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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    歴史は常に勝者の視点でのみ語られる。 明治維新は、薩摩と長州が中心となって
    成り遂げられた、いわば、クーデターだが、薩長は自分たちを官軍、幕府側を
    賊軍とし、維新後は江戸時代を全否定した。 

    2018年は、明治維新から150周年ということで、改めて、明治維新を批判し、
    江戸時代を振り返る本が多数表れているため、歴史の歪曲を再度考える上でも
    明治維新とは一体何だったのかと再び問いかける必要性がある。

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    幕末の偉人と呼ばれる人物では、最も偶像化されているのは、吉田松陰なのだが、
    松陰は、松下村塾を開き、徳川幕府の転覆を企てた極左テロリストのひとりで、
    その罪により、安政の大獄で粛清された最後の1人となったのだが、大河ドラマ
    『花燃ゆ』が始まる前までは、Wikipediaにもハッキリとその事が明記されていた
    ものの、ドラマが終わる頃には、完全に内容が書き換えられ、国家的テロリストが
    完全に美談にされてしまった。 これは、正に洗脳教育の賜物と言う事が出来る。

    来年度の大河ドラマも西郷隆盛を持ち上げるためだけの『西郷どん』であるため、
    この大河ドラマも似たりよったりな低レベルな洗脳ドラマであることが容易に予想
    されるため、まともな人間は見ないであろう。

    例えば、明治維新以降、徳川幕府の鎖国政策は間違いで、鎖国ゆえに日本の近代化が
    遅れたと批判されたが、実際は『江戸四口』と言って、長崎でオランダに、薩摩で
    琉球に、対馬で朝鮮に、松前でアイヌにと、必要に応じて門戸を開いていた。
    それ以外は国を閉じていた訳だが、そのことで外国からの脅威にさらされること
    なく、内政に力を注ぐことが出来たのである。



    江戸・徳川幕府は、270年間続いたが、その間に舟運、特に、日本海、瀬戸内海を
    通って北海道や日本海側の港と大坂、江戸との間で交易する北前船が盛になり、
    日本経済を大きく発展させた。 陸では東海道、中山道、日光街道、奥州街道、
    甲州街道の五街道が整備されだが、17~18世紀にこれだけ街道が整備されていた
    国は世界でも殆んどなかった。 加えて多くの宿場が設けられ、伝馬、駕籠、
    飛脚が置かれ、通信も発達した。


    更に、新田開発によって、関東と東北との舟運が開かれた。 徳川家康が江戸に
    入った頃、利根川は今のように太平洋ではなく、東京湾に注ぎ、頻繁に氾濫を起こす
    暴れ川であった。 そこで家康は、人工的に今のように流れを変え、堤防や農業用
    用水路を作り、その「利根川東遷事業」によって水害が防がれた。

    江戸時代には、下水道の整備が盛んに進められたが、玉川上水など『江戸の六上水』
    が敷かれ、下水道と区別された。 そのお陰で、江戸の町の衛生が保たれた。
    同時期のパリやロンドンが糞尿まみれだったのとは大違いである。 長屋ごとに
    井戸があり、そこで米や野菜を洗い、洗濯するためにおかみさんたちが集まり、
    井戸端会議という地域コミュニティが形成された。 つまり、最も重要な
    インフラは、明治時代ではなく、江戸時代に構築されたということになる。


    江戸時代の識字率は同時期のイギリスなどに比べて、遥かに高かったというデータが
    あり、そうした教育水準の高さを背景に、人材面でも、岩瀬忠震、水野忠徳、
    小栗忠順の『幕末の三傑』のような素晴らしい幕臣を輩出した。 岩瀬は日露和親
    条約、日米修好通商条約を締結し、水野は日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約
    全てで調印し、小栗は世界一周を経験し、軍事の要職を歴任し、海軍国日本を作る
    べしと提唱した。

    新撰組は、時流に上手く乗ることをあえて拒否し、賊軍側について戦死して行った。
    戦後、日本では、官軍、賊軍という薩長史観を仕込まれた。 しかし、賊軍とされた
    東北や北海道などでは、官軍は正義でも何でもなく、無理やり喧嘩を仕掛け、
    強奪して行った泥棒だと言われている。

