横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
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    タグ:イギリス

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    1980年に再び政権の座に就いたトルドーは、カナダの統一を一層強固なものに
    するよう努力した。 また、イギリスとの絆を弱めることを目指し、『1982年
    憲法』を公布して、その目標を達成した。 これにより、憲法の改正はイギリスが
    関わることなく、カナダ人によって行われるようになった。

    1980年代になると、カナダの経済は悪化し、失業率は1930年代の大恐慌以来、
    最高値に達した。 1984年にトルドーは辞職し、次の総選挙では進歩保守党が
    勝利をおさめた。 ケベック出身の新首相ブライアン・マルルーニーは、カナダ
    経済の再建に乗り出した。

    Mulroney

    カナダ議会では、西部の石油の利権と東部の漁業権をめぐって、長年の間、意見が
    対立していたが、マルルーニーはそれを解決することにより、カナダが抱える
    経済問題をいくつか処理した。 しかし、彼が最も意欲を燃やしたのは、アメリカ・
    カナダ自由貿易協定(FTA)だった。 1988年の初めにアメリカ議会を通過した
    同条約の条項に従って、両国間の現行の関税はなくなることになっていた。
    カナダ議会はこの協定の批准をめぐって、激しく意見を戦わせたが、結論は
    出なかった。

    内閣内部の不名誉な事件とアメリカ・カナダ自由貿易協定の反対に直面した
    マルルーニーは1988年10月、議会を解散し、総選挙を行った。 野党はアメリカ・
    カナダ自由貿易協定に強く反対した。 この協定はカナダの独立を制限し、広範囲に
    渡る社会福祉計画の実施を妨げると主張したのである。 マルルーニーは、
    この協定が結ばれれば、貿易が推進され、従ってカナダ人の雇用の機会が増える
    という点を強調した。 11月の総選挙の結果、進歩保守党が引き続き政権を握った。
    この勝利により、国民がアメリカ・カナダ自由貿易協定を支持していたことが
    確認され、1988年12月、カナダ議会でこの協定が成立した。

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    第二次世界大戦中、カナダはイギリスに協力して反独同盟に加わったが、直ちに
    徴兵したり、海外に兵を出したりはしなかった。 1941年の末、カナダはイギリス
    及びアメリカ合衆国と同盟し、日本に対して宣戦を布告した。 やがて、100万人
    以上のカナダ人の男女が従軍し、アジアやヨーロッパの戦闘に加わった。 死傷者は
    9万人を超えた。

    15052431

    1945年に終戦を迎えると、カナダは国内の改革に関心を向けた。 戦争で荒れ
    果てたヨーロッパやアジアの国々から、大量の移民がやって来た。 都市の
    人口は増大して、郊外が広がって行った。 住宅の需要が高まり建設業が繁栄した。

    キング牧師が目指したのは、全カナダ人の福祉を確立することだった。 同政府は
    失業保険、復員軍人恩給の充実、老齢年金の増額、医療制度の改善などをはじめ、
    広い範囲に渡る社会保障制度を立法化した。 この制度が一助となって、一般の
    人々の生活水準は上がった。

    他の分野においても、カナダの努力は目覚しい発展をもたらした。 アルバータ州で
    新しい油田が発見され、ケベックとオンタリオ両州では大量の鉱物資源が見つ
    かった。 交通が発達し、水力発電も増えた。 製造業は消費者の需要の増大に
    合わせて、生産を向上させた。 アメリカ合衆国を筆頭に諸外国がカナダの新しい
    工業に莫大な資本を投下するようになった。

    1949年、ニューファウンドランドは住民投票によりカナダ第10番目の州になる
    ことを決定した。 これはニューファウンドランドが始めてカナダの繁栄を認めた
    ことを物語っている。

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    第一次世界大戦中(1914~1918年)、保守党の新党首ロバートLボーデンが
    政権を握ったカナダは、イギリスと同盟を結び、ドイツと戦った。 60万人
    以上のカナダ人がカナダ軍に入隊し、約6万3,000人の戦死者が出た。

