東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ:西ヨーロッパ > オランダ・ベルギー

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    2020年の東京オリンピックとパラリンピックに対する事前準備として、
    オランダ・ナショナルチームは、東京に隣接している千葉県で複数回
    事前キャンプを行う予定だ。 オランダ・オリンピック委員会*オランダ・
    競技連盟(NOC*NSF)のアンドレ・ボルイス会長と森田健作 千葉県知事は、
    猪俣宏司 オランダ駐箚特命全権大使とNOC*NSFのゲラルド・ディレッセン
    会長の出席の下、アムステルダムにあるゴッホ美術館にて契約書に署名を
    行なった。

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    NOC*NSFは、オランダ・ナショナルチームの多くが2020年の東京大会以前に
    日本で定期的にトレーニングを行う事が出来るようになり、非常に満足して
    いると述べた。

    NOC*NSFのテクニカルディレクターであるマウリツ・ヘンドリクス氏は、
    「我々は、東京2020に向けて、オランダチームがハイパフォーマンススポーツに
    対応したトレーニング施設と宿泊施設を千葉県内で利用するための手続きを
    完了出来たと考えている。 この場所を選んだのは、2015年の世界陸上競技
    大会の際に、オランダチームが中国大会の事前キャンプ地として、千葉県を
    利用したという実績に基づいている。 我々は、千葉県で少なくとも、陸上競技、
    柔道、ボクシング、ボート、自転車競技、バレーボール、ハンドボール、
    車いすバスケットボール、卓球、ビーチバレー、オープンウォータースイミング、
    トライアスロンの練習をする予定であり、オリンピックとパラリンピック両方の
    可能性がある」と述べた。

    森田健作 千葉県知事は、「千葉県民600万人は、オランダ選手を歓迎し、2020年の
    東京大会におけるオランダチームの事前準備が円滑に行えるよう、全力を
    尽くします」、「千葉県の若者とオランダ選手との交流も楽しみです」と述べた。

    NOC*NSFの会長兼統括マネージャーであるアンドレ・ボルフイス氏とゲラルド・
    ディレッセン氏は、協力協定に署名した際に、千葉県とNOC*NSFの良好な協力
    関係を強調した。 結果的に、2016年のリオ・オリンピック、および、
    パラリンピックが始まる前に、4年間の契約締結を結ぶ事が出来た。

    「お互いの強t力体制が整ったことが重要であり、我々は、複数の県と話し
    合ったが、過去の実績により、千葉県を選んだ」とゲラルド・
    ディレッセン氏は述べた。

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    ベルギーは立憲君主の下での議会制民主主義の国である。 内閣は正式には
    閣僚評議会と呼ばれている。 実際には国王は、極めて僅かな権力しか持たず、
    主な決定は閣僚によって行われる。 首相は閣僚評議会の議長であり、閣僚評議会は
    ベルギー国会の信任がある限り、その権限を行使出来る。 国王は連立政権の成立に
    ついて大きな発言権を持ち、また首相の承認の下に閣僚評議会のメンバーを
    指名する。

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    国会は下院と上院から成り、立法権を行使する、 国会議員の選挙は少なくとも
    4年に1回行われる。 国民は定員212名の下院議員を直接選挙によって選ぶ。
    下院は上院より権限が強い。 上院議員の定員は183名で、うち106名は直接選挙に
    よって選ばれ、51人は州議会で選出され、26人は同僚の上院議員によって任命
    される。 ベルギー王位の継承者は上院議員でもある。

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    ベルギーの司法制度の最高法廷は最高裁判所である。 最高裁判所の裁判長は、
    内閣によって専任される。 高等裁判所は州レベルで職務を行い、民事および
    刑事上の大きな事件を扱う。 高等裁判所は、ベルギーでは唯一の陪審法廷である。
    上訴院は地方裁判所の事件の再審にあたる他、公務員の犯罪の審理にあたる。
    地方裁判所は治安判事を裁判長として、比較的、重要度の低い民事および刑事の
    事件の審理にあたる。

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    ベルギーの3つの地域圏、フラマン、ワロン、ブリュッセルは、それぞれの地域圏の
    人々によって選ばれた強力な政府を持っている。 地域圏の指導者達は経済、社会、
    行政上の事柄については大きな権限を持っているが、ベルギーの9つの州政府内では
    公務員と協力している。

    各州にはそれぞれの議会と知事が居て、知事は閣僚議会によって専任される。

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    ベルギーと言えば、チョコレートとワッフルが非常に有名だが、最近では種類が
    非常に豊富なベルギービールも人気となっている。

