多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

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    タグ:アジア

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    考古学者たちは、大昔の人々の野営の跡や石器類をルソン島のカガヤン渓谷で
    発見した。 これらの品々は25万年前に遡り、当時この地域は、まだアジアと
    陸続きだった。

    アジア大陸の色々な方面から、様々な民族が陸路、フィリピンにやって来た。
    約25万年前には、弓矢を使う狩猟民族のアエタと呼ばれる人々がやって来た。
    これら新しい人々は、狩猟の他に、食料を確保するために植物を植え、耕作も
    行った。 およそ1万2000年前、地球の広大な地域の表面を覆っていた氷が
    溶け出した。

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    溶け出した大量の水により、フィリピンと他のアジアを繋げていた陸路は水没し、
    この時からフィリピンは島々になった。

    1500年から紀元前500年の間に掛けて、マレー人や現在の中国人、ベトナムから
    人々が太平洋をカヌーでやって来た。 彼らは沿岸に住み着き、先住民たちは、
    島の内陸部へと移動した。 新しい人々は洗練された石の武器や道具を用い、
    村に集団で住んだ。

    マレーからの新しい移住者たちは、労働用にカラバオ(水牛)を取り入れた。
    マレー人とその子孫たちは、ルソン島北部の山々を切り開いて段々畑を作り上げ、
    米作を行った、 こうして何世紀にも渡って、沢山のマレー人がフィリピン諸島に
    やって来た。

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    今から数千年前、現在のカナダにはじめて定住した人々は、アジアから陸続きの
    部分を通って北アメリカにやって来た。 後にインディアンと呼ばれるように
    なったこのアジア人たちは、まず北アメリカの北西部にたどり着いた。 野生の
    食物を集めたり狩りと漁をしたりしながら、次第に東へ移住して行った。

    その後何百年も経って、北東アジアの人々がインディアンと同じルートをたどって
    渡って来た。 新しい新住民たちは、自分たちをイヌイット(人々という意味)と
    呼んでいたが、インディアンからはエスキモー(生肉を食べる人々)と名付けられた。
    イヌイットは、北アメリカに到着すると、北極地域に留まった。 この2つの
    先住民は、数百年もの間、狩猟と採集の生活をしていたのである。

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    【初期の探検】
     西暦985年頃、ノルウェー人の探検家エリック・トルパルセン(赤毛のエリック)が
    アイスランドから海を渡って、グリーンランドの東海岸に到着した。 その地には、
    既にイヌイットの集落があった。 彼はそこに2つの居住地をつくった。 1002年頃
    には、エリックの息子のレイフ・エリクソンがグリーンランドから西に向かって
    出帆し、バッフィン島と現在のニューファウンドランド沿岸に到着したらしい。
    ヨーロッパ人が北アメリカに上陸したのは、これが最初だと歴史家は考えている。

    やがて父親が死ぬと、エリクソンはグリーンランドに戻り、父親がつくった居住地の
    経営に当たった。 14世紀になると、ノルウェー人の居住地は、資金不足と厳しい
    天候の変化のために衰えた。 その後、数十年に渡って、ヨーロッパとカナダの
    連絡は途絶えた。

    15世紀の末になると、ヨーロッパ人は再び新大陸の探検に関心を持つようになった。
    当時のカナダでは、インディアン独自の数々の文化が栄えていた。 最も大きな
    集団を形作っていたのは、ハドソン湾と西部山岳地帯の間に住んでいた
    アタバスカン族である。 アルゴンキン族は、大西洋岸からロッキー山脈に掛けての
    北部森林地帯や平原地帯に住んでいた。 現在のオンタリオ州南部は、イロコイ族と
    ヒューロン族の居住地だった。 そして、イヌイットは相変わらず北極に近い地域に
    孤立していた。

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    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、
    ポルトガルの通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、
    アルブケルケは、マレー半島の主要貿易港、マラッカも占領してしまった。
    貿易協定によって、アジアの品物はポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ
    各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、
    アフリカからの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培を
    はじめたポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国には
    ワイン、オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は
    海外の植民地から吸い上げていたのである。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと
    遠く航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化も
    なく、国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模
    ながら、家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、
    コルクを作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との
    輸出入貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思って
    いる人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ
    不安が残っている。

