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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ブルガリア・旧ユーゴスラビア・アルバニア

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    テロリストからコソボの英雄へ
    ハシム・サチ(アルバニア語:Hashim Thaçi)、あるいは、ハシム・タチ
    (セルビア語:Хашим Тачи / Hašim Tači)は、コソボの政治家であり、
    同国大統領、国際連合コソボ暫定行政ミッション下における同国の
    第5代首相などを務めた。 コソボ民主党(PDK)党首、コソボ解放軍
    (KLA)の政治的指導者であった。

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    2001年ヒューマン・ライツ・ウォッチによる報告
    このコソボ解放軍には、複数の虐待行為の責任がある。 その中には、
    セルビア人や、セルビア人の国家に協力していると見られたアルバニア人に
    対する殺害も含まれる。 コソボ解放軍はまた、紛争終結後のセルビア人、
    ロマ人、その他の非アルバニア人の少数民族、そしてアルバニア人の政敵に
    対する攻撃の責任がある。 広域的、かつ、組織的なセルビア人、ロマ人、
    その他少数民族の家屋への放火、正教会の聖堂や修道院への破壊行為、
    人々を家、故郷から立ち退かせることを目的とした迫害や脅迫、コソボ解放軍の
    構成者らは明らかにこれらの多くの犯罪に対して責任がある。

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    現職大統領から戦争犯罪者への道
    サチは大規模な犯罪活動の疑いを持たれている。 サチがコソボ解放軍の
    首班を務めている間、組織の資金集めのためにヘロインやコカインを
    西ヨーロッパへ密輸していたとワシントン・タイムズは伝えている。
    コソボ解放軍は1999年の紛争終結によって公的には解体されているが、
    新設されたコソボ保護軍の人員の多くは、コソボ解放軍の構成員であり、
    コソボ民主党は、コソボ解放軍の政治部門である。 コソボ解放軍が、
    ほぼそのままコソボ保護軍に再編されたことによって、コソボ民主党は
    自治体レベルでの地方行政をほぼ完全に支配するようになった。

    コソボ民主党は地方行政を支配するために政敵に対する暴力や脅迫を用い、
    地方当局と友好・協力関係にある犯罪組織を庇護した。 サチは、
    コソボ保護軍による犯罪活動の中核を担っていたと見られているが、
    サチは自身が作った『政府』に対する『税金』の名目で現金を取り立てていた。
    コソボ民主党の腐敗と犯罪体質は、2001年に初めて行われたコソボの
    自由選挙での同党の敗北につながった。

    BBCは、「元コソボ解放軍による組織犯罪とコソボ民主党の政治が
    同質であると見られたことによって、コソボ解放軍の代議士たちは敗北し、
    コソボ民主党に壊滅的な影響をもたらした」と伝えた。

    セルビア大統領のコソボ訪問の行く手を塞ぐコソボ人
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    コソボ臓器摘出密輸出について
    カルラ・デル・ポンテが暴露したコソボ解放軍によるセルビア人捕虜たちの
    臓器摘出、輸出していた件は、黒幕であるハシム・サチの側近たちが
    セルビア人を殺害し、臓器を国外に密輸したことを認めた。

    現職大統領の逮捕→裁判のため身柄拘束
    上記1990年代のコソボ紛争における戦争犯罪で起訴されている同国の
    ハシム・サチ大統領が2020年11月5日、辞任した。オランダ・ハーグでの
    裁判に臨むためと説明した。 サチ被告は、コソボの首都プリシュティナで
    開いた記者会見で「私はいかなる条件下でも、コソボ共和国の大統領として
    出廷するつもりはない。よって大統領府と国の高潔、市民の尊厳を守るため、
    大統領職から退く」と表明した。

    例え、現職の大統領であっても、戦争犯罪は国際法では許されないため、
    サチ被告は、現在でもオランダ・ハーグでの裁判中のため、身柄を拘束
    されたままである。

    コソボ解放軍の行進

    出典:AFPニュース

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    世界には、「領土・国民・主権」といった条件を満たしているにも関わらず、
    独立を果たすことが出来ていない「未承認国家」がいくつが存在するが、
    今回は、そのうちの1つ、旧ユーゴスラビア連邦を構成していたボスニア・
    ヘルツェゴビナ内に存在するスルプスカ共和国を紹介します。

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    スルプスカ共和国
    スルプスカ共和国とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する自治体の
    1つで、旧ユーゴスラビアに住んでいたセルビア人、クロアチア人、
    ムスリム人の主要3民族のうち、セルビア人を主体とした共和国となっている。
    「スルプスカ」の意味は、「セルビア人」を現しているため、
    「セルビア人共和国」と呼んでも良いのだが、隣国の「セルビア共和国」と
    明確に区別するため、主に「スルプスカ共和国」と呼ばれることが多い。

    スルプスカ共和国の領土(赤い部分)
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    【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】
    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲は、現代の戦争の中で
    最も長期に渡る都市包囲であったが、丘の上に陣取り、街を包囲していたのは、
    セルビア人勢力であるスルプスカ共和国軍と、ユーゴスラビア人民軍で、
    1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。 その後、セルビア人勢力は、
    新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ連邦への参加を拒否し、
    セルビア人による国家、「スルプスカ共和国」の樹立を宣言した。

    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府とは異なる独自の大統領、政府、
    立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占めるが、
    隣国との境界線は、1995年11月にデイトン合意が交わされ、ボスニア・
    ヘルツェゴビナ紛争が終結した時点での軍事上の前線に概ね基づいているため、
    その境界線には古くからの歴史的な由来はなく、1990年代の紛争の結果に
    よるものとなっている。

    このため、スルプスカ共和国の領域はボスニア・ヘルツェゴビナの歴史的な
    地域区分をまたいだものとなっており、その境界線は歴史的な地域区分や
    かつての行政上の区分を分断しており、旧ユーゴスラビア連邦における泥沼の
    内戦の結果、誕生した新たな未承認国家となっている。

