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    タグ:アレクサンドル2世

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    キエフ市内の至るところにシェフチェンコの名前があふれている。 キエフ大学が
    彼の名前を冠しているのをはじめ、彼の名前を付けた公園、広場、通り等がある。
    シェフチェンコ通りには、立派なシェフチェンコ博物館もある。 なぜそれほど
    愛されているのだろうか?

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    彼は、1814年にキエフからほど遠からぬ村で農奴の子として生まれた。 幼い時に
    孤児になるが、早くから詩をつくり絵を描く才能を現していた。 首都に出た時、
    彼の才能に感動した知識人たちが金を集め、主人から2,500ルーブルで農奴の身分を
    買取り、自由の身となった。 また、美術学校で学んでいるうちに、故郷
    ウクライナと民衆に対する深い想いを込めた詩集『コブザーリ』を発表した。

    キエフに戻ってから、専制君主的なロシアの帝政に対抗して、農奴制の廃止と
    全スラブ民族の平等を目指す政治的な秘密結社キリール・メフォージー団に
    加入した。 やがて秘密結社の存在が発覚し、シェフチェンコは中央アジアへ
    一兵として流されるという重い罰を課せられた。 新帝アレクサンドル2世の
    即位後の1857年に恩赦を受けるが、帝政と専制政治への憎しみ、ウクライナへの
    愛は1861年に没するまで変わらなかった。

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    上記の詩集の他、彼にはウクライナの歴史を題材とした数編の長編叙事詩や、
    リアリズムの手法に基づく力強い多くの絵画作品がある。 シェフチェンコの
    代表的な絵、それに彼の文学作品の初版本や外国語訳がこのシェフチェンコ博物館に
    展示されており、数点の日本語訳も並んでいる。

    シェフチェンコは文学作品をウクライナ語で書いた。 ウクライナ語の存在価値を
    認め、その地位を高めることが彼の信念であった。 しかし、現実はなかなかその
    方向に向かわなかった。 ロシアの識者の中にも、ウクライナ語をロシア語の方言と
    しか見ない者もいたし、ロシア政府は言語の面でもロシア化政策を強行した。
    1860年には内務省がウクライナ語による書籍の出版や劇の上演を禁止するという
    命令を出し、70年代にはそれが法律になった。



    ウクライナ語の意義を承認するか否かは、ウクライナ文化や政治的自主性への
    態度とも関連している。 ソビエト期を通じてこの問題について何回も動揺が
    あった末、1991年の独立によってウクライナ語はようやく国家の第一の公用語
    としての地位を確立した。

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    19世紀の半ば、ロシア社会に大きな変革が起きる。 その引き金になったのは、
    クリミア戦争だった。 トルコとの戦いは、既に何回も行われていたが、今度は
    トルコの後押しをするイギリスとフランスを相手に戦う羽目になった。

    1853年に始まった戦争は、その翌々年クリミア半島の南端にあるセバストーポリの
    要塞の陥落によってロシア側の敗北に終わった。 翌年のパリ条約の締結を待たずに、
    ニコライ1世は他界し、アレクサンドル2世が皇帝となった。 敗戦は農奴制を基盤
    とするロシア社会の変革の必要性を認識させずにはおかなかった。

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    新帝は、クリミア戦争終戦後の詔書を出した11日後、モスクワを訪問し、総督
    ザクレフスキーが集めた貴族の代表達に演説した。 『不幸にも農民とその領主
    との間に敵対的感情が存在しており、それが原因で既に領主に対する不服従が
    いくつか発生している。

    朕は、遅かれ早かれ、我々がこれに着手しなければならないものと確信している。
    諸君も朕と同意見であると思うのだが、そうであるなら、これが下から起こる
    よりも、上から起こる方が遥かに良いのだ。』 皇帝は、モスクワで農奴解放へ
    向かう意思を表明した。

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    この解説ニュースは、全国に瞬く間に広まった。 『大改革』が始まった。
    最初は、経済面の改革であった。 1861年には、農奴解放が実現され、64年には、
    ゼムストヴォと呼ばれる地方行政を担当する自治機関が創出され、陪審員制度を
    持つ三審制の近代的な司法制度も創り出された。 中学校、大学制度も改革された。

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