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    カテゴリ:西ヨーロッパ > オランダ・ベルギー

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    反乱軍の勝利に抵抗し、スペイン軍は、1576年にアントウェルペンを略奪した。
    ベルギーを含む全ネーデルランドは、カトリックもプロテスタントも協力して
    スペインからの独立を決意した。 まず、内部の宗教的な対立を解決する必要上、
    1576年、各州の代表達は、ゲント盟約を結び、宗教の自由を法的に定めた。

    1577年、ネーデルランド諸州は、満場一致で、フェリペ2世が全スペイン軍を
    撤退させて、宗教的自由を認めない限り、スペイン側の新しい総督、
    オーストリアのヨハンを認めないと宣言した。 フェリペはこの条件に同意した。
    しかし、各州の連合は短命に終わった。 主にカトリック教徒の多い南部諸州の
    指導者達は、北部諸州を支配下に収めたカルヴァン主義者達に対して、根強い
    不信感を持っていた。 1579年、南部のカトリック系諸州のいくつかが、アラス
    同盟を組織してスペイン王の権威を受諾した。 南部諸州の分裂は、2、3週間後、
    北部諸州がスペインからの独立を宣言するに至って、ますます深くなった。

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    1580年代には、新任のネーデルランド総督アレッサンドロ・ファルネーゼが、
    ネーデルランド諸州での宗教的分裂を利用して、ゲント、ブリュッセル、
    アントウェルペンの3市を征服した。 3市のいずれにもフォルネーゼは、
    プロテスタント達が自発的にその都市を出て、北に移住することを認めた。
    しかし、スペインの北部諸州を再占領しようという試みは成功せず、北部諸州は、
    ネーデルランド独立連合諸州を名乗るに至った。 これが、後のオランダ
    である。

    独立連合諸州の産業は繁栄し、オランダのいくつかの港湾都市は間もなく、
    交易の中心地としてのアントウェルペンの地位を奪った。 その間に、スペインは、
    オランダとの戦争の経費を調達するため、南部諸州に重い課税を課したので、
    諸州の経済状態は、悪化した。

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    【戦争の被害】
    こうして、ネーデルランド南部諸州は、オランダとは異なった道を歩むこと
    となり、これが、現在のベルギーの成立に繋がった。 ベルギー領域は、
    スペイン系ハプスブルグ家の領土として残り、1633年、国王フェリペ4世の
    統治下に入った。 フェリペ4世は、30年戦争(1618~1648)の最終段階で、
    ベルギー領域を戦乱に巻き込んだ。 フランスは、オランダ等と協力して、
    最終的にスペイン軍を敗北させた。

    この勝利によって、オランダは、戦後の平和条約で有利な条件を獲得した。
    スヘルデ河口を含むブラバンド州都フラマン州の一部は、オランダに与えられた。
    オランダは、地域の商業上の優位を確保するため、アントウェルペンの港を
    封鎖し、ベルギー領域の経済は、更に衰退した。 30年戦争が終わっても、
    領域内のフランスとスペインの敵対関係が続いた。

    17世紀の後半、フランスは、ベルギー領域を南部から少しづつ併合して行った。
    1678年、フランスは、イーペルとゲントの両都市を占領した。 1697年、
    ライスワイク条約によって、フランス軍のベルギー占領は、最終的に集結した。
    50年間、フランスとスペインの戦場となったベルギー南部の広い地域は、廃墟と
    なってしまった。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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    1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
    ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
    代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
    ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
    この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
    影響力は衰えた。

    1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
    代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
    掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
    ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
    これを鎮圧した。

    1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
    カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
    1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
    植民地等、広大な領地を継承するに至った。

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    【カール5世とカルヴァン主義】

    カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
    交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
    ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
    植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
    この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

    カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
    これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
    大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

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    この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
    始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
    スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
    しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

    16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
    呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
    ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
    厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
    アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
    組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
    カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