    ボーデンの政府は、はじめ徴兵制はとらないと公約していたが、やがて志願兵
    制度では兵員を確保出来なくなり、1917年には徴兵を始めた。 その結果、
    徴兵制を支持するイギリス系カナダ人と、反対するフランス系カナダ人とが
    反目するようになった。 ボーデンは保守党と自由党の連合政権を実現し、
    国論の分裂を避けようとした。

    canadaday

    戦時中、カナダは軍艦と兵器を生産し、ヨーロッパの戦場に食料を補給して、
    多大な富を築いた。 世界大戦に軍事面で協力したことを理由に、カナダは
    イギリスに握られていた外交・防衛政策の決定権を要求した。 イギリスと
    しても、カナダの労働力と資源に頼らなければならないため、より大きな
    自治の権限を求めるカナダの意向を受け入れたが、独立を完全に認めた訳では
    なかった。

    1921年に、自由党の党首ウィリアム・ライオア・マッケンジー・キングが首相に
    なった。 彼の目標の1つは、カナダの独立を勝ち取ることだった。 1926年と
    1930年の2度に渡って、キングはイギリスの指導者たちと会見し、独立国としての
    カナダの地位を確認して、ウエストミンスター条例を作成した。 1931年に、
    この条例はイギリス議会を通過し、カ.0
    ナダは内政と外交の両面で実質的に独立
    したことになった。 イギリス王国はその後も、カナダの象徴的な国家元首の
    地位に留まった。

    1930年代に全世界を襲った大恐慌は、カナダの繁栄に大きな影響を与えた。
    特に、輸出に頼る度合いの大きい大平原の諸州は、酷い打撃を受けた。 カナダの
    外国貿易は非常に衰え、穀物の価格が下がって、失業者の数が著しく増加した。
    しかし、1939年に第二次世界大戦が起こると、カナダの経済不況は大幅に緩和
    された。 織物、鉄鋼、食料の需要が増した。 大恐慌の間は閉鎖されていた
    工場が操業を始め、失業者を雇い入れて軍需に応じた。

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    19世紀の前半を通じて、アッパーカナダとローワーカナダは発展を続けた。
    道路と運河が建設されて交通が便利になり、農耕地も増えた。 1809年に
    カナダで建造された蒸気船がモントリオールとケベック間を運航するようになり、
    7年後には五大湖でも航行が始まった。

    人口が増加し、通商が発展するに連れて、植民地の統治方法への不満も高まった。
    統治権は少数のイギリス人が握っていた。 通商の上で殆んど力のないフランス系
    カナダ人は、19世紀の初期に移住して来た何千人というイギリス人によって、
    自分たちの文化と生活様式が脅かされるという不安と抱いていた。

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    イギリス系の支配に対抗して、政治改革を要求する気運が高まり、1837年に
    2つの反乱が起こった。 1つは、ローワーカナダの政治家ルイ・ジョゼフ・
    パピノーを指導者とするもので、もう1つはウィリアム・ライアン・
    マッケンジーが率いるアッパーカナダの抵抗運動だった。 反乱は共に、
    イギリス軍と民兵により、あっけなく鎮められ、2人の指導者と支援者たちは
    アメリカ合衆国へ逃れた。

    この2つの反乱が切っ掛けとなって、イギリス議会はカナダの状況を調べるために
    ダラム伯ジョン・ラムトンを派遣した。 ダラム卿は、イギリス領北アメリカ
    植民地に大幅な自治権を与えてはどうかと進言した。 イギリス内閣は、
    この改革は拒んだものの、アッパー、ローワー両植民地のを統合すべきだという、
    ダラム卿のもうひとつの勧告には賛成した。 1841年に統合された領土は、
    『連合カナダ』と命名された。

