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    タグ:アーカイブ

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    志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場
    『高野会館』。 震災時、利用客や従業員ら約330人は会館に留まった。
    『帰したら、津波で危険だ』。 避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、
    全員の命を救った。

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    高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら
    2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)


    逃げる その時 帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)
    出典:河北新報 2011年6月23日

    会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。 階段の前で、
    従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
    『生きたかったら、ここに残れ』。 男性の怒鳴り声が響いた。

    『頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する』。 同会館営業部長の佐藤由成さん
    (64)は、1988年の開館当初から勤務。 設計段階から知り尽くした建物の強度に
    自信を持っていた。

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    330人を救った高野会館の屋上。 中央奥に見えるのが公立志津川病院
    2011年6月19日 宮城県南三陸町志津川


    『お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう』と判断したのは町社会福祉
    協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。 経験と利用客の状況を踏まえ、4階
    建ての会館に留めるのが最善と考えた。 地震発生時、3階の宴会場は、老人
    クラブによる『高齢者芸能発表会』の閉会式の最中。 強烈な横揺れに大勢の
    客はパニック状態になった。

    1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員
    らが来館者を上階に誘導するのが見えた。 最高齢90代後半、平均80歳前後。
    来館者の避難は困難を極めた。 『早ぐ上がって、早ぐ上がって』。 営業課長の
    西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。 階段は人でびっしり。
    『このままでは津波に飲まれる』。 体力のある人がお年寄りを背負った。

    町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、
    背後に津波を感じた。 ガチャン、バキバキ。 1階の窓ガラスが割れ、2階にも
    がれきが流れ込んだのが音で分かった。 3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを
    大量の水が突き破った。 足元もぬれていた。

    屋上には既に水が押し寄せていた。 水位は膝まである。 『ここもだめか』。
    西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などが
    ある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

    四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。 佐藤さんの手帳には
    津波の記録が残る。

    <午後3時26分、第1波。 40分、引き始め>
    <4時13分、第2波。 28分、引き方開始>
    <5時、第3波。 10分、引き波開始>

    そう書いたところで手が止まった。 2キロ弱先の荒島までの海底が姿を
    現している。 『次の波が来たらみんな死んでしまう』。 スーツの内ポケットに
    手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。 自分が流されても記録は残るように―。

    佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。 屋上までには到達
    しなかった。 会館に孤立したのは約330人。 4階にある約25平方メートルと
    約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。

    室内は人いきれで息苦しいほどだった。 深夜、80代の女性が意識もうろうと
    なった。 『脳梗塞の疑いがある』と町社協の看護師。 佐藤さんは最上部に
    上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。

    『先生、倒れている女性がいます。 波が引いたら、そちらで診ていただけ
    ませんか』 医師とみられる男性の声が返ってきた。 『こちらは薬も電気もない。
    7人が亡くなりました』

    7424a5f5.jpg

    風通しの良い場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう
    促した。 『外の空気吸ってきてけさい』。 10分ほどの短時間だったが、
    室内に外気が入ると女性は持ち直した。

    職員らの判断と機転。 会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。
    『よく生きていられた。 従業員らの指示に従い会館に残ってよかった』

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    仙台港近くの展示場『夢メッセみやぎ』は震災時、イベントの最中だった。
    混乱に陥った来場者約700人をイベントの運営者が屋上へ避難誘導することで、
    幸いにも死傷者は出なかった。 だが、これがもし数千人規模の大イベント
    だったら―。 『避難場所が足りず、大惨事になっていたはず』。
    関係者は血の気が引く思いで振り返る。

    46985f6e.jpg

    逃げる その時 イベント会場(仙台港・夢メッセみやぎ)
    出典:河北新報 2011年6月22日

    建物がミシミシときしみ、はりがたわんだ。 食器は散乱。 照明が消えると、
    パニック状態に陥った人々は出口に殺到した。 2011年3月11日。 メッセ
    展示棟は平日ながら大勢の来場者でにぎわっていた。 全国のご当地グルメ
    100店を集めた『グルメコロシアム』が開幕。 華やかな食が並ぶ会場を
    午後2時46分、激しい揺れが襲った。 会場にいた仙台市青葉区の自営業泉田
    智行さん(35)は『多くの女性がしゃがみ込み、泣き叫んでいた』と語る。

