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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ウクライナ・ベラルーシ

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

    BorderPoland

    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

    Polski

    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    キエフ市内の至るところにシェフチェンコの名前があふれている。 キエフ大学が
    彼の名前を冠しているのをはじめ、彼の名前を付けた公園、広場、通り等がある。
    シェフチェンコ通りには、立派なシェフチェンコ博物館もある。 なぜそれほど
    愛されているのだろうか?

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    彼は、1814年にキエフからほど遠からぬ村で農奴の子として生まれた。 幼い時に
    孤児になるが、早くから詩をつくり絵を描く才能を現していた。 首都に出た時、
    彼の才能に感動した知識人たちが金を集め、主人から2,500ルーブルで農奴の身分を
    買取り、自由の身となった。 また、美術学校で学んでいるうちに、故郷
    ウクライナと民衆に対する深い想いを込めた詩集『コブザーリ』を発表した。

    キエフに戻ってから、専制君主的なロシアの帝政に対抗して、農奴制の廃止と
    全スラブ民族の平等を目指す政治的な秘密結社キリール・メフォージー団に
    加入した。 やがて秘密結社の存在が発覚し、シェフチェンコは中央アジアへ
    一兵として流されるという重い罰を課せられた。 新帝アレクサンドル2世の
    即位後の1857年に恩赦を受けるが、帝政と専制政治への憎しみ、ウクライナへの
    愛は1861年に没するまで変わらなかった。

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    上記の詩集の他、彼にはウクライナの歴史を題材とした数編の長編叙事詩や、
    リアリズムの手法に基づく力強い多くの絵画作品がある。 シェフチェンコの
    代表的な絵、それに彼の文学作品の初版本や外国語訳がこのシェフチェンコ博物館に
    展示されており、数点の日本語訳も並んでいる。

    シェフチェンコは文学作品をウクライナ語で書いた。 ウクライナ語の存在価値を
    認め、その地位を高めることが彼の信念であった。 しかし、現実はなかなかその
    方向に向かわなかった。 ロシアの識者の中にも、ウクライナ語をロシア語の方言と
    しか見ない者もいたし、ロシア政府は言語の面でもロシア化政策を強行した。
    1860年には内務省がウクライナ語による書籍の出版や劇の上演を禁止するという
    命令を出し、70年代にはそれが法律になった。



    ウクライナ語の意義を承認するか否かは、ウクライナ文化や政治的自主性への
    態度とも関連している。 ソビエト期を通じてこの問題について何回も動揺が
    あった末、1991年の独立によってウクライナ語はようやく国家の第一の公用語
    としての地位を確立した。

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    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

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    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

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    リトアニア大公国によるキエフは、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    キエフがロシア全土の首都だった頃、この街の人口がどれほどのものだったのか、
    歴史家によって、その見解は大きく異なるが、内輪に見積もって、3万人、4万人、
    ないし、5万人とする者が多く、中には、大きく10万人とする学者もいる。
    最盛期は11世紀から12世紀に掛けてだったと見られる。

    当時からキエフは丘の上の街と、ドニエプル川沿いにある麓の街の2つに画然と
    分かれていた。 上の街には、支配者である公とその従者達、それに、高僧や
    富裕な商人達が居を構え、下の街には、商人や職人達のように身分の低い人達が
    住んでいた。 12世紀のキエフの総人口を3万人とする推定では、上の街の人口が、
    2万5,000人であるのに対して、下の街の人口は、5,000人であったという。
    麓の街の方が、遅く開けたのである。

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    アジアのモンゴル族のヨーロッパへの進出は、1220年代から始まっていたが、
    1240年にバトゥ・ハンの率いる大軍が到着して、キエフを包囲した。 4週間と
    4日に及ぶ籠城の末、キエフはついに陥落した。 最後の砦となったのは、
    デシャチンナヤ教会で、そこには女や子供や老人達が立てこもっていたが、破石槌と
    呼ばれる武器で石の壁が破壊され、1人残らず殺戮された。 この時、上の街は
    もちろん、下の街も全滅した。

