横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ:西ヨーロッパ > オーストリア

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    ドイツに統合されたオーストリアは、ドイツ、イタリア、日本と共に、枢軸国として
    第二次世界大戦に加わった。 相手はイギリス、フランス、ソビエト等の連合国で、
    1941年にはアメリカ合衆国も連合国側に付いて参戦した。

    枢軸国側は何度か勝利を収めた後、敗北を重ねた。 連合国側の飛行機は
    オーストリアを爆撃し、1945年にはソビエト軍がオーストリアに侵入した。
    1945年に戦争は終結したが、戦闘によってオーストリアの多数の都市と産業が
    打撃を被った。 イギリス、アメリカ、フランス、ソビエトの軍隊が領内に駐留し、
    オーストリアを4つの占領地域に分割した。

    第二次世界大戦直前のヨーロッパ
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    カール・レンナーを首班とする臨時政府は、オーストリア第2共和国を創立した。
    政府は各政党の連立によって運営された。 社会党(元の社会民主党)、人民党
    (元のキリスト教社会党)、共産党の3党である。 この連立政府は1960年代まで
    政権を維持した。 共産党はソビエトとの関係が密接だったが、1940年代以降、
    その勢力を失って行った。

    戦後のヨーロッパは東西の両ブロックでに分裂した。 東側ブロックはソビエト
    連邦の影響下に置かれ、西側ブロックでは、第二次大戦に勝った、イギリス、
    フランス、アメリカの3国が主要な地位を占めていた。 オーストリアは
    ヨーロッパの中央部に位置する上、これら4カ国全部の占領下にあったため、
    対立する東西両ブロックの間に挟まれることになった。

    外国の援助と戦後の経済計画の力で、オーストリアはその都市と産業を再建する
    ことが出来た。 労働組合、雇用者側、政府の3者は賃金と物価に関する協定を
    結び、努力して国の経済の回復を助けた。 しかし、戦後の10年間、オーストリアを
    占領している4カ国は、オーストリアとの講和条約について意見が一致しなかった。

    1955年の春、ソビエト連邦は、この国から撤退するにあたっての経済上と政治上の
    条件を明らかにした。 オーストリアはソビエト政府に戦時賠償を支払うことに
    なった。 オーストリアは、また中立政策を採る事に合意した。 将来の軍事的な
    紛争に、一切関わらない決意の表明である。 1955年5月、オーストリアは国家条約に
    調印し、占領4カ国は軍隊を撤退させた。

    1966年、人民党が国民議会の多数党となった。 1970年の総選挙の結果、社会党が
    ブルーノ・クライスキーの下で政権を獲得した。 社会党は1975年と1979年の
    2回の総選挙にも勝利を収めて政権を維持した。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んでカール1世が
    皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は経済状態の悪化に抗議した。
    中央政府の弱体化に連れて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人等が次々とオーストリアから独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツと共に遂に連合国側に降伏した。
    降伏後、カール1世は退位し、600年以上に渡ったハプスブルグ家の支配は
    終わった。 社会民主党の指導で、臨時国会が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれて、共和国の現在の
    国境が画定した。 この条約はまた、ハンガリー、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

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    オーストリアの国内の不安はなおも続き、共和国の経済は少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人達は、元のハプスブルグ帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合、ドイツ語で
    アンシュルスを支持する声が、1930年代初期に高まった。 世界的な経済不況と、
    ウィーンにある大銀行の倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は
    ますます苦しくなった。 このためにアンシュルス運動はますます力を得た。

    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党、ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府にはドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を受けて
    いた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者クルト・フォン・シュシニックは
    何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーはそれでも満足せず、1938年、
    ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によってアンシュルスを成し遂げた。
    オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者とユダヤ系住民を逮捕し、
    ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。 1939年、ドイツの
    ポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まった。

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    オーストリアは、1774年に、全国民を対象とする無料の公共教育制度を発足
    させた。 識字率、つまり、読み書き出来る成人の割合は、99%に達している。

    オーストリアの義務教育は6歳からの9年間で、4年間の基礎学校を終えると、
    中学校と一般教育中高等学校の2つのコースに分かれる。 授業は月曜~土曜日の
    午前8時~12時、または午後2時までとなっており、義務教育の間は科目が決まって
    いるが、6年生からは外国語、コンピュータ、宗教、生物実験、ダンス、チェス等の
    選択科目がある。 学校教育の最初の4年間は、フォルクスシューレ(公共の
    小学校)で行われる。 フォルクスシューレを卒業した後、一部の学童は8年制の
    中等学校で教育を受ける。

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    年齢が18歳位になると、入学試験を受けて大学に入る。 その他の学童たちは、
    フォルクススシューレ卒業後、4年制のハウプトシューレに進学し、その後、更に
    4年間、技術研修所、または、職業訓練所で研修を重ねる。 研修所の中には、
    大学進学の道が開かれているものもある。

    オーストリアの教育施設の中で最も規模の大きいのは、ウィーン大学で、現在
    約3万人以上の学生を擁している。 創立は1365年で、ドイツ語圏で最も古い。
    法律、医学、実業、文学、美術等、多くの専門課程がある。 24歳以上の労働者
    には、成人教育センターでの教育の道が開けている。

