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    カテゴリ:西ヨーロッパ > ドイツ

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    ドイツ、オーストリア、ハンガリー等、ヨーロッパ中部にある一部の地域には、
    クリスマスシーズンになると、子供達に沢山のプレゼントを配る聖ニコラウス
    とは対照的に、悪い子供達にお仕置きをする伝説の怪物が居る。

    この怪物は、民間伝承に登場する、半分ヤギ、半分悪魔の姿をした怪物のことで、
    『クランプス』と呼ばれている。 クランプスは、子供達にプレゼントを配る
    聖ニコラウスとは対照的に、悪い子供達を叩いたり、連れ去ったり、更に、
    地獄へと引きずり込んだり
    する。



    毎年12月の上旬になると、伝説に則り、悪魔クランプスが聖ニコラウスと共に、
    野外を練り歩きく。 12月の最初の2週間、特に12月5日の晩になると、若者達が
    クランプスの扮装をして、錆びた鎖と鐘を持ち、子供と女性を怯えさせながら
    通りを練り歩くのが毎年恒例の伝統行事となっている。

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    クランプスは、毛むくじゃらの皮膚を持ち、鋭く長いツノ、大きく開いた口に
    ドラキュラのようなキバが生えている。 怒りをあらわにしている表情が非常に
    恐ろしい。 ドイツの古い言い伝えでは、クランプスとサンタクロースは、双子
    という設定となっており、一方が良い子にご褒美としてプレゼントを配り、
    もう一方が悪い子にお仕置きをして素行を正すという役割を担っている。

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    昔は、仮装をした人達が家々のドアを叩いて酒を要求し、出さなければ騒ぐぞと
    脅すことが極当たり前に行われていたという。 アメリカ等で行われている
    ハロウィンや、日本のなまはげにもこのクランプスと同様の趣旨が含まれており、
    恐ろしい見た目で、厳しく子供達を諭すということは、世界共通なのかも知れない。

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    2005年、アンゲラ・メルケルは、ドイツ首相を選ぶ選挙できわどい勝利を
    おさめた。 初の女性首相であると同時に、メルケルは、旧東ドイツ出身の
    首相でもある。 選挙戦でのメルケルの勝利は象徴的であった。 それは、
    少なくとも、いくつかの点で、東西ドイツの差が消えつつあることを示して
    いた。 1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。
    西側諸国の力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。
    社会主義政権の支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

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    ドイツは、常に国家を再統一したいと願って来た。 1989年に社会主義
    体制が崩壊し、その機会がやって来た。 再統一されたドイツは、メルケルの
    首相就任に象徴されるように、数々の進歩を成し遂げて来た。 1930年代に
    ドイツ人は、後に独裁政治を始めるような過激な政治家を選挙で選ぶという
    過ちを犯した。 第二次世界大戦後、彼等は、同じ過ちを二度と繰り返さす
    まいと決心した。 ナチスが再び政権を握るのを防ぐため、西ドイツは、
    1945年に新憲法をつくった。 『基本法』と呼ばれるこの法律では、あらゆる
    人に基本的人権が保障された。 全てのドイツ人に財産の所有と移動の自由、
    労働組合への参加、そして法の下の平等が認められた。 当時、東ドイツ
    国民は、この基本法の恩恵を得ることは出来なかった。 しかし、基本法を
    起草した法律家達は、東ドイツ国民もいつかはこの法の下で、ひとつになれる
    日が来ることを思い描いていた。

    西ドイツ政府は、常にドイツの再統一を願っていた。 しかし、東ドイツが
    社会主義の体制化にある限り、それは到底実現出来しそうになかった。
    その頃、西ドイツは、ライン川沿いのボンに暫定首都を置いていた。西ドイツ
    政府は、全力を上げて国家の繁栄を目指し、素晴らしい成果を上げた。
    欧州復興プログラムによって提供される支援を元に、西ドイツは、産業を
    再建した。 1957年、西ドイツは、フランス、ベルギー、オランダ等、
    かつての敵対国と共に、ヨーロッパ経済共同体と呼ばれる経済圏設立した。
    その加盟国は後に、貿易、外交、立法における統合を目指す共同体として、
    ヨーロッパ連合(EU)を形成した。 現在、EUの加盟国は、28ヶ国である。

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    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の
    約束を守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに
    困難な事業であった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政に
    よっても殆ど解決し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、
    老朽化しているために、労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ない
    ところもあった。 西ドイツは、以前から、東ドイツの通貨、オスト・
    マルクと西ドイツの通貨ドイツ・マルクを1対1で交換する約束をしていた。

