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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 歴史探訪

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    白虎隊の学び舎 会津藩校 日新館とは
    江戸時代、全国300藩校の中でも、規模、内容共に随一と謳われたのが、会津藩の
    学校「日新館」で、多くの優秀な人材を輩出し、全国屈指の名門藩校と言われた。

    日新館は、5代藩主松平容頌(たかのぶ)時代の家老、田中玄宰(はるのぶ)の
    「教育は、100年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって
    計画され、5年の歳月を掛けて享和3年(1803年)に鶴ヶ城の西側に会津藩の最高
    学府として完成した。

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    広さは東西226m、南北116m、面積8,000坪、建物は1,500坪もあった。 幕末に
    飯盛山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもちろんのこと「ならぬことはならぬ」の
    精神を学び、未来に夢を馳せていた。
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    日新館は、戊辰戦争で焼失した後、昭和62年に会津の精神文化を後世に伝えようと
    完全復元された。 藩士の子弟は10歳で入学して学問や武道に励み、心身の鍛錬に
    努めた。 約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古のプールといわれる水練
    水馬池などがあり、新島八重の実兄・山本覚馬や白虎隊の少年達をはじめ、多くの
    優秀な人材を輩出。 覚馬はのちに、この日新館で蘭学の教授も務めました。

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    志賀 直哉
    志賀 直哉(1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から
    昭和に掛けて活躍した日本の小説家で、白樺派を代表する小説家のひとり。
    「小説の神様」と称せられ、多くの日本人作家に影響を与えた。 代表作に
    「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。 宮城県石巻市
    住吉町生まれ、東京都育ち。

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    志賀直哉の父は、総武鉄道や帝国生命保険の取締役を経て、明治期の財界で重きを
    なした人物でした。 直哉は、第一銀行石巻支店に勤務していた父の任地宮城県
    石巻市に生まれ、その後、学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学
    文学部英文学学科に入学しました。

    直哉は白樺派の作家ですが、作品には自然主義の影響も指摘され、無駄のない
    文章は、小説文体の理想のひとつと見なされて高く評価されています。



    生涯で合計23回の引越しをしました
    居住開始年月居住地
    1883年2月宮城県牡鹿郡石巻町
    1885年2月東京府東京市麹町区内幸町
    1890年4月東京府東京市芝区芝公園地
    1897年7月東京府東京市麻布区三河台町
    1912年11月広島県尾道市土堂町
    1913年12月東京府荏原郡大井町
    1914年5月島根県松江市
    1914年9月京都府京都市上京区南禅寺町
    1915年1月京都府京都市上京区一条御前通
    1915年5月神奈川県鎌倉郡鎌倉町
    居住開始年月居住地
    1915年5月群馬県勢多郡富士見村
    1915年9月千葉県東葛飾郡我孫子町
    1923年3月京都府京都市上京区粟田口三条坊町
    1923年10月京都府宇治郡山科村
    1925年4月奈良県奈良市幸町
    1929年4月奈良県奈良市高畑町
    1938年4月東京府東京市淀橋区諏訪町
    1940年5月東京府東京市世田谷区新町
    1948年1月静岡県熱海市稲村大洞台
    1955年5月東京都渋谷区常磐松町

    生誕の地である宮城県石巻市住吉公園付近には、志賀直哉生誕の地の案内があります
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    【志賀直哉邸跡と白樺文学館】

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    白樺派と文学館
    白樺派は、1910年(明治43年)創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった
    文芸思潮の一つ。 また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達の
    ことである。

    白樺文学館は、千葉県我孫子市旧志賀直哉邸跡地前に、2001年(平成13年)1月に
    白樺派の作品を広く公開するために建設された文学館である。 コンセプト立案者、
    および、初代館長は武田康弘。 日本オラクル初代社長の佐野力が創設し、
    2009年に千葉県我孫子市が運営を引き継いだ。 白樺派の他、柳宗悦が始めた
    民芸運動についての資料を所蔵・展示している。

    我孫子市にある手賀沼の北岸は、当時は農村地帯であったが、我孫子駅の開業で
    東京から交通の便が良くなり、別荘地として人気が出つつあった。 柳宗悦・
    柳兼子夫妻が1914年(大正3年)4月、宗悦の叔父である嘉納治五郎(柔道家)の別荘
    向かいに引っ越し、庭にあった3本の椎にちなんで嘉納が「三樹荘」と命名。
    柳夫妻に誘われる形で「白樺」同人達が続いた。



    志賀直哉夫妻は1915年(大正4年)に移り住んだ。 直哉は当時、父との不和に悩み、
    愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ「城の崎にて」「和解」
    「小僧の神様」や「暗夜行路」(前篇のみ)を執筆した。 さらに1916年(大正5年)
    には、武者小路実篤実篤も居を構え、彼らとの交流から1917年(大正6年)英国人
    陶芸家バーナード・リーチが三樹荘裏に窯を築いた。 直哉が京都へ転居した
    1923年(大正12年)を最後に各作家の居所は散り散りになるが、彼らの濃密な交流や
    東京からの文化人の来訪により、手賀沼北畔は白樺派や民芸運動の拠点となった。

    我孫子市は、白樺文学館の運営を引き継いだほか、文学館や白樺派作家の別荘跡前を
    結ぶ崖下の道を「白樺派の小径」と命名している。 また宅地開発されそうになった
    志賀直哉邸跡を購入して書斎を移築した。

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    津太夫(つだゆう、延享元年(1744年) - 文化11年7月29日(1814年9月12日))は、
    江戸時代後期の仙台藩の水主(かこ)で、浦戸諸島寒風沢島(現宮城県塩竈市)に
    生まれた。

    49歳の時に嵐に遭遇し、アリューシャン列島のウナラスカ島に漂流し、
    ペテルブルクでロシア皇帝アレクサンドル1世に謁見した後、儀兵衛、左平、
    太十郎ら3名と共にニコライ・レザノフとクルゼンシュテルン率いるロシア初の
    世界一周航海に同行する形で、61歳で図らずも日本人初の世界一周を果たした。
    日本帰国までの漂流生活は、実に14年にも及んだ。

