まで運ばれて行った。 こうした移民の中には、斡旋業者によって騙された者も
    多く、輸送中の死亡率も高かったことから、香港政庁は1860年代に入ると、
    移民船への監視体制を強化したが、実情はなかなか改善しなかった。

    香港を通じた移民の流れは、1870年代後半以降、北米やオーストラリアにおける
    排華運動の高まりや、華人の移民に対する規制の強化に伴い、当時欧米列強の
    植民地開発が進行していた東南アジアへと向かうようになる。 そして、華人の
    活動範囲が広がるにつれて、香港は北米、および、東南アジア各地と中国との
    間の人、物、金の流れを結ぶ結節点としての役割を果たすようになった。

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    1930年代には、日中間の武力衝突が香港社会にも影響を与えるようになり、
    とりわけ、1937年に始まった日中戦争の拡大は、中国大陸から香港へ避難する
    人々の数を増加させた。 太平洋戦争が勃発すると、日本軍は香港にも侵攻し、
    同地を1941年12月25日に陥落させた。 以後3年8ヶ月に渡り、香港は、日本軍の
    統治下に置かれた。

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    18世紀後半から、広州で交易を行うようになっていたイギリス東インド会社は、
    やがてインド産アヘンを中国に密貿易するようになり、三角貿易が行われる
    ようになった。 1810年代には、中国沿岸にイギリスの貿易拠点となる地を獲得
    するべきだとする声がイギリス東インド会社の中から上げるようになった。
    同時に、1830年代までには、香港島と九龍半島の間の海峡は、天然の良港を
    推する外国商船の格好の停泊地として承認されるようになる。

    以後、イギリスの貿易拠点ないし、植民地としては、他の島々の名前も取り沙汰
    されるが、1830年代には、広州で貿易に携わる商人達の間で、香港島の獲得を
    望む声が高まっていた。 そして、清朝によるアヘン戦争の最中、イギリス軍は、
    香港島を占領するのである。 ここから、香港としての歴史が始まる事となる。

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    香港島に初めてイギリスの旗が翻ったのは、アヘン戦争の最中である1841年の事で
    あるが、翌年に締結された南京条約により、香港はイギリスへ割譲される事が
    決まり、1943年には、イギリスの直轄植民地となった。 この時にイギリスの
    植民地となったのは、実は、香港島のみで、九龍半島が先端部の割譲は、第二次
    アヘン戦争後に英中間で北京条約が結ばれた1860年の事であった。

    但し、この時点で、香港特別行政区の過半を構成する新界と香港島周辺は、まだ
    清朝の統治下にあった。 これらの領域がイギリス領に編入され、現在の香港が
    形成されたのは、1898年の事であった。

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    香港島、および、九龍半島先端部とは異なり、イギリスは、新界、および、香港島
    周辺の島々を清朝から99年間に渡り租借しただけだった。 よって、その99年後の
    1997年に香港は、イギリスから中国へと返還された。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

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    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

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    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

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    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

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    エリザベス1世には、子供がなかった。 女王が死ぬと、いとこで
    スコットランド王のジェームズ6世が王位を継ぎ、イングランド王ジェームズ1世
    となった。 これによって、イングランドとスコットランドが初めて統一された。
    しかし、この国は不安定だった。 ヘンリー8世がローマン・カトリック教会を
    離脱したことで、宗教問題が起きていたのだ。

    国教は、プロテスタントだったが、多くの人々は、カトリックのままでいたいと
    思っていた。 また、プロテスタントの中にも、拝礼の方法について、異を
    唱える派があった。

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    その中の有力なグループが、清教徒だった。 彼らは、神以外の全ての影響を
    排除して、宗教を純粋なものにしようとした。 清教徒の中には、信仰の自由を
    求めて、イングランドを離れる人達も居た。 その多くは、オランダやアメリカに
    移住した。

    イングランドでは、宗教の違いによって、王と立法機関である議会との間に争いが
    生じた。 内乱が起き、議会派が勝利した。 1649年に議会の命によって、
    チャールズ1世が打ち首に処せられ、議会が国の実権を握った。 1660年になって
    ようやく、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が次の王位に就くよう要請された。

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    410年にローマ人がイギリスから撤退すると、イングランドとウェールズは、
    地方の支配者が統治する幾つもの小さな王国に分裂した。 ピクトランドと
    アイルランドは、一度もローマに征服されることはなかった。 ピクトランド
    には、ピクト人が住んでおり、アイルランドには、スコットランド人が住んで
    いた。 スコットランド人は、ピクトランドを侵略し、自分達の民族の名前を
    とって、スコットランドという名前を付けた。

