東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:アドリア海

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    ドゥブロヴニクの様な城壁に囲まれた旧市街地は、ヨーロッパでは、さほど
    珍しい物ではないものの、15年程前までのクロアチアは、非常にマニアックな
    場所であり、「旅の通」以外は誰も行かなかったのだが、今では、誰でも気軽に
    行けるようになったため、観光客が激増しました。

    アドリア海に面したドゥブロヴニクは、観光業がメインであるため、様々な
    お土産がありますが、物価が非常に高いため、長居は禁物。 有名観光地だけ
    あって、英語が完全に通るものの、東欧旅行の醍醐味は、英語が全く通じない
    というところなので、何か物足りなさも感じつつ、非常に西欧化されているため、
    東欧という「暗い」雰囲気は全くありませんでした。

    ドゥブロヴニクの前に訪れたモスタルも満員電車並みの観光客でごった返して
    いたが、イスラム圏からの観光客が多いモスタルとは、客層が全く異なり、
    ドゥブロヴニクは西欧からの観光客ばかりで、たまに日本人もチラホラおりました。

    【ロープウェー】
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    ドゥブロヴニクの旧市街は、地上を歩くというよりも、ロープウェーに乗って
    上空から見下ろすか、または、城壁を一周しながら旧市街を見るのが一般的。
    このロープウェーの料金が結構高かったため、片道だけ乗ろうかと迷ったのものの、
    余り時間がなかったため、この際奮発して、ロープウェー往復と城壁めぐりを
    しました。 時間があれば、片道は歩いたと思います。 尚、このローウェーの
    チケットは、手前側にあるチケット売り場ではクレジットカードが使えないため、
    ロープウェー乗り場脇にある方のチケット売り場の方が便利。

    ロープウェーに乗ると、山頂まで一直線で行けますが、40分程度で山頂まで
    登れるため、一部の人達は徒歩で登山をいていました。 山頂からの景色は、
    赤レンガの街並みが美しいものの、山頂からの旧市街は見た目的にも若干
    遠いため、城壁めぐりの方が、街並みの散策には向いていると思いますが、
    ハイシーズンとは言え、城壁に登るだけで、2,500円は少々高過ぎると思います。。

    【城壁めぐり】
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    カトリック教会が、山頂に巨大な十字架を建てているのは、旧ユーゴ内はどこでも
    同じで、他の宗派と区別するためだと思いますが、イスラム教がコーランを流して
    いるのに対抗してこうなったものと思われます。

    山頂へのロープウェーに引き続き、清水の舞台から飛び降りた気持ちで2,500円を
    現金で支払い、城壁1周にチャレンジ。 この城壁は、ほぼ休みなしで歩いても
    約1時間半程度は掛かります。 その途中に、ビール屋やカフェ等がありましたが、
    チケットの抜き打ち検査もあるため、チケットをなくすと、そこで下に
    降ろされます。


    城壁めぐりは、アップダウンが結構きついのと、所々、階段で上に登れるように
    なっているため、合計すると、かなりの運動量となります。 新市街から旧市街
    までは、歩いて30分程度掛かるため、総合すると、かなりの距離を歩いたことに
    なります。 城壁を一周したところで、ちょうど太陽がとっぷりと沈みました。

    【夜の旧市街】
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    このまま新市街にある宿まで歩き、翌日は朝の7時過ぎのティラナ行きの直通バスに
    乗ったつもりが、途中にあるモンテネグロの古都、コトルでの乗り換えでした。
    乗り換え時間を全く言わないのと、途中にトレイが一切ないため、12時間半も1度も
    トイレには行けませんでした。

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    旧ユーゴスラビア連邦の中でも断トツの経済力を誇っていたクロアチアは、
    現在ではEU加盟国であり、旧ユーゴの中心国家であったセルビアとは、
    全く違う道を歩んでいます。 今回は、クロアチア最南端にある
    「アドリア海の真珠」の異名を持つ美しい街、ドゥブロヴニクを訪れました。 

