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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    現在は、東北の中心地として発展著しい仙台なのだが、現在の美しい杜の都の
    街並みは、戦後の焼け野原から長年を掛けて復活したもので、特に、現在仙台の
    表玄関となっている仙台駅西口付近は、アメリカ軍のB-29によって、焼け野原と化
    したため、何も残らなかった。

    仙台駅東口付近は、逆に戦後も焼け残ったため、20年ほど前までは、戦争で焼けた
    地域と焼け残った地域がハッキリと分かったのだが、現在では、東口も大々的に
    再開発が行われたため、その差が殆どなくなった。



    1945年(昭和20年)5月20日、B-29による仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が
    上空から撮影された。 アメリカ軍は、仙台を工業面での重要性はないが、住宅が
    密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した
    都市であり、爆撃による心理的効果も期待出来ると評価していた。 アメリカ軍は、
    大規模空襲を行う前に、ビラを上空から撒き空襲を予告しており、そこには、
    『仙台よい町森の町 7月10日は灰の町』と印刷されていたという。 更に連合国は、
    ラジオでも恐怖を煽るために、繰り返し『仙台にお邪魔します』と放送したという。

    1945年7月10日、テニアン島からB-29 124機が飛び立ったが、そのうち1機は引き
    返した。 B-29 123機は、午前0時3分から2時5分まで、仙台中心部を大規模
    攻撃し、約912トン、1万2,961発の焼夷弾を投下した。 仙台上空に到着した
    爆撃機は、3~5機編成で飛行し、25回に渡る空爆を敢行した。 この時の死者は
    1,399人にも上り、負傷者は1,683人となった。 主に仙台駅西側の約500
    ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1,900戸にも上った。



    仙台空襲では、仙台城付近も空爆されたため、その際に大手門や当時国宝であった
    伊達政宗の墓所、瑞鳳殿も焼け落ちた。 戦後の復興において仙台では、大幅な
    道路の拡張が行われ、杜の都を取り戻す活動が行われた。 仙台が城下町であり
    ながら、片側5車線もの幅の広い道が整備されているのは、戦後の復興計画による
    ものであり、戦後の更なる仙台の発展を見越して計画されたもの。 計画当初は、
    余りにも広い道路であったため、一体何に使うのかと揶揄されたという。

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    伊達政宗が仙台にやって来た際、それまでにあった『千代』の街と城は徹底的に
    破壊され、新たな城下町が建設された。 その後、日本を二分した内戦『戊辰戦争』
    において、仙台藩は総指揮を取ったが、戦に敗れてしまったため、仙台の街は
    官軍によって徹底的に破壊された。 太平洋戦争でも徹底的に街が破壊され、
    2011年には、東日本大震災によって、今度は沿岸部が消滅した。

    『仙台の街はフェニックス』という言葉があるが、それは、過去に何度も破壊され
    ながら、その度に着実に復興、復活をして来た仙台の街の歴史を物語っている。

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    明治17年(1884年)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の
    頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど、広い視野を持って
    いた。

    五十六の名前は、当時の父親の年齢から採ったもので、母親も45歳と高齢であった。
    旧長岡藩家老、山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。 文武両道、
    質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きが掛かる一方、石油や航空に早くから
    注目していた。 リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に航空の重要性を
    力説した。 太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

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    当時、仮想敵国であったアメリカを視察した山本は、アメリカとの開戦には、
    あくまでも反対であった。 『この身滅ぼすべし、この志奪うべからず』と、
    わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、
    郷土を愛し、慈悲の心を強く保っていたからこそである。



    だが、その意に反して、連合艦隊司令長官として未曾有の大戦争の指揮を執った。
    長岡空襲は、山本の故郷という理由で行われた。 TVで米国マスコミ取材に当時の
    軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたと
    語っている。(ただし、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設が
    あり、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。

    昭和18年(1943年)ブーゲンビル島で戦死。 最終階級は元帥海軍大将。 激動の
    世紀に、しなやかかつ、力強い心で生きた山本五十六の人生は、故郷長岡市の
    山本五十六記念館で今でも語り継がれている。

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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属する
    クロマニヨン人が住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃
    から、フランスには、鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した
    地域は『ガリア』と呼ばれている。 紀元前58年から、ケルト人の指導者
    ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が
    支配するようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を
    起こし、キリスト教に帰依する。

    メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、フランク
    王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海に
    およぶ地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今の
    フランスにあたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で
    農業技術が発展し、土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、
    大領主に忠誠をつくして保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立った
    カペー朝は、キリスト教の権威を支えに、中世の封建制度を確立した。

    11~12世紀には、ロマネスク様式の教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の
    教会が各地に建てられた。 この頃、都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

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    慶長遣欧使節団に同行したソテロの『覚書』が残されているが、それには、
    『日本との通商はイスパニア(現在のスペイン)に利益をもたらすであろう 』
    とか、『通商が成れば、イスパニア系のフランシスコ会派は言うまでもなく、
    キリスト教宣教師を幕府が厚遇するであろう』と書かれていた。