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    キエフの街の人口が、12世紀の水準に達するのは、19世紀になってからである。
    特に上の街の衰退は著しく、一旦、政治的な権威を失ったとなると、わざわざ
    居住性の悪い不便な丘の上に人々は住もうとしなくなったのである。 キエフの
    1900年の人口は、26万人、現在の人口が、約250万人である。 最近の1世紀で
    人口が10倍に増えたことになる。

    モンゴル・タタールの略奪と破壊によって、キエフは廃墟と化したが、アジア
    からやって来た新しい遊牧民に征服された都市の徹底した荒廃ぶりを描いて、
    ロシアの年代記は、こう書いている。 『子の子をなげく親もなく、親を慕う
    子も居なかった』。タタールの襲撃は、キエフで止まった訳ではない。 その
    翌年の1241年~42年には、ポーランド、ハンガリー、ダルマチアにまで進出した。
    本国の大ハンが亡くなったため、バトゥ・ハンは、一旦モンゴルに戻るが、その後、
    ボルガ川下流のサライ・バトゥを都として、自分が征服した国々を領域とする
    キプチャク・ハン国を創設した。

    13世紀後半には、キプチャク・ハン国に服従する公がこの辺りを支配したが、
    14世紀に入ると、バルト海に面した地を本拠地とし、ビリニュスに都を置く
    リトアニアが勢力を伸ばし始め、1360年代には、アルギルダス大公がキエフを
    併合し、余勢をかって、黒海に達するような大国家を築いた。 リトアニアによる
    キエフ支配は、約2世紀続いたが、この当時のキエフの人口は、3,000人~4,000人
    程度で、それほど大きなものではなかった。

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    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

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    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

    kievanrus
     
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    伝説によれば、キエフには今から1500年前に集落が作られていたという。
    ドニエプル川中流にあたるこの辺りに住んでいたのは、東スラブ人に属する
    ポリャーネ族であったが、北欧からやって来て支配者となったのは、バイキング
    だった。 9世紀には、バルト海と東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを
    結ぶ交易路があって、ドニエプル川を通じて黒海へ出るルートがその重要な
    一環をなしていたのである。

    古事記にあたる古い原初年代記には、こう書かれている。 『スラブ人の間で
    内輪もめと争いが起こったため、彼らは、バイキングの元へ使いを送ってこう
    言わせた。 我々の土地は広くて豊かであるが、秩序がない。 公としてやって
    来て我らを治めてもらいたい。』

    こうして招かれたのが、リューリックを頭目とするバイキングの一族だった。
    歴代の公の名前から判断して、彼らは、数世代のうちに急速にスラブ化したらしく、
    リューリクの公統は、モスクワのイワン雷帝の子供の代まで続くことになる。 

    968kiev

    はじめのうち、バイキングもポリャーネ族も多神教を信じて偶像を崇拝していた。
    キエフに君臨していたウラジーミル公が木製の6基の神像を丘の上に建てたという
    記述が原初年代記の980年の頁にある。 主神は、ペルーンと呼ばれる雷神で、
    頭部は銀で作られ、口ひげは金だったという。 その他に、太陽を象徴する神や風を
    司る神等がいた。

    そのウラジーミル公が東ローマ帝国からキリスト教を受け入れるのが988年のこと
    だった。 唯一の神を絶対者とあがめるキリスト教の考え方が、キエフの王座に
    あって全ロシアを統治する支配者にとって必要になったためと考えられている。
    ギリシャ人を通じて受容したから、いわゆる、東方教会に属するギリシャ正教の
    一派である。 ローマに本拠地を置くカトリック教会の信仰ではなかった。
    このことが、キエフがウクライナのみならず、全ロシアのその後の運命に深く
    関わってくる。

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    ウラジーミル公は、自分が洗礼を受ける条件として、東ローマ帝国の皇帝の妹
    アンナを后に求めた。 彼女は、泣く泣く帝都のコンスタンティノープルから
    離れたと原初年代記は伝えている。 彼女がキエフに携えたのは、キリスト教の
    信仰と僧侶達だけではなかった。 当時の世界の中で最も先進的な技術を備えた
    ビザンチン文明というシステムが若々しい信仰国家ロシアにもたらされたのである。