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    6世紀には、アングル人、サクソン人、ジュート人、と呼ばれるゲルマン人が
    大挙して北ヨーロッパからイギリスへやって来るようになった。 彼らは、
    その後の100年の間に、イングランドのほとんどの地域とスコットランドの
    低地に定住した。 アングル人は、その名を取って、イングランドとし、この時
    から、イングランドに住む人々は、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
    元々、イングランドに住んでいたケルト人は、西方のコーンウォールと
    ウェールズへ追いやられた。 6世紀から7世紀には、ヨーロッパから
    宣教師がやって来て、アングロ・サクソン人をキリスト教徒にした。

    アイルランドには、既に432年、聖パトリックがキリスト教をもたらしていた。
    その後の500年代に、聖コルンバがスコットランドとイングランド北部に
    キリスト教を広めた。 一方、イングランド南部には、カトリックの総本山の
    ローマからの聖アウグスティヌスが派遣され、人々をキリスト教に改宗させた。

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    900年代には、バイキングがイギリスの海岸を襲った。 1016年以降は、
    カヌートというデンマークのバイキングがイングランドを治めた。 伝説に
    よると、カヌート王の家来は、王には神のような力があると信じていた。
    そのような力は、持っていないことを示すため、カヌート王は、陸へ打ち
    寄せる波に止まるように命じたという。 もちろん、波は止まらず、水位は
    上昇し続けた。 デンマークによる支配が終わって間もなく、イングランドは、
    別のバイキングに征服された。 1066年、北フランスのノルマン人が侵略した
    のである。

    ノルマンの王たちは、国中に城を築いて権力を示し続けた。 支配者である
    ノルマン人は、フランス語を話し、それが次第にアングロ・サクソン語と
    混じって行き、現在の英語の元となった。

    イングランドを支配下に置いたノルマンの王たちは、1171年にアイルランドを、
    1289年には、ウェールズを征服した。 しかし、かつての支配者だったローマ人
    同様、スコットランドには撃退された。

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    アップ・ヘリー・アーという火祭りは、イギリスの変化に富んだ過去を
    まざまざと思い起こさせるもののひとつだ。 毎年1月にシェトランド諸島の
    ラーウィックで催される。
     
    祭りの最後を飾るのは、炎に包まれる実物大のバイキング船となっており、
    バイキングは、シェトランド諸島の東250キロにあるスカンジナビア半島から
    やって来た海賊である。 彼らは、8世紀からイギリスの沿岸部や島々を襲う
    ようになり、大勢がそのまま定住した。

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    初期のイギリスを作り上げたのは、あいつぐ侵略者達であり、バイキングも
    正にそうした一団だった。 その後、イングランドの支配者達が、ウェールズ、
    スコットランド、アイルランドをまとめ、強大なひとつの国イギリスを作り上げた。
    今、世界で最も広く使われている言語が英語であるという事実は、どれほど
    イギリスの勢力が大きかったかを示している。

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    【ローマン・ブリテン】
    初期のイギリス人は、およそ1万年前にやって来たピクト人だった。 紀元前
    8世紀にヨーロッパ大陸からケルト人がやって来て、ピクト人を北方の
    スコットランドへと追いやった。

    西暦43年、ローマ人がイギリスを侵略した。 4年後には、イングランドが
    ローマの領土となり、78年には、ウェールズもローマの手中に落ちた。
    スコットランドのピクト人だけがローマに征服されることなく国を守った。

    ローマ人は、イギリスの沢山の民族を支配した。 彼らは、都市や砦、道路網を
    築いた。 この時に作られた道路には、現在のイギリスの道路網の一部となって
    いるものもある。 ローマの支配下で、イギリスは豊かになって行った。
    そして、ローマ人の持ち込んだ進歩した生活様式を楽しむようになった。
    街には、公衆浴場や下水設備が造られ、田園地帯には、大きな邸宅が建てられた。

    400年になると、ローマ帝国は衰退し始めた。 ローマ人は、イギリスから
    撤退したが、彼らの影響は、様々なところに残された。

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    イギリスには、4つの地域がある。 イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランド。 イングランドとスコットランドは、王国であり、ウェールズは、
    皇太子の統治する公国、北アイルランドは、行政区として位置づけられている。

    どの地域の人々も皆、イギリス人と呼ぶことが出来るが、彼ら自身は、
    イングランド人とか、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人という
    ように、住んでいるところや、先祖の出身地を表す言い方の方を好む傾向がある。