    これだけであれば、通商が目的ということで別に問題はないが、更に驚くべき
    ことが書かれていたのである。 要約すると、『政宗は時期皇帝になるべき最強の
    実力者であり、家康の信頼もあつく、今回の使節派遣は家康の不快とするもの
    ではない』というものである。

    ここで注目されるのは、家康のキリスト教に対する姿勢である。 周知のように、
    家康は慶長17年にキリスト教を禁止している。 ただ、家康は『キリスト教は
    好ましくないが、貿易は推奨したい』と考えていた。 特に、ルソン(現在の
    フィリピン)とノビイスパニア(現在のメキシコ)は、当時、世界有数の産銀国で、
    その技術を導入したいと考えていたようである。

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    そのルソンは、ノビイスパニア副王の支配下にあり、ノビイスパニアは、
    イスパニア国王の下にあった。 だから、ルソンやノビイスパニアとの交渉が
    必要だったのである。 交渉のためには、好意を持っていないキリスト教宣教師
    とも接触を保っていなければならなかった。 家康が慶長18年までバテレン
    追放令を出さなかったのには、そうした背景があったのである。

    家康がはっきりキリスト教禁止を打ち出している状況の下で、政宗は何を考えて
    いたのだろうか。 ここに、政宗が天下を狙うという可能性を垣間見ることが
    出来る。 というのは、使節一行がマドリードからローマに行く時、マドリード
    から一行に従い、渉外係、兼通訳として同行したシピアーネ・アマチが
    『伊達政宗遣使録』というものを遣わしていて、そこにびっくりするようなことが
    書かれていたのである。

    bautista

    支倉常長がイスパニア国王フィリップ三世の前で次のように演説したという。

    わが君、奥州王は、陛下の強大なることと、その保護を請う者に対して、寛仁
    なることを聞き、予を派遣し、その位と領土とを陛下に献じ、大国と親交を結ば
    しむ。 今後、いつにても陛下の望みに応じ、喜びて、その全力を用いんとする。

    ここに、『位と領土とを陛下に献じ』とあることに注目したい。 政宗自身を
    『奥州王』と言っていることも興味深いが、これは、仙台領、別な言い方をすれば、
    奥州国を植民地として、イスパニアに献上し、イスパニア無敵艦隊の力を借りて、
    倒幕に立ち上がり、日本全土を自分のものにしてしまおうという意図があった
    ということになる。 ただ、この時の政宗の策略は、不発に終わっている。

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    伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、伊達輝宗の長男として生まれている。
    その12日後、中央では、織田信長が美濃の斉藤龍興を逐って、稲葉山城を奪い、
    岐阜城と改名している。 この時、信長は34歳。 政宗が『遅れて来た戦国武将』と
    言われる所以である。

    しかも、会津の芦名義広を摺上原の戦いで破り、奥州をほぼ制圧した天正17年
    (1589年)には、関白豊臣秀吉からの横槍が入った。 結局、翌年の秀吉による
    小田原攻めに従軍することとなり、政宗は、24歳の若さで秀吉に臣従せざるを得ない
    こととなった。 以後、豊臣大臣のひとりとして、天下を狙うなど夢のまた夢と
    言った感じであった。 秀吉から与えられた所領の支配を着実に進めるしかなかった
    のである。

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    政宗は、秀吉の資質を見抜き、秀吉に取って代わろうなどとは思わなかったものと
    思われるが、その秀吉が慶長3年(1598年)8月18日に亡くなったことで状況が
    少し変わって来る。 秀吉の遺児秀頼を盛り立てようとする石田光成と、秀吉に
    代わって実権を握ろうとする徳川家康との対立が鮮明になって来たからである。

    この三成と家康の対立の時、政宗は迷わず家康陣営に属しており、同5年
    (1600年)の関が原の戦いの時も東軍の一員として、西軍上杉景勝に対峙している。
    実は、関が原の戦いの前年、、堺の茶人今井宗薫が間に立って、政宗の娘の
    五郎八姫と家康の六男忠輝が婚約していたのである。 家康による見方陣営を
    増やす動きの一環であった。 因みに、二人の結婚は、大分後の慶長11年
    (1606年)12月のことである。

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    このように見て来ると、先の秀吉の時と同様、家康の下でも、政宗は忠実な徳川
    大名として生きていたように思える。 家康に代わって天下を狙うなど、あり得ないと
    いうことになる。 ところが、どうもそうではなかったらしい。 それが慶長18年
    (1613年)の慶長遣欧使節である。 この年9月15日、伊達領の牡鹿半島の
    月の浦を出帆したサン・ファン・バウティスタ号で、正使支倉常長の他、ソテロや
    ビスカイノ、更には、政宗の家臣、向井忠勝の手の者等、180人(一説には140人)が
    太平洋を渡った。