    アンナを出迎えたウラジーミル公がキエフに戻って来ると、ただちに異教の
    偶像を焼き捨て、ペルーンの像だけは馬の尾にゆわえて丘から引き摺り下ろし、
    ドニエプル川へ捨てさせた。 そして、キエフの全ての住民をドニエプル川に呼び
    集めて一斉に洗礼を受けるように命じた。

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    ドイツでは、シリアからの大量の難民に加えて、現在紛争中のウクライナ
    からも数千人規模での移民が流入しており、そのうち、政治難民として
    ドイツ政府が受け入れたのは、わずか5.3%足らずとなっており、ウクライナ
    からの難民に対して、国外退去が課される恐れが出てきた。
     
    ウクライナ東部のドンバス地域での紛争に関連して、ドイツへの政治難民
    申請を行なったウクライナ人の数は7,000人を超えている。 ドイツ連邦
    移民難民問題庁の代表者によれば、申請が却下された場合は国外退去が
    要請される。 ドイチェヴェレ紙によれば、政治難民申請が受理された例は、
    2014が2,703件、2015年は4,440件となっている。

    jpg

    尚、ロシア領内に逃れたウクライナ人難民は、約83万人に上るとされており、
    特にクリミア半島では、1万7,000人のウクライナ難民が滞在していると
    言われており、ロシア国内でもウクライナからの難民の受け入れに苦慮している。
    ロシア連邦非常事態省の情報によると、約300ヶ所の一時難民収容所が開設
    されているものの、90日間ロシアに自由に滞在出来るものの、その後は帰国
    するか、あるいは移民局を通じて必要な居留許可を得なければならないため、
    ウクライナからの難民達は、非常に厳しい状況が続いている


    ロシアの市民権を希望するウクライナ国民は、ユーロ・マイダン以降7倍も
    増加し、一時滞在許可を希望する人は4倍に増えた。

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    ウクライナのテレビ放送24によれば、ポロシェンコ大統領の支持率が急激に
    低下しており、ユーロ・マイダンの政変直後には、47%の支持率を誇ったが、
    現在は、30ポイントも低下し、17%の支持率となっている。 前大統領である、
    ヤヌコヴィチ氏が退陣へと追い込まれた政変時の20%の支持率よりも3%も
    低くなっている。

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    ユーロ・マイダンとは、2013年11月21日に始まった、キエフ中心部における
    大規模抗議行動のことで、政府がウクライナとEUの連合協定調印への準備を
    停止したことが発端となり、これ以降、ウクライナの他の都市でも大規模な
    抗議行動が起こり、最終的には、クリミアのウクライナからの分離独立と
    ロシアへの帰属、更に、ウクライナ東部にあるドンバス地域での大規模な
    内戦へと発展した。

    ポロシェンコ大統領は、就任当初から、ドンバス地域への大規模な空爆を続け、
    5,000人程度の一般市民を殺害した疑いも晴れてはいない。 ポロシェンコ
    大統領に対する抗議勢力は、社会的な不平等、貧富の差の拡大、生活水準の
    大幅な下落、汚職の蔓延等に抗議の声を挙げた。



    現在、ウクライナは、ロシアに対する債務超過により、デフォルト状態だが、
    ポロシェンコ政権は、特に何の打開策も見出してはいない。 単に一方的に
    ロシアが悪いと叫び続けた結果、ロシアにばかり全ての罪を着せて、両国間の
    関係が冷え切ったが、かと言って、ヨーロッパとの距離は一切縮まってはない
    ため、ウクライナは単に世界から孤立しただけ。

    ウクライナでは、2004年に起きたオレンジ革命の他、過去に何度か同じような
    ことが起こったが、その度にクビをすげ替えただけで、根本的な部分は一切
    何も解決されて来なかった。 新興財閥オリガルヒらによる支配を終わらせ
    ない限り、ウクライナは、この先も苦悩の道を行くであろう。

    ポロシェンコ大統領は、単に第二のヤヌコヴィッチになっただけだったのか。

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    ウクライナの首都キエフの独立広場(ユーロ・マイダン)で起きた、市民らによる
    抗議デモに端を発したウクライナでの内戦は、あたかも、キエフ市民自らが
    ロシア寄りのヤヌコビッチ政権を嫌って起こした『市民革命』であると日本や欧米の
    メディアは、こぞって報道がなされたが、実際は、アメリカにカネで操られた
    極一部の市民が起こしたニセの革命であり、その後のウクライナの状況は惨憺たる
    ものとなっている。



