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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ブルガリア・旧ユーゴスラビア・アルバニア

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    6世紀になると、黒海の北の平原に居たスラブ人がドナウ川に到達した。
    ビザンチン帝国はこの地域にいくつもの要塞を建設していたが、スラブ人の
    勢力は強く、モエシアとトラキアはスラブ人の侵入を受けた。

    7世紀になると、トルコ系の言語を話すアジア系のブルガール人がこの地域に
    侵入して来た。 ハンと呼ばれる指導者に率いられたブルガール人たちは、
    熟練した戦士たちで、モエシア防衛のために送り込まれたビザンチン軍を
    たちまち打ち破った。

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    やがてブルガール人とスラブ人たちは、相互に婚姻を結ぶようになり、
    スラブ語が共通言語となった。 681年、ハンのアスパルフは、ブルガリア
    北東部のプリスカを首府とする第一次ブルガリア王国を建国した。 王国内に
    置かれた10の州は、それぞれ大貴族たちに統治されることになった。

    この頃から人々の階級の分化が進み、ポヤールと呼ばれる地主たちは、農奴と
    呼ばれる土地を持たない農民たちから、収穫量の一定割合を強制的に徴収する
    ようになった。

    ブルガリア王国は、ビザンチン帝国から頻繁に攻撃を受けた。 811年、ハンの
    クルムの率いるブルガリア軍は、ビザンチン軍を打ち破り、皇帝ニケフォロスを
    戦死させた。 クルムは勢いに乗じて、コンスタンチノープルに迫った。
    クルムの後継者たちは、王国の領域を拡大して、西はセルビアとマケドニアの
    一部、北は現在のルーマニアの一部にまで及んだ。

    863年、ハンのボリス1世は、キリスト教に改宗し、臣下たちにも改宗を強要した。
    この頃、キリスト教の指導者内には、教義をめぐる激しい論争が続き、教会は
    ローマ教皇を首長とするカトリックと、ビザンチウムの大司教を中心とする
    ギリシャ正教に分裂した。

    ボリス1世は教皇に、ブルガリアに大司教を置くことを求めたが、拒否されると、
    ローマの教会と絶縁して、ギリシャ正教の教義を採用した。

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    10世紀初頭には、ブルガリアはバルカン半島内で最強で、裕福な国家に
    なっていた。 スラブ人とブルガール人は完全に融合して単一のブルガリア人
    となり、ギリシャ人やアルメニア人の商人たちまでが領内の都市に定住し始めた。

    コンスタンチノープルとの接触で導入されたビザンチン文化は、ブルガリアの
    美術や文学や教育を刺激した。 10世紀はじめ、伝道師クレメントは、
    ブルガリアではじめての識字学校を開き、一種のアルファベットを人々に教えた。
    この文字は、クレメントの教師名にちなんで、キリル文字と呼ばれるようになった。

    ブルガリア王国とビザンチン帝国との関係は密接だったが、893年に国王と
    なっていたシメオンは、ビザンチン皇帝軍を打ち破って、マケドニアとトラキアを
    王国領に編入した。924年、ブルガリアは、セルビアを占領して併合した。

    927年シメオンが死ぬと、ブルガリアは弱体化し、969年、北東からロシア人が
    侵入して来て、ブルガリア王国の一家を捕虜にした。 これを自国への脅威と
    考えたビザンチン皇帝ヨアネス1世チミスケスは、ロシア人を攻撃して撃退し、
    ブルガリアの東半分を帝国領に併合した。

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    バルカン半島の最初の住民は、20万年前の石器時代の狩猟民族だった。
    考古学者たちは、ブルガリア領域内の何ヶ所もの洞窟で先史時代の道具や
    武器を発見している。 バルカン山脈のヴラッツアに近いマゴウラ洞窟では、
    紀元前3000年に描かれた人間や動物の絵が発見された。

    その頃、トラキア人と呼ばれる遊牧民族がマリッツア川渓谷に定住しつつあり、
    この人たちがトラキア王国を建設した。 この国家は間もなくギリシャ人の
    影響下に置かれることになった。 ギリシャ人たちは、都市や海岸の低地、
    それにエーゲ海の島々に住んでいた。 紀元前1000年以降、ギリシャの
    植民者たちは、黒海沿岸にも交易用の港をいくつか建設した。