    『大津波警報が出ています。 落ち着いて。ここを離れないでください』。
    揺れが収まった午後3時過ぎ、避難が始まった。 メッセ会議棟と、隣接する
    仙台港国際ビジネスサポートセンター(アクセル)の二手に分かれ、会場
    スタッフ50人が誘導した。

    いち早く動けたのは理由がある。 2日前にあった震度5弱の地震を受け、この日
    朝に津波を想定した避難手順を打ち合わせしていた。 障害者、高齢者らの
    避難には来場者も協力し、車いすを担いで屋上への階段を上った。

    それでも避難は間一髪だった。 『どうせ津波なんて来ない。 帰らせろ』。
    車に乗り込もうとする来場者を、スタッフは半ば強制的に押しとどめた。
    『無理にでも屋上へ避難させて正解だった』。 イベント主催者である
    仙台放送の倉内宏事業部長(46)が振り返る。

    2957577f.jpg

    午後3時53分。 隣接する仙台港の輸出用モータープールの車を押し流しながら、
    茶色い水が押し寄せてきた。 200人が避難した会議棟周辺には、津波に気付か
    ないまま走る車がいた。

    『運転手さん 止まってー』『急いで高い場所に上がれー』。 屋上から拡声器で
    必死に呼び掛けたが、何台もの車が津波に流されて行く。 宮城県亘理町の主婦
    (40)は『車中で聞こえなかったのだろう。 地獄絵図だった』と声を震わせる。
    高さ13メートル、2階建ての会議棟も屋上の数メートル下まで水が迫り、女性と
    子どもは給水タンクに上らせた。

    会議棟入り口に津波で激突した車3台から炎が噴き出し、建物に黒煙が入り込んで
    来た。 目の前のコンビナートも火の海になっている。 出店者の渡辺真奈美さん
    (43)=北海道利尻富士町=は『建物がいつまで持つか、みな恐怖の絶頂だった』。
    吹雪が容赦なく吹きつけ、うずくまる避難者も出てきた。

    『もう限界だ』。 歩けるくらいに波が引いたのを見計らい、会議棟の200人は
    裏口から、5階建てのアクセルを目指し脱出した。 『今また津波が来たら…』。
    渡辺さんは祈るような気持ちだったという。 元々いた人も含め、アクセルには
    700人を超える避難者が集まった。 ペットボトル10本程度の水と菓子を分け合い、
    一晩をしのいだ。 防寒用に配られたのは新聞紙1人1枚。 幸い医師と看護師が
    居合わせ、妊婦や透析患者のケアが出来た。

    主催者のマイクロバスで来場者をJR陸前高砂駅へピストン輸送し終えたのは翌日
    夕方だった。 アクセルが収容出来るのは、700人が限度とみられる。 『平日
    だったのが幸運だった。 数千人の訪れる土日だったら、逃げ場がなく誘導も
    無理だった』。 メッセを管理するみやぎ産業交流センターの高橋一夫常務
    (63)は胸をなで下ろしつつ、こう指摘する。 『津波はいつか再び来る。水、
    食料を備蓄できる避難ビルを早く仙台港に造って欲しい』

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    東日本大震災から4年11カ月となった2016年2月11日、東京電力福島第1原発
    事故で全町避難が続く福島県大熊、双葉両町を上空から望んだ。

    廃炉作業が進む第1原発の原子炉建屋付近は大型クレーンが林立する。 かつて
    雑木林が広がっていた南側には、汚染水タンクが所狭しと並んでいた。

    001size412

    原発から3キロほど離れた双葉工業団地。 除染廃棄物の中間貯蔵施設建設に向け、
    県内から搬入された廃棄物の一時保管場がある。クレーンを使った積み上げ
    作業が行われていた。