    1840年代になると、イギリス領北アメリカ植民地の諸州(その頃には連合カナダ、
    プリンスエドワードアイランド、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックが
    含まれていた)は、責任政府である地方自治を目指した。 1850年頃までには、
    その殆んどの州が責任政府を建てて、ある程度の自治を行うことをイギリス本国から
    許されるようになった。

    イギリス領北アメリカは、隣国アメリカと足並みを揃えて発展した。 通商が
    始まり、互いを結ぶ鉄道も敷かれた。 イギリス領北アメリカはこの機会を
    利用して、織物業、漁業、木材の伐採搬出業、製粉業などをはじめとする
    経済活動を盛んにした。

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

    3972724859

    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

    FrenchandIndianWar

    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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    深圳市は香港北部の新界と接し、中国内に5つある経済特区のひとつに指定
    されている。 上海、北京、広州と並び、中国の4大都市にも数えられており、
    近郊を含む都市広域人口は1,447万人とも言われている。

    深圳の特徴は、わずか40年足らずで急激に成長した移民都市であることが
    あげられる。 元々は、宝安県という一集落に過ぎなかったものが、鄧小平の
    改革開放路線により、外部より労働人口が流入して都市が形成され、
    広東省でありながら広東語が使われる比率が極めて低い地域となっている。
    香港では、主に繁体字の広東語が使用されているが、深圳では、簡体字の
    北京語が主流となっている。

    【深圳地下鉄路線図】
    henditu

    清末になると南京条約や北京条約により、宝安県の一部であった香港島及び
    九龍半島をイギリスが租借するようになり、宝安県が分割されると同時に、
    境界付近の深圳墟という定期市が立ち並び、香港との国境の街として栄える
    ようになった。 深圳墟は現在の深圳中心街の東門商業区にあたる。

    イギリスの植民地、かつ自由貿易港である香港と隣接する地理的重要性から、
    1979年3月宝安県を省轄市の深圳市に昇格させ、1980年には改革開放路線を
    採用した鄧小平の指示により、深圳が経済特区に指定されると急速に発展した。
    深圳が経済特区に指定された当初は、羅湖区、福田区、南山区、塩田区の4区のみが
    経済特区であったが、2010年7月1日には、深圳市全域が経済特区に指定された。

    【経済発展著しい深圳】
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    深圳への行き方は、香港経由のMTR、あるいは、船で行くのが主流となっており、
    香港一の繁華街である尖沙咀からMTRで40分ほどで行くことが出来る。
    MTR終点駅の羅湖駅、または、落馬洲駅は、深圳に行く人以外はこれらの駅では
    降りることが出来ない。 羅湖駅、または、落馬洲駅からは、徒歩で中国への
    国境を渡り、そこで入国手続きをする。

    香港と広東省は、同じ中国と言えども、言語、通貨共に別々となっているため、
    香港では広東語、深圳では北京語を使うこととなる。 また、通貨は香港ドルと
    中国人民元となっており、国境で両替が必要となるが、深圳でもある程度は
    香港ドルも使うことが出来る。

    元々物価の高い香港から深圳へ行くと、物価が非常に安く感じるが、深圳の物価は、
    中国の中でも非常に高い。 概ね、東京と余り変わらないと考えて間違いない。
    深圳は、ビジネス街としての発展は著しいが、観光には乏しい。 香港からは
    日帰りでも行くことが出来るが、市域が非常に広いため、観光をするにしても、
    丸1日は必要。 以前は治安が悪いと言われていた深圳だが、最近では、かなり
    改善されており、それなりに気を付けていれば、さほど気にならないと言える
    かも知れない。

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    17世紀のヌーベルフランスの大問題は、入植者が集まらないことだった。 その地は
    何度もイギリス軍やイロコイ族に襲撃されていたため、ヨーロッパ人が移民する
    意欲を失っていたのである。 例えば、ケベック市の住民は、建設後20年経っても
    100人足らずだった。