    スルプスカ共和国の国旗(セルビアと同じ)
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    【事実上の首都】
    スルプスカ共和国の法律上の首都は、サラエボのすぐ隣りにあるイストチノ・
    サラエボとなっているが、内戦後は、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の
    完全な住み分けが進み、サラエボにはセルビア人はほぼ住んでいないため、
    事実上の首都は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦第2の都市、バニャ・ルカと
    なっている。 紛争中には、およそ4万人のセルビア人がクロアチアから逃れて
    来ており、同時期、バニャ・ルカからは、ほとんどのクロアチア人やムスリム人が
    逃れ、16のモスクが破壊された。

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    ベオグラード最終日は、中心地にあるスカダルスカ通り(Skadarska)で
    代表的なセルビア料理とセルビア(トルコ)コーヒーを頂きました。

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    お隣りのボスニアでは非常に苦いコーヒーしかなかったため、ベオグラードでも
    再度注文してみたものの、やはり、非常に苦い。 付け合せのスウィーツが
    なければ、非常に厳しいほろ苦さw ヨーロッパでは、ウィーン風のコーヒーが
    主流(日本と同じ)だが、セルビアは、オスマン・トルコによる支配が
    長かったため、この様なトルコ風がメインで、粉が沈殿するのを待ってから
    飲みます。

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    【スカダルスカ通り


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    日本でも飲まれているウィーン風のコーヒーの飲み方は、オスマン・トルコ軍の
    ウィーン包囲後にウィーン市民が粉を濾して飲む方法を開発したことにより、
    全世界に広まった飲み方で、ウィーンからコーヒーと共に世界中に広まったのが
    クロワッサン。 クロワッサンは、ハプスブルグ家のマリー・アントワネットが
    嫁入りの際に、お抱えの調理師と共に、フランスのブルボン家に入り、そこから
    世界へと広まったため、フランスの食べ物と勘違いしている人が多い。

    ベオグラードでの最終地、旧ベオグラード中央駅は、新ベオグラード中央駅が2キロ
    ほど先に完成したため、既に閉鎖されているものの、ニコラ・ステラ・ベオグラード
    空港へ行くための空港シャトルバスは、今でもこの旧ベオグラード中央駅の隣
    (非常に分かり辛い)から出ています。

    べオグラードからの帰りの飛行機は、共同運航のエア・セルビアではなく、
    アエロフロート・ロシア航空。 ロシア語で全て言ってくれるため、非常に楽。
    エア・セルビアは、セルビア語と英語のみでの機内放送でした。 ドナウ川を渡り、
    パンノニア平原を超え、ウクライナ、ベラルーシ上空を通過して、ロシアへと
    戻ります。

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    ポドゴリツァから夜行列車に乗り、早朝の7時前にベオグラード中央駅に到着。
    このベオグラード中央駅は、ほんの数ヶ月前に新たに開業したばかりの駅らしく、
    旧ベオグラード中央駅は既に閉鎖されていた。 但し、空港行きのバスは、
    その閉鎖された旧中央駅前から出るという、不条理極まりない状況を知ったのは、
    このベオグラード中央駅に着いて暫く経ってから。

    【ベオグラード中央駅付近】
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    ここから旧中央駅までは、約2キロ弱離れているが、早朝に到着してしまったため、
    折角なので、ここから数時間掛けて、ベオグラードの街を歩き回りました。
    とりあえずは、中央駅からさほど離れていないセルビア正教最大の教会である
    聖サワ大聖堂へと行きました。 朝が明け切らない時間帯に到着したため、
    まだライトアップされていました。 旅先では、基本的に足で歩くことに
    しているため、ベオグラードでもかなり歩き回りました。

    聖サワ教会は、まだ朝の7時過ぎであったため、開いてはおらず、適当に歩いて
    いたところ、更に違うセルビア正教会があったため、中に入って見ました。
    正教会は、基本的に、どこも大体同じですが、セルビア正教会には、何故か
    ろうそくが立っていなかった。 ろうそくの販売はあったものの、何故か
    ろうそくに火をともして立てている人が居なかったのは、参拝者が少ないから
    なのか?

    【セルビア正教会
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    そこから、更に暫く歩き、ベオグラード市最北端のドナウ川沿いにある
    ベオグラード要塞まで行きました。 この対岸からすぐの場所から、ハンガリー
    (マジャール)人の自治共和国、ヴォイヴォディナの領土となる。 セルビアは、
    国内にコソヴォの他に、すぐ目の前にも他民族のヴォイヴォディナがあるため、
    地政学的に非常に不安定となっている。 現在、ロシアと最も友好関係を保って
    いるのが、このセルビアだが、ロシアに頼っているのは、地政学的な理由が
    大きいと思われる。

    ベオグラード要塞には、何故か、恐竜を模した公園があるのだが、有料であったため、
    とりあえずは無視し、セルビア料理を食べにベオグラードで一番の繁華街へと
    向かいます。 セルビアは現在、キリル文字からラテン文字(ローマ字)への
    移行期間となっており、古い看板はキリル文字、新しい看板はラテン文字で記載
    されている。 発音的には全く同じなのだが、元々、セルビア語とクロアチア語は、
    文字が異なるため、別言語とされていたものの、セルビア語もラテン文字になって
    しまった場合は、その違いは、宗教だけとなる。

    【ベオグラード要塞
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    ティラナ中心部にある広場は非常に明るい雰囲気で、また来たくなるような国
    アルバニア。 元々社会主義の国なので、建物は重厚な造りとなっています。

    ティラナで見る物と言えば、放置されたピラミッドぐらいだが、共産党時代に
    建設された物が今でも放置されているとか。 とかく、旧共産主義国家には、
    〇〇廟なる崇拝施設があるのだが、アルバには、そのような物はない模様。

