東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ブルガリア・旧ユーゴスラビア

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    第一次世界大戦勃発の地である『ラテン橋』。 この橋のたもとで、
    オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が
    始まりました。 第一次世界大戦での敗北により、オーストリア=ハンガリー
    二重帝国は崩壊、それと共に、ハプスブルグ家の支配が終わり、オーストリアは、
    ドイツ民族以外の土地を全て失い、共和制へと生まれ変わりました。

    元々、ドイツ民族の中心国家は、オーストリアであり、このため、現在の
    ドイツの国歌は、オーストリアのお古w よって、オーストリア人は、今でも
    頻繁に、『帝国時代は良かった』と言います。

    【ラテン橋】
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    ラテン橋は、『ヨーロッパ側』にあるものの、ものの数分も歩くと、また
    イスラムの景色に戻ります。 数百メートルおきに、モスクが大量に乱立して
    いるため、歩いている間に見飽きて来ました。 以前、タタールスタンの
    ニジェネカムスクで、ヨーロッパ化したモスクに入った際には、1時間ほど、
    ロシア語でコーランの説明を受けたため、今回は、モスクには入らないことに
    しましたw

    基本的に、食べ物には関心がないため、旅先では、余り食事と言う物を取り
    ませんが、この日は朝ごはんを食べずに歩き回ったため、お昼は、ボスニア名物の
    ケバブとトルコ・コーヒーにしました。 正確に言うと、ボスニア風ケバブと
    ボスニア風コーヒーらしい。

    バシチャルシアの水飲み場付近
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    モンテネグロの現在の首都の名前は、ポドゴリツァですが、旧名は、チトー
    大統領に因んで、『チトーグラード』と言う名前でした。 ベオグラードに
    埋葬されているのも知っていたものの、そこまでチトーが好きな訳でもないので、
    次回ベオグラードに行く時に持ち越しました(←既に行く気満々♪)。

    ひとつひとつが手作りのトルコ・コーヒーのカップ。 このコーヒーセットが
    結構欲しかったのですが、予想外に高かったたのと、リュック1つしか持参して
    いないため購入を断念。 次回は、しっかりとトランクを持参して、コーヒー
    セットとイスラムランプを購入したいと思います。 こういう自分の常識に
    囚われないエキゾチックな場所が大好きなので、サラエヴォには、また来たいと
    思いました。

    【ムスリム人居住区】
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    サラエヴォのムスリム人居住区。 内戦時、サラエヴォはセルビア軍に包囲された
    ため、完全に孤立し、これらの建物の多くが破壊されました。 セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人による血で血を洗う戦争は、民族浄化まで引き起こし、
    最終的には、国連の指導の下、3民族が分かれて住み分けを行うことで最終的に
    合意しました。 セルビア人、クロアチア人、ムスリム人は、元々は同じ
    南スラヴ人で、同じセルボ・クロアチア語を話す民族ですが、支配されていた国が、
    オスマン・トルコとオーストリアに分かれていたため、一部の人たちがイスラム化
    してムスリム人に、セルビア正教を受け入れた人達がセルビア人に、カトリックを
    受け入れた人達がクロアチア人へと完全に分化しました。 この3民族を分けて
    いるのは宗教だけ。 セルボ・クロアチア語は、ブルガリア語と非常に似て
    いますが、イントネーションが完全にイタリア語寄りのため、ロシア語からは、
    非常に聞き取りづらいのが特徴。

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    名目上は、ボスニア連邦第二の都市であるバーニャ・ルーカから、ボスニア
    連邦の首都サラエボまでは、バスで約3時間半の道のり。 途中、スルプスカ
    共和国からボスニア連邦に入った途単に、風景が一気にイスラム化し、キリル
    文字からローマ字に切り替わりました。 ボスニア連邦の中心民族は、
    ムスリム人でクロアチア人は、余り多くはありませんでした。

