1704年から、フィンランド湾内のコトリン島に海軍基地クロンシュタットの
建設が始まった。 更にウサギ島の対岸、ネヴァ川の左岸には海軍造船所が
作られた。 これが後の海軍本部となる。

ピョートルは国の統治を引き続き、モスクワのクレムリンから行っており、
戦争のため各地に転戦した。 スウェーデン国王軍との決戦は、遠くウクライナの
地ポルタヴァで1709年春に戦われた。 ピョートル軍は、カール12世軍を
撃滅した。 戦争はなお12年続くが、ポルタヴァの勝利以後は、ロシアは
バルト海沿岸でスウェーデンを圧して行った。

1710年、ピョートルの軍はペテロパブロフスク要塞の北のスウェーデンの要塞
ヴイボルクを占領した。 更にこの年、スウェーデン軍からレーヴェリとリガ
という重要な港湾を奪った。 これによって、バルト海の南岸かがロシアの
占領地域に入った。

ペテロパブロフスク要塞は最前線の要塞ではなくなり、この要塞の周りに生まれ
つつある都市の安全性は強固なものとなった。 この年ピョートルはネヴァ川が
南の方角に曲がっているところ、かつてのスウェーデンの砦ニエンシャッツがあった
ところの対岸にアレクサンドル・ネフスキー公の名を冠した修道院を建てさせた。

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1240年、ノヴゴロドの公アレクサンドルがネヴァ川の流域でスウェーデン軍を
打ち負かした勝利を讃えて、その戦闘があったと考えられた場所を選んだのである。
これが後のアレクサンドル・ネフスキー修道院の基である。 更に同じ年、
ピョートルは海軍造船所の近くにイサーク寺院を建立した。 正教の暦では、
ダルマチアのイサークという聖人の日が5月30日と定めされていたが、この日が
ピョートルの誕生日であった。

1711年には、ピョートルのための最初の宮殿、冬宮がネヴァ川のほとりに建て
られた。 これは5年後に建て直しになる程度の建築だったが、今やピョートルの
住居は小屋から宮殿になったのである。

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この要塞と海軍造船所のある北辺の拠点について、ピョートルは1704年9月28日に
メンシコフに送った手紙の中に3、4日後に首都ペテルブルグに行くと書いている。
これがピョートルがペテルブルグについて首都と述べた最初の例外的なケース
であった。 だからと言って、ピョートルがこの時ペテルブルグを首都にすると
既に決めていたことにはならない。 いずれにしても、スウェーデン海軍の攻撃は
1705年夏までは続いていたのである。

1709年のポルタヴァでの勝利の後、1711年ピョートルはモスクワに元老院を
設置し、9名の議員を任命した。 貴族会議に代わって、皇帝の命令を遂行し、
重要案件については皇帝に代わって仮の決定を下す中央統治機関とした。
この機関が1712年にペテルブルグに移ったのは、翌1713年だが、これは重要な
決定であった。

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