    しかし、再統一が行われた1989年10月3日の朝、その約束は果たされ
    なかった。 オスト・マルクは、紙屑同然なのに、ドイツ・マルクは、
    世界で最も強い通貨であったからだ。 再統一後、ドイツ経済の勢いに
    陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの近代化に毎年700億ドルを
    支出しなければならなかった。 その支出の殆どは、数百万人にも上る
    旧東ドイツの失業者を解消するために使われている。 現在のドイツは、
    かつての西ドイツ程ではないが、それでも、世界で4番目の経済大国である。

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    グリム童話は、残酷であると言われているが、グリム童話が残酷なのではなく、
    残酷な当時の世の中を物語っているのが、グリム童話なのである。 中世では、
    人の命が軽く扱われていた。 人が殺されたりするのは、日常的で、殺し方も
    残忍だった。 規律を守るために厳しい処罰が科せられた。 刑罰そのものも
    極めて酷いものである。 グリム童話には、残酷と思われる場面が沢山ある。

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    グリム兄弟は、残酷な場面に関しては、子供には影響がないと判断したため、
    書き換えをしなかった。 むしろ、彼等は、残酷な話を子供が読むのは、重要だと
    考えていた。 ところが、初版で痛烈な批判を浴びて、第二版以降は、消えて
    しまった話がある。 これは、書き換えられることなく削除された。 『子供達が
    屠殺ごっこをした話』である。 ある子供が、豚になり、ある子供が、肉屋に
    なって、豚になった子供を殺してしまった。 何とも痛ましいこの話は、
    『子供に読み聞かせ出来ない』と攻撃され、クリム兄弟は、止むなく第二版では、
    この話を削除した。



    残酷な話の筆頭に挙げられるのが、『杜松の木』で、男の子がリンゴの入っている
    木箱を覗き込んだ瞬間、継母がパタンと蓋を閉じると、男の子の首が床に転がった。
    継母は、殺した男の子の死体を刻んで酢で煮込み、夫である男の子の実父に食べ
    させる。 何も知らない父親は、おいしいと言って、煮込みを食べる。 ドイツ
    には、中世からどっしりとした長い箱があった。 衣服を入れる長持ちとして
    使われたが、台所では、貯蔵品を入れていた。 蝶板が付いた蓋があり、パタンと
    閉まる。 この話を読んでパタンと閉まる箱に恐怖心を抱く子供も居るだろう。
    父親が、我が子と知らずに食べることも恐ろしい。



    残酷な描写としては、『盗賊のお婿さん』で人喰い盗賊が娘を切り刻んで食べる
    場面や、『フィッチャー鳥』では、ぶつ切りにされた人間の死体が血のたらいの中に
    入っている場面等、かなり惨たらしい。 『愛しいローラント』では、継母が、
    寝ている自分の娘を継娘だと思って、斧で首をちょん切る場面がある。 後から
    継母が寝室に行って見ると、自分が殺した実の娘が血の海に浸っていた。

    グリム童話に多く登場するのは、美しいお姫様欲しさに難題に挑戦する若者達。
    彼等のほとんどは、難題を解決することが出来ず、容赦なく首を切られて行く。
    求婚者と知恵比べをして負けた者の首を切り取って、杭に刺して行く残酷な
    お姫様の物語である『天竺ねずみ』では、お姫様が首を切らせた若者の数は、
    99人にも上る。 難題や過酷な仕事をこなせなかった者が、首を切られる話は、
    実に多いが、そこには、リアルな首切りの場面の描写はない。 残酷な場面が、
    極めて平坦的に表現されている話もある。
    『手無し娘』では、悪魔が粉挽きの男に娘の両腕を切り取らせるが、腕を切り
    取るのは、まるで紙人形の腕をハサミで切るようでリアルさが全くない。 そして、
    この娘の手も『フィッチャー鳥』でぶつ切りにされた姉二人も最後には元通りに戻
    っている。 それが、グリムのメルヘンである。



    初版では、実母だったのに、第二版以降は、継母に書き換えられた話が2つある。
    『ヘンゼルとグレーテル』で子供達を森に捨てたのは、第三版までは、実母
    だったのが、1840年の第四版からは、継母になった。 『白雪姫』で娘の美しさに
    嫉妬して殺そうとしたのは、初版では実母だったのが、第二版からは、継母に
    書き換えられた。 その書き換えに関して、グリム兄弟は、継母に対する偏見
    ではなく、実際に継母による虐待が多かった実態を訴えている。

