多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    カテゴリ:西ヨーロッパ > フランス

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    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

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    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

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    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

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    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

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    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

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    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

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    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

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    フランス北部の平野を流れるセーヌ川沿いにあるパリは、10世紀以来、フランスの
    首都となって来た。 パリとその周辺地域を合わせた首都圏の人口は、国全体の
    約6分の1の870万人となっている。 中央政府の所在地であるパリは、国の金融と
    教育の心臓部でもある。

    市内には世界最大のルーヴル美術館など、美術館が沢山あり、芸術家や観光客を
    引き付けている。 一般のパリ市民は、観光産業、銀行業、コミュニケーションなど
    サービス産業に従事している。

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    パリ市内の多くの建物は、フランス帝国が絶頂期にあった18世紀と19世紀に建て
    られたもの。 19世紀にフランスの芸術家たちは、狭くて混雑の酷いパリの街路を
    幅の広い大通りに設計を変えた。

    これらの魅力ある素晴らしい大通りは、ショッピング、娯楽、住宅などの様々な
    建造物を保護するために、摩天楼のような高層ビルは、市の中心部から離れた
    ところにしか建設が認められていない。

    パリでは人口と商業活動が極狭い地区に集中しているので、ところによっては、
    混雑と騒音が甚だしい。 交通混雑と環境汚染がパリ中心部で深刻な問題となって
    いる。 政府は、企業や新しく建設するビルは、パリを取り巻く郊外に移す努力を
    している。

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    【その他の主な都市】
    フランス第二の都市は、リヨン(人口約120万人)で、2000年以上に渡って
    重要な都市となって来た。 ローヌ川の流域のちょうど真ん中にあるリヨンは、
    フランスの化学産業の中心地となっている。 また、繊維と自動車の生産でも
    重要な街でもある。 1983年には、パリとリヨンを結ぶフランス最初の超特急
    TGVが開業した。

    マルセイユ(人口90万人)は、フランスの最も重要な港であり、フランス第三の
    都市である。 自然の良港なので、約2600年前に古代ギリシャが植民地化した。
    市内には移民が大勢住み付き、世界中の船が港に停泊している。 色とりどりの
    ビル、活気溢れたが街路、ヤシやシュロが縁取る大通りもマルセイユの魅力と
    なっている。

    トゥールーズ(人口35万人)は、南西部のガロンヌ川沿いにある。 フランス
    航空産業の本拠地となっている。 また、ヨーロッパの宇宙計画に参加している
    企業も進出している。 エレクトロニクス、化学、食品加工の会社もある。 市の
    中心部の建物は、珍しい色付きの石材を使って建てられている。

    地中海の港町ニース(人口34万人)は、イタリア国境際、アルプスの麓にある。
    夏には、フランス内外から大勢の観光客が、美しいホテルや広々とした浜辺、
    余り暑くないからりとした気候を求めてやって来る。 ニースには、香水、
    オリーブ油、石鹸、セメントの工場もある。 ニースは、リヴィエラの中心都市
    となっている。

    フランスの各地方の中心都市となっている他の都市は、大きな川の流域で発展して
    来た。 例えば、ボルドーは、アキテーヌを流れるガロンヌ川沿いにあって、
    フランスワインの中心である。 ライン川沿いのストラスブールは、ヨーロッパの
    他の地方との河岸貿易の拠点となっている。 イギリス海峡に面した海岸には、
    カレー、ルアーブル、シェルブールの港がある。 これらの港には、出入りする
    漁船、貨物船、客船によって、イギリスと結び付いている。

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    ヨーロッパでは、日本人とドイツ人は、良く似ていると比較されることが多い
    のだが、日本人とフランス人の場合はどうなのだろうか? 余り共通点がない
    ようの思われる両民族なのだが、真逆とまでは行かないが、ほぼそれに近い。