    この時期、ローマに使節を派遣した狙いは何だったのだろうか。 一般的には、
    ヨーロッパの国々との通商を目的としたとされている。 確かに、支倉常長が
    ノビイスパニア(現在のメキシコ)に着いた時、そこの副王とノビイスパニアの
    フランスシスコ会総長直属の管区等に宛てた家康の親書では、商船の往来を
    求めているため、それが狙いだったことは確かである。

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    香港住民は、自らを何人だと考えているのか。 この問いの答えは、当の
    香港人にとっても自明のものではない。 香港大学の世論調査プログラムでは、
    返還以来、継続的に香港住民が自分を何人と称するかについて調査を行っているが、
    それによると『香港人』という回答は、返還以来減少していたが、2000年代末頃
    から増加に転じ、2012年上半期には、返還後最も高い45.6%を記録している。
    これに対して『中国人』という回答は、ほぼ逆の動きを見せている。

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    『香港人』という意識は、一般に、1960~70年代の香港の社会的、文化的変容の
    中で原形が生まれ、返還後の1980年~90年代には、『香港人』は『中国人』とは
    異なるという意識が顕著になって行ったとされる。 改革、開放当初、発展を
    始めたばかりの中国大陸は、戦後の高度成長を経て、国際金融センターとしての
    地位を確立していた香港から見れば、『貧しくて遅れた』存在であり、大陸側から
    来る新移民に対して、テレビドラマ等を通じて『ダサい、怠慢、公的道徳に欠けた』
    等、ネガティブなイメージが共有されて行った。

    とは言え、一方で、香港在住民の対部分は、中国大陸から移って来た難民、移民、
    および、その子孫であり、民族的、文化的起源が中国にあることは否定し難い。

    こうした中で、香港住民は、非民主的で遅れた中国大陸と対比されたり、中国共産党
    政権の脅威を訴える局面では『香港人』となり、一方で伝統文化や中国人スポーツ
    選手の活躍を誇りに思う時は『中国人』となるというように、両者を使い分け、
    あるいは、両者の間を揺れて来た。 帰属意識の矛先が、20年も経たない短期間の
    うちに二転三転しているということ自体、この交錯した心理を良く物語っている。

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    2014年12月23日、RFI中国語版によると、香港で行われた世論調査で、『香港人』
    としてのアイデンティティーが『中国人』としてのアイデンティティーを大きく
    上回った。  香港大学民意研究計画センターは香港市民のアイデンティティーに
    関する世論調査を実施した。 12月10日から16日に掛け、1,016人を対象に電話
    調査が行われた。『香港人』と回答したのは42%。 『中国人』との回答は18%
    となった。 

    また、『香港人』『アジア人』『中華民族の一部』『世界市民』『中国人』
    『中華人民共和国公民』というそれぞれの項目に対して、どれほどの帰属感を
    感じるかを0〜100点で表現してもらったところ、『香港人』の平均得点は約80点と
    前回調査を2点上回った。 その他、『アジア人』69.8点、『中華民族の一部』
    65.9点、『世界市民』63.7点、『中国人』62点。『中華人民共和国国民』
    54.4点となった。 

    『中国人』『中華人民共和国国民』の平均点は、2008年の調査開始以来、過去最低
    となった。

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    マカオ(澳門)は、東アジアで最も古いヨーロッパと中国明代の面影が残る
    小さな街。 2015年現在、人口64万人、面積30平方キロメートル、東京都
    府中市とほぼ同じ大きさで、板橋区よりも少し小さい。 最初に街が開かれた
    のは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3部分から成っていたが、両島を
    繋ぐ橋の両側に広大な埋立地コタイが造られ、面積が大きくなった。

    中国の歴史的商業都市、広州に連なる珠江の東シナ海の河口の西南部に位置して
    いるのがマカオとなっており、北東部に位置しているのが香港となっている。
    両地域の移動は、高速フェリーで1時間だが、建設中の港珠澳大橋が開通すれば、
    車で30分となる。 両地は近くなる上、似た歴史を持つが、マカオは決して
    リトル香港ではない。

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    15世紀以降、ヨーロッパで最も大規模な航海に出たポルトガルが、アフリカ西岸を
    南下し、喜望峰を超え、イスラム圏を東に進み、インドを超え、東南アジアを抜け、
    中国南部へと至る。 16世紀はじめに中国に到達し、1557年頃マカオに居留地を
    得て、19世紀に統治権を得た。

    第二次世界大戦後は、ポルトガル本国の力が弱く、1960年代の中国の文化大革命の
    影響を受けて、マカオで起こった中国人による暴動(12.3事件)をポルトガル側が
    単独で鎮圧出来なかったため、マカオでは、中国の影響が強まったと言われている。

