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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 東日本大震災

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    東日本大震災で被災した宮城県名取市閖上地区で2016年2月14日、1985年の
    日航ジャンボ機墜落事故の遺族と、閖上や宮城県石巻市大川小、七十七銀行
    女川支店(宮城県女川町)などで愛する人を失った遺族が集い、交流した。
    悲痛な体験を語り合い、失った命の重さを共有した。

    出典:河北新報 

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    震災の記憶を継承する施設『閖上の記憶』には、墜落事故の遺族会『8.12連絡会』
    の3人を含め計17人の遺族らが集まった。 大川小で次女千聖(ちさと)さん=
    当時(11)を亡くした紫桃隆洋さん(52)は『家族という言葉が突然遺族に
    変わり、ためらいながら5年が過ぎた』と複雑な胸中を明かした。

    七十七銀行女川支店行員だった長男健太さん=当時(25)を失った田村孝行さん
    (55)は『つらさ、悲しみはあるが涙も出ない。 同じ苦しみを繰り返さない
    ために学んだことを後世に伝えたい』と述べた。

    墜落事故で次男健君=当時(9)=を亡くした8.12連絡会事務局長の美谷島
    邦子さん(69)は『私たちは風車と同じで、風の中でくるくる回ったり
    止まったりする。 一緒に泣いたりしながら少しずつ前に進んでいければいい』
    と話した。

    この日の交流は、閖上中で長男公太君=当時(13)=を失った同中遺族会代表
    丹野祐子さん(47)や、美谷島さんが呼び掛けた。

    丹野さんは昨年夏、墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に登り、深い
    悲しみを抱えて30年間活動してきた遺族の思いに胸を打たれた。 『場所は
    違っても失った命を忘れないという思いは同じ。 何も言わなくても分かり
    合える遺族同士のつながりを今後も大事にしたい』と力を込めた。

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    地域を挙げて避難訓練を重ね、手助けが必要な障害者やお年寄りの
    把握にも努めて来た宮城県気仙沼市唐桑町小鯖地区(155世帯)では、
    住民がほぼ訓練通りに行動し、犠牲者を最小限に食い止めた。 自治会が
    『隣組』ごとに編成した12班は、それぞれ事前に決めていた避難場所に
    組織的に避難。 各班の責任者に配備されたトランシーバーも、安否確認や
    責任者同士の連絡に威力を発揮した。

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    逃げる その時 備え(気仙沼・唐桑町小鯖地区)
    出典:河北新報 2011年6月24日

    『迷わず、訓練通りに体が動いた』。 7班責任者の衣料店経営鈴木茂さん
    (56)が、地震直後の行動を振り返る。

    玄関に常備するトランシーバーを手に外に出た鈴木さんは、7班の全10世帯を
    避難路に誘導し、体が不自由なお年寄りだけを車に乗せて避難場所へと運んだ。
    『うちにいたい』と拒む人もいたが、親類を連れて再び迎えに行き、説得した。
    『5班は大丈夫』『異常なし』。 住民の安否確認を終えた各班の責任者から、
    相次いでトランシーバーに連絡が入った。

    f68194a0.jpg

    鈴木さんは『携帯電話がつながらない中、班ごとに安否が確認できた。 大きな
    安心感があった』と振り返る。 小鯖漁港のそばで釣具店を営む小松好子さん
    (82)を救ったのは、近所のガソリンスタンドの男性社員の声だった。

    『地震の次は津波が来るから。 もう1段、もう1段上がりなさい』当時自宅に
    いたのは、6人家族のうち小松さんだけ。 避難を促す声に背中を押されるように、
    自宅裏の避難階段を夢中で上った。

    午後3時10分過ぎ。 後ろから10メートル以上の黒い波が迫って来た。 高台に
    上った小松さんは、引き波で店舗を兼ねた自宅が湾内に流されるのを見た。
    最後尾で誘導した尾形和洋さん(34)は『お年寄りの足では、津波に飲まれかね
    なかった。 高齢者の避難に最も気を使った』と言う。

