多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    歴史は常に勝者の視点でのみ語られる。 明治維新は、薩摩と長州が中心となって
    成り遂げられた、いわば、クーデターだが、薩長は自分たちを官軍、幕府側を
    賊軍とし、維新後は江戸時代を全否定した。 

    2018年は、明治維新から150周年ということで、改めて、明治維新を批判し、
    江戸時代を振り返る本が多数表れているため、歴史の歪曲を再度考える上でも
    明治維新とは一体何だったのかと再び問いかける必要性がある。

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    幕末の偉人と呼ばれる人物では、最も偶像化されているのは、吉田松陰なのだが、
    松陰は、松下村塾を開き、徳川幕府の転覆を企てた極左テロリストのひとりで、
    その罪により、安政の大獄で粛清された最後の1人となったのだが、大河ドラマ
    『花燃ゆ』が始まる前までは、Wikipediaにもハッキリとその事が明記されていた
    ものの、ドラマが終わる頃には、完全に内容が書き換えられ、国家的テロリストが
    完全に美談にされてしまった。 これは、正に洗脳教育の賜物と言う事が出来る。

    来年度の大河ドラマも西郷隆盛を持ち上げるためだけの『西郷どん』であるため、
    この大河ドラマも似たりよったりな低レベルな洗脳ドラマであることが容易に予想
    されるため、まともな人間は見ないであろう。

    例えば、明治維新以降、徳川幕府の鎖国政策は間違いで、鎖国ゆえに日本の近代化が
    遅れたと批判されたが、実際は『江戸四口』と言って、長崎でオランダに、薩摩で
    琉球に、対馬で朝鮮に、松前でアイヌにと、必要に応じて門戸を開いていた。
    それ以外は国を閉じていた訳だが、そのことで外国からの脅威にさらされること
    なく、内政に力を注ぐことが出来たのである。



    江戸・徳川幕府は、270年間続いたが、その間に舟運、特に、日本海、瀬戸内海を
    通って北海道や日本海側の港と大坂、江戸との間で交易する北前船が盛になり、
    日本経済を大きく発展させた。 陸では東海道、中山道、日光街道、奥州街道、
    甲州街道の五街道が整備されだが、17~18世紀にこれだけ街道が整備されていた
    国は世界でも殆んどなかった。 加えて多くの宿場が設けられ、伝馬、駕籠、
    飛脚が置かれ、通信も発達した。

    更に、新田開発によって、関東と東北との舟運が開かれた。 徳川家康が江戸に
    入った頃、利根川は今のように太平洋ではなく、東京湾に注ぎ、頻繁に氾濫を起こす
    暴れ川であった。 そこで家康は、人工的に今のように流れを変え、堤防や農業用
    用水路を作り、その「利根川東遷事業」によって水害が防がれた。

    江戸時代には、下水道の整備が盛んに進められたが、玉川上水など『江戸の六上水』
    が敷かれ、下水道と区別された。 そのお陰で、江戸の町の衛生が保たれた。
    同時期のパリやロンドンが糞尿まみれだったのとは大違いである。 長屋ごとに
    井戸があり、そこで米や野菜を洗い、洗濯するためにおかみさんたちが集まり、
    井戸端会議という地域コミュニティが形成された。 つまり、最も重要な
    インフラは、明治時代ではなく、江戸時代に構築されたということになる。

    江戸時代の識字率は同時期のイギリスなどに比べて、遥かに高かったというデータが
    あり、そうした教育水準の高さを背景に、人材面でも、岩瀬忠震、水野忠徳、
    小栗忠順の『幕末の三傑』のような素晴らしい幕臣を輩出した。 岩瀬は日露和親
    条約、日米修好通商条約を締結し、水野は日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約
    全てで調印し、小栗は世界一周を経験し、軍事の要職を歴任し、海軍国日本を作る
    べしと提唱した。

    新撰組は、時流に上手く乗ることをあえて拒否し、賊軍側について戦死して行った。
    戦後、日本では、官軍、賊軍という薩長史観を仕込まれた。 しかし、賊軍とされた
    東北や北海道などでは、官軍は正義でも何でもなく、無理やり喧嘩を仕掛け、
    強奪して行った泥棒だと言われている。