    更にポルトガル本国では、1974年に民主革命があり、共産主義の影響を受けた
    軍人によって、独裁政権が倒され、海外領や、かつての海外の植民地が解放されて
    行く。 マカオについても、中国への返還に抵抗が見られず、香港の返還が決定
    した後で、すんなりとマカオの返還が決まり、1999年12月20日に中国の特別行政区
    となった。

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    マカオの返還前の住民社会構造は、4層から成っていた。 本国派遣のポルトガル人、
    最も多い中国(広東)人、その中間に位置するマカエンセ、中国や東南アジアからの
    出稼ぎ労働者である。 マカエンセは、中国とポルトガル、ないし、その他の地域の
    混血グループである。 世界に数万、マカオには、数千人居ると見られている。
    中ポ両言語を話し、独自の文化、コミュニティー、ネットワークを持つ。 伝統
    マカオ社会、行政や初期香港において、仲介以上の役割を果たして来た。

    出稼ぎ労働者は、主に工場、商店、家事労働なとに従事する期限付きの輸入労働力で
    ある。 返還の頃は1万人前後であったが、ここ数年間で急増し、2014年には、
    17万人近い規模となった。 そのうち、11万人が中国からで、中国の労働力輸出
    としても注目するところとなった。

    この社会構造は、エスニシティーによる役割分担である。 ローカル住民の中では、
    マカエンセは優位にあり、例えば、勤勉でなくとも、高位に就いた。 マカオの
    中国人にとっては、中国の政治力や経済力に期待を寄せる所以となった。 共産
    主義の中国の外に住む中国人の中で、最も中国への親近感が高いのが、マカオで
    あろう。

    ポルトガルの影響は、今後も文化や宗教の分野を中心に、色濃く残って行くだろう。
    文化を重んじる細やかな感性は、マカオの地に根付いており、マカオの中国人からも
    感じ取ることが出来る。

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    マカオをポルトガル大航海の終点と見る時、マカエンセ、マカオ料理、マカオの
    建築物や風景等は、旧ポルトガル領の他地域の特徴が融合し、その情緒がマカオ
    そのものと言えるのかも知れない。

    マカオ経済に関しては、特殊な産業構造、賭博産業と観光業が突出している。
    2014年の雇用者数を見ると、賭博関係が27.5%、ホテルやレストラン関係が16%を
    占めている。 マカオの公営賭博は、19世紀頃以来の歴史を持つ。 返還後、カジノ
    投資が自由化され、海外資本の大規模開発が行われ、中国からの客が押し寄せた
    結果、2006年には、カジノの売り上げが世界最高となった。 現在の売り上げ
    規模は、ラスベガスの7倍となっている。 それによって、マカオ全体の収入が
    急増した。

    2014年の一人当たりのGDPは、約8万9千米ドル(約1千70万円)で世界トップ
    クラス、返還当時の5倍以上にあたる。 だが、これらの数字は、中国に左右され、
    近年の中国幹部の汚職摘発の影響で、カジノの売り上げ、GDP共に、減少した。

    賭博が基幹産業となっている社会には、特殊性があり、ギャンブル依存の問題が必ず
    生じうる上、換金や性的サービスの分野も増長する。 そのため、子供や公務員の
    賭博場への出入りは禁止され、『カジノ社会学』という研究分野もある。 日本では、
    ギャンブル依存が放置されたまま、カジノ解禁が提案されている。 マカオの経験
    から日本が学ぶところは多いであろう。

    中国の対外的な窓口であったマカオは、香港の成立以降、その甘みを奪われた。
    地理的にも珠江が運ぶ砂が港としてのマカオを不利にしたという。 しかし、
    返還後は、中国の川砂ではなく、中国人の欲望をかき集め、繁栄に至った。 
    マカオは、今後も独自の戦略によって、大変貌するであろう。

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    宮城県北部、遠田郡に位置する涌谷町は、日本で初めて金が算出された地として
    知られている。 しかし、昭和32年まで、この日本初の産金地が現代ではどこに
    当たるのかは謎とされ、特定はされていなかったのだという。 いかにして、
    この地は日本初の産金地になり得たのだろうか。 金にまつわる歴史ロマンを探し
    涌谷町を訪れた。



    宮城県北部に位置する涌谷町。 JR涌谷駅から程近い場所に広がる
    『わくや万葉の里』は、今から1200年以上も前、東大寺の大仏の完成に大きく
    貢献した。 日本初の産金地、陸奥国小田郡(現在は遠田郡涌谷町)の歴史と、
    金にまつわる太平ロマンを肌で感じることが出来るスポットだ。

    広大な敷地の一角に建てられた『太平ロマン館』内にある歴史館をまず見学して
    おきたい。 多彩な常備施設を通じて、日本における産金黎明期のさまざまな
    『謎』について、その答えが見つかるからだ。 例えば、東大寺の大仏造立の
    ピンチに際し、900両の黄金を献上した百済敬福とは、どんな人物だったの
    だろうか。



