横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    銭屋五兵衛は、1773年11月25日、加賀の国石川郡宮越、今の金沢市金石町で
    生まれました。 五兵衛の先祖は加賀の国鶴来(今の白山市)にあった
    舟岡山城の城主高畠石見守の家臣でした。

    五兵衛から数えて6代前の吉右衛門の時に、宮越に移り住みました。 それから
    代々宮越で両替商をしていたため、『銭屋』が店の称号になったのです。

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    海運業に乗り出した五兵衛は、東北地方や北海道の産物を瀬戸内海の海や大阪へ
    運ぶことを考え、海運業にすべてをかけました。 大阪で修業をしてからは、
    次々に大きな船を造り、多くの産物を運び、さばきました。 北は北海道から
    奥羽、西は山陰、山陽、九州方面へ、東は江戸、伊豆、南は阪神四国に至るまで
    五兵衛の船は活躍しました。

    五兵衛は宮越に本店を置き、青森、弘前、松前、箱館、長崎、兵庫、大阪、江戸と
    いった主な地点に大支店を置きました。 全部で日本全国に34の支店があった
    そうです。

    扱う品物は米、材木、生糸、海産物、しめかす(肥料)、衣類、笠なども取引
    しました。 五兵衛の船は百石積みから二千石積みまで、200隻余りの船を持って
    いたと言われていますが、本当のことは分かっていません。 このようにして、
    五兵衛は、一代にして約300万石にのぼる富を築いたのです。



    五兵衛の一生のうちで、一番大きな事件は河北潟の埋め立て工事を行ったことです。
    1849年、五兵衛は周りが25.5キロメートル、面積2576ヘクタールもある河北潟を
    埋め立て、農地にすることを計画しました。

    当時、米は藩にとって重要な産物であり、米は作っても作っても売れました。
    この埋め立て事業には、三男の要蔵が受け持つことになりました。 設計には
    数か月掛かりました。

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    藩の許可が下りたので、すぐに工事に取り掛かることになりました。 しかし、
    河北潟沿岸の漁民はこぞって反対しました。 河北潟がなくなると、漁が出来なく
    なるからです。 埋立の土や砂を固めるために石灰を使いました。 ところが、
    それが毒を入れて潟の魚を殺したというように誤解され、潟の魚を食べた多くの
    人が死んだということになったのです。

    多くの魚が死んだのは、潟の水が腐って酸素不足になるという水の問題で、
    これまでにもあったことだったのです。 死者が出たのは、死魚を食べて中毒に
    なったのと、流行り病が流行したからですが、すべて埋め立てのせいにされて
    しまったようです。 これにより、五兵衛一族は捉えられてしまいました。

    1852年9月、五兵衛は金沢の牢獄に入れられてしまいました。 五兵衛は80歳に
    なっていました。 歳を取っている上に牢に入れられたこともあって病気になり、
    同年11月21日に身に覚えのない罪で牢の中で亡くなってしまいました。 さぞ
    無念だったでしょう。

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    幕末の日本、越後長岡藩が輩出した風雲児・河井継之助の生涯をたどれば、
    彼の目指した改革と社会がわかる。

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    人の世に生きていくということは、苦しいことも、うれしいことも
    色々あるものだ。 その苦しいことに耐えられなければ、何事も
    成し遂げられない。

    学問というものは、実行しなければ何の役にもたたないものである。
    英雄の気質を備えているものほど、なお一層危険にあうものだ。
    法や制度は清廉で能力のある人間がいて、始めてその成果が出るものだ。
    人を得ずして法だけあるのは、かえって危険である。

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    無理には使わず、快く承知をさせて、使うもの使わないものも、互いに
    愉快に仕事をするのが得。

    従者の外山修造(寅太)にこの世の中は面白くなってきた。 寅や、何でも
    これからのことは商人が早道だ。 思い切って商人になりやい。

    天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ。

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    2018年で150周年を迎える戊辰戦争では、鶴ヶ城こと若松城下での戦いが有名だ。
    戦火は会津藩領全域に及んでいた。

    ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を
    展開。 新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢となって行った。 若松城下で
    敗戦間近だった時、奥会津では負けていなかったのである。

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    奥会津は山深い。 只見川、伊南川の流域は、この2川とそこに注ぐおびただしい
    数の支流が山ひだを縦横に縫って、深い谷をつくっている。 そして、それらの
    川筋に町や集落が散在する。