    トラキアの王たちは、自分たちの領域を強化するため、ギリシャの有力都市
    アナティと同盟した。 しかし、紀元前4世紀になると、トラキアは、ギリシャ
    北部にあったマケドニアの国王フィリポスの攻撃を受けて敗北した。

    紀元前336年にフィリポスが暗殺されると、その息子のアレクサンドロス大王は、
    マケドニア軍を率いてトラキアと小アジアを通過し、中東と中央アジアにまたがる
    大帝国を建設した。

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    【ローマ人の統治】

    アレクサンドロスが紀元前323年に死んで彼の大帝国が崩壊すると、トラキアは
    独立を回復した。 しかし、領域内に金鉱があったため、イタリア半島を根拠地に
    領域を拡大中だったローマ人に目を付けられた。 ローマ人は紀元前2世紀に
    マケドニアを敗北させると、北進してドナウ川に到達した。 ローマはこの地域に
    2つの州を建設した。 ドナウ川とバルカン山脈の間にはモエシア、その南には
    トラキアである。

    ローマの兵士や農民たちは、2つの州内に定住して新しい道路や要塞や都市を
    建設した。 この地域の渓谷や平原で収穫された穀物はローマ軍に編入されたが、
    それでもモエシアとトラキアには平和が続いた。

    紀元前3世紀になると、ローマの力は衰え、遊牧民のゴート人が、北ヨーロッパから
    バルカン半島の都市や農地を攻撃した。 やがてアジアから来たフン族がモエシアに
    侵入した。 330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、首府をギリシャの港湾都市
    ビザンティウムに移して、ここをコンスタンティノープルと改称した。 その結果、
    ローマ帝国は東西に分裂した。

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    北方からの侵入に耐えかね、東ローマ帝国は395年にトラキアとモエシアから
    軍隊を撤退させた。 5世紀になると、侵入はますます激しくなり、西ローマ帝国は
    滅亡した。 東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、バルカン半島の
    各州は、帝国内に含まれることとなった。 やがて、ビザンティン帝国の
    支配者たちは、キリスト教を信じるようになった。

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    過去のある時期、ブルガリアの人々はとるこの支配を逃れて、山間の僻地で
    暮らしていた。 1878年に一部の地域が独立を回復すると、渓谷や低地の
    住民たちは、更に肥沃な土地を求めて移動し、人口は増加した。 第二次
    世界大戦後、各都市に新しい工業が出来、都市部の人口は増加した。

    1990年代初期には人口阿900万人を超え、68%は都市に住むようになった。
    人口110万人の首都ソフィアは、西武の高い山岳地帯にある。 交通の要衝
    として重要な位置を占め、西には隣国セルビア、北にはドナウ台地、東は
    トラキア平野に通じる街道がここから出発する。 この都市には、繊維、
    薬品、機械、靴、衣類、車両などの工場がある。

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    ソフィアは、ブルガリアの文化の中心地でもあり、大学、技術専門学校、
    博物館、オペラハウスなどがある。 イスラム教の寺院とユダヤ教の協会堂が
    あり、それぞれの教徒の集会に使われている。 古代のキリスト教の教会も
    数多く復元されている。 ソフィア市立庭園には噴水、並木、芝生などがあって、
    市民たちの憩いの場となっている。

    古代のトラキア人が、現在のソフィアの地に定住したのは、紀元前1000年である。
    紀元前29年にローマ人がこのトラキア人定住地を占領して、セルディカと名付けた。
    ブルガール人がこの地域に到達したのは、紀元前809年で、その後オスマン・
    トルコ帝国の支配下に入った。 14世紀になって、地元の教会の名を取って、
    ソフィアと名付けられた。 1897年に首府となった後は、第二次世界大戦中に
    激しい爆撃を受けたが、戦後に復興された。

    第二の都市であるプロブディフは、人口35万人で、マリツァ川のほとりにある
    重要な商業都市である。 古代ギリシャ人はここに、エウモルピアスという
    都市を建設した。 紀元前341年にマケドニア人がこの都市を征服し、その後
    この都市は、ローマの1州であったトラキアの首府となった。

