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    カテゴリ:西ヨーロッパ > オーストリア・スイス

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、
    その世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と
    旧教の対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは
    中立の立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、
    スイスの独立と中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、
    国会と呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は
    定期的に召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、
    各州の重要な決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、
    ローマカトリックかプロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』
    と呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、
    フルブール、ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い
    都市州では、富裕な地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じ
    だったが、支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、
    国家として団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか
    安定を保ち、紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の
    変化も重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、
    ローマカトリックの忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合う
    ものが出て来る。 それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の
    運営について改革を求めた。 その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身の
    ツウィングリというカトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツと
    フランスの改革者と共に、カトリック教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰の
    もとにするより簡素な宗教、つまり、プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏の
    スイス都市に伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、
    自分達の信仰を攻撃するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。
    スイスは、カトリック教徒とプロテスタントに二分され、両者は戦いによって、
    その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、
    グラールス、ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒの
    カッペルでツウィングリの一派と戦った。 ツウィングリは戦死するが、
    後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人の
    カルバンが、自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。
    カルバンは、教会と政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがて
    ジュネーヴの有力者達は、カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と
    宗教を組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から
    独立した市参事会に与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を
    統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン
    (すごろくに似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止
    された。 カルバンはまた、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学に
    なった。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていた
    ハプスブルグ家の狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス
    越えの重要ルートを管理する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、
    シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し(モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの
    各州が、スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州
    (カントン)同盟』)。 軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いて
    ハプスブルグ軍を打ち破る。同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に
    領土をめぐって何度か戦いを交わし、そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の
    東方と南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、
    それに対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、
    同盟軍は、1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。
    オーストリアとフランスの援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、
    スイス側に付いたフリブールとゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に
    加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の
    支配権を握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ
    神聖ローマ帝国に属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、
    同盟軍は、反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国
    からの独立を獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、
    イタリア北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、
    フランス軍に敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練して
    いたので、他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大
    する必要性があったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第に
    スイス地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な
    領地を統治するようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、
    ヨーロッパの多くの地域との間に重要な交易が始まった。 村人達は、街の
    市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの農村から運ばれて来た穀物と
    交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。
    なかでも、ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。
    その頃、小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、
    自由の身になる者が大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部の
    シュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていた
    この3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。
    3州は、ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いの
    対立を解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、
    1年に一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を
    決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わった
    のは、主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に
    対抗する3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた
    盛んになった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人
    との戦いで戦死し、バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン
    (今のチェコ)の国王オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、
    オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。

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    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家の
    ルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の
    軍隊は、マルヒフェルトの戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの
    領土は次々とルドルフの支配化に入った。 こうして、ルドルフを初代とする
    ハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも渡ってオーストリアに
    君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主のほとんどは、
    同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに
    併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

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    【帝国の膨張】
    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
    チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
    息子マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド
    (現在のオランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入
    された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によって
    ハプスブルク家の領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王
    フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
    1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
    その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な領域をハプスブルク家
    当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
    ハンガリー両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、
    両国の王を兼ねた。ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
    マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を
    得て、フェルディナントに反抗した。 当時のトルコは軍事大国で、バルカン
    半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
    迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国
    (公爵の領地)などの領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の
    中で、7人が選挙候と呼ばれる地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組み
    であった。 976年、オットー1世の後継者であるオットー2世は、
    バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的地位の低い君主)
    に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと
    東のマジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が
    新たに整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、
    神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が
    大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルク家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤソミルゴットの地位を公爵に
    引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めて
    ウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で
    繁栄を続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったため、オーストリアの経済的重要性が大きくなった。
    リンツやクレムスなど川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年、
    隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、
    バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の
    財宝を求めて東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を
    攻撃し、やがてヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・
    シーザー指揮の下、ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を
    広げて行く。 紀元前15年には、ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、
    ローマ帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や
    果物を栽培し、ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、
    小さな市場を持つ街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、
    ヘルベチア族の定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、
    ヘルベチアの領土を取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を
    取り戻すため、ローマの役人はヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で
    働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】
    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に
    改修し、ローマカトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家の
    カール王(後のカール大帝)が現在のスイス、フランス、オランダ、
    オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの地域を含む広大な
    キリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇もカール王の
    力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の
    侵入に備えて兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、
    王には服従した。 王位は、世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も
    代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来
    上がっていた。 小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く
    代わりに、食料を与えられ、保護を受けた。 その身分は、法的に領地に属し、
    領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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    キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、
    キリスト教は、帝国領土内の人々の間に着実に広まり、4世紀には、帝国の
    国教として公認された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。