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    14世紀頃、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルグの3国を合わせた地域は、
    ネーデルランド(低い土地)と呼ばれていた。 1369年、フランドル伯の後嗣
    マルグリードが、フランス王の息子のブルゴーニュ(現在のフランス東部)領主と
    結婚した。 これにより、フラマン地域は、ブルゴーニュ家の統治下に置かれる
    ことになった。 マルグリードの夫も、その後継者となった息子も、フラマンの
    政治にはそれほど関わらなかった。

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    ところが、3代目のブルゴーニュ公フィリップ善良公は、ネーデルランドの政治に
    積極的な役割を演じた。 1419年から1467年まで続いたフィリップの長い統治
    期間に、領土は南と東に広がり、ブラバント、エイノー、ナミュール、
    リュクサンブール、アントウェルペンの諸州を含むようになった。 これらの
    諸州は、単一の国家になった訳ではないが、ブルゴーニュ公の領土として緩やかに
    結ばれていた。

    フィリップは、自分の権威を集中するために、1465年、各州の代表者を
    ブリュッセルに招集した。 この集会は、後のオランダとベルギーの国民議会の
    前身である。 フィリップは、自分の臣下からなる大評議会に、ネーデルランド
    諸州の司法と財政を委任した。 この変革によって、各州の持っていた権限は、
    大幅に奪い取られた。 フィリップの息子のシャルル豪胆公は、1467年に父の跡を
    継いで、ブルゴーニュ公となった。

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    シャルルは、領土を拡大するために、フランス等周辺諸国と絶えず戦争をした。
    戦争費用をまかなうために、重い税金が課された。 シャルルの侵略的行動に
    憤慨した周辺諸国との戦いが続き、シャルルは、1477年に戦死した。

    シャルルの死後、フランスは、ブルゴーニュ家の領土を次々占領し始めた。
    フランスによる占領を避けるために、ネーデルランド各州の代表者達は、
    シャルルの娘で20歳になるマリアの継承権を支援した。 その見返りとして
    マリアは、フィリップ全良公が、かつて奪った各州の権利の一部を返還した。
    マリアはまた、ネーデルランド議会が、議会自身の意志で会議を開くことに
    同意した。

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    現在ベルギーになっている地域では、いくつもの先史時代の遺跡が発見
    されている。 それによれば、この地域の初期の住民の大部分は、農業と
    牧畜に従事していたようである。 西暦前3000年頃までに、東と北から侵略と
    移住が繰り返されて、この地域の人々の生活様式を変えてしまった。 新来の
    人々の一部は、金属加工に熟練していた。 その後、ヨーロッパ北部から
    ケルト人と呼ばれる人々が来て、死者を火葬にして、遺灰を骨壷に収める
    風習を広めた。

    西暦前およそ2000年頃までには、ケルト系の人々がこの地域に住むように
    なっていた。 その中でも、ベルガエ人は、よく知られている。 オランダ
    北部では、ケルト系とゲルマン系の両文化の接触は、ごく普通に行われ、西暦前
    1世紀には、ゲルマン系の民族が現在のフラマン地域圏に入って、ケルト系の
    人々と婚姻関係を結んだ。 それに対して、南部(現在のワロン地域圏)は、
    殆ど完全にケルト系のままだった。

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    【ローマ人の支配】
    西暦前1世紀、優秀な戦士だったベルガエ人は、ローマ帝国の軍隊と戦った。
    この帝国は当時、イタリアから北に向かって領土を広げていた。 西暦前
    58年~51年に掛けては、ローマの将軍、ユリウス・カエサル(ジュリアス・
    シーザー)の率いる軍団が、当時ガリアと呼ばれていたヨーロッパ北部の広い
    地域を征服した。 ローマ人は、やがて、ベルガエ人を服従させ、ベルギカ州を
    建設した。 この地域は、現在のベルギーから、北方のライン川まで広がって
    いた。

    ローマ人は、ベルギカ州内に軍隊の野営地を設置し、広い道路網を建設した。
    ベルギカの住民たちは、税金を支払い、また、兵士を提供した。 軍隊に食料を
    提供するために、ローマ人は大規模な農場を作り、穀物の収穫量を増やした。