    仕事に対する情熱に関しては、完全に真逆と言っても過言ではなく、フランス語
    には『頑張る』という表現が存在しないことからも分かる通り、あくまでも無理を
    しないのがおフランス流の働き方。 上司よりも先に帰宅することに関しては、
    誰も罪悪感を持っていないばかりではなく、仕事が暇な時には、日本人のように
    わざわざ仕事をしている振りをしなくても良いため、ストレスという観点から見た
    場合でも、フランスの職場は、かなり楽かも知れない。

    有給休暇の消化率は、常にほぼ100%、職場でも常に次のバカンスの話ばかりして
    いるフランス人から見た日本の職場は、一体どうなっているのだろうか? ろくに
    有給休暇すら取れず、その有給を消化出来ないのであれば、企業側がその休暇を
    買い取るべきなのだが、そのような気の利いたシステムを導入している日本企業は
    非常に少ない。

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    仕事に関する情熱ばかりではなく、特に違うのは、転職に関する意識で、何十年も
    同じ職場に居座り続けるのは、フランスではあり得ない。 少しでも給料や条件が
    良い企業があれば、さっさと乗り換えるのがフランスでは常識なのだが、日本の
    場合は、転職自体が悪とされてしまうため、転職でキャリアアップなどという
    考え方は、そもそも存在しない。 むしろ、転職の回数だけ、社会を裏切って来た
    と拡大解釈をされてしまうため、日本企業での転職ほど命取りなものはない。

    フランスでは、仕事などではなく、愛情や家族に重きが置かれているため、皆定時
    ピッタリで帰宅し、その後は、それぞれの自分の人生を楽しむのが普通なのだが、
    そのため、フランスでは先進国の中でも、最も出生率が高く、先進国では深刻に
    なるつつある人口減少社会に一石を投じている。 総じて、時間的な余裕があれば、
    当然、私生活も幸福になれる訳で、日本のように、会社に人生まで奪われてしまう
    社会の方が異常だと言える。

    特に、40代を過ぎてからの日本社会の扱いは酷く、転職出来ない、恋愛出来ない、
    更には、人生を謳歌出来ないと、3重苦の様相を呈しているのだが、それでも誰も
    文句ひとつすら言わずに大人しくしていられるのは、洗脳教育の賜物としか言い様が
    ない。 政治もダメで企業はブラックばかり、アジアの中でも衰退が激しい日本の
    未来に楽観的な見方をするのは容易ではないが、日本人も少しはフランス人を
    見習って、自分の人生を歩んで見た方が良いと思う。

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    また、フランスでは、黙っていれば、文句も異議も無い、最悪、何も考えていない
    バカと思われることもあるため、非常に自己主張が強い国民性と言える。
    基本的に、フランス人は、非常におしゃべりで、相手の意見を全て否定するのが
    フランス流の話し方であり、単にはいはいと何でも相手を受け入れることしか
    しない日本人の場合は、フランスでは、人の話を聞いていないとしか思われない。
    逆に、日本人の場合は、人前で自己主張どころか、自分の意見を述べただけでも
    平気で村八分にされたりと、自己主張やコミュニケーション方法に関しては、完全に
    真逆な思考回路を持っていると考えて間違いない。

    フランス人は、総じて、余り細かいことには固執せずに、おおらかな性格だと
    言われているのだが、それは、日常の生活で不便を感じることが多く、我慢強い
    ためと思われる。 日本の場合は、今日注文した品物が明日届かなければ、即座に
    クレームとなるため、輸送業界のブラック化が叫ばれて久しい。 余り害にならない
    程度の不便さであれば、むしろ、忍耐力を鍛えるという意味でも、歓迎すべき事柄
    なのではないだろうか。

    フランスでは、しっかりと仕事さえしてれば、政治家が不倫や略奪愛をしたとしても
    誰も特に口出しをしないのだが、日本の場合は、政治家がまともに仕事をしなく
    とも、誰も何も言わないため、悪徳政治家にとって、日本はかなりの天国となって
    いる。 むしろ、そのような場合にこそ、国民が政治家に対して、目を光らせる
    べきなのではないだろうか?

