多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:イギリス

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

    1604094

    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

    imggfd1

    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    英ロンドン西部の24階建て高層住宅で14日未明に発生した大規模火災で、近隣
    住民らは、安全性への懸念が以前からあったにもかかわらず、富裕層が住む地域
    ではないため無視されてきたと、憤りをあらわにしている。

    火災が起きたグレンフェル・タワーの入居者団体の元会長、ダミアン・コリンズ氏は
    AFPの取材に対し、住民らは昨年完了した同タワーの大規模改装の対処について
    地元議会に苦情を申し立てていたと説明。「私たちは、実際に悲劇が起きないと
    皆の目は覚めないし、ビル管理者が責任を問われることもないと言っていた」と
    述べた。

    ansdieour

    コリンズ氏によると、入居者らは建物内の火災非常口が足りないことを特に懸念
    していた。 また、暖房と照明システムにも欠陥があり、改善を求める2015年の
    請願書に住民の90%が署名したが、それも無視されたと述べた。

    グレンフェル・タワーは1974年建築のコンクリート製高層ビル。昨年、総額870万
    ポンド(約12億円)の改装を終えたばかりで、住民はこの改装の際に使われた
    新たな外装材が火事を広げた原因となったと批判している。

    近隣住民の男性(46)は、同地域の住民は自力に頼ることが習慣になっている
    と語る。 男性は住民が過去に何度も苦情を申し立てていたことを指摘し、
    「もしこれが(高級地区の)ナイツブリッジ近くで起きていたら、既に解決し、
    問題にはならなかっただろう」と述べた。

    この建物は公営住宅として造られた。大部分が高級地区となっているケンジントン&
    チェルシー王立区内の労働者階級地域に位置するが、同地域は急速に高級化
    している。

    住民団体「グレンフェル・アクション・グループ」のメンバーで、自身も長い間
    苦情を申し入れ続けていたというエディーさん(55)はAFPの取材に対し、
    タワーの基礎構造に特に懸念を抱いていたと説明。この構造により、消防車の
    通行が阻害されたと主張した。

    「これは大量殺人であり、責任者はこのコミュニティーに対する扱いについて、
    裁判にかけられるべきだ」(エディーさん)

    出典: AFP

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1279年から1368年の間、中国は元王朝のモンゴル人の皇帝に支配されていた。 
    彼らは、北方の平原から馬に乗り攻め入った。 1215年、モンゴルの指導者、
    チンギス・ハンは、南下して北京を占領した。 1279年には、その孫にあたる
    フビライ・ハンが中国全土を征服する。 中国は、中央アジア全域に広がる
    モンゴル帝国の一部となった。 フビライの王朝である元は、中国をほぼ1世紀に
    渡って支配した。

    gnk41

    モンゴル人は平和と繁栄をもたらした。 代々の皇帝は交易に熱心で、旅人が
    中国を訪れるようになった。 1275年、ベネチア出身のイタリア人商人、マルコ・
    ポーロは、初めてフビライの宮廷を目にする西洋人のひとりとなった。 彼は、
    17年間を中国で過ごした。 中国文明の様々な面をヨーロッパ社会に伝えた
    『東方見聞録』は、ヨーロッパでベストセラーになった。

    129801

    その後、元王朝から明王朝となり、最後に清王朝となった。 清の支配者は、
    中国北部の満州出身だった。 はじめのうち、清の政治は、上手く行っていたが、
    次第に力は弱くなって行った。 1800年代になると、大規模な洪水や地震が
    中国に深刻な被害をもたらした。 貧しい人々の多くは、中国がこのような災難を
    被るのは満州出身の皇帝のせいだと批判した。

    清は変化に逆らって、ヨーロッパとの交易を禁止した。 しかし、ヨーロッパ諸国は
    次第に産業や技術の分野で中国を追い越すようになった。 清の力が弱まるに
    つれて、イギリスの商人たちは、自国で非常に人気のある絹や紅茶、磁器なとを
    自分たちに売るように中国に圧力を掛けるようになった。