    沿岸部に目を向けると、県警や消防が月命日に合わせ、行方不明者の一斉捜索に
    当たっていた。 一帯は帰還困難区域。一時帰宅は認められているが、住民の
    姿は確認できなかった。

    出典:河北新報

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    2011年3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。 津波で
    ずぶ濡れになった人、建物の屋上で救助を待つ人…。 暖が取れない状況の
    下で、冷たい雪は多くの人の目に『非情の雪』と映った。 天候は夜には
    回復し、満天の星空が広がったが、それもまた『無情の星空』。 放射冷却で
    翌朝にかけて厳しく冷え込み、多くの命を苦境へと追い込んだ。

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    津波の後、雪が降り積もった被災地。寒さに奪われた命も少なくない
    2011年3月11日午後4時ごろ、宮城県南三陸町

    その時 何が 非情の雪、無情の星空(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    皆、寒さでガタガタと震えていた。 唇は紫色で顔面は蒼白。 外は雪。
    低体温症の症状だった。 『震えがひどく、自分で思うように動けない人もいた。
    3人がかりで着替えさせた』 宮城県南三陸町の公立志津川病院の看護師
    佐藤のり子さん(52)は、目の当たりにした低体温症の怖さを思い起こす。

    海岸から距離約400メートルに位置する同病院は津波に襲われ、水は4階まで
    達した。 全身ずぶぬれになったり、横たわったまま水に漬かって半身が
    泥まみれになったりした患者も多かった。

    浸水を免れた西棟5階会議室には、入院患者42人と病院スタッフ約80人、
    駆け込んだ近隣住民約120人の計約240人がいた。 看護師らは5階の限られた
    物資で、患者の体温を保つ工夫を重ねた。 濡れた衣服を脱がせてタオルで
    包み、新聞紙を体に巻いた。 ゴム手袋もはめさせた。 床には段ボールを
    敷き、体を寄せ合うように寝かせた。 毛布代わりに介護用おむつと、外した
    カーテンを掛けた。

    『体を温めてあげたくても電気も火もない。 ありったけの物で、できる
    限りのことはしたんですが…』と佐藤さん。 必死の措置もむなしく、12日
    午後に救出ヘリが来るまでに、患者7人が低体温症等で息を引き取った。

    宮城県石巻市大街道小でも、女性1人が低体温症とみられる症状で亡くなった。
    東松島市野蒜小でも多くの人が濡れた服のまま避難。 割れた窓から吹き込む
    冷気が体温を奪い、お年寄りらが次々と低体温症で死亡した。

    宮城県警が震災から1カ月後にまとめた県内犠牲者8,015人の死因によると、
    低体温症を含む『その他』が58人いた。 あの日の冷え込み、その後の停電や
    燃料難による暖房の欠如…。 過酷な寒さが地震や津波から取り留めた命を死の
    ふちに追いやったのも、この震災の特徴だ。

    仙台管区気象台によると、東北太平洋側各地の気象データは震災後、津波被害や
    停電の影響で入手できなくなった。 宮城県内で唯一切れ目なくデータが残る
    仙台は11日午後、断続的に雪を観測。 第1波襲来後の午後4時半前後は見通しが
    利かないほどの強さになった。

    多くの証言によると、宮城県沿岸の各地は同日夕、雪に見舞われた。 夜は西から
    高気圧が張り出し、東北は広い範囲で晴れた。 気象台は当時の天気図から
    『12日朝は放射冷却で津波被災地は軒並み氷点下2~3度。 被災者には
    厳しい気象条件だった』と推測する。

    志津川病院の看護師畠山啓子さん(53)には二つの『もし』が交錯する。
    『もし、もう少し暖かかったら助かった人もいたかもしれない。 でも、もし
    阪神大震災のような真冬だったら、もっと大変なことになっていた』

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

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    宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム『慈恵園』は、志津川の中心部を
    一望できる高台にある。 棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の
    指定避難場所でもあった。

    南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、
    大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。
    入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、
    職員も1人が亡くなった。

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    その時 何が 高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)出典:河北新報