    003size36678

    小鯖自治会副会長の鈴木貞治さん(62)は『迅速に避難を誘導できたのは、
    日ごろの訓練のおかげ』と強調する。 12班はそれぞれ最寄りの高台を1次避難
    場所に指定し、経路を示した避難地図を全戸に配布。 要援護者を把握するため、
    『住民名簿』や『家族カード』を作り、訓練を重ねて、近所ごとに要援護者を
    誘導する取り組みも進めていた。

    津波で海岸沿いの住宅53世帯が被災したが、1次避難場所は全て無事だった。
    浸水域は、避難地図作成のベースになった宮城県沖地震の想定浸水範囲
    『標高10メートルライン』と重なる。 1次避難場所は標高20メートル前後の
    場所に指定していた。

    避難場所に逃げたのは12カ所で計151人。 自宅にいたほとんどの住民が
    助かったが、3世帯6人が行方不明となった。 住民によると、このうち1世帯
    3人は、いったん避難路を上ったが、『忘れ物』と言って自宅に戻った。
    家族の一人は元遠洋漁船員。 航海が長く、日ごろ訓練に参加出来なかった。

    12班の責任者、後藤一郎さん(63)も行方が分からない。 地震発生後、
    トランシーバーで『異常なし』と仲間に連絡していた。 妻光子さん(55)は
    『近所の安否確認をした後、つないでいた愛犬を逃がすため自宅に戻った
    のでは』とみている。

    他に、お年寄りと娘の1世帯2人が逃げ遅れた。 万全だったはずの備え。
    想定通りの津波。 それでも犠牲者が出た。 住民は言う。 『津波から逃げる
    には、備えが要る。 でも、いざとなれば何が起こるか分からない。 失敗こそ
    教訓にして、記憶に留めたい』

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    東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
    発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
    必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。

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    宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
    大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
    避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
    身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

    目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
    車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
    ものの、どうすることも出来なかった。

    2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
    よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
    見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
    伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。

    内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
    目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
    ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
    車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
    車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。

    かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
    笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
    使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
    離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
    地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。

    幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
    ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
    交じっていた。

    とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
    乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。

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    堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
    だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
    東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
    だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。

    気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
    からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
    途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。

    佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
    誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
    という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。

    震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
    逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
    (津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
    安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
    と話す。

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    仙台港近くの展示場『夢メッセみやぎ』は震災時、イベントの最中だった。
    混乱に陥った来場者約700人をイベントの運営者が屋上へ避難誘導することで、
    幸いにも死傷者は出なかった。 だが、これがもし数千人規模の大イベント
    だったら―。 『避難場所が足りず、大惨事になっていたはず』。
    関係者は血の気が引く思いで振り返る。

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    逃げる その時 イベント会場(仙台港・夢メッセみやぎ)
    出典:河北新報 2011年6月22日

    建物がミシミシときしみ、はりがたわんだ。 食器は散乱。 照明が消えると、
    パニック状態に陥った人々は出口に殺到した。 2011年3月11日。 メッセ
    展示棟は平日ながら大勢の来場者でにぎわっていた。 全国のご当地グルメ
    100店を集めた『グルメコロシアム』が開幕。 華やかな食が並ぶ会場を
    午後2時46分、激しい揺れが襲った。 会場にいた仙台市青葉区の自営業泉田
    智行さん(35)は『多くの女性がしゃがみ込み、泣き叫んでいた』と語る。

    『大津波警報が出ています。 落ち着いて。ここを離れないでください』。
    揺れが収まった午後3時過ぎ、避難が始まった。 メッセ会議棟と、隣接する
    仙台港国際ビジネスサポートセンター(アクセル)の二手に分かれ、会場
    スタッフ50人が誘導した。

    いち早く動けたのは理由がある。 2日前にあった震度5弱の地震を受け、この日
    朝に津波を想定した避難手順を打ち合わせしていた。 障害者、高齢者らの
    避難には来場者も協力し、車いすを担いで屋上への階段を上った。

