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    カテゴリ:西ヨーロッパ > ドイツ

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    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

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    公益財団法人・日本生産性本部がOECDののデータを基に、12月20日に
    発表した結果によると、日本の2016年度の労働生産性は、主要7カ国(G7)の
    中で最低だった。 日本の労働生産性は、時間当たり46.0ドル(約4,700円)で、
    OECD加盟35カ国中20位であった。 日本は前年度から1.2%上昇したものの、
    順位は変わっていない。 データを取得している1970年以降、G7の中で日本は
    最下位の状況が続いている。

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    【労働生産性】
    労働生産性とは、従業員一人当りの付加価値額を示す指標であり、
    「付加価値 ÷ 従業員数」で表される。 投下した労働量(労働時間の量や時間に
    よって算定)とその結果得られる生産量の割合となる。

    日本でも労働時間が以前と比べると短くなったとも言えるのだが、しかし、この
    減少の理由については「労働時間が比較的短い非正規労働者の割合の上昇が
    平均を押し下げて来たため」と指摘している。

    現在、日本の雇用状況は、約4割強が非正規(パートタイマー・アルバイト)
    労働者となっており、年々増加を続けている。 実は、フルタイム社員に限定
    すると日本の1人あたり年間総労働時間は20年以上「2,000時間前後」で横ばい
    となっている。

    日本の1時間あたりの労働生産性は、20位前後で横ばいですから、極端な言い方を
    すれば「フルタイム社員の時間あたり生産性は1980年代から変わっていない」
    という表現も出来てしまう。

    総労働時間が減っているのに生産性が上がっていない理由

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    平均年間総実務労働時間のグラフを見ると一目瞭然だが、正社員の労働時間も
    短縮する動きが広がれば、「労働生産性をあげる一因にもなると考えられる」
    としている。

    レポートによると、日本と比べて、1人あたりの労働生産性と労働時間あたりの
    生産性がいずれも高い国には、デンマークやオランダ、ドイツ、フランス等がある。
    これらの国は労働時間が日本よりも10~20%程度短いが、「短い労働時間で効率的に
    成果を生み出すことで経済的に豊かな生活を実現している」とみられる。

    尚、ドイツでは1日10時間を超える労働は法律で禁止されおり、違反すると罰金が
    科される。 おもしろいのは、この罰金を支払うのは会社ではないという点で、
    最高1万5,000ユーロ(180万円)の罰金は、長時間残業をさせていた部署の
    管理職が、ポケットマネーで支払うということになるのだという。

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    日本でも、率先して無意味な残業ばかりしている上司や労働生産性が極端に悪い
    社員に対しては、何らかのペナルティーがあっても良いと思う。 日本の労働環境の
    最大の問題点は、極端に労働生産性が低い社員に限って、他人を蹴落とす能力だけは
    ずば抜けて高いというところなので、ある程度の生産性の数値を出せない人材は、
    早々に企業からは退職して貰うぐらいの覚悟がなければ、日本の労働生産性など
    何も変わりはしない。

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    ヴェストファーレン条約によりザクソン、バイエルン、ブランデンブルグ、
    プロイセンなど、ドイツの主な領邦国家は支配力を強め、これらの諸侯は、
    ヨーロッパの貿易や領土をめぐる対立において、重要な役割を果たすようになる。
    一方、ハプスブルグ家の領地は『オーストリア』と呼ばれるようになっていたが、
    その権力は次第に下降線をたどっていた。

    18世紀初頭までにホーエンツォレルン家は、北ドイツにあるプロイセン、
    ブランデンブルグ両地域を支配するようになり、無駄のない優れた政治組織と、
    強力で精鋭な軍隊を誇った。 1740年にはプロイセン王国フリードリッヒ2世
    (大王)が、ハプスブルグ家の支配下にあった、豊かな鉱山を有する
    シュレージエンを侵略、占領した。