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    寛政5年(1793年)11月、仙台藩の用木、米などを積んだ16人乗りの若宮丸の
    水主として石巻から江戸へ向かう途中、塩屋崎(現福島県いわき市)沖で暴風に
    遭い漂流し、半年もの間、壊れた船で太平洋を漂流した後、翌寛政6年(1794年)
    5月10日、アリューシャン列島東部のウナラスカ島(先に大黒屋光太夫もこの島に
    漂着)に漂着した。

    その地でロシア人に助けられ、アトカ島、聖パヴェル島、アムチトカ島、
    オホーツク、ヤクーツクを経て、寛政8年(1796年)12月下旬にイルクーツクに至り、
    この地で大黒屋光太夫と共に漂流した新蔵に出会う。

    この後、津太夫ら若宮丸の漂流民14名はイルクーツクで7年間暮らしたが、
    新蔵の説得により洗礼を受けた善六をはじめとする4名は日本語学校の教師となり、
    何不自由なく暮らしたのに対して、洗礼を受けなかった津太夫ら10名は役所から
    必要最低限の銅貨が支給されていたものの生活は苦しく、津太夫は漁網を縫う
    仕事をし、他の者も漁師や大工の手伝いやパンを売り歩いて糊口をしのいだ。
    このため漂流民たちの間で対立が激しくなり、津太夫ら10名は新蔵とは親しく
    交流した反面、善六ら4名に対しては憎しみさえ抱くようになった。 尚、
    寛政11年(1799年)2月28日に阿部吉郎次がイルクーツクで病死している。

    享和3年(1803年)3月初旬にロシア皇帝アレクサンドル1世の命令書が届き、
    3月7日にイルクーツクを出発、クラスノヤルスク、トムスク、エカテリンブルク、
    ペルミ、カザン、モスクワを経由して4月27日にペテルブルクに到着した。
    この旅の途中、乗り物酔いや病気などの理由により3名がイルクーツクに引き返し、
    ペテルブルクにたどり着いたのは10名であった。

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    ペテルブルクでは貴族の館で歓待され、5月16日に新蔵の通訳の下で皇帝
    アレクサンドル1世に謁見し、10名のうち帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、
    太十郎の4名の帰国が許される。 この後も一行は気球やプラネタリウム、
    芝居見物などロシア側から様々な接待を受けた。

    そして、6月12日に津太夫ら帰国組4名はロシア使節レザノフ一行と共に
    クロンシュタット港に赴き、露米会社の持船ロシア使節船ナジェジダ号に乗船し、
    ここで新蔵と別れた。 6月16日にナジェジダ号はクロンシュタット港を出発し、
    コペンハーゲン、ファルマス(途中フランス艦と間違われイギリス船から攻撃を
    受ける)、カナリア諸島、サンタ・カタリナ(初めてロシア船が赤道を通過)、
    ホーン岬、マルケサス諸島、ハワイ諸島を経て、文化元年(1804年)7月2日に
    ペテロパブロフスクに到着した。

    ペテロパブロフスクでは、陸軍中尉トルストイ伯などと共に、レザノフの通訳として
    同行していた善六も下船した。 レザノフは善六を日本に連れて行くつもりで
    あったが、善六の乗船により津太夫ら4名との対立が船内に持ち込まれ、空気が
    悪くなっているとナジェジダ号船長クルゼンシュテルンが強く主張したためで
    あった。

    ナジェジダ号は、8月5日にペテロパブロフスクを発ち、千島列島沿いにしばらく
    南下した後、本州東方から八丈島、薩摩の沖合を経由して9月4日に長崎に到着する。
    津太夫は漂流以来12年目にして61歳で日本人初の世界一周を成し遂げた。

    しかし、長崎に着いてからも津太夫ら4名はすぐに身柄を日本側に引き取られ
    なかった。 そのため不安と苛立ちから発病した者や、自殺未遂を起こした者まで
    出たが、レザノフと目付遠山景晋が会見した後(ロシアの通商交渉は失敗した)、
    翌文化2年(1805年)3月10日に正式に身柄が引き渡された。 その後、4名は
    奉行所より訊問を受け、キリシタン宗門の疑いが晴れた後、迎えに来た仙台藩士と
    共に長崎を出立し江戸へ向かった。 江戸では仙台藩主伊達周宗に引見し、
    藩邸の長屋で大槻玄沢、志村弘強から「環海異聞」編集のための聴取が行われた。
    全てが終了したのは文化3年(1806年)2月下旬で、津太夫ら4名は13年ぶりに
    帰郷を果たした。

    故郷の寒風沢に帰った津太夫は、文化11年(1814年)7月29日に70歳で亡くなった。

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    鎖国時代の日本、ペリー来航の100年以上も前にロシアの船が日本に来ていた
    ことは意外に知られていない。

    宮城県石巻市網地島にあるベーリングの像

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    元文の黒船(げんぶん の くろふね)
    元文の黒船とは、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、
    および、伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。 アメリカ
    合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年
    先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との歴史上初めての
    接触であった。

    元文4年6月18日、仙台藩領の本吉郡気仙沼で異国船の目撃情報があった。 更に
    4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾に浮かぶ網地島にも2隻の異国船が出現した。
    これらの船は、マルティン・シュパンベルクが率いるロシア帝国の第2次北太平洋
    大探検隊であり、ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリング
    アリューシャン列島を探検している間、4隻の船を日本へと遣わし、ヨーロッパ
    大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために
    来航したものであった。
     
    まず初めに、2隻の異国船が現れたのは、牡鹿半島の南に浮かぶ網地(あじ)島の
    南東部、長渡(ふたわたし)浜で、仙台藩の公式文書には、「牡鹿郡長渡のうち、
    根組浜という所の沖に唐船(異国船)が2隻現れた」と記されている。 長渡を
    去ったロシア船は、今度は亘理荒浜沖に姿を見せたが、この時は3隻であった。
    網地島の白浜海水浴場には、これを記念してベーリングの銅像が建立されているが、
    残念ながら、ベーリング本人は網地島には来ていない。

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    翌々日の25日には、仙台藩領から遠く離れた幕府直轄領の安房国長狭郡天津村
    (現千葉県鴨川市)にも異国船が現れたが、これは上記の3隻とは別行動をとって
    いた船であった。 ロシア船員はそれぞれ上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、
    タバコなどを交換した。 同月28日には伊豆国賀茂郡下田でも異国船が目撃された。
    これら上陸地の中で、ロシア人による日本初上陸の地となったのは、鴨川であった。

