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    カテゴリ:西ヨーロッパ > オーストリア・スイス

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    オーストリアの首都ウィーンは、スロヴァキアとの国境から、およそ64.4kmの
    ドナウ川南岸にある。 人口は、約160万人で、国の総人口のおよそ5分の1
    となっている。 市内や郊外に数多くある宮殿や歴史的な建造物は、かつて
    権力の中枢だったこの都市の重要性を良く示している。

    ウィーンは、ヨーロッパ中部の重要な交易ルート沿いに位置する。 およそ
    2000年前、ケルト人達は、ここに最初の定住地を建設した。 紀元前15年に、
    ローマから来た兵士達は、そのケルトの町の跡に、ウィンドボナという名の
    要塞を築いた。 ウィーンは、13世紀以来、政治の中心であり、文化と産業の
    中心でもある。

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    市街の最も古い部分は、リング(輪)と呼べれる大通りに囲まれている。
    リングの1.6km外側には、ギュルテル(帯)という第二の環状道路があって、
    比較的新しいアパートやオフィスビルが、ギュルテル沿いに建っている。

    ウィーンの主な建造物は、第二次世界大戦中の爆撃で損害を被ったが、市民達は、
    せっせとそれを再建した。 15世紀に建てられた聖シュテファン寺院は、今でも
    街の中心にそびえている。 国立オペラ劇場は、1800年代にリング沿いに建て
    られた厳しい建造物の1つである。 かつてオーストリアの君主達が暮らしていた
    ホーフブルグとシェーンブルンの両宮殿は、今では歴史と美術に関係のある、
    様々な文化財を展示するために使われている。

    この国第一の工業都市であるウィーンは、機械、薬品、繊維、電気製品、食品、
    各種手芸品等が生産されている。 ウィーン大学の他、美術、音楽の大学も
    ここにはある。 国家間の協議や平和会議もしばしばここで開かれた。 国連の
    機関のいくつもがウィーンに置かれている。

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    【その他の都市】
    シュタイヤーマルク州の州都であるグラーツは、人口25万人で、かつてここには
    大きな要塞があり、トルコ軍の攻撃から何度か、ウィーンとハプスブルグ帝国を
    防衛した。 現在のグラーツは、工業都市で、薬品、鉄鋼、自動車等の工場がある。
    近くの鉱山からは、鉄鉱と石炭が採掘される。

    ドナウ川沿いの都市リンツは、人口20万人で、古代のローマの時代から河港として
    交易の中心だった。 リンツは、ヨーロッパの北部と西部諸国を、東部と南部諸国に
    結び付ける重要拠点だった時期もある。 1832年、リンツと現在のチェコ領との間に
    オーストリア最初の鉄道が開通した。 現在、この都市には、大型機械、薬品、
    鉄鋼を生産する大工業コンビナートがある。

    人口13万8,000人の都市ザルツブルグは、付近でザルツ(岩塩)が採掘されること
    から付けられた地名となっている。 ドイツとの国境に近いザルツァッハ河畔の
    この都市は、18世紀の大作曲家モーツアルトの生まれ故郷で、毎年夏に開かれる
    モーツアルト音楽祭には、世界中から大勢の音楽愛好家達が集まる。 旧市街には、
    大きな要塞や教会等の歴史的建造物が多い。

    人口11万6,000人のインスブルックは、チロル州の首府で、13世紀に建設され、
    北ヨーロッパとイタリアとを結ぶ交易の重要な拠点として成長した。 ここでは、
    1964年と1976年の2回、冬季オリンピックが開催され、その際に建設された
    スポーツ施設には、今でも冬季スポーツの愛好家達が多数訪れる。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