    奥会津は福島県会津地方の南西部。 柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町、
    桧枝岐村、南会津町の7町村を指す。 この町村に、会津若松市の一部、会津美里町
    高田地区の大部分、下郷町、更に栃木県日光市の一部を加えた地域が、かつては
    天領だった。 南山御蔵入領という。

    天領は直轄地だが、南山は長い間、会津藩が幕府に代わって統治する預かり地と
    なっていた。 山間で農地が少ないため、米は余り採れなかったが、下野(栃木)と
    並ぶ麻の一大産地であり、交易の盛んな土地だった。 その豊かな山河が幕末、
    戦火に蹂躙された。 慶応4年(1868年)、会津戦争の時である。

    大政奉還の翌年の1月、鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争は、江戸、関東、
    上越へと拡大して行き、会津に及ぶ。 戊辰の会津戦争と言うと、若松城の
    落城や、白虎隊の悲劇が良く知られている。 しかし、この南山でも、熾烈な
    戦いが領内の至るところで繰り広げられた。

    それは、幹線道である下野街道、越後街道をはじめ、八十里超、沼田街道など、
    若松城下へ向かう道が何本も南山を通っていたからだ。 この交通の要衝、
    各街道の入り口を防御することが、会津藩の死活に関わったのである。

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    同年閏4月、会津と旧幕府方の連合舞台(東軍)が下野街道を南下し、宇都宮領内で
    新政府軍(西軍)と衝突。 西軍が南山に侵攻する。 更に7月29日に越後長岡城が
    落城すると、南山が騒がしくなる。

    戦況は当初、西軍優位で進んだ。 南山統治の本拠、田島陣屋を奪い、一時は
    奥会津をほぼ制圧する。 だが、その直後に東軍は巻き返しをはかり、西軍を
    追い立てた。 占拠された田島陣屋を奪還。 更に各所に兵力を展開し、優位を
    取り戻すのである。

    意外にも、この時の東軍の主力となったのは、屈強で知られる会津藩正規軍では
    ない。 領内から集められた農兵を中心とする臨時編成の部隊だった。 しかも、
    奥会津での戦いは、9月22日に若松城が落城し、会津藩が降伏した後も、数日間に
    渡って続いた。

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    司馬遼太郎原作、岡田准一主演、役所広司、有村架純ら豪華キャストで描く
    大型歴史ドラマ。 これまでにない、石田三成目線での関が原の戦いの歴史を
    新たに描き出す。 総時間2時間40分。



    幼い頃に豊臣秀吉にその才能を見出され、家来として召抱えられた石田三成
    (岡田准一)は、秀吉の死後、豊臣家への忠義を貫く余り、天下取りの野望に
    燃える徳川家康(役所広司)と徐々に対立を深めて行く。 そして、1600年
    10月21日、戦国時代に終止符を打った歴史的合戦「関ヶ原の戦い」は、
    小早川秀秋(東出昌大)の裏切りにより、一気に決着がついた。

    豊臣秀次の一族を根絶やしにするため、京都三条河原で30名もの側室子女らが
    処刑となったが、その中には、まだ秀次とのお目通りも済んでいない最上家の
    駒姫の姿もあった。 駒姫は幼いながらも斬首に列せられることとなったが、
    その際、駒姫を守るためにその侍女(有村架純)が周囲に戦いを挑み、姉と
    2人だけ生き残った。 

    その侍女は、その後、三成に召抱えられ、忍びとなり、いつしか、お互いに
    恋心を抱く仲へ。 かつてない切り口で歴史を紐解く感動スペクタクル。
    歴史は勝者によって作られるものなり。



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    歴史は常に勝者の視点でのみ語られる。 明治維新は、薩摩と長州が中心となって
    成り遂げられた、いわば、クーデターだが、薩長は自分たちを官軍、幕府側を
    賊軍とし、維新後は江戸時代を全否定した。 

    2018年は、明治維新から150周年ということで、改めて、明治維新を批判し、
    江戸時代を振り返る本が多数表れているため、歴史の歪曲を再度考える上でも
    明治維新とは一体何だったのかと再び問いかける必要性がある。

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    幕末の偉人と呼ばれる人物では、最も偶像化されているのは、吉田松陰なのだが、
    松陰は、松下村塾を開き、徳川幕府の転覆を企てた極左テロリストのひとりで、
    その罪により、安政の大獄で粛清された最後の1人となったのだが、大河ドラマ
    『花燃ゆ』が始まる前までは、Wikipediaにもハッキリとその事が明記されていた
    ものの、ドラマが終わる頃には、完全に内容が書き換えられ、国家的テロリストが
    完全に美談にされてしまった。 これは、正に洗脳教育の賜物と言う事が出来る。

