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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ロシア

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    ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
    ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
    締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
    自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
     
    93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
    しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
    大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
    ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
     
    93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
    1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
    来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
    全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
    状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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    その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
    車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
    していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
    だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
    表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
    から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
    犬死も同じ時代であった。
     
    それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
    対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
    夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
    研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
    治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
    スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
    地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
    なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
    ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
    週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
     
    尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
    機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
    同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
    前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
    当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
    ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
    鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
    乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

    当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
    180ドルであった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソ連崩壊直前の1989年当時、ロシアの通貨であるルーブルは、360円だった。
    但し、その年にロシアルーブルは一気に下落して、10分の1の価値である、36円
    まで暴落した。 ここからロシアの経済危機とハイパーインフレが始まった。
    90年1月には、モスクワのプーシキン広場に初めてアメリカ資本のマクドナルドが
    進出し、ソ連の歴史が始まって以来、身分の高い店員様が客に対して、
    『ありがとうございました』と言ったことが非常に話題となった。 それまでの
    ソ連の店では、客が店を後にする際に『ありがとう』と言い、店員の言葉と言えば、
    『どういたしまして』が普通だった。
     
    当時、和食レストランは、モスクワでは『サクラ』という一店しか存在していな
    かったのだが、今では、モスクワ市内だけでも、700店を超えるのだとか。 今や、
    ユニクロや丸亀製麺までもが進出を果たしており、この25年間のロシアの変貌振り
    には驚きを隠せない。 恐らく、この25年間でここまで変貌を遂げた国は、ロシア
    以外にはないであろう。 中国も大変貌を遂げてはいるものの、社会主義から資本
    主義への転換はしていない。 ロシアが最も変わったところは、やはり、社会主義
    から資本主義へと転換し、地獄の底を這いながらも、ここまで経済発展したところに
    尽きる。 現在のモスクワ・シティーは、新宿と何ら遜色がないばかりか、むしろ、
    発展している。 これが、経済危機で何年も完成が遅れた建物群かと見まごうばかり
    である。

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    ソ連当時、バスのチケットは、運転手から買うものだった。 よって、車内で隣の
    人にお金を渡せば、めぐりめぐって、自分のところへチケットとおつりが返って
    来るという、非常にのどかなものだった。 その後、ソ連が崩壊してしまったため、
    このような風習はすっかりと消え去った。 ソ連時代の最大の特徴は、民族友好で、
    ソ連国内に約180も居る多民族は、皆平等なソ連人だった。 基本的に国民全員が
    公用語であるロシア語を操り、社会主義の時代は、国をあげて教育にも熱心に力を
    入れたため、あれだけ広大な国であるのにも関わらず、ロシア語には方言という
    ものがほぼない。

    社会主義とは、アメリカ的なイデオロギーから見ると、悪らしいが、国家が計画的に
    経済を建設する社会であったため、国民全てに、マンションと別荘も与えられる
    という、強欲資本主義では到底あり得ない特典もあった。 よって、贅沢さえしな
    ければ、皆が幸福で居られる社会でもあった。 それゆえに、逆に発展性がなく
    なり、働いても働かなくとも、給与は同じという生温い社会が70年間も続いたため、
    ソ連は崩壊したとも言える。


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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

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    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソビエト連邦崩壊を前にした1991年8月、ソビエトからの独立を果たした
    ラトビア、エストニア、リトアニアのバルト海に面する三国は、ドイツの
    ヒトラーとソビエトのスターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約(1939年)に
    よって、ドイツとソビエトに占拠され、後にソビエトに併合された。

    その後、1985年からのミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ(政治
    改革運動)の中では、この占領は、『ソビエトの利益に反するスターリン個人の
    決定だ』として明確に非難されていた。

    2005年5月9日、ロシアのヴラジーミル・プーチン大統領は、対独ソ戦勝記念日に
    当たるこの日、更に踏み込んだ発言をした。 旧ソ連によるバルト三国占拠は、
    悲劇であると認めたのだ。 プーチン氏は、『実際、バルト三国は、壮大な
    世界政治における取引材料に過ぎなかった。 これらの国にとっては正に悲劇
    だった点は、ハッキリさせねばならない』と明言。 占領と言う言葉こそ使わな
    かったが、初めてその間違いを認めたのだ。