    キエフからのヤヌコビッチ元大統領の追放を受け、米国務省の高官らは即座に、
    ロシアの侵攻によって、ウクライナはかつてないほど結束を固めたとの見方を
    示した。 ホワイトハウス、駐ロ米大使、共和党国際研究所等も次々に同様の
    見解を発表した。 米国では、政治問題を取り扱っている記者達も、皆一様に
    同様の見解を示したが、極々一部の現実主義者達だけが、ウクライナ内部の
    深い闇の亀裂について指摘し続け、従来からの同国の情勢に大きな変化はない
    だろうと主張した。

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    ウクライナの政治家達は、新たな『親欧米勢力』の下に一致団結し、これまでの
    党派やイデオロギーの違いを超えて、出来る限り早い段階でヨーロッパの一員
    となることを強く望んでいると報じられ、米議員らは、ロシアのウラジーミル・
    プーチン大統領がウクライナ国民に決定的な敗北を喫し、ウクライナの慢性的な
    政治的内紛の時代は過ぎ去ったと確信した。

    日本でも、米国とほぼ同じ報道がなされたが、実際のウクライナ政治は、新興財閥
    オリガルヒらによる更なる政治腐敗が進み、クリミアはおろか、東部のドンバス地域
    では、ウクライナ軍の空爆が連日繰り返され、6,400を超える死者を出した。 この
    地域からの避難者だけでも、130万人以上とも言われている。 ロシア国内に居住
    しているウクライナ人は、350万人とも言われており、モスクワでは、急激に増えた
    ウクライナ人によって、職が奪われたりもしたのだが、そのような不都合は事実は、
    西側では一切報道されず、非常に米国寄りに偏った情報しか提供されなかった。



    更に、ウクライナ議会では、大統領支持者と首相支持者らの殴り合いが起きた。
    『連立』という名の下に集まりながら、議会内では激しいつかみ合い、罵り合いと
    なった。 支持率の急落を理由に、地方選挙の延期を要求しているアルセニー・
    ヤツェニュク首相と、極僅差だが、首相よりは高い支持率を維持しているペトロ・
    ポロシェンコ大統領の『連立』は既に、完全に崩壊し掛けている。 ポロシェンコ
    大統領と同盟関係にある、アルセン・アバコフ内相とグルジア前大統領で、
    現ウクライナ・オデッサ州知事のミヘイル・サーカシビリも先ごろ、この議会内での
    醜い争いに加わった。 幸いな事に、この争いの場では、殴り合いは起きず、
    アバコフ内相が、サーカシビリ知事の顔面に向けて、水の入ったグラスを投げ付けた
    だけで終わった。 ポロシェンコ派のこの二人の対立は、現在のウクライナの混沌
    たる状況を浮き彫りにしていると言える。 

    現在、ウクライナの指導者達は、内輪もめはもう止めると宣言したが、そのような
    口約束には、何の効力もない。 我が身可愛さの『我田引水』が上手く行かなければ、
    国民などは二の次で、約束など全く守らないであろう。

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    これまで、ウクライナでは、このような大規模なデモや内戦のようなものは起きた
    事がなかったが、汚職を監視するNGO『トランスペアレンシー・
    インターナショナル』も、同国を『ロシアを含む欧州で汚職が最も深刻な国』とし、
    世界汚職ランキングでは、>152位に位置付けている。 家具メーカー
    『イケア』が、10年以上の歳月を掛けても、同国に進出出来ないのは、政府高官に
    賄賂を贈らないからだという話は非常に有名。

    結局、ウクライナは、国際通貨基金(IMF)や、ロシアからの融資に頼り切りになり、
    肝心の汚職対策も進まなかった。 いつまでも自立しない体制が、大規模なデモや
    米国の介入を招いたと言える。 更に、ウクライでは、ザカルパチア州等でも独立
    運動が盛んになって来ており、政治ばかりか、国内情勢も予断を許さない状況と
    なっている。

