横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:アメリカ

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    1892年、アンドレス・ボニファシオがカティプナン(タガログ語で団結の意味)を
    結成した。 カティプナンは秘密結社で、武力によってスペインの植民地支配を
    転覆させようというものだった。

    1896年、3万人のカティプナンのメンバーがスペイン攻撃に立ち上がった。
    しかし、エミリオ・アギナルドを指導者とする軍だけが、反スペインの戦いに
    成功し、1897年ボニファシオに代わってカティプナンの指導者となった。
    スペイン側は領土の大半を奪い返したが、アギナルド軍の鎮圧には失敗した。

    1897年末、アギナルドはスペインと和平条約を結んだ。 アギナルドの亡命と
    引き換えに、3年以内に自治を約束していた。 同年12月、アギナルドは香港へ
    亡命した。

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    一方、スペインの他の植民地でも反乱が起きていた。 カリブ海の島国キューバが
    スペインから独立を宣言すると、アメリカはこれを支持した。 この結果、
    アメリカとスペインは1898年初め、米西戦争を戦った。

    戦争の報償はフィリピンだった。 1898年4月、ジョージ・デューイ准将は
    アメリカ海軍を率いて香港からマニラ湾に入り、スペイン海軍を破った。
    アギナルドは香港から戻り、カティプナンを率いてスペインと戦った。

    カディプナンの支持のお返しに、アメリカ政府はフィリピンの独立を約束した。
    アメリカとカティプナンの連合軍は、1898年8月、スペインを敗北させた。
    その年の後半、アメリカとスペインは戦争を終結、パリ条約を結んだ。 条約の
    下でアメリカはフィリピン、グアム、プエルト・リコを獲得、スペインには
    2000万ドルを与えた。

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    多くのフィリピン人にとって、アメリカの占領はスペインの植民地支配と
    比べても、状況は改善されなかった。 アギナルドや多くのフィリピン人は
    アメリカに抵抗した。

    いかなる形の植民地支配も拒否し、アギナルドは1899年に独立を宣言した。
    1901年に逮捕されるまで、彼はアメリカに対する武力闘争を指導した。 その後も
    アギナルドの軍隊はしばらく戦い続けた。

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    日本訪問を終えたトランプ大統領。 今回の訪日で、安倍首相はイバンカ大統領
    補佐官が設立に携わった基金に5,000万ドル(約57億円)の支援、並びに、北朝鮮の
    脅威を未然に防ぐために、米国から更に武器を購入する約束をした。 これは、
    トランプ政権との結び付きをより強くする狙いがあると見られているが、財政が
    非常に厳しい中で、この財源はどこから確保するのか?

    トランプ氏の娘であるイバンカ氏が設立に関わった基金は、途上国の女性起業家を
    支援するためのもので、日本を含めて14カ国が既に計3・4億ドルを拠出する
    方針で、外務省は7月の時点で公表していたものの、トランプ氏の訪日に先立ち、
    安倍首相が再度アピールした形となっている。

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    この拠出金の財源は、国民の税金でまかなわれ、4年間掛けて支払われる。
    外務省は初年度分として、57億円のうち、14億円を2018年度一般会計予算に
    盛り込む考えだが、財務省は他の予算の削減が必要と話している。 武器の
    購入も税金となっており、購入する武器の具体例として、戦闘機のF35や
    イージス艦に搭載する改良型迎撃ミサイルが挙げられている。 F35は1機につき、
    147億円もする。 ミサイルは防衛省が2018年度予算の概算要求で関連取得費
    として657億円(ミサイルの数は非公表)を掲げている。 いずれも価格の高騰が
    問題になっている武器となっている。

    途上国の女性の社会進出をネタに、わざわざ日本まで集金をしにやって来た娘の
    イバンカ氏と高額な武器の押し売りをしにやって来た父親のトランプ大統領。
    安倍首相はトランプ氏との共同記者会見で『日米同盟の絆』を強調したが、
    アメリカの財政赤字が続く中で、アメリカの軍需産業を活性化するために日本の
    防衛予算が使われているため、そのしわ寄せが日本国民の生活を直撃する
    こととなる。