    当時、ロシアと日本の間には国境という概念がなく、霧を挟んで互いに姿が
    見えないという漠然とした区切りしかなかった。 その霧の向こうから
    突如ロシアが来訪し、こうして日ロの歴史が始まった。

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    鎖国時代の日ロ交流
    元文の黒船騒動で初めての接触を果たした日ロ両国であったが、千島列島では
    アイヌ人居住地にロシアの商人・海軍がじわじわとその勢力を拡大しつつあった。
    1753年、日本語学校の日本人教授を大幅に増員し、イルクーツクへと移転したが、
    これらの動きは蝦夷地(北海道)でアイヌと関係を持っていた松前藩の警戒を招いた。

    しかし、蝦夷地収益の独占を図る松前藩は、道外や和人地からの蝦夷地への訪問を
    制限しており、日本人にとって蝦夷・ロシアに関する知識は極めて限られたものと
    なった。 このような中、仙台藩の藩医工藤平助がロシア研究書である
    赤蝦夷風説考」を著述(赤蝦夷はロシア人のこと)したが、時の政治改革を主導して
    いた田沼意次もこれに関心を抱き、蝦夷地調査や新道開削などを開始したが、
    間もなく田沼が失脚したため、尻すぼみとなった。

    1793年のエカテリーナ2世の時代には、日本人漂流者でロシアで保護されていた
    大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が
    根室に来航したが、田沼の後政権を握った松平定信らは、漂流民の受け取りのみで
    通商は頑なに拒否して長崎回航を指示したため、ラクスマンはそのままオホーツクへ
    帰港した。

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    その後も1804年にニコライ・レザノフが同様に漂流者津太夫ら4名の送還のため
    長崎へ来航したのち、通称を拒否された報復で樺太と択捉島を襲撃する事件
    (文化露寇)、1811年にはゴローニン事件が起きるなど、正式な国交がないまま両国は
    緊張を続けた。

    1853年の米国による嘉永の黒船来航と同時期にエフィム・プチャーチン率いる
    ロシア使節が日本へ来航し、同年、樺太へのロシアの侵入が始まるが、交渉の末、
    1855年日露和親条約が締結され、ようやく日ロ間の国交が成立する。 1858年の
    日露修好通商条約、1875年の樺太・千島交換条約により、両国関係はようやく安定
    することとなった。

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    初めて海を渡ったサムライ
    慶長遣欧使節は、慶長18年(1613年)に仙台藩主の伊達政宗がフランシスコ会
    宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王
    フェリペ3世、および、ローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節であるが、
    元々、この使節団は、その2年前の1611年に三陸を大規模な津波を襲ったのを
    契機に、徳川家康の許可を得て、仙台藩が単独、かつ独自に派遣した使節団
    である。

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    当時の日本は、江戸幕府による鎖国令が敷かれており、津波による大災害を
    好機へと変え、ガレオン船を建造して、海外へとその活路を見出そうとした
    伊達政宗の野望とも言える壮大な計画である。 この時、伊達政宗は、
    「奥州王」の名において、イスパニア艦隊の日本への派遣をこの使節団に要請
    しており、当時世界最強であったイスパニア艦隊がその政宗の要請に応じて
    いれば、日本は根底から何もかもが変わっていた可能性がある。 一説に
    よれば、徳川幕府を倒すためにこの使節団を派遣したとも言われている。

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    コリア・デル・リオ
    欧州遣欧使節は、現在の宮城県石巻市の月の浦を出航し、ヌエヴァ・イスパニア
    (メキシコ)を経由して、一路ローマを目指したが、その途中のスペイン南部に
    あるコリア・デル・リオという小さな街で長期滞在した。 この街で滞在をした
    理由は、ルイス・ソテロの出身地であるためと言われている。 この滞在には、
    諸説あるが、使節団は、最長で1年程度をこの街で過ごしたとも言われている。

    この街には、ハポン(Japón=日本)姓、もしくは、Xapón姓の人が数百人
    住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に留まり移住したキリスト
    教徒の仙台藩の藩士や使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われ
    ている。

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    コリア・デル・リオ
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    政宗の野望費える
    1615年1月30日、使節団は首都マドリードにてイスパニア国王フェリペ3世に謁見を
    許された。 2月17日、支倉常長は、フェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の
    付属教会で洗礼を受けた。 8月22日、使節団はマドリードを出発した。 使節団は
    その後、10月25日にローマに到着し、10月29日、ローマにおいて栄誉あるローマ
    入市式を行った。 11月3日、常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に
    謁見し、ローマ市民権証書が授与された。 但し、交渉は難航し、結局、政宗の
    嘆願が受け入れられることはなかった。

    この使節団は、出航直後にキリシタン禁令や宣教師追放令が出たことから、
    7年後に帰国するものの、洗礼を受けていた支倉常長を当主とする支倉家は
    御家断絶の憂き目に。 ルイス・ソテロもマニラから密入国しようとしたが
    捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)に長崎の大村で火刑により
    殉教した。

    岩倉使節団
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    その後、使節団のことは語られることなく、明治6(1873)年に岩倉具視率いる
    「岩倉使節団」がイタリアのヴェネツィアで常長の書状を発見したことで、慶長遣欧
    使節の偉業が明らかとなった。 これが切っ掛けで、当時逆賊扱いをされていた
    仙台の地に、日本で2番目の高等学校、仙台第二高等学校(現在の東北大学)が開設
    されることとなった。

    使節団が持ち帰った貴重な資料は国宝に指定されていたが、2013年6月にユネスコの
    「世界記憶遺産」に登録され、仙台市博物館に保管されている。



    東日本大震災
    コリア・デル・リオでの滞在は、たった1日のみであったが、東日本大震災が
    発生した際に、このコリア・デル・リオ市が避難民を受け入れているという
    噂を聞き付け、スペイン語でコリア・デル・リオ市役所に問い合わせたところ、
    全くのデマであることが判明したため、結局、この地に住むことはなかったが、
    もし、本当にコリア・デル・リオ市が避難民を受け入れていたならば、今頃は、
    日本などからは離れて、この地で生きていたと思う。 宿泊した宿のオーナーも
    ハポンと言う人であった。