    歴史は、勝った側だけを見れば良いのではなく、勝者、敗者両方の側から見な
    ければ、真実は見えて来ないのである。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを
    認めた。 ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。
    ピウスツキは、共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に
    新しい国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ
    細長い地域をドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半が
    ドイツ語を話すため、ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に
    置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍は
    ロシア国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、
    ポーランドとロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立
    させた。 産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの
    私有地を獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、
    新しくグディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に
    収めた。 この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家
    である。 ヒトラーはまた、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの
    領土であると主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを
    侵略して分割する秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド
    西部の領土を要求し、ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、
    ドイツが攻撃した場合には、ポーランドを支援すると誓約した。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    ペテルブルグにある中心的な建物と言えば、海軍省を挙げることが出来るが、
    その金色の尖塔は、今日のペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー大通り、
    ゴローホヴァヤ通り、ヴェズネセンスキー大通りから見える。 つまり、海軍本部の
    建物から放射線状に3本の大通りが三方に延びているのである。

    海軍本部は、1704年に海軍造船所として造られた。 造船所は、1844年に閉鎖
    されるまで、バルト海艦隊のために256隻の軍艦を建造した。 この造船所の
    背後に海軍本部の建物が出来た。 1802年に海軍本部は海軍省となり、これを
    機会に建築家ザハーロフの設計で改築が進められ、金色の尖塔を持つ建物が
    1923年に完成した。 海軍省の建物は、幅406mもある巨大なものであり、ロシア
    帝国にとっての海軍の特別な重要性を表している。 金色の尖塔は、ペテルブルグの
    都市のシンボルとなった。 海軍省の前の庭園は、アレクサンドル庭園と名付け
    られている。

    9081270

    海軍省の東隣に、ヴァシリエフスキー島への橋に通じる通りを挟んでそびえるのが、
    冬宮、現在のエルミタージュである。 薄緑色の美しい宮殿は、皇帝の宮殿である。
    現在のものは、最初から数えて5番目の冬宮である。 冬宮は、広い広場に面して
    正面玄関があり、2階部分が皇帝一家の居住部分となっていた。 玄関の上には、
    白の間があり、そのバルコニーから、皇帝が広場に集まる臣民に挨拶したのである。

    26051420

    冬宮前は、ペテルブルグ最大の広場となっており、広場の反対側は、弓なりに
    連なる建物であり、その中央部分にアーチがある。 アーチの上には、勝利の女神の
    女神ニケーの馬車が置かれている。 アーチの右側が本来の参謀本部で、現在も
    レニングラード軍管区令部がある。 アーチの左側は、大蔵省と外務省である。

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    現在は、東北の中心地として発展著しい仙台なのだが、現在の美しい杜の都の
    街並みは、戦後の焼け野原から長年を掛けて復活したもので、特に、現在仙台の
    表玄関となっている仙台駅西口付近は、アメリカ軍のB-29によって、焼け野原と化
    したため、何も残らなかった。

    仙台駅東口付近は、逆に戦後も焼け残ったため、20年ほど前までは、戦争で焼けた
    地域と焼け残った地域がハッキリと分かったのだが、現在では、東口も大々的に
    再開発が行われたため、その差が殆どなくなった。



    1945年(昭和20年)5月20日、B-29による仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が
    上空から撮影された。 アメリカ軍は、仙台を工業面での重要性はないが、住宅が
    密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した
    都市であり、爆撃による心理的効果も期待出来ると評価していた。 アメリカ軍は、
    大規模空襲を行う前に、ビラを上空から撒き空襲を予告しており、そこには、
    『仙台よい町森の町 7月10日は灰の町』と印刷されていたという。 更に連合国は、
    ラジオでも恐怖を煽るために、繰り返し『仙台にお邪魔します』と放送したという。

    1945年7月10日、テニアン島からB-29 124機が飛び立ったが、そのうち1機は引き
    返した。 B-29 123機は、午前0時3分から2時5分まで、仙台中心部を大規模
    攻撃し、約912トン、1万2,961発の焼夷弾を投下した。 仙台上空に到着した
    爆撃機は、3~5機編成で飛行し、25回に渡る空爆を敢行した。 この時の死者は
    1,399人にも上り、負傷者は1,683人となった。 主に仙台駅西側の約500
    ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1,900戸にも上った。



    仙台空襲では、仙台城付近も空爆されたため、その際に大手門や当時国宝であった
    伊達政宗の墓所、瑞鳳殿も焼け落ちた。 戦後の復興において仙台では、大幅な
    道路の拡張が行われ、杜の都を取り戻す活動が行われた。 仙台が城下町であり
    ながら、片側5車線もの幅の広い道が整備されているのは、戦後の復興計画による
    ものであり、戦後の更なる仙台の発展を見越して計画されたもの。 計画当初は、
    余りにも広い道路であったため、一体何に使うのかと揶揄されたという。