    ゴルフ、最高級鉄板焼きでの接待、最高級アメリカ兵器の大人買いと正に
    アメリカの言いなりの日本。 このままアメリカに協力をするということは、
    アメリカが世界各地で無理やり引き起こしている戦争の手助けをしている
    ことにもなる。

    安倍首相が推し進めている米国を巻き込んだ憲法改正は、野党第一党である
    民進党の分裂により、自民党にとって、より有利な状況となったと言える。
    日本にやって来たトランプ大統領は『日本は極めて重要な同盟国だ』と述べ、
    北朝鮮の恐怖を時折ちらつかせては、日本へ大量に武器を売込むことに成功した。

    アメリカの政策当局者は長年、親米派議員らに接触し、反安保に対抗出来る
    安全保障問題の論客として育成して来た結果、前原氏が民進党を解体し、同じく
    親米の小池、細野、長島各氏らが踏み絵をリベラル派に迫り、結果として、
    アメリカにとって最も都合のよい安倍政権の大勝となった。

    希望の党と民進党の野党2大政党の不審な動きは、アメリカが後ろで糸を引いて
    いたと考えれば、全て腑に落ちる。

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    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

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    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

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    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

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    第二次世界大戦中、カナダはイギリスに協力して反独同盟に加わったが、直ちに
    徴兵したり、海外に兵を出したりはしなかった。 1941年の末、カナダはイギリス
    及びアメリカ合衆国と同盟し、日本に対して宣戦を布告した。 やがて、100万人
    以上のカナダ人の男女が従軍し、アジアやヨーロッパの戦闘に加わった。 死傷者は
    9万人を超えた。

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    1945年に終戦を迎えると、カナダは国内の改革に関心を向けた。 戦争で荒れ
    果てたヨーロッパやアジアの国々から、大量の移民がやって来た。 都市の
    人口は増大して、郊外が広がって行った。 住宅の需要が高まり建設業が繁栄した。

    キング牧師が目指したのは、全カナダ人の福祉を確立することだった。 同政府は
    失業保険、復員軍人恩給の充実、老齢年金の増額、医療制度の改善などをはじめ、
    広い範囲に渡る社会保障制度を立法化した。 この制度が一助となって、一般の
    人々の生活水準は上がった。

    他の分野においても、カナダの努力は目覚しい発展をもたらした。 アルバータ州で
    新しい油田が発見され、ケベックとオンタリオ両州では大量の鉱物資源が見つ
    かった。 交通が発達し、水力発電も増えた。 製造業は消費者の需要の増大に
    合わせて、生産を向上させた。 アメリカ合衆国を筆頭に諸外国がカナダの新しい
    工業に莫大な資本を投下するようになった。

    1949年、ニューファウンドランドは住民投票によりカナダ第10番目の州になる
    ことを決定した。 これはニューファウンドランドが始めてカナダの繁栄を認めた
    ことを物語っている。

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    19世紀の前半を通じて、アッパーカナダとローワーカナダは発展を続けた。
    道路と運河が建設されて交通が便利になり、農耕地も増えた。 1809年に
    カナダで建造された蒸気船がモントリオールとケベック間を運航するようになり、
    7年後には五大湖でも航行が始まった。

    人口が増加し、通商が発展するに連れて、植民地の統治方法への不満も高まった。
    統治権は少数のイギリス人が握っていた。 通商の上で殆んど力のないフランス系
    カナダ人は、19世紀の初期に移住して来た何千人というイギリス人によって、
    自分たちの文化と生活様式が脅かされるという不安と抱いていた。

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    イギリス系の支配に対抗して、政治改革を要求する気運が高まり、1837年に
    2つの反乱が起こった。 1つは、ローワーカナダの政治家ルイ・ジョゼフ・
    パピノーを指導者とするもので、もう1つはウィリアム・ライアン・
    マッケンジーが率いるアッパーカナダの抵抗運動だった。 反乱は共に、
    イギリス軍と民兵により、あっけなく鎮められ、2人の指導者と支援者たちは
    アメリカ合衆国へ逃れた。

