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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ:東朝鮮日報 > 東日本大震災

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    【東日本大震災の発生】
    2011年度のフィギュアスケート世界選手権は、本来は東京の国立代々木競技場
    第一体育館)での開催だったのだが、2011年3月11日に発生した未曾有の大震災
    「東日本大震災」により、開催不能となったが、そのため、1か月遅れで
    ロシアでの開催となった。 この世界選手権で、代替え開催国となったロシアは、
    わずか1か月と言う準備期間にも関わらず、あらゆる面で、日本に多大な配慮を
    してくれている。 それに対して、この時、ウクライナが支援してくれたのは、
    毛布4枚のみとなっている。

    開会を宣言するロシアのプーチン大統領
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    自国開催を楽しみにしていた日本国民が、テレビで中継を楽しめるようにと、
    日本時間のゴールデンタイムに合わせて開会した。 その開会式では、日本を、
    そして、被災地を応援する演出を行い、そして、フィナーレでは、日本選手
    (小塚崇彦、髙橋大輔、織田信成、安藤美姫、浅田真央、村上佳菜子)を
    中心に、日の丸を描いて各国の選手が輪になって、日本を励ます
    パフォーマンスを行った。

    選手たちも、随所に日本へのメッセージを伝えてくれた。 フランス代表
    であったブラジル出身のフローラン・アモディオ選手は、原点対象となる
    ボーカル入りの曲をあえて使用。 「これは日本の人達へのささやかな
    歌のプレゼントだ」と述べた。 たくさんの選手たちが、応援席の観客が、
    日本への応援をくれた。 エキシビジョンに祈りを込めた選手たちもいた。

    アモディオ選手
    85012279

    しかし、このようなロシアからの温かなメッセージは、日本には届かなかった。
    最も問題なのが、ロシアの日本を勇気づけるための素晴らしいセレモニーが
    日本の地上波では全く放送されなかったた。 この時に世界選手権を報道した
    のは、フジテレビであったが、この頃から、日本のマスコミの劣化、
    真逆報道が始まったと言える。

    ロシアがせっかく日本のゴールデンタイムに合わせて開会式を行ってくれた
    のに、フジテレビの放送は、19時に始まり、最初の1時間以上は、ひたすら
    前日の振り返りばかりで、更には、キム・ヨナの特集を放送していた。


    【この時のプーチン大統領のあいさつ】
    みなさま、今日、数百万人のフィギュアスケートファンの方々にとって、
    世界選手権の開幕と言う素晴らしい日を迎えました。 この大会は、日本で
    行われる筈でしたが、もうご存じの通り、日本は未曾有の災害に見舞われました。
    地震、津波、そして、原子力施設の事故です。 原子力施設での災害というのが、
    如何に凄いものであるか、ここロシアの我々ほど知っている人はいません。

    日本の国民、政府はこの険しい道のりを勇敢に進んで全ての問題を解決して
    くれると信じています。 日本では残念ながら、大会を開催することは出来
    ませんから、この大会を行うために、モスクワが名乗りを上げました。

    我々は、チンクアンタ氏、国際スケート連盟全ての人たちに、モスクワを
    選んでくれたことを感謝しています。 この大会が極めて高いレベルで
    開催されるように、我々の出来ること全てを行います。 この大会が、まさに
    ここ、ロシアで行われるのは、特記すべきことです。 何故なら、115年間
    1896年に最初のフィギュアスケート選手権が、まさに、ここロシアのサンクト・
    ペテルブルグで行われたからです。

    あの時から、多くのものが変わりました。 技術も装備も素材も、変わらない
    ものは、このスポーツの力だけです。 信じられないぐらいの造形性、そして、
    このスポーツが観客の感情に訴える効果も。

    ソ連、ロシアのフィギュア選手は、フィギュアスケートの発展に多大なる
    貢献をし、完成させ、芸術の域まで高めました。 数日間、このスケート
    会場の氷上に、40か国以上、のべ200人以上の選手たちが登場します。
    皆さまの成功をお祈り致します。

    世界フィギュア選手権2011 モスクワ大会の開催を宣言します。

    日本を応援する各国の選手たち
    36638

    【ロシア・フィギュアスケート連盟からのメッセージ】
    地球が痛みでうめき声を発した。 自然の強さに、全世界がショックを受け、
    あらゆる物を水は深海に流した。 しかし、何があっても、太陽は東から
    昇る。 地震と津波は、光に勝てない。 我々の神様が地球のみんなの命を
    守ってくれることを祈る。 桜が咲く公園は、たくさんあることを、白樺が
    咲く公園は、たくさんあることを、鳥が春の歌を歌えることを、旗が勝利の
    祝いで上げられることを祈る。 子供たちが、大人たちへと願う、友のみなさん、
    手をつないで、我々が、この地球において、ひとつの家族になっていることを
    忘れないで欲しい。

