多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    名所・名勝・史跡・旧跡 に参加中!

    小諸駅前にある懐古園は、旧小諸城跡で、戦国時代に小諸は武田氏の領地と
    なったため、現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった
    山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。 また、
    豊臣秀吉天下統一の際に小諸は、城主となった仙石秀久によって完成された
    城となっている。

    kaikoen

    城下町より低い位置に城を築いた『穴城』は全国でも珍しい城で『日本百名城』
    ともなっている。 仙石秀久が築いた大手門や野面石積みの石垣が、400年前の
    姿で残されており、明治の廃藩置県により役割を終えた小諸城は、本丸跡に
    懐古神社を祀り、『懐古園』と名付けられた。

    IMG_3033

    現在の『三の門』に掲げられた扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆に
    よるもの。 懐古園は、明治の文豪・島崎藤村をはじめ、若山牧水、高濱虚子、
    臼田亜浪のゆかりの地であり、多くの歌碑を見る事が出来る。



    先の大戦では小林亜星、永六輔が小諸に疎開していたが、そのため、
    『小諸 わが想い出』は、このご両名の作詞作曲となっている。 また、
    『上を向いて歩こう』は、永六輔氏が戦時中の小諸時代、この懐古園での
    悲しい思い出から作詞されたもの。

    IMG_3048

    懐古園のすぐ隣には、島崎藤村が国語と英語の教師をしていた小諸義塾記念館が
    当時の姿で復元されている。 島崎藤村が小諸時代に残した代表作は、
    『小諸なる古城のほとり』。

    IMG_3067

    小諸から更に小海線で岩村田へ移動。 佐久市の中心地だが、旧岩村田藩で
    あったため、駅の名前は、佐久ではなく、岩村田のまま。 北陸新幹線の佐久平駅
    からは、800メートルほど離れているが、岩村田にある寂れたアーケード街は、
    地方都市の衰退を象徴しているようだ。 この付近は、甘茶の産地であるため、
    一部のホテルでは、無料で甘茶を振舞っているところもある。

    【佐久ホテルの珍しい甘茶風呂】
    IMG_3123

    佐久平駅は、新幹線停車駅なのにも関わらず、在来線は無人駅。 よって、
    車掌がホームで切符の回収を行う。 ホームは1面のみ。 通常の新幹線停車駅は、
    在来線を新幹線がまたぐのだが、この駅は逆に在来線が新幹線をまたぐという
    珍しい駅となっている。

    IMG_3142

    【小諸の思い出】
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    行った場所や気になる場所 に参加中!

    こどもの国は、横浜市青葉区と東京都町田市にまたがる、多摩丘陵の自然を生かした
    100万平方メートルもの広大な遊び場。 牧場やこども動物園、プール、スケート場を
    はじめ、たくさんの遊具やサイクリング、ア­スレチックなどがある。 東急こどもの国線
    『こどもの国』駅目の前にある。

    IMG_1786

    戦時中は、旧日本軍最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵
    施設(東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所)であった。 敗戦後は、田奈弾薬庫
    として米軍に接収されるが、後に返還され、1959年の当時の皇太子(今上天皇)の
    成婚を記念して、主に、国費と雪印乳業などの民間企業からの寄贈により、施設跡地を
    整備し、1965年5月5日(こどもの日)に開園したもの。 開園以来国営であったが、
    1981年に民営化された。 公園の土地等は国有地となっている。



    横浜市郊外、東京都町田市との境界線上に位置しているため、横浜中心部からは、
    電車を用いても1時間程度掛かる。 平日は、かなり閑散としているが、休日とも
    なれば、家族連れで賑わうが、上記の通り、横浜市街からは、かなり離れているため、
    横浜市民が訪れるとしても、数年に1回程度。