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    ベルガエ人は、ローマの統治にやすやすと適応し、ローマ人の使っていたケルト語に
    取り入れられた。 西暦2世紀には、ベルギカ州内の多数の水路沿いに産業と交易が
    栄えた。 現在、いくつかの都市等には、ローマ時代の遺跡に残っている。
    しかし、4世紀の終わり頃には、ローマ政府内の様々な問題のために、帝国の
    防衛が弱体化し始めた。 ゲルマン系の民族グループの内、特に中央ヨーロッパ
    から来たフランク人がベルギカ州内のローマの本拠地を攻撃して、奪い取った。

    この頃までに、ローマ人は、キリスト教を国教として採用しており、この宗教は、
    ヨーロッパの他の地域にも広がり始めた。 ベルギカ州内のローマの支配力は、
    5世紀初期には、更に弱くなり、また、北海の高潮が、スヘルデ河口沿いの低地に
    洪水となって侵入した。 更に、奥の内陸部は、余りにも沼地が多く、農業や
    定住や防衛に適さないため、ローマ軍は、北の前哨戦から撤退して行った。

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    ベルギーは、西ヨーロッパにある高度に都市化された小さな国であるが、この国の天然の
    国境は、北海だけである。 北海は大西洋の一部で、ベルギーの西の海岸に接している。
    北海は、大西洋の一部で、ベルギーの東部は、ドイツ、および、ルクセンブルグと国境を
    接している。 ベルギー南部は、フランスと長い国境線で接している。 国土の面積は、
    約3万1,000キロ平方メートルで、これは、九州の5分の4よりもやや小さい。

    ベルギーの国土は、地形上3つに分けられる。 海岸と内陸の低地帯、中央の高地帯、
    そして、アルデンヌ地域で、高度は、この順に高くなる。 低地域は、フラマン地域圏と
    ほぼ重なっている。 中央の高地帯は、ブリュッセル近郊から始まり、南方のサンブル川と
    ミューズ川の方に広がっている。 アルデンヌ地域は、国土の南東部で森林が多く、
    面積は、国土の3分の1にあたる。 この地域はワロン地域圏の一部である。

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    低地域は、北海沿岸の白い浜辺と低い砂丘に始まる。 この砂丘は、満潮の時に海水が
    陸地に流れ込むのを防ぐ働きをする。 砂丘の背後にはポルターが広がる。 ポルタート
    とは、堤防に囲まれて干拓された湿地で、その堤防はダイクと呼ばれている。 ポルターに
    侵入した余分な水は、水車でポンプを回して汲み出す。 ブルッヘは、フラマン地域圏でも
    最も古い都市のひとつだが、ポルターの上に築かれている。 低地帯は、肥沃な粘土質の
    土壌で、農業と牧畜が盛んに行われている。

    内陸部には16km程入ると、地面はゆるやかに隆起して、海抜21mから49mに達する。
    この地域は、ライエ川、スヘルデ川、デメール川から灌漑水を利用出来るので、農業が
    盛んに行われている。 フラマン地域圏の大都市ゲントは、農業と繊維生産の中心地
    である。 低地域の北部は、ケンペンラント(カンピーヌ)と呼ばれている。 ここは、沼沢地と
    樹木の多い丘陵地から成っている。 ヨーロッパの重要な港で、工業の中心地でもある
    アントウェルペンは、このケンペラントにある。

    中央高地の高度は、49mないし、198mで、比較的小さな都市が散在しているが、
    ブリュッセルとリエージュの周辺は、最も都市化が進んでいる。 中央高地には何本もの
    河川が流れており、流域の土壌は肥沃で農業に向いている。

    サンブル川とミューズ川のつくる渓谷が、中央高地とアルデンヌとの境界線となっている。
    アルデンヌの森林は、石灰岩の高地を覆っており、この地域の平均的な海抜は305mだが、
    場合によっては、610mを超える。 国内で最も高い地点は、ドイツとの国境に近い
    ボトランジュ山で、海抜694mに達する。 この地域の人口密度は比較的低く、小さな村落が
    多い。