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    【言語と文学】
     殆んどのオーストリア国民は、ドイツ語を使っている。 但し、この国のドイツ語
    には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドにはハンガリー語を
    話す人達もいる。 ケルンテンに住む2万人のスロベニア人の多くは、スロベニア語を
    使う学校に子供を通わせている。

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    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ家王朝時代に教会や修道院で演奏
    された宗教的ナ賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガーたちの叙事詩は、
    各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者たちの人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けて、ドイツの音楽家たちがオーストリアへ来て、合唱団や
    楽団の指揮を執った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、オーストリアの
    作曲家たちは、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合させて、
    ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族たちの後援を受けて、ウィーンその他の都市で盛んに
    なった。 富裕な貴族エステルハージ公の音楽指揮者だったヨーゼフ・ハイドンは、
    管弦楽やソナタを数多く書いた。 彼は生前に多数の作品の楽譜を出版し、
    ヨーロッパで最も有名な作曲家の1人となった。 こうしてクラシック音楽は誕生
    した。



    モーツアルトは幼少時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、優れた歌劇、
    管弦楽、器楽などを含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の作品の多くは批評家
    たちに賞賛されたが、演奏家や歌手たちにとってモーツアルトの作品は演奏し
    にくかった。 生活苦と戦いながら、モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(1770年~1827年)は、ドイツ生まれ
    だが、成人してからの生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートーベンは、
    作曲とピアノ演奏で、ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の
    絶頂期に聴力を失い始めた、聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った
    後も、表現力豊かで力強い音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家たちに
    影響を与えた。

    フランツ・シューベルト(1797年~1828年)は、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を
    数百曲も作曲した。 彼の作品の中で最もポピュラーなのは、ピアノ伴奏付きの
    歌曲、リートである。



    グスターフ・マーラーとアントン・ブルックナーはどちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。 ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・
    ワルツを多数作曲し、父は『ワルツの父』、息子は『ワルツ王』と呼ばれた。
    フランツ・フォン・ズッペとフランツ・レハールは、オペレッタの作曲家で、
    彼らの作品は、今でもウィーンでは人気が高い。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

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    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

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    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となって
    いたマリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの
    戦争が始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討ち
    破った。 1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。
    この新しい帝国は、現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、
    東南ヨーロッパの諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になって
    いた神聖ローマ帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、
    イギリス、ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年
    オーストリアに侵入して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと
    結婚させた。 だが1812年、ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、
    再度同盟を結んで、ナポレオンと戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利を
    おさめ、ウィーン会議を開いてヨーロッパ各国の国境を定めた。

    この会議でオーストリアはヨーロッパの中心および、東部での支配権を確立した。
    独立の領邦だったザルツブルク大司教管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国も
    オーストリアの領域となった。 神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主
    とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】
    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・
    メツテニッヒは、その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク
    王朝を維持するため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、
    ハプスブルク政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、
    メルテニッヒは辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、
    ハプスブルク家に忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。
    12月、ハプスブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、
    その甥のフランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
    ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
    ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
    これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
    次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
    まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
    王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
    スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
    オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
    支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
    ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
    継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
    ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
    込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
    継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
    シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
    フリードリヒの勝利に終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
    資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
    市民の全てが教育を受けられるようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
    表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから解放した。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた
    盛んになった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人
    との戦いで戦死し、バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン
    (今のチェコ)の国王オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、
    オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。

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    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家の
    ルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の
    軍隊は、マルヒフェルトの戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの
    領土は次々とルドルフの支配化に入った。 こうして、ルドルフを初代とする
    ハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも渡ってオーストリアに
    君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主のほとんどは、
    同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに
    併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

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    【帝国の膨張】
    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
    チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
    息子マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド
    (現在のオランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入
    された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によって
    ハプスブルク家の領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王
    フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
    1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
    その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な領域をハプスブルク家
    当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
    ハンガリー両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、
    両国の王を兼ねた。ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
    マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を
    得て、フェルディナントに反抗した。 当時のトルコは軍事大国で、バルカン
    半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
    迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国
    (公爵の領地)などの領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の
    中で、7人が選挙候と呼ばれる地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組み
    であった。 976年、オットー1世の後継者であるオットー2世は、
    バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的地位の低い君主)
    に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと
    東のマジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が
    新たに整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、
    神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が
    大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルク家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤソミルゴットの地位を公爵に
    引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めて
    ウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で
    繁栄を続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったため、オーストリアの経済的重要性が大きくなった。
    リンツやクレムスなど川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年、
    隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、
    バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、
    キリスト教は、帝国領土内の人々の間に着実に広まり、4世紀には、帝国の
    国教として公認された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。

    この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は
    両地域の境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の
    大司教管区と定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を
    征服し、ここを『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。
    東からフランク帝国を攻撃して来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の
    意味を持つ名称となっている。 この名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』
    と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。
    817年オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配する
    バイエルン王国の一部となった。 834年にヴァルダン条約が締結されて
    相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東フランク王国を創設した。 これは、
    現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む広大な領域である。

    876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人と
    アヴァール人は東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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