    IMG_1779

    東急こどもの国線が単線で走っているが、2両での運転となっており、20分間隔での
    運転のため、車での来場者が極端に多いのが難点。

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    米沢に春を告げる一大イベントとして有名な、米沢上杉まつり。 毎年、ゴールデン
    ウィークである、4月29日~5月3日に掛けて開催される。 開幕パレード、武てい式、
    甲冑行列、川中島合戦などの催しが盛大に行なわれるが、特に最終日の川中島
    合戦が見所。 上杉武田両軍総勢約800名の激突、火縄銃の迫力に詰め掛けた
    大勢の観客の歓声が沸き起こる。



    米沢は、元々は、伊達氏の居城であったが、国替えにより、上杉氏の領国となったが、
    関が原の戦いで破れた上杉家は、領土を大幅に失ない、米沢のある置賜地方を残す
    のみの大幅厳封となったが、この米沢の現在の礎を築いたのが、上杉家筆頭家老の
    直江兼直。 その後、米沢藩は、家督相続のペナルティーとして、30万石あった領国から、
    信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて、
    置賜郡内の15万石のみとされた。 現在、米沢には伊達家の面影は全く残っては
    おらず、全て上杉風の街になっている。

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    日々の出来事 4 に参加中!

    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    テュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラヴ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれる。

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    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部から
    ヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、
    アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入する
    ようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。 しかし、ブルガール
    部族連合は分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが
    移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する
    部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から、
    大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの
    北方の草原にあった。
     
    bulgar-emap

    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス北麓の
    チュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、ハザール可
    汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀のハザールの滅亡と
    共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を遡ってカマ川との合流
    地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタルスタン共和国周辺)に定住、農業と
    交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    テュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。
    特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でもブルガール人の
    話していた言語の特徴を保持しているという。
     
    Bulgaria_800ad

    一部の部族集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に
    定住した。 この集団をドナウ・ブルガールと言う。 彼らは南隣する東ローマ
    帝国と戦い現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア
    帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。 ブルガール・ハン国のブルガール
    人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にコーカソイドに属する
    スラヴ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    Bulgar_warrior

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、ヴォルガ川
    中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語。 テュルク諸語の中での
    位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られている。 ブルガール語の
    話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを構成する民族集団に含まれて
    いたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、他のテュルク諸語とブルガール語
    との間で見られる音韻上の対立が規則的に現れる事から、現在存在する言語の
    中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語であるとみなされている。 尚、現在の
    ヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の要素を一部含むものの、キプチャク系
    テュルク言語とブルガール語の混交言語と考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラヴ化に伴い、バルカンでの話者は途絶
    したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラヴ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者で
    あった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収されたと
    言う、世界的に見ても、かなり珍らしい言語となっているが、その被支配者で
    あった言語が、スラブ祖語である古代教会スラブ語の基となったのは、かなり
    興味深い。 

    【ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古テュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。

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    大奥は、江戸城内にかつて存在した将軍家の子女や正室、奥女中たちの居所であり、
    初代将軍徳川家康の時代から、江戸城に『大奥』と呼ばれる区画は存在していたが、
    当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の
    境界が存在していなかった。 この境界が江戸城に現れたのは、元和4年(1618年)に
    2代将軍・徳川秀忠が『壁書』を制定した時である。 以後、本丸は幕府政庁の『表』、
    将軍が政務を執る『中奥(奥)』、将軍の私邸『大奥』に区分された。

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    2代将軍見台所のお江の方によって、その礎が築かれ、3代将軍家光の乳母、春日局に
    よって組織的な整備がなされて行き、その後、数百年にも渡る大奥に形が整えられて
    行った。 大奥は、将軍家お世継ぎを設ける場としての役割以前に、女同士の権力や
    欲のぶつかり合いの場として、度々ドラマ等にも登場するが、実際の大奥では、内情を
    漏らさぬように誓詞血判させられていたため、現在でもその実情は詳しくは分かって
    いない。
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    お江の方と春日の局の壮絶な世継ぎを巡る争いは、その権力関係からして、一介の
    乳母ごときが将軍見台所と対等に渡り合える等あり得ない事から、ドラマの演出と見るのが
    妥当。 その他にも、大奥総取締役という役職は、大奥には存在していなかったと言う。