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    尚、ウクライナは、2015年12月31日に期限が切れた特恵期間中に、ロシアが保有
    する国債とその利子総額30億7,500万ドルを支払わなかったため、ロシア財務省から
    審理手続きの通達が行われ、同国債に関して、デフォルト状態にあるが、
    今のところ、IMFからの具体的な動きは見られていない。

    この事から考えても、IMFは、完全に米国寄りである事が分かるのだが、独立広場
    での内戦が大々的になったのは、ロシアでソチオリンピックが開催されていた
    期間中であるため、『平和の祭典』に対して、自称『世界の警察』を公認して
    憚らない米国がこの事に対して、一切異を唱えなかったのは、自らが先導して
    ウクライナで内戦を引き起こしたからに過ぎない。

    日本の某新聞社は、独立広場での市民戦争が始まった当初、『日給30ドル程度で、
    キエフ市民は米国に操られている』と報じたのだが、その後一切そのような不都合な
    事実は出て来なくなった。 日本のニュースは、翻訳を含めて、その殆どが、米国
    経由で入って来るため、米国寄りのニュースが多々見受けられる。 そのような
    安易な記事に騙されないようにするためには、米国以外の世界情勢にも日々目を
    凝らして、自らの頭で考え、行動する習慣を身に付けたいところ。

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    日本では、『親露派』と呼ばれている、ウクライナのロシア系住民達は、いわゆる、
    『西側』では、完全に悪者扱いをされていたが、実際のロシア系住民達がウクライナ
    政府から受けた酷い仕打ちは、この動画の通り。

    【ドンバスでの衝撃の事実を伝えた西側メディアは、極々一部のみ】


    ウクライナ東部のドンバス地域よりも一足先にウクライナから独立を果たし、無事に
    ロシアへの返還が果たされたクリミアでも、ここまでは酷くなかったものの、
    ウクライナ人による度を過ぎた横行が日々まかり通っていた。 クリミアでは、
    そのような理不尽な仕打ちに耐えかね、住民投票によって、正式にウクライナ
    からの独立の道を選んだが、ロシア系住民の多いドンバス地域の先行きは未だ
    不透明なまま。

    【ドネツク市内で途方に暮れる高齢者にパンの差し入れをする撮影者】
     

    西側諸国では、このようなウクライナ東部での内戦を『ロシアが侵攻している』
    としたが、実際は、ウクライナ軍が自国民である、ロシア系住民を空爆したもの。
    アメリカによって操られているウクライナ政府は、自国民の安全すら守らず、
    このような殺戮を繰り返した。 アメリカやイギリスの報道では、全くと言っても
    良いほど、このような報道がなされなかったが、日本でなされている報道とは、
    全く真逆の現実が、そこにはあった。

    【ウクライナ東部のドンバス地域】
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    ウクライナは、今後、EU入りを目指すそうだが、このような殺戮を平気で繰り
    返した国がEUに入る事など到底あり得ず、これからも、ウクライナは、世界
    からは孤立して行くであろう。 つい最近では、『ロシアへ一方的に併合された』
    とするクリミアへ取材に行った日本のテレビ局が、ウクライナ検察の捜査の
    対象となったが、そのような自由すら認めない国が西側諸国の一員になるのは、
    未来永劫あり得ない。

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    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み着いた
    東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングのバリャーク人が、
    ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアからビザンチウムへの交易
    ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、リューリクがロシア最初の王朝を建て、
    その後継者であるオレーグが最初のキエフ・ルーシを創建した。

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    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、ルーシの
    多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。 こうして、ルーシは、
    少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に力を伸ばし、やがて、
    タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ賢公、
    ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って栄え、ヨーロッパで
    最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の半目によって、弱体化していた
    キエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼ
    された。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北はオネガ湖まで
    至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、ウラジーミル、その
    後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。 モスクワ公国は、白海から、東は、
    ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、インド北部
    (現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、優れた騎馬団がルーシ
    南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を荒らし回った。 孫のバツーは、
    1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルと
    スズダリを占領した。 更に、彼は、ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この
    際に、アジア側からヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、
    ブルガリア人、ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシからロシアへ目まぐるしい国境線の移り変わり】


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