    日本選手を中心に、各国の選手が、日本を励ますパフォーマンスを行った
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    東京電力福島第一原発事故によって、古里での平穏な生活が失われたとして、
    福島県民ら約3,600人が国と東電に約215億円の損害賠償などを求めた訴訟の
    控訴審判決が2020年9月30日、仙台高裁であった。



    上田哲裁判長は、1審・福島地裁判決と同様に国と東電の責任を認め、両者に
    賠償を命じた。

    全国で約30ある同種訴訟では最大規模の訴訟で、国、東電の双方を被告とした
    訴訟としては初の高裁判断。



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    東日本大震災の津波で行員ら12人が犠牲となった七十七銀行女川支店が
    2017年9月4日、JR女川駅前に再建した新店舗で営業を始めた。 2011年
    3月の震災発生から約6年半を経た新店舗での再出発だが、慰霊碑などの
    モニュメント設置やセレモニーの開催は見送られた。

    慰霊碑について同行は『設置時期や場所を検討中』とし、セレモニーの
    見合わせは『取引先企業の多くが再建途上にあることを考慮した』と
    説明している。

    【七十七銀行鎮魂の花壇に刻まれた文字】
    749583227681

    七十七銀行女川支店は、20メートルを超える巨大津波に襲われ、高さ約10
    メートルの屋上に避難した行員13名が津波に流され、そのうち、1名が奇跡的に
    近くを通り掛った船に助けられた以外を除き、12名が犠牲となり、8名は
    懸命な捜索活動にも関わらず、今でも遺体が見つかってはいない。

    被災後の銀行側の対応は、あくまでも『死亡退職』であり、その後、死亡した
    行員の墓参りに訪れる事も遺族側に寄り添う姿勢も示さなかった。 銀行側の
    余りの対応に、遺族らの不信感は高まり、訴訟を起こして、最高裁まで争ったが、
    司法は津波を予想することは出来なかったと結論付け、遺族側の敗訴が確定した。
    2階建ての旧支店は、震災から1年半も経たないうちに取り壊され、現在は、
    かさ上げ工事のため、更地となっている。 裁判官が実際に現地を訪れた際には、
    既に旧支店は取り壊された後だった。

    新店舗は、被災した旧店舗の跡地から約350メートル北側にあるJR女川駅前の
    商業エリアに建てられたが、鉄骨2階建てで屋上はない。 店舗内3カ所には、
    町が指定した避難場所として高台にある女川小学校を示す看板が設置されている。
    七十七銀行女川支店は、2011年12月から女川町内の仮設商店街で営業をしていた。

    【現在の七十七銀行女川支店跡】
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    七十七銀行は、東北最大の地方銀行であり、地域のリーダーとして、今後の明確な
    指針を示さなければならない立場なのにも関わらず、このような無責任な態度を
    取り続け、未だ遺族らには、何ら謝罪の言葉すら掛けてはいない。

    2003年に石巻地区では『宮城県北部連続地震』が発生し、大規模被災したが、
    その後、七十七銀行女川支店は、避難マニュアルを高台から屋上へと下方修正した。
    その時の事を教訓にしていれば、こうはならなかった筈。 震度5強~6程度の
    地震は、石巻周辺ではしょっちゅうあるにも関わらず、その事を全て無かった事に
    しています。 『宮城県北部連続地震』の被災地では、地震災害のせいで人口が
    5,000人以上も減った。

    再度津波が来た際には、企業としてどう対応するつもりなのか、ハッキリと説明を
    する義務が七十七銀行側にはあると思います。 それが出来ないのであれば、
    七十七銀行が女川に支店など持つ資格などない。

    七十七銀行鎮魂の花壇』は、JR石巻線女川駅から徒歩約10分弱の旧支店を
    見下ろす堀切山にある。


    【お勧めの一冊】


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    東日本大震災の最大の被災地、宮城県石巻市門脇町・南浜町地区では、震災から
    6年半が経過したが、復興が進んでいる場所とそうではない場所との『落差』が
    目立ち始めている。

    石巻市全体での死者数は3,282名となっており、行方不明者は699人となって
    いるが、この地区は、津波とその後に発生した火災により完全に廃墟と化した。
    被災前までは、約1,700世帯が住んでいた住宅街であったのだが、被災前までの
    名残は一切残ってはいない。

