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    タグ:アルメニア

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    アルメニアが実効支配するアゼルバイジャン領ナゴルノ・カラバフ地域をめぐる
    紛争で、トルコがアゼルバイジャンへの軍派遣へ動き始めた。 現地では、44日間の
    軍事衝突の末に停戦合意が発効したばかり。 派兵は停戦監視にあたるロシア軍との
    「共同活動」を目的とするが、関係国の警戒心は強い。 支配地の多くを失う
    アルメニアの混乱も続き、和平を見通せなくなっている。

    「停戦合意は重要だが、あいまいさは取り払わなければならない」とフランスの
    ルドリアン外相は11月17日、議会でこう語り、合意を仲介したロシアに対し、
    停戦でトルコが果たす役割について説明を求める考えを強調した。 フランスは
    ロシア、米国と共に1990年代から続く和平競技の共同議長国となっている。

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    停戦合意が発効したのは11月10日。 その翌日、トルコのエルドアン大統領は
    与党の会議で「ロシアと共に停戦監視の役割を担う」と発言した。 停戦合意は
    アルメニアがナゴルノ・カラバフ地域の一部を残し、90年代から支配して来た
    周辺地域をアゼルバイジャンに引き渡すとしている。 ロシア軍が停戦監視を
    担うことも決まっている。

    だが、発表された和平合意の声明にトルコに関する記述はなかった。 関係国に
    疑心が広がったのは、直後にエルドアン氏と共にロシアのプーチン大統領が
    電話協議し、トルコ側が両国による停戦監視のための「共同センター」設置が
    決まったと発表したからだ。



    トルコ議会は11月17日、期限を1年とするアゼルバイジャンへの軍派遣を承認した。
    9月末の衝突開始以来、エルドアン氏はアゼルバイジャンの軍事行動を支援する
    発言を繰り返して来た。 トルコとアルメニアの間には、第一次世界大戦中の
    アルメニア人迫害をめぐる歴史論争があり、アルメニア系住民が暮らすナゴルノ・
    カラバフ付近でトルコ軍が活動すれば、アルメニアを刺激するのは避けられない。

    ロシアもトルコとの「共同センター」設置の合意は認めている。 プーチン氏は
    11月17日夜に国営テレビで「アゼルバイジャンの要請だった」と明かした。
    但し、活動内容については、あいまいで、センターの場所やトルコ軍の派遣規模は
    不明なままとなっている。

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    停戦合意の直前、アゼルバイジャン軍は、ナゴルノ・カラバフ第二の都市シュシャを
    制圧。 事態が緊迫する中、ロシアはアゼルバイジャンを支えるトルコの納得を
    得るため、停戦交渉の枠外で妥協を強いられた可能性がある。

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    2020年9月27日の朝、アゼルバイジャンとアルメニアの係争地となっている
    アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)を巡り、ナゴルノ・カラバフ
    境界沿いで軍事衝突が勃発した。 アゼルバイジャンとアルメニア双方共に
    相手国が先に攻撃したと主張しているが、この衝突はトルコからの影の支持を
    取り付けたアゼルバイジャンによって開始された可能性が高く、主要攻撃目標は
    山岳地帯の少ないナゴルノ・カラバフ南部とされた。

    アゼルバイジャン側の発表によれば、11月8日にナゴルノ・カラバフ南部要衝の地
    であり、第2の都市であるシュシャが陥落した。 折りしも11月9日は、
    アゼルバイジャン国旗の日であるため、アゼルバイジャン軍が集中的に南部を
    砲撃したと見られる。 下記の停戦合意により、シュシャは、今後は
    アゼルバイジャン領となる。

    【3分割されたナゴルノ・カラバフ】
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    元々この地は、スターリンの時代に、隣国同士を反目させるために、わざと
    中央アジア諸国間の国境線を複雑にした歴史的な経緯があり、長年に渡り、民族間の
    対立や散発的な小競り合いが絶えなかった。 国連や多数の国々がこの軍事衝突を
    強く非難し、停戦交渉を再開するよう双方に求めた一方、アフガニスタン、
    パキスタン、イスラエル、トルコはアゼルバイジャンへの支持を表明した。 また、
    フランスがアルメニアへの支持を表明し、イランもアルメニアを支持したが、
    地域の安定化を求める声を無視しての支持だとして非難されている。 尚、
    サウジアラビアとアラブ首長国連邦は、アルメニアを支援したと考えられている。

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    【停戦合意と平和維持活動】

    欧州安全協力機構ミンスクグループの仲介により、アルメニアと
    アゼルバイジャンは、2020年10月10日正午からの停戦と協議開始で合意したが、
    停戦合意後も戦闘は続き、10月17日には軍事衝突の鎮静化を図るため、10月18日
    0時から2度目の停戦で合意した。 しかし、停戦が履行される気配はなく、
    10月25日にはアメリカ合衆国の仲介によって10月26日8時から3度目の停戦で
    合意したが、合意後も戦闘が続き、4回目の停戦合意はロシアのプーチン大統領の
    仲介により、両当事国が停戦協定に調印、モスクワ時間11月10日午前零時
    (日本時間同日午前6時)に発効した。 今回の紛争の実態は、
    アゼルバイジャン軍の勝利、アルメニア軍の敗北(降伏)となっている。