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    グリム童話は、世界で最も親しまれている童話で、世界中で聖書の次に
    読まれていた時代もあった。 正式には、『子どもと家庭の童話(Kinder und
    Hausmärchen)』という書名で、グリム兄弟によって1812年に初めて世に
    出された。 有名な話に、『ヘンゼルとグレーテル』、『赤ずきん』、
    『狼と七匹の仔山羊』、『白雪姫』、『いばら姫』、『ブレーメンの音楽隊』、
    『灰まみれ(シンデレラ)』等がある。

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    グリム兄弟は、知人から昔話を聞き取り、古い文献を参考にする等、年月を
    掛けて民話を収集して行った。 それを一冊の本にして世にだしたのが、1812年
    12月20日のことで、86の話が紹介された。 1815年には、、初版の第2巻70話が
    出され、合わせて156の話が初版に収められた。 その後も改訂版が出され続け、
    1857年の第7版では、昔話200話に10話の『子供達のための霊験潭』が加えられて、
    全部で210話が収められている。

    この第7版が、決定版と呼ばれて今日のグリム童話になっている。 決定版には、
    1番から200番まで通し番号が付けられており、Kinder und Hausmärchen の
    頭文字KHMの後に続く番号で何の話であるか、分かるようになっている。
    200話の中には、誰でも知っている話の他、有名ではないが、面白い話が沢山
    含まれている。

    グリム兄弟は、1816年に『ドイツ伝説集』も刊行する。 童話と伝説の違いは、
    童話が、『昔々あるところに』と年代や場所が特定されていないのに対し、伝説は、
    ハッキリとした年代や場所が書かれていること。 ハーメルンのネズミ捕り男の
    話は、童話集ではなく、『ドイツの伝説集』に『ハーメルンの子供達』として
    収められている。

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    【グリム兄弟の生涯】

    グリム兄弟は、9人の兄弟を産んだが、そのうちの3人は、死亡しているため、6人
    兄弟ということになる。 長男のヤーコプは、1785年、次男のヴィルヘルムは、
    1786年にハーナウで生まれた。 兄弟の末弟ルートヴィッヒ・エミール・
    グリムは、有名な画家で、グリム童話の挿絵も描いている。 ハーナウ市の
    書記官だった父親は、1791年、ハーナウ伯爵の領地管理主務官となり、一家は、
    シュタイナウへと引っ越す。 幼少時代を自然豊かなシュタイナウで過ごすことで、
    2人は、メルヘンに対する完成を培われた。 1796年に父親が亡くなり、一家は
    困窮する。 援助の手を差し伸べたのが、カッセルに住む母親の姉で、ヤーコプと
    ヴィルヘルムを引き取ってリュツェウム(当時のギムナジウム)に通わせてくれた。

    カッセルで優秀な成績を収めた2人は、マールブルグ大学へと進み、法律を学んだ。
    そこで、サヴィニーという若い教授と出会う。 彼のもとへ集まる若い学生の中に、
    後に著名なロマンス派の文学者となるアヒム・フォン・アルニムや、クレメンス・
    ブレンターノが居た。 彼等と親しくするなかで、古典文学や民衆から生まれた
    話しに興味を持つようになる。 アルニムやブレンターノは、1806年に民衆詩集
    『少年の魔法の角笛』第一巻を出した。 グリム兄弟は、その第二巻と第三巻発行
    への協力を依頼される。 第二巻と第三巻は、1808年に出された。 この仕事を
    手伝う過程で、2人は、昔話に惹きつけられ、その後も独自に昔話を収集して行った。

    グリム兄弟は、大学を終えると、その間に母と兄弟達が引っ越していたカッセルに
    移る。 ブレンターノは、グリム兄弟が民話を集めているのを知って、1810年、
    2人が集めた民話を『少年のは方の角笛』第三巻の続きの童話に載せたい意向を
    伝えて来た。 ヤーコプもヴィルヘルムもそれに対して、異論はなかったので、
    集めた民話をブレンターノに渡したが、なかなか刊行されなかったため、2人が、
    その後に集めた民話とブレンターノに渡したものを加えた86の話を
    『子供と家庭の童話』と題して1812年に出版した。 この第一巻と第二巻がグリム
    童話の初版本である。 1816年には、『ドイツ伝説集』も刊行される。
    ヤーコプが1819年に出した『ドイツ語文法』は非常に高く評価された。

    グリム兄弟は、ゲッティンゲン大学の招きによって、1829年~30年、ハノーファー
    王国のゲッティンゲンへと移った。大学で教える傍ら、研究書を次々と出して行く。
    そんな折、1837年にハノーファー国王が憲法を独断で廃止するという事件が起こった。
    ゲッティンゲン大学の教授達は、国王に対して抗議声明を出す。 抵抗したのは、
    グリム兄弟を含むゲッティンゲン大学の教授7名であった。 国王は怒り、中心と
    なった教授達を追放した。 ヤーコプは、1837年にカッセルに戻り、翌年に
    ヴィルヘルムも戻って、兄弟は再びカッセルでの生活を始めた。