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    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

    austriamap

    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

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    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    日本に始めてスキーを伝えたとされている、レルヒ少佐は、オーストリア=
    ハンガリー帝国の将校であり、当時、ハプスブルグ家が支配していた、
    スロバキアのブラチスラヴァの出身。

    lerch

    1900年にインスブルックの第14軍司令部附参謀となった際に、山岳地帯の同地で、
    スキー訓練に興味を持つようになる。 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の
    研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日し、その後、日本の新潟県高田
    (現在の上越市)と北海道の旭川他で日本人にスキーを熱心に指導した。 当時は、
    フランス人のスキー講師も居たそうだが、そのフランス人は、上流階級の人間しか
    相手にしなかったため、レルヒ少佐のように、銅像等は作られなかった。

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    当時のスキーは、1本のストックを用いて滑るものと、2本のストックを使用する
    ものとが混在してしたが、日本で伝授したのは、1本のストックを用いたもののみ
    となっている。 それは、高田の重い雪質と、急斜面を考慮してのことであった。
    この1本のストックを用いるスキーは、現在のスキーの滑り方とは、多少異なって
    いた。 その後、北海道で指導をした際には、ノルウェー式の2本のストックを
    用いたものが主流となりつつあったが、レルヒ少佐は、こちらでも1本のストックを
    用いたものを指導した。

    尚、レルヒ少佐は、母国語であるドイツ語ではなく、主にフランス語を用いて、
    スキーを指導したという。 その理由は、通訳者が、ドイツ語よりもフランス語の
    方が得意であったことに由来している。 レルヒ少佐が日本にもたらしたものは、
    この他にも、『シュテムボーゲン』、『リュックサック』、『ヒュッテ』という、
    日本語にもなっているドイツ語もスキーと共に日本に持って来た。



    現在、新潟県上越市高田の金谷山には、日本スキー発祥記念館が設置され、
    レルヒ少佐の業績を今に伝えている。 また、毎年2月上旬には『レルヒ祭』を
    はじめとした各種記念イベントが開かれており、日本へのスキー伝授100周年を
    記念した2006年からは、上越地方を中心に、ゆるキャラの『レルヒさん』が
    活躍をしている。

    尚、レルヒさんの身長は、2メートル70センチとなっており、全国のゆるキャラの
    中でも、突出して高くなっている。

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    オーストリアのファイマン首相は、増加の一途をたどる難民に対して、
    シェンゲン合意への効力を一時的に制限し、同国への入国者全員に対して、
    検査を強化することを明らかにした。

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    これにより、オーストリアへ入国する際の検査が大幅に強化され、シェンゲン
    制度が一時的に失効することとなった。 オーストリアは、ドイツ同様、
    国境での管理を強化し、難民を立ち退かせる構えを示したこととなる。
    シェンゲン制度を一時的に失効させることにより、難民申請が受理されて
    いない者や、申請を行なっていない者を見つけ出すことが目的と思われる。

    ファイマン首相は更に、『国境では有効な身分証明書を携帯し、求めに応じて
    提示する義務が生ずる。 EUがこれらの管理を行なわず、加盟諸国を守ら
    ないのであれば、シェンゲン制度そのものに疑問を感じる。 そのような
    場合には、各国がそれぞれの国の境界線を管理しなければならない』とも
    述べた。 

    オーストリアは、東西冷戦の終結の際にも、ハンガリーとの国境を開放し、
    1万5千人もの越境者を進んで受け入れた国だが、その後のウィーン・
    シュヴェヒャート空港での入国時にも、スタンプを押されないほど、入国が
    非常に簡単な国であったため、このニュースは、かなり衝撃的と言わざるを
    えないのだが、ヨーロッパでは、それ程難民の数が増加しているということ
    なのであろう。

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    ドイツ、オーストリア、ハンガリー等、ヨーロッパ中部にある一部の地域には、
    クリスマスシーズンになると、子供達に沢山のプレゼントを配る聖ニコラウス
    とは対照的に、悪い子供達にお仕置きをする伝説の怪物が居る。