    来年度の大河ドラマも西郷隆盛を持ち上げるためだけの『西郷どん』であるため、
    この大河ドラマも似たりよったりな低レベルな洗脳ドラマであることが容易に予想
    されるため、まともな人間は見ないであろう。

    例えば、明治維新以降、徳川幕府の鎖国政策は間違いで、鎖国ゆえに日本の近代化が
    遅れたと批判されたが、実際は『江戸四口』と言って、長崎でオランダに、薩摩で
    琉球に、対馬で朝鮮に、松前でアイヌにと、必要に応じて門戸を開いていた。
    それ以外は国を閉じていた訳だが、そのことで外国からの脅威にさらされること
    なく、内政に力を注ぐことが出来たのである。



    江戸・徳川幕府は、270年間続いたが、その間に舟運、特に、日本海、瀬戸内海を
    通って北海道や日本海側の港と大坂、江戸との間で交易する北前船が盛になり、
    日本経済を大きく発展させた。 陸では東海道、中山道、日光街道、奥州街道、
    甲州街道の五街道が整備されだが、17~18世紀にこれだけ街道が整備されていた
    国は世界でも殆んどなかった。 加えて多くの宿場が設けられ、伝馬、駕籠、
    飛脚が置かれ、通信も発達した。

    更に、新田開発によって、関東と東北との舟運が開かれた。 徳川家康が江戸に
    入った頃、利根川は今のように太平洋ではなく、東京湾に注ぎ、頻繁に氾濫を起こす
    暴れ川であった。 そこで家康は、人工的に今のように流れを変え、堤防や農業用
    用水路を作り、その「利根川東遷事業」によって水害が防がれた。

    江戸時代には、下水道の整備が盛んに進められたが、玉川上水など『江戸の六上水』
    が敷かれ、下水道と区別された。 そのお陰で、江戸の町の衛生が保たれた。
    同時期のパリやロンドンが糞尿まみれだったのとは大違いである。 長屋ごとに
    井戸があり、そこで米や野菜を洗い、洗濯するためにおかみさんたちが集まり、
    井戸端会議という地域コミュニティが形成された。 つまり、最も重要な
    インフラは、明治時代ではなく、江戸時代に構築されたということになる。

    江戸時代の識字率は同時期のイギリスなどに比べて、遥かに高かったというデータが
    あり、そうした教育水準の高さを背景に、人材面でも、岩瀬忠震、水野忠徳、
    小栗忠順の『幕末の三傑』のような素晴らしい幕臣を輩出した。 岩瀬は日露和親
    条約、日米修好通商条約を締結し、水野は日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約
    全てで調印し、小栗は世界一周を経験し、軍事の要職を歴任し、海軍国日本を作る
    べしと提唱した。

    新撰組は、時流に上手く乗ることをあえて拒否し、賊軍側について戦死して行った。
    戦後、日本では、官軍、賊軍という薩長史観を仕込まれた。 しかし、賊軍とされた
    東北や北海道などでは、官軍は正義でも何でもなく、無理やり喧嘩を仕掛け、
    強奪して行った泥棒だと言われている。

    歴史は、勝った側だけを見れば良いのではなく、勝者、敗者両方の側から見な
    ければ、真実は見えて来ないのである。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを
    認めた。 ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。
    ピウスツキは、共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に
    新しい国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ
    細長い地域をドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半が
    ドイツ語を話すため、ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に
    置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍は
    ロシア国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、
    ポーランドとロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立
    させた。 産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの
    私有地を獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、
    新しくグディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に
    収めた。 この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家
    である。 ヒトラーはまた、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの
    領土であると主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを
    侵略して分割する秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド
    西部の領土を要求し、ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、
    ドイツが攻撃した場合には、ポーランドを支援すると誓約した。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    ペテルブルグにある中心的な建物と言えば、海軍省を挙げることが出来るが、
    その金色の尖塔は、今日のペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー大通り、
    ゴローホヴァヤ通り、ヴェズネセンスキー大通りから見える。 つまり、海軍本部の
    建物から放射線状に3本の大通りが三方に延びているのである。