    ベルギーが発祥とされるものの中でも、日本で最も馴染みがあるものと言えば、
    フライドポテトだが、このフライドポテトは、イギリス英語ではチップス、
    アメリカ英語ではフレンチフライズ、フランスやドイツではポム・フリット
    (ドイツではポンメスとも言う)、フライドポテト発祥の地ベルギーでは
    フリッツと呼ばれており、大人気の国民食となっている。

    日本では脇役のイメージが強いフライドポテトだが、ベルギーではレストランで
    料理を注文すると、パンでなく、フライドポテトが出て来るのが普通であるため、
    正に主食のような食べ物となっている。 国際連合食糧農業機関の統計データに
    よると、ベルギーの1人当たりのじゃがいも年間消費量は約76キログラムで、
    日本の3倍以上となっている。

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    ベルギー・フリッツは、元々は、魚を揚げたものだったが、17世紀のベルギー
    南部ワロン地域の都市ナミュールで、17世紀中頃に起きた大寒波の際、川が
    凍って漁が出来ないため、ナミュールの村人たちは、保存食のジャガイモを
    小魚のようなスティック状に切って揚げて食べたのがベルギースタイルの
    フリッツの始まりと言われている。

    第一次世界大戦時、ベルギーとフランスの国境近くにいたアメリカの兵士たちが
    じゃがいもを揚げたフリッツを食べた際、フランス語圏だったため、アメリカでは
    『フレンチ・フライ』という名前を付けて広まったとのこと。

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    ベルギーでは、フライドポテト特製ソースやマヨネーズを掛けて食べるのが一般的
    であり、ベルギーの人口は約1,120万人だが、フライドポテト専門店が5,500店舗
    もある。 ベルギー・フリッツは、2014年にベルギー国内で無形文化遺産として
    登録された。

    ベルギースタイルのフライドポテトの作り方は、スライスしたじゃがいもを、
    最初低めの温度の油でじっくりと揚げて、次に高温で二度揚げすることで、
    中はほくほく、外はカリッとした触感に仕上げる。 揚げ油は3回フィルターした
    牛脂でなければならない。 また、ポテトの太さは、10mmと12mm四方の
    決まりがあり、じゃがいもはビンチェ種のみを使用して作る。

    また、ブルージュには、世界初のフライドポテト博物館があるほど、ベルギーでは、
    フライドポテトが国民食として愛されている。

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    オランダ議会下院の総選挙が2017年3月15日に行われ、台風の目となっていた
    極右政党、自由党のウィルダース党首は、反イスラムや移民の排斥を再三
    訴えたが、得票は伸び悩み、最終的に24議席となり、これまでよりも5議席
    増やしたが、第2党に留まった。 ウィルダース氏は敗北を認めた。

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    ヨーロッパ政治全体の行方を占うとして注目されていた、オランダの総選挙だが、
    与党が第一党を確保し、ヨーロッパ各国は『オランダのトランプ』と呼ばれる
    ウィルダース党首率いる極右政党の伸び悩みを歓迎した。

    4月に大統領選挙を控えるフランスでは、ルペン氏率いる極右政党の台頭が注目
    されているが、オランド大統領は『過激主義に大きな勝利を収めたことを祝福する』
    との声明を出した。

    また、9月に総選挙が行われるドイツのメルケル首相は、ルッテ首相に『EUの一員
    として今後も協力しあうことを楽しみにしている』と電話で祝意を伝えた。

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    オランダ語は、英語やドイツ語と同じくゲルマン系の語派に属しているため、
    これらの言語と基礎語彙がかなり良く似ている。 また、歴史を振り返ってみると、
    オランダ人が荒波を乗り越え、世界の隅々まで出掛け、言語を含めて文化的影響を
    残したという一時代があった。 日本もその恩恵に浴した国であることは言う
    までもない。 もっとも、オランダ語の語彙も、他言語からの影響を少なからず
    被っている。 主に英語やフランス語の語彙を取り込み、その多くの借用語が
    オランダ語には欠かせないものとなっている。



    今日、最も多くの語彙を借用するのは英語からで、実際、単語に留まらず、
    成句や諺にまで及んでおり、今やほとんど全く英語を話さないオランダ人ですら
    口にするようになっている。 例えば、tram、flat、fift-fifty、up to date などが
    挙げられる。 ただ、逆に、オランダ語の語彙は、例えば、ドイツ語などの
    隣接の言語と外見上良く似ているのに、意味の上で微妙な違いがあることもあって、
    注意が必要となっている。

