横浜通詞 ~多言語のススメ~

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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:アーカイブ

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    宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高(生徒344人)は、東日本大震災の津波で校舎が
    大きな被害を受けた。 現在、産業経済科は気仙沼西高(気仙沼市)、情報海洋科は
    本吉響高(同)、機械技術科は米谷工高(宮城県登米市)に分かれて授業を受ける。
    校舎分散によって通学に長時間かかったり、部活動のために学校を移動したり、生徒は
    不自由な学校生活を余儀なくされている。

    学校で何が 生徒3カ所に分散(宮城・気仙沼向洋高)
    出典:河北新報

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    まだ人影もまばらな午前6時過ぎ。 気仙沼市唐桑町の福祉施設前の停留場で、梶原
    初城君(15)は眠そうな表情でスクールバスに乗り込んだ。

    気仙沼向洋高の機械技術科1年。 毎朝午前5時に起床し、自宅から50キロ以上離れた
    米谷工高に、スクールバスで通っている。

    父母と祖母、妹の5人暮らし。 『早く手に職を付けたい』と、実業高の向洋高を志望した。
    将来は自動車関係の工場で働くのが夢だ。

    しかし、希望に包まれるはずの高校生活は、入学式前につまずいた。 学校は震災で
    津波をかぶり、校舎は全壊。 授業開始は2011年5月上旬まで遅れた。

    さらに、向洋高が科ごとに分散したため、通学先は同校から20キロ以上離れた米谷
    工高に代わった。 向洋高であれば1時間程度だった通学時間は、倍の2時間になった。

    午前8時、スクールバスは米谷工高に到着した。 梶原君は『バスに2時間も揺られると
    正直疲れる。 少しずつ慣れてきたとはいえ、やはり学校は近くにある方がいい』と
    つぶやいた。

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    学校分散は、部活動にも影を落としている。
    午後5時の気仙沼西高グラウンド。 向洋高ラグビー部の生徒ら約30人がパスの練習を
    始めた。 米谷工高や本吉響高で授業を受けた後、部活動のために、バスで駆け付ける
    部員を待ってスタートする。 震災前より1時間半も遅い始動だ。

    昨年の県大会で4強に勝ち進んだ強豪だが、ことしの練習量は少なめ。 西高の生徒も
    練習しているため、グラウンドを広々と使うわけにもいかない。

    週5日実施していた平日の全体練習は、週3日に減らした。 練習後に車で迎えに来る
    保護者の負担を減らすための措置だ。 残る2日は、各自が筋力トレーニングを行う
    ように指導している。

    顧問の舩引裕介教諭は言う。 『保護者に毎日車で迎えに来てもらうわけにはいかない。
    こちらは間借りしている立場なので、限られた時間とスペースで効果的な練習を心掛けて
    いる』

    学校は3つに分かれても、生徒たちの思いは1つだ。 生徒会執行部が6月、今年の
    体育祭について、各校で参加するか、向洋だけで実施するかをアンケートしたところ、
    後者が89%に達した。

    生徒からは『一つの高校なので、向洋だけで思い出をつくりたい』『今はバラバラに
    なっているけれど、みんなそろってやりたい』などの声が相次いで寄せられた。

    武田元彦教頭は『各校に分かれても、向洋を思う生徒の思いはひしひしと感じる。 文化祭を
    含め、一つにまとまるイベントを何とかして成功させたい』と語る。

    11月、向洋高は気仙沼高(気仙沼市)の第2グラウンドに2階建ての仮設校舎を建設し、
    再出発する。 分散した三つの科は1カ所に集まり、再び元の形に戻る。

    学校分散に区切りがつくことが、梶原君の当面の夢だ。

    『産業経済科にも情報海洋科にも友だちはたくさんいる。 いつでも自由に会えるように
    なるよう、早く校舎が完成して欲しい』

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    東日本大震災の被災地では、校庭に仮設住宅が立ち並ぶ学校がある。
    震災の発生から4カ月が過ぎた今も、体育館で被災者が避難生活を送る
    学校もある。 子どもたちが思う存分、体を動かせない状況だ。

    津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の小中学校では、限られた
    スペースと時間の中で、やりくりを強いられている。

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    学校で何が 半分の校庭(宮城・南三陸町)
    出展:河北新報 2011年7月13日

    市街地が津波の被害を受ける中、高台にあって難を逃れた歌津中(生徒136人)。

    午後4時すぎ、校庭で部活動が始まった。 校庭の約半分は37戸の
    仮設住宅で占められている。 残った縦60メートル、横80メートルほどで
    野球部とサッカー部の計30人ほどが練習する。 キャッチボールやノックを
    する野球部員のすぐ隣で、サッカー部員がドリブルを繰り返す。 「ノックも
    加減しなければならない」。 野球部監督の長野孝志教諭(25)は漏らす。

    仮設住宅と校庭の境目には防護ネットが張られたが、打撃練習はミート中心
    になる。 3年の後藤寛飛君(14)は「思い切ってスイングしたい」と言う。
    歌津中は校庭の半分だけでなく、体育館も使用できない状態だ。 避難所として
    使われ、24人が身を寄せる。