    海軍本部は、1704年に海軍造船所として造られた。 造船所は、1844年に閉鎖
    されるまで、バルト海艦隊のために256隻の軍艦を建造した。 この造船所の
    背後に海軍本部の建物が出来た。 1802年に海軍本部は海軍省となり、これを
    機会に建築家ザハーロフの設計で改築が進められ、金色の尖塔を持つ建物が
    1923年に完成した。 海軍省の建物は、幅406mもある巨大なものであり、ロシア
    帝国にとっての海軍の特別な重要性を表している。 金色の尖塔は、ペテルブルグの
    都市のシンボルとなった。 海軍省の前の庭園は、アレクサンドル庭園と名付け
    られている。

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    海軍省の東隣に、ヴァシリエフスキー島への橋に通じる通りを挟んでそびえるのが、
    冬宮、現在のエルミタージュである。 薄緑色の美しい宮殿は、皇帝の宮殿である。
    現在のものは、最初から数えて5番目の冬宮である。 冬宮は、広い広場に面して
    正面玄関があり、2階部分が皇帝一家の居住部分となっていた。 玄関の上には、
    白の間があり、そのバルコニーから、皇帝が広場に集まる臣民に挨拶したのである。

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    冬宮前は、ペテルブルグ最大の広場となっており、広場の反対側は、弓なりに
    連なる建物であり、その中央部分にアーチがある。 アーチの上には、勝利の女神の
    女神ニケーの馬車が置かれている。 アーチの右側が本来の参謀本部で、現在も
    レニングラード軍管区令部がある。 アーチの左側は、大蔵省と外務省である。

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    現在は、東北の中心地として発展著しい仙台なのだが、現在の美しい杜の都の
    街並みは、戦後の焼け野原から長年を掛けて復活したもので、特に、現在仙台の
    表玄関となっている仙台駅西口付近は、アメリカ軍のB-29によって、焼け野原と化
    したため、何も残らなかった。

    仙台駅東口付近は、逆に戦後も焼け残ったため、20年ほど前までは、戦争で焼けた
    地域と焼け残った地域がハッキリと分かったのだが、現在では、東口も大々的に
    再開発が行われたため、その差が殆どなくなった。



    1945年(昭和20年)5月20日、B-29による仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が
    上空から撮影された。 アメリカ軍は、仙台を工業面での重要性はないが、住宅が
    密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した
    都市であり、爆撃による心理的効果も期待出来ると評価していた。 アメリカ軍は、
    大規模空襲を行う前に、ビラを上空から撒き空襲を予告しており、そこには、
    『仙台よい町森の町 7月10日は灰の町』と印刷されていたという。 更に連合国は、
    ラジオでも恐怖を煽るために、繰り返し『仙台にお邪魔します』と放送したという。

    1945年7月10日、テニアン島からB-29 124機が飛び立ったが、そのうち1機は引き
    返した。 B-29 123機は、午前0時3分から2時5分まで、仙台中心部を大規模
    攻撃し、約912トン、1万2,961発の焼夷弾を投下した。 仙台上空に到着した
    爆撃機は、3~5機編成で飛行し、25回に渡る空爆を敢行した。 この時の死者は
    1,399人にも上り、負傷者は1,683人となった。 主に仙台駅西側の約500
    ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1,900戸にも上った。



    仙台空襲では、仙台城付近も空爆されたため、その際に大手門や当時国宝であった
    伊達政宗の墓所、瑞鳳殿も焼け落ちた。 戦後の復興において仙台では、大幅な
    道路の拡張が行われ、杜の都を取り戻す活動が行われた。 仙台が城下町であり
    ながら、片側5車線もの幅の広い道が整備されているのは、戦後の復興計画による
    ものであり、戦後の更なる仙台の発展を見越して計画されたもの。 計画当初は、
    余りにも広い道路であったため、一体何に使うのかと揶揄されたという。

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    伊達政宗が仙台にやって来た際、それまでにあった『千代』の街と城は徹底的に
    破壊され、新たな城下町が建設された。 その後、日本を二分した内戦『戊辰戦争』
    において、仙台藩は総指揮を取ったが、戦に敗れてしまったため、仙台の街は
    官軍によって徹底的に破壊された。 太平洋戦争でも徹底的に街が破壊され、
    2011年には、東日本大震災によって、今度は沿岸部が消滅した。

    『仙台の街はフェニックス』という言葉があるが、それは、過去に何度も破壊され
    ながら、その度に着実に復興、復活をして来た仙台の街の歴史を物語っている。

    【お勧めの一冊】


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    明治17年(1884年)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の
    頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど、広い視野を持って
    いた。