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    伊達政宗が仙台にやって来た際、それまでにあった『千代』の街と城は徹底的に
    破壊され、新たな城下町が建設された。 その後、日本を二分した内戦『戊辰戦争』
    において、仙台藩は総指揮を取ったが、戦に敗れてしまったため、仙台の街は
    官軍によって徹底的に破壊された。 太平洋戦争でも徹底的に街が破壊され、
    2011年には、東日本大震災によって、今度は沿岸部が消滅した。

    『仙台の街はフェニックス』という言葉があるが、それは、過去に何度も破壊され
    ながら、その度に着実に復興、復活をして来た仙台の街の歴史を物語っている。

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    明治17年(1884年)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の
    頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど、広い視野を持って
    いた。

    五十六の名前は、当時の父親の年齢から採ったもので、母親も45歳と高齢であった。
    旧長岡藩家老、山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。 文武両道、
    質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きが掛かる一方、石油や航空に早くから
    注目していた。 リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に航空の重要性を
    力説した。 太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

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    当時、仮想敵国であったアメリカを視察した山本は、アメリカとの開戦には、
    あくまでも反対であった。 『この身滅ぼすべし、この志奪うべからず』と、
    わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、
    郷土を愛し、慈悲の心を強く保っていたからこそである。



    だが、その意に反して、連合艦隊司令長官として未曾有の大戦争の指揮を執った。
    長岡空襲は、山本の故郷という理由で行われた。 TVで米国マスコミ取材に当時の
    軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたと
    語っている。(ただし、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設が
    あり、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。

    昭和18年(1943年)ブーゲンビル島で戦死。 最終階級は元帥海軍大将。 激動の
    世紀に、しなやかかつ、力強い心で生きた山本五十六の人生は、故郷長岡市の
    山本五十六記念館で今でも語り継がれている。

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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属する
    クロマニヨン人が住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃
    から、フランスには、鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した
    地域は『ガリア』と呼ばれている。 紀元前58年から、ケルト人の指導者
    ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が
    支配するようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を
    起こし、キリスト教に帰依する。

    メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、フランク
    王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海に
    およぶ地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今の
    フランスにあたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で
    農業技術が発展し、土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、
    大領主に忠誠をつくして保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立った
    カペー朝は、キリスト教の権威を支えに、中世の封建制度を確立した。

    11~12世紀には、ロマネスク様式の教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の
    教会が各地に建てられた。 この頃、都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

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    慶長遣欧使節団に同行したソテロの『覚書』が残されているが、それには、
    『日本との通商はイスパニア(現在のスペイン)に利益をもたらすであろう 』
    とか、『通商が成れば、イスパニア系のフランシスコ会派は言うまでもなく、
    キリスト教宣教師を幕府が厚遇するであろう』と書かれていた。

    これだけであれば、通商が目的ということで別に問題はないが、更に驚くべき
    ことが書かれていたのである。 要約すると、『政宗は時期皇帝になるべき最強の
    実力者であり、家康の信頼もあつく、今回の使節派遣は家康の不快とするもの
    ではない』というものである。

    ここで注目されるのは、家康のキリスト教に対する姿勢である。 周知のように、
    家康は慶長17年にキリスト教を禁止している。 ただ、家康は『キリスト教は
    好ましくないが、貿易は推奨したい』と考えていた。 特に、ルソン(現在の
    フィリピン)とノビイスパニア(現在のメキシコ)は、当時、世界有数の産銀国で、
    その技術を導入したいと考えていたようである。

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    そのルソンは、ノビイスパニア副王の支配下にあり、ノビイスパニアは、
    イスパニア国王の下にあった。 だから、ルソンやノビイスパニアとの交渉が
    必要だったのである。 交渉のためには、好意を持っていないキリスト教宣教師
    とも接触を保っていなければならなかった。 家康が慶長18年までバテレン
    追放令を出さなかったのには、そうした背景があったのである。