    5

    その後、数百年にも渡り、大奥は、栄華を極めたが、慶応4年(1868年)4月に江戸城の
    明け渡しが決定し、終焉を迎える。 同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室の
    静観院宮と同生母である実成院が清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室の
    天璋院と同生母本寿院が一橋邸へ引き移り、大奥はこの世から姿を消した。

    現在の大奥跡は、公園となっており、江戸城本丸跡に最も近い場所が、大奥があった
    場所とされている。 かつては、女の欲が渦巻いていた女の園も、今では、のんびりと
    散歩が楽しめる場所に変わっているところが、興味深い。

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    東京港区にある増上寺は、徳川将軍家の菩提寺として、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、
    6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍
    正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定
    夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代
    家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人がこの地に埋葬されている。



    徳川将軍家墓所は、これまでは、年に一度の特別公開日を除いて、非公開であったが、
    2014年4月2日より、一般公開となった。 戦前までの芝増上寺の境内は、今の3倍程度の
    敷地があり、これらの霊廟に祀られていた遺体は、1958年(昭和33年)に改葬され、
    墓所は増上寺本堂裏に移転している。 現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと
    文昭院霊廟の奥院の門だったもの。 秀忠夫人崇源院霊廟の一部は鎌倉建長寺に
    移築された。 霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンス
    パークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。

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    その中でも、2代将軍秀忠公の御霊屋である台徳院は、日光東照宮にも負けない程の
    絢爛豪華さを誇っていたが、昭和20年の東京大空襲により消失し、それまで国宝指定
    されていた、焼け残った一部の将軍家の建築群も、全て国宝から外された。 台徳院は、
    江戸初期の寛永9(1632)年に建立されたもの。 その実像を唯一知る事の出来る
    精巧な模型が英国で見つかり、修復を経て2015年4月から増上寺で公開が始まった。

    秀麗な彫刻や極楽浄土を夢想させる極彩色は、戦後70年の間、歴史のふちに長きに
    渡って忘却されていたが、この度、約100年ぶりに日本への里帰りが実現したもの。

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    伊達家家臣である、支倉常長(はせくら つねなが)は、今から約400年ほど前の
    1613年に、石巻市月ノ浦を出航し、慶長遣欧使節団を率いて、日本人として
    初めて、太平洋、並びに、大西洋を横断して、ヨーロッパまでの渡航に成功し、
    ローマで貴族に列せられた。 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
    日本人として、初めてコーヒー、並びに、チョコレートを食した人物とされて
    いる。

    hasekurra
    世界記憶遺産に登録されている、仙台市博物館所蔵の『支倉常長』の肖像画

    慶長遣欧使節団は、仙台藩が単独で派遣を行った使節団であり、スペイン人の
    フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを副使とし、常長が正使となった。 総勢
    180名で組織され、ガレオン船サン・ファン・バウティスタ号でスペインを経由
    してローマを目指した。

    この使節団の目的は、通商のためとされているが、実際のところは、仙台藩と
    スペインとの軍事同盟を結ぶ事が目的だったとも言われており、伊達政宗が
    徳川宗家を倒すための足掛かりだった可能性も否定出来ない。

    慶長17年(1612年)、常長は、第1回目の使節として、ソテロと共に浦賀より
    出航するも、暴風に遭い座礁し、遭難した。 再度仙台へ戻り、慶長18年9月15日
    (1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

    Hasekur

    出航後、常長らの一行は、まず、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコへと
    向かった。 アカプルコからは、陸路で大西洋岸のベラクルスへと移動し、
    ベラクルスから再度、大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン・
    アンダルシア州セビリア県)に上陸した。 その後、慶長20年1月2日(1615年1月
    30日)には、スペイン国王フェリペ3世に謁見を果たしている。