    古代における金の採取は、金鉱脈を求めて金鉱石の採掘を行うのではなく、河川
    などで発見できる『砂金掘り』だった。 水流で不純物が洗い流された砂金は、
    純度が非常に高く、しかも、採取方法が単純だ。 そうした採金の知識や技術を
    日本にもたらしたのは、百済の滅亡になどの時に朝鮮半島から日本へ渡って来た
    人々ではないかと考えれている。

    敬福は、百済王家の末裔であり、太平年間に陸奥守としてこの地に赴任した。
    日本初の金の採取に際して、大いにリーダーシップを発揮したのではないだろうか。

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    日本古代史に特筆される『太平産金』以後、陸奥国には、金を租税として、中央
    政府に納めることが義務付けられていた。 大仏造立に使われた金の量は、約146
    キロで、献上された小田郡産の金900両は、約13キロと、全体の10分の1も満たし
    てはいなかった。 そこで、更に金を調達するために、金の税制化がおこなわれた。
    陸奥国多賀郡から北の民は、4人で年間1両の金を採取し、納税することが義務付け
    られた。

    これにより、陸奥国の産金地は、北へと広がり、さながら、ゴールドラッシュの様相
    となった。 しかし、平安時代以降、産金地が宮城県北部から岩手県南部一体に
    移って行くにのに伴い、小田郡の産金記録は消滅。 中世以降には、小田軍が
    遠田郡に編入されたことで、小田郡の場所すら忘れ去られていた。

    そんな中、後世の人達は、いかにして天平の産金地を推理したのだろうか。
    ここにも魅力的な謎解きロマンがある。 江戸時代、手掛かりの1つとされたのが、
    東大寺の大仏に金が献上された際、越中国(現富山県)の国守であった大伴家持が
    詠んだ次の万葉歌の一首だ。

    『天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く』

    この歌の『金花咲く』から、宮城県石巻市の金華山を産金地とする説が広まる中、
    19世紀初め、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の国学者、沖安海が、家業の染型紙の
    商いのために涌谷町を訪問、『この地には、金神社と呼ばれる神社があり、古い瓦も
    出る。 ここ黄金神社こそが天平の産金地であり、古代の神社跡ではないか』と
    いった内容の論文を記し、荒廃した黄金山神社の復興事業に尽力したという。

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    黄金山神社は、現在も『わくや万葉の里』の史跡ゾーンの中枢に、厳かに鎮座して
    いる。 境内には、大伴家持が詠んだ一首を刻んだ万葉歌碑もある。 因みに、
    万葉集に登場する地名の中で、『みちのく山』は北限に位置している。

    古来、『蝦夷(えみし)』の地と呼ばれていた東北は、中央から見ると、野蛮な
    イメージがあったが、太平の産金時代だけは、都から、仏や神に祝福された、
    黄金色に輝く憧れの地と見られていたのかも知れない。

    明治時代以降は、黄金山神社を含む一帯を地質学や考古学の観点から研究し、この地
    こそが太平の産金地であることを検証するための多角的なアプローチが、各分野の
    研究者によって行われた。 その結果、黄金山神社周辺から出土する古い瓦の中に、
    『天平』の文字が刻まれた瓦があることが判明した。

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    そして、昭和32年、本格的な発掘調査が行われ、出土した瓦や建物跡から、天平の
    時代に、六角円堂と思われる仏堂がこの地に建てられていたことが分かった。 瓦の
    デザインは、陸奥国国府だった多賀城や、陸奥国国分寺に用いられた瓦と酷似して
    おり、仏堂が国家の建物であったということを示している。 仏堂は、恐らく、
    産金を仏に感謝し、更なる産金を祈るためのものであったと考えられる。

    また、遺跡の中を流れる小川では、わずかながら砂金が今でも採れる。 これらの
    事実から、涌谷の黄金山神社のある場所が、天平産金、すなわち、
    『日本初の産金地』であるとようやく確定したのだった。

    涌谷をルーツとする宮城県のゴールドラッシュは、中世、後世、近世、そして、
    現代へと産金地を北へ広げ、採掘熱をますます高揚させながら発展して行く。
    地理的な近さ故に、光り輝く金色堂で有名な平泉の『黄金文化』と宮城県の金を関連
    付ける研究者も居る。

    金にまつわるエピソードが密接に絡み合いながら、古代のロマンを今に伝える
    涌谷町。 ここには、『みちのく黄金郷』の原点がある。

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    1935年7月10日に、モスクワ改造計画がソ連共産党中央委員会などにより採択
    された。 これはいわゆる『スターリンのモスクワ改造』の基礎となり、1940
    年代まで実施された。 1929年から30年に掛けて、赤の広場のレーニン廟が
    鉄筋コンクリート製に変えられたが、これが、モスクワ大改造計画の始まりで
    あったと言える。