    例えば、蘭:aardig 素敵な、独:artig 行儀が良い、蘭:aandacht 注意、
    独:Andacht敬虔さ、蘭: verzoecken 懇願する、独:versuchen 試みる
    などがある。

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    【オランダ語の今】
    現在の標準オランダ語は、パタビア共和国以来の中央集権によって発達した
    ホラント州の社会的上流階級の言葉が1900年ごろから標準語として認められる
    ようになったもので、そもそも、オランダ語の呼称に関して言うと、その国名は
    Holland あるいは、Netherlandとして知られているにも関わらず、その国民名と
    言語名は Dutch という言語名で呼ばれることが普通となっている。

    12~13世紀以降、ドイツは Deutschland という国名で知られていた。 そして、
    15~16世紀になると、英語の Dutch は、オランダ国内の諸方言を含んだ意味での
    ドイツ語のことを指すようになった。 オランダが独立し、大航海時代(17世紀)
    に入ると、英国との接触が頻繁になり、英語において Dutch という語は、次第に
    意味が狭まって行き、単に現在のホラント州を中心としたオランダ北部統一7州
    として知られる地域を指すようになった。

    日本におけるオランダ語の研究の歴史は長く、江戸時代の『ハルマ』や『訳鍵』
    といった蘭日辞書の編纂に始まる。 蘭学とは、広義には、当時の日本人が
    オランダ語を通じて学んだ西洋の学問一般を指し、医学をはじめとする西洋の
    学問は、オランダ語を媒体として日本に取り入れられた。 わずか4000坪の
    長崎の出島は、日蘭貿易の拠点であったのみならず、近代科学や思想が日本に
    流入する唯一の窓口でもあった。

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    16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。
    16世紀半ば、台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』
    と叫んだと言う。 『麗しの島』という意味である。 そして、その後の
    数世紀の間、ヨーロッパ人達は台湾をフォルモサと呼んだ。

    17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易の
    ために拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に
    上陸。 その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



    安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
    締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
    攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
    オランダに委ねて行く。

    一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの
    要塞を築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の
    混乱平定に力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、
    ライバル、スペインをこの島から追い出した。 1642年には、台湾に居る
    ヨーロッパ人は、オランダ人だけとなった。

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    【オランダ統治時代】

    オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を
    奨励し、島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を
    先住民や移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の
    国々を相手にして中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させた
    のである。

    オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
    砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製
    陶磁器を仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、
    習慣性のある麻薬、アヘンを買った。



    より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を
    奨励した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。
    オランダから来た宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい
    信仰を先住民に教えるために学校を建てた。

    オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な
    税を課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や
    武力を用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の
    反乱である。 約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃
    したのだ。 しかし、棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで
    敗北する。 戦死とその後の虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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    ベルギーの人口は、1,000万人を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国の
    ひとつとなっている。 人口は、都市や郊外に集中し、1平方km辺りの人口密度は、
    ブリュセルとアントウェルペンで1158.3人、アルデンヌの田園地域は50.2人以下
    である。

    出生率も地域圏によって、大きな差がある。 フラマン地域圏の人口増加率は
    高く、圏外に移住する者は、極めて少ない。 これに対して、ワロン地域圏では、
    人口増加率はマイナスであり、地元生まれの親から生まれる幼児の数は、減少
    している。 しかし、この地域圏に流入する外国人が多く、相対的な人口は安定
    している。

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    【民族グループと社会構造】

    フラマンとワロンは、この国の人種と言語の区分の核心である。 フラマン
    地域圏は、西部と北部で、西フラマン、東フラマン、アントウェルペン、
    リンブルフの4州と、ブラバンド州の北部である。 ワロン地域圏は、
    ブラバンド州の南部の他、エイノー、ナミュール、リエージュ、
    リュクサンブールの4州を含む。

    両地域圏の人種的背景は、殆ど同じで、どちらも、ケルト民族のベルガエ人と、
    ゲルマン民族のフランク人の子孫である。 フラマン地域圏では、ゲルマンと
    ケルトの両文化が混合し、ゲルマン系の言語であるオランダ語が使われるように
    なった。 ワロン地域圏では、ケルト文化的特徴が比較的強く、フランス語が
    使われて来た。