    この2つの反乱が切っ掛けとなって、イギリス議会はカナダの状況を調べるために
    ダラム伯ジョン・ラムトンを派遣した。 ダラム卿は、イギリス領北アメリカ
    植民地に大幅な自治権を与えてはどうかと進言した。 イギリス内閣は、
    この改革は拒んだものの、アッパー、ローワー両植民地のを統合すべきだという、
    ダラム卿のもうひとつの勧告には賛成した。 1841年に統合された領土は、
    『連合カナダ』と命名された。

    1840年代になると、イギリス領北アメリカ植民地の諸州(その頃には連合カナダ、
    プリンスエドワードアイランド、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックが
    含まれていた)は、責任政府である地方自治を目指した。 1850年頃までには、
    その殆んどの州が責任政府を建てて、ある程度の自治を行うことをイギリス本国から
    許されるようになった。

    イギリス領北アメリカは、隣国アメリカと足並みを揃えて発展した。 通商が
    始まり、互いを結ぶ鉄道も敷かれた。 イギリス領北アメリカはこの機会を
    利用して、織物業、漁業、木材の伐採搬出業、製粉業などをはじめとする
    経済活動を盛んにした。

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    ドナルド・トランプ米大統領の側近で、娘婿のジャレッド・クシュナー
    上級顧問は、2017年7月24日、ロシア政府が昨年の米大統領選挙に介入したと
    される疑惑について、上院情報特別委員会で非公開の聴取を受けた後に会見し、
    自身がロシアと共謀関係にあったことはないと強く否定した。



    珍しく公の場で発言したクシュナー氏は『私が自主的に提出した記録と文書に
    よって、私の行動がすべて適切だったことや、類を見ない選挙運動の中での
    正常な出来事の範囲内で行われたことが示されるだろう』と述べた。

    同氏はまた、『はっきりさせておきたい。 私はロシアと共謀したこともないし、
    (トランプ)陣営で共謀を働いた人物も知らない。 私が不適切な接触を持った
    こともない』と主張。

    その上で『ドナルド・トランプ氏の方がよりよいメッセージを発し、より賢い
    選挙運動を行った。 それこそが、私たちが勝った理由だ。 そうでないと
    言うのは、彼に投票した人々に対する愚弄だ』と語気を強めた。

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    教育水準の極端に低い国の苦悩はまだまだ続きそうだ。

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    2017年6月23日、沖縄では『沖縄全戦没者追悼式』が開催されたが、そこでの
    スピーチに登壇した安倍晋三首相が、会場で『帰れ!』などと住民らから多くの
    罵声を受けたことを海外メディアが大きく報じている。 AFP通信とロイターは、
    以下のように報じた。
    沖縄の式典が最高潮に達した時、安倍首相は『亜熱帯の島にはアメリカの存在が
    大き過ぎる』と怒る地元の人々からヤジを受けた。 彼が演台に立った時、
    数々の『帰れ!』という叫びが聞こえた。 日本の首相は、公衆の場で嘲笑
    されることは、あまりない。

    『沖縄戦70周年で緊張が表面化』AFP通信 2015/06/24 13:02
    安倍首相は、黒い沖縄のシャツを着て、『鉄の暴風』作戦として知られている
    ほぼ3ヶ月の戦いで命を失った人々を追悼する献花をした。 数人が『帰れ!』
    と叫び、黒いベレー帽の老人は立ち上がって安倍首相を指さした。

    琉球新報がYouTubeで公開している動画でも48分25秒ごろ、登壇した安倍首相に
    対する激しい罵声を確認出来る。



    NHKはこれまでにも、数々の安倍政権への不利な情報を隠蔽しており、NHK前
    では、数々の抗議団体が連日抗議を行っているが、そのような情報ですら
    一切報道をしていないため、情報的に非常に偏った放送局と言う事が出来る。