    この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は
    両地域の境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の
    大司教管区と定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を
    征服し、ここを『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。
    東からフランク帝国を攻撃して来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の
    意味を持つ名称となっている。 この名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』
    と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。
    817年オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配する
    バイエルン王国の一部となった。 834年にヴァルダン条約が締結されて
    相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東フランク王国を創設した。 これは、
    現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む広大な領域である。

    876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人と
    アヴァール人は東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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    スイスは、ヨーロッパ大陸の中心に位置するため、大陸内の各地を結ぶ
    交差点になっている。 その結果、これまで多くの民族がこの国を訪れたり、
    定住地にしたり、征服して来た。 この地域で35万年前の遺跡が発見
    されていることから、その時期に既に人が住んでいたことが証明される。

    それから何千年か経つと、この辺りは巨大な氷河に覆われ、植物が全滅する。
    時折氷河が部分的に後退することがあり、ジュラ山脈とミッテルランドの
    地帯を狩猟民族が移り住んでいた。

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    紀元前13世紀には、氷河はほとんど解け、人が定住し始めた。 チューリヒ湖や
    その他の湖の岸辺に人々は小さな村をつくって住んだ。 家族で畑を耕し、
    家畜を育て、野性の動物を狩り、川や湖で魚を採って生活をしていた。
    やがて、石の斧などの武器や、銅や錫を細工した装身具も作るようになる。

    紀元前500年頃には、この地域にケルト文明が定着する。 その中心は、
    ヌーシャテル湖周辺のラ・テーヌという土地であった。 ヘルベチア族と
    呼ばれたケルト系の定住者たちは、かなり発達した形態の宗教を持ち、
    複雑な習慣に従い、手の込んだ金属の工芸品を作っていた。 この宗教は、
    ヘルベチア教と呼ばれるようになり、それを通じて、ケルト文明は
    ヨーロッパの多くの土地に広がって行く。

    ケルト民族がスイス地域の西部と中央部を支配するようになると、東部
    山地にラエチア族が定住する。 戦いを好む強力なこの部族は、他の文明
    とは接触しなかった。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河に覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気温の温暖化につれて、
    穴居していた先史人類たちは、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。

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    そのうちに、人々はこの地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るように
    なった。 その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心に
    なっていた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易中心が出来、熟練した工人たちが作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパの
    西部や北部に輸出された。

    紀元前450年頃、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士が、東からヨーロッパ東部を
    横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの工人たちは
    鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の管理で、強力で
    安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

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    【ローマ統治下のオーストリア】

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の祖先であるゲルマン人が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、ついには、王国を通過して
    王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。

    ローマ人は、イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海
    沿岸のほとんどを征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人たちは、
    ゲルマン人の攻撃を阻止するためにノルクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人
    たちを征服して、ドナウ川沿いに新しく要塞を築き始めた。 ローマ帝国は、
    この地域に3つの州を創った。 アルプス山地のラエティア、オーストリア中部の
    ノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を占めるパンノニアである。

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    この地域のローマ諸州では、安定した軍政の下で、200年に渡って平和が続き、
    往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が次々に建設された。 商人たちは、
    帝国の他の地域に、岩塩、金属、羊毛、家畜を輸出した。 ローマ人たちは、
    ウィンドボナ(現在のウィーン)とその東のカンヌントゥムに、城壁に囲まれた
    都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることとなった。 ドナウ川
    越の攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に帝国の指導者層が分裂して、国境
    沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は次第に衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、東からは
    スラブ人が、北からはゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃した。 5世紀末
    にはローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、アッティアラ
    という名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や交易ルートを
    めぐる争いもしばしば戦争の原因となった。

    ゲルマン人たちは、ノリクムとラエティアを征服し、スラブ人たちは、パンノニアに
    定着した。 北東からチェコ人たちがドナウ渓谷に侵入し、また西から移動して来た
    アレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯に幾つもの村落を作った。

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    スイスの人口716万人の3分の2以上は、都市に住んでいて、その大半は、
    ミッテルランドに集中している。 チューリヒが最大の都市で、ベルンと
    ジュネーブは、チューリヒほど人口が多くないが、国際的にも商業、文化、
    産業の中心地となっている。