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    つい最近、フランスでは、史上最年少の大統領が誕生したばかりだが、その妻は
    何と!24歳も年上の元中学校の恩師ということでも話題を振りまいた。

    現在のフランス共和国大統領は、フランソワ・オランド氏だが、その妻とは、
    婚姻関係のない属に言う『事実婚』となっている。 それでも外交上、何の支障も
    なく大統領としての仕事を全うしているのだが、元々、オランド氏の前妻も事実婚
    だった政治家のセゴレーヌ・ロワイヤル氏で、前回の大統領選挙でサルコジ氏に
    敗れている野心家。

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    その前妻と現在の妻との確執が取り沙汰される中、オランド氏は、41歳の女優
    ジュリー・ガイエとの関係を暴露された。 どうやら2年も前から関係があったと
    言われているのだが、これには、大統領自身も『プライベートな事情だ』として
    態度を保留している。 一方のフランス国民は、『70%が政治とは関係ない』と
    至って冷静。 フランスでは約50%が離婚を経験しているため、不倫に関しては
    非常に寛容な国。

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    その前の大統領であるニコラ・サルコジ氏は、ヨーロッパで最もスキャンダラスな
    大統領とまで言われたが、42歳の美人環境大臣との不倫騒動がインターネット上を
    飛び交った後、最終的には、3度目の結婚相手として、スーパーモデルで歌手の
    カーラ・ブルーニを選んだ。 そのカーラ自身も年下の歌手との不倫の果てに
    サルコジ氏と夫婦となった。 

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    その前の大統領であるジャン・シラク氏は、金銭的なスキャンダルの他にも、
    日本人の愛人の間に子供がいた。 更にその前のミッテラン大統領は愛人、子供達
    との二重生活を公然と続けていたが、国民からは熱い支持を受けていた。

    総じて、フランスでは、恋愛も政治も一流でなければならないという逸話がある
    のかは分からないが、こと恋愛に関しては、かなり寛容な国民性であることは
    間違いない。 日本では、フダブル不倫や、本妻と愛人との二重生活を送っている
    大臣が許される訳もなく、即座に退陣を要求されるに違いない。 寛容性も必要
    なのだが、不倫に関しては、倫理に反しているため、ある程度の罰則は必要なの
    ではないだろうか?

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    フランス大統領選挙決選投票の結果、エマニュエル・マクロン氏が66.1%、
    マリーヌ・ルペン氏が33.9%で39歳のマクロン氏がフランス史上最も若い
    大統領として当選した。

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    マクロン氏はパリのルーブル美術館の中庭に集まった支持者を前に演説し、
    『選挙を通じて怒りや不安を表明したすべての国民の声を尊重して行く』と述べ、
    経済の立て直しや社会の格差の解消に取り組む姿勢を強調した上で、『世界は
    フランスが自由を守ることを期待している。 EUを立て直すために大きな役割を
    果たさなければならない』と述べ、EUとの関係を強化して行く考えを示した。

    しかし、選挙で敗北したルペン氏も極右政党の候補としてはこれまでで最も多い
    票を獲得し、EUや移民政策に対する国民の強い不満を反映した形となった。
    また、労働者や若者の間では、マクロン氏が現在のオランド政権の経済相として
    自由競争を推進して来たことに不信感が根強く、7日から8日にかけてパリなど
    少なくとも8つの都市でマクロン氏に抗議するデモが行われ、一部が警察と衝突
    する事態にも発展した。

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    マクロン氏は今月中旬に新大統領に就任する予定だが、激しい選挙戦を通じて
    分断が広がった国民の融和をいかに進めるかが大きな課題となる。 一方、
    ルペン氏は『フランスが直面する多くの課題を前にマクロン氏が成功することを
    祈っている』と述べ、敗北を認めた。

