多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:アイルランド

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    モハーの断崖へはツアー参加がお勧め
    ダブリンからバスで3時間半程離れたアイルランド島の反対側にある
    ゴールウェー、更には、その先にある風光明媚な景勝地、モハーの断崖までの
    ツアーに参加しました。 当初は、自力でモハーの断崖まで行こうかと考えて
    いたものの、調べたところ、バスの本数が全体的に少なく、ツアーの方が効率
    良く回れるため、ツアーでこの地を訪れることにしましたが、西アイルランドの
    主な見所を概ね見て回れたため、非常に大満足の旅でした。

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    ゴールウェイ
    西アイルランド中心都市ゴールウェイの中心部は、まだまだクリスマスの
    飾り付けが残っていました。 軽いツアーガイドによる街の案内に続き、1時間の
    フリータイムとなります。 ゴールウェイ市自体は、人口7万人弱の小さな街で
    あるため、歩いて回ってちょうどの大きさの街でした。

    【ゴールウェイ中心部】
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    聖ニコラス・アングリカン教会は、アイルランドに現存する中世の最大の教会で、
    西アイルランドにおけるカトリック教会の中心的な存在。 ヨーロッパは、基本的に
    街中に必ず教会があり、そこから中心部が形成されているため、生活と宗教が密接に
    つながっていることが良く分かります。 質素なプロテスタントの教会とは異なり、
    カトリックの教会は、豪華絢爛な装飾があるため、一目で見分けることができます。

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    ゴールウェイからモハーの断崖へと移動中に、車窓から古城が幾つか見えました。
    アイルランドでは、主に英語を使用していますが、この付近では、伝統的に今でも
    ゲール語が話されているそうです。 尚、アイルランドの海岸沿いには、断崖絶壁が
    複数ありますが、それらの場所では、あの「スターウォーズ」の撮影が頻繁に
    行われていたそうです。

    モハーの断崖
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    ゴールウェイから更に45分程度南下した西アイルランド屈指の景勝地、
    モハーの断崖。 断崖沿いに柵がありますが、半分以上の人達が、柵の外側を
    歩いていたため、真似して外側を歩いて見ましたが、日本だったら、間違いなく
    自殺の名所になると思いましたw 日本では、この様な場所は、日本海側に多く
    ありますが、太平洋側には余りないと思います。

    【モハーの断崖】
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    モハーの断崖からダブリンに戻る途中で、アイリッシュパブのお店に立ち寄り、
    1時間ほどの小休止時間となりました。 アイルランドでは、「シードル」の事を
    何故か「サイダー」と言います。

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    大晦日のダブリンは、幾分せわしない雰囲気でしたが、街を彩るイルミネーションが
    綺麗なものの、その後の年越しの際には、花火が多少上がった程度で、物足りない
    感じがしました。

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    ダブリン空港から市中心部までの交通
    ダブリン空港は、市内中心部から約10km北に位置しているため、まずは、
    空港から市内へと移動しなければなりません。 アイルランドでは、
    「バス」のことを何故か「コーチ」と言うため、空港シャトルバスのことを
    エア・コーチ」と言います。

    料金は、空港から市中心部のオコンネル通りまでが片道で€6、往復で€11.50と
    なります。 このバスは24時間運行であるため、遅い時間にダブリンに到着しても、
    700番の「エア・コーチ」を利用することが出来ます。 チケットは到着ロビーの
    ショップや券売機もしくは乗車時にスタッフから購入することが出来ます。

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    ダブリンの住民は、基本的に、英語だけで話しているものの、道路標識等には、
    ゲール語での併記が必ずあります。 但し、それらしき言葉は聞こえて
    来なかったため、ウクライナやベラルーシ等と言語事情が似ているのだと
    理解出来ました。 余り普及していない言語を併記しても、さほど意味は
    ないと思いますが、特に、言語のネイティブ化には、数十年以上もの歳月が
    掛かるため、どちらか1方のみの表記でも良いと思います。

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    やはり、ゲール語は、ゲルマン語ではなく、ケルト語であるため、歴史的に見ても、
    それなりの誇りがあるのだと思います。 基本的にアイルランドの英語は、
    イギリス英語と同じではあるものの、時折、アイルランド独特の訛りも感じられ
    ました。

    【ダブリン空港→オコンネル通り付近】
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    翌日の早朝より、ダブリン観光を開始しました。 アイルランド国鉄は、
    日本国内からでも予約をすることが出来るものの、発券は窓口ではなく、
    発券機からのみ行うことが出来ます。 とりあえず、コノリー駅で日本から
    予約をしてある列車のチケットを発券し、そのまま観光へと繰り出しましたが、
    その後、その電車には乗り遅れましたw

    ダブリンの主な見所
    聖パトリック教会 Saint Patrick's Cathedral
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    聖パトリック教会は、元々は1191年に建設された伝統ある教会で、
    アイルランドで最も大きな教会となっている。 アイルランド最初の大学も
    この教会にあり、ガリバー旅行記の作者、スウィフトが18世紀に司祭をしていた
    ことでも知られており、当時使った説教壇が今でも残っている。 建設当初は
    ローマ・カトリックの教会として建設されたが、現在はアイルランド国教会の
    大聖堂となっており、ゴシック様式の尖塔が目印となっている。