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    【それぞれ異なる三国の特徴】
    バルト三国と一口に言っても、ラトビア、エストニア、リトアニアでは、その
    成り立ちも国民の気質も大いに異なる。 バルト海に面する共和制国家である
    ラトビアは、13世紀には、ドイツ騎士団、17世紀には、ポーランド、18世紀には
    ロシア帝国からの支配を受けるなど、受難の歴史を繰り返して来た。 民族的には、
    ヨーロッパ系で、言語は、ギリシャ語、ラテン語、英語、ロシア語などが含まれる
    印欧語族の一派のバルト語派となっている。

    エストニアには、13世紀にはデンマーク、16世紀にはスウェーデン、そして18世紀
    にはロシア帝国に支配される。 民族は、フィンランドと同じアジア系で、言語も
    フィンランド語に近い。

    リトアニアは、14世紀にはポーランド・リトアニア連合王国を形成し、16世紀に
    なってポーランド・リトアニア共和国が成立した。 しかし、18世紀後半に
    ポーランドの分割によって、ロシア帝国に併合され、1918年なってようやく独立
    した。 言語は、ラトビアと同じ印欧語族の一派のバルト語派。

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    【三国に共通するロシア人問題】
    ソビエトの崩壊で、三国はほぼ半世紀ぶりに独立を果たしたが、共通するものは、
    ロシアに対する反感とロシア人の処遇問題となっている。

    ラトビアの場合、ラトビア人が60%を占めるが、ロシア人も28%と三国の中では
    一番多い。 そのせいか、公用語はラトビア語とされてはいても、ロシア語系住民
    (ロシア人、ベラルーシ人など)が多いことから、ロシア語使用の頻度が高い。

    ラトビア人の70%がロシア語を、ロシア人も半数以上がラトビア語を話すことが
    出来る。 また、映画館やテレビ放送では2つの言語での字幕が並んでいたり、
    新聞や雑誌ではラトビア語版とロシア語版があったりするものの、ロシア語版の
    方が種類、量とも豊富である。 独立した今も、かつての占領国のロシア語が
    大いに幅を利かせている事実から、ロシアを脅威と感じるラトビア人は多い。
    1990年に独立した際に、ラトビア政府は、ロシア系住民の国籍取得に対して、
    厳しい条件を付けた。 それは、ソビエト時代にラトビア井に移民して来た
    ロシア人や、ラトビアで生まれた人の子孫には与えなかったことだ。

    仕方なく彼らは、旧ソビエトが発給した旅券をそのまま使用していたが、1997年
    には、ラトビア政府発給のエイリアンパスポート(無国政旅券)への切り替えが
    義務付けられ、無国籍者と定義されるようになった。 ラトビア移民帰化局に
    よると、約230万人のラトビア人口のうち、ラトビア国籍者は、約180万人、
    外国籍が3~4万人、そして、残りの45~50万人は無国籍者となっている。

    エストニアでもロシア人の国籍取得には、エストニア語試験などの条件を付けて
    いるが、リトアニアでは、人口の80%以上がリトアニア人で、ロシア人は6%と
    少数派であるところから、ロシアとの関係は、他の2国に比べると、良好だと
    されている。

    独立後のロシア人処遇問題は、人権に関わるとして、当のロシアやヨーロッパからの
    指摘が絶えない一方、三国に共通する悩みは、ロシア人マフィアの存在だ。 麻薬や
    密輸品の売買、人身売買や売春などに暗躍するマフィアは、地元の下請け組織の
    協力もあって、その犯罪件数は、うなぎ登りとなっている。 ヨーロッパとロシアの
    間に位置するバルト三国は、犯罪の中継地点という、ありがたくない名前をいかに
    して返上するかが、これからの課題となっている。