    EUとの関係を重視するマクロン氏の勝利したことで、市場ではEUがさらに混乱
    する事態は避けられたという受け止めが広がっている。 また、多様な社会の実現や
    国際協調を掲げるマクロン氏がフランスの大統領になることで、アメリカのトランプ
    政権の発足などを受け、世界に広がる自国の利益を優先する動きにも歯止めを掛ける
    ことになるのか注目されている。

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    一方で、ルペン氏も国民戦線の候補としては、これまでで最も多い1千万を超える
    票を獲得して、フランス国内で高まるEU統合や移民の受け入れへの国民の不満を
    反映した形となり、マクロン氏は大統領として、こうした不満を解消して行けるか
    どうかが問われることとなる。

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    一方、マクロン氏が妻に選んだのは、元高校教師の女性ブリジット・マクロンさん。
    しかも、彼女は現在64歳で、マクロン氏とは実に25歳の年齢差がある。 その
    馴れ初めは、マクロン氏が15歳の頃まで遡る。 高校教師をしていたブリジット
    さんに猛烈アタックをし、17歳の時にプロポーズ。 両親から反対され、パリの
    学校に転校までさせられているが、結局、18歳の時に交際をスタート。 ブリジット
    さんが離婚してから、2007年に見事ゴールイン。 マクロン氏は当時29歳だった。

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    フランス語は、ラテン語から形成された言語で、大部分の常用語は、撥音的に2音節
    だが、音韻変化の過程で、ラテン語の音頭音節とアクセント音節のみが残ったため、
    こうなったと言われている。 しかし、新しい概念を言い表すことが必要となる場合には、
    そのつど、ラテン語に適当な語を求め。、語尾だけをフランス語風に単純化して、
    多音節語を作る。 こうした、2音節以下の短い常用語と数音節からなる長めの
    専門用語という語彙の多様性が、フランス語に豊かな表現力を与えている。

    また、フランス語は美しい響きを持つ言葉としても有名。 その秘密は、単語それ自体が
    固有のアクセントを持たない点に求められる。 フランス語は通常、リズム・グループと
    いって、意味的なまとまりを持った数語(通常5~6音節、長くても8音節を超えない)を
    一息に発音するが、アクセントは、その最後の音節に落ちる。 適度な単調さとそれを
    被るアクセントとの組み合わせが、フランス語に落ち着きと絶妙のリズムを与えている。

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    更に、独特の響きを持つ母音の働きがある。 例えば、鼻母音は、母音の後に
    鼻子音nが続く場合には、そのnを発音せずに、代わりに母音の呼気の一部を鼻腔に
    送って発音する。 現在フランス語には[ɑ̃][ɔ̃][ɛ̃][œ̃]の4つの鼻母音がありますが、
    それぞれの母音の鼻腔における共鳴音がnという子音に取って代わった訳で、
    これが深くて柔らかい響きをフランス語に与えている。 また、脱落音のeといって、
    アクセントを受けない位置にある母音はeは、多く無強勢音に弱まり、かつ、リズム・
    グループの中では、消失する。 これもまた、フランス語に軽やかな響きを与えることに
    大きく関わっている。



    【フランス語の今】

    グローバリゼーションの進行する現在、フランスにいやおうなく英語が押し寄せている。
    しかし、英語をフランス語に言い換え、自分達の言葉の純粋性を保とうとする努力が
    官民を問わずに払われている。 ある統計によれば、高級紙ル・モンドには、
    165語に1語の割合でしか外来語が混じっていない。 脱落性のeが頻繁に省略されて、
    耳障りな子音の連続が増えたが、4つの鼻母音の区別があいまって、 [ɑ̃]と[ɔ̃]の
    中間の鼻母音ひとつで済まされる傾向が現れている。

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    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた若者2人が
    変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、フランス全土に広がり、
    死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、ヨーロッパ
    中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、スペインや
    イタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど、
    かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ諸国を始め、中東、アジアからの移住が
    本格化した。