    と言っても、元々は同じ民族であるため、見た目は同じであるものの、イスラム教徒
    独特の風貌をしているため、見てどちらかが分かります。 ムスリム人の見た目の
    主な特徴は、男性はひげを生やし、女性はスカーフを巻いています。 一部、
    ブルカを着ている人もいましたが、恐らく、別のイスラムの世界からやって来た
    観光客だと思われます。 余り敬虔ではないイスラム教徒は、ここまではして
    いませんが、話し方がやはり独特であるため、やはり、ムスリム人だと分かります。

    【バーニャ・ルーカ⇒サラエヴォ】
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    サラエヴォで宿泊したのは、市中心部で、鉄道駅と高速バスターミナルからは、
    歩いて20分程度の場所にあり、むしろ、駅とバスターミナルの方が街の外れに
    あるため、こちらが本当の中心地。 旧ユーゴでの内戦で死亡した人達の魂を
    鎮めるためなのか、『永遠の炎』が宿のすぐそばにありました。 これが歩行者
    天国への入り口で、こちらはヨーロッパ側。

    歩行者天国を入って、10分程度は、ヨーロッパ的な石造りの街並みが続きますが、
    『ここが境界線』という場所で、目に見えて景色が一変します。 サラエヴォには、
    基本的に、カトリック教会もありますが、数百メートルおきに、イスラム教の
    モスクが乱立しているため、カトリックは圧倒的に少数派。

    セルビア正教会もお慰み程度にはありますが、内戦後、セルビア人の多くは、
    サラエヴォからは出て行き、ここから見て、山を越えたスルプスカ共和国側に
    住んでいるため、サラエヴォにはセルビア人は余り残っていません。

    サラエヴォ】
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    この通りから先が、ムスリム人居住区。 景色が一気にイスラム化し、ヨーロッパ
    ではなくなります。 サラエヴォには、イスラム教の他にも、カトリック教会、
    セルビア教会、ユダヤ教が共存していますが、圧倒的多数なのは、イスラム教。
    ユダヤ人はここでは、かなりの少数派だと思います。 尚、現在イスラエルに
    住んでいるユダヤ人の多くが、旧ソ連邦からの移民であるため、イスラエルでは、
    実は、多くの人達が、ロシア語で話しています。 ユダヤ人は、見た目が非常に
    特徴的であるため、見てすぐに分かります。

    ロシア連邦のタタールスタン共和国や、カザフスタン等の中央アジアも、完全に
    イスラム教の世界なのですが、完全にヨーロッパ化しているため、同じイスラム
    教徒でも、サラエヴォは趣が全然違いました。 ここは、完全なるイスラムの世界。
    街を歩いていても、あちらこちらからコーランが普通に聞こえて来ます。

    ユーゴスラヴィアは、『民族のモザイク』、特に、複数の宗教が混在している
    サラエヴォは、『コスモポリタン』とも呼ばれていましたが、むしろ、ここまで
    思想が異なる同じ民族をひとつにまとめていたチトー元大統領が物凄いのだと
    改めて気付きました。 旧ユーゴ内戦後に、それぞれの民族ごとに『住み分け』が
    実施たことでも分かるように、宗教が異なり、思想が異なると、やはり、共存は
    無理だと思います。

    ムスリム人居住区内にあるサラエヴォ市庁舎。 内戦でボロボロになりましたが、
    修復を終えて、美しい姿に戻りました。 露店に並ぶお土産は、トルココーヒーの
    セット。 結構欲しかったのですが、意外に高いのと、かさばるため、購入は
    我慢しました。 尚、今回の旅は、リュックサック1つのみで出掛けております。

    【ムスリム人居住地区】
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    川のある場所から、山が見えますが、その山を越えた場所が、セルビア人居住区の
    スルプスカ共和国。 よって、サラエヴォからセルビア人が出て行ったと言う
    よりは、山を越えた向こう側に引っ越したが一番正しい表現だと思います。 尚、
    ボスニア連邦⇔スルプスカ共和国間には、国境があるものの、同じ国内であるため、
    パスポートチェックはなく、通貨も同じ。 但し、見た目的にも、思想的にも、
    全く別の国。