    【被災から6年半が経過した石巻市門脇地区
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    一部では、住宅地が復興したが、一部は道路となり、現在では、あちらこちらで
    工事中だらけとなっており、度々移転を繰り返している『がんばろう石巻』の
    看板のある場所にたどり着くのでさえ、ままならない。 基本的に右折が出来ない
    個所ばかりであるため、車での移動も非常に難しくなった。

    この地区には、災害復興住宅が建設されたが、この地区を襲った津波の高さは、
    約6.9メートルであるため、再度津波が襲った際には、また同じ過ちを繰り返すので
    あろう。 日和山へと登る階段の麓には、1つだけ商店が出来たが、住民がまばらで
    あるため、売り上げ増も期待出来ない。

     

    被災直後に炎に包まれた門脇小学校は、現在では廃校となり、この先、のこ地区での
    人口増が全く望めないという理由により、石巻小学校と統合された。 2012年の
    紅白歌合戦で、長渕剛がライブ中継を行った校庭には、その面影すら残っては
    いない。

    最近では、テレビ等でも全く報道されなくなった東日本大震災最大の被災地は、
    復興もままならないままの状態で、人気も無くひっそりと静まり返っていた。

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    東日本大震災から6年。 被災当時、かなり頻繁に使われていた『絆(きずな)』
    とは、本来は、犬、馬、鷹などの家畜を通りがかりの立木につないでおくための綱を
    表しており、しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。 人と人との結び付き、
    支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。

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    SNSなどでは、プロフィール画像にも頻繁にこの『絆』が強調されていたりもした
    のだが、実際は、被災地などには関心が薄い人が多く、単に『自分は良い人』を
    アピールするために使われていたのも事実。 これさえ付けておけば、自分も
    善良な日本人的な安易な発想から、好んで使っていた人も多かったのだが、
    被災から6年以上が経過し、風化を通り越して、既に災害が一切なかったことに
    なっている現在では、被災地以外では、既に完全に死語と化している。

    そもそも、熱しやすく冷めやすい国民性であるため、ものの数ヶ月で見事に
    この『絆』自体が風化してしまったのだが、単なる『友情』よりも強い結び付きを
    表している筈の『絆』は、元々、そこまで硬く結び付いてはいなかった。 結果
    として、単なる言葉の安売りになってしまったため、本来の言葉の意味が薄れて
    しまったとも言える。

    硬い友情で結ばれた『絆』とは、互いの価値を認め合い、相手のために出来ることを
    しようとすることを意味しているのだが、『脱原発』に見られるような、単なる
    一方的な思想の押し売りもこの『絆』に含めてしまったため、最終的には、収拾が
    付かなくなって消滅した。



    心から信頼し合える本当の友達を見つけるのも非常に大変なのに、そこまで硬く
    結ばれた友情など、おいそれとは存在しない。 SNSの発達により、世界中の
    人たちとは『友達』になれる時代になったが、SNS内の友人たちは、『友達』など
    ではなく、単なる『知り合い』に過ぎないことを忘れてはならない。

    被災時の海外からの支援に対する感謝の気持ちを日本人として当たり前と大々的に
    述べている人を多く見掛けるものの、実際は、義捐金のネコババが横行している
    ため、その支援は、被災地にはほとんど届かなかった。 義捐金は、被災者に
    届いてこそ、義捐金なのであり、思い通りの額を懐に入れて良いものでは決して
    ない。 阪神淡路大震災の頃からずっと言われ続けている義捐金の中抜きだが、
    一向に改善の兆しは見られない。 

    『絆』はお金で買えるものではなく、自分から一方的に求めるだけでも得られる
    ものではないが、一時の硬い結び付きよりも、緩く長い付き合いの方がまだまし
    なのではないだろうか。

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    東日本大震災から丸8年が経過したが、津波で消滅した沿岸部では、未だ復興など
    というものは全く進んではいない。 ようやく、防潮堤の工事がようやく始まった
    程度なのだが、2017年の政府主催の東日本大震災追悼式では、安倍首相が、
    『被災地に足を運ぶたび、震災から6年を経て、復興は着実に進展していることを
    実感します』などと絵空事ばかりを述べたが、実際に、被災地に足を運んだことが
    ある人間は、そのようなことは一切実感しない。

     

    安倍首相は、元々、復興が完了した場所にしか足を運ばず、悲惨な場所には、
    殆んど行ってはいない。 政府が率先してこのようなウソばかりを述べ立てるため、
    被災地に行ったことすらない人たちの場合は、まんまと騙されてしまうのだが、
    最近では、まともに被災地の報道すらされなくなったため、『災害の風化』
    どころか、既に何もなかったことにされてしまっている。 『災害の美化』と
    でも言うべきなのだろうか。