    クレムリンの近くにあった巨大な救世主キリスト聖堂は1931年12月に破壊され、
    その跡地には巨大なソビエト宮殿の建設が計画され、1939年から建設に着手
    したが、1941年に戦争が始まり、その後、工事は二度と再開されなかった。

    更に、クレムリンからトゥヴェルスカヤ通りに繋がる辺りに記念碑的な建造物が
    造られた。 まず、マネージ広場の脇にホテル・モスクワが出来たが、それまで
    あった商店と教会を撤去して作られた。 このホテルの向かい側には、政府用の
    建物が建てられた。

    モスクワ改造の計画としては、モスクワの周囲に環状線という自動車道路を作った
    こと、旧トゥヴェルスカヤ通りをゴーリキー通りと改称して大幅な拡張を行った
    ことが挙げられる。

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    最も重要なことは、地下鉄の建設であった。 地下鉄は、欧米で始まったものだが、
    ロンドンの地下鉄は1863年、ニューヨークの地下鉄は1868年、パリの地下鉄は
    1900年に完成した。 後発の社会主義国であるソ連では、土地が国有化されている
    ため、地下鉄は、自由に計画したままに建設することが出来た。

    モスクワの地下鉄の最初の開通は1935年5月、1号線Sokoljniki~Park Kuljtury間9.5km
    及びその分岐線(3号線)Kaliniskaya(現Arbatskaya)~Smolenskaya間2.1kmの
    合計11.6kmであった。 モスクワの地下鉄は、旧ソ連時代の『5ヵ年計画』により
    建設が進められ、運営は市地下鉄公社が担当している。 最初の建設計画は
    1931年に決定され、1932年に着工された。 計画にあたっては、ロンドン、
    ニューヨーク、パリ、ベルリンの各地下鉄からの技術支援を得たが、設計、建設は
    旧ソ連邦の技術者により行われた。

    計画路線網は放射線と環状線から構成され、市内と郊外を結ぶとともに、長距離幹線
    鉄道の始発駅と接続されていたが、国鉄路線等との相互直通運転の計画はなかった。
    地下鉄建設は第2次大戦中も続行された。

    地下鉄シェアはモスクワの全交通量の57%と非常に高く、年間輸送人員は世界一
    である。 1990年代までは資金不足のため建設はあまり進まなかったが、最近に
    なって連邦政府は建設資金補助を増やし、地下鉄建設に積極的になってきた。
    2005年9月10日に4号線の支線としてKievskaya~Delovoy Tsentr間2.2kmが開業し、
    さらに2006年8月30日にはMezhdunarodnaya駅までの0.5kmが延伸開業した。

    2008年1月7日には3号線の延伸部分Park Pabedy~Kuntsev-skaya間及び4号線の
    延伸部分Strogino駅が開業した。 これを機に、4号線のKuntsevskaya~Strogino
    間が3号線に統合され、4号線の西方の終点はKuntsevskaya駅となった。

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    アイヌとは、主に北海道に住む先住民族であり、元々、アイヌ語では『人間』を
    表していた。 アイヌ民族は、北海道、樺太南部、千島列島にまたがって
    居住しており、それぞれ北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌと呼ばれた。

    アイヌ語は、言語学的には孤立した地位を占める。 形質状の特徴から
    コーカソイドに属すると考えられたこともあったが、今日ではモンゴロイドの
    一部である、古アジア系民族に入るという説が確定している。

    【アイヌ民族博物館でのアイヌ古式舞踊】


    アイヌ民族は、日本の近代化の過程でその数を大きく減らし、その生活様式も
    大きく変わった。 主に北海道、もしくは、首都圏に居住しているが、アイヌ
    民族であることを隠す人も多く、正確な人口は分かっておらず、2006年北海道内
    での調査に応じたアイヌ人の数は、23,782人しかいなかったものの、実際は、
    その数倍から数十倍のアイヌ人が居るものと思われる。

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    アイヌは、大和朝廷を中心とする日本とは全く異なる歴史をたどって来たが、
    『一つの列島、二つの国家、三つの文化』という言葉が示す通り、アイヌ民族は、
    自身の国家を建てることはなかったものの、独自のアイヌ文化を打ち立てた。
    近代以前においては、北東アジア有数の海洋交易民族だった。

    大和朝廷は、古来から東方の『まつろわざる民』を『蝦夷(エミシ)』と称しており、
    これがアイヌの祖先の一部と考えられている。 蝦夷の征服事業は、長らく朝廷の
    国家事業として行われたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がアテルイを破ったことで
    一旦終結する。 朝廷の支配下に入った蝦夷は、俘囚と呼ばれ、奥州(東北地方)
    では俘囚と和人が入り交じって生活するようになった。 やがて、奥州は安倍氏、
    清原氏を経て奥州藤原氏によって統一され繁栄を極めるが、鎌倉幕府によって
    滅ぼされてしまう。