    スイスは、都市によって独自な人種構成を持ち、話される言語も異なる。
    例えば、チューリヒ、ベルン、バーゼルでは、ドイツ語が話されているが、
    ジュネーブで最も良く耳にする言葉は、フランス語である。 南部の都市
    ルガーノの住民はイタリア語を話す。

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    【チューリヒ】
    スイス最大の都市で、人口は33万人、この地域には、早くても紀元前4500年に
    人が住み着き、小麦を作り、牛と豚を育てた。 紀元前1世紀には、ローマ帝国の
    一部となる。 12世紀はじめには、絹、麻、羊毛、皮を交易する一大中心地と
    なっていた。

    14世紀に、チューリヒはスイス同盟に加わる。 ドイツの文化と文学の中心
    ともなり、また、繊維、工学技術、金融を中心とする商工業都市としても重要
    となる。 また、様々な活動の中心としてヨーロッパでも最も有名な都市の
    ひとつである。 街の中心を通るバーンホフ通りは、13世紀に築かれた城壁の
    堀の跡である。

    チューリヒの古い地域には、歴史的な建物が多い。 リマト川の両岸には、
    グロースニュンスター寺院とフラウミュンスター寺院が向かい合って建っている。
    この川沿いには、ザンクト・ペーター教会や、ギルド時代の建物も残っている。
    チューリヒは、優れた博物館や美術館があることでも有名である。 スイス
    国立博物館には、先史時代から現代までのスイス文化に関する様々な展示品が
    陳列されている。

    チューリヒ美術館には、スイス出身の国際的に有名な近代画家と彫刻家の作品が
    集められている。 連邦工科大学としては、世界的に有名であり、チューリヒ
    大学は、スイス最大の大学である。

    この文化、および、経済都市にも近年、麻薬取引とエイズに関連する問題が増え
    ている。 チューリヒ当局は、犯罪と麻薬の乱用を厳重に取り締まっている。

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    【その他の都市】
    首都ベルンは、人口約18万人で、アーレ川を見下ろす位置にある。 12世紀
    には、ゲルマン民族の一部族アレマン族の政治の中心地だった。 1405年の
    大家事で街の中心部は全焼したが、その後再建され、その大部分が現在も
    当時の姿のまま残っている。 1848年にスイス同盟の首都となった。 街には、
    手の込んだ建物や石の彫刻の付いた美しい噴水、中世の建物等があちこちに
    見られる。

    その他、1530年に建てられた仕掛け時計のある時計塔、連邦議会議事堂、
    クマ公園もベルンの名所である。 クマは古くからこの街のシンボルで、ベルン
    という名前は、クマを意味するドイツ語から名付けられたと伝えられている。

    ジュネーブは、人口約17万人で、国際機関が集まる国際都市である。
    代表的なのは、第一次世界大戦後に、国際連盟本部として建てられた現在の
    国連ヨーロッパ本部、国際赤十字、国際労働機関、世界保健機関、世界教会
    協議会である。

    街は、ローヌ川を挟んで、旧市街と新市街に分かれる。 旧市街には、サン・
    ピエール大聖堂など、歴史的建物が目立ち、900年代に建設された当時の面影を
    残している。 ジュネーブ大学と市庁舎は、1500年代に建てられた。 新市街は、
    ローヌ川の右岸にあり、多くの国際企業や代理店が入る近代的建物が並んでいる。

    バーゼルは、人口約17万人で、古くから宗教の中心地であり、1501年にスイス
    同盟に加わった。 現在は、金融業と工業の中心地として重要な役割を果たして、
    また、化学工業も盛んである。 1460年に建設されたバーゼル大学は、スイス
    最古の大学で、優れた研究機関として海外でも評価が高い。

    スイス南部の都市ルガーノは、人口約9万人で、イタリア語圏のティチーノ州
    最大の都市である。 ここには、2300年前から人が定住していた。 何世紀
    にも渡って、ローマとイタリアに支配されていたが、1500年代にスイス同盟に
    吸収された。

    1803年に成立したスイス連邦には、ティチーノ州が参加した際、ルガーノは、
    同州の一部となった。 都市の主な経済活動は、観光と金融となっている。
    製造業では、チョコレートとたばこが有名である。

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