    既に学者として知られていた2人は、1840年、プロイセン王国からベルリンへ招聘
    される。 そして翌年、兄弟は、揃ってベルリンへと赴いた。 彼等は、
    科学アカデミーの正会員に迎えられ、教授としてベルリン大学でも講義した。
    彼等は、1938年から着手していたドイツ語辞典の編さんに本格的に取り掛かる。
    ところが、この辞典は、余りにも詳し過ぎたため、編さんには長い年月を必要とした。
    弟のヴィルヘルムは、1859年に亡くなったので、まだ、『D』の途中だった。
    兄のヤーコプは、1863年、『F』の途中で世を去った。 ドイツ語辞典は、その後、
    多くの学者達によって引き継がれ、1691年に完成した。 グリム兄弟は、
    ヴィルヘルムの2人の息子達と一緒に、ベルリンのマーティン教会墓地に眠っている。

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    『市民高等学校』とも訳すべき、フォルクス・ホーフ・シューレは、ドイツにある
    それぞれの市、または、州によって運営されている市民の為の公営カルチャー
    スクールで、資格取得を目指した実践的なものから、料理やダンス等の趣味的な
    講座等、様々な講座を一年を通じて開講している。

    許可を得た一般市民であれば、誰でも講師となることが出来き、完全なプロとは
    言い切れないのと、公立の学校や市が保有する建物等を使用しているため、授業料が
    かなりの破格値に抑えられているのが特徴となっている。 非常に安価に趣味を
    学べるため、ドイツ語圏では、大変人気のあるカルチャースクールとなっている。
     
    herausartikelQuer

    外国人のためのドイツ語コースは、その施設によっても異なるが、概ね、初級、
    中級、上級の3つのクラス、または、それ以上に細かく分かれており、週1回程度の
    ものから、毎日集中的に学べるものまであり、月に2~3万円程度で、ドイツ語を
    本格的に学べるため、ドイツ滞在初期にはかなり便利な施設かも知れない。
    一般の語学学校で学ぶよりも、数段安い値段で学べるのがその魅力。

    Vhshaus

    公営ではあるものの、正式な学校ではないため、学位等は発行されず、日本の
    カルチャーセンターがそのまま公営になった感じと考えて間違いない。 ドイツ
    以外でも、オランダや北欧諸国では、この形式の公営学校が非常に発達しており、
    誰でも気軽に学んだり教えたり出来るため、一般市民の生涯学習の一翼を担って
    いる。

    日本でも、県や市が補助金を出せば、十分に運営出来るため、一般市民への
    税金の還元を兼ねて、フォルクス・ホーフ・シューレを設立して欲しいところ。

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    第二次世界大戦の後、ドイツは、4つに分割され、それぞれが主要な連合国の
    占領下に置かれた。 3つの地域は、まもなく『西ドイツ』として統合されたが、
    ソビエト連邦に占領されていた地域は、分断され、『東ドイツ』となった。

    この2つの国を隔てる国境は、国際社会に新しく誕生した敵対関係の境界線の
    一部となった。 新たな敵対関係とは、西側の資本主義諸国と、ソビエトが率いる
    東側の社会主義諸国との対立である。 この境界線は、しばしば『鉄のカーテン』
    と呼ばれた。

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    西側と東側の対立は、『冷戦』と呼ばれ、ベルリンは、その中心となった。
    ベルリンは、東ドイツ内にあったが、首都として4つの地域に分割占領されていた。
    西ベルリンには、イギリス、フランス、アメリカの占領地域があった。
    東ベルリンは、ソビエトの占領地域であった。 1948年、ソビエトは、
    ベルリンから他の国々の軍隊を撤退させる目的で、東ドイツを通過する補給物資の
    輸送を封鎖した。 これに対して、西側陣営は、食料品と燃料を空輸して対抗した。
    この作戦は、『ベルリン空輸』と呼ばれている。 空輸作戦は、およそ1年間続き、
    東ドイツの中で完全に孤立していた西ベルリン市民に、昼夜を問わず何百万トン
    もの補給物資を空輸した。

    しかし、これは、ベルリンの支配をめぐる長い戦いの始まりに過ぎなかった。
    1961年までに、200万人以上の人々が東側から西側へと亡命した。 東ドイツ
    政府は、西ベルリンの周囲に壁を建設し、東側の市民が西ドイツに逃亡しない
    ようにした。