    家康がはっきりキリスト教禁止を打ち出している状況の下で、政宗は何を考えて
    いたのだろうか。 ここに、政宗が天下を狙うという可能性を垣間見ることが
    出来る。 というのは、使節一行がマドリードからローマに行く時、マドリード
    から一行に従い、渉外係、兼通訳として同行したシピアーネ・アマチが
    『伊達政宗遣使録』というものを遣わしていて、そこにびっくりするようなことが
    書かれていたのである。

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    支倉常長がイスパニア国王フィリップ三世の前で次のように演説したという。

    わが君、奥州王は、陛下の強大なることと、その保護を請う者に対して、寛仁
    なることを聞き、予を派遣し、その位と領土とを陛下に献じ、大国と親交を結ば
    しむ。 今後、いつにても陛下の望みに応じ、喜びて、その全力を用いんとする。

    ここに、『位と領土とを陛下に献じ』とあることに注目したい。 政宗自身を
    『奥州王』と言っていることも興味深いが、これは、仙台領、別な言い方をすれば、
    奥州国を植民地として、イスパニアに献上し、イスパニア無敵艦隊の力を借りて、
    倒幕に立ち上がり、日本全土を自分のものにしてしまおうという意図があった
    ということになる。 ただ、この時の政宗の策略は、不発に終わっている。

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    伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、伊達輝宗の長男として生まれている。
    その12日後、中央では、織田信長が美濃の斉藤龍興を逐って、稲葉山城を奪い、
    岐阜城と改名している。 この時、信長は34歳。 政宗が『遅れて来た戦国武将』と
    言われる所以である。

    しかも、会津の芦名義広を摺上原の戦いで破り、奥州をほぼ制圧した天正17年
    (1589年)には、関白豊臣秀吉からの横槍が入った。 結局、翌年の秀吉による
    小田原攻めに従軍することとなり、政宗は、24歳の若さで秀吉に臣従せざるを得ない
    こととなった。 以後、豊臣大臣のひとりとして、天下を狙うなど夢のまた夢と
    言った感じであった。 秀吉から与えられた所領の支配を着実に進めるしかなかった
    のである。

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    政宗は、秀吉の資質を見抜き、秀吉に取って代わろうなどとは思わなかったものと
    思われるが、その秀吉が慶長3年(1598年)8月18日に亡くなったことで状況が
    少し変わって来る。 秀吉の遺児秀頼を盛り立てようとする石田光成と、秀吉に
    代わって実権を握ろうとする徳川家康との対立が鮮明になって来たからである。

    この三成と家康の対立の時、政宗は迷わず家康陣営に属しており、同5年
    (1600年)の関が原の戦いの時も東軍の一員として、西軍上杉景勝に対峙
    している。 実は、関が原の戦いの前年、、堺の茶人今井宗薫が間に立って、
    政宗の娘の五郎八姫と家康の六男忠輝が婚約していたのである。 家康による
    見方陣営を増やす動きの一環であった。 因みに、二人の結婚は、大分後の
    慶長11年(1606年)12月のことである。

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    このように見て来ると、先の秀吉の時と同様、家康の下でも、政宗は忠実な徳川
    大名として生きていたように思える。 家康に代わって天下を狙うなど、あり
    得ないということになる。 ところが、どうもそうではなかったらしい。 それが
    慶長18年(1613年)の慶長遣欧使節である。 この年9月15日、伊達領の牡鹿半島の
    月の浦を出帆したサン・ファン・バウティスタ号で、正使支倉常長の他、ソテロや
    ビスカイノ、更には、政宗の家臣、向井忠勝の手の者等、180人(一説には140人)
    が太平洋を渡った。

    この時期、ローマに使節を派遣した狙いは何だったのだろうか。 一般的には、
    ヨーロッパの国々との通商を目的としたとされている。 確かに、支倉常長が
    ノビイスパニア(現在のメキシコ)に着いた時、そこの副王とノビイスパニアの
    フランスシスコ会総長直属の管区等に宛てた家康の親書では、商船の往来を
    求めているため、それが狙いだったことは確かである。

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    香港住民は、自らを何人だと考えているのか。 この問いの答えは、当の
    香港人にとっても自明のものではない。 香港大学の世論調査プログラムでは、
    返還以来、継続的に香港住民が自分を何人と称するかについて調査を行っているが、
    それによると『香港人』という回答は、返還以来減少していたが、2000年代末頃
    から増加に転じ、2012年上半期には、返還後最も高い45.6%を記録している。
    これに対して『中国人』という回答は、ほぼ逆の動きを見せている。