    それと引き換えにイギリスは、インドで栽培されるアヘンという麻薬を中国に
    売り込んた。 多くの中国人がアヘン中毒になり、仕事が手につかなくなった。

    清がアヘン貿易を禁止しようとすると、イギリスは無理やり中国に対して2度の
    戦争を起こして、中国を破った。 イギリス中国から強制的に貿易の権利を入手し、
    香港などの領土を奪った。

    最後の皇帝溥儀
    d2fb7e6f60557

    フランスやドイツ、日本などの国々も、イギリスの動きに便乗して中国内に
    領土と影響力を手に入れた。 清の支配に反対する人々が、中国各地で結集し
    始めた。 1911年、大きな暴動が起こった。 最後の皇帝溥儀は1912年、退位
    させられた。 新しく組織された国民党の孫文は、中国を共和国と宣言し、
    大統領となった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ハイドパークは、ヘンリー8世が鹿狩りのためにウェストミンスター寺院から
    入手したものであり、その最古の一角は、イーバリー卿の荘園跡であった。
    この荘園は、広さが当時の土地の単位で1ハイドであったことから、これが公園の
    名の由来となったと言われている。

    ハイドパークは、ウェスト・キャリッジ・ドライブと呼ばれる道路1本を隔てて
    ケンジントンガーデンはと一続きになって、ロンドンの真ん中に広大な緑地を
    提供している。 ケンジントンガーデンは、元々、ハイドパークの一部であった
    ものを1689年にウィリアム3世と王妃メアリとがケンジントン宮殿に移り住んだ
    際に、ハイドパークから分離して造ったものである。

    f09f271701

    ハイドパークはまた、1851年には万国博覧会が開催された事でも良く知られて
    いるが、とりわけ有名なのは、公園の北東角のマーブルアーチとスピーカーズ
    コーナーである。 現在、マーブルアーチの建っている近くには、18世紀まで
    タイバーンの処刑場があり、見せしめのために残酷な処刑が行われたが、人々は
    あたかも見世物でも見物するかのようにそうし絞首刑を見に行った。

    19世紀半ば頃からハイドパークは、労働者たちの集会の場所となっていたが、
    そのような中デスピーカーズコーナーは自由な演説と集会の保証された場所と
    考えられるようになり、イギリスの言論の自由を体現した象徴的な場所であると
    考えられた。 かつては、マルクスやレーニンといった革命家やジョージ・
    オーウェルなどのジャーナリストなどもスピーカーズコーナーで演説をした事が
    あるが、現在では、日曜日に脚立や木箱を演台にして色々な人が好き勝手な
    話をしており、それを観光客がとりまいて面白がっている光景が見られる。

    Hydepark1

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【古英語とバイキングの侵入】
     現代英語の元となった古英語は、実は、アングル族が持ち込んで来た言語
    であり、アングロサクソン人が1100年頃まで使っていた言葉である。 つまり、
    系統的には、インド・ヨーロッパ語族の中の西ゲルマン語群に属する言葉と
    なっている。 現代英語の基礎的な単語は、その殆んどが、アングロサクソンの
    言葉であると考えて差し支えない。

    やがて、紀元前597年には聖オーガスティンがケント州からキリスト教の布教を
    開始、イギリスがキリスト教化するに伴って、キリスト教に関連した多くの
    ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語起源の語彙が英語の中に入って来た。

    8世紀に入ると、バイキングと呼ばれる人々がスカンジナビアからイギリスへと
    侵入して来る。 彼らもまた、ゲルマン民族の一派であったが、彼らの言葉は
    同じゲルマン語でも北ゲルマン語群に属していた。 彼らは先住のアングロ
    サクソン人と激しい戦いを繰り広げた後、ローマ人の築いたウォトリング街道の
    北東部に定住することとなった。 その結果、その地域は、デーンロー地域と
    呼ばれ、現在もスカンジナビア起源の地名が残っている。 現代英語の中にも
    900語ほどスカンジナビア起源の語彙が残っている。

    globaler

    【フランス語の侵入】

    バイキングは、フランスのノルマンディーに国を建て、彼らは、やがて文化的には
    フランスに融合し、言葉もフランス語を用いるようになって行った。 1066年
    には、ノルマンディー公ウィリアムが、イギリスに侵入し、ヘイスティングスの
    戦いにおいて、ハロルド王を打ち破ってイギリスの王位に就いた。 いわゆる、
    ノルマン征服王朝の成立である。 この時、ウィリアムは、国政と宗教の主な
    ポストには、全てフランスから連れて来た家臣をあてたので、以後数世紀に
    渡って、イギリスの重要なポストには、フランス語を母国語とする人々で占め
    られることとなった。