    この怪物は、民間伝承に登場する、半分ヤギ、半分悪魔の姿をした怪物のことで、
    『クランプス』と呼ばれている。 クランプスは、子供達にプレゼントを配る
    聖ニコラウスとは対照的に、悪い子供達を叩いたり、連れ去ったり、更に、
    地獄へと引きずり込んだり
    する。



    毎年12月の上旬になると、伝説に則り、悪魔クランプスが聖ニコラウスと共に、
    野外を練り歩きく。 12月の最初の2週間、特に12月5日の晩になると、若者達が
    クランプスの扮装をして、錆びた鎖と鐘を持ち、子供と女性を怯えさせながら
    通りを練り歩くのが毎年恒例の伝統行事となっている。

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    クランプスは、毛むくじゃらの皮膚を持ち、鋭く長いツノ、大きく開いた口に
    ドラキュラのようなキバが生えている。 怒りをあらわにしている表情が非常に
    恐ろしい。 ドイツの古い言い伝えでは、クランプスとサンタクロースは、双子
    という設定となっており、一方が良い子にご褒美としてプレゼントを配り、
    もう一方が悪い子にお仕置きをして素行を正すという役割を担っている。

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    昔は、仮装をした人達が家々のドアを叩いて酒を要求し、出さなければ騒ぐぞと
    脅すことが極当たり前に行われていたという。 アメリカ等で行われている
    ハロウィンや、日本のなまはげにもこのクランプスと同様の趣旨が含まれており、
    恐ろしい見た目で、厳しく子供達を諭すということは、世界共通なのかも知れない。

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    かつて多民族帝国であったオーストリアの歴史は、現在でも、各地方の食事に
    ハッキリと現れている。 ウィーンのスイーツは、ウィンナー・コーヒーと
    同じく、ヨーロッパでは非常に有名で、それぞれのカフェでは、長年引き
    受け継いでいる伝統のレシピを用いて、各店独自のオリジナルケーキ作りが
    非常に盛んになっている。 カフェでコーヒーを飲みながら、ゆっくりと
    くつろいでケーキを食べるのは、もはや、ウィーン文化そのもの。

    Schnitzel

    シュニッツェルは、仔牛肉のカツレツで、元々はウィーンの名物だったが、
    今では、オーストリアで最も人気のある料理となっている。 麺類に様々な
    肉屋野菜を添えるのは、ケルンテンの名物料理。 チロルでは、おいしい
    チーズやベーコンが特産品となっている。 下オーストリア州やドナウ川の
    渓谷には、ぶどう畑が沢山あり、特産である甘い白ワインの醸造に用いられる。

    オーストリアの家庭の朝食は、通常、まずコーヒーか牛乳が出され、
    バターやマーマレードの付いたパンが出される。 午前10時頃に辛子付きの
    ソーセージをおやつとして食べる人もいる。 ウィーン風ソーセージは、
    日本では、そのまま『ウィンナー』と呼ばれている。

    wurst

    昼食は、一日の中で最も重要な食事となっており、まず、スープ、続いて牛肉、
    豚肉、鶏肉、ソーセージ、仔牛肉、魚等のメインディッシュが出される。
    新鮮な野菜、麺類、じゃがいも、肉団子等がこれに添えられる。 あるいは、
    たいていサラダが続く。

    knoedel

    午後3時頃には、短い休憩を取り、コーヒーを飲みながら、ケーキ等のデザートを
    食べる。 オーストリアの各都市では、カフェが憩いの場となっており、社交の
    場としても人気が高い。

    夕食は、昼食よりも軽く、火を使わないコールド・ミート、チーズ、燻製の
    魚類等のオープンサンド等の軽いもので済ませることが多い。 寒い冬の
    季節には、スープかシチューを夕食にすることも多い。

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    オーストリアの国民の大部分は、ドイツ系であるが、その民族構成は、初期の
    歴史時代に起こった異民族の侵入や、移住を反映している。 ハプスブルク家が
    13世紀に権力を握る以前には、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、マジャール人、
    スラブ人が次々とオーストリアの河川沿いや山間の谷間に植民地を建設した。