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    元々、関東他の直接被害を受けていない地域での東日本大震災に対する関心は、
    非常に薄かったのだが、被災から6年を経て、あれほど『絆』と言っていたあの
    騒ぎは一体何だったのかと首をひねるばかり。 何もかもが他人事で、地元の
    人間でも沿岸部の人間以外は、余り復興などというものには関心がないため、
    既に記憶の片隅からも消え去っている。

    現状、沿岸部では、ようやくかさ上げ工事が終了し、防潮堤の建設が始まった
    ばかりであるが、その防潮堤が高過ぎるため、海が一切見えなくなった。 有事の
    際には、むしろ、海が全く見えないため、危険なのではとさえ感じる。  しかも、
    その工事を請け負っているのは、地元の建設業者ではなく、大手ゼネコンばかり。

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    実際に、防潮堤の工事現場に足を運ぶと、被災地を食い物にしているとしか
    思えないぐらいに同じ名前の建設会社ばかりが並んでいるのだが、逆に、
    被災時に地元のために歯を食いしばって頑張った地元の建設会社は、むしろ、
    防潮堤の建設には選ばれなかった。

    『他人の不幸は蜜の味』という言葉があるが、『他人の不幸はカネになる』が
    正しい日本語なのかも知れない。 実際には、災害によって、むしろ、金持ちに
    なった人たちは少なからずいるのだが、瓦礫の処理もカネ儲け、防潮堤も
    カネ儲けでは、世知辛いを通り越して、それこそ、世の終わりを感じるばかり。

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    東日本大震災から丸8年が経過した。 関東に避難をしている東日本大震災の
    避難者は、9割以上が福島からの避難者だが、福島の場合は、原発事故という
    特殊な災害であったため、全員ではないが、東電から補償金が出ており、
    関東に残る事も出来たのだが、宮城、岩手からの津波被災者は、何の補償すら
    なく、更に、関東では仕事がみつからないため、地元に帰るしかなかった。
    この状況は、福島の津波被災者も同様で、原発被災者と津波被災者との間で
    非常に大きな摩擦となっている。

    避難者同士の格差は、被災当初からあったのだが、それでも、行政的な線引き
    だけでその後の運命までをも変えられてしまうのには、矛盾しか感じない。
    原発被災者の場合、ひとりに付き、月額で10~20万円もの補償金が東電から
    出ているため、既に埼玉等で新築の家を購入していたりもする。

    2016年3月末で、仮設住宅への入居期間が終了するため、今でも仮設住宅へ
    避難をしている人たちは、どこかへ引越しをしなければならず、かつ、そこから
    先は、家賃が発生することとなる。 原発被災者の場合は、その引越し代すら
    東電に請求が出来るが、津波被災者の場合は、特に何も補償はされない。

    津波被災者の場合は、住居が津波によって流されているだけではなく、家族、
    親類縁者、友人等が死亡、あるいは、行方不明なのにも関わらず、義捐金も
    ろくに届かず、何もかもを自然災害として処理されてしまったため、国からも
    完全に捨て置かれた状態。 自然災害による弱者に対する社会的なセイフティー
    ネットは、生活保護ぐらいしかないのが現実なのだが、その生活保護は、
    行政によるハードルが非常に高過ぎるため、おいそれとは貰うことが出来ない。

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    東日本大震災は、津波災害と原発災害と言う、いわば、二重の災害であったため、
    事実が正確には伝わらず、遠くへ行けば行くほど、情報が完全に歪んでいるのだが、
    その原因は、情報伝達方法に問題があると言える。 その理由として考えられる
    のは、間接的な情報伝達方法により、書き手側の主観が完全に入ってしまうため、
    情報が正確には伝わらない。 かつ、大袈裟な海外メディアや海外在住者らによる
    海外からの歪んだ先入観や情報が更に風評被害を拡大させた。

    特に、自分の事だけを述べたい人の場合は、勝手に途中で情報を自分好みの情報に
    書き換えるため、話があらぬ方向へと進んで、途中で話が全くの別物になっている
    こともしばしば。 しかも、そのような人間に限って、自分の過ちには気付かない
    ため、始末に終えない。

    『宮城県沖では99%の確立で大地震が起きる』という話は、30年以上も前から
    あった話で、東日本大震災の8年前にも、石巻付近では『宮城県連続地震』が
    起きたが、その際にも、東北大学は、『この先も更に大きな地震が起きるので、
    注意を怠らないように』と言っていた。 よって、東日本大震災に対する準備を
    怠っていたのは、明らかな人災。 福島第一原発でも、津波防止のための防波堤の
    建設を住民側は切望していたが、当時の福島県知事によって無視された。