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    『香港人』という意識は、一般に、1960~70年代の香港の社会的、文化的変容の
    中で原形が生まれ、返還後の1980年~90年代には、『香港人』は『中国人』とは
    異なるという意識が顕著になって行ったとされる。 改革、開放当初、発展を
    始めたばかりの中国大陸は、戦後の高度成長を経て、国際金融センターとしての
    地位を確立していた香港から見れば、『貧しくて遅れた』存在であり、大陸側から
    来る新移民に対して、テレビドラマ等を通じて『ダサい、怠慢、公的道徳に欠けた』
    等、ネガティブなイメージが共有されて行った。

    とは言え、一方で、香港在住民の対部分は、中国大陸から移って来た難民、移民、
    および、その子孫であり、民族的、文化的起源が中国にあることは否定し難い。

    こうした中で、香港住民は、非民主的で遅れた中国大陸と対比されたり、中国共産党
    政権の脅威を訴える局面では『香港人』となり、一方で伝統文化や中国人スポーツ
    選手の活躍を誇りに思う時は『中国人』となるというように、両者を使い分け、
    あるいは、両者の間を揺れて来た。 帰属意識の矛先が、20年も経たない短期間の
    うちに二転三転しているということ自体、この交錯した心理を良く物語っている。

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    2014年12月23日、RFI中国語版によると、香港で行われた世論調査で、『香港人』
    としてのアイデンティティーが『中国人』としてのアイデンティティーを大きく
    上回った。  香港大学民意研究計画センターは香港市民のアイデンティティーに
    関する世論調査を実施した。 12月10日から16日に掛け、1,016人を対象に電話
    調査が行われた。『香港人』と回答したのは42%。 『中国人』との回答は18%
    となった。 

    また、『香港人』『アジア人』『中華民族の一部』『世界市民』『中国人』
    『中華人民共和国公民』というそれぞれの項目に対して、どれほどの帰属感を
    感じるかを0〜100点で表現してもらったところ、『香港人』の平均得点は約80点と
    前回調査を2点上回った。 その他、『アジア人』69.8点、『中華民族の一部』
    65.9点、『世界市民』63.7点、『中国人』62点。『中華人民共和国国民』
    54.4点となった。 

    『中国人』『中華人民共和国国民』の平均点は、2008年の調査開始以来、過去最低
    となった。

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    マカオ(澳門)は、東アジアで最も古いヨーロッパと中国明代の面影が残る
    小さな街。 2015年現在、人口64万人、面積30平方キロメートル、東京都
    府中市とほぼ同じ大きさで、板橋区よりも少し小さい。 最初に街が開かれた
    のは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3部分から成っていたが、両島を
    繋ぐ橋の両側に広大な埋立地コタイが造られ、面積が大きくなった。

    中国の歴史的商業都市、広州に連なる珠江の東シナ海の河口の西南部に位置して
    いるのがマカオとなっており、北東部に位置しているのが香港となっている。
    両地域の移動は、高速フェリーで1時間だが、建設中の港珠澳大橋が開通すれば、
    車で30分となる。 両地は近くなる上、似た歴史を持つが、マカオは決して
    リトル香港ではない。

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    15世紀以降、ヨーロッパで最も大規模な航海に出たポルトガルが、アフリカ西岸を
    南下し、喜望峰を超え、イスラム圏を東に進み、インドを超え、東南アジアを抜け、
    中国南部へと至る。 16世紀はじめに中国に到達し、1557年頃マカオに居留地を
    得て、19世紀に統治権を得た。

    第二次世界大戦後は、ポルトガル本国の力が弱く、1960年代の中国の文化大革命の
    影響を受けて、マカオで起こった中国人による暴動(12.3事件)をポルトガル側が
    単独で鎮圧出来なかったため、マカオでは、中国の影響が強まったと言われている。

    更にポルトガル本国では、1974年に民主革命があり、共産主義の影響を受けた
    軍人によって、独裁政権が倒され、海外領や、かつての海外の植民地が解放されて
    行く。 マカオについても、中国への返還に抵抗が見られず、香港の返還が決定
    した後で、すんなりとマカオの返還が決まり、1999年12月20日に中国の特別行政区
    となった。