    国王も例外ではなく、ハロルド王以後は、ほぼ300年の間、英語を用いる王は
    居なかった。 そして、この間に、英語は実に多くのフランス語の語彙が入った。
    それは、ちょうど今日の日本語に、本来、日本語にあった大和言葉と漢語と
    呼ばれる中国語が混在している状況と良く似ている。 日本語の中に漢語に
    あたるものが英語ではフランス語やラテン語となっている。

    englischea

    【英語の復活から世界支配へ】

    しかし、ウィリアムと共にイギリスへ渡って来た支配階層も、時が経つに連れて、
    土地の女性と結婚し、生まれて来る子供の世話をする乳母にも土地の女性を雇う
    などしているうちに、次第にフランス語を失って行った。 やがて、13世紀に
    入ると、中世英語で書かれた詩なども出て来るようになり、1337年にフランスとの
    間に百年戦争が起こると、英語に対する意識が急激に高まり、1362年には、議会の
    開会宣言が初めて英語で行われた。

    やがて、15~16世紀になると、現在の英語に近い近代英語が成立し、
    シェイクスピアを初めとする英文学史上でも良く知られた人々の活躍が始まる。
    ちょうどこの頃、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ
    大陸へ到達し、やがて英語を話す人々は、北アメリカ大陸へも移住を始めた。
    こうした歴史を反映して、アメリカの英語の中には、実は、シェイクスピアの
    時代のイギリス英語に近いものが残っていることがある。

    もちろん、近代的なテクノロジーや音楽、映画などの娯楽産業、それに政治、
    経済の先進国であるアメリカで生まれた言葉がイギリスに逆輸入されることも
    多いが、現代アメリカ英語の発音や、日常会話の語彙の中には、イギリスの
    この時代の発音や語彙が残っていることがあり、人々は、それとは知らずに
    使っていることが良くある。

    近代に入ってイギリスが広大な植民地を建設した結果、英語はアメリカ大陸のみ
    ならず、アジアやアフリカからオセアニアまで世界中の広い地域で使われるように
    なった。 そして、現在では、互いに英語を母語としない人々の間でも国際的な
    共通語の言語として使われている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【英語はドイツ語の兄弟】
    今や英語が国際語であることを疑う人はいない。 それどころか、子供を国際人に
    育てると証して、何の疑いもなく小学生から英語教育を行おうとしている。
    しかしながら、English がアングル族の言葉を意味する Englisc を語源とすること
    からも分かるように、英語は、ブリテン島のイングランドとスコットランドの
    低地地方で話される地域的な言葉でしかなかった。

    更に、近世に入るまでは、ラテン語やフランス語に比べて、その地位も低く
    見られており、神の言葉である聖書は、英語には翻訳出来ないという議論まで
    あった程である。 英語が国際語としての現在の地位を確立するまでには、
    その過程で征服や侵略や植民地化の歴史、そして辛く悲しい移民の歴史があった
    のである。

    英語の歴史的研究も、18世紀になって当時イギリスの植民地であったインドに
    駐在していたひとりのイギリス人判事ウィリアム・ジョーンズ卿の講演から
    始まったに過ぎない。

    ウィリアム・ジョーンズ卿は、古いインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)を
    研究し、サンスクリット語とラテン語それにギリシャ語の類似性に気が付いた。
    そして、1786年には、『これらの言語は、現在では既に消滅した共通の言語から
    枝分かれしたものである』ことを示唆する講演を行った。