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    イギリスは、ヨーロッパ大陸北西部の海に浮かぶ幾つもの島からなる島国で、
    大陸側のフランスまで、一番近い場所では、わずか30キロしか離れていない。
    グレート・ブリテン島もひとつの国だと思っている人が多いが、実際には、
    グレート・ブリテン島は、イギリス最大の島で、面積は、アメリカのオレゴン州
    とほぼ同じである。 グレート・ブリテン島には、イングランド、ウェールズ、
    スコットランドがある。 北アイルランドは、グレート・ブリテン島の西にある
    大きな島、アイルランド島の北東部にあたる。 アイルランド島の北アイルランド
    以外の部分は、アイルランドという別の国である。

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    グレート・ブリテン島とアイルランド島と合わせて、イギリス諸島と呼び、
    これには、周りにある沢山の小さな島も含まれる。 ワイト島、ランディ島、
    アングルシー島をはじめ、こうした小さな島々の多くは、イギリスの一部である。

    イギリスで一番島が多いのは、スコットランドである。 ヘブリディーズ諸島、
    オークニー諸島、シェトランド諸島などがある。 シェトランド諸島は、
    イギリスの国土の最北端に位置し、イングランドよりもノルウェーの方が近い。

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    イギリスは、世界の主要国として、3つの領域で重要な役割を担っている。
    まず、1993年以来、ずっとヨーロッパ連合(EU)のメンバーである。 ふたつ目に、
    その殆どが、大英帝国時代の植民地であった53カ国からなるイギリス連邦を
    率いている。 そして、最も親密な同盟国のひとつであるアメリカと特別な
    関係を持っている。

    こうした役割は、この国の発展の歴史に根ざすものだ。 1500年代から1600年代、
    イギリスは、大西洋の海洋貿易で主導的な立場にあった。 1700年代後半には、
    工業の近代化によって、世界をリードする工業大国となり、1900年代末まで
    その勢いは続いた。 そして、大英帝国を築き、最盛期には、世界の3分の1を
    領土とした。

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    しかし、19世紀に農業が衰退し始めた。 それに続いて、20世紀には、工業も
    力を失い始めた。 現在は、サービス産業が経済の中心となり、イギリスは、
    主要経済大国としての地位を保っている。 福祉国家であるイギリスでは、
    全ての国民が無料の医療と教育、社会保障を受けられる。 しかし、かつてに
    比べて貧富の差が遥かに広がっている。

    イギリスは、政治的には、イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランドという4つの国からなる連合王国である。 スコットランド、
    ウェールズ、北アイルランドは、それぞれ独自の議会を設立して、自治権を
    拡大して来た。 イングランドでも各地域で議会が設立されているが、
    そのうち、大ロンドンの議会だけが選挙によって選ばれる。

    地理的に見ると、複雑な地質が変化に富んだ地形を生み出し、様々な動物や
    植物が生息している。 雨が多く、風の強いこの島々には、1万年に渡って
    人が住み、その中で現在のイギリスの景観が作られてきた。 森が切り開かれ、
    沼地や湿原は干拓され、畑や道が作られた。 村が出来、そして、廃れ、
    都市や郊外の住宅地が開発された。

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    イギリス人とは、この地にやって来た支配者と移民によって作られた国民である。
    初期に住み着いたのは、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、バイキング、
    ノルマン人だった。 産業革命の時代には、アイルランド人がやって来た。
    1950年代から60年代に掛けては、かつての植民地であったカリブ海、アフリカ、
    アジアの国々から移民が、労働力の不足を補った。 その後、難民や亡命を
    求める人達、他のヨーロッパ諸国からの人々もやって来てイギリスの社会は、
    多種多様な文化を持つものとなった。

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    ロンドン塔は、多くの王侯貴族が幽閉されたり、処刑された場所として有名で、
    幽閉と処刑の場であったばかりではなく、それとは反対に、即位した国王が
    戴冠式までの数日をここで過ごしたという喜ばしい習慣もあったらしい。 1547年
    1月31日、ヘンリー8世の死が議会に報告され、その子供であるエドワードの即位が
    宣言されると、エドワードは、ロンドン塔に入った。 大勢の貴族が集まって臣下の
    誓いの儀式が行われた。 そして、ヘンリー8世の葬儀の4日後、2月20日に、
    ウェストミンスター寺院でエドワード6世の戴冠式が行われた。

    エドワード6世が1553年7月6日に亡くなると、その後を継ぐ筈だったジェイソン・
    グレイは、サイオン・ハウス(ロンドン西部にあったダドリー家の屋敷)から
    テムズ川を船で下り、ロンドン塔に入った。 そして、7月10日、イングランド
    王女としての即位が宣言された。 しかし、その9日後の7月19日には、一転して、
    ロンドン塔の因人となり、7ヵ月後の翌年2月12日に斬首となるという運命が
    待っていた。 17歳という若さであった。