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    北にロシア、西に黒海、南にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンに
    囲まれたグルジアは、ソビエト時代には、連邦構成国のひとつだった。
    1985年にミハイル・グルバチョフがソ連の指導者になって以降、ソ連からの
    独立を宣言する共和国が続出、グルジアも1990年末に国名をグルジア共和国と
    改名し、翌1991年4月に独立を宣言したが、ソ連の崩壊で独立は完全なものと
    なった。

    独立後もグルジアは、強固なグルジア民主主義の下、欧米との関係強化を
    打ち出し、その後、日本語での国名をジョージアと改名した。 ロシアとは
    一貫して距離を置いたが、皮肉にも、この民族主義は、親ロシア路線を取る
    南オセチアのオセット人や、イスラム教徒であるアブハジア人など、国内に
    住む少数民族の民族主義にも火を付けた。

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    グルジアからの分離を要求して、1989年に一度独立を宣言したものの、この時は、
    グルジア軍によって武力で押さえつけされた南オセチアでは、分離独立を求める
    運動が再燃、グルジア軍は、再び銃で対抗するなど、国内は安定せず、初代大統領
    となったズビアド・ガムサフルディアの強権政治がもたらした政情不安や治安の
    悪化で、国内は内戦状態に陥った。

    1992年1月、ガムサフルディアがクーデターによって追放されると、エドゥアルド・
    シュワルナゼが政権の座に就いた。 シェワルナゼは、ソ連最後のゴルバチョフ
    政権で外務大臣を務めた人物だった。

    シェワルナゼ政権の下で、11月には南オセチアとの間に停戦が成立。 南オセチア、
    グルジア、南オセチアの3者による平和維持軍が置かれ、事実上独立国状態
    となった。 2004年には、新しく野党のミハイル・サアカシュヴィリがグルジアの
    大統領に選ばれた。

    親欧米、反ロシア色は、サアカシュヴィリ政権下で更に鮮明になり、2006年3月
    には、ロシア政府がグルジア産のワインの輸入禁止措置を取ったことに反発。
    9月には、グルジア軍の治安当局が、ロシア将校ら10数名をスパイ行為で逮捕。
    2008年には、ロシア軍が平和維持軍として駐留し、事実上独立状態にあった
    南オセチアにグルジア軍が侵攻、ロシア軍と戦闘状態に突入した。

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    2008年8月7日、グルジアの陸海軍が突如南オセチアの首都ツヒンバリへの軍事
    行動を開始した。 これに対し、ロシア軍は、南オセチアに軍港進攻させて、
    グルジア軍との戦闘に入った。 5日間の激しい戦闘の末、グルジア軍は、
    南オセチアから撤退。 8月15日には、フランスの仲介で、グルジアは、ロシア
    との休戦協定に調印した。 同26日は、ロシアは、アブハジアと共に南オセチアの
    独立を承認、国際社会の同意を得たロシア軍は、10月にはグルジア領内から
    完全に撤退した。

    紛争の直接的な原因は、南オセチアの分離独立だが、ロシアにとってグルジアは、
    カスピ海産原油のパイプライン敷設など、南の玄関口である黒海に繋がる要の
    位置にある重要な国でもある。

    紛争の背景には、表の顔(分離独立)の他にもうひとつ、大国の思惑(原油などの
    地下資源確保)がある。 グルジアでの1週間にも満たない戦闘で、南オセチア
    側では、2,000人以上、グルジア側でも200人を超す民間人が犠牲となった。
    また、双方合わせて23万人余りが難民となった。

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】

    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、
    面積は、日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。
    このあたりの一体は北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、
    温暖で豊かな地域である。

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    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から
    暮らしていたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、
    現在では住民の殆どがイスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、
    これに抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年に
    チェチェンで大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の
    指導者シャミーリがロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に
    併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり
    『山岳共和国』の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス
    諸民族が3つ巴の戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、
    チェチェンやその他の民族は、ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、
    帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が達成されるかと期待されたが、新たに
    ソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに
    協力をしたとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアの
    カザフスタンに強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、
    強制移住先での病気や餓死などで、民族の半分を失った。