    人々の約56%は、オランダ語だけを、32%がフランス語だけを話す。 両方を話す
    市民は、11%だけとなっている。 ドイツ語を母国語とする人は1%未満で、ドイツ
    との国境のリエージュ州東部に住んでいる。 どちらの地域圏でも、社会は複数の
    自立的な『柱』に分かれ、この『柱』が生活の殆どの分野の基本となる。 『柱』の
    それぞれに、独自の政党、労働組合、新聞、学校等の社会組織がある。 人々は、
    この『柱』のシステムを通して職業を見つけ、医療を受け、事業を営む。

    宗教や政治上の意見の似ている人々は、普通、同じ『柱』に属する。 ひとつの
    『柱』から別の『柱』に心を移すのは、単に、別の政党に籍を移す以上の大きな
    意味を持つ。

    この『柱』は、3つ存在し、その内訳は、カトリック、リベラル、社会主義と
    なっている。 カトリックの『柱』は、社会を横断していて、上流、中流、
    労働者の3つの階級を結び付けている。 この『柱』の中には、フランス語を
    話す人々の政党と、オランダ語を話す人々の政党が、それぞれひとつづつあって、
    両方の言語グループの利益を擁護する。

    リベラルの『柱』は、主として、中流階級の職業人が所属し、社会主義の『柱』は、
    労働者が権力を握っている。 リベラルと社会主義のどちらの『柱』にも、
    それぞれの政党内にオランダ語ブループとフランス語グループが存在する。 

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    【教育】
    言語の違いは、教育制度にも及んでいる。 教育に使われる言語は、フラマン
    地域圏では、オランダ語、ワロン地域圏では、フランス語である。 殆どの
    国民は、2つの民族言語のどちらかひとつを読み書き出来る。

    児童は、満16歳まで学校に通う。 政府は、公立、私立どちらの学校にも資金を
    支出し、教育は無料で行われる。 児童の57%は、私立学校に通い、私立学校の
    大部分は、宗教ブループが経営している。 初頭高等学校教育のための学校は、
    一般、技術、芸術、職業の各科目について教育を行う。

    大学は6つあり、職業教育の高等専門学校がいくつもある。 大学で最も古いのは、
    ルーヴァンのカトリックの大学で、1425年に創立された。 ここの図書館は、
    世界的に有名で、6世紀から16世紀におよぶ中世の資料を保管している。 元は、
    2つの民族語を併用していたが、1970年にオランダ語とフランス語に分割された。

    ブリュッセル自由大学は、1834年に創立され、宗教的な制約は全くないが、
    フランス語で教育が行われている。 その他の大学は何れも、19世紀以降に開設
    されたもので、ゲントにある国立大学は、1917年創立で、オランダ語で講座が
    開かれている。 リエージュとモンスにある大学では、フランス語で講座が
    行われている。

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    フラマンとワロンの両地域圏の対立は、地域的な小規模政党の発達を促した。
    現在の中央政府は、いくつかの政党で連立して国会内で多数を占めること
    によって成り立っている。 フラマン・キリスト教人民党は、フラマン地域圏
    では最大の政党で、これがワロン地域圏にある同じ考え方の比較的小規模な
    政党と提携して、カトリック投票ブロックを形作っている。

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    キリスト教人民党は、何人もの首相を出しており、その中には、レオ・
    ティンディマスとウィリフリード・マルテンスがいる。 マルテンスは、
    1979年に最初に首相になって以来、数回に渡り首相に選ばれた。 社会党は、
    ワロン地域圏で勢力が強く、オランダ語とフランス語をそれぞれ母国語と
    する人々の集団が、内部に作られている。 この点は、自由党の場合も同じで、
    自由党の強い支持基盤は、ブリュッセル地域圏である。

    1980年代には、失業率は増大し、物価は高騰していた。 この時期にも
    マルテンスは、首相となり、政府から緊急権限を与えられて、国の財政
    状態の改善にあたった。

    彼は、強力な経済政策を採用した。 公共投資と福祉予算を大幅に削って国家の
    負債を圧縮した。 労働者は、賃金の切り下げを強いられ、デモやストライキが
    多発した。 マルテンスは、企業への課税を減らして、生産の増大と職場の
    創設をはかり、世界市場での競争力を付けされた。

    その目的を達成するため、マルテンスは、数度に渡り、短期間、野党の地位に
    甘んじたが、いすれの場合も、新しい連立内閣を作るのに成功した。 1990年代
    初期までに、 この強力な政策は功を奏し始めたようで、ベルギーの経済情勢は、
    久しぶりに改善された。