    それでも避難は間一髪だった。 『どうせ津波なんて来ない。 帰らせろ』。
    車に乗り込もうとする来場者を、スタッフは半ば強制的に押しとどめた。
    『無理にでも屋上へ避難させて正解だった』。 イベント主催者である
    仙台放送の倉内宏事業部長(46)が振り返る。

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    午後3時53分。 隣接する仙台港の輸出用モータープールの車を押し流しながら、
    茶色い水が押し寄せてきた。 200人が避難した会議棟周辺には、津波に気付か
    ないまま走る車がいた。

    『運転手さん 止まってー』『急いで高い場所に上がれー』。 屋上から拡声器で
    必死に呼び掛けたが、何台もの車が津波に流されて行く。 宮城県亘理町の主婦
    (40)は『車中で聞こえなかったのだろう。 地獄絵図だった』と声を震わせる。
    高さ13メートル、2階建ての会議棟も屋上の数メートル下まで水が迫り、女性と
    子どもは給水タンクに上らせた。

    会議棟入り口に津波で激突した車3台から炎が噴き出し、建物に黒煙が入り込んで
    来た。 目の前のコンビナートも火の海になっている。 出店者の渡辺真奈美さん
    (43)=北海道利尻富士町=は『建物がいつまで持つか、みな恐怖の絶頂だった』。
    吹雪が容赦なく吹きつけ、うずくまる避難者も出てきた。

    『もう限界だ』。 歩けるくらいに波が引いたのを見計らい、会議棟の200人は
    裏口から、5階建てのアクセルを目指し脱出した。 『今また津波が来たら…』。
    渡辺さんは祈るような気持ちだったという。 元々いた人も含め、アクセルには
    700人を超える避難者が集まった。 ペットボトル10本程度の水と菓子を分け合い、
    一晩をしのいだ。 防寒用に配られたのは新聞紙1人1枚。 幸い医師と看護師が
    居合わせ、妊婦や透析患者のケアが出来た。

    主催者のマイクロバスで来場者をJR陸前高砂駅へピストン輸送し終えたのは翌日
    夕方だった。 アクセルが収容出来るのは、700人が限度とみられる。 『平日
    だったのが幸運だった。 数千人の訪れる土日だったら、逃げ場がなく誘導も
    無理だった』。 メッセを管理するみやぎ産業交流センターの高橋一夫常務
    (63)は胸をなで下ろしつつ、こう指摘する。 『津波はいつか再び来る。水、
    食料を備蓄できる避難ビルを早く仙台港に造って欲しい』

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    東日本大震災から4年11カ月となった2016年2月11日、東京電力福島第1原発
    事故で全町避難が続く福島県大熊、双葉両町を上空から望んだ。

    廃炉作業が進む第1原発の原子炉建屋付近は大型クレーンが林立する。 かつて
    雑木林が広がっていた南側には、汚染水タンクが所狭しと並んでいた。

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    原発から3キロほど離れた双葉工業団地。 除染廃棄物の中間貯蔵施設建設に向け、
    県内から搬入された廃棄物の一時保管場がある。クレーンを使った積み上げ
    作業が行われていた。

    沿岸部に目を向けると、県警や消防が月命日に合わせ、行方不明者の一斉捜索に
    当たっていた。 一帯は帰還困難区域。一時帰宅は認められているが、住民の
    姿は確認できなかった。

    出典:河北新報

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    2011年3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。 津波で
    ずぶ濡れになった人、建物の屋上で救助を待つ人…。 暖が取れない状況の
    下で、冷たい雪は多くの人の目に『非情の雪』と映った。 天候は夜には
    回復し、満天の星空が広がったが、それもまた『無情の星空』。 放射冷却で
    翌朝にかけて厳しく冷え込み、多くの命を苦境へと追い込んだ。

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    津波の後、雪が降り積もった被災地。寒さに奪われた命も少なくない
    2011年3月11日午後4時ごろ、宮城県南三陸町

    その時 何が 非情の雪、無情の星空(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    皆、寒さでガタガタと震えていた。 唇は紫色で顔面は蒼白。 外は雪。
    低体温症の症状だった。 『震えがひどく、自分で思うように動けない人もいた。
    3人がかりで着替えさせた』 宮城県南三陸町の公立志津川病院の看護師
    佐藤のり子さん(52)は、目の当たりにした低体温症の怖さを思い起こす。