    その後、クロアチア人、スロベニア人、ハンガリー人らが、ブルゲンランド、
    ケルンテン、シュタイヤーマルクに移動した。 北部と東部では、異民族同士の
    結婚が多く見られた。 この地域では、道路やドナウ川の水運党の交通が発達
    したが、それは、旅行や定住が容易だったため。 チロル、フォアアールベルグ、
    ザルツブルグ等の山岳部諸州では、大多数の住民がドイツ系となっている

    オーストリア国民の大多数は、ドナウ川流域と国の東半分に住居している。
    このうち、約56%が農村部に住んでいる。 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア、
    チェコスロバキア、ハンガリーからの移民や政治的亡命者が増えた。 1980年代
    には、トルコやユーゴスラビア等の比較的貧しい国から20万人近くの未熟練
    労働者達が、仕事を求めてオーストリアの各都市にやって来た。

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    【言語】
    ほとんどのオーストリア国民は、ドイツ語を使用している。 但し、この国の
    ドイツ語には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドには、
    ハンガリー語を話す人達も居る。 ケルン店に住む2万人のスロベニア人の
    多くは、スロベニア語を使う学校に子供を通わせている。

    【音楽】
    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ王朝時代に教会や修道院で
    演奏された宗教的な賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガー達の
    叙情詩は、各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者達の人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けては、ドイツの音楽家達がオーストリアに来て、
    合唱団や楽団の指揮を取った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、
    オーストリアの作曲家達は、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合
    させて、ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族達の公演を受けて、ウィーンその他の都市で
    盛んになった。 富裕な貴族エステルハージ公の管弦楽やソナタを数多く
    書いた。 彼は、生前に多数の作品の楽譜を出版し、ヨーロッパで最も
    有名な作曲家の一人となった。 こうして現代音楽は誕生した。

    モーツアルトは、少年時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、
    優れた歌劇、管弦楽、器楽等を含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の
    作品の多くは、批評家達に賞賛されたが、演奏家や歌手達にとって、
    モーツアルトの曲は演奏しにくかった。 生活苦と闘いながら、
    モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートベンは、ドイツ生まれだが、成人してからの
    生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートベンは作曲とピアノの演奏で、
    ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の絶頂期に聴力を失い始め、
    聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った後も、表現力豊かで力強い
    音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家達に影響を与えた。

    フランツ・シューベルトは、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を数百曲も作曲した。
    彼の作品の中で、最もポピュラーなのは、ピアノ演奏付きの歌曲、リートである。
    グスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーは、どちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。



    ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・ワルツを多数作曲し、
    父は、『ワルツの父』、息子は、『ワルツの王』と呼ばれた。 フランツ・
    レハールは、オペレッタの作曲家で、彼等の作品は、今もウィーンでは
    人気が高い。

    20世紀になって、この国の作曲家達は、洗練された新しい作曲技法を次々に
    作り上げた。 アルノルト・シェーンベルグ、アルマン・ベルグ、アントン・
    フォン・ウェーベルンは、伝統的なハーモニーを用いないで歌劇や管弦楽を
    作曲した。 エリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトは、ポピュラーソング、
    ミュージカル、映画音楽を作り出した。 この国では、今でも、軽い歌劇と
    重厚な管弦楽のどちらも盛んとなっている。

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    ドイツに統合されたオーストリアは、ドイツ、イタリア、日本と共に、枢軸国
    として第二次世界大戦を戦った。 相手は、イギリス、フランス、ソ連等の
    連合国で、1941年には、アメリカも連合国側に付いて参戦した。 枢軸国側は、
    何度か勝利を収めた後、敗北を重ねた。 連合国側の飛行機は、オーストリアを
    爆撃し、1945年には、ソ連軍がオーストリアに侵入した。 1945年には戦争は
    終結したが、戦闘によって、オーストリアの多数の都市と産業が打撃を被った。
    イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の軍隊が領内に駐留し、オーストリアを
    4つの占領地域に分割した。