    【ティラナ】
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    ティラナのバスターミナルは、中心部から歩いて約30分の場所にあり、鉄道の便は
    更に少ないため、東欧の移動はバスが主流となります。

    【バスターミナルの場所】

    ティラナのバスターミナルは、東欧に良くある情報が一切何も書いていないため、
    行き先表示板もなければ、案内所もないため、適当な窓口に入って、ポドゴリツァ
    行きのバスのプラットフォームを確かめたものの、定刻よりも15分程度遅れている
    そうで、暫く外でバスを待つことになりました。

    【ティラナ中心部~バスターミナル】
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    ティラナを出てモンテネグロへ向かう途中、アルバニア最古の都市にして、第4の
    都市であるシュコドラを通ったのだが、こちらの街もかなりの経済発展を遂げて
    いる様で、こちらは、元々は、モンテネグロ領だったらしい。

    シュコドラを越えて、再度モンテネグロへと入る際の国境がなかなか曲者で、国境を
    越えるだけで1時間以上も掛かりました。 モンテネグロに入ってからは、首都の
    ポドゴリツァまでは、ものの20分程度という至近距離です。

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    アルバニアは、長らく「ヨーロッパ最貧国」と呼ばれ続けて来たのだが、
    大規模内戦により、ウクライナがヨーロッパ最貧国に落ちたため、アルバニアは
    非常に貧しい国のイメージを持っていたのだが、今では、このように凄まじい
    経済発展を遂げ、物価も東京並と、ヨーロッパの中では非常に安いものの、
    アルバニアにすら追いつかれてしまった日本を見て、非常に情けなくなりました。

    【ティラナ】
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    ティラナの広場では、ビアガーデンが開かれており、長年鎖国政策を採っていた
    国とは思えない程、非常に明るい感じがしました。 今時、日本製品程度の
    商品は何処ででも手に入るため、中国人による爆買いが日本では全くなくなった
    のも、そういう意味だと思います。 アルバニアは、コソボ人の国であり、
    隣国であるコソボとの併合を望んでいるものの、コソボは大国の利権が複雑に
    絡んでいるため、アルバニアとコソボの合併は容易ではない。 アルバニア人は、
    見た目的にも、スラブ人とは全く異なり、髪の毛や目が黒く、どちらかと言うと、
    ギリシャ人に見た目が似ていると思います。

    【夜のティラナ中心部】
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    アルバニアは、長年鎖国政策を敷いていたため、他の社会主義諸国とは、全く
    別の道を歩んでいたものの、ここにも近代化の波が押し寄せ、日本とも差ほど
    違わない生活がおくれるようになりました。 しかも、後から発展した国の方が、
    建物が真新しいため、アルバニアは今後かなり発展するのではないかという
    可能性すら感じました。

    双頭の鷲をシンボルにしている国は、ヨーロッパでは非常に多いものの、
    黒い鷲に赤の背景は、ショッカーの旗を連想させるため、悪の帝国・・・
    ではなく、非常にかっこいいですw

    お土産品として、マグネットや木工品を置いてあるのは、ヨーロッパ各地で共通。
    長年鎖国をしていたとしても、文化はある程度ヨーロッパと共通であることが
    分かります。

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    日本では余り知られていないモンテネグロ。 同じセルビア人同士の国で
    あるため、旧ユーゴスラビィア連邦からの独立当初は、セルビアとの連合国家
    「セルビア・モンテネグロ」という名前でした。 同じ旧ユーゴの国同士とは
    言え、クロアチアはEU、モンテネグロは未だ貧困国家であるため、国境越えは、
    かなり厳しい検査があり、1人づつ全員バスを降りてのパスポートチェックが
    ありました。

    【コトル】
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    「モンテネグロ」とは、イタリア語で「黒い山」という意味で、モンテネグロ
    (セルビア)語では、「ツルナ・ゴーラ」と言うのが正式な国名です。 その名の
    通り、海と山が美しい大自然の国です。 ドゥブロヴニクからは、ティラナ行きの
    直通バスがないため、一旦、古都コトルで乗り換えて、そこから再度ティラナを
    目指します。

    古都コトルでバスターミナルからさほど遠くない場所に古城が見えたものの、
    東欧ではインフォメーションヤアナウンスがないことが殆どであるため、バスの
    出発時間が全く分からず、30分程度、バスターミナル内で時間を潰したものの、
    コトルにも見所が多いため、次回、時間のある時に、再度コトルを目指します。

    ドゥブロヴニクからモンテネグロのコトルを抜けて、無事にティラナへと到着
    しました。 写真は、モンテネグロとアルバニアの国境。 ドゥブロヴニクから
    ティラナまでは、約11時間のバスの旅ですが、途中でトイレが一ヶ所もないため、
    それ相応の準備をしないと大変なことになりますw 国境地帯には、逆方向に
    トイレがあったため、頑張れば、反対側のトイレまで行けるかも知れません。

    【ポドゴリツァ】
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    モンテネグロの首都であるポドゴリツァは、「山下」と言う意味で、旧ユーゴ
    スラビア時代は、指導者に因み、「チトーグラード」と言う名前でした。
    ポドゴリツァという名前の通り、山が真近に見える大自然豊かな国が
    モンテネグロです。 尚、ポドゴリツァ駅では、首都の駅とは思えない程
    小さな駅で、同じセルビア人なのであれば、別にセルビアで良いのでは?と
    思ってしまいました。

    ポドゴリツァには、特に見る物がないため、ものの数時間の滞在でしたが、
    駅前を散策して見たところ、何故かロシアの文豪、プーシキンの銅像がありました。
    シンボルである双頭の鷲は、お隣のアルバニアと同じですが、色が黒ではないため、
    ショッカーの旗には見えませんでしたw

