多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    カテゴリ:西ヨーロッパ > フランス

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

    FrenchandIndianWar

    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    エマニュエル・マクロン大統領は2017年7月27日、密航業者の粗悪なボートで
    地中海を渡ってヨーロッパへ向かうアフリカ人の主要な出航地となっている
    リビアに難民申請手続きを行う施設を今夏中にも設置する考えを明らかにした。

    【リビア「統一政府」のシラージュ首相、マクロン仏大統領、民兵組織「リビア国民軍」指導者のハフタル将軍】
    0024586812

    マクロン大統領は、「難民資格がない人びとが常軌を逸した危険を冒すのを
    回避するための拠点づくり」としているが、これは、今週リビアの二大対立勢力が
    パリで停戦と選挙実施に向けた合意を受けたもので、5年に及ぶリビアの内戦に
    終止符を打ち、今後の大量の移民の流出を食い止める目的があるものと思われる。

    国連傘下の国際移住機関によると、今年に入ってから10万人以上がリビアから
    粗悪な船で地中海を渡ろうとし、2,300人以上が水死したという。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    在位73年間の後、1715年にルイ14世が亡くなると、曾孫ルイ15世がわずか5歳で
    即位した。 この時、フランスの勢力は絶頂期で、ヨーロッパ情勢を左右する
    程だった。 フランスは世界最大の殖民地帝国のひとつとなった。 帝国の支配を
    支えたのは、商船の大船団だった。 フランス語は、ビジネス、科学、外交の
    国際語になった。 フランスの作家は、平等と市民権という新思想でヨーロッパに
    知れ渡った。

    しかし、同時に、フランスの労働者は重税と農作物の不作で生活が苦しかった。
    腐敗した官吏は、職責を悪用して私腹を肥やした。 ルイ15世は、これらの問題に
    取り組もうとも、フランス経済を状況の変化に合わせようともしなかった。
    大きくなった中産階級は貴族たちと一緒になって、政府を改善し、王政へもっと
    自分たちの声を反映させることを要求した。

    351arge

    1774年に王位を継いだルイ16世は、いくらか改善を試みたが、行政官たちの反対に
    あった。 国王による政府の掌握力は、急いでしなければならない政治、財政の
    改革に失敗したために弱まった。 ヨーロッパの他の強国との貿易競争にも
    立ち遅れて、フランス帝国は弱くなった。 田舎では激しいデモが起き、民衆は
    代表議会を要求した。 このため、ルイ16世は1788年に三部会を招集した。

    三部会は、1615年以来、有名無実となっていた。 三部会は僧侶(第一身分)。
    貴族(第二身分)、中産階級(第三身分)の代表で構成されていた。 1789年に
    三部会の第1回会議が開かれた後、第3身分の代表たちは、国民議会を組織して、
    新憲法を制定した。 ルイ16世がこの新しい議会を解散しようとしたため、
    パリ市民は、7月14日にバスチーユ牢獄を襲って占領してしまった。 こうして
    フランス革命が始まった。 革命はパリで続き、地方にも広がった。 国王の
    軍隊はデモ隊の人数よりも少なく、圧倒されてばかりいた。

    一方、国民議会はフランスの政府と社会を全面的に変革する法律を制定した。
    議会は、貴族所有の土地を取り上げ、腐敗した地方の裁判官や徴税官を辞めさせた。
    議会はまた、ローマ・カトリック教会の所有地も取り上げた。 ローマ教皇は、
    この措置ににはもちろん、フランスでの他の変革にも腹を立てた。

    フランスは、国王に忠誠である王党派と国民議会の権限を守る共和派とに分裂した。
    フランスはまた、革命に反対するイギリスとハプスブルグ家のオーストリアの軍事
    干渉を受けた。

    ハプスブルグ軍は1792年春、フランスに侵略し、フランスを負かすと、国内では
    またも民衆が反乱を起こし、ルイ16世とブルボン王朝を倒した。 ルイ16世と
    オーストリア人の王妃マリー・アントワネットは1793年に処刑された。 こうして
    国民議会は第一共和制を打ち立てた。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アンリ4世は1610年に暗殺され、9歳のルイ13世が王になった。 幼い国王を
    助けたのは、強力な相談相手の大枢機卿リシュリューだった。 リシュリューは、
    国王に権力を集中するために、多くの城を破壊して土地を差し押さえた。