    歴史は、勝った側だけを見れば良いのではなく、勝者、敗者両方の側から見な
    ければ、真実は見えて来ないのである。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア国王
    として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。 ボヘミアの
    チェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実なフェルディナンドは
    宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を鎮圧した。
    ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】

    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックとプロテスタントの
    対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守るフェルディナンド2世が、
    1617年にハプスブルグ王家を継いだ。 フェルディナンドは、プロテスタントを領地から
    一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、チェコ人の
    反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、ハプスブルグに
    対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦でチェコ軍を
    破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから追放された。 ビラー・
    ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの国々の間で三十年戦争が
    始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、ドイツ、デンマーク、スウェーデンから
    プロテスタント軍がボヘミアに侵入した。 相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、
    街、農村は根こそぎ破壊された。 フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ
    追放し、ボヘミア議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア王国領
    ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放されたチェコ人貴族の
    領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人カトリック教徒の手に渡った。
    ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、ドイツ語が政治、教育の公用語と
    なった。

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    9世紀の始めにスラブ人の領主モイミールは、西スロバキアからモラビア(現在の
    チェコの東部)に掛けて新しい国、大モラビア帝国を樹立したが、ボヘミア(現在の
    チェコの西部) 、ポーランド、ハンガリーの一部も支配下に治めた。 ブラチスラバと
    ニトラは、帝国の政治、経済の中心となった。 833年にニトラの貴族プリビナは、
    西スラブ人定住地域に、初めてキリスト教の教会を建てた。

    大モラビア帝国の支配者は、その規模と実力に自信を持っていたが、それでも、
    西に位置する更に強大なドイツ諸国の侵略を恐れていた。 ドイツ諸侯は、ローマ
    からの伝道者によって洗礼された後、キリスト教徒となっていた。 ドイツ諸国は、
    ローマ・カトリックの首長であるローマ教皇と同盟を結んでいた。

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    モラビア帝国支配者であったラチスラフ公は、ドイツの影響に対して、人々を改宗
    するために、東のキリスト正教会の中心地コンスタンティノープルから伝道者を招いた。

    863年にキリルとメトディウス兄弟が、東方正教会の布教にやって来た。 キリルと
    メトディウスは、スラブ語で布教し、アルファベットから新たにグラゴール文字を
    作り出し、キリスト教の教義をスラブ語に書き換えた。 スラブ語を使った布教活動で、
    ボヘミア、モラビア、スロバキアのキリスト教伝道が進んだ。

    しかし、ラチスラフの甥であるスヴァトプクは叔父を裏切り、ドイツの諸侯と手を
    結ぶため、ラチスラフを幽閉し、大モラビア帝国を西ローマ教会に帰属させた。
    ローマ教皇は、ニトラにドイツ人の司教を送り込み、ニトラは、帝国の文化と宗教の
    中心となった。 他のヨーロッパ諸国でもキリスト教が受け入れられていたので、
    間もなく西ローマ教会は、ヨーロッパ大陸の財力と権力を誇る組織となった。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを認めた。
    ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。 ピウスツキは、
    共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に新しい
    国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ細長い地域を
    ドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半がドイツ語を話すため、
    ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍はロシア
    国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、ポーランドと
    ロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年、ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立させた。
    産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの私有地を
    獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、新しく
    グディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に収めた。
    この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家である。 ヒトラーは
    また、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの領土であると
    主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを侵略して分割する
    秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド西武の領土を要求し、
    ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、ドイツが攻撃した場合には、
    ポーランドを支援すると誓約した。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ正教派を
    採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア文化の
    影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。 この時期の
    フィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦っていたため、スウェーデンの
    結束した力に対抗する事が出来なかった。

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    【スウェーデンの支配】


    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)に
    伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを責任者と
    した。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア地方の
    東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、両国は、
    スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクがフィンランドの
    中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の間で話されるように
    なった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。



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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い定住者が
    確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、前史時代に
    わずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の洞窟にも人間が
    居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り住んで
    来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に要塞の町を
    築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地でドナウ川を
    横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。 ボイイは、
    スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の大規模な侵略に悩ま
    された。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森からやって来た。
    チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを破り、スロバキアにあった
    ケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や他のチュートン人が、ドナウ川
    流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いたフランク人は、南ヨーロッパを支配
    していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】