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    カール・レンナーを首班とする臨時政府は、オーストリア第二共和国を創立した。
    政府は、各政党の連立によって運営された。 社会党(元社会民主党)、人民党
    (元キリスト教社会党)、共産党の3党である。 この連立政府は、1960年代
    まで政権を維持した。 共産党は、ソ連との関係が密接だったが、1940年代以後、
    その勢力を失って行った。

    戦後のヨーロッパは、東西の両ブロックに分裂した。 東側ブロックは、ソ連の
    影響下に置かれ、西側ブロックでは、第二次大戦に勝ったイギリス、アメリカ、
    フランスの3国が主要な地位を占めていた。 オーストリアは、ヨーロッパの
    中央部に位置する上、これら4カ国全部の占領下にあったため、対立する東西
    両ブロックの間に挟まれることとなった。

    外国の援助と戦後の経済計画の力で、オーストリアは、その都市と産業を再建
    することが出来た。 労働組合、雇用者側、政府の3者は、賃金と物価に関する
    協定を結び、努力して国の経済の回復を助けた。 しかし、戦後の10年間、
    オーストリアを占領している4カ国は、オーストリアとの講和条件について、
    意見が一致しなかった。 1955年の春、ソ連は、この国から撤退するに
    あたっての経済上と政治上の条件を明らかにした。

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    オーストリアは、ソ連政府に戦時賠償金を支払うこととなった。
    オーストリアは、また、中立政策を取ることに合意した。 将来の軍事的紛争に、
    一切関わらない決意の表明である。 1955年5月、オーストリアは、国家条約に
    調印し、占領4カ国は軍隊を撤退させた。 1966年、人民党が国民議会の多数党と
    なった。 1970年の総選挙の結果、社会党がブルーノ・クライスキーの下で
    政権を獲得した。 社会党は、1975年と79年の2回の選挙にも勝利をおさめて
    政権を維持した。

    1970年代初期、燃料の価格の高騰等から、世界的な不況に陥った。 燃料は、
    オーストリアでも外国から大量に買わなければならな物資であった。 このため、
    原子力発電の導入をめぐって国内では激しい論争が起こった。 1978年の国民
    投票の結果、核燃料発電所の運転開始は阻止された。 クライスキー政権は、
    このような中で、オーストリア経済を健全に維持した。

    1983年の総選挙で、社会党は、国会の多数派としての地位を失い、人民党の
    フレッド・シノワッツが第三党の支持を得て首相となった。 一九八六年の
    総選挙の結果、社会党と人民党の連立政権が成立し、穏健な社会主義者フランツ・
    ヴラニツキーが首相に選ばれた。 ヴラニツキーは、1990年の総選挙で社会党が
    単独勝利を占めた後も、首相の地位に留まった。

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    【政治のしくみ】 

    第二次世界大戦終結後、オーストリアは、ドイツに統合されていた1938年から
    45年まで効力を停止されていた1920年憲法を回復した。 この憲法の規定に
    よれば、オーストリアは連邦共和国で、1つの中央政府の下に、9個の州が結集
    した連合体である。 中央政府は、行政、立法、司法の3部門から構成されている。

    国民は、6年ごとに選挙を行って大統領を選ぶ。 大統領は、行政部門の長
    であり、軍隊の官でもある。 しかし、大統領は、国民議会によって承認された
    法律を停止することは出来ない。 立法部門は、国民議会と連邦議会とから成る。
    国民議会は、この国の最高の立法機関であり、議員の定員は183名で、任期は
    4年間である。 国民議会の選挙が行われた後、大統領は、国民議会で多数を
    占めた政党の代表を首相に任命する。 首相は、政府と内閣の長であり、内閣は、
    政府の各省の大臣によって構成される。