    津波災害は仕方のない自然災害、原発災害は人災であるため補償せよでは、
    おちおち安心して被災も出来ない。


    【お勧めの一冊】


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    もうすぐ3月11日がやって来る。 最大被災地出身の関東在住者にとっては、
    心中穏やかではない。 過去に類を見ない未曾有の大震災が起きた時、被災地からは
    遠く離れた場所に居た。 但し、その場所は、子供の頃から慣れ親しんだ土地である
    ため、テレビに次々に映し出される映像は、どこも見覚えのある場所ばかり。

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    最初に目に飛び込んで来たのは、仙台空港が津波に飲まれて、水没するところ
    だった。 次に見たのは、仙台市内が津波に飲まれるところ。 仙台市内には、
    一ヶ所だけ海水浴場があるが、その付近は、道が狭く、しかも、一本道しかない
    ので、道路事情が悪いことも知っていた。 次々と津波に流される車や家を見て、
    早く逃げて欲しい気持ちと、あの場所に居たら、もう助からないことも同時に
    分かってしまう自分が居た。

    東日本大震災は、かなり昔から、『30年以内に99%の確立で必ず起こる大地震』
    として、東北大学が予想していた大地震。 よって、例え、震度7(マグニチュード
    9.0)であったとしても、津波さえ来なければ、ここまで被害が拡大することも
    なかった。 地震がかなりの頻度で起こる地域であるため、地震慣れし過ぎて、
    避難しない人が多いことも知っていた。

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    次に目に入ってきたのは、東松島市の惨状。 正に自分の地元。 JR仙石線が
    行方不明になったというニュースだった。 津波が襲った後、仙石線の電車は、
    一方が津波に飲まれて大破、もう一方は、高台に緊急停車して助かったが、
    当初は、どちらも乗客は全員死亡と伝えられた。 学校の屋上では、『SOS』を
    掲げた人たちが映し出されたが、すぐ近所に航空自衛隊があるため、何とかなる
    だろうと思っていたが、その航空自衛隊ですら、津波に飲まれて、完全に機能が
    停止したため、屋上などに取り残される人たちが続出した。

    地震が発生した翌日には、福島第一原発で事故が発生したため、福島県全体が
    完全に通れなくなった。 東日本大震災が発生した翌日、最大被災地で自分の
    地元である石巻で、取材のための通訳の依頼が入ったのだが、この原発事故の
    影響により、結局は行けなくなった。 当初は、米軍と共に行けば、何とか
    石巻まで行けるとの話だったのだが、結局のところ、余りの被災度合いのため、
    最終的には、行けないこととなった。

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    その後もテレビでは、連日、東日本大震災のことばかり伝えたが、関東の方では
    輪番による、計画停電が始まった。 福島での原発事故による影響が関東でも
    如実に現れた形が、この計画停電だった。

    被災当時、さいたま市大宮区に住んでいたのだが、大宮区は、埼玉県の経済の
    中心であるため、大宮区全体での停電は避けなければならないという理由により、
    大宮駅を境に、東口と西口とが別々の時間帯で計画停電が実施された。 この時
    には、関東全域が同じような計画停電を実施しているのだと思い込んでいたのだが、
    実際に計画停電を行った地域は、半分にも満たず、横浜市、川崎市、千葉市等
    では計画停電は実施されなかった。

    計画停電初日、大宮区東口地域は、午後7時から午後10時までの時間帯で計画
    停電が実施されたため、会社から帰宅した時には、電気がなかった。 帰宅前に、
    近所のスーパーにも寄ったのだが、停電により、閉店していた。 近所の
    コンビニなどでは、被災当初こそ計画停電中は営業を停止していたものの、
    数日も経たない頃には、ろうそくや懐中電灯のようなものを使って、停電中でも
    営業が再開された。 カップラーメンやパンなどの食料品には、『各自〇〇個まで』
    のような購入制限が付けられた。 これは、流通事情が極端に悪くなったため、
    一時的に、食料の入荷が滞ったためであった。

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    東日本大震災が発生した翌日、変わらず出勤となったのだが、誰一人として、
    被災地を心配する人間は居なかった。 むしろ、原発事故の話ばかりで、
    津波被災地は、完全に無視された。 自分の実家付近が被災地となったため、
    会社側にとりあえず実家に帰りたい旨を伝えたところ、仕事を辞めてから行く
    ように言われた。 この時点でも、かなり愕然としたのだが、関東は関東で大変
    なので、仕方がないと自分に言い聞かせた。