    コリア・デル・リオ市は、日本人の末裔の街であるため、日本人観光客向けに日本語
    での案内もあるのだが、肝心の日本人が、その史実を全く知らないため、ここには、
    滅多に日本人が来ないとか。 コリア・デル・リオは、セビリアからバスで1時間
    程度の場所にあるため、昔のサムライの気概を感じるために、コリア・デル・リオを
    訪れて見るのも一興だと思う。

    >>遠い帆 ~日本で始めて海を渡ったサムライ~

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    モロッコ国営バスの旅
    モロッコ国営バスで青の街シャウエンからテトゥアンへ。 この国営バスは、
    日本からでも予約が出来ますが、言語は全てフランス語のみ対応です。
    モロッコは、基本的に公共交通機関が時間通りには運行しておらず、遅く
    出発するのは我慢が出来ても、時折時間よりも前に出発してしまうこともあり、
    しかも、特に何もアナウンスは行わない、初めてモロッコを訪れると、非常に
    ビックリします。

    モロッコのバス
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    【非常に複雑なテトゥアンの旧市街メディナ】
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    【早朝のテトゥアンの旧市街(メディナ)】
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    メディナ観光の注意点
    テトゥアンに到着したのは、午後11時過ぎであったため、既に周囲は真っ暗。
    そのまま少しだけ旧市街メディアの観光をしたものの、やはり、暗いため、
    翌日に繰り越すことにしましが、翌朝の早朝6時からのメディナ観光でも、
    やはりまだまだ暗かった。。 さて、このテトゥアンのメディアは、非常に複雑で、
    入るのは簡単なものの、出るのが非常に困難。 Google Mapは一切役に立た
    ないため、全て、適当に歩き回るしかありません。。 しかも、周囲の景色が
    非常に似ており、その場所を1度通ったかすら思い出せないのと、袋小路が
    多いため、行き止まりが非常に多いため、抜け出るのは至難の技。。

    ようやく出口が見えました(涙)
    IMG_3237

    IMG_3235

    複雑怪奇なメディナと挌闘するすること1時間、ようやく出口が見えてきました。
    モロッコには、特に道標などはなく、特に何も書いていないため、道に迷うと
    大変です。。 特に、早朝や夜中にメディナに入る場合は、誰も歩いては
    いないため、それ相応の覚悟が必要です。

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    タンジェから青の街シャウエンへ
    タンジェからシャウエンまでは、約3時間のバスの旅。 途中、このような
    雄大な景色が広がります。 テトゥアンで20分ほど休憩し、そのまま
    シャウエンへと向かいます。 尚、この日の宿泊地は、このテトゥアンですが、
    一旦シャウエンに行ってから、テトゥアンに戻る形になります。

    IMG_3154

    約3時間のバスの旅を終えて、青の街シャウエンに到着。 但し、その青の街は、
    旧市街メディナの方なので、新市街のバスターミナル付近は特に何もありません。
    よって、ここから2キロ、徒歩20程度の距離にありますが、街中全て青を
    イメージして来たため、街の入り口が意外と白い建物ばかりで、若干ガッカリ
    しましたw メディナまでの通りには、市場や個人商店が軒を連ねていました。

    IMG_3162

    さて、ここからが、シャウエンのハイライト、旧市街のメディナです。
    何故このような青ばかりを使うようになったのはか、定かではないものの、
    ある一定の法則に則り計画的に造られたものは、綺麗であるという結論に達し
    ました。 青にも色々な青がありますが、濃い青から淡い青まで、ありとあらゆる
    青が存在しています。 但し、よくよく見ると、街自体は結構汚いため、
    青だけをお楽しみ下さいw

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    IMG_3188

    シャウエンは、 リーフ地方の山中にあり、タンジェとテトゥアンから内陸に
    入ったところに位置する。 1471年にムーレイ アリ ベン ムーサ ベン ラチェッド
    エル Alamiが、モロッコ北部のポルトガルの侵略と戦うための小さな要塞として
    設立した。 この地域のGhomara部族と共に、多くのモリスコとユダヤ人が、
    スペインによるレコンキスタの後、ここに定住した。 建物が青く塗られたのは、
    ユダヤ教で青が天や神を示す神聖な色であることに由来するとの説もあるが、
    単なる虫除けとの説もある。

    【旧市街の終点付近】
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    【ハマム広場】
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    【シェフ・シャウエン旧市街】

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    イスラム圏は基本的に、銀製品のお土産が多く、ランプや陶器が多いのが特徴。
    お土産は買わなくとも、見ているだけでも楽しくなります。 シャウエンは、
    非常に辺鄙な場所にあるため、大概の人たちは、この街に宿泊をしますが、
    時間がないため、ここには泊まらずに、バスで1時間半行った、テトゥアンに
    泊まりましたが、そちらの旧市街の方が実は凄かった。

    シェフ・シャウエン旧市街
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    青の街、シャウエンを後にして、テトゥアンへと戻ります。 実は、この
    テトゥアンに行くまでは、旧市街のメディナのことを侮っており、複雑に
    入り組んだ迷路のような旧市外では、google mapは、一切役には立たないので、
    要注意。

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    スラブ語は、それぞれの地理的な分布により、東、西、南スラブ語の3語群に
    区分される。

    【東スラブ語群】(地図の赤い部分)
    東スラブ語群に含まれるのは、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語であり、
    かつてのソ連邦内でも使用されていた言語となっており、現在もロシア、
    ウクライナ、ベラルーシにおけるそれぞれの公用語となっている。 東スラブ語は、
    類似性が比較的高く、ロシア帝国時代のウクライナ語とベラルーシ語は、ロシア語の
    方言とみなされていた。 ウクライナ語とベラルーシ語には、ポーランド語に類した
    特徴が多く、かつて、ポーランドの支配下にあったという歴史的な関係を示して
    いる。 また、ウクライナとスロバキアの国境付近には、ルシン語という少数
    言語がある。