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    【ドイツ再統一】
    ソビエト連邦は、その後の30年間、東ドイツを支配したが、1970年代に入ると、
    ソビエト、東ドイツ等の東ヨーロッパ諸国からなる東側陣営の経済状態が悪化
    して来た。 1980年代になると、ソビエトの指導者、ミハイル・ゴルバチョフは、
    より民主的な政府を目指して改革を始めた。 同じように東ヨーロッパ諸国でも、
    自由を求める動きが強まった。 いくつかの場所では、国境の監視が緩められた。
    数千人の人々が『鉄のカーテン』を通って、西側へ流出した。

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    1989年11月9日、東ドイツは、国境を開放した。 その夜、喜びに沸く群衆は、
    ハンマーやつるはしを使って壁を打ち壊した。 数日後、東ドイツ政府は倒れ、
    1990年10月、ドイツは再び統一国家となった。 それは、この国にとって、
    新しい試練の始まりでもあった。 東ドイツの破綻した経済と、近代的な西ドイツの
    統合には、当初から数々の困難が予想されたが、再統一から、25年を経た今でも、
    完全な心の東西の統一は果たされてはいない。

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    第一次世界大戦で敗れたドイツは、膨大な賠償金を課せられ、経済的に極めて
    厳しい状況に陥った。 政府は、国家を再建し、秩序を回復することがなかなか
    出来なかった。  ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせて
    くれる指導者を待望する動きが現れた。

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    アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)という小さな政党の
    党首であった。 彼は、ドイツの苦境を連合国やヨーロッパのユダヤ人等のせいに
    して非難することで、国民の人気を集めた。 1933年、ヒトラーは、その人気を
    利用して、ドイツの首相となった。 そして、間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。

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    戦争初期、ドイツ軍は、次々と勝ち進んだが、1940年には、ヒトラーは、中央
    ヨーロッパと東ヨーロッパのほとんどを手中に収めた。 1941年、ヒトラーは、
    広大なソビエト連邦に侵攻した。 ソビエト連邦は、現在のロシアを中心とする
    社会主義国家であった。 ドイツ軍は、モスクワの近くまで迫ったが、軍隊を
    広く展開させた結果、兵力が手薄になった。 ソ連軍が反撃を開始し、ドイツ軍を
    押し戻した。

    ドイツ軍は、他の戦線でもイギリス軍に敗北を続けていた。 アメリカ軍が
    連合国側として参戦し、戦況は、一変した。 1944年には、ドイツ軍は、3方向
    からの攻撃を浴びるようになった。 1945年4月には、ソ連軍がベルリンに進軍
    すると、ヒトラーは自殺した。

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    ドイツに進軍して来た連合軍は、後に『ホロコースト』と呼ばれるようになった
    出来事の証拠を発見した。 ナチスが、『死の収容所』を建設し、ヨーロッパの
    ユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた
    事実が明らかになった。

    収容所には、数十人の人々を瞬時に毒ガスで殺害出来る部屋が設けられていた。
    これらの収容所殺害された人々は、900万人にものぼると言われている。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成した。 その集団の中でも、
    最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、800年から1806年
    まで存続した。

    神聖ローマ帝国は、ローマ教皇によって、カール大帝が西ヨーロッパ全域に
    またがる帝国の皇帝として戴冠した時に始まる。 数世紀に渡る歴史の中で、
    神聖ローマ帝国の領土が現代のドイツと重なる時期が何度かあった。
    神聖ローマ帝国は、15157年、改宗に続いて、プロテスタントがドイツで誕生
    した後、カトリックを保護するために力を尽くした。

    最後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は、1806年に退位した。 フランスの
    ナポレオン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は、解体された。

    【1756年の神聖ローマ帝国】
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    【統一ドイツの誕生】
    人類が北ヨーロッパに定住し始めたのは、およそ1万年前、最後の氷河期が
    終わった後のことだ。 約5,000年前には、現代のドイツ語に似た言語を話す
    最初の人々がこの地域に住んでいたと考えられる。 しかし、ドイツという国が
    出来るまでには、それから何千年という年月が掛かった。 1871年になるまで、
    ドイツは、国王や諸侯が治める小さな領邦国家の寄せ集めだった。 これら
    領邦国家の多くは、神聖ローマ帝国の一部でもあったが、国民全員がドイツ語を
    話し、多くの伝統を共有しているとは言え、それぞれがハッキリとした独自性を
    保っていた。