    その後も、原発事故の影響により、東北道、東北新幹線共に、完全に通行止めと
    なったため、実家に帰れる目処すら立たなかった。 東日本大震災から1ヶ月
    ぐらい経過してようやく、高速バスが極一部だけ復活したのだが、その運賃は、
    仙台まで片道6,000円超の通常よりも割高な運賃だけだった。 これ以外の
    交通手段は、緊急処置として羽田空港から仙台空港まで飛んでいた飛行機
    のみだった。 車で仙台に行く場合も、福島が通れないため、新潟と山形を
    経由して被災地入りする人たちが続出した。

    いつでも帰れる場所だと思っていた自分の地元は、いつ帰れるのかすら分からない
    遠い場所になった。 実際に、自分の地元である石巻に帰れたのは、新幹線が
    ようやく福島まで再開したゴールデンウィークになったからだった。 被災当時、
    親が携帯を所持していなかったため、連絡が一切とれない状況がゴールデンウィーク
    まで続いた。 実家に何度電話しても電話は通じなかったが、後で知ったところに
    よると、母親は隣町にある姉の家に避難をしていた。

    テレビで何度も映し出されていた自分の地元は、変わり果てていた。 変わり果てた
    と言うよりも、地獄絵図そのものであった。 大宮駅に到着して、最初に掛けられた
    声は、『カラオケ如何ですか?』だった。 新幹線でものの2時間程度の場所
    なのに、余りにも違過ぎる現実を目の当たりにして、悔しいや悲しいを通り
    越して、呆然とした。 

    海外でも、フクシマの原発事故の事は、大々的に報道されたが、使われていた
    画像は、どれもこれも津波被災地の宮城県のものだった。 報道されている内容
    自体が、ウソだとすぐに分かった。 大袈裟な噂ばかりが一人歩きを始めた。

    東日本大震災では、福島の事ばかりが語られるが、実際は津波被災地の方が凄惨な
    状況であるため、津波被災地にももっと目を向けて欲しい。

    【被災当初の宮城県の様子】


    2016年2月10日現在、警察庁がまとめたところによると、東日本大震災による
    一連の余震での死者も含め、死者15,894人(宮城県9,541人、岩手県4,673人、
    福島県1,613人、茨城県24人、千葉県21人、東京都7人、栃木県4人、神奈川県4人、
    青森県3人、山形県2人、群馬県1人、北海道1人)、行方不明者2,562人と
    なっている。

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    東京電力・福島第一原発の事故をめぐり、株主の一部が歴代の経営陣に
    会社への賠償を求めた裁判で、株主側が会社の損害が増え続けているとして、
    賠償を求める額を5兆円から9兆円余りに増やす申し立てを行ったことが
    わかりました。
     
    原発事故をめぐっては、4年前、東京電力の株主の一部が、『安全対策を
    怠ったために事故が発生した』として、歴代の経営陣ら27人に対して、
    5兆5,045億円を会社に賠償するよう求める訴えを起こしました。

    16090513113

    東京電力はその後、被災者への賠償や除染にかかる費用が7兆円を超えるという
    見込みを明らかにしているほか、ことし3月期の決算で廃炉の費用などとして
    1兆3,800億円余りを計上しています。

    このため株主側が、損害が増え続けているとして賠償を求める額を9兆482億円
    余りに増やす申し立てを東京地方裁判所に行ったことが弁護団への取材で
    わかりました。

    株主側の弁護団長の河合弘之弁護士は『賠償を求める額は国内の民事裁判で過去
    最高になるはずだ。 事故がもたらした被害の甚大さを知ってほしい』と話して
    います。

    一方、東京電力は『裁判に関する内容については回答を差し控えます』と
    コメントしています。

    >>福島第一原発汚染水問題 東電の新旧経営陣32人を書類送検へ

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    東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から、既に8年以上が経過
    したが、原発事故の対応に関して、宮城県の対策は福島県と比較すると、
    非常に出遅れたと言わざるを得ない。 原発事故発生当初から、両県の支援
    格差は表面化し、福島との県境にある宮城県南部では、今でも不安を抱えた
    ままの生活を余儀なくされている。

    県境を越えて福島に入ると、至るところで除染作業が行われているが、
    宮城県側ではほとんど行われていない。 被害の実態ではなく、県境で線が
    引かれたのはなぜだったのか?

    genpatsu

    福島第一原発から直線距離で約45キロの場所に位置する宮城県丸森町では、
    2011年3月11日の東日本大震災発生以降、原子炉建屋内での水素爆発が相次ぎ、
    原発から20~30キロ圏内では、屋内退避指示が長期間に渡って出されたが、
    丸森町内では、空間放射線量の推移を把握出来ずにいた。