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    このシュレージエンをめぐる抗争は1756年、オーストリアとプロイセンの新たな
    対立に繋がり、フリードリヒ大王は、オーストリアとその同盟国ロシア、フランス、
    バイエルン、ザクセンに攻撃を仕掛けた。 この7年戦争で大きな犠牲を払った末、
    ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは1763年、講和を申し入れ、
    ブベルトゥスブルグ条約によって、プロイセンのシューレジエン条約によって、
    プロイセンのシュレージエン領有が確定した。 その後、ホーエンツォレルン家は
    北ドイツに版図を広げ、ドイツにおける最大で最強の王国に発展して行った。

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    15世紀になって、『ルネッサンス』と呼ばれる古代の芸術や哲学の復興運動が
    イタリアから伝えられると、ドイツには大きな変化が起こった。 ドイツの新しい
    大学では、ルネッサンス学者たちが強力なローマ・カトリック教会に改革を迫り、
    改革者のひとりであるドイツの聖職者マルティン・ルターは教会の悪習を非難して、
    1521年には破門される。 しかし、北ドイツには改革の呼び掛けに賛同する人々が
    多く、プロテスタント(新教徒)として知られているこれらルターの支持者たちは、
    1520年代にルター派の教会を創設した。 こうして間もなく北ヨーロッパは、
    宗教改革の嵐に包まれることになる。

    1555年には、貴族から農民まで階層を問わず、ドイツの大部分の人々が
    プロテスタントに改宗した。 また、北ドイツの諸侯の中には、宗教改革を理由に、
    カトリック教会の持っている土地を没収する者も居た。 ハプスブルグ家の皇帝
    カール5世は、カトリック教徒であったので、激しい造反に直面、アウグスブルグの
    宗教和議で、ついに諸侯の領地における宗教の選択権を認めた。

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    その後、数十年の間にドイツ、オランダ、スイスでプロテスタントの新宗教派が
    創設された。 これらの宗教はルター派、カトリック派いずれの宗教の儀式も
    拒否した。 また、ローマ・カトリック教会は南ドイツの大半、オーストリア、
    ボヘミア(オーストリア北部に位置する王国)に勢力を盛り返して行った。
    ハプスブルグ家はカトリックだったので、ローマ教会と密接な関わりを持ち
    続っており、1618年、カトリックの王をボヘミアの王位に就けようと企てた。

    ところが、激しい反対が起き、暴動に繋がり、30年戦争の間、ドイツの諸侯は
    互いを攻撃、周辺の諸国はドイツの領地を略奪しようと中央ヨーロッパに進軍、
    プロテスタントと同盟を結んだスウェーデン王国は、ドイツのバルト海沿岸を
    攻撃、フランスはハプスブルグ家と戦うため、ライン川を越えて進撃に出た。

    戦争は1648年、ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの領土を正式に
    承認するヴェストファーレン条約にようやく解決をみる。 こうして
    プロテスタント国家におけるハプスブルグ家の支配は終わったが、神聖ローマ
    皇帝の称号はなおもハプスブルグ家が継いで行った。

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    フリードリッヒ1世とその息子の下、ドイツでは海岸沿いやライン川に面した内陸の
    地域で商工業が発達した。 そこで、地方の労働者たちは、都市に移住し、商人、
    貿易業者、職人として働くようになった。 やがてこれら商業の中心地は発展し、
    豊かになったので、ドイツの諸侯から独立して、自由都市として歩むようになる。

    1241年には、このようないくつかの自由都市の代表が集まって、ハンザ同盟を結成
    した。 ドイツの港町リューベックで設立されたこの同盟には、ブレーメン、
    ハンブルグ、ケルンも入っており、独自に海法および商法体系を発展させ、銀行を
    創設、立法府、法廷、公庫を設けた。 ハンザ同盟の交易基点網は、西はイギリス、
    東はロシアやスカンジナビア半島にまで及んだ。

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    ハンザ都市が栄える一方、諸侯や領主の支配する領地は地方に留まり、依然として
    農業中心であった。 商業がほとんどなく、財政を充実させることが出来ない
    これらの諸侯は、兵士を雇うために税金を課したり、河川や道路の通行税を徴収
    するのにやっきになった。