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    マカオの返還前の住民社会構造は、4層から成っていた。 本国派遣のポルトガル人、
    最も多い中国(広東)人、その中間に位置するマカエンセ、中国や東南アジアからの
    出稼ぎ労働者である。 マカエンセは、中国とポルトガル、ないし、その他の地域の
    混血グループである。 世界に数万、マカオには、数千人居ると見られている。
    中ポ両言語を話し、独自の文化、コミュニティー、ネットワークを持つ。 伝統
    マカオ社会、行政や初期香港において、仲介以上の役割を果たして来た。

    出稼ぎ労働者は、主に工場、商店、家事労働なとに従事する期限付きの輸入労働力で
    ある。 返還の頃は1万人前後であったが、ここ数年間で急増し、2014年には、
    17万人近い規模となった。 そのうち、11万人が中国からで、中国の労働力輸出
    としても注目するところとなった。

    この社会構造は、エスニシティーによる役割分担である。 ローカル住民の中では、
    マカエンセは優位にあり、例えば、勤勉でなくとも、高位に就いた。 マカオの
    中国人にとっては、中国の政治力や経済力に期待を寄せる所以となった。 共産
    主義の中国の外に住む中国人の中で、最も中国への親近感が高いのが、マカオで
    あろう。

    ポルトガルの影響は、今後も文化や宗教の分野を中心に、色濃く残って行くだろう。
    文化を重んじる細やかな感性は、マカオの地に根付いており、マカオの中国人からも
    感じ取ることが出来る。

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    マカオをポルトガル大航海の終点と見る時、マカエンセ、マカオ料理、マカオの
    建築物や風景等は、旧ポルトガル領の他地域の特徴が融合し、その情緒がマカオ
    そのものと言えるのかも知れない。

    マカオ経済に関しては、特殊な産業構造、賭博産業と観光業が突出している。
    2014年の雇用者数を見ると、賭博関係が27.5%、ホテルやレストラン関係が16%を
    占めている。 マカオの公営賭博は、19世紀頃以来の歴史を持つ。 返還後、カジノ
    投資が自由化され、海外資本の大規模開発が行われ、中国からの客が押し寄せた
    結果、2006年には、カジノの売り上げが世界最高となった。 現在の売り上げ
    規模は、ラスベガスの7倍となっている。 それによって、マカオ全体の収入が
    急増した。

    2014年の一人当たりのGDPは、約8万9千米ドル(約1千70万円)で世界トップ
    クラス、返還当時の5倍以上にあたる。 だが、これらの数字は、中国に左右され、
    近年の中国幹部の汚職摘発の影響で、カジノの売り上げ、GDP共に、減少した。

    賭博が基幹産業となっている社会には、特殊性があり、ギャンブル依存の問題が必ず
    生じうる上、換金や性的サービスの分野も増長する。 そのため、子供や公務員の
    賭博場への出入りは禁止され、『カジノ社会学』という研究分野もある。 日本では、
    ギャンブル依存が放置されたまま、カジノ解禁が提案されている。 マカオの経験
    から日本が学ぶところは多いであろう。

    中国の対外的な窓口であったマカオは、香港の成立以降、その甘みを奪われた。
    地理的にも珠江が運ぶ砂が港としてのマカオを不利にしたという。 しかし、
    返還後は、中国の川砂ではなく、中国人の欲望をかき集め、繁栄に至った。 
    マカオは、今後も独自の戦略によって、大変貌するであろう。

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    宮城県北部、遠田郡に位置する涌谷町は、日本で初めて金が算出された地として
    知られている。 しかし、昭和32年まで、この日本初の産金地が現代ではどこに
    当たるのかは謎とされ、特定はされていなかったのだという。 いかにして、
    この地は日本初の産金地になり得たのだろうか。 金にまつわる歴史ロマンを探し
    涌谷町を訪れた。



    宮城県北部に位置する涌谷町。 JR涌谷駅から程近い場所に広がる
    『わくや万葉の里』は、今から1200年以上も前、東大寺の大仏の完成に大きく
    貢献した。 日本初の産金地、陸奥国小田郡(現在は遠田郡涌谷町)の歴史と、
    金にまつわる太平ロマンを肌で感じることが出来るスポットだ。

    広大な敷地の一角に建てられた『太平ロマン館』内にある歴史館をまず見学して
    おきたい。 多彩な常備施設を通じて、日本における産金黎明期のさまざまな
    『謎』について、その答えが見つかるからだ。 例えば、東大寺の大仏造立の
    ピンチに際し、900両の黄金を献上した百済敬福とは、どんな人物だったの
    だろうか。