    屋内競技のバレーボール部や剣道部などは、隣接する伊里前小(児童139人)の
    体育館や多目的ホールを借りて練習する。 「コートがあるので、試合形式の
    練習ができる」。 バスケットボール部監督の小野寺孝夫教諭(50)は
    感謝する。

    校舎と校庭の間の舗装路も貴重な練習スペースだ。 小学校のリングが
    ミニバスケット仕様で低いため、ボランティア有志が資金を募って提供して
    くれたリング2基が設置されている。

    ランニングの場所でもあるが、練習が時折、中断される。 「はい、後ろから
    車が来たよ」。 仮設住宅や避難所の住民の車が舗装路を通行する。 伊里前小
    では、被災で校舎が使えなくなった名足小の児童74人が、間借りして授業を
    受けている。校庭は、やはり仮設住宅が建ち、従来の約半分の広さになった。

    時間も制約されている。 「鉄棒とか、みんなともっと一緒に遊んでいたいな」。
    午後3時すぎ、帰りの会を終えた伊里前小4年の及川萌さん(10)はバスに
    乗り込むと、物足りなさげに、見送りの先生に手を振った。

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    本来、夏場の最終下校時刻は午後4時半。 今は安全面を考慮し、スクール
    バスで午後3時半には一斉下校する。 伊里前小、名足小とも、児童が校庭で
    遊ぶ時間は少なくなった。

    伊里前小の兵藤文隆校長(57)は「帰宅してもがれきで広場は使えない。
    子どもの運動量は間違いなく減っている」と懸念する。

    歌津中の生徒も状況は同じだ。 「はい、じゃあ今からシュート練習」。
    バスケットボール部の部員が舗装路で走り込みを終え、ボールを持ち出して
    間もなくの午後6時前。 下校のスクールバスが滑り込んで来た。
    「えっ早いよ」「シュート練習、もうちょっとしたい」

    部活は終了。 生徒たちはジャージー姿のまま、慌ただしくバスに乗り込んだ。
    仮設住宅の建設が進めば、体育館は避難所の役割を終え、使用が可能になる。
    一方で仮設住宅の入居期間は原則2年。 子どもたちの不自由な学校生活は続く。

    伊里前小の兵藤校長は「体を動かすことで、つらい現実をひとときでも忘れ
    られる。 ストレスも発散できる。 工夫をして運動の機会を増やしていきたい」
    と語る。

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    東日本大震災で校舎が被災した岩手県大槌町大槌小(児童205人)と岩手県
    山田町船越小(児童159人)は、山田町にある県の研修施設
    『陸中海岸青少年の家』を一緒に間借りしている。 自治体が異なる2校の
    『寄り合い所帯』は、不慣れな施設で可能な限りの教育機能を果たそうと
    している。 『授業に支障が出ないように』。 さまざまな制約の中、
    教職員らは施設利用の調整に苦心を重ねている。

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    学校で何が 寄り合い所帯(岩手・山田町の船越小と大槌町の大槌小)
    出典:河北新報 2011年7月9日

    朝の登校時間、2校の児童を乗せた9台の通学バスが、続々と青少年の家に
    到着する。 2011年7月5日はボランティアの男性が扮するピエロが、皿回しを
    披露して出迎えた。 児童は大喜びでピエロに『おはよう』とあいさつし
    『校舎』に入った。

    『今日は朝から元気いっぱいね』。 大槌小の小野寺美恵子校長(58)は笑みを
    浮かべた。 震災前と環境はがらりと変わったが、子どもたちの元気な姿が
    学校に徐々に戻ってきている。 2校は校舎が震災の被害に遭い、使用不能に
    なった。 それぞれ他校を間借りすることも考えたが、受け入れ人数に限りが
    あった。

    山田、大槌の両町教委ともに『児童を離れ離れにしたくない』と、一校
    丸ごと入れる施設を探した。 たどり着いたのが、大槌小から直線で約7キロ、
    船越小からは約4キロ離れた青少年の家だった。

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    異例の学校生活は4月下旬に始まった。 2校は青少年の家の体育館や研修室を
    間借りしている。 高さ約2メートルの板材の間仕切りや段ボールを使い、2校の
    計12学級の教室と職員室のスペースを設けた。

    震災前のそれぞれの学校と比べると、不自由さは否めない。 間仕切りが
    あっても隣のクラスの声が聞こえ、気になることも多い。 顕微鏡などの
    器具がそろわず、理科の実験も満足に出来ない。 体育はグラウンドで行うが、
    プールはない。 雨の日は体育館を使いたいところだが、既に職員室や教室に
    転用されてしまっている。

    子どもたちが落ち着きを取り戻せるように、授業を最優先させたため、船越小は
    5月に開催予定の運動会を10月に、大槌小は修学旅行や遠足を2学期に延期した。
    『制約は覚悟していた。 それでも工夫し、できる範囲で取り組んでいる』。
    船越小の佐々木道雄校長(54)は説明する。

    ある学級の音楽の時間には、隣の学級は外で体育の授業。 グラウンドの使用が
    重なる時は片方に広く割り当て、もう一方は狭い方を使い、次の機会に入れ
    替える。 演奏家や著名人の慰問がある時は、互いに参加を呼び掛けるなど
    交流も図った。 『できないこともあるが、この場所だからできることもある』。