    1273年、ドイツの諸侯は、ハプスブルグ家のルドルフ1世を国王に選出した。
    ルドルフ1世は、ドイツ南東に位置するドナウ川沿いの公国であったオーストリアを
    侵略し、ハプスブルグ家の領地を広げた。 こうしてハプスブルグ家は、征服や
    政略結婚により、支配地を拡大して行った。

    14世紀には、ドイツ国王であると同時に、神聖ローマ皇帝でもあるカール4世が、
    古くからある伝統を成分化し、『金印勅書』と呼ばれる法律を布告した。 これに
    よって、7人の『選帝侯』に神聖ローマ帝国の選出権を与えることが定められ、
    また、『選帝侯』の領地は分割が不可能とされたため、これら諸侯は権力を増し、
    帝国の中で最も財力のある支配者となって行った。

    1438年にはハプスブルグ家のアルブレヒト2世が皇帝に選ばれ、その後、
    オーストリアや他の公国を支配下に置き、巨大な王朝となったハプスブルグ家が、
    5世紀にも渡り、皇帝位を継いで行くことになる。

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    カール大帝によって創始された王朝が途絶えた後、919年に、フランケンと
    サクソンの諸侯は、サクソンのハンリッヒ1世をドイツの国王に選出した。
    ハインリッヒ1世はドイツの5大諸侯に強力な同盟を結ばせ、その息子の
    オットー1世は王国を東西に拡大して行った。

    優れた戦略家であったオットー1世は、955年、遊牧民マジャール人の侵入を
    防ぎ、965年には、同じく領地の侵略に頭を痛めていた教皇の要請に応じて、
    イタリアに進軍した。 この功労に対し、オットー1世は神聖ローマ帝国の
    帝冠を受け、以後何世紀にも渡りドイツ王国は、同時に神聖ローマ皇帝を
    兼ねるようになる。

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    神聖ローマ帝国の皇位を継承して行ったのは、オットー1世の一族であったが、
    帝国自体は、大小様々な諸侯が各領地を支配していた。 これらの諸侯は
    独自の宮廷、法律、軍隊、そして国王を選出する権限を持っていた。 中央
    集権的な権力のないドイツ国王は、都市から都市へと渡り歩き、領地の小作料に
    よって宮廷の費用をまかなう他なかった。

    1100年代には、ドイツはフリードリヒ1世の下に、短期間とは言え統一される。
    バルバロッサのあだ名で有名なフリードリヒ1世(赤ひげ王)は強く、大胆な
    指導者で、1152年には国王、3年後には神聖ローマ皇帝になった。 軍事力と
    交渉によって、フリードリヒ1世の支配力は、現在のポーランドやハンガリー
    にまで拡大し、その後、野心家であった息子のハインリヒ6世が北イタリアも
    領地に組み込んだ。

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    486年には、フランク族の王クローヴィスがそれまでガリアを支配していた
    ローマ人を破り、北ヨーロッパにフランク王国を建設した。 クローヴィスは、
    キリスト教に改宗したことでも知られている。 キリスト教は中東から
    ヨーロッパに伝えられた宗教であるが、フランク族は宗教上、西欧キリスト
    教会の主座を占めるローマ教皇に服従していたのである。

    クローヴィスの死後、王国は息子たちの間で分割され、勢力は弱まった。
    そこでゲルマン民族の中には、フランク族からの独立を主張する者が多く表れ、
    例えば、北ドイツに勢力のあったサクソン族は、キリスト教に激しく反発した。

    768年にフランク族の支配者となったカール大帝は、サクソン族を破り、中央
    および西ヨーロッパに領地を広げた。 こうして、800年にはローマ教皇レオ3世
    からローマ教皇の冠を授けられ、西ローマ帝国の復活を果たしたが、これは
    かつての西ローマ帝国と性格の異なるものであった。 数年の間にカール大帝は
    ゲルマン民族を統一し、西ヨーロッパにおける戦争や侵略に終止符を打った。