    出典:Haffpost

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    トランプ米大統領は2017年6月1日午後(日本時間2日未明)にホワイトハウスで
    会見し、地球温暖化対策の国際ルール『パリ協定』から米国が離脱すると発表した。
    190カ国以上が合意し、147カ国・地域が締結している協定は、世界2位の温室効果
    ガス排出国である米国の退場で大きな転機を迎えることになった。

    『パリ協定』とは、第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)が開催された
    パリにて、2015年12月12日に締結された、気候変動抑制に関する多国間の国際的な
    協定。 1997年に採択された京都議定書以来、18年ぶりとなる気候変動に関する
    国際的枠組みであり、2016年4月22日のアースデーに署名が始まり、2020年以降の
    地球温暖化対策を定めている。  気候変動枠組条約に加盟する全196カ国全てが
    参加する枠組みとしては世界初の協定である。

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    トランプ氏はホワイトハウスで演説し、『(協定は)米国の経済を弱らせ、労働者を
    くじき、主権を損ねる。 米国を他国より常に不利な立場に置くものだ』などと
    指摘。 中国やインドを名指しして両国の対策が米国に比べて不十分だと述べ、
    『離脱して再交渉するときだ』と各国に再交渉を呼びかけた。

    トランプ氏は更に、パリ協定がもっぱら他国の利益になるとし、再交渉して目指す
    新たな合意の条件として『産業、労働者、国民、納税者にとって公平であること』
    と述べた。

    協定に基づき、オバマ前政権が掲げた温室効果ガスの削減目標『2020年に05年比で
    26~28%減」も取り消す。 途上国の温暖化対策として約束した国連の『緑の気候
    基金(グリーン・クライメート・ファンド)』への拠出金も即座に停止する。
    ただし、協定の親条約である国連気候変動枠組み条約には留まるとしており、
    パリ協定の枠外から温暖化対策の国際交渉に今後も関与していく意向と見られる。

    米国の同協定からの離脱により、化石燃料産業に大きく影響されているトランプ
    政権は、国連の気候対策に対する影響力を低下させることになる。

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    米国の離脱から生じる懸念の一つには、他の汚染源国が、米国の後に続くのを助長
    することだ。 今のところ、世界のその他の温暖化ガス排出大国──中国(1位)、
    欧州連合(EU、2位)、インド(4位)は、いずれもパリ協定への支持を改めて
    表明している。

    協定の規定では、正式な離脱は発効3年後の2019年11月4日から可能で、手続きに
    更に1年掛かる。 このため、米国の離脱は次期大統領選後の2020年11月以降と
    なる。 その間、米国は形式上は協定に留まることになるが、2020年からの協定
    実施に向けた詳細なルール作りなど今後の国連の交渉では、米国の発言力が失わ
    れるのは必至だ。 パリ協定の順守を表明している中国や欧州連合(EU)の
    指導的な立場がより強まると見られる。

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    ドナルド・トランプ米大統領は2017年5月30日、アンゲラ・メルケル独首相が
    米国を批判したことを受け、ドイツの貿易戦略や防衛費について新たな批判を
    展開し、欧米間の外交上の溝が更に深まる動きとなった。

    先週、大統領就任後、初の公式外遊に臨んだトランプ大統領は、ベルギー・
    ブリュッセルと伊シチリア島でそれぞれ開催された北大西洋条約機構(NATO)と
    先進7か国(G7)の首脳会議において、各国から非難を浴びせられ、挙句の
    果てには、モンテネグロの首相を押し退けて、写真撮影の最前列に出るという
    暴挙により、世界中から非難をされて欧州を去っていた。



    今回の会談で、特に欧州各国首脳が失望している点は、トランプ大統領が2015年に
    締結された温暖化対策の国際的な枠組みである『パリ協定(Paris Agreement)』に
    対する支持への意向表明を拒んだこと、またNATOの集団自衛権の支持を公に表明
    しなかったところで、特に、ドイツのメルケル首相は、会談中にも非常に強い不満を
    感じていたようだ。

    つい最近まで欧州諸国の中では米国と最も密接な関係にあったドイツだが、両国の
    溝の修復は難しく、メルケル首相は、会議後直ちにドイツ国民に対し、『米国はもう
    以前のように頼りに出来ない』とトランプ氏をバッサリと切り捨てていた。