    1627年にフランス政府は、『ヌーベルフランス会社』(百人会)をつくり、
    新世界との交易を続けさせた。 設立許可書によると、同社はヌーベルフランスの
    人口を毎年300人づつ増やすことが義務付けられていた。 ヌーベルフランスの南に
    当たる領土(現在はアメリカ合衆国の一部)を占領していたイギリスとオランダの
    入植者の数に比べれば、フランスが目標とする数はわずかなものだった。

    1627年に、ヨーロッパでイギリス・フランス間の争いが始まると、イギリス軍は
    北アメリカのフランス領を攻撃し、29年にはケベックを占領した。 32年に
    結ばれた条約により、ケベックはフランスに返されたが、ヌーベルフランスの
    情勢は相変わらず不安定だった。

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    カナダ東部のフランス領は、元々ヘンリー・ハドソンが探検した土地だったため、
    イギリスはその地域の領有権を主張した。 その上、フランス軍とイロコイ族の
    間には衝突が繰り返されていた。 イロコイ族は毛皮交易を南部に移し、
    オランダ人を相手に毛皮を火器などと交換することを望んだ。 イロコイ族は、
    1651年には毛皮交易のインディアン側の主導権を握った。

    1663年、フランス国王ルイ14世は、ヌーベルフランスに軍隊を派遣し、
    イロコイ族の制圧と植民地経営の強化を図った。 イロコイ族の中には、争いに
    嫌気が差し、やむなく平和条約を結ぶ者もあった。 ヌーベルフランスの人口は、
    1679年にはほぼ1万人に達した。

    フランスの毛皮交易の中心になっていたのは、『森を走る人』と呼ばれる若い
    開拓者たちだった。 彼らは、危険を冒して未開の地に踏み入り、インディアンと
    取引した。 この大胆な交易商人たちは、フランス政府の交易免許証を持って
    いなかったが、インディアンの言葉と習慣に通じていたため、容易く毛皮を手に
    入れることが出来たのである。

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    当時、ヨーロッパ人は贅沢な品物や豊かな市場のあるアジアへの近道を
    探していた。 1467年、イングランド王ヘンリー7世に雇われたイタリアの
    探検家ジョバンニ・カボートが北回りの海路でアジアへ向かった。 しかし、
    彼が上陸したのは、カナダの東海岸で、ニューファウンドランドとノバスコシアの
    中間のどこかだった。

    彼はそこをイギリスの領土と宣言した。 カボートが発見した土地は、沿岸の海が
    魚の宝庫だった。 ヨーロッパでは魚の需要が増えつつあったため、イギリス、
    ポルトガル、フランスの猟師たちが大挙してニューファウンドランド沖に出漁して
    来た。

    やがて、ヨーロッパ人はその地が未知の世界であることを知った。 ヨーロッパ
    各国の王室は、貴金属が埋蔵されている可能性のある新世界に注目した。

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    1534年、フランスの探検家ジャック・カルティエは、フランス王国フランソワ
    1世に資金を出してもらい、大西洋の探検航海に乗り出した。 1534年、
    カルティエはセントローレンス川の河口を発見し、35年には、セントローレンス川
    を遡って、2つのインディアンの村落に相次いでたどり着いた。 これが現在の
    ケベックとモントリオールである。

    カルティエは、この地域一体をフランス領と宣言した。 しかし、フランソワ1世は
    打ち続く戦乱のために、カルティエの探検にもうこれ以上の資金援助をする余裕が
    なかった。 カルティエは太平洋岸まで探検出来ず、フランスは新世界の植民地化を
    ほとんど進めることが出来なかったのである。

    【交易の発展とイギリスの進出】

    カナダにはまだヨーロッパ人の居住地はなかったが、ヨーロッパの漁師たちは、
    引き続き大西洋岸一体の豊かな漁場を利用していた。 捕った魚を日に干すために
    上陸した漁師たちは、付近のインディアンと出会うようになった。
    インディアンは、ヨーロッパ人の漁具に目を付け、毛皮と交換してもらいた
    がった。