    連邦議会の定員は54名で、9つの州の立法機関によって選ばれる。 連邦議会の
    議員の任期は4年間、ないしは、6年間である。 連邦議会には、法案を提出する
    権限があり、また、国の結んだ国際条約や国際調停を承認する役割を持つ。

    オーストリアの最高司法機関は、連邦最高裁判所であり、その下に州裁判所、
    その他の下級裁判所がある。 行政、憲法、労働、青少年に関しては、
    それぞれの特別法廷に判断が委ねられている。 オーストリアの9つの州では、
    それぞれの州の有権者の投票によって、州議会の議員が選ばれる。 州議会は、
    州知事を選出する。 州議会は、また、各州独自の法律を制定することが
    出来るが、これらの法律は、連邦各省の承認を得なければならない。
    州議会は、オーストリアの全ての選挙について、最低選挙年齢を定める
    権限を持つ。

    オーストリアには、都市と町村を合わせて、総計2千以上の自治体があり、
    自治体は、それぞれの議会の議員を選挙によって選ぶ。 それらの市町村議会は、
    その自治体に関連する事項を審議し、市町村長を選出する。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子のフランツ2世が
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく規制した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃と
    なっていたマリー・アントワネットが処刑された。 1795年、オーストリアと
    フランスの戦争が始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は
    占領された。

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    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を打ち
    破った。 1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。
    この新しい帝国は、現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ボヘミア
    (チェコ)、その他、東南ヨーロッパの諸小国をも含むものだった。 1806年、
    領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ帝国は、ナポレオンによって、解体
    された。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、
    イギリス、ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年に
    オーストリアに侵入、ウィーンを占拠し、フランツ2世は、娘であるマリー・
    ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが、1812年、ナポレオンが、ロシアに
    敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと戦った。
    1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて、
    ヨーロッパの国境を定めた。 この会議で、オーストリアは、ヨーロッパの
    中部、および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦であった、
    ザルツブルグ大司教管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国も
    オーストリアの領域となった。 神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを
    盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【ウィーン会議】
    ウィーン会議は、19世紀前半のウィーン体制を成立させることとなった
    重要な会議であり、パリ会議(1856年、クリミア戦争後の講和会議)、
    ベルリン会議(1878年、東方問題での国際会議)と並んで、19世紀の
    三大国際会議のひとつとされている。 ウィーン会議では、オーストリアの
    代表として活躍した、クレメンス・メッテルニヒは、その後国内の政治を
    一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持するために、政治活動を
    制限し、出版の自由を規制する政策を採った。

    『会議は踊る、されど進まず』という句は、ウィーン会議の議事が進行
    しないことを皮肉った言葉で、オーストリアの将軍リーニュ公が言った
    という。 ザクセン帰属問題、ドイツの組織問題、ワルシャワ大公国処理
    問題でオーストリア、プロイセン、ロシアが対立。 イギリスは、ロシアの
    進出を警戒し、各国代表は互いに牽制し合って話し合いは進展せず、舞踏会
    だけが綺羅びやかに続けられた。 しかし、1815年3月、ナポレオンの
    エルバ島脱出の知らせを受け、急遽結束することになった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は
    低かった。 ウィーン、リンツ、グラーツ等の都市では、労働者は農民と
    連帯して、ハプスブルク政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての
    力が弱く、ハプスブルク一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は、
    一向に進まず、1840年代半ばには、経済危機と食料不足のため、農民と
    労働者の間に暴動が続発した。 大学の学生達も労働者と合流して、新しい
    政府と憲法を要求した。 首相大臣のメッテルニヒは、辞任してイギリスへ
    亡命した。

    メッテルニヒ政権に代わって比較的リベラルな政府が出来、人民代表会議が
    開かれた。 人民代表会議は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、
    その他の法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの
    街頭で暴動が起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年
    8月、ハプスブルク家に忠実な軍隊がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に
    鎮圧した。 12月、ハプスブルク一族や顧問官達は、フェルディナントと説得
    して退位させ、その甥のフランツ・ヨーゼフを即位させた。