    これを受けてトランプ大統領は、5月30日早朝、自身のTwitte投稿を用いてドイツに
    対し、大西洋間貿易の条件の再交渉や、防衛費引き上げを要求。 『米国はドイツに
    対して巨額の貿易赤字がある。 その上、ドイツはNATOや軍事への拠出が少な
    過ぎる。 米国にとってとても悪いこと。 これから変わっていくことになる』
    と自ら書き込んだ。

    これに対してドイツ当局は、欧州連合(EU)加盟国という立場から、貿易に関して
    米国と二者協議は出来ないこと、また軍事費を大幅に増加させることも時期尚早
    であると主張した。

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    アメリカの刑務所では、番組を流し続けることによって、刑務所内の囚人を
    おとなしくさせている。 テレビをずっと見続けると、前頭葉という自発的に
    考える脳の部位が退化して家畜のようになる。
     
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    日本では、小泉政権が構造改革を開始して以降、長時間のバラエティー番組や
    お笑い番組ばかりが編成されているが、これは、視聴者である国民の思考力を
    奪い、資本家にとって、都合の良い法律を作るための手段だと指摘されている。
    このように国策として国民の白痴化を進めることを『衆愚主義』、または、
    『愚民政策』と言う。

    特に、日本の大学の教育水準は、世界最低水準のアメリカと同等レベル程度
    しかなく、ウソと現実の区別が付かない人間が非常に多い。 ヨーロッパの
    大学生の話している内容は、日本人やアメリカ人学生のようにバカ丸出しではなく、
    政治的な事柄や、世界情勢まで、基本的には学問以外の話はしない。
     
    現状、中央メディアは、完全にアメリカに毒されており、日本の自称インテリ達は、
    アメリカ寄りの記事して書いていない。 その理由は、英語以外理解出来ないため。
    世界で最も簡単な言語は英語だが、ヨーロッパの情報は、ほぼ日本には入らず、
    全てアメリカからの垂れ流しニュースばかりとなっている。
     

     
    基本的にメディアは、視聴率が大切なので、事実なのかどうかよりも、国民が望む
    ものを放送するのだが、その最たるものが、お笑いやおバカタレントの横行。
    そもそも、標準語ですらまともに喋れない人達の言っている内容は、全く中身が
    なく、見た目やその場だけが盛り上がれば良いという、日本人の根本的な稚拙な
    精神構造をさらけ出している。
     
    特に、日本のロシアに対する偏見は、相当酷いものがあり、何もかも100%アメリカ
    寄りの報道以外は流さない日本の報道には疑問しか感じない。 元々、ロシアに
    対する何の基礎知識すらないのに、相当適当な事を平気で電波でも流しているため、
    テレビも新聞も読む価値すらない。 間違いだらけで、アナログなテレビは一切
    見ないが、特に不要なのが、NHKに代表される地上波放送。
     
    ウソを見抜くためには、正しい知識を持つしかないのだが、多角的なものの見方が
    出来ない人間は、簡単なウソでもすぐに騙される。 そもそも、事実とはひとつ
    だけではない。

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    アメリカ一辺倒の報道を正す意味でも、ドイツ語、フランス語、ロシア語、
    スペイン語、中国語も小学生から習えるようにすべき。 ロシアでは、小学校4年生
    から、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、日本語、中国語の中から選択制で
    外国語を学ぶことが出来る。 また、海外の大学では、専門を2つ持つのが普通
    だが、日本の大学では、専門を1つしか持たないのに、それすらまともには
    出来ない。

    知らないまではまだ許せるのだが、知ろうともしないのは絶対に許せない。
    知らないのであれば、学ぶべきで、学ぶ気すらないのであれば、何も言うべき
    ではない。

    【お勧めの一枚】


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    硫黄島は、太平洋上の小笠原諸島に浮かぶ島で、東京から南方におよそ1,200 kmに
    位置する太平洋戦争(大東亜戦争)における最大の激戦地。