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    この間、ECを統一した貿易ブロックに作り変えようとする計画が策定された。
    その結果、1993年には司法等の面での結び付きを強めて欧州連合(EU)へと
    移行した。 EUの本部をブリュッセルに置くベルギーは、ヨーロッパ市場の
    大変革の中心に位置している。 1993年、国王ボードワン1世の死去に伴い、
    弟のアルベール2世が即位した。 その後、アルベール2世の長子である
    フィリップが国王に即位し、現在に至っている。

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    ベルギーの戦後は、大体において繁栄した。 外国の援助を受けてベルギーは、
    製造部門を現代的なものにした。 この改良は、フラマン地域圏でめざましく
    進み、国際的な投資によって、産業は近代化され膨張した。 しかし、ワロン
    地域圏では、産業活動の改善は余り行なわれなかった。

    1948年、女性が投票券を獲得した。 これは男性が1919年以来持っている権利
    である。 ベルギー政府は、この国の社会福祉政策を推進して、一般市民を
    経済的な困窮から保護するために、年金、健康保険制度、失業手当等を創設した。
    ボードワン国王と政治的指導者達は、国際強力と世界平和への努力を強め、
    ベルギーは、国連創設のメンバーとなった。 ベルギーは、オランダと
    ルクセンブルグの両国と通商協定を結んだ。

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    ベネルクス連合と呼ばれるようになったこれら3国の小国は、合体した事で
    経済力を強めた。 3国はまた、NATO、つまり、北大西洋条約機構に加盟した。
    これは、他の大部分の西ヨーロッパ諸国も加盟している軍事防衛組織である。
    NATOは、その人事管理部門の本部をブリュッセルに置いており、NATOの軍事
    本部もベルギーのモンス市近くにある。

    ベネルクス連合の成功によって、ヨーロッパの他の国々でも経済的強力を強め
    ようとの考え方が台頭した。 後に、ECと呼ばれるようになった共同市場が、
    1957年に発足し、ブリュッセルがその人事管理上の本部となった。 ECは、
    全ての加盟国の経済政策の強調をはかり、財政投資を行って、EC加盟国の間の
    経済発展を促進することを使命としていた。

    1960年代、国連の決議によって、ヨーロッパ各国は、それぞれの植民地に独立を
    認める方針を取ることになった。 ベルギー領コンゴ(現ザイール)で騒乱が
    勃発した後、ベルギーは、この地域の独立にいち早く同意し、1962年には、
    ルアンダとブルンディに独立を与えた。

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    植民地を放棄した後も、ベルギーの経済は順調な発展を続けた。 しかし、1970年
    までに経済的な格差(特にフラマンとワロン)は、一層深刻なものとなった。
    オランダ語を話すフラマン人達は、1970年代に多国籍企業が多くの地域に近代的な
    製造工場や新しい通信網をこの地域に建設したため、めざましい発展を遂げた。

    これに対して、フランス語を言語とするワロン地域圏では、重工業が老朽化し、
    石炭の埋蔵量が底をついたため、衰退し始めた。 ワロン地域圏には戦後、外国の
    援助も資本の投資も余り行われなかったのである。

    自分達の要求が無視されていると感じたワロン地域圏の人々は、ベルギーを2つの
    独立した地域に分割する案を提起した。 ワロン地域圏に対して、財政的な責任を
    負うのを望まないフラマン地域圏の人々も、この分割案を支持した。

    ベルギー人は1970年代と80年代に、数回の国民投票を行って、憲法を改定した。
    この憲法の改定によって、地域議会が創設され、行政委員会が任命されて、財政
    資金を主要な言語地域の間で分割することが定められた。 1989年の憲法改正に
    よって、ベルギーは、フラマン、ワロン、ブリュッセルの3つの地域圏から成る
    連邦国家となり、この3つの地域圏は、これまで中央政府の有していた権限の
    多くを獲得した。

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    1930年のドイツ軍事力増強は、ヨーロッパの脅威だった。 1936年、
    ベルギーは再び中立を宣言した。 イギリス、フランス、そして、ドイツが
    ベルギーの中立の立場を承認した。 しかし、ドイツが周辺諸国を次々に併合
    したため、摩擦は避けられないものとなり、1939年に第二次世界大戦が勃発した。
    1940年5月10日、ベルギーの中立を尊重すると誓約していたにも関わらず、
    ドイツは、再度ベルギーを侵略して、フランスに攻め入った。

    chevalbelges

    激しい戦闘が18日間続いた後、レオポルド3世は、ベルギー軍を降伏させる手順を
    取った。 ナチの軍隊が国土を占領してから後、ドイツは、ベルギーから金銭と
    商品と労働力を奪い取った。 ベルギー人達は、地下の抵抗運動を組織し、
    ベルギーの武装兵力の一部は、イギリスに逃れ、ドイツ軍に対抗する連合軍と
    合流した。