    領邦国家の間には、しばしば戦争が起こり、特に宗教改革後は、それが増加した。
    宗教改革を切っ掛けに、キリスト教の新しい宗派が生まれ、ドイツを、そして、
    ヨーロッパ全体を2つに引き裂いた。 ドイツの領邦国家のうち、プロテスタントに
    改宗した者もあれば、そのままカトリック教会に従う者もあった。

    【1871年のドイツの国境】
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    1871年に、ドイツででは大幅な変化が起きた。 領邦国家の中の強国
    プロイセンの政治家オットー・フォン・ビスマルクが、いくつかの同盟と
    戦争によって、他の国々をまとめ上げた。 こうして出来た統一国家は、
    ベルリンを首都として皇帝ヴィルヘルム1世により、統治された。

    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。
    これは、これまでに世界が経験したことのない悲惨な戦争であった。

    何百万人という兵士と市民がこの戦争で生命を失った。 戦後のベルサイユ
    条約によって、ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に
    割譲させられた。 戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊された
    ものを修復する費用として、多額の賠償金を課せられた。

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    ドイツの現在の首都であるベルリンは、冷戦時代には、この地を巡って
    アメリカを中心とする西側グループと、旧ソ連をリーダーとする東側
    グループが対立していた。 この対立が発展した事件が、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)である。

    ベルリンは、ドイツの北東部にあり、約340万人の人々が住んでいる
    ドイツ最大の都市。 ドイツは、第二次世界大戦に敗れ、戦争に勝った、
    アメリカ、フランス、ソ連の4カ国によって占領された。 東はソ連に、
    西はアメリカ、イギリス等に占領された。 ドイツの首都であった
    ベルリンは、東ドイツの中にあったが、首都であったため、4つの区域に
    分けられて、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連が、それぞれの担当
    区域を管理した。

    ドイツをどのように管理するのかについては、アメリカとソ連は、当初
    から対立していたが、1948年3月20日、ソ連は、アメリカやイギリスの
    主張に反発して、話し合いの場から脱退してしまった。 その後、アメリカ、
    イギリス、フランスの軍隊が東ドイツを通って、西ベルリンへ陸上移動
    する際には、ソ連は、それを検査する権限があると主張し、西ドイツ地域
    からベルリンへ送られて来る郵便や品物を制限した。

    MapGermany

    ソ連によるベルリン封鎖
    1948年、アメリカ、イギリス、フランスが、西ドイツでの通貨改革を
    西ベルリンでも行おうとしている事に対して、ソ連は猛反発し、鉄道や
    道路、河川を通じて西ベルリンを行き来出来ないようにした。 更に、
    ソ連は、西ベルリンに向けての食料、燃料、衣料品、電力の供給も停止した。
    こうして、ベルリンは封鎖された。

    これに対して、アメリカ、イギリス、フランスは、当時約200万人居た
    西ベルリン市民への全ての物資を空輸によって補給した。 ベルリンの
    封鎖が解かれる1949年5月まで、この空輸は約27万回、空輸した物資は、
    総計200万トンを超えたと言われている。 1949年3月、国連の場で
    アメリカとソ連がベルリンの問題について話し合いを行い、5月、1年間
    続いたベルリンの封鎖がようやく解かれた。

    封鎖されている間に、ベルリンでは、東と西に2つの異なる行政組織が
    出来上がった。 1949年3月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ
    (ドイツ民主共和国)が建国された。 そして、この時点で、東と西の
    2種類の通貨が出回っていた。 ドイツは、第二次世界大戦後、西ドイツと
    東ドイツに分断されただけではなく、この事件によって首都ベルリンも
    東西に分割されてしまった。 この一連の出来事を、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)と呼ぶ。

    mdeu010

    東西ベルリンの問題は、ベルリン危機以降も、冷戦の最前線となった。
    1961年には、東西ベルリンの境界線上に、43キロメートルにも渡る
    ベルリンの壁が作られた。 1970年代に入ると、東西ベルリンの緊張関係は、
    和らぎ始め、東ドイツも少しづつ西側に開かれた社会となった。 すると、
    東ドイツでは、社会主義体制に不満を持つ人々が増えて行った。 その後、
    1989年には、東ドイツ市民が西ドイツへ大量に流出し始め、ついに、11月、
    ベルリンの壁が崩され、東西冷戦は終わりに向けて、大きく進んだ。

    1990年に、ドイツが統一した事によって、ベルリンも統一され、統一
    ドイツの首都となった。 その後、しばらくは、分断の影響が強く残って
    いたが、それらの問題も次第に克服され、EU内でのドイツの地位は不動の
    ものとなった。