    国王は、裁判所を監視したり、徴税したりする代表を任命した。 フランスの
    船や商人による北アメリカとアフリカの港との貿易が定着すると、フランスの
    収入は増えた。 この地域との商業関係が、後に海外植民地をつくる基盤となった。

    リシュリューはまた、オーストリアのハプスブルグ王家が勢力を伸ばすのに
    対抗して、オランダ、スウェーデンと同盟を結んで、1618年から1648年まで続いた
    三十年戦争に勝つことが出来た。 戦後、フランスはライン川沿いに新しい領土を
    獲得し、国境地帯を強化した。

    しかし、フランス国王たちは、間もなく不評をかうようになった。 重税と農作物の
    不作で、農村地帯の生活は苦しくなっていた。 ルイ14世が即位した1643年には、
    反乱が広まっていた。 これはフロンドの反乱と呼ばれ、国王軍によってパリで
    鎮圧された。 ルイ14世は、貴族や台頭して来た中流階級が強力になり過ぎた
    ために反乱が起きたと知って、親政政治を始めた。

    francophone

    ルイ14世は、フランスを世界で最も豊かで強大な国家にしようとした。 保護貿易
    政策がとられているフランス経済は強くなった。 新しい道路と運河が地方同士を
    結び付けた。 1700年に、フランス軍は領土を拡張し、ルイ14世の孫をスペインの
    王位に就けるため、スペインとオランダに攻め入った。

    ルイ14世の軍事作戦は成功したが、戦費のためにフランス王国の財源は乏しく
    なった。 更にルイ14世は、ユグノーの権利を奪い、結局は信仰の自由の保障を
    止めてしまった。 その結果、商人や貿易商という重要な階級を形作っていた
    数十万のユグノーたちは、ヨーロッパの他の土地や北アメリカに移住して行った。
    このため、フランス経済は更に弱くなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フランスの人口ち経済は15世紀の後半になって、長年の疫病、飢え、戦争の
    痛手から回復した。 シャルル7世の後継者ルイ11世は、フランス貴族の力を奪い、
    租税を徴収し、王領を広げ、常備軍をつくった。

    平和と国王たちの経済政策によって、16世紀初頭には既に、商人や銀行家の中産
    階級が育っていた。 ルネサンス(文芸復興運動)がイタリアで起こり、フランソワ
    1世がフランス人の芸術家を奨励したので、フランスにも広まった。

    カトリック教に対する新教徒(プロテスタント)の宗教改革も、16世紀初頭に、
    スイスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを通してフランスにもたらされた。
    フランスのカルヴァン派新教徒ユグノーは、多くの追随者を獲得した。

    90753cbf04f

    フランスの国王とカトリック教徒は、ユグノーを王権への脅威とみなした。 国王は
    ユグノーを滅ぼそうと企て、16世紀後半には、宗教をめぐる内戦が始まり、沢山の
    死者が出た。 ローマ・カトリック教会は1572年、パリで新教徒の群集を攻撃し、
    2,000人も殺した。

    フランソワ1世の3人の孫は、母親であるアンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシス
    の強い指示で次々と王位に就いた。 最年少の孫が1589年、直径の継承者を残さ
    ないで暗殺されると、聖王ルイ9世の子孫でユグノーの指導者のアンリ・ド・
    ナヴァールが王位を継ぐ。

    これが、ブルボン朝第1代国王のアンリ4世で、新教徒の王を嫌うカトリック教徒を
    なだめるために1593年、カトリックに改宗し、1598年には信仰の自由を認めた。

    フランスは、アンリ4世時代に、再び力を盛り返した。 国王は道路と運河を建設、
    平民の税金を軽くし、貴族の土地所有を減らした。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1328年にフィリップ4世の後継者、シャルル4世は、後継ぎが居ないままに
    死去した。 シャルル4世のいとこ、ヴァロフ家のフィリップが王位に就き、
    フィリップ6世としてヴァロワ朝の第1代となる。 ところが、イギリス王
    エドワード3世は、フランスのカペー朝フィリップ4世の直系だから、イギリスと
    フランスの両方を統治する資格があるとフィリップ6世の王位継承に意義を
    申し立てて、実力行使に出た。 エドワード3世は1337年、ノルマンディーに
    侵攻し、100年以上続く戦争に火がついた。