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    プロブディフは食品加工業が盛んで、米、果実、タバコ、ワインなどの包装と
    梱包が行われている。 他には、靴や繊維、金属製品などが製造されている。
    この町では毎年1回見本市が開かれて、ブルガリアの工業製品が多く展示される。
    観光名所としては、全体が大理石でつくられた古代の劇場がある。 また、
    この都市から遠くないところに、13世紀につくられた威圧的な要塞がある。

    人口30万人のヴァルナは、黒海沿岸の主要港だが、ここも古代ギリシャ人の
    建設した都市で、当時はオデッソスと呼ばれた。 現代のヴァルナには繊維、
    家具、陶器、ディーゼル・エンジンなどの製造工場があり、また、軍事基地と
    海員学校もある。

    南部にある人口14万5,000のブルガスは、幅が広くて奥行きも深いブルがス湾に
    面していて、港の近くには、魚肉缶詰工場や精油工場、巨大な化学工場がある。

    ブルガリア政府は、ブルガス近くの沿岸沿いに近代的なリゾート地をいくつか
    建設して、観光客の誘致をはかっている。

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    ブルガリアは、ヨーロッパ東南部バルカン半島にある人口約900万人の国である。
    40年以上もの間、ブルガリアは、共産圏ブロックの一国で、ソビエト連邦と
    密接な関係を結んでいた。 ブルガリア共産党は、農業と工業を国有化し、
    反対党の存在を一切認めずに、国を支配していた。 1990年にブルガリア人は
    共産党政権を終わらせて、新しい民主的な共和国を建設した。

    ブルガリアは6世紀から7世紀に掛けてブルガール人が定住して成立した国で、
    やがてバルカン半島で最も強大な国家となったが、14世紀後半になると、オスマン・
    トルコ帝国がこの地域一体を征服した。 こうしてブルガリア人はトルコ人の
    支配下に置かれた。 19世紀にオスマン帝国は弱体化し始め、1876年、
    ブルガリアはロシアから軍隊や武器の支援を受けて、解放戦争を始めた。 以後、
    トルコ人は、ヨーロッパから段階的に撤退して行き、ブルガリアは1908年に独立を
    達成した。

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    第二次世界大戦の終わった1945年、ソビエト連邦はブルガリアや、その他
    いくつかのヨーロッパ東部の諸国に共産党政権を押し付けた。 ブルガリア
    共産党が政権を握ってからは、ソビエトは、資金や原料を供給して、ブルガリア
    経済の発展を支援した。 工業化が進められ、健康管理と教育を改善されて、
    生活水準は少しずつ向上した。 ブルガリアは、1950年代から60年代に掛けて、
    他の東ヨーロッパ諸国が共産党指導者に反抗するようになっても、変わらず
    ソビエトの忠実な同盟国であり続けた。

    しかし、経済問題と政治上の不安定が、ついにブルガリアの共産党政権を消滅
    させた。 現在の政府は、中央集権型の経済を止めて、自由市場システムへと
    移行したが、2010年のブルガリアのGDPは約448億ドルであり、日本の青森県と
    ほぼ同じ経済規模である。 ブルガリア経済は1989年から劇的に縮小した。 特に
    ソビエト連邦を中心とした東欧の市場を喪失したことは大きな打撃となり、生活
    水準は1989年以前の約40%にまで落ち込んだ。

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    さらに、ユーゴスラビアに対しての国連の経済制裁は経済に更なる打撃を与えた。
    1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制するなど、回復の
    兆しを見せたが、1996年には貧弱な経済改革や、不安定な銀行システムにより再び
    悪化し、金融危機に陥った。 1997年以来政府は、2007年に向けてマクロ経済の
    安定と、国内総生産の毎年4~5%台の成長、欧州連合 (EU) への加盟を表明した。
    その後、2007年1月1日に、ブルガリアはEUに正式に加盟した。

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    ブルガリア語は、スラヴ語の1つで、マケドニア語、セルビア語、
    クロアチア語、スロヴェニア語と共に南スラヴ語群を形成している。 
    の中でもマケドニア語とは双子のように非常に良く似ている。

    ブルガリア語の母音は6つで、а ъ и е о у となっており、奥舌の ъ を除き、
    日本語の母音に極めて近い発音となっている。 一方、子音は、21個あり、
    子音で終わったり、また、語中に子音が重なったりする単語が多く、日本人に
    とっては、決して発音し易いものではない。