    1761081

    これは、現在インドからヨーロッパに掛けての広大な地域で話されている様々な
    言葉は、実は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるひとつの言語グループに
    分類されうること、そして、そのインド・ヨーロッパ語族には、その元になった
    古い言葉、いわゆる『印欧祖語』と呼ばれる言語が存在したことが想定されうる
    という、驚くべき事実の発見であった。

    英語は勿論このインド・ヨーロッパ語族に属しており、その中でも、ドイツ語、
    オランダ語、フリースランド語などと同じく、ゲルマン語派の中の西ゲルマン語群
    に属している。 つまり、英語は、ドイツ語やオランダ語、それに、オランダの
    北西の沖合いに浮かぶ列島フリースランド地域で現在30万人程の人が話すだけに
    なったフリースランド語などと兄弟の言葉なのである。

    フランスの言葉や文化の影響をイギリスに持ち込んだ1066年のノルマン征服が
    なければ、現在のイギリス人は恐らく、オランダ語のような言葉を話していただ
    ろうとまで言われている。

    そもそも、最初にブリテン島に住んだのは、インド・ヨーロッパ語族の中でも、
    ケルト系の言葉を話すブリトン族であった。 その後、ブリテン島を支配して
    いたローマが、5世紀になって、ブリテン島から引き上げると、アングル族、
    サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族が現在のデンマークや北海沿岸の
    ドイツからブリテン島へと渡って来た。 この時の様子は、『アングロ・サクソン
    年代記』という古い書物などによって、うかがい知ることが出来る。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    日本の動物保護の法制度は、世界でも稀に見るぐらいに規制が少なく、残酷な
    動物実験や動物虐待に対する罰則も特にない。 各国の動物保護法や国際学会等
    では、苦痛を与える実験に関しては、最も厳しい規制がある。 各国の規制は
    法律による規制であり、日本で言うところの任意の自主規制とは全く異っている。

     imgoi7
    特に欧米諸国では動物愛護活動が非常に盛んに行われており、その中でもイギリスが
    最も先進的と言われている。 動物愛護において、日本は少なからずイギリスからの
    影響を受けており、1973年には、エリザベス女王が来日した際に、ペットに関する
    法整備を急いで進めたという過去の出来事もそれを象徴している。 しかし、日本は
    動物愛護に関しては、イギリスよりも100年以上も遅れているとも言われており、
    動物愛護後進国となっている。

    イギリスも昔は動物虐待が日常的だった
     
    0276876

    【イギリス】
    イギリスでは、犬は生涯6回までしか出産させてはならず、ペットショップも
    免許制など、こと細かに法律で定められている。 また、動物虐待防止のための
    王立組織である『RSPCA』が1824年に設立され、さまざまな動物を守る活動が
    行われている。 市民から通報が寄せられると、警察官と共に現場へ出動し、
    改善指導を行なったり、虐待者を裁判に掛けるというシステムも整っている。

    【アメリカ】
    アメリカは州によっても異なるが、例えば、オレゴン州の場合、一番重い動物
    虐待罪の重犯罪を犯した場合、10万ドル(日本円で約1,200万円)の罰金、
    または、5年以内の懲役、更に判決から15年間動物の飼育を禁止、動物虐待防止
    プログラムへの参加、保護された動物の治療費等必要経費の負担、精神科の
    カウンセリング受診が義務付けられる。 また、たくさんの州で動物虐待や
    飼育放棄などを犯罪として取り締まる法的権限を持った『アニマルポリス』と
    いう保護団体もあり、それ以外にも動物虐待を警察と同じ権限で取り締まる
    公的な機関などもある。

    【ドイツ】

    ドイツでは殺処分される犬猫はゼロとなっており、動物愛護に関しては、非常に
    熱心な国となっている。 やはり動物保護法も、一頭飼いの犬には、共同生活に
    対する犬の欲求を満たすために、毎日数度に渡って相当時間、飼い主と交流出来る
    ことが保証されねばならないとか、 身体の部分、とりわけ耳および尾を、特定
    犬種の特徴を完成するために完全もしくは部分的に切断された犬を展示することを
    禁ずるなど、細かく憲法で規定されている。 また、ドイツには犬税が導入
    されている。