    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、チュートン
    人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、川に沿っていくつ
    かの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南にある首都ローマから統治
    するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ帝国は、ローマを首都とする西と、
    コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の
    宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ平野から
    追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系のアヴァール人が
    スロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、何千というスラブ人が
    やって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通ってスロバキアの平野になだれ
    込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェという小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住していた
    チェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。 スラブ人の
    リーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。 アヴァール人を
    破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、637年の
    ヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、支配
    することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。 その後
    2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。 各地で
    衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な中央政府が
    ないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大のために戦った。

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    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前7000年頃だった。
    当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今のバルト海は淡水湖だった。 一番
    古い居住者達は、歴史学者がラップランド先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、
    フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。 ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料と
    した。 船を作くり、船首の飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示され
    ている。

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    【新移住者の到来】

    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド領だった
    カレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も居た。 そこに
    定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、歴史家は
    その磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、フィンランド
    南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。 この
    民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今のフィンランド
    南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在のラハティ市
    からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。 フィン語族第3の
    グループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境沿いに住んだ。 各グループ
    の居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

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    1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な権力と
    財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、宗教改革
    運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる殆んどの
    ドイツ人は、法王を支持した。

    1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。 プラハ
    大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人にとって、
    神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし1415年、
    カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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    フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。 チェコ人の
    フス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、プラハをはじめ、各地で
    戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・ジシュカは、ドイツの街や修道院、
    教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

    ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
    十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
    望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に敗れた。

    数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白となった。
    あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の穏健派に
    分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、急進派を
    一気に破った。

    戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
    イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー王は、
    後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を迎えたが、
    王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

    1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
    領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    1037年のヴラチスラフの死後、プシェミスル家は、ボヘミアの王冠を取り戻した。 王家の
    争いを終わらせるために、ブレティスラフ王は、勅令を発布し、一家の最年長者だけが
    王位を継承する宣言をした。 ブラティスラフはまた、ドイツ人のボヘミアへの移住を
    奨励した。 国王は、都市の外国商人と手工業者層を強化して、地方の領主達の力を
    弱めたいと考えた。

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    ドイツ人移住者は、主にボヘミアの西部と北部一帯に定住した。 ボヘミア王国は、
    ドイツ法を取り入れて、ドイツの諸都市と交易を続けた。 ドイツの影響力を強めるために、
    神聖ローマ帝国は、ドイツ人の教会関係者をボヘミアに送り込んだ。 やがて彼らは、
    教会で支配的地位を占め、チェコ人との争いの原因を作った。

    13世紀になると、プシェミスル家の国王オタカル2世は、領土を南に広げ、ハプスブルグ
    家のルドルフと、神聖ローマ帝国皇帝の地位を争って、オーストリアを征服し、バルト海
    沿岸にまで及ぶ広大なボヘミア王国を築いた。 オタカル2世は、ルドルフとの戦いで
    1278年戦死した。

    1306年、ボヘミアのプシェミスル家は、突然に断絶した。 1310年、プシェミスルの王妃と
    結婚していたルクセンブルグのヤンが、ボヘミア王を名乗ったが、ヤンの時代に王国内部は
    荒廃した。 しかし、ヤンを継いだカレル4世は、プシェミスル家の国王としての自覚が
    強く、ボヘミア王国の黄金時代を築き上げた。 カレルは、巧みな外交政策で王国を
    拡張し、ボヘミア、モラヴィア、シュレジア(現在のポーランド南部)の3地方は、それ以後、
    ボヘミア王国の伝統の地と総称された。

    カレル4世は1355年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて、ボヘミア王国の首都プラハは、
    今や帝国の首都として建物や橋、大聖堂、教会などが次々に建造された。

    プラハ城もボヘミア王の居城として作り変えられ、1348年に、プラハ大学が学問の拠点
    として創設された。 カレル4世は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の選挙候
    (ボヘミア、ケルン、マインツなど)を規定した金印勅令を発布し、選挙候のひとつボヘミア
    王国は、中央ヨーロッパで最高権力を持つ国となった。

    【チェコお勧めの一冊】


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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一等支配が続いた。 その都市に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める計画
    経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を取り入れた。
    しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、未だに国家管理の
    計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、チェコの方が
    スロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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