    2校の校長は口をそろえる。 そんな教育現場の『寄り合い所帯』も今月下旬に
    始まる夏休みが明けると、解消される。 大槌小が、大槌町寺野地区に9月に
    完成する見込みの仮設校舎へ、被災した同町の小中学校計4校とともに移る
    からだ。

    町教委の鎌田精造学務課長(50)は『児童や教職員の負担を軽くする意味でも、
    一日も早く町内で学校生活を送らせてあげたい』と言う。 残る船越小は
    大槌小の移転で、体育館や研修室を広く使えるようになるが、青少年の家での
    間借りは少なくとも2012年度まで続く見通しだ。

    山田町教委の甲斐谷義昭教育次長(56)は『仮設ではなく、本校舎の新築を
    考えている。 少しでも早く建てたい』と強調する。

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    仙台市泉区の南光台小は東日本大震災で校舎が大きな被害を受け、全面的に
    使用出来なくなった。 近隣に児童772人を収容出来るような施設はなく、
    子どもたちは3カ所に分かれて学校生活を送る。 学校はボランティアや
    地域の人たち、保護者らの協力を得ながら、教育環境を少しでも整えようと
    工夫を凝らす。

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    学校で何が 分散授業(仙台・南光台小)
    出典:河北新報 2011年7月7日

    南光台小は地震で、校舎と体育館の壁や柱に亀裂が入り、校庭も地割れした。
    1週間後の応急危険度診断では『危険』の判定を受けた。 1年生4学級は入学以来、
    学校に隣接する南光台コミュニティ・センター多目的室で授業を受ける。
    段ボールで四つに仕切った空間が『教室』だ。 他の学級の声や音が漏れ、
    先生の声が聞きにくかったり、児童の集中力を妨げたりもする。

    『こうするときれいに貼れるね』。 2011年7月4日、1年4組の図工の授業で、
    宮城学院女子大4年の柳内亜希子さん(22)がテープやはさみの使い方を
    子どもたちに教えた。

    柳内さんは同大の災害復興ボランティア。 大学側が協力を申し出て支援に
    当たっている。 落ち着かない状況の中で、学習につまずかないようにする
    のが役目だ。 先生の声が児童に届いているかどうかを確認し、学習を手助け
    する。

    1年生の学年主任の五十嵐深和子教諭(53)は『普通の学校で出来ることは、
    ここでもする。 不自由さの克服を、子どもの自信につなげたい』と強調する。
    新学期は市内の他の小学校より4日遅い4月15日に始まった。 当初は近くの
    学校や公共施設4カ所に分散。 5月23日からは1年生がコミュニティ・センター、
    2~4年生が南光台中、5、6年が八乙女中に間借りしている。

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    教員は、原則として担任する学年が利用する施設に通勤する。 全員がそろう
    のは週2回の打ち合わせの時だけ。 飯塚巌校長と教頭、養護教諭が1日2回以上、
    3カ所を巡回し、配布物を届けるとともに、子どもたちの様子の把握に努める。

    授業とともに、学校行事でも苦労する。 新学期が始まってから全校児童が一堂に
    会したのは、5月21日の運動会しかない。 学校には久々に児童の歓声が戻ったが、
    校庭の補修が終わったのは運動会の3日前だった。 玉入れ、綱引きなど事前練習の
    要らない種目が中心となった。

    4月23日の授業参観では、保護者に負担がかかった。 きょうだいが通う家庭では、
    授業中に離れた施設の間を移動せざるを得なかった。 6年生の息子と3年生の娘の
    母親(39)は『南光台中から八乙女中への移動で10分かかり、最後の5分しか
    見られなかった』と言う。 学校はこのため、7月中旬の授業参観は、施設ごとに
    実施日をずらすことを決めた。

    子どもたちの環境を良くしようと、懸命の努力が続く。 学校は校舎の図書室から
    持ち出した数十冊を段ボール箱に並べ、各施設の教室の近くに置いた。 教員が
    定期的に本を入れ替える。

    離れた施設に通う児童の安全を確保するため、登下校の時間には、地域の人たちが
    通学路に立って子どもたちを見守り、学年を確認しながら誘導に当たっている。
    分散しての授業は、校庭にプレハブ校舎が完成する11月まで続く見通しだ。
    損壊した校舎について、地域住民や保護者らは建て替えを要望しているが、学校に
    よると、補修か建て替えかの結論は出ていないという。

    飯塚校長は『児童を含め、多くの協力があって学校生活が送れている』と感謝し
    つつ、『早く全学年がそろって授業をしたい』と本来の姿に戻ることを待ち望む。

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    不安、恐怖、怒り、喪失感―。 東日本大震災は、被災した多くの子どもの心に傷を
    残した。 日常を取り戻しつつある学校現場で、子どもの心のケアは重要性を増して
    いる。 東松島市はスクールカウンセラーの巡回など、多方面からのサポートに力を
    入れている。

