東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
出典:河北新報

『仙台空港ターミナルビルに1,300人が孤立』。 2011年3月13日夕に発行された号外は、
宮城県や県警などの情報として、こう報じた。 国内8都市、海外7都市と結ぶ東北の
空の玄関口は、滑走路などが津波に襲われ水没。 周囲は無数の自動車やがれき、
小型飛行機が浮かぶ中で、空港ビルは『孤島』と化していた。

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◎仙台空港水没(岩沼市、名取市)
仙台空港の上空は、どんよりとした低い雲が垂れ込めていた。 3月11日午後2時40分、
中国国際航空924便が、乗客61人を乗せ、中国・大連に向けて離陸した。 激しい揺れが
襲ったのは、わずか6分後だ。 実は、地震の1分前、2時45分に大阪(伊丹)発の
日本航空2209便が着陸するはずだった。 天候不良で到着が遅れていた。

仙台空港であの日、発着を予定したのは国内線約80便、国際線8便に上る。 空港で
旅客機の駐機がゼロになるのは1日3、4回、それも、それぞれ数分から20分程度に
すぎない。 地震発生時、大阪便の遅れで、奇跡的に滑走路に旅客機はなかった。
空港関係者が『不幸中の幸い』と胸をなで下ろしたのは、だが、わずかな時間だけだった。

午後4時ごろ、車やがれきをのみ込みながら、巨大津波が襲来する。 宮城県岩沼市
下野郷の特別養護老人ホーム『赤井江マリンホーム』は、目と鼻の先に太平洋が広がる。
津波が来るとラジオが告げた。 事務長の鈴木信宏さん(53)は、避難先を約1キロ北の
仙台空港ターミナルビルに決めた。

職員は利用者96人を9台の車でピストン輸送した。 職員を含む144人全員が避難を
終えたのは、津波が襲来する直前、午後3時53分だった。 空港ビルは、宮城県名取市と
岩沼市の指定避難所だ。 地域の住民約250人が続々と集まった。 岩沼市議会議長の
沼田健一さん(61)=同市下野郷=も身を寄せた。



津波が滑走路を水の底に沈め、到着ロビーなどがある空港ビル1階にがれきや車などを
押し込んだ。 停電、断水、通信不能。 旅客や地域住民、航空会社やビル、関連施設の
職員ら1,600人が孤立した。 目の前の惨状に、沼田さんは『1週間は脱出できないと
覚悟した』。

1,600人は2階、3階に分かれ、土産品などを食べた。 空港に食料と水は十分にあった。
孤島のビルに最初にたどり着いたのは、富山県高岡市高岡消防署の特別救助隊員
だった。 夜通し車両を走らせ、12日早朝から救助に入った。 空港の約1キロ手前で
道路は冠水。 ボートで接近を試みたが、がれきに阻まれ船外機もオールも使えない。
隊員が交代で、胸まで水に漬かってボートを押した。 午前10時22分、ようやく空港ビルに
着いた。

救助隊長の小原政和さん(35)は、避難者たちの安堵の表情を見て、『全員を助け出さ
なければならないと強く思った』と振り返る。

『滑走路伝いに西側ゲートから陸路が使える』。 救助隊から連絡を受けた名取市消防
本部が、がれきを撤去し、午後4時ごろ、車1台分の通路を確保した。 地震発生から
25時間。 空港の孤立状態が解消された。

マリンホームの利用者と職員は12日夕方、空港職員らは13日にバスや徒歩で脱出を
開始した。 最後の住民約100人が空港を後に
したのは3月16日だった。

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