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    スルプスカ(セルビア人)共和国の首都バーニャ・ルーカの中心部。
    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府の支配は受けていないため、
    ボスニアの国旗はひとつもなく、セルビア国旗しかありません。 中心部は、
    こじんまりとしており、歩行者天国を中心に、商店街が軒を連ねています。

    【セルビア正教会】
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    バーニャ・ルーカ中心部にあるセルビア正教会。 ボスニア・ヘルツェゴビナ
    には、3つの宗教がありますが、そのうちの教会の1つ。 基本的に、正教国家は、
    キリル文字を使用しています。 セルビア正教会には、ろうそく立てがなく、
    この教会には、ろうそく自体もありませんでした。

    歩行者天国を中心としたバーニャ・ルーカの中心部。 『未承認国家』と聞くと、
    暗いイメージがありますが、全く逆で、かなり明るい雰囲気です。 未承認国家
    とは、単にアメリカに認められるか否かの違いだと思います。 ボスニア・
    ヘルツェゴビナでは、旧ユーゴ内での内戦の後、各民族間による住み分けが進み、
    多くのセルビア人がサラエボからこのバーニャ・ルーカへと移り住んだそうです。
    雰囲気的には、同じボスニアでも、ムスリム人とクロアチア人が中心のボスニア側
    とは、全く雰囲気が異なります。

    【市中心部】
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    バーニャ・ルーカの中心部には、恐らく、内戦で死亡したであろう、英雄を祀る
    場所があります。 スルプスカ共和国は、ほぼセルビアと同じであるため、現地で
    最大の銀行は、ロシアのズベルバンクです。 ロシアとセルビアは、非常に仲が良い
    国であるため、この他にも、ガスプロム、ラーダ等のロシア企業もところどころに
    ありました。

    スルプスカ共和国博物館。 過去の歴史を一同に展示していますが、途中からは、
    戦争の展示に変わります。 スラブ人は、大きく分けると、ロシア人等の
    東スラブ人、ポーランド人等の西スラブ人、セルビア人等の南スラブ人に大別
    出来ますが、他のゲルマン民族やラテン民族とは異なり、分化したのが遅かった
    ため、スラブ語は、それぞれの言語で喋っても、大体理解出来る程似ています。

    【スルプスカ共和国博物館】
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    スルプスカ共和国の展示物。 民族衣装の展示ですが、南スラブ人は、オスマン・
    トルコの影響を強く受けているため、かなりアジアっぽい雰囲気が入っています。
    セルビアは、長らくオスマン・トルコの支配を受けていましたが、イスラム化
    せずに、セルビア正教を貫きました。逆に、イスラム化したのが、ムスリム人
    ですが、元々は、セルビア人とクロアチア人がイスラム化した人達。 ヤドランカが
    弾いていたサズの展示もありましたが、元々は、シルクロードを通って、ペルシャ
    から伝来した物。 日本にもシルクロードを通って、ほぼ同じ物が伝来し、琵琶に
    なりました。

    何故かキリル文字とローマ字が混在しているプレートを発見。 どちらも同じ
    アルファベットなので、文字変換は以外に簡単。 ロシア語をローマ字で書くと、
    ほぼチェコ語になりますw 最後の一枚は、バーニャ・ルーカの平均的な家屋。
    内戦後にリフォームされているため、外観的に新しい家が多いです。

    バーニャ・ルーカを後にして、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都サラエボを
    目指します。 バーニャ・ルーカからサラエボまでは、約3時間半の道のり。
    ボスニアは山がちの国であるため、途中はほぼ全て山脈で、厳しい山越えが待ち
    受けていました。 途中でボスニア側に入りますが、国境を越えた途端に雰囲気が
    一気にイスラム化するため、見た目で分かりました。

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    未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを訪れることに
    したのは、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・ストヤコヴィッチの
    お墓がこの街の郊外にあるため。