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    ブルガリア語は、一言で言うと、恐らく、語尾変化が非常に多い言語で、他の
    スラヴ語と共通の特徴のひとつとして、名詞には性があり、活用の際、性の
    タイプによって形が変わるということが挙げられる。 名詞は全て男性、女性、
    中性の何れかに属し、また、名詞が修飾される場合は、修飾する語も名詞の性に
    合わせて形を変えて行く。

    一方、ブルガリア語は、他のスラヴ語に存在しない特徴も沢山持っており、例えば、
    格変化が失われて、その代わりに前置詞が使われている。 また、限定を表す
    接尾辞が名詞に付き、定・不定というカテゴリーを表している。 これらの
    非スラヴ的特徴の背景には、バルカン半島で話される言語同士の接触、いわゆる、
    バルカン言語連合という減少の影響があると言われている。

    また、他のスラヴ語では失われているが、ブルガリア語とマケドニア語では今でも
    現存している不定過去(現在完了)という時制は、機能が強化され、その結果、
    モーダルなカテゴリーとしての『伝聞法』が出来ており、推量や伝聞、または、
    驚異といった意味が表される。 例えば、雨が降ったことを目撃者として伝える
    場合は、普通の完了過去валя を使うが、雨を目撃していない場合は、『雨が降った』
    という事柄の情報源を明確にしなければならず、出来事を推量(воляло e
    『雨が降ったようだ』)として伝えたり、第三者の情報による伝聞(воляло
    『雨が振ったそうだ』)として伝えたりする。

    ブルガリア語(とマケドニア語)のこの現象に関しては、非常に似た体系を持って
    いるトルコ語の影響が指摘されているが、原因はハッキリしていない。



    【ブルガリア語の今昔】
    スラヴ民族がバルカン半島に住み着いたのは、5~6世紀頃だと言われており、
    現在ブルガリア国が位置する地域のスラヴ民族は、当時その地域に住んでいた
    トラキア人と7世紀ごろアルタイ山脈から移動して来たシュルク系の原ブルガリア人
    と一緒になり、ブルガリアという国を築いた。 人数が最も多かったスラヴ人が
    他の民族を支配し、自分達の言語を共通の言語として定めた。

    9世紀には、キリロス・メトディウス兄弟が東方正教会のキリスト教の布教の
    ために文字を創った。 その文字と共に、ブルガリア語の最古の形として知ら
    れている古代教会スラヴ語は、他のスラヴ語圏でも文語として使われていたが、
    12世紀からは、口語的要素を交えた中世ブルガリア語が使われるようになり、
    古代教会スラヴ語と区別された。 その後、15世紀から19世紀の間、ブルガリアは、
    オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれ、トルコ語との接触によって、言語にも
    様々な変化が生じた。 現在使われているブルガリア語の成立は、19世紀後半
    から20世紀初頭に掛けての間と見られている。

    ブルガリア語が話されているバルカン半島では、その地域の言語同士が接触し、
    互いに影響し合って来た。 その結果、類型的には、全く異なる言語が同じ特徴を
    持つようになった。 また、言語体系にもその影響が現れ、様々な隣国、および、
    民族の言語と並んで、最も古い時代に接触していたトラキア人の言語からの単語や、
    原ブルガリア人の言語からの単語、更に、隣国のトルコやギリシャなどからの
    借用語まで、多数見られる。 現在は、コンピューターの普及に伴い、英語からの
    外来語も増えている。



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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    『南スラブ人の国』を意味するユーゴスラビアは、1929年から2003年までの間
    存在した国家で、70年余りの間に、ユーゴスラビア王国(1929年)、
    ユーゴスラビア民主連邦(1943年)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
    (1963年)など、5回国名が変わり、2003年2月に地球上からその国名が消滅した。

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    最も安定した時代は、チトー大統領の時で、チトーは、『労働者にとってだだ
    1つの資本主義国との違いは、ソビエトでは失業が無い、ただそれだけである』と
    発言、その後もスータリンの指導に反し、経営概念を元に資本の所有者は労働者、
    経営者は労働者が求人するとした企業の自主管理と、各共和国に大幅な自治権を
    与えた独自の自主管理社会主義を建設して行った。