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    米カリフォルニア州議会は、2016年3月28日、最低賃金を時給15ドル
    (1,680円)に引き上げることについて合意に達した。 現在カリフォルニア州の
    時給は10ドルだが、これを段階的に15ドルまで引き上げる。 計画では、
    2017年に10.5ドル(約1180円)、2018年に11ドル(約1240円)、以降は毎年
    1ドルずつ引き上げ、2022年には15ドルにする。 従業員が25人以下の
    中小企業は、15ドルへの引き上げ期限が2023年までと、1年間猶予される。

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    米国の最低賃金には連邦制度と州制度があり、労働者に有利な方が適用される。
    連邦制度における最低賃金は現在7.25ドル(約812円)だが、大都市において
    この賃金で労働者を雇うことは現実的に難しい。 全米各地の大都市では、最低
    賃金を15ドルにする動きが進んでおり、カリフォルニア州の決定もこれに沿った
    形となっている。

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    さらに極端なケースでは、スイスのように最低賃金を22スイスフラン
    (約2500円)にするという国民投票を行った国もある。 結果は否決だったが、
    現実問題として、これに近い水準の賃金がないと生活できないくらいスイスの
    物価は高い。

    いつの間にか、世界の中でも、時給の安い国に成り果てている日本だが、2016年
    現在の日本の最低賃金は、最高が東京都の932円、最低が沖縄県と宮崎県の
    714円となっており、年々東京と地方との格差が開いているが、全国平均で見ると、
    時給823円となっている。

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    このように、日本の人件費は、世界的に見ても安いため、むしろ、海外に出た方が
    まともな賃金を貰える。 東京の場合は、今でも賃金が下落し続けているため、
    既にギリギリの生活しか出来ない。 最近は、60歳を超えた『新人』を見掛ける
    ようになったが、安い労働力は、女性、高齢者、外国人で補っているため、
    外国人は、間違っても日本で働こうなどと考えてはならない。 海外に行くと、
    Samsung やLGばかりの販売が目立っており、実質的に日本は、既に韓国に
    抜かれていると言える。

    日本が根本的に間違っていると感じる点としては、長年同じメンバーで働いている
    ため、職場のマンネリ化が進み、周囲からは異様としか見えない事でも、それが
    当たり前になってしまっており、後から入って来る新人にもそれを当然のように
    強要するため、まともな人間は、早々に辞めてしまい、ろくでもない人間しか
    職場に残らないという特徴がある。

    日本の職場では、仲良しごっこ以外、特に何も重要視されないため、異質な人材が
    入ると、即排除されることとなる。 よって、日本社会は、この先も何も変わら
    ない。 日本は、現状維持ばかりを掲げて、何の変化もなくなり、現状維持すら
    既に出来なくなった。

    現状、アジアでも優秀な人材は、英語の通じる香港やシンガポールへと流れており、
    日本は、逆に、日本語に拘っており、アジアからの優秀な人材の確保すら難しく
    なった。 良質な人材を海外から招き入れるという意味でも、法外な時給で外国人を
    こき使っているブラック企業の一掃と、英語教育の充実に期待するしかない。

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    敗戦から70年を迎え、同じ敗戦国でありながら、日本とドイツは、戦後の国のあり方が、
    大きく別れた。 ドイツは、ナチス時代の誤ちを全面的に認め、ポーランドをはじめとする
    周辺国への謝罪を今なお続けており、EU内での信頼度も抜群に高い。 一方、日本は、
    今なお韓国や中国との政治的な問題を抱えており、アジアの中での発言力は、今では
    中国には遠く及ばない。

    この2つの国の違いは、国民性にもハッキリと現れており、『ただ何となく』を心情に、
    何もかも有耶無耶にして来た日本人と、その『何となく』を許さずに、全て結果に結び
    付けてきた両国民の国民性の隔たりは大きい。 この国民性の違いは、ひとえに、
    教育の差であり、小学生の頃から活発に議論を交わして、話し合いによって結論を
    導き出して来たドイツ人と、議論を極力避けて、『鶴の一声』で何もかも決められて来た
    日本人とでは、思考回路がまるで異なる。

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    幼少期の頃から、自分の考えを持つように教育をされ、自分の考えを他人に分かり
    やすく伝える能力を日々培われて来たドイツ人と、自分の考えを持つ事すら許されず、
    ましてや、それを人様の前で発表する事は、ほぼ非国民に等しい扱いをされる日本人。
    この差は、ひとえに、『結論』を重視しているのか、それとも『和』を重視しているかに
    よるものだが、間違いを素直に認めて、ひたすら先へと進む国と、何もかも有耶無耶に
    して周辺国との対立を今なお続けている国との差はますます開くばかり。

    >>敗戦から70年 日本とドイツの異なる戦後

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