    学校で何が スクールカウンセリング(東松島)不安・恐怖、耐える幼心
    出典:河北新報

    fe186475.jpg


    東松島市の川下公民館で避難生活を送る野蒜小5年の京野瑞樹君(10)は活発な
    野球少年。 お気に入りの野球帽をかぶり、練習に打ち込む。

    3月11日は、学校からの帰り道で巨大地震に襲われ、恐怖で動けなくなった。
    通行人に助けられ、父親の文彦さん(37)らと一緒に野蒜小の屋上に避難し助かった。
    津波は学校の校舎を破壊し、仲良しのクラスメート2人の命を奪った。

    『友達が亡くなってさみしい。 地震が来ると、あの時みたいに胸がどきどきする』と
    瑞樹君。 文彦さんは『普段は口に出さなくても、心の中には(恐怖が)あるかも
    知れない』と思いやる。

    大曲地区センターに避難する主婦千葉理恵さん(30)は、大曲小3年の次女(8)が
    余震の時に示す反応が気掛かり。 『顔色が変わり、パニックのような感じ。 いざと
    いう時、冷静に逃げられるかどうか心配』と話す。

    1,000人を超える犠牲者を出した同市で、小中学校の児童、生徒の死者、行方
    不明者は計32人、両親の一方か両方を亡くした子どもは36人を数える(5月6日現在)。
    避難所生活が長引く中、学区外からのスクールバス通学者は約500人に上る。

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    地震で受けたショックや慢性化する震災ストレスとどう向き合うか。 東松島市は、
    宮城県教委を通じ、岐阜、徳島両県のスクールカウンセラーの派遣を受けている。

    岐阜県の心理士神谷文子さん(36)は、鳴瀬一中に間借りする鳴瀬二中に派遣
    された。 隣接する小野小に入る浜市小も巡回する。 両校とも津波で校舎が使え
    なくなった。

    5月中旬、初めて学校を訪れた神谷さんは子どもの異変に気付いた。 『おなかが痛い』
    『頭痛がする』という訴えを耳にする中で、首や肩を触ってみると、パンパンに張って
    いた。 ささいな事でいら立つ様子も気になった。 リラックスするための呼吸や
    体操の時間をつくった。

    『環境が変わり、日ごろ感じないストレスで神経が過敏になっている。 心身の緊張を
    緩める時間の確保が必要だ』と神谷さんは強調する。

    子どもの心のケアは、震災前から子どもと親しい人々が、日常生活の中で話に耳を
    傾けたり、リラックスさせたりするのが最も効果的とされる。

    徳島県から矢本一中に派遣されている心理士の森世歩さん(29)は『子どもは事情を
    抱えながら精いっぱい頑張っている状態。 周囲の大人たちの安定が欠かせない』と
    保護者と教員の役割の重要性を指摘する。

    市は4月下旬、東大医学部の専門チームと連携し、小中学校全ての児童、生徒
    約3,600人に対し、震災後の心理状況について調査を実施した。 心的外傷後
    ストレス障害(PTSD)が疑われる児童・生徒らの心のケアを行う。

    心理士でつくるケア・宮城と公益財団法人『プラン・ジャパン』(東京都)が6月28日、
    大曲小で教員を対象に心のケア研修会を開いた。 『子どもに希望を持たせたいが、
    簡単に『乗り越えよう』などと言っていいのだろうか』。 教師らにとってスキルを学ぶと
    ともに、互いに抱える悩みを吐露する場になった。

    講師を務めた東北大教育ネットワークセンター長の本郷一夫教授(教育学)は
    『災害直後の心身のストレスは、誰にでも起こる正常な反応。 子どもの拙い言葉を
    受け止め安心感を与えてほしい』と強調。 『長い時間がかかる。先生が心と体の
    健康を保つことも大切だ』と助言した。




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    震災による津波で大きな被害を受けた宮城県女川町では町外に身を寄せ、
    遠距離通学する子どもが数多くいる。 余震の頻発や地盤沈下による道路の
    冠水など、当初は登下校に多くの困難を抱えた。 町教委は町内外にスクール
    バスを運行させ、教員や保護者も子どもたちをサポートした。

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    学校で何が 15Km車とバス乗り継ぐ(宮城・女川町)
    出典:河北新報 2011年7月5日

    平日の午前7時前、宮城県石巻市中心部のアパートを出た庄子宙(そら)君
    (10 )が父和行さん(41)と車に乗り込んだ。

    宙君は女川一小(宮城県女川町)の5年生。 アパートから約15キロ離れた
    学校に通う。 町との境に近い市東部にあるスクールバスの停留所まで、
    和行さんが車で送る。 『お父さんや友達と一緒に学校に行けるから楽しい』。
    登校に約1時間を費やす毎日にも、宙君は屈託がない。

    庄子さん一家は和行さん、妻由美恵さん(37)と宙君、長女礼ちゃん(4)の
    4人暮らし。 和行さんと由美恵さんは石巻市内の会社に勤めている。 2011年
    3月11日まで暮らしていた女川町内の自宅は津波で全壊し、震災後は町内の
    避難所や仙台市内の親類宅などを転々とした。

    『女川には賃貸住宅がないし、小さい子どもがいると避難所では周囲に迷惑を
    掛ける』(和行さん)と、4月初旬に石巻市のアパートに移った。 『女川の
    学校に行きたい』という宙君の思いを尊重し、石巻から女川に通わせること
    にした。