    【スウェーデン】
    スウェーデン人の動物保護に対する意識は、非常に高く、犬を6時間以上人間の
    監視無しで置き去りにすることを禁止しており、犬をケージで飼うことも禁止。
    2回帝王切開した犬の繁殖の禁止など、厳しく規定されており、犬の保険加入率
    では、世界一となっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、イギリス
    国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学には入学出来ず、
    ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。  しかし、今はこのような差別は
    ない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、今では欠かさず教会に
    通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展して来た。
    ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は現在はなく、学校や教会を
    設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は40万人にも
    昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を逃れてやって来た。
    ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者のための福祉事業が運営
    されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク教徒、
    ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒はパキスタン、
    バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的伝統を保つため、独自の
    学校を運営している事が多い。

    hanekgie

    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。 英語は
    アングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、発達の段階に
    よって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。 アングロ・サクソン
    年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ1100年まで使われた。
    ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す英語には、
    地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、スカウスと呼ばれる方言、
    ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディーという方言を話す。 ロンドンっ子の
    中には、コックニーと言われるロンドン訛りを使う人もいる。

    imgindex01

    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオやテレビで
    標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の差を強めている
    事もある。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    イングランドでは、5歳から16歳の子供は、義務教育を受けなければならないことに
    なっている。 識字率は、99%で、ほとんどの子供が公立の学校に通っている。
    これらの学校の中には、イギリス国教会やローマ・カトリック教会など、宗教的な
    つながりを持つものも多い。

    イートン校、ハロウ校、チャーターハウス校など私立の学校に通う者も少数いる。
    これらの学校では、授業料を取り、私立であるが、パブリックスクールと呼ばれて来た。

    656901

    初等教育は大体11歳で終わり、中等教育は16歳までである。 中等教育のほとんどは、
    総合中学校で、生徒達は多くのコースの中から自分に合ったものを選ぶことが出来、
    また、能力によって区別されることはない。

    中等教育修了後は、技術や職業訓練を受ける学校に通うことも出来るし、大学に入る
    ための勉強を続けることも出来る。

    イングランドの最も有名な大学は、12世紀に創設されたオックスフォード大学と
    13世紀創設されたケンブリッジ大学である。 最高レベルの教育を誇るこれらの大学は、
    いくつものコレッジ(学寮)から成っている。 1945年以来、政府は放送大学などの
    大学を創設して来た。 放送大学はキャンパスを持たずにテレビ、ラジオ、ビデオ、
    郵便などを通じて授業をする大学である。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    現在、イギリスに住む人の多くはケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、デーン人、
    ノルマン人など、かつてイギリスに侵入し、住み着いたヨーロッパ民族の子孫である。
    イングランドには、ケルト人が刻んだ石灰石の像や、ノルマン人が建てた聖堂など、
    先祖の造った物が残っている。

    18、19世紀に激しかった貧富の差は、2回の世界大戦で縮まった。 社会的差別は
    尚もあるものの、以前ほど厳しいものではない。 例として、1964年以降、どの首相も
    中流ないし、労働者階級の出であることがあげられる。 また、若者は、独自の流行や
    言葉を生み出し、かつては服装や言葉遣いにハッキリ見られた階級差は消えた。

    638712

    20世紀にはヨーロッパ、インド、パキスタン、香港、カリブ諸島から難民として、あるいは、
    かつての植民地からよりよい暮らしを求めて、大勢の人がイングランドに移住して来た。
    1990年代前半には、移民は500万人にも上った。 その多くは、都市のスラム街に
    住んでおり、少数派であるがために、住居や職を探すのに差別を受けることがある。

    民族の違いから来る都市生活の不安も、イギリスにおける新しい問題である。 ロンドン、
    リバプール、ブリストル、バーミンガムなどでは、黒人や東洋人の住んでいる地区で
    暴動が起きている。 原因は、失業率の高さなどの経済問題や、警察と住民の関係の
    悪さにあると考えている人が多い。

    しかし、最近の総選挙では、東洋系や黒人の下院議員が誕生しており、また、少数
    民族が地域ごとに、自分達自身の力で問題解決の計画を立て、運営するなど、明るい
    動きも見られる。