    この当時のユーゴスラビアは『7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、
    3つの宗教、2つの文字、1つの国家』と呼ばれた。 1つの国家として、これほど
    複雑な表現を持つ国は他にはなかった。 裏を返せば、統治の難しさを表した
    言葉でもあった。

    Mostarbridge

    【連邦制の崩壊と民族対立】
    1980年、チトーの死去とその後の東欧革命の中で、ユーゴスラビアも徐々に崩壊に
    向かう。 1990年に行われた自由選挙では、各共和国に民主主義色の強い政権が
    生まれた。 ユーゴスラビア時代、政治、経済の最大の拠点となったべオグラードを
    首都に持つセルビアでは、民族主義勢力が推すスロボダン・ミロシェビッチが政権が
    生まれた。 クロアチアでは、フラニュ・ツジマンの民族主義政党が議会の3分の2を
    占める。 ボスニア・ヘルツェゴビナではムスリム(イスラム教徒)が多数派となり、
    モンテネグロやコソボ自治州では、ミロシェビッチ派のクーデターでの支配下に入る
    など、モザイク国家だったユーゴスラビアの崩壊は修復不能の状態に陥った。

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    セルビア共和国の自治州であったコソボは、住民の約8割以上がアルバニア系で、
    セルビア人は1割ほどしか居ない。 元々、旧ユーゴスラビア連邦の時代から、
    他の6つの共和国に準じる自治権を与えられていた。

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    しかし、1988年にセルビアの大統領に就任したミロシェビッチは、コソボの
    自治権を奪って政府機能を中央に集中し、アルバニア語による放送や教育を禁じ、
    アルバニア系住民を官庁から追放するなどの弾圧政策をとった。

    コソボ住民は、これに反発。 初めは非暴力・不服従で対抗していたが、後に
    独立を求めてコソボ開放軍が結成され、武力闘争を始めた。 ユーゴスラビア
    連邦軍やセルビア治安部隊との間に激しい戦闘が続き、多くの死者や難民が
    出たり、家が破壊されたりした。

    1999年に北大西洋条約機構(NATO)が介入して、セルビアを空爆し、セルビア
    国民の生活が圧迫され、やがてミロシェビッチ大統領は失脚した。
    ユーゴスラビア連邦政府は、和平案を受諾し、武力紛争は終わりを告げた。

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    しかし、その後、アルバニア系住民によるセルビア人などへの報復攻撃により、
    多くのセルビア人難民が出るなど、対立は解消していない。

    アルバニア系の人達は、おだやかなイスラム教徒が多い。 しかし、歴史的には、
    ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教徒(カトリック)が多かった。 後に、
    オスマン・トルコの侵略にあってから、イスラム教徒が増えた。 セルビア人の
    影響もあり、東方正教会の人も居る。

    コソボの殆どが、こうしたアルバニア系の人たちとなっており、ロマ人は、
    セルビア人よりももっと少ない。

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    2016年5月3日、旧ユーゴスラビアを代表する国民的歌手であるヤドランカ・
    ストヤコヴィッチがALS(筋萎縮性側索硬化症)の呼吸不全により死亡した。

    1983年のサラエボ・オリンピックのテーマソングを歌ったことにより、一躍有名
    となったヤドランカは、大の日本好きで、俳句や浮世絵に興味を抱き、1984年と
    1988年に来日を果たすが、1988年の来日、レコーディング中に祖国であった
    ユーゴスラビアが内戦により崩壊したため、そのまましばらく祖国へは帰れなく
    なった。

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    その後、日本へと活動の中心を移し、22年間という長きに渡って積極的に
    音楽活動を行っていた。 元々、大学での専攻が芸術と心理学であったため、
    音楽活動の傍ら、日本でも絵画の創作活動も行っていた。 その一環として、
    子供達と一緒に絵を完成させるという活動も行っており、数々の作品を残した。
    この活動では、ヤドランカが下絵を描き、子供たちが、その上から絵を描いて
    完成させるという手法がとられた。



    旧ユーゴスラヴィアでは、知らない人は居ないと言われる程、人気があった
    ヤドランカだが、1989年の祖国崩壊から帰国に至るまでの道のりは、決して
    あまいものではなかった。 2000年近くになるまで、祖国の地を踏むことすら
    叶わず、サラエボで再びコンサートを開いたのは、1999年のことであった。