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    ドイツの企業では、『休暇の最低日数に関する法律』に基づき、社員に最低24日
    (フルタイムで週6日就業の場合)の有給休暇を与えなくてはならないが、実際には、
    大半の企業が約30日の有給休暇を与えている。 ドイツの管理職は、部下に
    有給休暇を完全に消化させることを義務付けられているため、社員は上司が組合
    から批判されないようにするためにも、休暇を全て取らなくてはならない。 しかも、
    休暇中に病気になった場合は、そのことを直ちに上司と人事部に連絡すれば、
    病気だった日数が休暇ではなく『病欠』と認定され、その分の休暇日数が戻って来る
    仕組みとなっている。

    有給の取得には、上司の許可が必要だが、3~4週間の連続した休暇を取ることも、
    ドイツ では全く珍しいことではない。 年末になると、人事部から通知を送り、有給を
    消化するよう促す会社もある。 ドイツの法律では、企業は有給を翌年に繰り越す
    ことを認めなくても良いことになっているため、年次有給の消化は、ドイツ人に
    とっては、かなりの一大関心事とも言える。 

    ドイツでは、この最低24日間の年次有給休暇を労働者の当然の権利として全て
    消化しながらも、企業や社会が日本よりも、よりスムーズに回っている。 ドイツで
    仕事をする際には、如何にして短時間で最大限の成果を上げられるのかに重点が
    置かれており、無駄な作業に関しては、徹底的に省くことが理想とされている。
    このため、仕事上で必要なミーティングなどは、極力短時間で終わらせて、仕事
    よりもプライベートを大切にするライフスタイルが定着している。

    そのためには、『何のための仕事なのか?』という目的意識を社員ひとりひとりが
    常に持って働いていることとなるのだが、逆に、何か仕事を依頼する際には、その
    相手に仕事の必然性を納得させない限り、なかなか着手してくれないことが多い。
    よって、相手に依頼する仕事の優先順位が、極力上位に来るように、常にプッシュ
    し続ける必要性がある。
     
    workstyle1

    ドイツでも、当然ながら、仕事のプロジェクトには、それぞれの目標があるのだが、
    それをより敏速に達成するために、チームリーダーが自ら率先して、誰が、何を、
    どうするのかを決め、チームの一人ひとりがその役割を果たしながら、全員が
    目標に向かって合理的に作業をする。 また、各人の仕事や責任範囲が明確に
    なっているため、それぞれの責任において、敏速に行動出来るのも、ドイツの
    特徴と言えるかも知れない。

    部下が上司を信頼している点も、組織が非常に上手く回っている要因の一つでは
    ないかと思われるが、ドイツでは、年齢や勤務年数よりも、実力が重要視されるため、
    実力のない人間がリーダーになることは、まずない。

    日本企業では、チームリーダーは、年功序列で決めることが大前提となっているため、
    実力が伴わないリーダーが、そのチームを率いてしまうと、プロジェクトが機能しなく
    なることが実は多い。

    日本では、ドイツのように作業の効率性は重視されてはおらず、人事評価の際には、
    成果などではなく、むしろ、長時間労働などの根性論で評価されているケースが
    圧倒的となっているため、実力が伴わない上司に限って、率先して残業ばかりを無理
    強いしていることが多くなっている。 あくまでも、目標を敏速に達成するために働く
    ドイツ人と日本人との決定的な違いは、この点だと言えるであろう。

    また、ドイツでは、例え、信頼しているリーダーであってたとしも、自分と意見が異なる
    場合には、明確に意見を表明することが重要だとされており、その際、立場や年齢は
    関係なく、常に、フラットな人間関係が構築されている。 質問をすることも良いことと
    されており、例え頻繁に質問をしたとしても、丁寧に答えてくれる場合が多い

    この対等な人間関係は、クライアントや顧客であったとしても、同様となっており、
    クライアントがメーカー側に、『こういうの出来る?』と相談するような形となっている。
    日本の場合は、クライアントはお金を支払って頂ける神様であり、意見を述べたり、
    逆らうのはとんでもない話しなのだが、むしろ、これが、ブラック企業を増長させる
    原因の一端となっていることは否めない事実。
     
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    日本は、元々、縦割り社会であるため、常日頃から、年齢や立場といった上下関係を
    強く意識しながら生活をしているが、その上下関係には、能力や実力等は一切関係が
    ないため、自分がトップに立つ日まで、じっと耐え抜くしかない。 その反動なのか、
    能力のない人間が上に立った際には、無意味にふんぞり返ることが多くなっており、
    日本社会に新たな歪みが作られる要因となっている。