    スクールバスは町内の5小中学校に通う児童、生徒が利用する。運行は4月21日に
    始まった。

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    当初、由美恵さんは心配だった。 『いつ大きな余震が起きるか分からない。
    通学途中に津波が来たり、周りの建物が倒れたりしたらどうしよう』。 万が一に
    備え、宙君に携帯電話を持たせた。

    女川一小は避難所となったため、授業は約2キロ東に離れた女川一中で行っている。
    同中は津波被害を受けた女川港近くの高台にあり、通学には津波で浸水した区域を
    通らなければならない。

    女川一小では児童約2000人の大半がバス通学することになった。 『学校に
    とって、登下校時の児童の安全確保が重要な課題になった』と星圭校長は
    振り返る。

    学校側は町教委やバス会社と打ち合わせを重ねた。 バスの運行ルートは高台の
    道を優先し、地震発生時にはバスを停車させ、運転手が児童を避難誘導するなどの
    対応策を決めた。 『当初はがれきで埋まった道路があり、運行ルートを選ぶのは
    大変だった』と4年生を担任する中沢健一さん(35)は言う。

    安全対策の一環として、学校は5月末まで、15人の教員を交代で登下校時のバスに
    同乗させた。 発着状況は随時、電子メールで保護者に伝えた。 『子どもの
    ことを親身になって考えてくれた』と由美恵さんは感謝する。

    町教委によると、小中学校の全児童・生徒の8割に当たる476人がスクール
    バスで通学(2011年6月20日現在)。 うち町外居住者は計40人に上る。 バスの
    運行が軌道に乗った後も、庄子さん夫婦には別の心配事があった。 石巻市渡波
    地区など、アパートからスクールバスの停留所までの道のりの一部は震災で地盤
    沈下し、冠水しやすい。 登校時間と満潮が重なり、停留所に向かう道路が冠水
    してバス停にたどり着けないこともあった。

    仮堤防の設置や幹線道路のかさ上げなど対策が施され、最近は送迎途中に道路が
    冠水することもほとんどなくなった。 『今は安心して学校に通わせることが
    出来ている。 ただ、女川の復興の兆しが見えないので、先の見通しは立て
    られない』。 庄子さん夫婦は口をそろえた。

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    東日本大震災は、教育の現場にも大きな影響を与えている。 校舎の損壊、
    間借りの教室、不自由な通学、仮設住宅が並ぶ校庭。 学校は幾つもの困難を
    抱えながら、教育の場としての機能を懸命に維持し、被災した子どもたちの
    心と向き合う。

    『ドキュメント 大震災』のシリーズ第3弾では、被災地の学校で何が起きて
    いるのかを追う。

    学校で何が 高校生避難所(気仙沼高)
    出典:河北新報 2011年7月4日

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    宮城県気仙沼市の気仙沼高(生徒810人)では授業を再開した5月から、東日本
    大震災で自宅通学が困難になった生徒37人が柔道場で共同生活を送る。
    『通学の足』だったJR気仙沼線が不通となっている影響が大きい。 過酷な体験は
    まだ消化しきれないものの、親元を離れて学業や部活動に励みながら、ともに
    未来を切り開こうとしている。

    今も体育館などに100人以上の住民が身を寄せる気仙沼高校。 自宅通学が難しい
    生徒たちは校舎隣の柔道場で暮らす。 2011年6月10日午後7時、サッカー部の
    練習を終えた2年二階堂広也君(17)が戻った。 宮城県南三陸町歌津の自宅は
    津波で全壊。 家族とともに町内の親類宅に身を寄せたが、5月9日の授業再開に
    合わせて学校に移った。

    『通学の足』だったJR気仙沼線は津波被害で不通となり、代行バスでは片道2時間
    近くかかってしまうからだ。『副キャプテンだし、部活に打ち込みたい』との
    思いも強かった。 気仙沼線の利用者は全校生徒の約4分の1。 復旧のめどは
    立たず、代行バスの本数も少ない。 今春の入学予定者13人を含め既に22人が
    転校した。

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    生徒の避難先は広範囲で、スクールバスではカバーしきれない。 寄宿舎を建て
    たくても、被災地では仮設住宅が優先だ。 気仙沼高が生徒用の『避難所』を
    用意した背景には、そんな事情がある。

    生徒たちは午前6時半に起床、全員で掃除をした後、炊き出しの朝食を取って
    登校する。 昼食は売店のカップめんなどで間に合わせる生徒が多い。 柔道場の
    スペースは男女別にパーテーションなどで仕切られ、夜は身の回りの片付けや
    勉強をして過ごし、畳の上に布団を並べて眠る。

    被災した家族と離れての暮らしに、抱える思いはさまざまだ。 南三陸町志津川の
    3年山内秀斗君(17)は自宅と親の職場が津波で流された。 被災時に携帯電話が
    通じなかった経験から、大学で通信技術を学びたいと考えているが、家族の
    負担を思うと『自分が早く親を養えるようにならないと…』と悩む。