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    現地に到着してから思い立ち、急遽、そのヤドランカが死ぬまで入院をしていた
    高齢者介護施設を訪れることにしました。 たまたま、前日宿泊していた宿の
    すぐそばにあり、歩いて15分程度の場所にあったため、ホームセンター
    (この建物がこの施設への目印)で、ヤドランカにお供えする造花のバラを
    購入しました。 最後、この施設を撮影していたところ、施設係員の方から、
    怒られたのですが、『ここはヤドランカ・ストヤコヴィッチが死んだ場所ですか?』
    と尋ねたところ、『そうだ』という答えが返って来ました。

    ヤドランカが死亡した施設のすぐ隣りで、エスプレッソを飲みました。
    ヤドランカもここに来たのかな?などと考えてしまいましたが、その後、
    その斜め後ろにある教会へ移動。 カトリック教会なので、ヤドランカには
    関係がないかも?とも思いましたが、すぐ隣りにある教会なので、とりあえず、
    お祈りをしておきました。

    【ヤドランカが入院していた施設】
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    その間、宿泊先のセルビア人の管理人にメールを送り、中心部からかなり
    離れたヤドランカのお墓に車で連れて行って貰えることになりました。 実は、
    ヤドランカが眠る共同墓地は、中心部からは、8.5キロも離れており、歩くと
    2時間強の道のり。 管理人の話では、新しく造った市営墓地なので、郊外に
    あるそうす。

    ヤドランカが入院したのは、東日本大震災直後の2011年のことで、その後、
    2016年まで5年間もこの施設に入院していました。 不治の病のALSで、現代の
    医学では、治療をすることすら出来ませんでした。 バーニャ・ルーカに
    行きたいと思ってから、この地に来るまでに、7年半もの歳月が掛かってしまい
    ましたが、この7年間、東京は、地獄のどん底で、ヨーロッパ旅行など、出来る
    ような経済状態ではありませんでした。。 遅れてもバーニャ・ルーカに来れた
    ので、ヤドランカはきっと許してくれると思います。

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    【Gradsko groblje Vrbanja】


    造花のバラをお墓の上にお供えして、30分ほど、このお墓の前で色々お話しした後、
    ヤドランカのお墓を後にしました。 サラエボで生まれ育ったヤドランカですが、
    最後、どうして、バーニャ・ルーカを終の棲家にしたのかは、謎のまま。 管理人の
    話では、恐らく、サラエボが完全にイスラム化したためだと言っていました。。

    その管理人とは、次回、バーニャ・ルーカを訪れる際には、絶対にセルビア語で
    喋れるようになってここに戻って来ると約束しました。



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    旧ベオグラード中央駅のすぐ隣にあるバスターミナルからバスに乗り、未承認
    国家であるスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを目指します。
    ベオグラードからバーニャ・ルーカまでは、片道約7時間半の道のり。

    セルビアとボニア・ヘルツェゴビナ(スルプスカ共和国)の国境にはサヴァ川が
    流れていますが、すぐ横を通る鉄道は、何故か廃止されており、橋だけが残って
    いました。 恐らく、内戦時に何者かによって破壊されたのが原因だと思います。
    セルビアでの出国手続きに続き、スルプスカ共和国(名目上はボニア・
    ヘルツェゴビナ)側での入国手続きもバスを降りずに、簡単に終わりました。

    【セルビア ⇒ スルプスカ共和国】
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    実は、セルビアからスルプスカ共和国へは、クロアチアを通って、そのまま
    高速道で行くのが一番早いのだが、戦争の影響で、クロアチアとの国境ぎりぎりの
    場所は何度も通るものの、クロアチアへは一度も入らずに、そのまま首都
    (ボスニア第二の都市)のバーニャ・ルーカを目指します。

    ベオグラードからのバスは、高速バスではないため、途中、様々なバスターミナル
    へと立ち寄りました。 その度に20分程度の休憩を挟むため、かなり時間が
    掛かります。 休憩の際には、運転手が特に何か言う訳でもないため、
    『何分間の休憩?』とその度に、セルビア語で質問しました。 下手をすると、
    置いて行かれる可能性があるため、この手のバスの旅では、一々時間を聞くか、
    じっとバスの中で待っているかの何れかが無難。