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    かつては1,000人以上の島民が暮らしており、10以上の集落があり、硫黄の
    採掘の他、漁業、綿の栽培、サトウキビ栽培、コカやデリス、レモングラス等の
    栽培で発展した。

    島内には、学校はもちろん、村役場や派出所、診療所、測候所それに郵便局もあり、
    1907年(明治40年)には、それまで(明治28年~明治40年)内地からの定期船は年1回
    だったものが年6回入港するようになり、4~5日間停泊するその船が島にやって
    来ると人々は皆、海岸に集まり、その様子はお祭りのようだったとも言われている。

    戦後、米国より施政権返還後は、海上自衛隊管理の硫黄島航空基地が設置され、
    島内全域がその基地の敷地とされているため、原則として基地に勤務する自衛隊員
    以外は島に立ち入ることが禁止されている。

     

    【硫黄島の戦略的価値】

    アメリカは、1944年にサイパン島を占領し、2,400キロ離れたその島からB29
    爆撃機を飛ばして、日本の都市への爆撃をするようになる。 しかし、爆撃を
    している最中に日本軍の攻撃を受けることも少なくなく、傷ついた機体で再び
    2,400キロ飛行して基地に戻ることが難しいことも多かった。 結果として
    数多くの機体が海に墜落し、搭乗員ごと失われた。
     
    また、サイパンから往復5,000キロ近くもの距離を飛べる戦闘機も当時は存在せず、
    爆撃機を守るために、戦闘機を同伴させることは出来なかった。 そのため、
    爆撃機は、攻撃を受けて損害をなるべく出さないために高高度からの爆撃をする
    ことが多く、正確な爆撃は難しかった。

    また、高高度を飛行するとB29のエンジンでは燃料消費が激しくなるため、大量の
    燃料を積み込む必要があった。 機体の積載量の問題から大量の燃料を積み込むと、
    搭載する爆弾の量を減らさざるを得ない状況を招き、攻撃能力の低下を招いた。
    そのような事情から、より日本本土に近い位置に飛行場を確保し、爆撃の効率を
    上げたかった。 そうして選ばれたのが硫黄島だった。 

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    1944年6月、大本営からある一人の将軍が派遣されて来た。 その将軍の名は、
    栗林忠道(くりばやし ただみち)陸軍中将。 アメリカとカナダに駐在経験が
    あり、アメリカ人の気質を知り尽くしていた数少ない陸軍将校の一人であった。

    この硫黄島を死守するために島に着任した帝国陸軍小笠原兵団長の栗林忠道中将は、
    地下陣地に立て籠もって地上のアメリカ軍を迎え撃つ作戦を立て、真夏の酷暑の
    時期より全将兵あげての地下要塞づくりが始まった。 交代時間で間断なく24時間の
    突貫工事が進められ、島の中央元山台地を主陣地、南端の摺鉢山を副陣地とする
    全長18キロに及ぶ地下壕を建設して待ち受けた。

    この要塞は地下15~20mの深さに造り、敵の海空からの砲爆撃に耐えうるものとし、
    主要な坑道は高さ1m70、最大幅1m20程だった。 小さな日本兵が、やっと一人
    通れるほどである。 また、主要路には、30mごとに地上への出入り口が造られた。

     

    まともな飲料水もない太平洋の孤島に急遽送りこまれた22,000人の兵士は、余り
    経験のない年配者と少年兵だった。 1945年2月から約1か月に及んだ硫黄島の
    戦いは、旧日本兵約2万1,000人、米兵約7,000人が死亡したとされ、太平洋戦争に
    おいて、その後の戦況を決定付けた戦闘となっている。

    1945年(昭和20年)2月19日午前9時、アメリカ軍は海兵三個師団6万1,000、
    艦船800隻の大兵力を繰り出して大挙硫黄島へ押し寄せた。 当初、大本営は
    硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。 それが、
    まさに米軍上陸近しという時期になって、一転『価値なし』と切り捨てられた
    のである。

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    戦後、硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が
    未だ残されているが、本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの
    遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである。

    【お勧めの一枚】


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