    ポドゴリツァからベオグラードまでの鉄道は、実は、隠れたヨーロッパの
    絶景路線で、山と谷の連続のため、ちょっとしたスイス気分を味わえる
    穴場的な路線。 夜行列車であるため、途中からは暗くなりましたが、元々
    「セルビア・モンテネグロ」という同じセルビア人の国だったのに、国境では、
    やはり、パスポートチェックがありました。

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    ドゥブロヴニクの様な城壁に囲まれた旧市街地は、ヨーロッパでは、さほど
    珍しい物ではないものの、15年程前までのクロアチアは、非常にマニアックな
    場所であり、「旅の通」以外は誰も行かなかったのだが、今では、誰でも気軽に
    行けるようになったため、観光客が激増しました。

    アドリア海に面したドゥブロヴニクは、観光業がメインであるため、様々な
    お土産がありますが、物価が非常に高いため、長居は禁物。 有名観光地だけ
    あって、英語が完全に通るものの、東欧旅行の醍醐味は、英語が全く通じない
    というところなので、何か物足りなさも感じつつ、非常に西欧化されているため、
    東欧という「暗い」雰囲気は全くありませんでした。

    ドゥブロヴニクの前に訪れたモスタルも満員電車並みの観光客でごった返して
    いたが、イスラム圏からの観光客が多いモスタルとは、客層が全く異なり、
    ドゥブロヴニクは西欧からの観光客ばかりで、たまに日本人もチラホラおりました。

    【ロープウェー】
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    ドゥブロヴニクの旧市街は、地上を歩くというよりも、ロープウェーに乗って
    上空から見下ろすか、または、城壁を一周しながら旧市街を見るのが一般的。
    このロープウェーの料金が結構高かったため、片道だけ乗ろうかと迷ったのものの、
    余り時間がなかったため、この際奮発して、ロープウェー往復と城壁めぐりを
    しました。 時間があれば、片道は歩いたと思います。 尚、このローウェーの
    チケットは、手前側にあるチケット売り場ではクレジットカードが使えないため、
    ロープウェー乗り場脇にある方のチケット売り場の方が便利。

    ロープウェーに乗ると、山頂まで一直線で行けますが、40分程度で山頂まで
    登れるため、一部の人達は徒歩で登山をいていました。 山頂からの景色は、
    赤レンガの街並みが美しいものの、山頂からの旧市街は見た目的にも若干
    遠いため、城壁めぐりの方が、街並みの散策には向いていると思いますが、
    ハイシーズンとは言え、城壁に登るだけで、2,500円は少々高過ぎると思います。。

    【城壁めぐり】
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    カトリック教会が、山頂に巨大な十字架を建てているのは、旧ユーゴ内はどこでも
    同じで、他の宗派と区別するためだと思いますが、イスラム教がコーランを流して
    いるのに対抗してこうなったものと思われます。

    山頂へのロープウェーに引き続き、清水の舞台から飛び降りた気持ちで2,500円を
    現金で支払い、城壁1周にチャレンジ。 この城壁は、ほぼ休みなしで歩いても
    約1時間半程度は掛かります。 その途中に、ビール屋やカフェ等がありましたが、
    チケットの抜き打ち検査もあるため、チケットをなくすと、そこで下に
    降ろされます。


    城壁めぐりは、アップダウンが結構きついのと、所々、階段で上に登れるように
    なっているため、合計すると、かなりの運動量となります。 新市街から旧市街
    までは、歩いて30分程度掛かるため、総合すると、かなりの距離を歩いたことに
    なります。 城壁を一周したところで、ちょうど太陽がとっぷりと沈みました。

    【夜の旧市街】
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    このまま新市街にある宿まで歩き、翌日は朝の7時過ぎのティラナ行きの直通バスに
    乗ったつもりが、途中にあるモンテネグロの古都、コトルでの乗り換えでした。
    乗り換え時間を全く言わないのと、途中にトレイが一切ないため、12時間半も1度も
    トイレには行けませんでした。

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    旧ユーゴスラビア連邦の中でも断トツの経済力を誇っていたクロアチアは、
    現在ではEU加盟国であり、旧ユーゴの中心国家であったセルビアとは、
    全く違う道を歩んでいます。 今回は、クロアチア最南端にある
    「アドリア海の真珠」の異名を持つ美しい街、ドゥブロヴニクを訪れました。 

    元々、旧ユーゴ連邦崩壊の原因は、南北の経済的な格差であったため、
    クロアチアにとっては、無駄な支援国であったマケドニアやモンテネグロを
    ぶった切った結果、非常に経済成長を遂げていました。 観光地である
    ドゥブロヴニクは、物価が非常に高く、東京の2~3倍強の物価であるため、
    丸1日程度しか滞在しなかったのにも関わらず、1万円超もの出費を
    強いられました。 以前の東欧旅行は、物価が安いことが最大の魅力だった
    のに、日本が落ちぶれ果てたのか、今では、それすらなくなりました。

    【新市街】
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    ここまでの旧ユーゴの旅では、東方正教会とイスラムの世界を抜け、今度は
    完全なるカトリックの世界へと入りました。 特に、ドゥブロヴニクの場合は、
    東欧随一の有名観光地であるため、至る所、観光客だらけで、非常に開放的な
    雰囲気の街並みからは、大規模な内戦がこの場所でもあったとは到底思えない
    程の目覚しい復興を遂げていました。 手前の建物を大きくして奥を小さく造る
    建築様式は、敵の目を欺くためのもので、この街が元々は要塞であることを
    まざまざと見せつけられました。 旧市街は、内戦時にかなりの部分が破壊
    されましたが、その後、復旧されました。 今では、押しも押されぬ、東欧を
    代表する一大観光スポットになっています。 アドリア海に面しているため、
    イタリアからの観光客が多いものの、その他、全世界から、この街へと観光客が
    押し寄せて来るため、東欧にしては、英語が非常に通じます。