    また、首都アーヘンにて中央集権政治を確立、学校や修道院の建設を命じ、
    教育や学問を奨励した。 こうして進歩的な支配者であったカール大帝の
    監修の下、初めてドイツ語の辞書が編纂された。

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    カール大帝の死後、後継者たちは領地の支配をめぐって争い、843年には、
    孫3人が帝国を三分割することを取り決めたヴェルダン条約を締結した。
    この条約によって、ルートヴィッヒ2世はライン川東岸を含む東フランクを、
    ロタールはライン川西岸の中部フランクを、カール2世(禿頭王)は西フランク
    (後のフランス王国)を、それぞれ獲得することになった。

    9世紀になると、東方からの侵略者が東フランク王国に襲撃を企てるようになった。
    ドイツの諸侯は、王国を守るのに手柄があるごとに、王国から称号や領地を
    授けられ、これらの諸侯はやがて、ドイツ内に独立した公国をつくって行った。
    その中でも最も強大なサクソン、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、
    ロートリンゲンなどがあった。

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    ドイツに人が定住するようになったのは、今から約65万年前のことであると
    考えられている。 だが、これら初期の人々については、殆んど何も分かって
    いない。 約10万年前になると、狩猟生活をしていたノルマン系の人々が、
    中央ヨーロッパ北部の森林や川の流域に移り住んだ。 現代になってその骨格は、
    デュッセルドルフ近郊のネアンデルタル谷で発見され、発見場所に因んで
    ネアンデルタール人と名付けられた。

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    紀元前400年までには、ケルト人が現在のドイツ南部と西部を含む中央ヨーロッパに
    住み着いて行った。 ケルト人は、農業を営み、家畜を飼い、農耕や戦闘用の
    鉄器を作り、また、鉱石から金、銀、銅を精製していた。

    【チュートン人】
    紀元前100年頃には、北ヨーロッパのチュートン人が、ケルト人を圧迫しながら
    ドイツに移住して行った。 同じ頃、イタリア半島を拠点としながら、勢力を
    伸ばしていたローマ帝国の軍隊が、ライン川西岸のケルト人を征服した。 この
    ライン川は後に、ローマ帝国の属州ガリア(現在のフランス)と、ゲルマニア
    (ローマ人はライン川東岸にあるチュートン人の領土をこう呼んだ)との境を
    成す事になる。

    ゲルマニアの森林が深いため、ローマ人はチュートン人の農地や村落を征服する
    事が出来ないので、ライン川とドナウ川との間に要塞を築き、チュートン人が
    ガリアやイタリアに侵入するのを防いだ。

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    しかし、紀元前4世紀までに、ローマ帝国はチュートン人の攻撃によって次第に
    衰退し、395年、帝国は東西に分断された。 これを機にゴート族やフラン族等の
    ゲルマン民族は攻撃を仕掛け410年、ゴート族はイタリアに進撃を仕掛し、首都の
    ローマを焼き払った。 ローマ皇帝は軍事力強化のため、ローマ軍にゲルマン兵を
    雇い入れ、ゲルマン人の指揮官の下で働かせた。 しかし、このような指揮官の
    ひとりであったオドアケルが、467年ローマに反逆し、首都を攻撃すると共に、
    皇帝を廃して、自らイタリアの支配者となった。 こうして西ローマ帝国は崩壊し、
    フランク族等のゲルマン民族がライン川を渡って、ガリアにあるローマ領を占領する
    ようになる。

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    【ベルリン】
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    ドイツ北東の平原にある人口346万人のベルリンは、1200年代にベルリンとケルン
    (ライン川沿いにあるケルンとは無関係)という2つの街に分かれていた。
    これらはシュプレー川の両岸に位置し、それぞれが商業の中心地であったが、
    1397年に合併し、1701年にはプロイセン王国の行政上の中心地となる。 1871年に
    ドイツ帝国が建設されて以来1945年まで、ベルリンはドイツの首都であった。

    第二次世界大戦でドイツが敗北した後、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、
    ソ連がベルリンを占領する。 後にベルリンは東西に分断され、東ベルリンは
    共産主義である東ドイツの首都となり、西ベルリンは本土から切り離されはしたが、
    西ドイツの一部として残った。