    ドイツでは、子供の頃から、家庭でも学校でも自分の意見を表明するように育てられ
    ているが、日本では、自分の意見を持つことすら許されてはおらず、ましてや、それを
    人前で公言するとなると、非国民扱いされても文句は言えないという、暗黙のルールが
    存在している。

    日本とドイツ、共に戦後は焼け野原から出発した筈だが、物事の表面のどうでも良い
    部分しか見ていない日本人には、合理的なドイツ人をもっと見習って、休暇を楽しむ
    心の余裕を持って欲しいところ。

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    ソルブ語は、ドイツ東部のザクセン州とブランデンブルク州にまたがるラウジッツ
    地方を中心に居住するソルブ人の言語で、ポーランド語やチェコ語に近い言語で
    あるため、ドイツ国内にありながら、西スラヴ語に属している。



    ラウジッツは、ソルブ語では、ウジツァと呼ばれており、ゲルマン系とは異なる
    スラブ系のソルブ人が住んでいるため、『ソルビア』とも言われている。
    ソルブ人は、ドイツ国内に住んでいるため、発音や文法、語用のさまざまな
    側面において、ドイツ語からの言語干渉が見られるが、通常、ソルブ人は、
    ドイツ語も話せるバイリンガルなのに対して、ドイツ人でソルブ語を話せる人は、
    非常に稀なため、この周辺のドイツ語には、影響が出ていない。

    ラウジッツ地域におけるソルブ人の歴史は、紀元後500~600年頃、東方から
    スラヴ系の諸族が移動して来たところまで遡ることが出来るが、西からゲルマン系
    諸族の植民が始まり、次第に各地でドイツ語への同化が進んだ。 19世紀末には、
    ソルブ語話者は、15万人を超えていたとされているが、20世紀になってからは、
    ナチス時代の政治的な迫害や第二次世界大戦後のドイツ人この地域への大量
    流入によって、急速に衰退し、現在のソルブ語話者は、多く見積もっても4万人
    以下、日常的な使用者は1万人に満たないとされている。
     
    Siedlungsgebiet

    ソルブ語は、色々な方言から成っているが、大きく分けて、南部の上ソルブ語と
    北部の下ソルブ語の2つに大別する事が出来る。 現在のブランデンブルク州の
    一部である下ソルブ地域では、一部を除き、既に言語自体が消滅の危機に瀕して
    いるが、ザクセン州の一部となっている上ソルブ地域では、現在でも、ソルブ語が
    日常生活で使われている地域がある。

    Bautzen_Ortsschild

    ルターの宗教改革の発祥の地でもある現在のドイツ東部では、宗教改革後、
    プロテスタントが優勢になったが、一部、カトリック教徒がまとまって残った
    地域があり、その一つが、上ソルブ地域のカトリック地域となっているため、
    地元の教会の強力な支援に支えられて、ソルブの言語とアイデンティティが今日まで
    強く保持されている。

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    ジンギスカン(Dschinghis Khan)は、1979年から1980年代前半にかけて活躍した
    旧西ドイツのミュンヘン出身の音楽アーティストグループ。 男女6人組で、
    『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットした。



    1985年に一旦解散したが、2006年からは、20年ぶりに活動を再開している。
    1993年に他界したルイス・ヘンリック・ポンジェッター(Louis Hendrik Potgieter)と
    スケジュールの調整がつかなかった、レスリーを除く、4人にゲストダンサー3人を
    加えた新たなメンバーによる初のライブが、2006年12月17日にモスクワの
    オリンピックアリーナで開催された。 2006年にスティーヴ・ベンダー
    (Steve Bender)が他界し、翌2007年からは、残るエディナ、ヘンリエッテ、
    ヴォルフガングの3人に、新たに7人からなる『遺産(The Legacy)』という
    バックダンス&コーラス集団を加えて活動を続けている。

     

    1979年、旧西ドイツの音楽プロデューサー、ラルフ・ジーゲル (de:Ralph Siegel)と
    経済学者であったベルント・マイヌンガー (de:Bernd Meinunger)が、当時人気を
    博していた旧西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』
    (Rasputin) をモデルとして、『ジンギスカン』という楽曲を作った。 それを
    ヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門でもある『ユーロビジョン・ソング・
    コンテスト』に応募するためにメンバーが集められ、結成したのがこのグループ
    である。

     
     
    6人のうち、ルイスは、企画当初からメンバーとなることが決まっており、
    彼を除く5人はオーディションで選ばれた。 1979年のユーロビジョン、
    ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わり、
    グランプリはならなかった。

    楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、
    後にはグループのメンバーも作曲を手掛けるようになった。

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