    大学に進学し、国家公務員になろうと考えていた南三陸町歌津の3年三浦竜馬君
    (18)は志望を変え、高校卒業と同時に地元で公務員として働く決心をした。
    震災後、遺体捜索やがれき撤去の作業を通じて地域の人とふれあった経験が
    大きく影響している。

    『1000年後の津波に備えたまちづくりが、自分の世代でできるなんてすごいこと』
    6月28日。 学校の試験の合間の日曜日、生徒数人が柔道場で教科書や参考書を
    めくっていた。 三浦君が目指す地方公務員の試験は9月上旬に始まる。
    『あと70日しかない。 学校の試験と内容が全然違うんですよ』と仲間を
    笑わせた。 生徒たちの『避難生活』について、千田健一教頭(54)は
    『心の中にはつらい思いもあるだろうが、皆で支え合って明るさと前向きさを
    持ち続けている』と語り、こう付け加える。

    『ただ、(37人の中には)進路の選択を迫られている3年生も多い。 人生の
    中でも大切な時期だけに、早く普通の生活に戻してあげたい』

    柔道場で暮らす生徒のうち5人は『被災地高校生からの復興』というブログを
    立ち上げ、心情をつづっている。

    『棺(ひつぎ)の中にドライアイスを入れる仕事をしました。 (中略)大人
    として社会に受け入れられていることを自覚しなければならないと思いました』
    『避難所生活を始めて、どれほど親のおかげで自分が好きなように快適に家で
    過ごしてたかを痛感しました。(中略)避難所生活する高校生は協力しながら
    本当に仲良く過ごしていて感謝でいっぱいです』

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    2011年3月11日の巨大地震発生時、宮城県石巻市の離島・金華山の港では、
    最終便となる定期船『ホエール』(19トン、72人乗り)が鮎川港への出発を
    待っていた。 突然の大きな揺れと津波の恐怖。 乗客を守るため、乗員は
    瞬時の判断を迫られた。

    逃げる その時 金華山定期船(石巻)
    出典:河北新報 2011年6月30日

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    大きな揺れが港を襲った瞬間、待合所にいた乗客の男性2人が青ざめた表情で
    船に飛び乗った。 午後3時の出発を待っていた『ホエール』。 待合所には、
    他にも黄金山神社の参拝客とみられる十数人がいたが、一様にどうしていいか、
    分からない様子だった。

    ホエールは地元の金華山観光が運航する小型旅客船。 この日は非番の船長に
    代わり、機関長の鈴木孝さん(63)が、かじを取っていた。 揺れから約5分後に
    突然、潮が上がり始めた。

    『まずい』。 鈴木さんは船をバックさせ、いったん岸壁を離れた。 無線から
    金華山観光社長遠藤得也さん(70)の声が響いた。 『客を乗せて沖に避難
    してくれ』 再び接岸して残りの客を乗せようか。 鈴木さんは迷ったが、
    岸壁は既に水没しかけている。 『だめだ。間に合わない』
    『危ないから神社に逃げて』。 鈴木さんは陸にいる人たちに船のマイクで
    何度も叫ぶと、全速力で沖を目指した。

    左手の金華山沖から、ものすごい高さの黒い波が迫った。『幅500メートルぐらいは
    あったか』。 鈴木さんは必死で逃げた。 鮎川港で地震に遭った遠藤社長は
    同じころ、海上タクシーとして使っている『くろしお』を>守るため、沖に
    向かって出港。 操舵室から全速力で逃げるホエールが見えた。

    金華山にぶつかった波がホエールを追いかけているかのようだった。

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    遠藤社長が振り返る。 『お客さんのことと自分の安全確保のことで、頭は
    パニックだった』 ホエールに乗り込んだ2人は、宮城県大和町の無職甘竹
    三郎さん(67)と仙台市太白区の無職三浦正靖さん(67)。 石巻高OBで
    つくる山歩きサークルの例会で金華山を訪れていた。

    甘竹さんは『白波を立てて津波が迫ってきた。 船にぶつかったら、終わり
    だと思った』と言う。 サークル仲間で仙台市青葉区の山岳写真家東野良さん
    (67)は、待合所から避難する途中、沖に逃げるホエールを手持ちのカメラで
    撮影。 『とにかく無事を祈りながらシャッターを押した』

    2隻は牡鹿半島の先端、黒崎灯台から約5キロ南まで避難。 金華山と牡鹿半島の
    海峡は、引き波で海底が露出するほどだったが、その海域を脱したホエールは
    無事だった。

    2隻は金華山と網地島の中間点で一夜を明かした。 余震は収まらない。
    サーチライトで照らし出された海面には、無数のがれきが漂っていた。
    ホエールには鈴木さんと客2人の他、乗務員2人が乗船。 恐怖で眠れない
    甘竹さんに、乗務員は励ましの言葉をかけた。 『水も食料もある。大丈夫。
    無事に帰れる』