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    本州で弥生時代が始まった後も蝦夷が狩猟、採集生活を続けた時代を続縄文時代と
    呼び、北海道では、7世紀頃まで続いた。 7世紀に入ると、オホーツク海周辺に
    またがるオホーツク文化が登場し、北方の諸民族の文化がもたらされた。 北東部を
    除く北海道では擦文文化が成立したが、13世紀に入ると、この擦文文化、オホーツク
    文化両者の特徴を取り入れたアイヌ文化が成立した。 また、この頃から日本では
    蝦夷(エミシ)は蝦夷(エゾ)と読まれるようになり、蝦夷(エゾ)がほぼアイヌ民族を
    指すようになる。
     
    オホーツク文化の影響を受けたアイヌは、積極的に周囲の民族と交易を行ったが、
    その過程で中国の王朝とも接触を持った。 中国の史書によると、先にモンゴル
    帝国に服属していたギリヤーク人が、毎年のようにアイヌが攻めて来ると訴えた
    ため、モンゴルは軍を樺太に送り、これを征討したとのことである。 これに
    よって、アイヌは一時的に樺太から追いやられたが、アイヌがモンゴルへの朝貢を
    行うようになったことで、アイヌと大陸との交易はむしろ盛んになった。

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    その後成立した明は、北方民族への影響力を失い、アイヌと大陸の交易が大幅に縮小
    したため、アイヌは、対日交易偏重を余儀なくされた。 鎌倉時代後期頃から、
    アイヌは渡島半島の『渡党』、北海道太平洋岸と千島の『日の本』、北海道
    日本海岸と樺太の『唐子』の3つに分けて認識しており、これは、そのまま、
    松前藩、東蝦夷、西蝦夷となる。

    交易に関する諍いから始まったコシャマインの戦いは、渡島半島から胆振、後志に
    渡る広い範囲で行われたが、武田(蠣崎)信広がコシャマイン父子を討ったことで
    和人の勝利に終わった。 これ以降、渡党の中での蠣崎氏の地位は決定的なものと
    なった。 蠣崎季広の時代には戦国大名の一つとして数えられるようになり、豊臣
    秀吉への臣従を経て、徳川家康によって蝦夷地支配を認められ、その後、松前氏と
    改称、江戸時代に入って松前藩を建てた。

    江戸時代の鎖国政策下にあってもアイヌの北方民族との交易はそのまま認められた
    ため、アイヌを通じて日本に入った清の物産は高値で取引されるようになった。
    このような江戸時代のアイヌと沿海州の北方民族との交易を山丹交易と呼び、この
    時代アイヌは北方において日清両国を繋げる存在であったと言える。

    当初の松前藩の影響力は限定的なものであったため、北海道の各地でアイヌ人有力
    首長が登場するようになる。 その内の一人、シャクシャインが松前藩に対して
    蜂起を行ったものの敗北し、これにより、松前藩によるアイヌ民族の統制はさらに
    強化されて行く。 また、この頃から場所請負制が始まり、アイヌ民族は過酷な
    搾取にあえぐことになる。 松前藩の力が行き届いていない道東、国後島を中心に、
    クナシリ・メシリの戦いが起きるが、結局は鎮圧され、北海道、南千島は完全に
    日本の領域下となった。

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    戊辰戦争以降、北海道の開発のため開拓使が設置され、本州からの移民が激増
    した。 このため、アイヌ民族は次々と土地を失った。 アイヌは本州からの
    移住者達からは差別の対象とされ、『北海道旧土人保護法』の下、土地を制限され、
    日本との同化政策が行われた。 千島・樺太交換条約で千島が、ポーツマス条約で
    南樺太が正式に日本の領土となったことでアイヌ民族の居住地は、ほぼ全て日本の
    領土内に入ったが、日露の国境地帯となった千島・南樺太では、アイヌ民族が
    以前のような生活をすることは不可能となっていた。

    太平洋戦争末期、ソ連が南樺太・千島を占領すると、多くのアイヌ人は『日本国民』
    として北海道に移住し、その後も北方領土問題が解決しなかったことから、千島
    アイヌ、樺太アイヌの伝統は途絶えた。 戦後も長らくアイヌは差別の対象で
    あったが、北海道アイヌ(ウタリ)協会の活動もあって、1997年アイヌ文化振興法が
    制定され、アイヌの立場は向上しつつある。

    北海道白老町にある『アイヌ民族博物館』は、アイヌの文化遺産を保存公開する
    ために作られた施設で、それまで白老市街にあったアイヌ集落を1965年にポロト
    湖畔に移設し、アイヌ民族や北方少数民族の資料、図書等を展示している。 この他
    にも、アイヌの伝統的な住居であったチセを再現、野外展示しており、1984年に
    国の重要無形文化財に指定されたアイヌの古式舞踊も1時間毎に再現されている。