    百年戦争が始まると、イギリスの勝利が続いた。 1348年にマルセイユで発生
    した黒死病(ペスト)のため、フランスの戦力は低下した。 港に入る船に
    住むねずみが、ヨーロッパ中に疫病を伝染させていたのだ。 数年間でフランスの
    住民の3分の1近くが疫病で死んだ。

    14世紀後半は、不安、病気、戦争の時代だった。 物価は高騰し、兵士たちは、
    群れを成してフランス国内で略奪を働いた。 フランス国王ジャン2世は、
    イギリスに捕らえられ、フランスはその釈放のため巨額の身代金を支払った。
    もうひとりの国王シャルル6世は、精神異常をきたしながら、42年間も王位に
    就いていた。

    1415年に、イギリス国王ヘンリー5世が、カレー港近くのアザンクールで
    フランス軍を破った後、フランスの大半はイギリスの手に落ちた。 1422年に
    シャルル6世を継いだシャルル7世は、領土を持たない国王だった。 イギリス軍が
    田舎を占領している間、都市から都市へ移動ばかりしていた。

    athgtake

    フランスが悲惨のどん底に落ちていた1420年に、ロレーヌ地方の農家の娘、
    ジャンヌ・ダルクが現れる。 天使の教えに従ったと主張して、シャルル7世の
    宮廷に来たジャンヌは、百年戦争の行方を変えた。 カトリック教会と王に
    対するジャンヌの献身的な愛情は、フランス兵を奮い立たせ、ジャンヌ自身も
    軍隊を率いて、1429年に、オルレアンを包囲していたイギリス軍を粉砕した。

    オルレアンの戦いの後、イギリスの侵略軍は次々に破れ、海岸まで押し戻された。
    だが、ジャンヌは、イギリス軍に捕らえられて処刑されたが、フランスの抵抗を
    表すひとつの象徴となった。

    最後にシャルル7世は、イギリス軍を殆んどフランスから追い払い、百年戦争は
    1453年に終わった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

    1604094

    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

    imggfd1

    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

    poegffty52

    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

    071951205b8

    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フランス北部の平野を流れるセーヌ川沿いにあるパリは、10世紀以来、フランスの
    首都となって来た。 パリとその周辺地域を合わせた首都圏の人口は、国全体の
    約6分の1の870万人となっている。 中央政府の所在地であるパリは、国の金融と
    教育の心臓部でもある。

    市内には世界最大のルーヴル美術館など、美術館が沢山あり、芸術家や観光客を
    引き付けている。 一般のパリ市民は、観光産業、銀行業、コミュニケーションなど
    サービス産業に従事している。

    gfhj5af1

    パリ市内の多くの建物は、フランス帝国が絶頂期にあった18世紀と19世紀に建て
    られたもの。 19世紀にフランスの芸術家たちは、狭くて混雑の酷いパリの街路を
    幅の広い大通りに設計を変えた。

    これらの魅力ある素晴らしい大通りは、ショッピング、娯楽、住宅などの様々な
    建造物を保護するために、摩天楼のような高層ビルは、市の中心部から離れた
    ところにしか建設が認められていない。

    パリでは人口と商業活動が極狭い地区に集中しているので、ところによっては、
    混雑と騒音が甚だしい。 交通混雑と環境汚染がパリ中心部で深刻な問題となって
    いる。 政府は、企業や新しく建設するビルは、パリを取り巻く郊外に移す努力を
    している。

    seespots

    【その他の主な都市】
    フランス第二の都市は、リヨン(人口約120万人)で、2000年以上に渡って
    重要な都市となって来た。 ローヌ川の流域のちょうど真ん中にあるリヨンは、
    フランスの化学産業の中心地となっている。 また、繊維と自動車の生産でも
    重要な街でもある。 1983年には、パリとリヨンを結ぶフランス最初の超特急
    TGVが開業した。