    東ドイツの共産党政権は、国民が西ドイツに逃亡するのを防ぐため、1961年に
    西ベルリンの周りに強固な壁を造った。 1989年に東ドイツ政府が国境を開くと、
    ベルリンの壁は壊され、ほどなく2つのドイツは再統合、連邦政府を西ドイツの
    ボンからベルリンに戻す計画が始まった。

    第二次世界大戦の爆撃でベルリンは大被害を被ったものの、いくつかの建物は戦災を
    免れた。 例えば、国立オペラ劇場や国立図書館は18世紀にまで遡ることが出来、
    帝国議会は19世紀後半にドイツの議会場として建築された。 西ベルリンのメイン
    ストリート、クーアフェルテンダム通りの近くには、ヴィルヘルム皇帝記念教会が
    たっている。 爆撃で一部破壊されたこの教会の残骸は、戦争をいつまでも忘れない
    ようにとそのまま残された。

    ベルリンは製造業の中心地でもある。 エレクトロニクス、機械、化学製品、
    鋼鉄、衣類、繊維、ゴム製品などが作られており、シュプレー川の工業港は北海、
    バルト海と運河で結ばれている。 ベルリンは重要な民間空港、軍事空港を備え、
    また、北ヨーロッパにおける鉄道網の中枢を成している。

    【その他の都市】

     1800年代に新しい産業が始まると、地方から仕事を求めてやって来る人々に
    よって、ドイツの都市は急速に発展した。 第二次世界大戦中には、多くの都市の
    中心部が損害を被ったが、戦後の復興によって大都市は再建された。 現在8,057
    万人の人口のうち、85%が都市に住んでいる。 これはヨーロッパでも随一の都市
    集中率である。

    【ハンブルグ】
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    人口170万人のハンブルグは、エルベ川のほとりに位置する北西ドイツの都市
    である。 810年にカール大帝により建設された時には『ハマブルグ』と呼ばれて
    いた。 12世紀には、北ヨーロッパの貿易共同体であるハンザ同盟に加盟し、
    これが解散した後も、ドイツの主要港として、『自由ハンザ都市ハンブルグ』
    という歴史的名称を名乗り続けている。

    ハンブルグの工業地帯では船舶、鉄製品、鉄鋼品、化学製品、光学機器、材木などが
    製造されている。 工業地域が広範囲に及び、また、大規模な港の設備があるにも
    関わらず、年の半分以上は緑で覆われ、公園も多い。

    【ミュンヘン】
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    バイエルン州の州都であるミュンヘンは、人口123万人で、芸術的な活気であふれた
    都市で、コンサートホール、劇場、美術館などは市の後援を受けている。 また、
    ドイツの巨大なビール産業の中心地であり、年に1度のビール祭り『オクトーバー・
    フェスト』は、世界各地からやって来る人々で賑わう。 この他、ミュンヘンでは
    自動車、飛行機、電子機器などが製造されている。

    【ケルン】
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    ドイツ最古の都市のひとつである人口100万人のケルンにまず移り住んだのは、
    古代ゲルマン民族のウビィー人であった。 現在ケルンで最も有名な建造物は、
    完成までに600年もの年月を要したケルン大聖堂である。 主な産業は化学製品、
    繊維、自動車、チョコレートであり、有名な香水『オーデコロン(ケルンの水)』は
    18世紀にこの地で初めてお目見えした。

    【フランクフルト】
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    ハプスブルグ家出身の多くは、フランクフルトの大聖堂で戴冠式をあげた。
    また、マイン川沿いのこの街は、ドイツで始めて選挙によって議員が選出された
    地でもある。 商工業の中心地であるフランクフルトには、皮革製品、薬剤、
    化学製品の工場があり、金融の中枢として、ドイツの中央銀行や証券取引所の
    本部が置かれている。 また、毎年開かれる国際書籍市には、多くの作家、
    編集者、出版業者が訪れている。