    【西スラブ語群】(地図の青い部分)
    西スラブ語群に含まれるのは、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、ドイツ
    国内の少数言語であるソルブ語、またポーランド北部にあるカシュブ語である。
    このうち、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語は、それぞれの国家の公用語、
    並びに、欧州連合の公用語にもなっている。 ソルブ語は、ソルブ人が住むドイツの
    歴史的、地理的な影響を強く受けたため、ザクセン州の上ソルブ語とブランデン
    ブルク州の下ソルブ語に分かれて形成された。 現在、ソルブ語は、この両州では、
    地域的な公用語として学校教育にも取り入れられている。

    カシュブ語は、長くポーランド語の方言とされて来たが、系統的に、また歴史的に
    見て、ポーランド語と非常に近い関係ではあるものの、21世紀に入ってようやく、
    ポーランド国内の地域言語の地位を獲得した。 西スラブ諸語は、文法体系の
    基本こそ共通しているものの、音韻や語形の面で差異が目立ち、共通スラブ語から
    分岐して行く早い課程で、それぞれの言語が独自の特徴を持って形成された
    ことが予想出来る。

    【南スラブ語群】(地図の赤と紫の部分)
    南スラブ語群は、東・西スラブ語群から見て地理的に、ルーマニア、ハンガリー、
    オーストリアという異言語を使っている国家により隔てられ、バルカン半島に
    広く分布している。 南スラブ語群には、ブルガリア語、マケドニア語、
    スロベニア語、そして、ユーゴスラビア時代には、セルビア・クロアチア語と
    呼ばれていたセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語が含まれる。
    それぞれの言語を文法的な特徴から見ると、ブルガリア語とマケドニア語が、
    「バルカン言語圏」に含まれ、他のスラブ語とは異なる特徴を持っている。
    南スラブ語全体としては、このバルカン言語圏の特徴を持つブルガリア語と
    マケドニガ語の南東グループと、この特徴を持たないセルビア語・クロアチア語、
    並びに、スロベニア語の北西グループに2分される。

    aaa

    【文字で見るスラブ語】
    大きく3語群に大別されるスラブ語だが、使われている文字で見ると、2つの
    文化圏に大別することが出来る。 1つは、ラテン文字、いわゆる、ローマ字で、
    もう1つはキリル文字である。 ラテン文字は、地理的に見ると、西半分の
    西スラブ語群と、南スラブ語の北西グループで使用され、キリル文字は東半分の
    東スラブ語群と、南スラブ語群の南東グループで使用されている。 セルビア語と
    モンテネグロ語は、伝統的には、キリル文字を使用しており、セルビアの公用
    文字もキリル文字だが、最近では、日常的にラテン文字が使用されている。 また、
    クロアチアやボスニアでも、歴史的にはキリル文字も使用されており、重要な
    文章は、キリル文字でも残されている。

    スラブ語の文字文化は、キリスト教の受容と発展とは切り離すことが出来ない。
    スラブ語圏の西半分のラテン文字の使用は、西方カトリック教会の影響であり、
    また東半分のキリル文字の使用は、東方正教会を受け入れたため、独自に創られた
    ものである。 これらの文字は、聖書や宗教文書の翻訳を行う際に用いられため、
    ラテン文字は「西方教会」、キリル文字は「東方教会」の象徴となり、それぞれの
    スラブ人たちに受け入れられて行った。

    【キリル文字】
    キリル文字は現在、スラブ語圏以外でも使われており、旧ソ連の諸言語、例えば、
    シベリア東部のエヴュンキ語、や中央アジアのタジク語等でも使用され、モンゴル語
    でも使用されている。 キリル文字の使用範囲が広まったのは、ユーラシア大陸の
    広い範囲に政治的、文化的影響力を及ぼしたロシア、つまり、ロシア語で使用されて
    いる文字であったからである。 ロシア語のキリル文字は、33文字から成っており、
    Ь, Ъは、それぞれ「硬音記号」と「軟音記号」と呼ばれ、子音の硬軟を表すために
    使われるため、現代ロシア語では、これらの文字に音はない。

    【東スラブ語の文字の表記方法】
    ロシア語とベラルーシ語のアルファベットは、殆んど同じだが、ロシア語にはない
    I と ’ を使用している。 また、ウクライナ語とベラルーシ語では、子音を2つ繋げた
    二重音字を比較的多く用いている。 東スラブ語のキリル文字は、それぞれ少しずつ
    異なるが、特に注意すべきは点は、全く同じ文字の発音が異なることがあるところ。
    特に、ウクライナ語のアルファベットには、ロシア語とは異なる文字が4文字が
    あり、逆に、ロシア語のЭは存在しない。

    【南スラブ語の文字の表記方法】
    南スラブ語群のうち、南東地域はキリル文字圏に含まれる。 ブルガリア語は、
    ロシア語の33文字のアルファベットから3文字を除いたもので構成され、順序も
    ロシア語と同じである。 但し、「Ъ」は、文字は同じだが、機能がロシア語とは
    異なる。 ロシア語では音を持たない補助記号であるが、ブルガリア語では、母音を
    表すため、この文字が語頭に出てくる単語も存在する。

    【セルビア語のキリル文字】
    セルビア語のキリル文字は全30文字だが、東スラブ語圏とは若干文字が異なる。
    セルビア語は近年では、ラテン文字でも表記するが、キリル文字による
    アルファベットの基本的な順序はロシア語と概ね同じだが、Ђ, Ј, Љ, Њ. Ћ, Џの
    6文字は、東スラブ語にはない文字であり、逆に、ロシア語にはある、Ё, Й, Щ, Ъ,
    Ы, Ь, Э, Ю, Яの9文字がない。 これは、言語の特徴に合わせて現代的な
    アルファベットが後から作られたためである。

    言語的にはセルビア語と同じ、モンテネグロ語(ツルナゴーラ語)の場合は、
    最も新しく独立宣言を行ったスラブ語であり、2009年、セルビア語の
    アルファベットを元に、これまでのキリル文字にはない文字としてЗ́, Ćの2文字を
    加えたアルファベットが新たに制定された。 これらの文字は、ラテン文字では、
    Dž, Śとそれぞれと表記される。 これまで、長くセルビア語の一方言として
    扱われて来たモンテネグロ語は、セルビアとは多少発音的に異なる部分が
    あったため、こうした発音上の特徴を、国家独立と共に、異なる文字を用いて
    書き表そうとしたのである。 但し、これらの文字の現時点での導入は余り
    進んではいない。