    その後、更にイベリア半島から陸路でローマへと渡り、元和元年9月12日(1615年
    11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。 また、その後もマドリードに
    戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

    しかし、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、通商交渉は
    成功する事はなかった。 常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日
    (1620年9月20日)に帰国した。 この際、一部の使節団員は、既にキリスト教に
    改宗していたため、その地に残り、その後、その子孫達は、『日本』を意味する、
    『ハポン姓』を名乗り、現在に至っている。

    慶長遣欧使節団の帰国時には、日本では既に禁教令が出されており、常長は、
    帰国から2年後に失意のうちに死去した。 その後の支倉家は、嫡男常頼が後を
    継いだが、寛永17年(1640年)に、家臣がキリシタンであった事の責任を
    問われて処刑され断絶した。 しかし、寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の
    代に許されて家名を再興した。


    仙台は再び世界へ

    常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、
    平成13年(2001年)に国宝に指定され、2013年にはユネスコの『世界記憶遺産』に
    登録された。 その資料の中には、常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵
    としては最古のものとされている。 資料の中に『支倉』を古典ラテン語表記で
    FAXICVRA と表記した部分があり、当時『ハ行』を唇音で発音していた証拠と
    なっている。

    tsunenaga
    スペイン、イタリア、フィリピン、キューバを始めとして、世界各地に残る『支倉常長像』

    これらの資料は、主にスペイン側が保管していたものを、仙台市へと寄贈したもの。
    また、世界記憶遺産に登録を果たしたのも、スペイン政府からの後押しが強かった
    ためとも言われています。

    【お勧めの一冊】


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    戦国時代のちょっといい話。

    戦国武将の中でも、随一の人気を誇ると言っても過言ではない伊達政宗と真田幸村。
    この伊達軍と真田軍は、慶長20年(1615年)に起きた、『大坂夏の陣』で東西
    両軍に分かれて激突しました。

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    伊達家随一の家臣、片倉小十郎重綱(後の重長)が率いた東軍の伊達軍は、この時、
    西軍であった、真田軍と道明寺であいまみえる事となりました。 この
    『道明寺の戦い』は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために
    行われたもので、この時、大阪城の外堀は、既に埋められていたため、豊臣軍は、
    城を出ての戦いを余儀なくされました。


    毎年10月初旬に開催されている『鬼小十郎まつり』

    この戦に参戦した片倉小十郎は、現在の宮城県白石市にある、白石城の2代目当主。
    慶長20年(1615)5月6日未明より、片倉隊は、大坂方の後藤又兵衛、薄田兼助らと
    大乱戦となります。 この時、小十郎自らも敵4騎を切り倒した他、片倉隊だけ
    でも、討ち取った首が『93』と記録されています。 翌7日も片倉隊は『60』の
    首を挙げたと云わっており、この2日間における、片倉隊の奮戦は凄まじいものが
    ありました。
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    こうした活躍により、重綱は『鬼小十郎』と称されています。 その一方で、
    真田幸村は、奮戦及ばず、この戦で命を落としています。 長男の大助は、
    大坂城で同じく命を落としていますが、実は、自らの死を覚悟した幸村は、自らが
    戦った、敵将である片倉小十郎を見込み、予め他の子息達を託していました。
    これを快く引き受けた、小十郎は、幸村の子供たちを自分の領地である、白石へと
    呼び寄せました。 この時白石に来たのは、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4人。

    後に、阿梅は小十郎の後添えとなっている他、阿菖蒲は伊達政宗の正妻、愛姫の
    実家である田村家第31代当主定広に嫁ぎ、また、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、
    仙台藩領内に領地を与えられて、仙台藩士に取り立てられています。