    【ドレスデン】

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    10世紀に開発が始まった人口50万人のドレスデンは、後にドイツの強力な国家
    ザクセン王国の首都となる。 美しい教会や人目を引く宮殿があるこの都市は、
    1800年代後半に製造業の中心地となった。 しかし、1945年の空襲により、
    建物のほとんどが瓦礫と化してしまい、現在建築家たちが教会や記念碑の再建に
    務めている。 また、近くにある街マイセンでは、1713年にヨーロッパ初の
    白色硬質磁器が作られた。

    【ライプツィヒ】
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    ドレスデンから北東およそ100km行ったところには、人口50万人のライプツィヒが
    ある。 河川や鉄道で巧みに連携されているこの街は、かつてはドイツの出版業の
    中心地であった。 現在は、多くの見本市が開催され、世界中の製造業者が訪れて
    いる。 ライプツィヒの工業には鉄鋼、化学製品、プラスチック、繊維、衣類など
    がある。

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    戦後の焼け野原から再出発をした筈の日本とドイツ。 共に勤勉な国民性で
    知られているが、日本とドイツとでは、労働に対する国民の意識に天と地程の
    非常に大きな隔たりがある。
     
    ドイツは世界の主要国の中でも最も労働時間が短く、日本よりも有給休暇の
    取得率が遥かに高い。 それにも関わらず、ドイツでは高い経済パフォーマンスを
    維持することに成功している。 OECDによると、ドイツの2014年の労働生産性
    (労働時間あたりの国内総生産)は、64.4ドルで、日本の41.3ドルを約56%も
    上回っている。
     
    ドイツの労働生産性が日本を大幅に上回っている理由は、ドイツの労働時間の
    短さである。 ドイツの例は、労働時間が短くても経済成長を維持し、社会保障
    システムによって富を再分配することが可能であることを示している。 逆に、
    残業が半ば強制となっている日本企業では、ダラダラと作業をすることが日常的に
    なっている分だけ、労働生産性が低くなっている。

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    ドイツでは、徹底した合理主義により、2014年のドイツでの労働者1人あたりの
    年間平均労働時間は1,371時間であった。 これは、OECD加盟国中で最も短く、
    日本の1,729時間と比べると、約21%も短い。 日本よりも358時間、OECDの
    平均よりも399時間、韓国よりも753時間も短いことになる。

    ドイツ企業では、短い時間内で大きな成果を上げる社員が最も評価され、逆に、
    成果が出せないのに、残業をする社員は全く評価されない。 このため、
    ドイツでは、長時間労働による自殺や過労死、鬱うつ病は日本ほど大きな社会問題
    とはなっていない。 ドイツでは、例え、暇な時でも、無理に作業をしている
    振り等しなくても良い。
     
    EUの中でも、1人勝ちとも言われているドイツは、景気が非常に良いため、失業率が
    4.2%となっており、EU加盟国の中では、チェコに次いで2番目に低い。 南部の
    物づくり企業を中心として、技能を持った人材が恒常的に不足しているため、
    ある企業が長時間労働をさせていたことがメディアで報じられると、優秀な人材が
    集まらなくなる。

    ドイツ人は、仕事とプライベートのバランスを非常に重視している。 このため、
    企業側では、優秀な人材を確保するためにも、労働条件が悪いという評判が立たない
    ように非常に神経を使う。 日本のように、仕事のために家庭を顧みない等という
    事は、ドイツではあり得ない。
      
    ドイツでは、1日10時間を超える労働は法律で禁止されており、労働条件を監視する
    政府機関が時折、労働時間を抜き打ちで検査し、1日10時間を超える労働を組織的に
    行わせている企業に対しては、最高1万5,000ユーロ(約172万5,000円)の罰金を
    科すこととなっているが、その場合、長時間労働を行わせていた企業の管理職に
    対して、自腹で罰金を支払うこととなっている、 このため、ドイツ企業の
    管理職は、繁忙期でも社員が10時間を超えて仕事をしないよう、細心の注意を行う。
     