    翌12日、遠藤社長は沖に避難していた数隻の小型船の助けを借り、ホエールの
    乗客と、黄金山神社に避難していた計約30人を鮎川港に搬送した。

    鈴木さんが鮎川港に上陸できたのは、地震発生から3日後の3月14日。
    『あの時、全員の乗船を待っていたら、きっと助からなかった』

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    大震災では、大勢の外国人も被災した。 警察庁によると、2011年6月
    27日現在、死亡した外国人は29人。 うち7割近い20人が宮城県内で亡くなった。
    震災発生直後、外国人が取った行動を調べると、運に加え、『日本語』
    『近所付き合い』『防災意識』の3点が生死を分けた要因として浮かび上がった。

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    逃げる その時 外国人(宮城)出典:河北新報 2011年6月28日

    『高台に避難してください』 津波から多くの日本人の命を救った防災無線や
    ラジオの呼び掛けが、宮城県南三陸町のフィリピン人にはほとんど理解されて
    いなかった。

    35年前に来日した英語講師佐々木アメリアさん(57)は『心配していた通りに
    なった』と表情を曇らせる。 震災後、フィリピン人妻ら十数人に聞いたところ、
    『高台』『避難』の意味が分からなかった人が多かった。 大半は日本人の夫と
    逃げたか、隣近所の日本人に促されて逃げ、一命を取り留めたが、女性(29)が
    津波で亡くなった。

    アメリアさんによると、女性は日常会話は出来たものの、防災無線の日本語は
    聞き取れなかった可能性が高い。 石巻市のスナック勤めで、南三陸町の
    フィリピン人社会や、隣近所との付き合いはほとんどなかった。 『日本人の夫
    以外に、避難するよう教えてくれる隣人はいなかったはず』とアメリアさんは
    見る。

    流ちょうな日本語を話す千葉ジョイさん(44)は『私も『高台』『避難』の
    意味は分からなかった。 『高い所に逃げて』と繰り返し言われれば、助かった
    かもしれない』と同胞の死を悼む。

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    志津川中で避難生活を送る来日20年の小山ジュリエットさん(44)を救ったのは、
    防災無線を聞き取る日本語能力と夫からの電話だった。 地震と停電で通話
    出来ないと思っていた携帯電話が午後3時10分過ぎ、突然鳴った。

    『大津波が来る。 出来るだけ高い所に逃げろ』。 夫の宣広さん(42)だった。
    宣広さんは近海マグロはえ縄船の漁師。 太平洋の沖合数十キロで津波をいち
    早くキャッチし、衛星電話で危機を知らせた。

    地震発生時、海沿いにある水産会社の加工場にいたジュリエットさんは防災
    無線に従い、既に指定避難所の志津川小へ向かっていた。 途中、志津川
    保健センターにほど近い夫の実家に立ち寄った。

    直後、宣広さんから電話があった。 忠告に従い、義父母と一緒に高台に
    逃げた。 振り返ると『真っ黒な濁流が、数分前までいた小高い場所を
    のみ込んでいた』という。

    ジュリエットさんの友人の斎藤ジュリエットさん(44)は同じころ、日本人の
    夫と逃げた高台で、泣きながら上空を見上げていた。 『この世が終わる。
    イエス・キリストが降臨する』と。

    あの時、中国・大連出身の広岡燕燕さん(37)は宮城県山元町の自宅にいた。
    海岸まで約1.2キロ。 『地震が起きたら津波が来る。 すぐ役場へ逃げて』。
    日本人の夫の口癖が頭に浮かんだ。

    サンダル履きのまま、3キロ以上離れた町役場を目指し、長女歩実さん(7)と
    自宅を飛び出した。 道路はひび割れ、水が噴き出す。 空は暗く、海岸から
    真っ黒い土煙が追い掛けて来る。

    津波の恐怖と闘いながら、十数分走り続けた。 息も絶え絶えになり、道路に
    飛び出して白いワゴン車を止め、叫んだ。 『娘だけでも』。 ワタナベと
    名乗る男性が2人を乗せてくれた。

    津波は町役場の近くまで迫り、自宅1階は水に漬かっていた。 『夫の口癖と、
    親切な日本人のおかげ』。 山元町の仮設住宅で、燕燕さんは歩実さんの
    髪を優しくなでた。

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    東日本大震災で被災した宮城県名取市閖上地区で2016年2月14日、1985年の
    日航ジャンボ機墜落事故の遺族と、閖上や宮城県石巻市大川小、七十七銀行
    女川支店(宮城県女川町)などで愛する人を失った遺族が集い、交流した。
    悲痛な体験を語り合い、失った命の重さを共有した。

    出典:河北新報 

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    震災の記憶を継承する施設『閖上の記憶』には、墜落事故の遺族会『8.12連絡会』
    の3人を含め計17人の遺族らが集まった。 大川小で次女千聖(ちさと)さん=
    当時(11)を亡くした紫桃隆洋さん(52)は『家族という言葉が突然遺族に
    変わり、ためらいながら5年が過ぎた』と複雑な胸中を明かした。

    七十七銀行女川支店行員だった長男健太さん=当時(25)を失った田村孝行さん
    (55)は『つらさ、悲しみはあるが涙も出ない。 同じ苦しみを繰り返さない
    ために学んだことを後世に伝えたい』と述べた。