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    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】

    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。
    ソ連に代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが
    失敗し、ついに1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が
    始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が
    高まった。 1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げを
    したまま停戦協定が結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するように
    なったが、ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンの
    イスラム武装勢力が隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が
    死亡した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月には
    チェチェン攻撃を再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に
    国家対テロ委員会が独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を
    発表、10年の長きに渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、
    多くの謎と疑問が指摘されたままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までに
    ロシア軍がチェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で
    大統領選挙を行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、
    今もチェチェンを統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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    海軍省と冬宮との間の通りを進むと、ネヴァ川に掛かる宮殿橋に出る。
    最初の橋は1856年に完成した。 現在の橋は、開閉式で、1912年に作られた。
    橋を渡ると、ヴァシリエフスキー島である。

    ヴァシリエフスキー島は、一時期ピョートルがペテルブルグの中心地にしようと
    考えたところであった。 しかし、貴族たちは、海軍本部からネフスキー大通りの
    方面に住むことを望み、この島に住もうとしなかったので、ピョートルの思惑は
    実現しなかった。 とはいえ、ピョートルの重要な機関をこの島に作った。

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    橋を渡ると、大ネヴァ川に沿った大学河岸通りとなる。 まず最初の塔のある
    緑の色の建物が文化人類学博物館である。 これは、ピョートルがヨーロッパ
    旅行の際に、入手したさまざまな品物を収容展示するために1714年に作られた
    最初の博物館が基になっている。 建物は1734年にゲオルグ・マッタルノーヴィの
    設計によって作られたバロック風のものである。 17世紀には色々な学術研究
    機関が入っていたが、その後、元の博物館に戻り、今日に至っている。

    次の建物は、旧科学アカデミーの建物である。 科学アカデミーは、1724年、
    ピョートルが死の直前に設立を決定した学術機関である。 科学アカデミー
    会員は、最初は外国人ばかりであったが、1742年にロモノーソフが最初のロシア人
    会員となった。 現在の建物はクワレンギが設計し、1785年に完成した。
    科学アカデミーは1934年までここを本部とし、その年モスクワに移転した。
    建物2階にロモノーソフが建設したモザイク画『ポルタヴァの戦い』が掛け
    られている。

    次は、ピョートルが作った12参議会の建物である。 トレジーニの設計で
    1722年に建設が始まった。 参議会というのは、省にあたる。 ピョートルが
    1719年から1721年に掛けて作った。 この建物だけで政府の機能を果たすことは
    すぐに難しくなったであろう。 省の建物は、ペテルブルグの色々なところに
    作られたが、結局、この建物は、ペテルブルグ大学に渡された。

    ここから大学の建物が始まる。 ペテルブルグ帝大は、1837年にこの場所に
    引っ越して来たのである。 この大学の創立年については、意見が分かれる。
    1724年に科学アカデミーが設立される時の発令には、大学と中学校を共に創る
    ということが含まれていた。 科学アカデミーの一部として、大学と中学校が
    創られたと見ることが可能である。 しかし、これは大学とは言えなかった。

    ロモノーソフは、モスクワ帝大の創設に尽力したのだが、ペテルブルグ大学に
    ついては、大学創設をハッキリさせるために開学式を行ってはどうかと提案した。
    しかし、エリザヴェータ女帝もエカテリーナ女帝もペテルブルグに大学を創る
    ことには関心を示さなかった。 結局、1819年になって、アレクサンドル1世
    によって、サンクト・ペテルブルグ大学の正式発足が決定されたのである。

    ペテルブルグ大学は、人文・東洋言語学部、物理・数学部、法学部、医学部
    から成っていた。 人文・東洋言語学部は、大学河岸通りに面したところにある。
    1935年にキーロフが暗殺されると、ペテルブルグ大学は、キーロフ名称という
    言葉が付された。 つまり、キーロフ名称国立サンクト・ペテルブルグ大学
    というのが正式名称である。