    【有給休暇をすべて取得した人の割合の国際比較】
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    ドイツの企業では、法律によって最低24日間の有給休暇を社員に取らせるよう
    義務付けられているが、大半のドイツ企業では、社員に30日間の有給休暇を
    与えている。 更に、ドイツ企業で働く人の大半は、毎年この30日間の有給
    休暇を全て使い切る。
     
    ドイツでは、一般の社員が、2~3週間のまとまった休暇を取得しても全く問題は
    起きないどころか、休暇中に業務メールをチェックする義務もない。 毎年、
    社員が交代で休みを取るため、ねたまれることもない。 誰もが休暇を取るのは
    当然の権利だと考えており、休暇に対して、後ろめたい気持ちなどは毛頭ない。
    日曜日や祝日の労働は禁止されている他、土曜日にオフィスで働く場合には、
    上司の許可が必ず必要となっている。
     
    有給休暇と病休は、ハッキリと区別されており、ドイツ企業では、法律によって
    社員が病気やけがで働けなくなった場合、最高6週間までの給料を支払う。
    つまり、毎年30日間の有給休暇の他に、6週間まで病休を取ることが出来る。

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    ドイツ南部にあるコンスタンツで、2017年7月30日未明、ナイトクラブで34歳の男が
    銃を発砲し、1人が死亡、警察官1人を含む4人が負傷した。 男は警察との銃撃戦で
    重傷を負い病院に搬送されたが、病院で死亡した。

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    ドイツの警察発表によると、30日午前4時30分(日本時間同日午前11時30分)頃、
    コンスタンツのクラブで男が発砲し始め、1人が射殺、3人に重傷を負わせた。
    その後、男はクラブから逃走したが、警察と銃撃戦となって撃たれ、搬送先の
    病院で死亡した。 男の銃撃により、警察官1人が負傷している。 警察では、
    男は単独犯と見ているが、動機などは不明だという。

    ドイツでは数日前にも、北部ハンブルクで大型のナイフを持った男が買い物客を
    襲い、1人が死亡、6人が負傷する事件があったばかり。

    出典:AFP

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    ドナルド・トランプ米大統領は2017年5月30日、アンゲラ・メルケル独首相が
    米国を批判したことを受け、ドイツの貿易戦略や防衛費について新たな批判を
    展開し、欧米間の外交上の溝が更に深まる動きとなった。

    先週、大統領就任後、初の公式外遊に臨んだトランプ大統領は、ベルギー・
    ブリュッセルと伊シチリア島でそれぞれ開催された北大西洋条約機構(NATO)と
    先進7か国(G7)の首脳会議において、各国から非難を浴びせられ、挙句の
    果てには、モンテネグロの首相を押し退けて、写真撮影の最前列に出るという
    暴挙により、世界中から非難をされて欧州を去っていた。



    今回の会談で、特に欧州各国首脳が失望している点は、トランプ大統領が2015年に
    締結された温暖化対策の国際的な枠組みである『パリ協定(Paris Agreement)』に
    対する支持への意向表明を拒んだこと、またNATOの集団自衛権の支持を公に表明
    しなかったところで、特に、ドイツのメルケル首相は、会談中にも非常に強い不満を
    感じていたようだ。

    つい最近まで欧州諸国の中では米国と最も密接な関係にあったドイツだが、両国の
    溝の修復は難しく、メルケル首相は、会議後直ちにドイツ国民に対し、『米国はもう
    以前のように頼りに出来ない』とトランプ氏をバッサリと切り捨てていた。



    これを受けてトランプ大統領は、5月30日早朝、自身のTwitte投稿を用いてドイツに
    対し、大西洋間貿易の条件の再交渉や、防衛費引き上げを要求。 『米国はドイツに
    対して巨額の貿易赤字がある。 その上、ドイツはNATOや軍事への拠出が少な
    過ぎる。 米国にとってとても悪いこと。 これから変わっていくことになる』
    と自ら書き込んだ。

    これに対してドイツ当局は、欧州連合(EU)加盟国という立場から、貿易に関して
    米国と二者協議は出来ないこと、また軍事費を大幅に増加させることも時期尚早
    であると主張した。

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