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    2011年3月末、クロアチアでのアルバム発売のプロモーション活動等のため
    渡欧した際にALSと診断され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで治療をしつつ、
    音楽活動を継続。 すぐに帰るはずであった日本に、今度は帰れなくなって
    しまった。 3.11の東日本大震災発生直後であったため、常に日本を気にして
    いたという。

    病が徐々に進行する中、アーティスト仲間によるチャリティコンサートが何度も
    開催され、ドキュメンタリー番組も多数制作された。 2016年5月3日、ALS
    による呼吸不全の為逝去。 享年65。

    国民的歌手であったヤドランカの訃報は、ボスニアのみならず旧ユーゴ全域に
    テレビ、ラジオ、新聞のトップニュースとして伝えられた。 5月7日はサラエボで
    作曲家協会による追悼式があり、日本の大使も弔辞を述べた。

    5月9日にはバニャ・ルカで追悼式と国葬がとり行われ、現在の国境に関係なく
    大統領はじめ、総理大臣、有名アーティスト、著名人が多数参列し、数百人の
    ファンが彼女の死を悼んだ。 本人の遺言で棺にはギターが納められた。



    2016年7月21日~24日に掛けて、四ツ谷にあるP3 art and enviromentにて、
    『ありがとうヤドランカ~追悼作品展 & LIVE』が行われ、遺品となった絵画の
    展示とライブ、トークショーが開催された。 7月24日は、ヤドランカの誕生日
    であったため、この日を目標として、 ヤドランカの死後、急ピッチで準備が
    進められ、当日は、ヤドランカのベスト盤の発売も行われた。

    【ヤドランカ・ベスト盤】



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    コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
    いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
    東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
    セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
    プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
    『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
    コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
    イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

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    こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
    とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
    『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
    民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
    セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
    セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
    行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
    到底容認出来ない。

    一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
    独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
    アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
    『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
    危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
    アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
    建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
    列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
    アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
    万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
    として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。

    セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
    強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
    匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
    求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
    暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
    される生活を余儀なくされた。

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    1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
    内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
    反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
    コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
    からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。

    UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
    ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
    繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。

    これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
    アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
    治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。

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    【紛争発生からNATOによる空爆へ】
    1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
    (新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
    国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
    内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
    から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。

    ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
    の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
    その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
    フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
    ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
    和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。

    1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
    コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
    発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。

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    【NATO軍の人道的介入】
    NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
    れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
    使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
    犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
    となった。

    空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
    モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
    一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
    1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
    となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
    難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
    した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。

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    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの元で
    発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、
    モンテネグロ、マケドニアの共和国から成り、セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、
    マケドニア人、モンテネグロ人、そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を占めていた
    セルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。 1980年に、チトー大統領が
    死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、それぞれの民族の中で独立を求める
    運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ
    が次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、マケドニアのみで、他の
    地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言したが、
    スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。 ところが、
    10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)
    によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴスラビアは解体した事になるが、
    その前後にクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人による争いが起きていた。
    クロアチアでは、クロアチア人が多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が
    集中して住んでおり、多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を持っていた。
    そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方をセルビア共和国に編入する事を
    決めた。 その結果、クロアチア人とセルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア領土の
    3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア共和国の樹立を
    宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の支配地域を攻撃し、
    制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、和平条約が結ばれ、1998年
    には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に置かれた。

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    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、
    1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。 ボスニアには、セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、セルビア人は、独立に反対して、国民投票を
    放棄した。 こうした中、1992年4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が
    入り乱れての紛争に発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって作られた、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を支援したため、セルビア人
    は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、
    セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、クロアチア人とムスリム人とが、残りの
    領土で争った。 ボスニア紛争では、『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、
    国連の場でも、民族浄化に対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、UNPROFOR
    (国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。 しかし、この試みは、
    上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも虐殺が起きた。 1995年には、
    セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が激非常に激しくなり、国連等の人道支援
    物資も、上手く目的地に届かないような状況が続いていた。 1995年7月、2,000人の
    セルビア人の兵士が、ムスリム人が多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。
    街から逃げ出したムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、
    7,000人以上の命が失われたと言われている。