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    ベルギーは、フランスとドイツに挟まれており、国として成立したのは、
    1830年である。 国名は、古代にここに定住したケルト人の一派
    『ベルガエ人』に因んでいる。 この地域は、西暦前50年頃以降、ローマ、
    フランク、スペイン、オーストリア、フランス、オランダ等の勢力に次々と
    制服された。 2度に渡る大戦の際には、ドイツの攻撃を受け、占領された。

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    この国には、フラマンとワロンという2つの大きな地域圏がある。 2つの
    地域の大きな違いは、言語である。 フラマン地域圏は、北部と西部にあり、
    ここに住んでいるのは、オランダ語(フラマン語)を使用している。
    そのうちの多くは、フランス語も知っている。 ワロン地域圏は南部にあり、
    ここの人々は、日常生活にフランス語を使用しているが、オランダ語も
    話せる人もいる。 また、ワロン地域圏の中には、ドイツ語を使用している
    グループもある。 外国に支配されていた時期が長かったにも関わらず、
    それぞれの地域圏に住む人々は、自らの歴史と文化に強い誇りを持ち
    続けている。

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    人々は、信仰と生活の上でカトリック教会と固く結びつき、教会は、
    いくつもの政党に強い影響力を持っている。 カトリック教徒ではない
    人々は、非宗教的な政党に所属している場合が多い。 これらの内部事情
    にも関わらず、近代と現代のベルギーは、ヨーロッパの経済的統合を目指す
    上で指導的な役割を果たして来た。 EU(欧州連合)の政策決定の本部は、
    ベルギーの首都に置かれている。 ベルギーは、EU加盟国として大きな
    市場に販路を持ち、また、EUに投下される財源から一定の助成を受けて
    いる。 これらの利点によって、ベルギー国民は高い水準に達することが
    出来た。

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    オランダの主要産業は、工業となっており、全輸出量の7割を工業製品が
    占めている。 代表的な企業としては、電機メーカーのフィリップス社、
    石油のロイヤル・ダッチ・シェル、化学工業のユニリーバ社等があり、
    世界市場で大きな業績をあげている。 また、サービス業が発達していて、
    全人口の約60%の人が働いている。 その中でも、輸送業は非常に重要な
    産業となっている。

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    オランダでは、ヨーロッパの物資の流通上、中心となる位置にある。
    アムステルダムの半径500キロ以内には、西ヨーロッパの主な商業、工業都市が
    殆どあり、更に半径1,000キロ以内には、ヨーロッパの大都市がほぼ収まる。 

    国内とヨーロッパ各地は、高速道路や鉄道網で結ばれており、ヨーロッパ内の
    貨物の8割は、トラック、鉄道等で運ばれているが、ヨーロッパの各地を結ぶ
    トラック輸送の約3割は、オランダの輸送会社が行っている。

    また、ヨーロッパの3大河川である、ライン川とマース川が、オランダと流域の
    各国を結ぶ水運の大動脈となっている。 それに加えて、5,000キロにも及ぶ
    細かい血管のような運河等の水路が、国内輸送に役立っている。

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    世界一の貿易港であるロッテルダム港は、ライン川の河口にあり、ドイツの
    ルール工業地帯ち海外とを結ぶ港として栄えました。 近年は、ヨーロッパ
    諸国の統合、発展に合わせて、『ユーロポート』計画が進めあれており、更に
    大きく便利な港となっている。

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    ヨーロッパ諸国から世界へ輸出される全ての貨物のうち、65%以上が
    ロッテルダム港を経由している。 オランダの空の玄関口であるスキポール
    空港は、ヨーロッパ諸国の空の輸送の要となるよう、現在更に拡張工事が
    進められている。 このようにオランダは、陸海空の流通大国となっており、
    日本から全ヨーロッパに輸出される物資の約35%は、オランダを経由している
    ため、ヨーロッパでも有数の物流大国となっている。