    やがて、主にフランスの漁師とインディアンとの間で、毛皮交易が活発に行われる
    ようになった。 フランスの若者たちは、インディアンの村落の近くに住み始め、
    インディアンに集めさせたビーバーなどの毛皮を本国に送った。 インディアンの
    部族、特に、ヒューロン族とイロコイ族が、毛皮交易のインディアン側の主導権を
    めぐって張り合うこともあった。

    一方、イギリスは再び探検に関心を持ち始めた。 1583年にハンフリー・
    ギルバート卿がニューファウンドランドに上陸し、そこをイギリスの領土と
    宣言した。 その後、西へ向かって数々の探検が行われ、1610年にはイギリスの
    探検家ヘンリー・ハドソンが今日ハドソン湾と呼ばれる広大な内湾にたどり着いた。

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    カナダには多くの大都市があるが、そのほとんどが国土の南半分に位置している。
    全人口の約75%が都市に住み、大半が東部各州の都会に居住している。

    カナダの首都はオンタリオ州のオタワだが、最大の都市は、同じオンタリオ州の
    トロントで、過去には、モントリオールが最大の都市であった。 両市の人口は、
    都市の周辺部までを含めるとトロントの方が大きいが、都市部だけの場合では、
    長年モントリオールの方が上回っていた。

    但し、トロントは、1998年1月1日に周辺都市部と広域合併をしたため、現在では、
    名実共にトロントがカナダ最大の都市となっている。 カナダ第3の都市は、
    バンクーバーとなっており、トロントとバンクーバーは、国連調査の世界で最も
    住みやすい都市ランキングでも、常に上位を維持している。

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    【オタワ】
    オタワ川の南側に位置するオタワ(人口約101万人)は1857年以来、カナダの
    首都である。 その名前は、インディアンのオジブウェー族の言葉『アタワ
    (交易する)』に由来する。 1800年代に、イギリスの技師によってリドー
    運河が開通し、オタワ川とオンタリオ湖が結ばれた後、この地にイギリス人の
    居住地が出来た。

    オタワは1900年代の大火でほとんど全部焼けてしまったが、その後、カナダの
    工業、政治、観光の中心地として再建された。 市内の工場では、通信機器、
    紙、家具、加工食品、化学薬品などを製造している。

    市内には公園が多く、公的な儀式が度々行われるので、観光客も多い。 年間
    行事としては、5月の『春祭り』と、夏季に国会の正面入り口の前で行われる
    衛兵交代の儀式などがある。

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    【トロント】
    トロントは、オンタリオ湖の北東岸にあり、船が頻繁に出入りする港である。
    全市の人口は、約560万人で、カナダで最も多い。 1793年にアッパーカナダ・
    イギリス植民地の首都が設けられ、瞬く間に発展した。 トロントという名称は、
    インディアンのヒューロン族の言葉で、『出会いの場所』を意味する。

    トロントは、カナダの製造業と金融業の中心地で あり、出版業と映画制作が
    発達し、工業地区では加工食品、衣類、木製品が生産される。 また、文化都市
    としても重要であり、ロイヤル・オンタリオ博物館やオーキーフ・センターと
    呼ばれる演劇の殿堂をはじめ、カナダで最も有名な文化活動の場が集まっている。

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    【モントリオール】

    モンとリール全体の人口は、332万人で、トロントには及ばないが、都市部だけの
    人口は100万人に達し、パリに次いで、世界第2位のフランス語都市でもある。

    モントリオールは、セントローレンス川の両岸にまたがり、交通の中心地である。
    川を下れば、大西洋に出る事が出来、セントローレンス水路によって、五大湖とも
    結ばれ、鉄道もここから東西に伸びている。

    モントリオールには、はじめインディアンのアルゴンキン族とイロコイ族が住み
    着いていたが、17世紀にフランス人がこの地に来て、カナダにおけるフランス領
    植民地の拠点を設けた。