    墜落事故で次男健君=当時(9)=を亡くした8.12連絡会事務局長の美谷島
    邦子さん(69)は『私たちは風車と同じで、風の中でくるくる回ったり
    止まったりする。 一緒に泣いたりしながら少しずつ前に進んでいければいい』
    と話した。

    この日の交流は、閖上中で長男公太君=当時(13)=を失った同中遺族会代表
    丹野祐子さん(47)や、美谷島さんが呼び掛けた。

    丹野さんは昨年夏、墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に登り、深い
    悲しみを抱えて30年間活動してきた遺族の思いに胸を打たれた。 『場所は
    違っても失った命を忘れないという思いは同じ。 何も言わなくても分かり
    合える遺族同士のつながりを今後も大事にしたい』と力を込めた。

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    地域を挙げて避難訓練を重ね、手助けが必要な障害者やお年寄りの
    把握にも努めて来た宮城県気仙沼市唐桑町小鯖地区(155世帯)では、
    住民がほぼ訓練通りに行動し、犠牲者を最小限に食い止めた。 自治会が
    『隣組』ごとに編成した12班は、それぞれ事前に決めていた避難場所に
    組織的に避難。 各班の責任者に配備されたトランシーバーも、安否確認や
    責任者同士の連絡に威力を発揮した。

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    逃げる その時 備え(気仙沼・唐桑町小鯖地区)
    出典:河北新報 2011年6月24日

    『迷わず、訓練通りに体が動いた』。 7班責任者の衣料店経営鈴木茂さん
    (56)が、地震直後の行動を振り返る。

    玄関に常備するトランシーバーを手に外に出た鈴木さんは、7班の全10世帯を
    避難路に誘導し、体が不自由なお年寄りだけを車に乗せて避難場所へと運んだ。
    『うちにいたい』と拒む人もいたが、親類を連れて再び迎えに行き、説得した。
    『5班は大丈夫』『異常なし』。 住民の安否確認を終えた各班の責任者から、
    相次いでトランシーバーに連絡が入った。

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    鈴木さんは『携帯電話がつながらない中、班ごとに安否が確認できた。 大きな
    安心感があった』と振り返る。 小鯖漁港のそばで釣具店を営む小松好子さん
    (82)を救ったのは、近所のガソリンスタンドの男性社員の声だった。

    『地震の次は津波が来るから。 もう1段、もう1段上がりなさい』当時自宅に
    いたのは、6人家族のうち小松さんだけ。 避難を促す声に背中を押されるように、
    自宅裏の避難階段を夢中で上った。

    午後3時10分過ぎ。 後ろから10メートル以上の黒い波が迫って来た。 高台に
    上った小松さんは、引き波で店舗を兼ねた自宅が湾内に流されるのを見た。
    最後尾で誘導した尾形和洋さん(34)は『お年寄りの足では、津波に飲まれかね
    なかった。 高齢者の避難に最も気を使った』と言う。

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    小鯖自治会副会長の鈴木貞治さん(62)は『迅速に避難を誘導できたのは、
    日ごろの訓練のおかげ』と強調する。 12班はそれぞれ最寄りの高台を1次避難
    場所に指定し、経路を示した避難地図を全戸に配布。 要援護者を把握するため、
    『住民名簿』や『家族カード』を作り、訓練を重ねて、近所ごとに要援護者を
    誘導する取り組みも進めていた。

    津波で海岸沿いの住宅53世帯が被災したが、1次避難場所は全て無事だった。
    浸水域は、避難地図作成のベースになった宮城県沖地震の想定浸水範囲
    『標高10メートルライン』と重なる。 1次避難場所は標高20メートル前後の
    場所に指定していた。

    避難場所に逃げたのは12カ所で計151人。 自宅にいたほとんどの住民が
    助かったが、3世帯6人が行方不明となった。 住民によると、このうち1世帯
    3人は、いったん避難路を上ったが、『忘れ物』と言って自宅に戻った。
    家族の一人は元遠洋漁船員。 航海が長く、日ごろ訓練に参加出来なかった。

    12班の責任者、後藤一郎さん(63)も行方が分からない。 地震発生後、
    トランシーバーで『異常なし』と仲間に連絡していた。 妻光子さん(55)は
    『近所の安否確認をした後、つないでいた愛犬を逃がすため自宅に戻った
    のでは』とみている。

    他に、お年寄りと娘の1世帯2人が逃げ遅れた。 万全だったはずの備え。
    想定通りの津波。 それでも犠牲者が出た。 住民は言う。 『津波から逃げる
    には、備えが要る。 でも、いざとなれば何が起こるか分からない。 失敗こそ
    教訓にして、記憶に留めたい』

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    東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
    発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
    必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。

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    逃げる その時 大渋滞(気仙沼市街地)
    出典:河北新報 2011年6月21日

    宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
    大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
    避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
    身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

    目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
    車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
    ものの、どうすることも出来なかった。

    2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
    よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
    見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
    伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。

    内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
    目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
    ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
    車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
    車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。

    かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
    笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
    使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
    離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
    地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。

    幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
    ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
    交じっていた。

    とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
    乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。

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    堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
    だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
    東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
    だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。

    気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
    からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
    途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。

    佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
    誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
    という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。

    震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
    逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
    (津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
    安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
    と話す。

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