    【旧市街】
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    ドゥブロヴニクでの滞在時間は1日のみで、実質の滞在時間は、18時間でした。
    小さな街と言えども、歩くとかなりの距離があるため、この日はちょっと
    贅沢をして、クルーザーで沖まで出て、外洋から旧市街を見ることにしました。
    1周約1時間でロクロム島の周囲をぐるりと周り、元の港へと戻るコースを
    選びました。 グラスボートのため、海中を見ることが出来ましたが、
    そのような場所には目もくれず、デッキ部分で足を海に投げ出して、存分に海を
    肌で感じながらのクルージングとなりました。 時折、魚の居るポイントを
    通るため、そこを通る時だけ、スピードを落として、ガラス越しに海底見る
    という趣向のクルージングでした。 同じ旧市街でも、海上から見る景色は格別で、
    ドゥブロヴニクを訪れた際には、絶対に船に乗った方が良いです。

    ロクロム島の反対側には、実は、ヌーディストビーチがるため、船からは、
    あられもないお姿が丸見えでしたが、ヨーロッパの主なポイントには、
    ヌーディストビーチがゴロゴロあるため、目のやり場に困りますw 海上には、
    カヌーをこぐ人や、泳いでいる人達も沢山居ましたが、9月で若干水が冷た
    かったものの、ヨーロッパでもかなり南に位置している場所であるため、
    まだまだ泳げる水温でした。

    【クルージング】
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    旧市街からは、色々なパータンの遊覧船が出ているため、事前に調べてから
    行った方が、より満足できる船旅になると思いますが、時間がなかったため、
    直近で出る船に乗りましたが、それでも、大満足のクルージングの旅でした♪

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    【スラブ祖語】
    スラブ語は、西は中央ヨーロッパのエルベ川中流域から、南はバルカン半島の
    大部分に渡り、東はウラル山脈を越えて、シベリアの太平洋岸まで、北は
    ユーラシア大陸の北極圏の西側の一部を除く、大部分を占める広大な地域に住む
    住民の間で話されている言語であり、方言を含むスラブ語の主要言語の数は、
    古い時代に書かれた資料でのみ伝わるものを含めると、20以上にも及ぶ。

    スラブ語は、語彙、発音、文法的な特徴が非常に良く似通っており、その共通点は、
    古い時代になるほど大きくなることから、全てのスラブ語は1つの共通の祖語から
    派生し、時代と共に分化、発達して今日に及んだものと考えられている。 この分化
    前までの共通言語を「スラブ祖語」と呼び、そこから分化、発達したと考えられる
    系統上の親縁言語を「スラブ諸語」と呼ぶ。 スラブ諸語は、その相互間の親縁
    関係により、「東スラブ諸語」、「西スラブ諸語」、および、「南スラブ諸語」の
    3つに大きく分類される。

    スラブ語は、同じインド・ヨーロッパ語族に属するロマンス語やゲルマン語と
    比較すると、文字の出現が遅かったため、実際には文字で表記されることが
    なかった「スラブ祖語」は、不明な部分が多いものの、記録に残るスラブ諸語に
    共通の主な特徴から、具体的な言語体系として全体的に把捉することは難しい
    ものの、個々の音韻や語の形態に関しては、かなりの確立で予測出来る場合が多い。

    スラブ語共通の特徴の一部は、バルト語、ゲルマン語、インド、イラン語などを
    含むインド・ヨーロッパ語族の古い特徴と著しい対応や一致を示している。 また、
    現代語と比較しても、ロシア語とドイツ語、英語、フランス語などの間には、
    文法や基礎語彙の面においても、偶然の一致では説明出来ないほどの体系的な一致や
    並行関係が見られる。 これは、スラブ語がこれら各言語と祖先を共有している
    ことを表しており、スラブ祖語は、かつて極めて古い時代に「インド・
    ヨーロッパ祖語」から分離したと考えられている。

    まず、紀元前3000年頃までに、インド・ヨーロッパ祖語が形成され、そこから、
    各々の言語の祖語の分離形成が始まったが、スラブ祖語はその一つとして比較的
    遅い紀元前1000年頃になって分離したと考えられている。 そして、そのスラブ
    祖語から、各スラブ語が分化する過程の中で、遅くとも5世紀頃までには、
    東スラブ祖語が分離し、東スラブ語の独自の分化が始まり、10世紀末には、現在の
    ロシア語の基礎となる東スラブ標準語の形成過程に入ったと考えられている。

    【スラブ語発祥の地】
    スラブ語発祥の地に関しては、カルパチア山脈の北東山麓(ポーランド、または、
    ウクライナ)とする説や、更に西にあるチェコ、ドイツ、ポーランド国境地域で
    あるズデーテン地方とする説など、これまでに様々な見解が発表されたが、
    いずれもはっきりとはしてない。 19世紀前半には、農耕系のスキタイ人を
    スラブ人の祖先と見なすスラブ人の起源説が現れたが、紀元前1000年頃に黒海
    北岸からカルバナア山脈に至るステップ地帯に分布したスキタイ人の言語は、
    実はイラン語系であったことが証明されている。

    紀元前7~8世紀頃に滅びた先住民のキンメリア人の言語は、スキタイ人をはじめ
    とするこの周辺地域の民族に受け継がれたと考えられているが、その後、民族
    大移動が起こり、現在の中欧と東欧地域の広範囲に進出して来たスラブ人もその
    影響を強く受けたとする考え方が最も有力となっている。 スラブ人の祖先の
    事が記された古文書が現れるのは、ヨーロッパの民族集団の分布を一変させた
    民族大移動の時代以後であったため、スラブ祖語に関する確実な資料や証拠は
    何一つ存在していない。

    century

    【スラブ諸族の形成と民族大移動】
    4世紀後半に現在のロシアのペルミ付近から黒海北岸へと侵入して来たフン族に
    よって土地を奪われたゲルマン族の一派である東ゴート族は、376年にドナウ
    流域のローマ帝国領内へと移動したが、このことに端を発する民族大移動は、
    東西ローマ帝国の分裂と、ゲルマン族の攻撃によって476年に西ローマ帝国が
    滅亡するという、ヨーロッパ史上における大変動をもたらしたが、東西ゴート族の
    勢力圏や東西ローマ帝国領内、あるいは、その隣接地に住んでいたスラブ人が、
    現在の居住分布に近い居住分布へと変化を遂げたのは、この時期であったと
    考えられている。