    マルセイユ(人口90万人)は、フランスの最も重要な港であり、フランス第三の
    都市である。 自然の良港なので、約2600年前に古代ギリシャが植民地化した。
    市内には移民が大勢住み付き、世界中の船が港に停泊している。 色とりどりの
    ビル、活気溢れたが街路、ヤシやシュロが縁取る大通りもマルセイユの魅力と
    なっている。

    トゥールーズ(人口35万人)は、南西部のガロンヌ川沿いにある。 フランス
    航空産業の本拠地となっている。 また、ヨーロッパの宇宙計画に参加している
    企業も進出している。 エレクトロニクス、化学、食品加工の会社もある。 市の
    中心部の建物は、珍しい色付きの石材を使って建てられている。

    地中海の港町ニース(人口34万人)は、イタリア国境際、アルプスの麓にある。
    夏には、フランス内外から大勢の観光客が、美しいホテルや広々とした浜辺、
    余り暑くないからりとした気候を求めてやって来る。 ニースには、香水、
    オリーブ油、石鹸、セメントの工場もある。 ニースは、リヴィエラの中心都市
    となっている。

    フランスの各地方の中心都市となっている他の都市は、大きな川の流域で発展して
    来た。 例えば、ボルドーは、アキテーヌを流れるガロンヌ川沿いにあって、
    フランスワインの中心である。 ライン川沿いのストラスブールは、ヨーロッパの
    他の地方との河岸貿易の拠点となっている。 イギリス海峡に面した海岸には、
    カレー、ルアーブル、シェルブールの港がある。 これらの港には、出入りする
    漁船、貨物船、客船によって、イギリスと結び付いている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ヨーロッパでは、日本人とドイツ人は、良く似ていると比較されることが多い
    のだが、日本人とフランス人の場合はどうなのだろうか? 余り共通点がない
    ようの思われる両民族なのだが、真逆とまでは行かないが、ほぼそれに近い。

    仕事に対する情熱に関しては、完全に真逆と言っても過言ではなく、フランス語
    には『頑張る』という表現が存在しないことからも分かる通り、あくまでも無理を
    しないのがおフランス流の働き方。 上司よりも先に帰宅することに関しては、
    誰も罪悪感を持っていないばかりではなく、仕事が暇な時には、日本人のように
    わざわざ仕事をしている振りをしなくても良いため、ストレスという観点から見た
    場合でも、フランスの職場は、かなり楽かも知れない。

    有給休暇の消化率は、常にほぼ100%、職場でも常に次のバカンスの話ばかりして
    いるフランス人から見た日本の職場は、一体どうなっているのだろうか? ろくに
    有給休暇すら取れず、その有給を消化出来ないのであれば、企業側がその休暇を
    買い取るべきなのだが、そのような気の利いたシステムを導入している日本企業は
    非常に少ない。

    gjnhic3

    仕事に関する情熱ばかりではなく、特に違うのは、転職に関する意識で、何十年も
    同じ職場に居座り続けるのは、フランスではあり得ない。 少しでも給料や条件が
    良い企業があれば、さっさと乗り換えるのがフランスでは常識なのだが、日本の
    場合は、転職自体が悪とされてしまうため、転職でキャリアアップなどという
    考え方は、そもそも存在しない。 むしろ、転職の回数だけ、社会を裏切って来た
    と拡大解釈をされてしまうため、日本企業での転職ほど命取りなものはない。

    フランスでは、仕事などではなく、愛情や家族に重きが置かれているため、皆定時
    ピッタリで帰宅し、その後は、それぞれの自分の人生を楽しむのが普通なのだが、
    そのため、フランスでは先進国の中でも、最も出生率が高く、先進国では深刻に
    なるつつある人口減少社会に一石を投じている。 総じて、時間的な余裕があれば、
    当然、私生活も幸福になれる訳で、日本のように、会社に人生まで奪われてしまう
    社会の方が異常だと言える。

    特に、40代を過ぎてからの日本社会の扱いは酷く、転職出来ない、恋愛出来ない、
    更には、人生を謳歌出来ないと、3重苦の様相を呈しているのだが、それでも誰も
    文句ひとつすら言わずに大人しくしていられるのは、洗脳教育の賜物としか言い様が
    ない。 政治もダメで企業はブラックばかり、アジアの中でも衰退が激しい日本の
    未来に楽観的な見方をするのは容易ではないが、日本人も少しはフランス人を
    見習って、自分の人生を歩んで見た方が良いと思う。