    途中、セルビアとの国境に近い、ビイェリナで休憩したため、10分程度、
    付近を散策しました。 7時間半の旅の途中で、最終的には寝てしまったものの、
    運転手に起こされて、目覚めた場所がバーニャ・ルーカでした。

    【バーニャ・ルーカ】
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    スルプスカ共和国では、政治に非常に関心が集まっているため、政治的な
    ポスターを道端のあちらこちらで見掛けました。 セルビアでは、ローマ字への
    切り替えが進んでいましたが、こちら、スルプスカ共和国では、道路標識以外は、
    基本的にローマ字は全くありませんでした。 セルビアよりもセルビアらしいのが、
    未承認国家のスルプスカ共和国と言えます。

    スルプスカ共和国は、同じボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には括られているものの、
    通貨は両方共同じものを使っているものの、ボスニア連邦とスルプスカ共和国側
    とでは、デザインが異なります。

    バーニャ・ルーカは、人口約20万人程度の小さな街で、元々、見るべき物は余り
    ないものの、今回の旅の最大の目的地は、このバーニャ・ルーカでした。
    バーニャ・ルーカに来るために、全ての日程を合わせて、旧ユーゴを周る事にした
    というのが、今回の旅の計画です。

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    モスクワからベオグラードまでは、約3時間半のフライト。 ベラルーシ、
    カルパチア山脈、パンノニア平原を越えて、いよいよ、セルビアの首都である
    ベオグラードに到着です。

    空路でドナウ川を越えると、ベオグラードの街が見えて来ます。ベオグラードは、
    セルビアの中でも、最北端に位置しており、すぐ隣りには、ハンガリー系住民が
    多いヴォイヴォディナ自治州が広がっています。 ニコラ・テルサ空港も、
    そのヴォイヴォディナのすぐそばにあるため、コソヴォのみならず、
    ヴォイヴォディナまでもが独立宣言をすると、セルビアはますます窮地に
    立たされます。

    【モスクワ ⇒ ベオグラード】
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    ベオグラードの町の中心部を流れているのは、サヴァ川で、ドナウ川の支流。
    旧ユーゴ内では、泥沼の内戦後に、各民族ごとに完全に住み分けが進められて
    おり、他の民族の領地に入ると、雰囲気が一変するため、一目で分かります。

    セルビアは、東方正教の国で、文字はロシアと同じキリル文字を使っていましたが、
    近年、ローマ字への完全移行を行っているため、古い看板はキリル文字、新しい
    看板は、全てローマ字で書かれていました。

    アメリカを中心とするNATO軍に空爆された跡が生々しいベオグラード中心部は、
    表面的には、かなり復興が進み、街も明るくなりましたが、前回ベオグラードに
    来たのは、1997年のため、内戦終了間際。 ベオグラードが空爆されたのは
    1999年で、その命令を下したのは、元アメリカ大統領のビル・クリントン。

    【ベオグラード】
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    旧ユーゴの内戦終了から20数年程度既に経過していますが、今でも、その残骸が
    まま残されています。 やった方はすっかりと忘れ去っているのに、やられた方は
    いつまでも覚えているとは、正にこのこと。 数年前のトランプの大統領選の際に、
    クリントンが出馬していましたが、クリントン夫婦は、2人揃って世界各地で殺戮を
    繰り返している人間のクズです。

    数ヶ月前に閉鎖された旧ベオグラード中央駅は、一応中には入れるが、両替屋以外、
    特に何もありません。 但し、空港行きのバスは、今でもここから出ているため、
    閉鎖の意味が分かりません。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

    daiichiji

    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

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    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    1879年、ブルガリアの指導者らは、ヴェリコ・タルノヴォに集まって憲法を採択
    した。 この憲法の規定で一院制の国会が作られ、国会議員は、全ての市民の投票で
    選ばれることが決まった。 こうして出来た国会は、ドイツの公子バッテンベルグの
    アレクサンドルをブルガリア公に選んだ。 アレクサンドルは、ロシア皇帝の義理の
    甥にあたる人物だった。