    マケドニア語は、第二次世界大我の終結と共に、マケドニアという独立国家がした
    ことで正式に言語として認められ、正書法も定められている。 マケドニア語
    キリル文字は、セルビア語のキリル文字をモデルとして作られた。

    【キリル文字の発祥】
    スラブ世界で生まれたキリル文字は、スラブ民族と国家形成の歴史、周辺諸国との
    関係に深く結び付いている。 キリル文字は、ギリシャ文字を元にして作られたが、
    キリル文字の考案者は分かってはいない。 恐らく、10世紀末頃のブルガリアが
    発祥の地だろうと考えられており、ブルガリアは、7世紀頃にバルカン半島に
    移動して来た東方チュルク系ブルガール人と、既にこの地に住んでいたスラブ人が
    融合して形成された国である。 8~9世紀には、国家としての基盤が固められ、
    ビザンツ帝国の西側に台頭した。 864年には時の支配者ボリス(在位852~889年)
    がビザンツ教会からキリスト教を受容、後継者シメオン帝(在位893~927年)の
    時代に中世ブルガリア国は最盛期を迎えた。 当初、ブルガリアの文化は、
    ビザンツの文字と言語、つまり、ギリシャ文字とギリシャ語に依拠していたため、
    スラブ人の独自の文字文化は、ギリシャ文字が元として作られ、これによって、
    スラブ人の言葉が表記されるようになったが、これがキリル文字の始まりである。

    スラブ民族は、ヨーロッパ大陸の東、紀元後の数世紀の間に現れ、9世紀~10世紀に
    至る頃には、およそ、現在のスラブ諸国がある辺りに民族国家を形成した。
    この頃、スラブ人の西には、カール大帝のフランク王国の継承国である東フランク
    王国が、南東にはビザンツ帝国があり、また、キリスト教会は東西に分裂の途上に
    あった。 現在チェコ、スロバキアがある一帯には、スラブ人として初の国家で
    あるモラヴイア王国が建国され、9世紀には、そこに西方教会の一大勢力であった
    フランク教会の影響力が及んで来た。 しかし、モラヴイア王は、このフランク
    教会側からの介入を嫌い、860年代に入って間もない頃に、ビザンツ教会に対して、
    スラブ人のためにスラブ語で神の教えを説く「牧師」を派遣して欲しいと依頼した。

    これに応じて、ビザンツ皇帝ミカエル(在位842~867年)は、側近のギリシャ人
    キュリロスとメゲイオスを派遣したと伝えられている。 モラヴイアの地でこの
    兄弟は、ギリシャ語聖書のスラブ語翻訳に着手したが、その活動はフランク教会に
    妨害され、2人の死後、弟子たちは追放された。 追放が始まったのは885年頃で、
    彼らは、その後、ブルガリアに迎え入れられた。

    モラヴイアからやって来たスラブ人たちが使っていた文字は、キリル文字ではなく、
    それよりも古い文字で、キュリロスが考案した「グラゴル文字」と呼ばれる、異なる
    文字であった。 但し、グラゴル文字は、次第に廃れて行き、最終的には、ギリシャ
    文字がスラブ語を表記するための文字として使われるようになったが、グラゴル
    文字を取り入れた文字体系は、いつしか、かつてグラゴル文字を考案した
    キュリロスの名を冠して、「キリル文字」と呼ばれるようになり、東方正教会の
    キリスト教を受け入れた東スラブ世界へと広まって行ったのである。

    【ラテン文字のスラブ語の世界】
    日本では「ローマ字」とも呼ばれているラテン文字は、歴史をたどれば、
    キリル文字と同く、ギリシャ文字から派生した文字体系である。 ラテン文字は、
    その文字の発祥の地であるローマ帝国が領土を広げ、キリスト教がそれぞれの国で
    国教となったことにより、ヨーロッパ大陸全体へと拡大し、欧州言語を表記する
    ための文字としては、最もメジャーな表記文字となった。 しかし、言語が
    異なると、発音も大幅に異るため、1つの文字では表記出来ない発音上の問題が
    発生し、2つ以上の文字を組み合わせたり、補助的な記号を付けて音を区別したり
    するようになった。

    スラブ語を母音文字で分けた場合、ブルガリア語以外の南スラブ語は、基本的に、
    A, E, I, O. Uの5つの母音があるだけであるが、そもそも、スラブ譜は、印欧祖語
    から分かれて形成される過程において、母音体系を単純化し、古い時代には
    あった二重母音を全て単母音化した。 南スラブ語では、この単純化した母音
    体系のままの状態で残ったため、ほとんどの南スラブ語の標準語では、5つの母音
    文字だけで構成されている。

    但し、西スラブ語の状況は少し異なっており、チェコ語、スロバキア語では母音が
    長短の区別を持つようになったため、Áのように、長母音を表す文字があり、Uは
    長母音を表すÚ, Ůの合計3つが存在するが、Ůは、発音上の異なる起源を文字に
    よって表したものである。 ポーランド語では、古代スラブ語から引き継いだ
    鼻母音を表すためのĄ, Ęの文字が必要となった。

    これら特殊文字の発祥の地は15~16世紀頃のチェコであると言われており、
    現代では、南スラブ語でも導入されている。 これらの特殊文字が定着する前の
    スラブ語は、西欧諸語で用いられているCH, CZ等の2重文字を用いていたが、
    チェコで生まれたスラブ民族による活動が他のスラブ語圏に波及するに従って、
    特殊ラテン文字が西スラブ語の中で定着して行った。 スラブ語の中で最も子音
    文字が多いのはポーランド語であるが、チェコ語とは異なった特殊文字が使用
    されており、子音体系が複雑化したポーランド語では、CH, DZ, Dź, SZ, RZ, CZ,
    Dżの2重子音文字が使用されている。 スラブ語は、基本的な語彙の多くが共通
    しているが、ラテン文字とキリル文字に文字表記の体系が大きく分かれている
    ため、全く異なる言語のように見えるが、発音上は、非常に共通点が多い言語群で
    あると言うことが出来る。

    sec02img01

    【グラゴル文字の発明】
    キリル文字という名称は、スラブ人に布教を行った東方正教会の宣教師、キュリロス
    (キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟の名前に由来している。 彼らは、
    モラヴィア王国のラスチスラフ王が862年に東ローマ帝国にキリスト教の伝道師
    派遣を要請した際に送られたが、その布教活動のため、スラブ語を表記する
    ための文字を発明した。 しかし、彼らが実際に考案した文字は、グラゴル文字と
    呼ばれるキリル文字とは異なる文字であった。 862年から863年頃に考案された
    グラゴル文字は、スラブ語を表記するための初めての文字であり、スラブ語圏に
    おいて広く使用されるようになったが、彼らの布教活動は、ローマ教会の圧力に
    よって失敗に終わり、885年のメトディオスの死後、弾圧された彼らの弟子たちは、
    全員ブルガリア帝国へと移り、ブルガリア皇帝のボリス1世によって庇護され、
    そこで布教活動を続けた。