    宮城県環境生活部の記録によると、宮城県は、3月14日に県南地域で測定を
    始めたが、この県南地域が調査地点に追加されたのは、4月5日となっており、
    既に大半の放射性物質が降り注いだ後であった。 その後、住民からの悲痛な
    叫びが役場に続々と届いたため、宮城県に掛け合うも、その動きはかなり鈍かった。

    東北電力女川原発を監視する県原子力センターが大津波を被って機能停止したため、
    他県にある福島第一原発への意識は皆無に等しかった。

    丸森町や白石市の宮城県南部では、隣接する福島県の市町より空間放射線量が
    高い地点が複数個所に渡って散在したが、宮城県は当時、未曽有の津波被害への
    対応に忙殺されていたため、原発事故への対応は後手に回った。

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    原発事故直後、国と県の役割分担が曖昧となっており、国が直接やれる予算と、
    県に託す事業が存在した。 国の事業としてきちんと位置付けられない場合は、
    県が基金などを作って除染や測定をした時期があった。

    原発事故のイメージが付くのを恐れて、消極的な対応を望む声と、福島と同じ
    ように積極的に対応して欲しいという声が激しく交錯した。 震災直後の大混乱で、
    市町村長の単独の要望は県や国に届きにくい状況が続いた。 健康管理や賠償、
    除染いずれも福島側よりも遅く、不十分な結果をもたらした。

    丸森町は、宮城県とは別に、独自に18歳以下の町民向けの健康調査に踏み切り、
    東京電力から、妊婦と18歳以下を対象に精神的損害の賠償金を勝ち取った。
    逆に宮城県は、原発事故で自主的に避難した県民の実態調査を行わなかった。
    原子力損害賠償紛争審査会が2011年8月に取りまとめた中間指針でも、農林
    水産物や観光業の風評被害への賠償で宮城、福島の県境が大きな壁となった。

    今後、原発事故を巡っては、宮城県と福島県との支援格差が大き過ぎるため、
    均等な支援が望まれる。 東日本大震災における被災状況も、常に福島ばかりが
    注目されており、より悲惨な被災状況であった津波被災地は、完全に捨て
    置かれた状態となっている点にも十分注意したい。

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    ◎日和幼稚園訴訟(下)悲劇の伝承

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    <現場で語り部に>
    東日本大震災の津波で子どもを亡くした私立日和幼稚園(宮城県石巻市、休園中)の
    遺族4人が9月30日、園の周辺で、修学旅行で訪れた香川県丸亀高の2年生約90人を
    案内した。

    園児を乗せた送迎バスが炎上した現場付近にたたずむ。 遺族にとって、つらい
    けれど大切な場所だ。 次女明日香ちゃん=当時(6)=を失った佐々木めぐみさん
    (36)が、わが子の遺体を見つけた際の様子を静かに振り返った。

    「体を触るとポロポロと崩れてしまい、抱きしめることができませんでした。
    もっと長生きしてほしかった。 皆さんは家に帰ったら『ただいま』と言って
    ください」

    耳を傾けていた丸亀高の生徒が手で涙を拭った。 小中学生のきょうだい2人が
    いる大麻悠香さん(17)は「胸が苦しくなったけれど、遺族の話を聞いて良かった」
    としみじみ思う。 「香川県は南海トラフ巨大地震の被害が想定されている。
    ちゃんと避難訓練をする必要があると痛感した」。 教訓を持ち帰り生かしたい
    という。



    遺族は訴訟の和解から5カ月後のことし5月、男鹿市の海岸へ足を運んだ。
    その地では1983年5月、日本海中部地震の津波で、遠足中の旧合川南小
    (北秋田市)の児童13人が犠牲になった。

    佐々木さんの夫純さん(36)が、初対面した日本海中部地震の遺族に自分の
    苦しみを重ねて尋ねた。 「32年間、どのようにして子どもたちの死と向き
    合ってきたのかが知りたい」

    小学4年だった長女=当時(9)=を失った福岡史恵さん(65)が答える。
    『ただいま』という言葉がないまま、32年前の姿のままに供養しています」。
    悲劇を語り継いでいくことが、風化の防止につながるとも助言した。

    <苦悩抱えながら>
    震災から間もなく4年9カ月。 早世した園児のきょうだいは、少しずつ成長
    している。 西城春音ちゃん=当時(6)=の仏壇がある石巻市の自宅の座敷で
    11月中旬、姉の楓音(かざね)さん(13)が震災後初めて、妹と一緒に遊んで
    いた形見のおもちゃを広げた。