    海岸から距離約400メートルに位置する同病院は津波に襲われ、水は4階まで
    達した。 全身ずぶぬれになったり、横たわったまま水に漬かって半身が
    泥まみれになったりした患者も多かった。

    浸水を免れた西棟5階会議室には、入院患者42人と病院スタッフ約80人、
    駆け込んだ近隣住民約120人の計約240人がいた。 看護師らは5階の限られた
    物資で、患者の体温を保つ工夫を重ねた。 濡れた衣服を脱がせてタオルで
    包み、新聞紙を体に巻いた。 ゴム手袋もはめさせた。 床には段ボールを
    敷き、体を寄せ合うように寝かせた。 毛布代わりに介護用おむつと、外した
    カーテンを掛けた。

    『体を温めてあげたくても電気も火もない。 ありったけの物で、できる
    限りのことはしたんですが…』と佐藤さん。 必死の措置もむなしく、12日
    午後に救出ヘリが来るまでに、患者7人が低体温症等で息を引き取った。

    宮城県石巻市大街道小でも、女性1人が低体温症とみられる症状で亡くなった。
    東松島市野蒜小でも多くの人が濡れた服のまま避難。 割れた窓から吹き込む
    冷気が体温を奪い、お年寄りらが次々と低体温症で死亡した。

    宮城県警が震災から1カ月後にまとめた県内犠牲者8,015人の死因によると、
    低体温症を含む『その他』が58人いた。 あの日の冷え込み、その後の停電や
    燃料難による暖房の欠如…。 過酷な寒さが地震や津波から取り留めた命を死の
    ふちに追いやったのも、この震災の特徴だ。

    仙台管区気象台によると、東北太平洋側各地の気象データは震災後、津波被害や
    停電の影響で入手できなくなった。 宮城県内で唯一切れ目なくデータが残る
    仙台は11日午後、断続的に雪を観測。 第1波襲来後の午後4時半前後は見通しが
    利かないほどの強さになった。

    多くの証言によると、宮城県沿岸の各地は同日夕、雪に見舞われた。 夜は西から
    高気圧が張り出し、東北は広い範囲で晴れた。 気象台は当時の天気図から
    『12日朝は放射冷却で津波被災地は軒並み氷点下2~3度。 被災者には
    厳しい気象条件だった』と推測する。

    志津川病院の看護師畠山啓子さん(53)には二つの『もし』が交錯する。
    『もし、もう少し暖かかったら助かった人もいたかもしれない。 でも、もし
    阪神大震災のような真冬だったら、もっと大変なことになっていた』

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

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    宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム『慈恵園』は、志津川の中心部を
    一望できる高台にある。 棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の
    指定避難場所でもあった。

    南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、
    大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。
    入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、
    職員も1人が亡くなった。

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    その時 何が 高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)出典:河北新報

    2011年3月11日午後3時半、特養ホーム『慈恵園』の駐車場。 津波がJR志津川駅
    そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。 ホームまでの距離は
    約500メートル。

    『(志津川)高校に行って』『早く逃げて』職員たちは押せるだけの車いすを押して
    走り出した。 ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに
    20メートル以上高い場所にある。

    施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く
    階段手前の坂道で車輪が止まった。 押しても押しても進まない。 家が流される
    のが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。

    ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。
    佐藤さんは必死に木材にしがみついた。 『もう駄目かもしれない』。 そう思った
    瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。

    津波はホームの天井の下30センチまで達した。 気力を振り絞り、施設内で入所者を
    捜し、数人をベッドに戻した。 『すぐ助けに来ますから』。 声を掛け、さらに
    生存者の姿を捜した。 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅く
    だった。

    『誰かいますかー』 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん
    (38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。 救出には志津川高の
    生徒たちも加わった。

    星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、
    2人を運び出した。 3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
    『また(津波が)来たぞー』『早く戻れー』。 高校に駆け戻らざるを得なかった。
    志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。 外は雪。 その夜のうちに、寒さなどで
    8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