    Russianalphabet

    【キリル文字の誕生】
    グラゴル文字はスラブ語の特徴を良く捉えたものであったが、いくつかの問題が
    存在した。 形が複雑過ぎて、使い辛かったことに加えて、当時ブルガリアでは、
    既にギリシャ語を使う層が一定数存在しており、ブルガリア語をギリシャ文字で
    表すことが頻繁に行われていた。 弟子たちは、ブルガリアに移った後に、グラゴル
    文字を改良し、900年前後には、よりギリシャ文字に近い形の新しい文字を開発した。
    キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字
    では表現出来ないものは、グラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。
    しかし、彼らは、キュリロスを偲び、新しい文字をキュリロスの文字「キリル文字」
    と呼んだ。 この名称により、後世では、キリルが創作した文字がキリル文字と
    信じられるようになったが、上記のように弟子たちが弾圧を受けたこともあり、
    キリル文字成立期の資料がほとんど残ってはいないため、19世紀前半までは、
    グラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていた。 その後、19世紀
    中頃に古い音韻を残したグラゴル文字による資料がいくつか発見され、グラゴル
    文字の方が早く成立したことが明らかとなった。

    キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(在位
    893年~927年)で使用が始まったと考えられている 。 文字の開発当初、キリル
    文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする
    北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においては、グラゴル
    文字が使用されていた。

    【文字の広まりと変遷】
    教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様、東方正教会内で
    普及して行き、徐々にグラゴル文字に取って変わった。 シメオン時代にブルガリア
    統治下にあったセルビアにもキリル文字が広まり、更に、988年にはキエフ大公の
    ウラジーミル1世が正教会を受け入れたため、ロシア全体にもキリル文字が広まる
    こととなった。

    各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられて行った。
    ロシアにおいては、18世紀初頭にピョートル大帝が文字改革を行い、いくつかの
    文字を廃止し、あるいは、字体がラテン文字に近付けられた。 更に、20世紀に
    入ると再び文字改革が行われることになり、1912年に改正改革案が発表され、
    1917年には、ロシア臨時政府によって旧文字体系から4つの文字が削除された
    現在のロシア文字体系が施行された。 セルビアにおいても19世紀半ばにヴーク・
    カラジッチによって言文一致を目指した改革が行われ、不要な文字の削除とラテン
    文字のJの導入等が行われ、セルビア語のキリル文字によるアルファベットが
    成立した。 1945年にはブルガリアにおいても文字改革が実施された。

    【キリル文字使用言語】
    古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、スラブ語群と正教会の
    重なる範囲にほぼ一致し、東スラブ語群のロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、
    南スラブ語群では、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア語、モンテネグロ語
    である。 スラブ語群でも、カトリック圏であるポーランド語、チェコ語、
    スロバキア語、スロベニア語、クロアチア語はラテン文字を使用しており、
    イスラム教に属するボスニア語もラテン文字を使う場合が多い。 また、スラブ語
    とは全く関係がないモンゴル語、ジョージア(グルジア)では、南オセチア自治州の
    オセット語(イラン語群)もキリル文字を使用している。

    また、東方正教会に属するスラブ語群以外の言語は、かつてはキリル文字が使用
    されていた言語が多いものの、現代においては使用されていない。 ルーマニアは
    正教会であるため、以前は、キリル文字を使用していたが、18世紀以降、民族主義の
    高まりにより、ラテン文字化運動が広がり、1859年~1860年に掛けて、正式に
    ラテン文字が採用されることとなった。

    その他、正教会に属する言語では、ギリシャ語はギリシャ文字、ジョージア語は
    ジョージア文字、アルメニア語はアルメニア文字となっている。

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    銭屋五兵衛は、1773年11月25日、加賀の国石川郡宮越、今の金沢市金石町で
    生まれました。 五兵衛の先祖は加賀の国鶴来(今の白山市)にあった
    舟岡山城の城主高畠石見守の家臣でした。

    五兵衛から数えて6代前の吉右衛門の時に、宮越に移り住みました。 それから
    代々宮越で両替商をしていたため、『銭屋』が店の称号になったのです。

    maingohei

    海運業に乗り出した五兵衛は、東北地方や北海道の産物を瀬戸内海の海や大阪へ
    運ぶことを考え、海運業にすべてをかけました。 大阪で修業をしてからは、
    次々に大きな船を造り、多くの産物を運び、さばきました。 北は北海道から
    奥羽、西は山陰、山陽、九州方面へ、東は江戸、伊豆、南は阪神四国に至るまで
    五兵衛の船は活躍しました。

    五兵衛は宮越に本店を置き、青森、弘前、松前、箱館、長崎、兵庫、大阪、江戸と
    いった主な地点に大支店を置きました。 全部で日本全国に34の支店があった
    そうです。

    扱う品物は米、材木、生糸、海産物、しめかす(肥料)、衣類、笠なども取引
    しました。 五兵衛の船は百石積みから二千石積みまで、200隻余りの船を持って
    いたと言われていますが、本当のことは分かっていません。 このようにして、
    五兵衛は、一代にして約300万石にのぼる富を築いたのです。



    五兵衛の一生のうちで、一番大きな事件は河北潟の埋め立て工事を行ったことです。
    1849年、五兵衛は周りが25.5キロメートル、面積2576ヘクタールもある河北潟を
    埋め立て、農地にすることを計画しました。

    当時、米は藩にとって重要な産物であり、米は作っても作っても売れました。
    この埋め立て事業には、三男の要蔵が受け持つことになりました。 設計には
    数か月掛かりました。