    その直系の子孫が、現在の『仙台真田家』となっています。 現在の宮城県
    白石市には、真田家ゆかりの地が沢山あります。 来年度の大河ドラマは、
    『真田丸』となっているため、その前に、白石を訪れて、あらかじめ予習をして
    おくのも、良いかも知れません。

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    その時の両軍の激突の様子を再現しているのが、大人気の戦国バトルゲームの
    『戦国BASARA』。

    【お勧めの一枚】


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    最近、どうも石巻の被災が、全て『福島』にすりかえられている場面に多々遭遇
    するのだが、私の実家がある場所は、石巻のすぐ隣の自治体である、美里町
    なのだが、石巻の中心部からは、15キロ程度の場所で、石巻市との境界線からは、
    3キロ程度しか離れていない。 しかも、母親が、石巻の出身であるため、私が
    生まれたのは、実は、石巻。 いとこが全員石巻に住んでいるため、当然、
    石巻弁も完全にネイティブ。
     
    ishinomaki

    出身地を聞かれると、かなり困るのだが、私の地元は、色々な地域と接点があり、
    結局、ハッキリとどの地域に属するとは言い切れないない場所にあるため、その
    時々に応じて、『美里の出身』と言う事もあれば、『大崎の出身』と言う事もあれば、
    『石巻の出身』という事もあれば、『仙台の出身』と言う事もあれば、『宮城県の出身』
    と言う事もある。

    被災直後の石巻~女川~南三陸

    私の母方の祖父は、石巻市内に昔あった、『広淵沼』の干拓に一生を捧げた人であった。
    かなり広大な沼地だったため、大正10年(1921年)に始まった干拓が完了したのは、
    昭和3年(1928年)だった。 今では、その土地は、広大な田んぼになっているのだが、
    この沼の干拓の後に、その土地への入植者を募ったのが、今の石巻市広淵地区。

    今でも石巻の地名として残っている『砂押』とは、その当時の名残。 尚、父方の
    祖父は、樺太の開拓に行った人であった。

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    関東に住んでいると、被災地に関する情報は、全く入って来ないため、関東の
    人たちが、被災地に全く関心がないのは、仕方がないとして、全ての被災を
    『福島』と言われるのは、ハッキリ言って、耐えられない。 海が重油で燃えたのも、
    燃料が全く足りなかったため、遺体を火葬出来ずに、一旦土葬にしたのも、
    石巻付近。 私のいとこは、全て石巻方面なのだが、今でも、怖くて、自分の
    親類縁者、友人、知人に至るまで、自分の母親にすら、誰か死んだかを聞いては
    いない。 沿岸部の山元や七ヶ浜にも友人がいるが、連絡の方法すら分からない
    ため、未だに、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。

    被災前の石巻の様子

    40年前の石巻中心部が買い物客で溢れていた時代の街並みも覚えている。
    30年前に『石巻バイパス』が完成して、石巻駅前の衰退が始まった。 その時に、
    イトーヨーカードーが開業したのだが、そのヨーカドーは、今では、完全に建て
    替えられて、同じヨーカドー系列の『ヨークベニマル』になった。 2000年頃に、
    三陸自動車道が石巻まで開業して、市の中心部が、『イオン』周辺へと全て移された。
    瀕死の状態で、衰退激しい、石巻駅前とは、打って変わり、こちらは、被災後に、
    ますます勢力を増すばかり。

    広淵沼の干拓の様子

    石巻市内では、今でも、仙石線が、完全に運転を再開していないため、被災後は、
    市内の交通量が、かなり増えた。 石巻駅から三陸道のインターチェンジまでは、
    混まなければ、車で5分弱程度で到達出来たが、今では、15分ぐらい掛かる事も
    しばしば。 津波災害で、かなりのものを失った石巻だが、これが、再生のチャンス
    なのかも知れない。

    個人的には、現在の蛇田駅か、その付近に、新しい石巻駅を建設して、町の中心部に、
    石巻駅を置いた方が、実際の生活に合っていると思う。

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