    高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを
    担う。 敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。 ホームの
    スタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を
    始めていた。

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    相談員佐々木博美さん(50)は『一番心配したのは、余震で建物が崩れること
    だった。 まさか、ここまで津波に襲われるとは』と振り返る。 施設長の佐藤
    さんは自問する。 『津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を
    避難させられただろうか』

    移送手段は車しかない。 スタッフは29人。 当時ホームにいた高齢者67人の
    多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。 車に乗せる
    のは2、3人掛かりの作業になる。

    町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明に
    なった。 高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない
    10人だった。

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    T4機で曲技飛行隊「ブルーインパルス」を展開する航空自衛隊第11飛行隊が創設
    20周年を迎え、所属する東松島市の空自松島基地で2016年2月6日、記念式典が
    あった。 ブルーインパルスが展示飛行を繰り広げ、節目を盛り上げた。

    出典:河北新報



    式典は格納庫で行われ、隊員やOB、OGら約160人が出席。 第11飛行隊長の日高
    大作1等空佐が「20周年を迎えられたのは先輩方の尽力のたまもの」、第4航空団
    司令の時藤和夫空将補が「東日本大震災のどん底から立ち上がった隊員に敬意を
    表する」とそれぞれ式辞を述べた。

    震災の津波で被災したT4機の尾翼をそのまま用いた高さ約3メートル、長さ約
    5メートルのモニュメントの除幕もあった。 出席者は震災の記憶伝承と飛行の
    安全に向け、思いを新たにした。



    展示飛行では5機のT4機が宙返りや接近飛行、背面飛行といった華麗な技を披露。
    基地周辺に詰め掛けた航空ファンは熱い視線を送った。

    第11飛行隊は1995年12月に発足。 1998年の長野五輪開会式など、これまで
    約360回の展示飛行を重ねた。 震災後は空自の芦屋基地(福岡県)で訓練を重ね、
    2013年3月に松島基地に帰還した。

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    北上川河口に近い宮城県石巻市北上総合支所の庁舎は、2011年3月11日の
    東日本大震災で津波の直撃を受け、全壊状態となった。 庁舎には少なくとも
    57人の住民や職員らがいたとみられるが、無事が確認されたのは男性職員
    2人と小学4年生の男子児童1人だけだった。 庁舎は指定避難所だったにも
    関わらず、生存率はわずかに5%。 多くの人が犠牲になってしまった。

    その時 何が 生存率5%(石巻市北上総合支所)
    出典:河北新報

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    『支所に避難したから心配ないよ。 子どもたちも遊んでる』午後3時15分ごろ、
    建設会社従業員だった岡一也さん(33)は、宮城県松島町の現場からの帰り道、
    妻裕美さん(32)から電話を受けた。 明るい声で長女の吉浜小1年優心さん
    (7)、次女彩巴ちゃん(1)も一緒だという。

    『大丈夫だな』と思ったが、それが最後の会話となった。 地震直後から、支所には
    近所の人が集まっていた。 近くのデイサービスセンターを利用していた高齢者も
    職員に付き添われて避難していた。

    支所に立ち寄った消防団員の燃料販売業佐々木正人さん(49)は、知り合いの
    裕美さんに『山の方に行かないの?』と声を掛けた。 裕美さんは妹やめいとも
    一緒で、『後で母もこっちに来るはずだから』と答えた。

    佐々木さんは『庁舎の2階まで津波が来るとは想像しなかったが、車で避難出来る
    なら、近くの高台の方がいいのでは、と思った』と振り返る。

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    2006年に新築された庁舎は、鉄骨木造2階で延べ床面積は約2,400平方メートル。
    宮城県沖地震で想定される津波が高さ5.5メートルだったため、建物は1メートル高い
    海抜6.5メートルの場所に建設された。