    古代における金の採取は、金鉱脈を求めて金鉱石の採掘を行うのではなく、河川
    などで発見できる『砂金掘り』だった。 水流で不純物が洗い流された砂金は、
    純度が非常に高く、しかも、採取方法が単純だ。 そうした採金の知識や技術を
    日本にもたらしたのは、百済の滅亡になどの時に朝鮮半島から日本へ渡って来た
    人々ではないかと考えれている。

    敬福は、百済王家の末裔であり、太平年間に陸奥守としてこの地に赴任した。
    日本初の金の採取に際して、大いにリーダーシップを発揮したのではないだろうか。

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    日本古代史に特筆される『太平産金』以後、陸奥国には、金を租税として、中央
    政府に納めることが義務付けられていた。 大仏造立に使われた金の量は、約146
    キロで、献上された小田郡産の金900両は、約13キロと、全体の10分の1も満たし
    てはいなかった。 そこで、更に金を調達するために、金の税制化がおこなわれた。
    陸奥国多賀郡から北の民は、4人で年間1両の金を採取し、納税することが義務付け
    られた。

    これにより、陸奥国の産金地は、北へと広がり、さながら、ゴールドラッシュの様相
    となった。 しかし、平安時代以降、産金地が宮城県北部から岩手県南部一体に
    移って行くにのに伴い、小田郡の産金記録は消滅。 中世以降には、小田軍が
    遠田郡に編入されたことで、小田郡の場所すら忘れ去られていた。

    そんな中、後世の人達は、いかにして天平の産金地を推理したのだろうか。
    ここにも魅力的な謎解きロマンがある。 江戸時代、手掛かりの1つとされたのが、
    東大寺の大仏に金が献上された際、越中国(現富山県)の国守であった大伴家持が
    詠んだ次の万葉歌の一首だ。

    『天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く』
    この歌の『金花咲く』から、宮城県石巻市の金華山を産金地とする説が広まる中、
    19世紀初め、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の国学者、沖安海が、家業の染型紙の
    商いのために涌谷町を訪問、『この地には、金神社と呼ばれる神社があり、古い瓦も
    出る。 ここ黄金神社こそが天平の産金地であり、古代の神社跡ではないか』と
    いった内容の論文を記し、荒廃した黄金山神社の復興事業に尽力したという。

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    黄金山神社は、現在も『わくや万葉の里』の史跡ゾーンの中枢に、厳かに鎮座して
    いる。 境内には、大伴家持が詠んだ一首を刻んだ万葉歌碑もある。 因みに、
    万葉集に登場する地名の中で、『みちのく山』は北限に位置している。

    古来、『蝦夷(えみし)』の地と呼ばれていた東北は、中央から見ると、野蛮な
    イメージがあったが、太平の産金時代だけは、都から、仏や神に祝福された、
    黄金色に輝く憧れの地と見られていたのかも知れない。

    明治時代以降は、黄金山神社を含む一帯を地質学や考古学の観点から研究し、この地
    こそが太平の産金地であることを検証するための多角的なアプローチが、各分野の
    研究者によって行われた。 その結果、黄金山神社周辺から出土する古い瓦の中に、
    『天平』の文字が刻まれた瓦があることが判明した。

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    そして、昭和32年、本格的な発掘調査が行われ、出土した瓦や建物跡から、天平の
    時代に、六角円堂と思われる仏堂がこの地に建てられていたことが分かった。 瓦の
    デザインは、陸奥国国府だった多賀城や、陸奥国国分寺に用いられた瓦と酷似して
    おり、仏堂が国家の建物であったということを示している。 仏堂は、恐らく、
    産金を仏に感謝し、更なる産金を祈るためのものであったと考えられる。

    また、遺跡の中を流れる小川では、わずかながら砂金が今でも採れる。 これらの
    事実から、涌谷の黄金山神社のある場所が、天平産金、すなわち、
    『日本初の産金地』であるとようやく確定したのだった。

    涌谷をルーツとする宮城県のゴールドラッシュは、中世、後世、近世、そして、
    現代へと産金地を北へ広げ、採掘熱をますます高揚させながら発展して行く。
    地理的な近さ故に、光り輝く金色堂で有名な平泉の『黄金文化』と宮城県の金を関連
    付ける研究者も居る。

    金にまつわるエピソードが密接に絡み合いながら、古代のロマンを今に伝える
    涌谷町。 ここには、『みちのく黄金郷』の原点がある。

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