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    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、戦後は
    自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足があった。
    政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに対しては、ほぼ無制限に
    滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりもあまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労目的の移民
    受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働条件や劣悪な環境の
    地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、政治的問題に発展する
    ことを恐れたことがあると言われている。

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    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに1万フラン
    (約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。 1981年、ミッテラン
    大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の権利の確立が保障されたが、
    その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の縮小や、1993年には改定移民法、
    国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の保護も大幅に制限された。 また、
    1997年の移民法は、滞在許可証の更新を認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、移民たちと
    フランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、3K(きつい、汚い、
    危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか貰えない。 にも関わらず、移民達が
    自分達の仕事を奪っていると考えるフランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした
    風潮の高まりが、大きな社会問題となって来ている。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】


    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国として
    スタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に七月革命が
    起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて中小の市民層が
    支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を起こした。 ここに
    再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業革命や
    鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。 外国にも、
    クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を進めるが、1871年に
    プロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】

    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと手を結び、
    ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が始まると、
    フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。 1939年に第二次
    世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領した。 これに対抗して、
    ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内ではレジスタンスによる抵抗運動が
    続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・ゴールは、
    アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると共に、ヨーロッパ
    経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から移民を
    巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が起こり、
    政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、注目されている。

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    【百年戦争とユグノー戦争】

    1328年にカペー朝が絶えると、バロア朝が起こった。 これに対して、カペー朝の血を
    引くイギリス国王エドワード3世が、王位継承を主張して、1339年にフランスに攻め入った。
    これが百年戦争の始まりである。 1429年、ジャンヌ・ダルクが現れてイギリスの支配下に
    あったオルレアンを解放。 これに力を得たフランス軍は、1453年にイギリス軍を破り、
    百年戦争は終わりを告げた。

    15世紀末からフランスは、イタリアに何度か侵入し、領土を広げると共に、イタリアの
    ルネッサンス文化を移入した。 一方、16世紀中頃、フランスにはキリスト教
    プロテスタントのカルバン派(ユグノー)が広まり、カトリック教徒との間で国を二分する
    ユグノー戦争(1562年~1598年)が起こった。 やがて、優勢となったアンリ・ド・ナバルが、
    カトリックに改宗しアンリ4世としてブルボン朝を開いた。

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    【絶対主義王政の確立とフランス革命】

    アンリ4世の後、ルイ13世とルイ14世の時代に、中央集権化が進み、絶対王政の最盛期を
    迎えた。 ルイ14世は、外国との貿易を進め(重商主義)、強力な常備軍を整え、フランスの
    国力を高めた。 18世紀後半には、教会や絶対王政を批判するボルテールや、法の
    あり方を論じたモンテスキューら啓蒙思想家が現れ、社会体制を批判した。 ルイ16世の
    時代に、財政危機や凶作等から民衆の不満が高まり、1789年、王政が廃止され、共和制が
    成立した。 しかし、政局が安定しない中、1799年、ナポレオンがクーデターを起こし、
    1804年に皇帝となった。 ナポレオン1世は、強力な軍事力を元に、ヨーロッパ各地に
    遠征した。 しかし、1812年のモスクワ遠征に失敗したのを切っ掛けに、エルバ島に
    流された。 1815年には、再び軍を起こすが、イギリス軍に敗れて、セントヘレナ島へ
    流された。

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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属するクロマニヨン人が
    住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃から、フランスには、
    鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した地域は『ガリア』と呼ばれている。
    紀元前58年から、ケルト人の指導者ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、
    紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が支配する
    ようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を起こし、キリスト教に
    帰依する。 メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、
    フランク王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海におよぶ
    地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今のフランスに
    あたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で農業技術が発展し、
    土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、大領主に忠誠をつくして
    保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立ったカペー朝は、キリスト教の
    権威を支えに、中世の封建制度を確立した。 11~12世紀には、ロマネスク様式の
    教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の教会が各地に建てられた。 この頃、
    都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

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