    835769661603843555
    72543989272003561
    6853765584329098030
    3451569054138545185
    2834049679663555915
    6558457421201887259
    3058112523798674740 53079131630716063316220390455369297844

    藩の許可が下りたので、すぐに工事に取り掛かることになりました。 しかし、
    河北潟沿岸の漁民はこぞって反対しました。 河北潟がなくなると、漁が出来なく
    なるからです。 埋立の土や砂を固めるために石灰を使いました。 ところが、
    それが毒を入れて潟の魚を殺したというように誤解され、潟の魚を食べた多くの
    人が死んだということになったのです。

    多くの魚が死んだのは、潟の水が腐って酸素不足になるという水の問題で、
    これまでにもあったことだったのです。 死者が出たのは、死魚を食べて中毒に
    なったのと、流行り病が流行したからですが、すべて埋め立てのせいにされて
    しまったようです。 これにより、五兵衛一族は捉えられてしまいました。

    1852年9月、五兵衛は金沢の牢獄に入れられてしまいました。 五兵衛は80歳に
    なっていました。 歳を取っている上に牢に入れられたこともあって病気になり、
    同年11月21日に身に覚えのない罪で牢の中で亡くなってしまいました。 さぞ
    無念だったでしょう。

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    幕末の日本、越後長岡藩が輩出した風雲児・河井継之助の生涯をたどれば、
    彼の目指した改革と社会がわかる。

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    人の世に生きていくということは、苦しいことも、うれしいことも
    色々あるものだ。 その苦しいことに耐えられなければ、何事も
    成し遂げられない。

    学問というものは、実行しなければ何の役にもたたないものである。
    英雄の気質を備えているものほど、なお一層危険にあうものだ。
    法や制度は清廉で能力のある人間がいて、始めてその成果が出るものだ。
    人を得ずして法だけあるのは、かえって危険である。

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    無理には使わず、快く承知をさせて、使うもの使わないものも、互いに
    愉快に仕事をするのが得。

    従者の外山修造(寅太)にこの世の中は面白くなってきた。 寅や、何でも
    これからのことは商人が早道だ。 思い切って商人になりやい。

    天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ。

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    2018年で150周年を迎える戊辰戦争では、鶴ヶ城こと若松城下での戦いが有名だ。
    戦火は会津藩領全域に及んでいた。

    ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を
    展開。 新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢となって行った。 若松城下で
    敗戦間近だった時、奥会津では負けていなかったのである。

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    奥会津は山深い。 只見川、伊南川の流域は、この2川とそこに注ぐおびただしい
    数の支流が山ひだを縦横に縫って、深い谷をつくっている。 そして、それらの
    川筋に町や集落が散在する。

    奥会津は福島県会津地方の南西部。 柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町、
    桧枝岐村、南会津町の7町村を指す。 この町村に、会津若松市の一部、会津美里町
    高田地区の大部分、下郷町、更に栃木県日光市の一部を加えた地域が、かつては
    天領だった。 南山御蔵入領という。

    天領は直轄地だが、南山は長い間、会津藩が幕府に代わって統治する預かり地と
    なっていた。 山間で農地が少ないため、米は余り採れなかったが、下野(栃木)と
    並ぶ麻の一大産地であり、交易の盛んな土地だった。 その豊かな山河が幕末、
    戦火に蹂躙された。 慶応4年(1868年)、会津戦争の時である。

    大政奉還の翌年の1月、鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争は、江戸、関東、
    上越へと拡大して行き、会津に及ぶ。 戊辰の会津戦争と言うと、若松城の
    落城や、白虎隊の悲劇が良く知られている。 しかし、この南山でも、熾烈な
    戦いが領内の至るところで繰り広げられた。

    それは、幹線道である下野街道、越後街道をはじめ、八十里超、沼田街道など、
    若松城下へ向かう道が何本も南山を通っていたからだ。 この交通の要衝、
    各街道の入り口を防御することが、会津藩の死活に関わったのである。

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    同年閏4月、会津と旧幕府方の連合舞台(東軍)が下野街道を南下し、宇都宮領内で
    新政府軍(西軍)と衝突。 西軍が南山に侵攻する。 更に7月29日に越後長岡城が
    落城すると、南山が騒がしくなる。

    戦況は当初、西軍優位で進んだ。 南山統治の本拠、田島陣屋を奪い、一時は
    奥会津をほぼ制圧する。 だが、その直後に東軍は巻き返しをはかり、西軍を
    追い立てた。 占拠された田島陣屋を奪還。 更に各所に兵力を展開し、優位を
    取り戻すのである。

    意外にも、この時の東軍の主力となったのは、屈強で知られる会津藩正規軍では
    ない。 領内から集められた農兵を中心とする臨時編成の部隊だった。 しかも、
    奥会津での戦いは、9月22日に若松城が落城し、会津藩が降伏した後も、数日間に
    渡って続いた。

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    司馬遼太郎原作、岡田准一主演、役所広司、有村架純ら豪華キャストで描く
    大型歴史ドラマ。 これまでにない、石田三成目線での関が原の戦いの歴史を
    新たに描き出す。 総時間2時間40分。



    幼い頃に豊臣秀吉にその才能を見出され、家来として召抱えられた石田三成
    (岡田准一)は、秀吉の死後、豊臣家への忠義を貫く余り、天下取りの野望に
    燃える徳川家康(役所広司)と徐々に対立を深めて行く。 そして、1600年
    10月21日、戦国時代に終止符を打った歴史的合戦「関ヶ原の戦い」は、
    小早川秀秋(東出昌大)の裏切りにより、一気に決着がついた。

    豊臣秀次の一族を根絶やしにするため、京都三条河原で30名もの側室子女らが
    処刑となったが、その中には、まだ秀次とのお目通りも済んでいない最上家の
    駒姫の姿もあった。 駒姫は幼いながらも斬首に列せられることとなったが、
    その際、駒姫を守るためにその侍女(有村架純)が周囲に戦いを挑み、姉と
    2人だけ生き残った。 

    その侍女は、その後、三成に召抱えられ、忍びとなり、いつしか、お互いに
    恋心を抱く仲へ。 かつてない切り口で歴史を紐解く感動スペクタクル。
    歴史は勝者によって作られるものなり。



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