    女児に人気のリカちゃんの家とシルバニアファミリー。 弟の靖汰君(7)、
    春汰ちゃん(2)が夢中になって遊んだ。 母江津子さん(40)は、何も
    言わず黙って見守っていた。 楓音さんの気持ちを想像してみる。

    「妹が亡くなり、一人でどうやって遊んでいいのか、分からなくなっていた
    と思う。 でも中学生になり、抱え切れなかった思いを少し抱えられるように
    なったのかもしれない」

    江津子さんも、愛するわが子を失った悲しみを抱えながら、命の大切さを
    伝えていくつもりだ。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>【津波訴訟和解1年】「心から」の思い見えず

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    ◎日和幼稚園訴訟(上)謝罪の意味
    東日本大震災の津波で園児5人が亡くなった宮城県石巻市の私立日和幼稚園
    (休園中)の訴訟で、園児4人の遺族側と園側が和解してから2015年12月3日で
    1年となる。 園側からいまだに直接的な謝罪はなく、遺族側は一層、苦悩を
    深める。 遺族らは園側に血の通った対話を求める一方、語り部として命の
    大切さを伝える。 和解後の遺族の日々を追った。

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    <拒否された手紙>
    長女愛梨ちゃん=当時(6)=を失った佐藤美香さん(40)の自宅に11月中旬、
    園側の関係者に出した手紙が返送されてきた。 未開封の封筒には、直筆の
    文字があった。 「受取拒否」 佐藤さんがしたためた手紙はA4判1枚。
    「園側が法的責任を認め、心からの謝罪をする」という訴訟の協議内容を胸に
    納め、和解を決心したいきさつを記した。 和解成立後、園側から連絡がなく、
    手紙を送らざるを得なかった心境もつづった。

    佐藤さんは感情を押し殺して語る。 「法的なしがらみはありません。
    園側には一人の人間として、私たちと向き合ってほしいだけです。 せめて、
    未来を奪われた愛梨たちに真実を伝え、心から謝ってほしい」

    2014年12月3日、仙台高裁。 津波犠牲者をめぐり、初の賠償命令が出た
    訴訟は提訴から3年4カ月で幕を閉じた。

    和解調書は「園側は被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する」との
    文言を明記する。 園側は「司法の勧告を厳粛に受け止め、幼くして失われた
    尊い命に思いを致し、冥福を祈る」との談話を出した。

    今年3月と夏、一部の遺族宅に花が郵送された。 差出人は園側の関係者。
    手紙や文書は添えられておらず、遺族は真意を測りかねた。



    <踏み出せぬまま>
    遺族は9月、文部科学省の学校事故対応に関する有識者会議のヒアリングに
    臨んだ。 次女春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)が
    研究者ら委10人に訴えた。

    「判決では園側の謝罪を得られないだろうと考えて和解を選んだ。 裁判の
    出口は出たけれど、そこから一歩を踏み出せずにいる」。 いまだに心の
    整理がつかない真情を吐露した。

    被告が原告の遺族に面会し、直接謝罪する。 日和幼稚園の遺族が対話の
    一歩として望むことが、震災関連の犠牲者をめぐる別の訴訟では実現した。
    その遺族は匿名を条件に胸の内を明かす。

    「訴訟で一番求めていたのは謝罪です。 亡くなった家族は帰ってこない
    けれど、位牌(いはい)の前で手を合わせ、頭を下げてもらったことには
    納得している。 人として最低限のことはしてもらいました」

    民事訴訟の和解に詳しい東北の元裁判官は「日和幼稚園のケースは気持ちの
    面で解決を望む遺族と、法的な問題を解決する裁判との間に大きな落差がある」
    と指摘する。

    「心からの謝罪」は目に見えない。 どうすれば、それがなされたといえるのか。
    元裁判官は「捉え方は難しい。 和解項目は任意であって強制執行はできない。
    園側が亡くなった園児や遺族とどう向き合うかが社会的、倫理的に問われている」
    と話す。

    [日和幼稚園訴訟]東日本大震災の津波で亡くなった園児4人の遺族が2011年8月、
    園側は安全配慮義務を怠ったとして、園側に損害賠償を求め仙台地裁に提訴。
    地裁は2013年9月、法的な責任を認め、園側に賠償を命令。 園側が仙台高裁に
    控訴し、訴審では園側が和解金計6,000万円を支払うことなどで和解した。
    訴えによると、園児を乗せた送迎バスは2011年3月11日午後3時ごろ、園のある
    高台から海側の低地に向けて出発。 約45分後に津波に巻き込まれ、提訴した
    遺族の子ども4人を含む園児5人が死亡した。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~
    >>津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

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