    350年、ゴ一卜人司教であるウルフィラがキリスト教布教のために考案した
    ゴート文字により、新約聖書のゴート語翻訳が行われたが、この頃には、ドナウ
    河口、ヴィスワ川上流域、並びに、ドニェプル川下流域の3地域に分かれて住む
    スラブ3部族が、現在の南、西、東の各スラブ人集団へと発展して行ったと考え
    られている。 民族大移動後の6世紀半ばには、スラブ人は既にこの3集団へと
    分化を遂げていたが、これ以降、スラブ人のバルカン半島全域への進州の勢いが
    強まり、いくつかの地域でスラブ人による国家形成の過程が進行した。 7世紀
    には、短命であったが、チェコ、スロバキアの大部分とクロアチア、スロベニアの
    一部に渡る広い地域を支配したスラブ人初の部族連合国家であるサモ王国
    (631年~658年)、ドナウ河口から黒海西岸とドナウの南岸一帯を広く支配した
    アジア系ブルガール人によるドナウ・ブルガール汗国(?~700年頃)、その後、
    その土地の南スラブ人と同盟して681年には、東ローマ帝国から独立を獲得した
    ことに始まる第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)へと発展して行った。

    9世紀には、サモ王国をも大幅に上回る大モラヴイア公国(833年~907年)や、
    ポーランドを最初に統一したピャスト王朝(960年頃~1370年)、更に、
    東スラブ人の最初の統一国家となったキエフ・ルーシ(862年~1240年)など、
    現代のスラブ諸国に深い関わりを持つ国々が誕生している。

    尚、セルビア人がブルガリアから自立したのは9世紀後半であり、925年には、
    クロアチア王国が建国されたとされているものの、スロベニア人は、古代には
    フランク王国、中世から近代に掛けては神聖ローマ帝国、その後、
    ハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配下にあり、同じ南スラブ人である
    セルビア人、クロアチア人と共に国家を形成したのは、第1次世界大戦後のこと
    であった。

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    【ブルガール人とブルガリア帝国】
    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    チュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラブ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれている。

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部
    からヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は、5世紀
    頃から、アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ
    方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家である大ブルガリアを形成した。 しかし、
    ブルガール部族連合は分裂し、北方のヴォルガ・ブルガール、西方のドナウ・
    ブルガールへと分かれて移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、
    アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールや
    ドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの
    本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス
    北麓のチュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、
    ハザール可汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀の
    ハザールの滅亡と共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を
    遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン
    共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、後にアッバース朝と通商を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    チュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であると
    されている。 特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でも
    ブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。 一部の部族
    集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住したが、
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。

    彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地のスラブ人を支配する国家を形成し、
    680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・
    ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第に
    コーカソイドに属するスラブ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、
    ヴォルガ川中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語である。
    チュルク諸語の中での位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られ
    ている。 ブルガール語の話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを
    構成する民族集団に含まれていたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、
    他のチュルク諸語とブルガール語との間で見られる音韻上の対立が規則的に
    現れる事から、現在存在する言語の中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語で
    あるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の
    要素を一部含むものの、キプチャク系チュルク言語とブルガール語の混交言語と
    考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラブ化に伴い、バルカンでの話者は
    途絶したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラブ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者
    であった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収された
    と言う意味では、世界的に見ても、かなり珍しい言語となっているが、その
    被支配者であった言語が、共通スラブである古代教会スラブ語の基となった
    のは、非常に興味深い歴史的な事実である。 

    ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古チュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。 ブルガリア語は、元々アジア人
    であったブルガール人が、モンゴル・タタールの大軍に押し出されて、遥々
    ヨーロッパの地まで民族大移動してきた際に、そこに住んでいたスラブ人と
    同化し、スラブ語化された言語であり、支配者の言語が、被支配者の言語に
    吸収されたという、世界でも非常に稀な言語となっている。 この逆パターンが、
    ハンガリー語とフィンランド語で、アジアから押し出された、マジャール人と
    フィン人のアジア系言語は、そのまま、ヨーロッパに根付いた。

    【ブルガリア語の形成】
    ブルガリア語は、古くから、スラブ人の間では、宗教・学問の言語として
    使用されていた「古代教会スラブ語」であり、その元となった言語であるため、
    非常に古い文語の歴史を持っているものの、約500年間にも及ぶオスマントルコ
    支配の時代に、新たに教会用語となったギリシャ語に押されて、かなり衰退
    したが、18世紀後半に入って、ブルガリア人聖職者の間から、ブルガリア語
    復興の機運が生まれ、現代ブルガリア語の元となる新ブルガリア語が形成され、
    民族意識が高まり、ブルガリア語は、オスマン帝国からの独立運動を支える
    重要な役割を果たした。

    スラブ祖語は、元々、古代のブルガリア語でるため、ブルガリア語に似ている
    言語ほど、昔の文法体型を維持している事になるが、ブルガリア語自体が、
    オスマントルコ支配の時代に、かなり崩れてしまったため、文法的には、英語に
    かなり近い。 文法が崩れ去った言語は、どの言語も、ほとんど、英語のように
    なるという共通点がある。