    その後、1760年にイギリスが占領したため、モントリオールには、フランスと
    イギリスの伝統が両方ともある。 フランス系とイギリス系の住民はお互いに
    許せないところがあり、暴力沙汰を引き起こした事もある。 市民の中には、
    カナダにおけるフランス語圏とイギリス語圏を分離されるべきだという説を
    支持する者もいる。

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    【バンクーバー】

    カナダ第3の都市、バンクーバー(人口約183万人)は、太平洋に接続するカナダの
    重要な港である。 太平洋の暖流と穏やかな気候の影響で、冬季にも湾内の航路は
    凍る事がない。 ここはモントリオールやトロントは違い、一年中港として使える
    のである。

    北アメリカとアジア諸国との間の貿易が拡大した1960年代と70年代には、太平洋に
    面するという立地条件のお陰で、バンクーバーのカナダ経済に対する重要性が増した。
    また、カナダ東部と結ばれる鉄道も完成したため、国内の地位も向上した。

    70年代と80年代には、金融業と製造業が発展し、今日では、オンタリオ州以西で
    最大の金融、および、工業の中心地となっている。 広大な森林の資源を利用して、
    製紙・製材業が盛んで、木製品も大量に作られている。その他にも、豊かな天然
    資源に恵まれ、石油、石炭産業に原料を提供している。

    【お勧めの一冊】


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    1328年にフィリップ4世の後継者、シャルル4世は、後継ぎが居ないままに
    死去した。 シャルル4世のいとこ、ヴァロフ家のフィリップが王位に就き、
    フィリップ6世としてヴァロワ朝の第1代となる。 ところが、イギリス王
    エドワード3世は、フランスのカペー朝フィリップ4世の直系だから、イギリスと
    フランスの両方を統治する資格があるとフィリップ6世の王位継承に意義を
    申し立てて、実力行使に出た。 エドワード3世は1337年、ノルマンディーに
    侵攻し、100年以上続く戦争に火がついた。

    百年戦争が始まると、イギリスの勝利が続いた。 1348年にマルセイユで発生
    した黒死病(ペスト)のため、フランスの戦力は低下した。 港に入る船に
    住むねずみが、ヨーロッパ中に疫病を伝染させていたのだ。 数年間でフランスの
    住民の3分の1近くが疫病で死んだ。

    14世紀後半は、不安、病気、戦争の時代だった。 物価は高騰し、兵士たちは、
    群れを成してフランス国内で略奪を働いた。 フランス国王ジャン2世は、
    イギリスに捕らえられ、フランスはその釈放のため巨額の身代金を支払った。
    もうひとりの国王シャルル6世は、精神異常をきたしながら、42年間も王位に
    就いていた。

    1415年に、イギリス国王ヘンリー5世が、カレー港近くのアザンクールで
    フランス軍を破った後、フランスの大半はイギリスの手に落ちた。 1422年に
    シャルル6世を継いだシャルル7世は、領土を持たない国王だった。 イギリス軍が
    田舎を占領している間、都市から都市へ移動ばかりしていた。

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    フランスが悲惨のどん底に落ちていた1420年に、ロレーヌ地方の農家の娘、
    ジャンヌ・ダルクが現れる。 天使の教えに従ったと主張して、シャルル7世の
    宮廷に来たジャンヌは、百年戦争の行方を変えた。 カトリック教会と王に
    対するジャンヌの献身的な愛情は、フランス兵を奮い立たせ、ジャンヌ自身も
    軍隊を率いて、1429年に、オルレアンを包囲していたイギリス軍を粉砕した。

    オルレアンの戦いの後、イギリスの侵略軍は次々に破れ、海岸まで押し戻された。
    だが、ジャンヌは、イギリス軍に捕らえられて処刑されたが、フランスの抵抗を
    表すひとつの象徴となった。

    最後にシャルル7世は、イギリス軍を殆んどフランスから追い払い、百年戦争は
    1453年に終わった。

    【お勧めの一冊】


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    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

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    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

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    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

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