    ドイツの占領は継続されたが、1944年の夏、連合軍がフランス北部に大挙して
    上陸し、やがてベルギーは開放された。 1944年12月、退却を続けていた
    ドイツ軍は、アンデンヌで最後の大攻撃を敢行した。 これは、バルジの戦いと
    呼ばれている。 1945年5月、ドイツは降伏した。

    19140815liege02

    レオポルド3世が戦争初期にドイツに降伏したため、ベルギーは、ヨーロッパの
    他の一部の国々が被った程の破壊を受けずに済んだ。 しかし、多くの
    ベルギー人達は、国王がヒトラーに対して、協力的であり過ぎたと感じた。
    その問題は、フラマン人とワロン人の間の分裂を深め、フラマン人は、一般に
    君主制を擁護するのに対して、ワロン人は、国王は王位を捨てるべきだと要求した。
    レオポルドは、戦後の混乱期をベルギー国外で過ごし、1951年に王位を放棄した。
    息子のボードワン1世が後を継承した。

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    20世紀初頭までに、ベルギーは、社会的に安定して来たが、政治的、宗教的、
    言語的な面では、分裂した社会でもあった。 人々は何らかの宗教グループか
    政治的党派に属していた。 宗教的グループであるカトリックと、政治的党派で
    ある自由党は、『柱』と呼ばれる制度を採用して、それぞれ別個のグループを組み、
    平等の立場で社会生活を営むようになった。

    『柱』は、あくまでも自立したもので、教育制度、文化施設、労働組合、言語、
    医療サービス、社会サービス等の機関を別個に持っていた。 それぞれの『柱』の
    中では、別個の政党が組織されて、政府に影響力を行使し、『柱』同士の紛争を
    解決した。 これによって、『柱』のメンバー達の要求は処理され、政府に対する
    民衆の不満は大幅に回避する事が出来た。

    大部分のベルギー人は、経済的な安定を望み、そのためには、ヨーロッパでの
    平和が不可欠だと考えていた。 さまざまな国家間条約が結ばれて、列強の
    間での勢力の均衡が図られた。 戦争の危機を避けるため、ベルギーは、
    ヨーロッパの他の幾つかの小国と同じように、中立国を宣言していた。 これは、
    どんな戦争にも加担しない事を意味した。 しかし、このやり方は失敗し、
    1914年に戦争が始まった。

    p0790

    【第一次世界大戦】
    第一次世界大戦では、イギリス、フランス、イタリア、ロシア等の連合軍が、
    ドイツ、オーストリア等の同盟国と戦った。 1914年8月、ドイツ軍は、
    フランスに攻め込む過程で、ベルギーを侵略した。 戦争の全期間を通じて、
    ベルギー側の手に残っていたのは、西部の細長い地域だけだった。 占領された
    地域は、戦争により、徹底的に破壊された。 イーペルだけでも、3回もの
    激戦場となった。 ベルギー南部とフランス北部の長期の戦闘で、何十万人
    もの兵士が命を失った。 それでも、数千人ものベルギー兵が、1918年の
    ドイツの敗北まで連合軍と共に戦い続けた。

    戦後、ベルギーは、国際連盟の創設に力を貸した。 これは、世界的な国際
    組織で、戦争の防止を目標としていた。 国際連盟は、アフリカにあった
    ドイツの植民地ルアンダとウルンディ(現在のブルンディ)を、ベルギーの
    委託統治領とした。 ベルサイユ条約によって、第一次世界大戦は、正式に
    集結し、サンヴィット(現在は、何れもリエージュ州東部に所属)を獲得した。

    LeopoldIII

    1930年代の世界恐慌は、経済を再建しようとするベルギーの努力に水をさした。
    失業率は増加し、法と秩序と経済的安定を看板に掲げた政治運動が、いくつも
    起こった。 その中で、最も強力だったのが、ナチスで、アドルフ・
    ヒットラーの指導の下に、ドイツで勢力を振るった。 この頃、ベルギーでは、
    1934年にレオポルド3世が国王となり、安定した君主制が続いていた。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

    belgianrevolution

    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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