    スラブ語の「私」は、ブルガリア語以外、全て「ja」だが、古代教会スラブ語では、
    「私」の事を「az」と言うのと、スラブ語では、「アルファベット」の事を
    「Azbuka」と言うため、スラブ人は、「az」が「私」という意味である事を
    皆知っている。 ロシア語とブルガリア語は、そのまま喋ってもほぼ内容が理解
    出来るぐらい似ている言語だが、スラブ語は、ゲルマン語他の言語と比較して、
    それぞれの言語に分かれたのがかなり遅かったため、ブルガリア語以外も全言語が
    かなり似通っている。 よって、スラブ語のうちの何れかの言語をある程度理解
    出来ていれば、その他の言語でも何を言っているのか、ほぼ理解可能である。

    【ブルガリア語とマケドニア語】
    ブルガリア語とマケドニア語は、方言程度の違いしかない、非常に似通った
    言語であるため、ブルガリア人は、皆マケドニア語の事を、ブルガリア語の
    方言だと考えている場合が多い。 スラブ語は屈折語であり、名詞類は6つ、
    あるいは、7つに格変化するが、ブルガリア語、マケドニア語では、この特徴が
    殆んど失われ、代名詞に格変化が残るのみである。 この格変化の消失に
    示されるように、ブルガリア語とマケドニア語は、その他のスラブ語とは異なる
    特徴を持ち、その異なる部分は、むしろ、系統関係を異にする近隣の
    ルーマニア語やアルバニア語等と共通する特徴を持っている。

    一般的に、地理的に隣接した複数の言語が、長期間の言語接触の結果、文法や
    語彙構造等、類型論的に相似した言語的な特徴を持つようになることが知られ
    ているが、系統関係に関わりなく、その様に類似した共有する言語的領域を
    「言語圏」と呼ぶ。 バルカン半島では、こうした「言語圏」の存在が早く
    から知られており、ブルガリア語とマケドニア語は、このバルカン言語圏に
    含まれるスラブ語である。

    バルカン言語圏の特徴としては、後置冠詞がある。 スラブ語には、語類
    としての冠詞はなく、必要に応じて、指示代名詞がその機能を果たしているが、
    通常、これらは形容詞と同様、名詞の前に置かれ、名詞の性、数、格に一致する。
    これに対して、ブルガリア語は、後置冠詞を用いて、「その」という指示代名詞を
    意味する。

    ブルガリア語とマケドニア語は、この他にも、共通スラブ語の持っていた時制
    体系を受け継ぎ、これを更に発展させたため、他のスラブ語と比較すると、
    時制に関する形態が豊富にあるという特徴を持っている。 時制形式が単純化
    されたロシア語では、現在形、過去形、未来形の3つの形式を区別するのみだが、
    ブルガリア語では、過去、未来の時制に複数の迂回形がある。

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    世界遺産の『モスタルの古い橋』では、ある一定の時間になると、
    橋の上から飛び降りて、見物客から小銭を稼ぐという見世物を行って
    いますが、なかなか飛び込まないのと、しょっちゅう小銭を集めに
    来るため、若干離れた場所から望遠を使って撮影するのが古い橋を
    撮影するコツ (^^)

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    こんな世界の果てとも言えるべき場所に、どうしてここまで観光客が集まって
    来るのかが非常に疑問ですが、モスタルの古い橋は、日中は激混みします。
    橋の袂でソフトクリームを購入する際に、日本語で『こんにちは』と言われ
    ましたが、こちらからすかさず、『ロシア語は喋れますか?』と聞いたところ、
    挨拶だけは出来ましたw 海外では、日本語では一切話し掛けて欲しくは
    ないのと、基本的に、ロシア語で喋っている方が楽なので、海外で日本語で
    話し掛けられた場合は、意味不明な場合が多いため、大概無視しますw
    ロシア語で話し掛けられた場合は、大体、話に乗りますw

    【モスタルの古い橋】
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    ここでは、イスラムのランプが欲しかったものの、かさばるため、断念しました。
    全く異なった文化に触れることは、好奇心を非常に掻き立てるため、ボケ防止にも
    良いと思いますw

    モスタルの古い橋の袂には、非常に多くのお土産屋が軒を連ねているため、
    いつまで見ていても飽きません。 モスタルでは、これ以外、特に見る物も
    ないため、朝からバスが出発する昼過ぎまでずっとこの場所に居ましたが、そ
    の後、大事件が起きました。

    【Hostel Lena】
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    モスタルからドゥブロヴニク行きの最終バスの時間は午後12時30分。
    準備万端でバスに乗り込み、出発を待っていた際に、念のためパスポートを
    チェックして見ると、ないことに気付きました(滝汗)。 大急ぎでバスを
    降りて、ホステルまで戻って見ると、朝から観光に行った際に、既にベット
    メイキングを終えていたため、毛布の下に隠していたパスポートと貴重品が、
    その毛布にくるまれて見えなくなっていたため、持って行くのを忘れて
    いました(涙)

    【モスタルの古い橋】
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    元々、このホステルに泊まる予定はなく、別のホステルに予約を入れて
    いましたが、宿の都合で、急遽3日間だけ閉鎖になっていました。 ホステルの
    係員は、何度呼び鈴を押しても、出て来ることすらなかったため、通りすがりの
    人に近所の安宿を紹介して貰い、このホステルに泊まることにしたのですが、
    何の予約もなしに急に訪れたのにも関わらず、英語でしっかりとした対応をして
    頂き、モスタルに行ったら、またこのホステルに宿泊しようと思っております。

    尚、同室の人は、イランからの初めての海外旅行でボスニアに来たと申して
    おりましたw 最終的には、このバスに乗り遅れたため、宿に帰って、もう一泊
    することとなりましたが、旅にハプニングは付き物なので、モスタルで焦らず
    ゆっくりとすることにしました。 尚、この影響により、計画していたコソボと
    マケドニアのには行けないこととが決定しました。