    五十六の名前は、当時の父親の年齢から採ったもので、母親も45歳と高齢であった。
    旧長岡藩家老、山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。 文武両道、
    質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きが掛かる一方、石油や航空に早くから
    注目していた。 リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に航空の重要性を
    力説した。 太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

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    当時、仮想敵国であったアメリカを視察した山本は、アメリカとの開戦には、
    あくまでも反対であった。 『この身滅ぼすべし、この志奪うべからず』と、
    わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、
    郷土を愛し、慈悲の心を強く保っていたからこそである。



    だが、その意に反して、連合艦隊司令長官として未曾有の大戦争の指揮を執った。
    長岡空襲は、山本の故郷という理由で行われた。 TVで米国マスコミ取材に当時の
    軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたと
    語っている。(ただし、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設が
    あり、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。

    昭和18年(1943年)ブーゲンビル島で戦死。 最終階級は元帥海軍大将。 激動の
    世紀に、しなやかかつ、力強い心で生きた山本五十六の人生は、故郷長岡市の
    山本五十六記念館で今でも語り継がれている。

    【お勧めの一枚】


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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属する
    クロマニヨン人が住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃
    から、フランスには、鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した
    地域は『ガリア』と呼ばれている。 紀元前58年から、ケルト人の指導者
    ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が
    支配するようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を
    起こし、キリスト教に帰依する。

    メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、フランク
    王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海に
    およぶ地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今の
    フランスにあたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で
    農業技術が発展し、土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、
    大領主に忠誠をつくして保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立った
    カペー朝は、キリスト教の権威を支えに、中世の封建制度を確立した。

    11~12世紀には、ロマネスク様式の教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の
    教会が各地に建てられた。 この頃、都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

    【お勧めの一品】

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    慶長遣欧使節団に同行したソテロの『覚書』が残されているが、それには、
    『日本との通商はイスパニア(現在のスペイン)に利益をもたらすであろう 』
    とか、『通商が成れば、イスパニア系のフランシスコ会派は言うまでもなく、
    キリスト教宣教師を幕府が厚遇するであろう』と書かれていた。

    これだけであれば、通商が目的ということで別に問題はないが、更に驚くべき
    ことが書かれていたのである。 要約すると、『政宗は時期皇帝になるべき最強の
    実力者であり、家康の信頼もあつく、今回の使節派遣は家康の不快とするもの
    ではない』というものである。

    ここで注目されるのは、家康のキリスト教に対する姿勢である。 周知のように、
    家康は慶長17年にキリスト教を禁止している。 ただ、家康は『キリスト教は
    好ましくないが、貿易は推奨したい』と考えていた。 特に、ルソン(現在の
    フィリピン)とノビイスパニア(現在のメキシコ)は、当時、世界有数の産銀国で、
    その技術を導入したいと考えていたようである。

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    そのルソンは、ノビイスパニア副王の支配下にあり、ノビイスパニアは、
    イスパニア国王の下にあった。 だから、ルソンやノビイスパニアとの交渉が
    必要だったのである。 交渉のためには、好意を持っていないキリスト教宣教師
    とも接触を保っていなければならなかった。 家康が慶長18年までバテレン
    追放令を出さなかったのには、そうした背景があったのである。

    家康がはっきりキリスト教禁止を打ち出している状況の下で、政宗は何を考えて
    いたのだろうか。 ここに、政宗が天下を狙うという可能性を垣間見ることが
    出来る。 というのは、使節一行がマドリードからローマに行く時、マドリード
    から一行に従い、渉外係、兼通訳として同行したシピアーネ・アマチが
    『伊達政宗遣使録』というものを遣わしていて、そこにびっくりするようなことが
    書かれていたのである。

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    支倉常長がイスパニア国王フィリップ三世の前で次のように演説したという。

    わが君、奥州王は、陛下の強大なることと、その保護を請う者に対して、寛仁
    なることを聞き、予を派遣し、その位と領土とを陛下に献じ、大国と親交を結ば
    しむ。 今後、いつにても陛下の望みに応じ、喜びて、その全力を用いんとする。

    ここに、『位と領土とを陛下に献じ』とあることに注目したい。 政宗自身を
    『奥州王』と言っていることも興味深いが、これは、仙台領、別な言い方をすれば、
    奥州国を植民地として、イスパニアに献上し、イスパニア無敵艦隊の力を借りて、
    倒幕に立ち上がり、日本全土を自分のものにしてしまおうという意図があった
    ということになる。 ただ、この時の政宗の策略は、不発に終わっている。

    【お勧めの一冊】


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