    2011年3月11日午後3時半、特養ホーム『慈恵園』の駐車場。 津波がJR志津川駅
    そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。 ホームまでの距離は
    約500メートル。

    『(志津川)高校に行って』『早く逃げて』職員たちは押せるだけの車いすを押して
    走り出した。 ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに
    20メートル以上高い場所にある。

    施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く
    階段手前の坂道で車輪が止まった。 押しても押しても進まない。 家が流される
    のが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。

    ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。
    佐藤さんは必死に木材にしがみついた。 『もう駄目かもしれない』。 そう思った
    瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。

    津波はホームの天井の下30センチまで達した。 気力を振り絞り、施設内で入所者を
    捜し、数人をベッドに戻した。 『すぐ助けに来ますから』。 声を掛け、さらに
    生存者の姿を捜した。 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅く
    だった。

    『誰かいますかー』 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん
    (38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。 救出には志津川高の
    生徒たちも加わった。

    星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、
    2人を運び出した。 3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
    『また(津波が)来たぞー』『早く戻れー』。 高校に駆け戻らざるを得なかった。
    志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。 外は雪。 その夜のうちに、寒さなどで
    8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

    高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを
    担う。 敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。 ホームの
    スタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を
    始めていた。

    0606-jikei-enNP

    相談員佐々木博美さん(50)は『一番心配したのは、余震で建物が崩れること
    だった。 まさか、ここまで津波に襲われるとは』と振り返る。 施設長の佐藤
    さんは自問する。 『津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を
    避難させられただろうか』

    移送手段は車しかない。 スタッフは29人。 当時ホームにいた高齢者67人の
    多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。 車に乗せる
    のは2、3人掛かりの作業になる。

    町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明に
    なった。 高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない
    10人だった。

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    北上川河口に近い宮城県石巻市北上総合支所の庁舎は、2011年3月11日の
    東日本大震災で津波の直撃を受け、全壊状態となった。 庁舎には少なくとも
    57人の住民や職員らがいたとみられるが、無事が確認されたのは男性職員
    2人と小学4年生の男子児童1人だけだった。 庁舎は指定避難所だったにも
    関わらず、生存率はわずかに5%。 多くの人が犠牲になってしまった。

    その時 何が 生存率5%(石巻市北上総合支所)
    出典:河北新報

    ab256416.jpg

    『支所に避難したから心配ないよ。 子どもたちも遊んでる』午後3時15分ごろ、
    建設会社従業員だった岡一也さん(33)は、宮城県松島町の現場からの帰り道、
    妻裕美さん(32)から電話を受けた。 明るい声で長女の吉浜小1年優心さん
    (7)、次女彩巴ちゃん(1)も一緒だという。

    『大丈夫だな』と思ったが、それが最後の会話となった。 地震直後から、支所には
    近所の人が集まっていた。 近くのデイサービスセンターを利用していた高齢者も
    職員に付き添われて避難していた。

    支所に立ち寄った消防団員の燃料販売業佐々木正人さん(49)は、知り合いの
    裕美さんに『山の方に行かないの?』と声を掛けた。 裕美さんは妹やめいとも
    一緒で、『後で母もこっちに来るはずだから』と答えた。

    佐々木さんは『庁舎の2階まで津波が来るとは想像しなかったが、車で避難出来る
    なら、近くの高台の方がいいのでは、と思った』と振り返る。

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    2006年に新築された庁舎は、鉄骨木造2階で延べ床面積は約2,400平方メートル。
    宮城県沖地震で想定される津波が高さ5.5メートルだったため、建物は1メートル高い
    海抜6.5メートルの場所に建設された。

    1、2階それぞれに支所の事務室と公民館部分があり、津波の際は公民館部分の2階
    多目的研修室に住民を避難させる計画になっていた。

    『多目的研修室、住民31人の避難完了』。 午後3時10分ごろ、2階事務室で災害
    対応に当たっていた支所地域振興課の今野照夫さん(50)に同僚から報告が入った。
    約10分後、支所と吉浜小の間の小川を津波がさかのぼった。 水かさがみるみる
    増し、津波は事務室に流入。 今野さんは『窓や壁もろとも外に押し流され、
    もの凄い水の勢いで地面に押しつけられた』という。