    263109041

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に司法、
    警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、1998年に
    結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに渡る
    プロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々がテロの犠牲に
    なった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

    ukirland

    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教という
    『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪だと思わせる
    効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。 そもそも、
    イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀にローマ法王が
    イギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住むカトリック系
    住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の武装蜂起が頻発
    したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、人口の60%に当たる
    500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、プロテスタント系
    の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。 1949年、アイルランド
    共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のままだった。 危機感を抱いたのは
    北部に残された少数派のカトリック系住民だった。 彼らは、イギリス自治権を要求
    したが、これを押し潰そうとする多数派のプロテスタント系住民と衝突した。

    img2m

    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めたことに
    反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という武力組織を結成、
    イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団だとするイギリスと、
    イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの間で、一切の妥協はなく、
    犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなったとは言え、北アイルランドは紛争
    では、被害者が出なかった家族はないと言われる程癒しがたい傷を残した。 住民達は
    今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ亀裂も深く、
    本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    労働党から政権の座を引き継いだのは、マーガレット・サッチャーを党首とする保守党で
    あった。 サッチャーは、イギリス連合王国初の女性首相となった。 サッチャーが
    目指したのは、国有化されていた企業を私有化し、労働組合の力を弱め、社会福祉への
    支出を減らすことなどだった。 これらの政策で、インフレは抑えられたが、失業率は
    上がり、ストライキも止まらなかった。

    315528

    ところが、1982年、一時的にではあるが、イギリス国民が経済上の不安を忘れる
    事件が起きた。 イギリス・アルゼンチン紛争である。 南アメリカ大陸近くの小さな
    島が集まったフォークランド諸島の所有権を主張して、イギリスとアルゼンチンが
    争ったのだ。 イギリスは、1万人の兵士から成る特別部隊を送り、アルゼンチン軍を
    撃破した。 フォークランド紛争の勝利により、サッチャー首相の人気は急上昇した。

    サッチャーは、人気の高まりを利用して、1983年の総選挙で保守党が再び多数党となり、
    政権を握った。 また、1987年の総選挙でサッチャーは、首相として史上初の連続3選を
    果たした。 勝利原因は、労働党内部の統一が取れなかったこと、つまり、労働党内の
    不満グループが新党、社会民主党を結成したことである。

    サッチャー政府は、政府支出の削減や、国有企業の私的法人への売却を図った。 だが、
    1990年には、激しいインフレと高い失業率などが原因で、保守党支持は弱まった。
    人頭税と呼ばれる地方税の導入計画も、保守党政府の不人気の元となった。 1990年
    4月、ロンドンでこの税に反対する市民の怒りが爆発、暴動となった。 サッチャーは、
    人気が落ち、12月に保守党の仲間から党首を辞めるよう要請された。 保守党は
    大蔵大臣だったジョン・メージャーを党首に選び、メージャーが新首相となった。

    0021698127

    1992年4月の総選挙で再び保守党が議会の多数を占め、メージャーが首相を続けた。
    メージャーの考えは、サッチャーと共通なものが多いが、ECと協力して行くことに
    サッチャーほど反対していない。

    1992年にはEC加盟国はヨーロッパの更なる統合を目指して、マーストリヒト条約(欧州
    連合条約)に調印、1993年からEU(欧州連合)として、ひとつの貿易圏を形成している。
    1994年には、イギリスとフランスを結ぶ海峡横断トンネル(ユーロトンネル)が開通し、
    両国が結ばれるようになった。

    しかし、このような動きがあったにも関わらず、イングランドの人々は、自分達は
    ヨーロッパ大陸の人々とは別だと考え、イングランドの長い歴史や文化を誇りに思って
    いる。

    イングランド自身、北部と南部に分裂しようとしていると言う人もある。 保守党の
    拠点であるイングランド南部は、サッチャー、メージャーの下で繁栄して来た。 北部は、
    失業者も増え、経済も衰えた。 大きな都市は、今尚労働党支持が多い。 イングランドの
    将来は、これらの経済、および、社会問題の解決にかかっている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