    画像では余り分からないものの、この日の気温は、9月中旬なのに32度(大汗)。
    外を歩いているだけでも非常に暑いため、カフェでほっと一息。 サラエボを
    含めて、3回目のボスニア風コーヒーを注文してみましたが、やはり、非常に
    濃くて苦い。 付け合せの水とスイーツがないと、ちょっと厳しい大人の
    ほろ苦さですw 尚、ボスニアは、イスラム教であるため、このような
    ファッションが普通です。

    【モスタルのお土産】
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    その後、モスタルで知り合いになった人と夕食(ボスニア風ケバブ)を食べに
    行きましたが、クロアチア語(ボスニア語)は、ロシア語と似ているため、
    こちらからはクロアチア語は大体理解出来るものの、ムスリム人のそのお方は、
    ロシア語が全く聞き取れない。 英語もドイツ語もダメとの事で、こちらからは
    ちゃんちゃってクロアチア語(ロシア語に適当なクロアチア語を混ぜるw)で
    何とか対応しました。

    そこでの話では、ボスニアの平均給与は約100ユーロ(約13万円)で、学校で
    選択出来る外国語は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語とのことでした。

    【モスタル⇒ドゥブロヴニク】
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    前日に乗り遅れたドゥブロヴニク行きのバスに乗り、いざボスニアの国境越えへと
    挑みます。 クロアチアとの国境でパスポートチェックがありますが、何故か、
    パスポートをホテルに忘れたと言う人が続出。 特に、クロアチアはEUで
    あるため、ボスニア側からの入国が厳しく規制されており、このようなことは
    許されません。 よって、ここで数名バスから降ろされ、その後、別の場所に
    連れて行かれたため、恐らく、モスタルに強制的に連れ戻された模様。 前日に
    パスポートがないことをバスの中で気付いたが、もし、気付いていなければ、
    自分も危うく、こういう目に遭っていたと思うと、ドキドキワクワクしますw

    ようやく、クロアチアの国境を越えたかと思ったら、ほんの数キロ走ったところで、
    またまた、ボスニアへと入国。 ここは、ボスニアで唯一の港町であるネウム。
    ボスニアは、内陸国に見えるものの、実はほんの数キロ程、海があります。
    ドゥブロヴニクは、クロアチアの飛び地であるためボスニア→クロアチア→
    ボスニア→クロアチアと激しく国境を跨ぎまくりました。 トイレすらない場所で
    20分程度休憩の後、ネウムを離れて、更にドゥブロヴニクへ向けて出発しました。

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    サラエヴォ駅前にそびえ立つAvaz Twist Towerは、入場料は1マルク(約135円)で、
    サラエヴォの街並みを高所から見下ろすことが出来ます。 このタワーからは、
    サラエヴォ・オリンピックスタジアムと共に、墓地も見えました。

    1984年に開催されたサラエヴォ・オリンピックのメインスタジアムでメイン
    テーマ曲を歌ったのが、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・
    ストヤコヴィッチでした。 現在は、同じボスニア連邦とされるものの、
    未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカで眠っています。

    【サラエヴォ】

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    この墓地があった場所は、元々は、オリンピックのサブ競技場であった場所で、
    内戦により、余りにも死者が出てしまったため、仕方なくこの場に埋葬したもの。
    戦時中は、銃弾の飛び交わない早朝や深夜に遺体の埋葬が行われました。
    スタジアム内には、オリンピック博物館が併設されています。 サブ競技場は、
    全てお墓にされてしまったため、スタジアム周辺は、この様な風景になって
    います。 墓地の向こう側に見えているのが、オリンピックの塔。

    このお墓を見ていると、違う民族(実際は、殆んど同じ民族で宗教が違うだけ)
    と言う理由だけで、次々と殺された人達の無念さが伝わって来ます。 墓標を
    見ると、20代~30代で死亡した人達が多かったことが分かります。
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    ユーゴスラビアは、東欧の中では、最も進んだ国で、大昔から日本人にはビザが
    必要ない唯一の国でしたが、進み過ぎていたがために、周辺国と足並みが揃わず、
    そこをアメリカに付け入られたため、泥沼の戦争となりました。 ポーランドや
    チェコがもう少しだけ早くユーゴに追い付いていたら、また全く別の道を歩んで
    いたと思うと、残念でなりません。

    昔、そのことをヤドランカに話した時に、『ユーゴは昔は進んでいたのに、今では
    500年前まで戻ってしまった』と言っていたのを思い出しました。 父親が
    セルビア人で母親がクロアチア人のヤドランカは、最後まで自分は『ユーゴ人』だと
    言っていましたが、最後は、バーニャ・ルーカに行くことになったため、最終的
    には、この景色を見て、どう思ったのかについては、知る術がありません。
    もし、自分が同じ立場だったら、やはり、バーニャ・ルーカに行くと思います。

    【オリンピックスタジアム】

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    サラエボともこれでお別れ。 最後に、キオスクのおばさんとボスニア語で話して
    いたのですが、急に『あなた、ボスニア語が凄く上手いけど、ここで習ったの?』と
    聞かれたため、『ロシア語が分かるので、ボスニア語も大体分かる』と答えた
    ところ、『私もロシア語でちょっとだけ喋れる』と言い出したため、ロシア語で
    話したところ、元々、父親がタタール人で、子供の頃にロシアのカザンから、
    親族全員でサラエヴォに引っ越して来たとのこと。 ロシア連邦タタールスタン
    共和国も同じイスラム教ですが、完全にヨーロッパ化しているため、ボスニアの
    本格的なイスラム教とは、全く違うものの、やはり、イスラム教徒は、同じ
    イスラム教圏内が良いらしく、この後のモスタルでは、その現実をまざまざと
    見せ付けられることとなりました。 サラエヴォからモスタルへは、バスで
    3時間半弱。 尚、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国旗、スルプスカ共和国には、
    全くありませんでした。

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