    何とか浮かび上がり、がれきにつかまった。 何度も気を失いながら漂流し、寒さで
    もうろうとしつつ民家に流れ着いた。

    北上総合支所によると、職員38人のうち、津波の襲来時に庁舎にいたのは19人。
    他に警察官や消防職員、警備会社員ら7人もいたが、無事だったのは今野さんら
    職員2人。 住民『31人』のはっきりした内訳は分かっていない。 救助されたのは
    4年生の男子児童だけだ。

    会社員千葉守さん(45)の長女で吉浜小6年の美里さん(12)と、千葉さんの母
    ゆり子さん(62)も支所にいたとみられる。 地震前、公民館の図書室にいる
    美里さんを吉浜小の教諭が確認している。 孫を迎えに向かうゆり子さんの姿も
    近所の人が見ていた。

    2人は今も行方不明。 『美里は、毎週のように単身赴任先の仙台に手紙をくれる
    優しい子だった』と千葉さん。 無念さと割り切れなさが募る。

    『津波で壊滅する建物がなぜ避難所なのか。 高台に避難者を誘導すべきだった
    のではないか』 津波は近くの吉浜小校舎の3階天井まで達した。 同校によると、
    卒業式準備のため学校に残っていた4、5年生の計5人と教職員10人は狭い屋上に
    逃げ、かろうじて難を逃れた。 全校児童49人のうち、死亡・行方不明は
    優心さんや美里さんを含め7人。 いずれも支所にいた可能性がある。

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    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

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    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

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    『仙台市若林区荒浜で200~300人の遺体が見つかる』。 大震災が発生した
    2011年3月11日の夜、衝撃的なニュースが全国を駆けめぐった。 百万都市・
    仙台の海岸沿いに広がる約900世帯の地区では、多くの住民が犠牲になった。
    だが当初伝えられた遺体の数は、混乱の中で錯綜した情報の一つだった。

    その時 何が『遺体200~300人』(仙台・荒浜)
    出典:河北新報 2011年5月22日

    『大津波警報が出ている。 早く逃げろ』 県道塩釜亘理線の東側に開けた
    住宅地。 荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄
    会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び
    掛けて回った。 住民の反応は鈍かったという。

    荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。 高さ2.5メートルの
    離岸堤も備える。 1978年の宮城県沖地震や、昨年2月末のチリ大地震津波
    でも、被害はなかった。

    『荒浜に津波は来ない』。 体験からそう信じる住民が少なくなかった。
    荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。

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    午後3時55分。 濁流が猛烈な勢いで町をのみ込んだ。 4階建ての校舎には
    約320人の児童、地元住民が避難。 津波の威力はすさまじく、校庭などに
    残っていた人々は流されたという。

    荒浜南部の福祉施設で働いていた遠藤雅人さん(32)は地震後、利用者、
    職員計約70人と施設屋上などに避難した。

    『バリバリという音を立てて防潮林の松の木がなぎ倒され、今度はその大木が
    住宅街を根こそぎ破壊した』 犠牲者を出したのは、住宅街だけではない。
    県道塩釜亘理線より西の水田地帯では『車を乗り捨てて逃げる人が濁流に
    のまれた。 大勢の人が必死で走っていたが、津波の速さは尋常ではなかった』
    と遠藤さん。

    複数の生存者によると、大勢の住民が津波の到達直前まで、水田地帯の農道に
    車を止めて沖を眺めていたという。 水田付近で事務所の片付けをしていた
    会社員男性(32)は『住宅街から逃げた住民が車内でラジオを聞いたり、
    立ち話したりしていた。 そのうち津波が押し寄せ、一瞬で辺り一面が水に
    沈んだ』と話す。

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    なぜ、住民はより内陸へと逃げなかったのか。 荒浜に先祖代々住む大学
    源七郎さん(69)が説明する。 『住宅街の西を通る県道塩釜亘理線まで
    逃げれば大丈夫と思ってきた住民がほとんどだった。 地区の避難訓練でも、
    県道を渡ることに力点が置かれてきた』