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    ヘンリー8世の二人目の王妃であるアン・ブーリン(エリザベス女王の母)も、この
    ロンドン塔で運命の反転を受け入れざるを得なかった。 1532年6月1日の王妃の
    戴冠式に備えて、アン・ブーリンは、当時のグリニッジにあった宮殿から、ヘンリー
    8世と共にロンドン塔に入った。 二人の船に従う船は、4マイルの列をなしたという
    壮大な行列であった。 それが、3年後の1536年5月2日には、グリニッジ宮殿で
    罪状を知らされ、同じルートでグリニッジから船でロンドン塔に入り、ロンドン塔の
    グレート・ホールで裁判が行われ、5月19日に処刑された。

    このような処刑が行われたのは、イギリスの宗教改革と英国王位継承の事情が
    あった。 ヘンリー8世は、最初のスペイン国王カタリーナ・デ・アラゴンと
    結婚し、この時も二人は戴冠式の前夜をロンドン塔で過ごした。 10年のうちに
    6人の子供が生まれ、うち二人は王子であった。 しかし、いずれも生後間もなく
    死亡し、一人生き残ったのは、王女メアリーだけであった。 この時、英国王位
    継承を確保するためにどうしても王子が必要であったのは、想像するに難くない。
    これがカタリーナとの離婚につながり、更には、ローマ教会との決別、英国国教会
    設立という、英国特有の宗教改革につながった。

    1547年にヘンリー8世が死んだ時の子供は、カタリーナとの間に生まれたメアリー
    (31歳)、アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス(13歳)、ジェイソン・
    シーモアとの間に生まれたエドワード(9歳)であった。 メアリーと
    エリザベスは、いずれも非嫡出子とされ、王位継承からは外されていたが、
    最終的には、エドワードに続く王位継承者になった。 このエドワードの時代に
    英国国教会は、その土台を着実に築いた。 エドワード6世が15歳の1553年1月、
    重い病気に掛かった時に王位継承の危機が訪れた。

    この当時、40人の顧問官からなる枢密院が最高議会決定機関であり、そのリーダー
    であったノーザンバラトン公ジョン・ダドリーが事実上の政治的実権を握っていた。
    7月6日にエドワード6世が死ぬと、枢密院は、ジェイソン・グレイを王位継承者に
    指名し、7月6日にジェイソ・グレイはロンドン塔へ移され、戴冠式を待つこと
    となった。

    メアリーは、弟の死を知らされてもロンドンには行かず、カトリック支持の実力者が
    第三代ノーフォーク公トマス・ハワードび勢力下にあるイースト・アングリアに
    赴き、支持者を募った。 メアリーがケンブリッジ近くのソーストン・ホールに
    居るという情報を得たジョン・ダドリーが急遽兵を3,000人かき集めてこの館を
    急襲したが、メアリーを捕獲出来なかった。

    しかも、この館は、カトリック教徒の常識として、抜け穴、隠し部屋等の忍者屋敷
    さながらで、メアリーは、乳搾り女に変装して脱出したという。 メアリーのもと
    には、2万の勢力が終結していた。 ロンドンに残っていた枢密院は、ことの
    重大性を知り、先の決定をひるがえして、メアリーを継承者にすることを決定し、
    その旨をメアリーに伝えた。 7月19日のことである。

    このため、ロンドン塔に居たジェイン・グレイは、戴冠式を待つ身から一転して、
    ロンドン塔の因人になってしまった。 枢密院に裏切られたジョン・ダドリーも
    あっさり降伏し、反逆者として処刑される。 かつて王の後見人として実権を握って
    いたエドワード王の叔父エドワード・シーモアを失脚させて葬り去り、実権を
    奪取した男の末路であった。

    ジェイソン・グレイとギルフォード夫婦は、すぐには処刑されなかった。 
    メアリーには、この近親者を処刑する意図はなかった。 しかし、メアリーが
    カトリック宗主国スペインの皇太子フィリペとの結婚を表明すると、プロテスタント
    勢力の間に危機感が広がり、翌1554年1月26日、メアリーの廃位を目的とする
    ワイアットの反乱が起きた。 反乱は鎮圧されて、首謀者は処刑されたが、同じ
    ような反乱が起きることを防ぐために、ジェイソンとギルフォードも2月12日に
    処刑された。

    これが、メアリーによる粛清の始まりとなり、英国民の心に、カトリックに対する
    恐怖と偏見を深く長く刻み付けることとなる。 数年後、メアリーの突然の死に
    よって、悪夢が終わり、エリザベス女王の治世へと移り、再びプロテスタント国
    になると、ジェイソン・グレイは、その殉教者という地位を得ることとなる。

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