    1、2階それぞれに支所の事務室と公民館部分があり、津波の際は公民館部分の2階
    多目的研修室に住民を避難させる計画になっていた。

    『多目的研修室、住民31人の避難完了』。 午後3時10分ごろ、2階事務室で災害
    対応に当たっていた支所地域振興課の今野照夫さん(50)に同僚から報告が入った。
    約10分後、支所と吉浜小の間の小川を津波がさかのぼった。 水かさがみるみる
    増し、津波は事務室に流入。 今野さんは『窓や壁もろとも外に押し流され、
    もの凄い水の勢いで地面に押しつけられた』という。

    何とか浮かび上がり、がれきにつかまった。 何度も気を失いながら漂流し、寒さで
    もうろうとしつつ民家に流れ着いた。

    北上総合支所によると、職員38人のうち、津波の襲来時に庁舎にいたのは19人。
    他に警察官や消防職員、警備会社員ら7人もいたが、無事だったのは今野さんら
    職員2人。 住民『31人』のはっきりした内訳は分かっていない。 救助されたのは
    4年生の男子児童だけだ。

    会社員千葉守さん(45)の長女で吉浜小6年の美里さん(12)と、千葉さんの母
    ゆり子さん(62)も支所にいたとみられる。 地震前、公民館の図書室にいる
    美里さんを吉浜小の教諭が確認している。 孫を迎えに向かうゆり子さんの姿も
    近所の人が見ていた。

    2人は今も行方不明。 『美里は、毎週のように単身赴任先の仙台に手紙をくれる
    優しい子だった』と千葉さん。 無念さと割り切れなさが募る。

    『津波で壊滅する建物がなぜ避難所なのか。 高台に避難者を誘導すべきだった
    のではないか』 津波は近くの吉浜小校舎の3階天井まで達した。 同校によると、
    卒業式準備のため学校に残っていた4、5年生の計5人と教職員10人は狭い屋上に
    逃げ、かろうじて難を逃れた。 全校児童49人のうち、死亡・行方不明は
    優心さんや美里さんを含め7人。 いずれも支所にいた可能性がある。

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    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

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    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

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    『南三陸1万人不通』。 人口約1万7,600人の宮城県南三陸町で、
    約1万人と連絡が取れない。 宮城県の発表として、2011年3月13日の
    朝刊はそんな見出しで報じた。

    被害の全容が把握出来ず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の
    事態も心配された。 町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に
    押し寄せる住民…。 混乱を極めた現地には、情報を発信するすべも
    なかった。

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    その時 何が 1万人安否不明(宮城・南三陸町)<出典:河北新報

    南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。 大津波は
    高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん
    (47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。
    住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。

    体育館には既に約100人の町民が避難していた。 夕方には避難者は1,000人
    近くに膨れあがった。 無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
    確保などに追われた。

    『残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった』と佐藤さん。
    志津川小から山伝いに避難してきた町民から、『町役場が流失した』と知ら
    されたのは11日深夜。 町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で
    数人が生存しているとも伝えられた。 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

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    『1万人安否不明』の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。
    町から報告された7,500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
    記者『7,500人が避難したとなると、残り1万人は?』

    県『町も正確な数字を把握していない。 単純に引き算すると1万人が安否不明に
    なるが、断定的な数字を出せる状況でない』 1万人安否不明という数字は、
    『犠牲者』という意味を帯びて独り歩きを始めた。 14日には、南三陸町で
    約1,000人の遺体が見つかったと報じられた。 町は一貫して否定し、情報は錯綜
    していた。

    防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。 壊滅した町を庁舎屋上から
    見て祈った。 『みんな、逃げていてくれ』 町は1960年のチリ地震津波で、
    41人の犠牲者を出している。 それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
    佐藤町長は『各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。
    1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった』と振り返る。
    安否確認は難航を極めた。

    町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。 しかし、通信手段がなく、
    対策本部と各避難所との連絡が取れない。 道路もがれきに埋もれている。
    町職員、車、ガソリン。 全てが不足していた。

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    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

    安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。 家族や親類、
    友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回って
    いた。

    町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。 最も多く避難した
    のは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。 避難者名簿に
    載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。 町による安否不明者の確認作業が
    始まったのは3月28日。 避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら
    全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。 町外へ脱出するなどして連絡が
    難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。

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