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    教会の内に入場するためには、8ユーロ(約1,000円)の入場料が必要となる
    ものの、入場時に手渡されるレシートさえ持っていれば、別の日にも入場が可能と
    なっているため、このレシートは、紛失しないように大切に保管した方がお得。

    聖パトリック教会
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    アイルランド最古のトリニティ・カレッジ (ダブリン大学) Trinity College Dublin
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    正式名称は、「ダブリンにおけるエリザベス女王の神聖にして分割されざる三位
    一体大学」で、オックスフォード大学やケンブリッジ大学と並んで、英語圏最古の
    7大学の一つとなっている。 キャンパス内には、エジプト時代のパピルスを
    はじめ、1200年前につくられた「ケルズの書」があり、世界で最も美しい本と
    呼ばれています。

    ダブリン大学
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    早朝にコノリー駅でベルファスト行きのチケットを発券したものの、残念ながら、
    聖パトリック大聖堂を見た後に、道に迷ってしまったため、予約済みの電車には
    乗れず、早速、窓口で予約変更の旨を係員に伝えたところ、予定変更はオンライン
    のみからしか出来ないことが判明しました。

    コノリー駅
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    面倒なので、窓口の係員にスマホを手渡して、予約のキャンセルをお願いした
    ところ、係員も何度かキャンセルの操作をしてみたものの、どうやら無理だと
    悟ったらしく、「車内に居る車掌に直接予約の変更を申し出て下さい」と
    言われたため、そのままこの電車に乗り込みましたが、全席指定席の筈が、
    車内では特に何も言われなかったため、そのままベルファストまで何の問題も
    なく乗車出来ました。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に
    司法、警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、
    1998年に結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに
    渡るプロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々が
    テロの犠牲になった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教
    という『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪
    だと思わせる効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。
    そもそも、イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀に
    ローマ法王がイギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに
    始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住む
    カトリック系住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の
    武装蜂起が頻発したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、
    人口の60%に当たる500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して
    行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、
    プロテスタント系の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。
    1949年、アイルランド共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のまま
    だった。 危機感を抱いたのは北部に残された少数派のカトリック系住民だった。
    彼らは、イギリス自治権を要求したが、これを押し潰そうとする多数派の
    プロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めた
    ことに反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という
    武力組織を結成、イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団
    だとするイギリスと、イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの
    間で、一切の妥協はなく、犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなった
    とは言え、北アイルランドは紛争では、被害者が出なかった家族はないと言われる
    程癒しがたい傷を残した。

    住民達は今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ
    亀裂も深く、本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

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    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

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    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

    【お勧めの一冊】


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    410年にローマ人がイギリスから撤退すると、イングランドとウェールズは、
    地方の支配者が統治する幾つもの小さな王国に分裂した。 ピクトランドと
    アイルランドは、一度もローマに征服されることはなかった。 ピクトランド
    には、ピクト人が住んでおり、アイルランドには、スコットランド人が住んで
    いた。 スコットランド人は、ピクトランドを侵略し、自分達の民族の名前を
    とって、スコットランドという名前を付けた。

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    6世紀には、アングル人、サクソン人、ジュート人、と呼ばれるゲルマン人が
    大挙して北ヨーロッパからイギリスへやって来るようになった。 彼らは、
    その後の100年の間に、イングランドのほとんどの地域とスコットランドの
    低地に定住した。 アングル人は、その名を取って、イングランドとし、この時
    から、イングランドに住む人々は、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
    元々、イングランドに住んでいたケルト人は、西方のコーンウォールと
    ウェールズへ追いやられた。 6世紀から7世紀には、ヨーロッパから
    宣教師がやって来て、アングロ・サクソン人をキリスト教徒にした。

    アイルランドには、既に432年、聖パトリックがキリスト教をもたらしていた。
    その後の500年代に、聖コルンバがスコットランドとイングランド北部に
    キリスト教を広めた。 一方、イングランド南部には、カトリックの総本山の
    ローマからの聖アウグスティヌスが派遣され、人々をキリスト教に改宗させた。

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    900年代には、バイキングがイギリスの海岸を襲った。 1016年以降は、
    カヌートというデンマークのバイキングがイングランドを治めた。 伝説に
    よると、カヌート王の家来は、王には神のような力があると信じていた。
    そのような力は、持っていないことを示すため、カヌート王は、陸へ打ち
    寄せる波に止まるように命じたという。 もちろん、波は止まらず、水位は
    上昇し続けた。 デンマークによる支配が終わって間もなく、イングランドは、
    別のバイキングに征服された。 1066年、北フランスのノルマン人が侵略した
    のである。

    ノルマンの王たちは、国中に城を築いて権力を示し続けた。 支配者である
    ノルマン人は、フランス語を話し、それが次第にアングロ・サクソン語と
    混じって行き、現在の英語の元となった。

    イングランドを支配下に置いたノルマンの王たちは、1171年にアイルランドを、
    1289年には、ウェールズを征服した。 しかし、かつての支配者だったローマ人
    同様、スコットランドには撃退された。

    【お勧めの一品】


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