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    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入を
    強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、ユーゴスラビア連邦共和国に
    対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。 そうしたなか、1994年3月、
    ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を樹立する事で合意。 しかし、7月、
    セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が提案した和平案を拒否した。 セルビア人に
    対する国際社会の批判が高まるなか、1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO
    (北大西洋条約機構)が、セルビア人に対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が支配して
    いた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、和平交渉に
    応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが間に入って、クロアチア、
    セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、11月には、クロアチア和平、
    ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、ボスニアに関する和平合意を
    『ディトン合意』と言う。

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    その昔、ロシア語とドイツ語を学び始めた切っ掛けは、実はユーゴスラビアと
    ポーランドとハンガリーに興味があったからなのだが、その当時、サラエボ
    オリンピックと、その翌年には、ロサンゼルスオリンピックが控えていた。
    当時は、東西冷戦により、東西両陣営に分かれて、それぞれのオリンピックへの
    出場をボイコットをしたのだが、上記の東欧3ヶ国だけは、冷戦時代にだったの
    にも関わらず、どちらのオリンピックにも出場した。


     
    元々、旧ユーゴに非常に興味があったため、セルビア・クロアチア語を学びた
    かったのだが、残念ながら、当時の日本では、セルビア・クロアチア語を
    学べる場所はなかったため、一番似ているロシア語を選択したのだが、実は、
    ロシア語よりも、ドイツ語の方が旧ユーゴでは通じるという事に後で気付いたため、
    すぐにドイツ語にも手を出した。 この組み合わせは、両言語共に、文法構造が
    かなり複雑であるため、日本国内では、非常に珍しい組み合わせとなっており、
    その昔、大学院を受験した際に、この2言語で外国語を受験したが、ロシア語と
    ドイツ語で受験をした人は、我が校始まって以来と言われた。
     
    大学時代は、たまたま、学内に旧ユーゴの第一人者がいたため、そのゼミを迷わず
    選択し、卒業後は、東欧に最も近いという理由で、ドイツではなく、オーストリアに
    留学をした。 一番最初にモスクワに留学をした際に、クラス内にユーゴスラビア人
    (セルビア人)がいたのだが、ロシア人とは異なり、顔立ちがなかりヨーロッパ的に
    見えた。 当時の旧ユーゴは、東欧内では、唯一ビザが必要ない国であったため、
    非常に先進的な国に見えたものだが、他の東欧諸国と比較して、余りにも進み
    過ぎていたため、足並みが全く揃わず、結局は、民族浄化による各民族間の激しい
    対立にまで発展し、平和だった国が、一瞬で廃墟と化した。

    そんな時に、旧ユーゴで最も有名な歌手で、サラエボオリンピックでメインソングを
    歌った、ヤドランカ・ストヤコヴィッチが日本に住んでいるという情報を小耳に
    挟んだため、早速ライブに行って、声を掛けたところ、非常に仲良くして頂き
    ました。 そのヤドランカも、ボスニアでのライブの途中に、急に体調を崩して、
    そのまま、ボスニアに帰ってしまった。

    東欧好きが転じて、その昔、旧ユーゴスラビア大使館と、ウクライナ大使館へ強引に
    経歴書を送付して、面接に呼ばれた事があるのだが、旧ユーゴスラビア大使館は、
    今のセルビア大使館に当たる。 大学時代に、もっとお金があれば、本当は、
    コソボにも行きたかった。 ウィーンに留学をしていた際には、クラスの中に、
    セルビア人も、クロアチア人もコソボ人もいたが、当時は、それぞれの民族が
    激しく対立していたため、気軽には話し掛けられる雰囲気ではなかった。

    東欧には、セルビアやポーランドをはじめ、非常に親日的な国が多いが、その
    当事者である日本人が、その事実を全く知らないのは、恥ずかしい限り。

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    セルビア共和国
    Republic of Serbia

    1.面積
    77,474平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)

    2.人口
    712万人(2011年国勢調査)

    3.首都
    ベオグラード(人口164万人)

    4.民族
    セルビア人(83%),ハンガリー人(4%)等(2011年国勢調査)

    5.言語
    セルビア語(公用語),ハンガリー語等

    6.宗教
    セルビア正教(セルビア人),カトリック(ハンガリー人)等

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