    仙台市が町内会に配布していた『津波避難マップ』。 津波が県道に到達する
    とは想定されておらず、荒浜の住宅街の中でも県道に近い西部は『津波警戒区域』
    に設定されていなかった。 だが、実際に津波はさらに内陸側の東部道路周辺
    まで達した。

    『荒浜新1、2丁目で200~300の遺体との情報』。 これは3月11日夜にあった
    緊急通報の一つだ。 大震災発生の直後で、消防、警察にはそれぞれ何千件
    もの通報が殺到。 関係機関による事実確認は混乱の中、難航を極めていたが、
    その衝撃的な内容は報道関係者の意識を引き付けた。

    情報は一部メディアで『海岸に200人以上の遺体』などと変遷しながら、事実
    として数日間、発信され続けた。 仙台市の死者・行方不明者は21日現在869人。
    荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。 遺体の大半は、県道塩釜亘理線
    沿いの荒浜新1、2丁目や海岸ではなく、荒浜西部の南長沼周辺や東部を流れる
    貞山堀で見つかった。

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    1日20万人が行き交う東北の玄関口が2011年3月11日、激しい揺れに大きな
    ダメージを受けた。 『仙台駅ホーム天井、数十メートル落下』。 3月15日の
    朝刊は、地震当日の仙台駅の状況を伝えた。 JR東日本によると、幸いにも
    死傷者はゼロ。 元々、宮城県は地震が非常に多い地域のため、防災意識が
    非常に高く、地震にはすこぶる強い。

    地震の直前に仙台駅を出発した新青森行きの新幹線は、トンネル内に8時間以上、
    閉じ込められることになる。

    その時何が 新幹線ホーム損壊(仙台駅)
    仙台駅の新幹線ホームは静まりかえっていた。 午後2時42分、盛岡行きやまびこ
    61号が出発。 午後2時44分には東京行きMaxやまびこ144号を送り出していた。

    地震が発生したのは、やまびこ144号がたった2分後。 下り線ホームで1時間先の
    列車を待っていた、むつ市の会社員阿部学さん(38)は、立っていられないほどの
    強い揺れに襲われた。

    15秒後、頭上でけたたましい音が鳴り響いた。 金属製の天井がベラベラと剥がれ
    落ちてきた。 ホーム南側の喫煙所前にいた阿部さん。 『死ぬかもしれない』。
    あわてて北側へホームを走った。 必死に逃げるも、天井板は追い掛けるように
    次々と落ちてくる。

    剥がれ落ちた天井板が強い揺れで激しく波打っている。 『まるで竜のような
    生き物に見えた』 こぶし大のコンクリート片と金具も矢のように降ってくる。
    待合室に逃げ込み、揺れが収まるのを震えながら待った。 駅員が駆け上がって
    きた。

    『外に出ましょう』。 待合室を出ると、ほこりで辺りは黄色がかって見えた。
    誘導されたのは、駅西口のタクシー乗り場前。 約1,000人の駅利用者と
    駅従業員が不安そうにたたずんでいた。

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    JR東日本の関連会社『日本レストランエンタプライズ』仙台支社の三浦仁志さん
    (32)は、上りホームの売店にいた。 あまりの揺れに、しゃがんで床に手を
    ついた。 ふと、顔を上げた瞬間、目の前にスーツ姿の若い男性が腰が抜けた
    ようにへたり込んでいた。

    落下する天井板と売店の看板が2人を襲う。 『上に注意して』。 三浦さんは
    何度も男性に叫んだが、動く気配はない。 『直撃したら危ない』。 三浦
    さんは男性の腕とベルトをつかみ、激しい揺れの中、階段を駆け下りた。
    とっさの判断だった。

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    東北新幹線のレールでは、上下18本が営業運転中だった。 約830人を乗せた
    新青森行きはやて・こまち27号は、大崎市の第1三本木トンネル内で緊急
    停止した。 仙台駅を出て8分後。 走行時速は270キロだった。