    元々、旧ユーゴ連邦崩壊の原因は、南北の経済的な格差であったため、
    クロアチアにとっては、無駄な支援国であったマケドニアやモンテネグロを
    ぶった切った結果、非常に経済成長を遂げていました。 観光地である
    ドゥブロヴニクは、物価が非常に高く、東京の2~3倍強の物価であるため、
    丸1日程度しか滞在しなかったのにも関わらず、1万円超もの出費を
    強いられました。 以前の東欧旅行は、物価が安いことが最大の魅力だった
    のに、日本が落ちぶれ果てたのか、今では、それすらなくなりました。

    【新市街】
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    ここまでの旧ユーゴの旅では、東方正教会とイスラムの世界を抜け、今度は
    完全なるカトリックの世界へと入りました。 特に、ドゥブロヴニクの場合は、
    東欧随一の有名観光地であるため、至る所、観光客だらけで、非常に開放的な
    雰囲気の街並みからは、大規模な内戦がこの場所でもあったとは到底思えない
    程の目覚しい復興を遂げていました。 手前の建物を大きくして奥を小さく造る
    建築様式は、敵の目を欺くためのもので、この街が元々は要塞であることを
    まざまざと見せつけられました。 旧市街は、内戦時にかなりの部分が破壊
    されましたが、その後、復旧されました。 今では、押しも押されぬ、東欧を
    代表する一大観光スポットになっています。 アドリア海に面しているため、
    イタリアからの観光客が多いものの、その他、全世界から、この街へと観光客が
    押し寄せて来るため、東欧にしては、英語が非常に通じます。

    【旧市街】
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    ドゥブロヴニクでの滞在時間は1日のみで、実質の滞在時間は、18時間でした。
    小さな街と言えども、歩くとかなりの距離があるため、この日はちょっと
    贅沢をして、クルーザーで沖まで出て、外洋から旧市街を見ることにしました。
    1周約1時間でロクロム島の周囲をぐるりと周り、元の港へと戻るコースを
    選びました。 グラスボートのため、海中を見ることが出来ましたが、
    そのような場所には目もくれず、デッキ部分で足を海に投げ出して、存分に海を
    肌で感じながらのクルージングとなりました。 時折、魚の居るポイントを
    通るため、そこを通る時だけ、スピードを落として、ガラス越しに海底見る
    という趣向のクルージングでした。 同じ旧市街でも、海上から見る景色は格別で、
    ドゥブロヴニクを訪れた際には、絶対に船に乗った方が良いです。

    ロクロム島の反対側には、実は、ヌーディストビーチがるため、船からは、
    あられもないお姿が丸見えでしたが、ヨーロッパの主なポイントには、
    ヌーディストビーチがゴロゴロあるため、目のやり場に困りますw 海上には、
    カヌーをこぐ人や、泳いでいる人達も沢山居ましたが、9月で若干水が冷た
    かったものの、ヨーロッパでもかなり南に位置している場所であるため、
    まだまだ泳げる水温でした。

    【クルージング】
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    旧市街からは、色々なパータンの遊覧船が出ているため、事前に調べてから
    行った方が、より満足できる船旅になると思いますが、時間がなかったため、
    直近で出る船に乗りましたが、それでも、大満足のクルージングの旅でした♪

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    バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
    長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
    つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
    いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
    古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。

    アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
    3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
    イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
    ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。

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    これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
    政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
    高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
    力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
    沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。

    15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
    オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
    アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
    ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
    武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。

    アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
    ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
    残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
    バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。

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    第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
    社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
    建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
    ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。

    アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
    政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
    目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
    最も貧しい国になった。

    1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
    民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
    投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
    でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
    入れている。

    しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
    隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
    はらんでいる。

    政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
    繁栄を導くための長い戦いに直面している。

    【お勧めの一冊】


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    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

    41971

    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

    【お勧めの一冊】


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