    【ウィーン会議の時代のヨーロッパの国境】
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    【フランツ・ヨーゼフ皇帝】
    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人員代表会議廃止して、ハプスブルク政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は、国内の学生の管理を、ヨーゼフ2世の
    改革の以前のようにカトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の
    来援を要請してハンガリー内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策をとる一方、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアは、イタリア北西部の王国
    サルディニアに敗北し、イタリア北部の領土を半ばを失った。 これは、
    1864年、プロイセンとの戦争に敗れ、ドイツ領邦の盟主としての地位を
    放棄した。 この時プロイセンに味方したイタリアにヴェネツィアを割譲し、
    帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続くなか、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな
    立法機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。  帝国議会は、
    全てのオーストリア市民に基本的な人権を保証する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立した王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリー帝国は、
    ドイツ帝国、および、新興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新生党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として、自由党が出来、
    カトリック教会を支持する農民と労働者の党として、キリスト教社会党が
    出来た。 社会民主党は、経済システムの変革と私営企業の国営化を主張した。

    国内では、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、
    クロアチア人等のグループが自治を望んでいた。 だが、これらの諸民族に
    自治を認める立法は、どこの政党の支持も得られなかった。 これらの少数
    民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    増々悪化した。 元々、トルコの領土であった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇帝フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によって、ヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き
    込まれ、第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーとドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵として戦っていた。
    この連合国側には、後に、アメリカが加わった。

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    【宗教改革と反乱】
    ハプルブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民たちは、
    領主から強制される過酷な労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を
    構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に
    分散したハプスブルク家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。 この頃、ドイツ北部やスイスでは、
    ルター等の主張する宗教改革の運動が盛んで、プロテスタントと呼ばれる新しい
    宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、この運動を教会の領地や
    財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と考えていた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応集結した。
    この和議で、ドイツの君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認め
    られた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。 神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール
    5世は、この和議に不満で、翌年退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。
    ハプスブルク家の大領土は、これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに
    分かれることとなる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックとの対立関係は、なおも続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、大半の住民や聖職者は、強力な君主制とカトリック教会に
    好意をよせた。 ハプスブルク家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

    16世紀、当時のハプスブルク家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ボヘミア王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ボヘミアの
    プロテスタント達は、別の領邦の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にべーメンの反乱軍を打ち破った。
    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い反乱が続いた。

    ハプスブルク家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント2世の後継者、フェルディナント3世は、紛争から
    手を引くことにした。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの
    君主達が領邦内の宗教を選択する権利を再確認した。

    【領土拡張と内政改革】
    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲した
    ので、ハプスブルク家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、
    オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺から、トルコ
    軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリー等の東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルク家の繁栄に対して、スペイン系ハプスブルク
    家は、血統が途絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫を
    スペインの王位に据えようとしたため、オーストリアとフランスとの間に
    戦争が始まった。 スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に
    終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド等を
    勝ち取った。

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を
    消耗させた。 その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と
    経済的弱体が著しかった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、
    カールは、それをうまく支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの
    意志に反抗し、ハンガリーとボヘミアの自治を求める動きは、彼の権威を
    損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機に
    さらされた。 カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘であるマリア・
    テレジアをハプスブルク家の後継ぎとして宣言した。 1740年にカールが
    死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。 その直後、ドイツ北部の
    プロイセン王国のフリードリヒ2世は、ボヘミアの富裕な属州シュレージエンの
    割譲を要求して、オーストリアに攻め込んで来た。 フランス、スペイン
    等の諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

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    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは、
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアは、
    その後シュレージエンの回復を図って七年戦争を起こしたが、この戦争も
    1763年にフリードリヒの勝利に終わった。

    七年戦争の結果、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが、彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアは、また、法律を改革し、カトリック教会の
    資産を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられるようにし、
    義務教育を導入した


    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を多閉鎖し、侵攻と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は、更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから開放した。

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