    『脱線してしまうんじゃないか』。 8号車にいた仙台市太白区の税理士
    大藤正樹さん(57)は、右に左にうねりながら走り続ける列車に恐怖を覚えた。

    車内は節電のためか、空調と照明はギリギリに抑えられた。 車内販売の食料は
    買い尽くされた。 大藤さんは空腹に耐えながら、待つこと8時間。 時計は午後
    11時を回っていた。 救出に駆け付けたJR社員が照らす懐中電灯を頼りに脱出、
    乗客はトンネル内をぞろぞろと歩き続けた。 20~30分後、外に出ると雪が
    舞っていた。

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    『不幸中の幸い。 大惨事になっていてもおかしくない』。 居合わせた乗客らは
    口を揃える。 渡辺英明仙台駅長(57)も『地震発生が、夕方のラッシュ時の前
    だったのが幸いした』と>認める。

    仙台駅を地震発生の2分前に発車したやまびこ144号は、仙台市太白区長町の
    高架上に緊急停止。 乗客約280人は間もなく脱出したが、車両は電柱の復旧
    工事などが終了する4月22日まで、その場にとどまった。 大惨事を免れた
    東北新幹線。 『安全神話』はかろうじて守られたものの、全線復旧には
    50日を要した。

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    東日本大震災では、これまでに経験をした事がない大地震が起こり、その直後に
    大津波が宮城県女川町を襲いました。

    七十七銀行女川支店は、津波常習地域の
    三陸海岸にある女川湾から、わずか100
    メートルの位置に立地しており、元々、
    海を埋め立てた場所にあったため、津波が非常に来やすい場所に立地していました。

    周囲には、ゆっくり歩いても3分程度しか
    離れていない堀切山があったのにも関わらず、
    地震発生後、支店長の指示に従い、
    行員全員が、わずか10メートルの高さしかない
    銀行の屋上へと避難をしたため、
    奇跡的に救出された1名を除き、12名の社員が
    津波の犠牲となり、8名の遺体は、
    未だ見つかってはいません。



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    一方、直ぐ目の前にある堀切山には、約650名の住民たちが避難をしていましたが、
    こちらはほぼ全員が命を守り切りました。 仙台銀行や石巻信用金庫の行員たちは、
    この堀切山に避難をして全員助かりました。

    七十七銀行女川支店は、地震と津波が
    日常的に発生する事でも有名な三陸に立地していながら、東日本大震災が起きる
    ほんの数年前に、堀切山と並列の避難
    場所として、10メートルほどの支店の屋上を
    避難場所として加えましたが、東日本大震災は、30年以内に99%の確率で起きると
    かなり前から予想されていた災害です。

    【専修大学公開講座 津波と裁判】



    本件は、企業側の防災対策の是非と、従業員の安全に対して、最大限配慮する
    義務を負う企業として、津波に際しては、出来るだけ早く出来るだけ高いところへ
    避難をするという鉄則に反し、より低くより危険な支店屋上を堀切山と並列の避難
    場所として追加した判断の是非に重点を置いています。

    歩いて3分足らずの場所に
    安全な避難場所があるにも関わらず、企業側は、安全
    配慮義務を怠り、社員を
    死に至らしめたものとして、企業側の安全配慮義務反を
    問うものです。

    また、銀行側には、その真実に向き合い、反省して再発防止に
    努めて頂きたいと
    切に願っています。

    これまでに、仙台地方裁判所、並びに、仙台高等裁判所では、
    二度に渡り、裁判
    自体が棄却されましたが、どうして、七十七銀行だけが、屋上
    避難だったのか?
    助かるはずの命であったと今でも強くそう思っています。

    仙台高等裁判所での
    上告に向けて、現在署名活動を行っていますので、ご協力の
    ほど、何卒よろしく
    お願い致します。

    七十七銀行女川支店 津波訴訟 2審も遺族側の訴え退ける判決



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    【rfcラジオ福島】
     息子はなぜ死ななければならなかったのか?




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