    【お勧めの一冊】


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    1600年、オランダのリーフデ号が大分県に漂着した。 日本とオランダの
    交流は、この時から始まる。 徳川家康は、リーフデ号の乗組員を熱くもてなし、
    船長に貿易の許可を与え、オランダは、平戸に商館を設立した。 これが後に
    長崎の出島に移され、以後、オランダは、そこを拠点に貿易を幕末まで続けた。

    リーフデ号の乗組員ウィリアム・アダムズは、日本に帰化し、三浦按針と名乗り、
    徳川家康の外交顧問として仕えた。 出島は、鎖国時代の約200年間、日本の
    世界へのただ一つの窓だった。 ヨーロッパの文化や学問(蘭学)は、出島を
    通して日本へともたらされた。

    19世紀、島内には住居や料理部屋、蔵、番所など49棟もの建物があったが、
    明治時代になり、鎖国が解かれ、オランダ一国との貿易が終わると、出島は
    忘れ去られ、周囲の埋め立てにより、消えて行った。 その後、今から60年ほど
    前から始まった復元工事により、一部では、往年の雰囲気を取り戻した。

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    【日本語になったオランダ語】

    『おてんば』
    オランダ語の『ontembaar』は、『飼い馴らせない』とか、『野生の』という
    意味で、これが日本語に入って『おてんば』になったと言われている。
     
    『やんちゃ』
    オランダ語で、『男の子』のことを『ヤンチェ』と言うが、日本語の
    『やんちゃ』は、ここから来ていると言われている。

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    『ドロップ』
    オランダ語でも『ドロップ』は、飴を意味するが、オランダのドロップは、
    漢方薬のような味がする。

    『半ドン』
    日曜日を意味する『ゾンダッハ』の『ゾン』が『ドン』へと変わった。
    土曜日は、休みが半分という意味で、『半ドン』という日本語になった。

    【お勧めの一冊】


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    オランダの学校は、公立、私立とも、独自の個性的な教育を奨めているところが
    多く、子供や親は、学校の教育内容を良く検討して、子供に合った学校を選ぶ
    ことが出来る。 もし、子供に合う学校がない場合は、親が新しい学校を創る
    権利も認められている。 全ての子供を同じように教育するのではなく、生徒
    一人ひとりの個性に合った教育がなされている。

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    義務教育は、5~16歳の11年間で、初等教育と中等教育にまたがっている。
    日本の幼稚園と小学校にあたる初等教育は、8年制(4歳から12歳)と
    なっており、入学式はなく、それぞれが4歳になった時に入学する。 体験入学が
    1週間あり、もしその学校が合わなければ、転向することも出来る。

    オランダの夏休みは、会社も学校も皆が同じ時期に休みを取るのではなく、
    地域ごとに時期をずらし、年によって時期が変わる。 これは、皆が一斉に
    夏休みに入ると、交通機関や避暑地が混雑するため、このような処置が取られて
    いる。 学校の夏休みは、7月中旬頃から9月初めの6週間で、学校を3つの
    グループに分けて、1週間づつずらして休む。

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    オランダでは、特に初等教育に力を入れており、12歳の初等教育を終えた
    時点で、成績を元にして本人と親と先生とで話し合い、将来なりたい職業を
    ふまえて、中学校を選択する。 中等学校には、一般中等学校、大学進学校、
    職業科中等学校の3つがある。

    大学に進学する生徒は、6年制の大学進学校に進み、その後、大学に入学する。
    農業に就きたい人や保母、大工等になりたい生徒は、4年制の職業科中等学校に
    進んだ後、更に、中等、高等職業学校へと進む。

    多くの人は、一般中等学校(4年制と5年制がある)を経てから、希望する
    職業の資格を取れる高等職業学校へと進む。 中等学校は、入学してから
    1年間試してみてから、その後、他のコースに移ることも出来る。 全ての
    最初の4年間は、義務教育で、入学試験はなく、卒業時に非常に難しい国家
    試験がある。 高等職業学校と大学が、高等教育とされている。

    【お勧めの一冊】


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