    600400

    また、フランスでは、黙っていれば、文句も異議も無い、最悪、何も考えていない
    バカと思われることもあるため、非常に自己主張が強い国民性と言える。
    基本的に、フランス人は、非常におしゃべりで、相手の意見を全て否定するのが
    フランス流の話し方であり、単にはいはいと何でも相手を受け入れることしか
    しない日本人の場合は、フランスでは、人の話を聞いていないとしか思われない。
    逆に、日本人の場合は、人前で自己主張どころか、自分の意見を述べただけでも
    平気で村八分にされたりと、自己主張やコミュニケーション方法に関しては、完全に
    真逆な思考回路を持っていると考えて間違いない。

    フランス人は、総じて、余り細かいことには固執せずに、おおらかな性格だと
    言われているのだが、それは、日常の生活で不便を感じることが多く、我慢強い
    ためと思われる。 日本の場合は、今日注文した品物が明日届かなければ、即座に
    クレームとなるため、輸送業界のブラック化が叫ばれて久しい。 余り害にならない
    程度の不便さであれば、むしろ、忍耐力を鍛えるという意味でも、歓迎すべき事柄
    なのではないだろうか。

    フランスでは、しっかりと仕事さえしてれば、政治家が不倫や略奪愛をしたとしても
    誰も特に口出しをしないのだが、日本の場合は、政治家がまともに仕事をしなく
    とも、誰も何も言わないため、悪徳政治家にとって、日本はかなりの天国となって
    いる。 むしろ、そのような場合にこそ、国民が政治家に対して、目を光らせる
    べきなのではないだろうか?

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    つい最近、フランスでは、史上最年少の大統領が誕生したばかりだが、その妻は
    何と!24歳も年上の元中学校の恩師ということでも話題を振りまいた。

    現在のフランス共和国大統領は、フランソワ・オランド氏だが、その妻とは、
    婚姻関係のない属に言う『事実婚』となっている。 それでも外交上、何の支障も
    なく大統領としての仕事を全うしているのだが、元々、オランド氏の前妻も事実婚
    だった政治家のセゴレーヌ・ロワイヤル氏で、前回の大統領選挙でサルコジ氏に
    敗れている野心家。

    f4d92335639

    その前妻と現在の妻との確執が取り沙汰される中、オランド氏は、41歳の女優
    ジュリー・ガイエとの関係を暴露された。 どうやら2年も前から関係があったと
    言われているのだが、これには、大統領自身も『プライベートな事情だ』として
    態度を保留している。 一方のフランス国民は、『70%が政治とは関係ない』と
    至って冷静。 フランスでは約50%が離婚を経験しているため、不倫に関しては
    非常に寛容な国。

    c61d77473

    その前の大統領であるニコラ・サルコジ氏は、ヨーロッパで最もスキャンダラスな
    大統領とまで言われたが、42歳の美人環境大臣との不倫騒動がインターネット上を
    飛び交った後、最終的には、3度目の結婚相手として、スーパーモデルで歌手の
    カーラ・ブルーニを選んだ。 そのカーラ自身も年下の歌手との不倫の果てに
    サルコジ氏と夫婦となった。 

    219381361a

    その前の大統領であるジャン・シラク氏は、金銭的なスキャンダルの他にも、
    日本人の愛人の間に子供がいた。 更にその前のミッテラン大統領は愛人、子供達
    との二重生活を公然と続けていたが、国民からは熱い支持を受けていた。

    総じて、フランスでは、恋愛も政治も一流でなければならないという逸話がある
    のかは分からないが、こと恋愛に関しては、かなり寛容な国民性であることは
    間違いない。 日本では、フダブル不倫や、本妻と愛人との二重生活を送っている
    大臣が許される訳もなく、即座に退陣を要求されるに違いない。 寛容性も必要
    なのだが、不倫に関しては、倫理に反しているため、ある程度の罰則は必要なの
    ではないだろうか?

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