    ロシアは、今後5年間、ナゴルノ・カラバフでの平和維持活動に当たり、同国
    西部のウリヤノフスク・ボストーチヌイ空港から、配備に必要な1,960人の
    要員と軍用車両、更に、戦闘ヘリコプターなどを大型輸送機で移送した。
    平和維持軍は、ナゴルノ・カラバフに展開する両軍の最前線と、アルメニアから
    ナゴルノ・カラバフに通じる「ラチン回廊」に沿って監視所を設置する予定で、
    司令部は首都のステパナケルトに置かれる。

    ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャン西部、ウクライナの国境から50キロ
    程度に位置し、1994年の戦争終結以降、アルメニアが実効支配して来た。
    今回の戦争では、約3,000人が犠牲になったと見られている。 但し、
    アルメニア軍は自軍戦死者数を毎日発表しており、11月9日現在の累計
    戦死者数は1,221人となっているが、アゼルバイジャン軍は戦争開始以来、
    1度も自軍戦死者数を発表していないため、戦死者数が、大幅に上回っている
    可能性も否定出来ない。

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    【ナゴルノ・カラバフ戦争停戦に関する声明文】
    アゼルバイジャン・アリエフ大統領、アルメニア・パシニャン首相、ロシア・
    プーチン大統領

    我々は、ナゴルノ・カラバフ戦争停戦で合意、下記声明を発表する。

    1. ナゴルノ・カラバフ紛争地域における全面的停戦と戦闘行為中止をモスクワ時間
    2020年11月10日午前零時に実施する。 アゼルバイジャン共和国とアルメニア
    共和国、(以後“当事国”)は確保した現在の位置に留まる。

    2. アグダム地区とアルメニア側が確保しているアゼルバイジャン共和国ガザフ
    地区は、2020年11月20日までにアゼルバイジャン側に返還する。

    3. ナゴルノ・カラバフの境界線とラチン回廊沿線に、1,960人のロシア平和
    維持軍が展開する。 平和維持軍の装備は90輌の装甲車、380台の車両と
    特殊機材車とする。

    4. ロシア平和維持軍は、アルメニア軍の撤収と並行して、5年間の期間で駐留する。
    もし、双方が半年前までに反対を表明しない場合、平和維持軍の駐留期間は
    自動的に5年間延長される。

    5. 停戦合意事項の管理を効率的に実施すべく、平和維持センターを設置する。

    6. アルメニア共和国は2020年11月15日までにケルバジャル地区を、12月1日までに
    ラチン地区をアゼルバイジャン共和国に返還する。 但し、ラチン地区に
    関しては、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続する幅5キロの回廊を保証する。

    7. 国内の避難民と難民は国連難民高等弁務官事務所管理の下、ナゴルノ・カラバフ、
    および、その周辺地区に帰還する。

    8. 捕虜、拘束者、遺体の交換を行う。

    9. アルメニア共和国は、アゼルバイジャン西部と(アゼルバイジャンの飛び地)
    ナヒチェヴァン自治共和国を接続する輸送路建設を保証する。 輸送路管理は、
    露連邦保安庁傘下の国境警備隊が行う。

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    古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
    8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
    モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
    18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
    次第に征服して行った。

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    1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
    併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
    地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
    かった。

    ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
    となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
    独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
    あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
    求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
    社会主義共和国』の設立が宣言された。

    1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
    共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
    それぞれソ連邦構成共和国となった。

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    【アルメニアとの宿命的対立】
    1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
    アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
    宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
    カラバフ自治州で始まった。

    約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
    よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
    統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
    返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
    アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
    会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
    アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
    凶行が繰り広げられた。

    ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
    直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
    アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

    数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
    同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
    ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
    この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

    新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
    独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一本】



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    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

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    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

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    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一冊】


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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海と
    カスピ海に挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャン
    にあるナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。
    根底には、民族と宗教が絡んでいる。

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    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、
    国民の95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を
    築いて来たアルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の
    民族自決を弱めるために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、
    キリスト教徒であるアルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、
    アゼルバイジャンの自治州に組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの
    帰属を求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、
    自治州まで廃止し、直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人の
    アルメニアへの帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は
    1992年、ナゴルノ・カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。
    アゼルバイジャンは経済封鎖などで対抗したが、アルメニアは、当然ながら
    戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、
    戦闘でアルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、
    ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格する
    などと定められたことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立って
    いないが、実質上は、アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、
    ここでもナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化は
    ほど遠い現状となっている。

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    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、
    バクー油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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