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    仙台藩白老元陣屋とは、 今から約150年前の江戸時代末の安政3年(1856年)に
    置かれた陣屋跡。 当時、北海道はまだ蝦夷地と呼ばれ、日本はまだ鎖国をしていた
    時代であった。 幕末の日本沿岸には、アメリカやロシア等の諸外国が交易を
    するように迫って来ており、箱館(函館)が開港となった時、幕府は、松前藩だけで
    蝦夷地を守るのは困難と判断し、仙台藩をはじめとする東北地方六藩に蝦夷地の
    警備を命じた。



    元陣屋とは、本陣を示す意味があり、仙台藩では、十勝の広尾、道東の厚岸と根室、
    更に、千島列島の国後(トマリ)と択捉(フウレベツ)の5ヶ所にも出張陣屋という
    脇陣屋を置き、太平洋沿岸の東蝦夷地一体の警備にあたった。

    赤い部分が仙台藩の担当地域。 東蝦夷のほぼ全ての警備にあたった。
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    幕府は当初、仙台藩の元陣屋を当時交通の要所となっていた勇払(苫小牧)に
    置くように命じた。 ところが、仙台藩の重役三好監物が現地を調査したところ、
    勇払は湿地帯で陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入りには適していないため、
    箱館に近く、自然の地形をそのまま利用出来る白老が選ばれ、幕府にこれを
    許された。

    仙台から白老までは、約800キロほど離れているが、記録によると、この間の
    移動は、早い時で20日間、川の氾濫や津軽海峡のしけ等で2ヶ月以上も掛かる
    ことも珍しくはなかった。

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    仙台藩元陣屋には、約120人の藩士達が毎年交代で故郷を離れ、慣れない気候風土の
    中で暮らしていた。 藩士達は、弓や剣術の稽古の他、火縄銃や大砲の訓練に
    励んだ。 当時の白老には、400人ほどのアイヌ人達が住んでいたが、北の地で
    生活をするの多くの知恵を彼らから学んだ。

    山と川等、自然の地形を巧みに利用した白老元陣屋の面積は、66,000㎡で、堀と
    土塁と4つの門に囲まれたお城の形をしていた。 内曲輪は、上級武士達が住んで
    いたところで、本陣や勘定所、兵具庫、穀倉等の主要な建物があった。 また、
    外曲輪には、下級武士達が暮らす4棟の長屋と武芸をみがく稽古場等があった。

    慶応4年(1868年)、約260年続いた徳川幕府が倒れ、蝦夷地の警備にあたっていた
    陣屋の武士達は、賊軍と呼ばれて箱館から攻めて来た新政府軍に追われるように
    白老を去った。 こうして、仙台藩元陣屋は、12年間の歴史を閉じたのである。

    その後、東北各地では、仙台藩を中心として、戊辰戦争が始まったが、東北の
    各藩は、この幕末の蝦夷地での警備に資金を大量に費やしてしまったため、
    最新の武器を揃える事が出来ず、旧式の武器だけで戦うこととなっため、
    奥州越列藩同盟は、新政府軍に負けたとも言われている。

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    1612年、徳川秀忠によってキリスト教の禁教令が布かれた。 当時天草は、
    関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名、小西行長に代わり、唐津領主、寺沢広高が
    治めていた。
    人々は実際の石高の2倍にあたる重い年貢に苦しめられていたが、更に禁教令が
    布かれたため、ママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民に向かって『25年後、
    16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう』との預言を残し、
    マカオに追放されたと伝えられている。 その後、大凶作に見舞われた天草の
    人々は、信仰の禁止と厳しい年貢の取り立てに増々追いつめられて行った。

     

    そんな折、16歳の少年、天草四郎が現れ、天草一揆軍の最高指導者となった。
    天草四郎は、元和7年(1621年)、あるいは、元和9年(1623年)に生まれたと
    されており、寛永15年2月28日(1638年4月12日)に島原の乱で討ち取られるまで、
    最高指導者とされた江戸時代初期の切支丹である。 本名は益田四郎で、諱は
    時貞と言った。 豊臣秀吉の息子である、豊臣秀頼の落胤であったとする伝説も
    あるが信憑性は低い。

     

    口之津(長崎県口之津町)で年貢が納められなかった家の妊婦が、寒中の川に
    さらされ、殺される残虐な事件を機に、民衆の怒りが爆発。 天草四郎を総大将
    として、まず島原で火の粉が上がり、一揆群は大島子の戦い、町山口川の戦いで
    勝利を収め、勢いに乗って富岡城を攻めたが、難攻不落の富岡城陥落をあきらめ、
    次は海を渡って原城へ向かったものの、3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に
    敗れてしまった。

    【天草】
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    熊本県天草市にある天草四郎メモリアルホールでは、天草・島原の戦いの発端や、
    天草四郎の人柄、南蛮文化などを詳しく展示してあり、そのすぐ傍らには、
    天草四郎の墓がある。

    天草四郎メモリアルホール
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