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    しかし、アレクサンドルは政府の閣僚を勝手に入れ替えたりして、不評を買い、
    ついには、憲法を停止した。 何年もの間、このブルガリア公は、ロシア軍将校の
    力を借りて国を支配した。 憲法を支持する自由党と、アレクサンドルを支持する
    保守党の間で激しい論争が続いた。 この危機を乗り切るために、アレクサンドルは
    1883年に憲法を復活した。

    2年後、東ルメリアの人々は、トルコに反乱起こし、その地域をブルガリアに統合
    した。 ブルガリア勢力の拡大を経過したロシアは、アレクサンドルを誘拐して
    新政権を樹立する陰謀を支持した。 この陰謀は、国会議員ステファン・
    スタンボロフによって阻止されたが、アレクサンドルは1886年に退位した。

    国会は別のドイツ公子フェルディナントをブルガリア公に選んだ。
    フェルディナントは有能で精力的な指導者で、ブルガリアの各党派の融合を
    果たした。 1908年、フェルディナントは、トルコの衰退に乗じて、東ルメリアを
    含む、全てのブルガリア国土の独立を宣言した。

    フェルディナントの指導の下、ブルガリアは工業と農業の近代化に取り組んだ。
    教育は広がり、識字率は大いに高まった。 しかし、工場での労働条件は過酷で、
    労働者の利益を守るために、社会民主党が結成された。 農民の利益を代表する
    農民連合も結成された。

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    バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
    長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
    つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
    いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
    古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。

    アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
    3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
    イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
    ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。

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    これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
    政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
    高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
    力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
    沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。

    15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
    オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
    アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
    ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
    武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。

    アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
    ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
    残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
    バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。

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    第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
    社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
    建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
    ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。

    アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
    政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
    目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
    最も貧しい国になった。

    1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
    民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
    投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
    でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
    入れている。

    しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
    隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
    はらんでいる。

    政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
    繁栄を導くための長い戦いに直面している。

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    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

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    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

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    バルカン諸国を含む、東地中海沿岸領域の大部分を征服したオスマン・トルコは、
    ブルガリア経済を支配した。 肥沃な渓谷には、トルコの農民たちが定住し、
    ブルガリア人の大部分は、山岳地帯に避難した。 トルコのスルタン(皇帝)は
    残った住民やボヤールに重い税金を課した。

    トルコ人は、イスラム教徒なので、キリスト教の教会を次々に回教寺院に改造した。
    トルコ人の直接支配に入ったブルガリア人の一部は、イスラム教に改宗した。
    改宗者は、税金を免除され、一部の人々は、トルコの政権内で、重要な地位に
    就いた。 しかし、改宗しない人々は虐待され、その多くが処刑された。

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    1453年オスマン・トルコはコンスタンティノープルを占拠し、ビザンチン帝国は
    崩壊した。 トルコ統治下の州の太守は、ベイと呼ばれたが、ベイの中のベイと
    呼ばれる総支配者がソフィアに本部を置き、各州の太守に命令を発して、金や
    食物や兵士を帝国に貢納させた。 ブルガリアの農民からは、更に多くの土地が
    奪われ、トルコ軍隊への参加が強制された。

    反乱が何度も起こったが、全て失敗した。 多くの人々は、トルコの支配を逃れる
    ために、ギリシャ正教の修道院に逃げ込み、何世紀にも渡って、ブルガリアの
    言語と文化は、ギリシャ正教の修道院の中にだけ生き残った。

    15世紀から16世紀に掛けて都市は衰退し、農地は荒廃した。 捨てられた農地を
    トルコの農民たちが手に入れて、収穫物をトルコ政府に売り渡した。

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    17世紀になると、トルコ政府は、ブルガリアの統治をやりやすくするために、
    ギリシャ人とブルガリア人を融合させようとした。 ギリシャ正教の教会は、
    ブルガリアの教育制度の管理を許され、一時的には、学校や教会では、ブルガリア語
    に代って、ギリシャ語が用いられた。 しかし、18世紀になって、ブルガリア文化が
    復活すると、この政策は破綻した。

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    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

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    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

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