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    ペテルブルグにある中心的な建物と言えば、海軍省を挙げることが出来るが、
    その金色の尖塔は、今日のペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー大通り、
    ゴローホヴァヤ通り、ヴェズネセンスキー大通りから見える。 つまり、海軍本部の
    建物から放射線状に3本の大通りが三方に延びているのである。

    海軍本部は、1704年に海軍造船所として造られた。 造船所は、1844年に閉鎖
    されるまで、バルト海艦隊のために256隻の軍艦を建造した。 この造船所の
    背後に海軍本部の建物が出来た。 1802年に海軍本部は海軍省となり、これを
    機会に建築家ザハーロフの設計で改築が進められ、金色の尖塔を持つ建物が
    1923年に完成した。 海軍省の建物は、幅406mもある巨大なものであり、ロシア
    帝国にとっての海軍の特別な重要性を表している。 金色の尖塔は、ペテルブルグの
    都市のシンボルとなった。 海軍省の前の庭園は、アレクサンドル庭園と名付け
    られている。

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    海軍省の東隣に、ヴァシリエフスキー島への橋に通じる通りを挟んでそびえるのが、
    冬宮、現在のエルミタージュである。 薄緑色の美しい宮殿は、皇帝の宮殿である。
    現在のものは、最初から数えて5番目の冬宮である。 冬宮は、広い広場に面して
    正面玄関があり、2階部分が皇帝一家の居住部分となっていた。 玄関の上には、
    白の間があり、そのバルコニーから、皇帝が広場に集まる臣民に挨拶したのである。

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    冬宮前は、ペテルブルグ最大の広場となっており、広場の反対側は、弓なりに
    連なる建物であり、その中央部分にアーチがある。 アーチの上には、勝利の女神の
    女神ニケーの馬車が置かれている。 アーチの右側が本来の参謀本部で、現在も
    レニングラード軍管区令部がある。 アーチの左側は、大蔵省と外務省である。

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    1704年から、フィンランド湾内のコトリン島に海軍基地クロンシュタットの
    建設が始まった。 更にウサギ島の対岸、ネヴァ川の左岸には海軍造船所が
    作られた。 これが後の海軍本部となる。

    ピョートルは国の統治を引き続き、モスクワのクレムリンから行っており、
    戦争のため各地に転戦した。 スウェーデン国王軍との決戦は、遠くウクライナの
    地ポルタヴァで1709年春に戦われた。 ピョートル軍は、カール12世軍を
    撃滅した。 戦争はなお12年続くが、ポルタヴァの勝利以後は、ロシアは
    バルト海沿岸でスウェーデンを圧して行った。

    1710年、ピョートルの軍はペテロパブロフスク要塞の北のスウェーデンの要塞
    ヴイボルクを占領した。 更にこの年、スウェーデン軍からレーヴェリとリガ
    という重要な港湾を奪った。 これによって、バルト海の南岸かがロシアの
    占領地域に入った。

    ペテロパブロフスク要塞は最前線の要塞ではなくなり、この要塞の周りに生まれ
    つつある都市の安全性は強固なものとなった。 この年ピョートルはネヴァ川が
    南の方角に曲がっているところ、かつてのスウェーデンの砦ニエンシャッツがあった
    ところの対岸にアレクサンドル・ネフスキー公の名を冠した修道院を建てさせた。

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    1240年、ノヴゴロドの公アレクサンドルがネヴァ川の流域でスウェーデン軍を
    打ち負かした勝利を讃えて、その戦闘があったと考えられた場所を選んだのである。
    これが後のアレクサンドル・ネフスキー修道院の基である。 更に同じ年、
    ピョートルは海軍造船所の近くにイサーク寺院を建立した。 正教の暦では、
    ダルマチアのイサークという聖人の日が5月30日と定めされていたが、この日が
    ピョートルの誕生日であった。

    1711年には、ピョートルのための最初の宮殿、冬宮がネヴァ川のほとりに建て
    られた。 これは5年後に建て直しになる程度の建築だったが、今やピョートルの
    住居は小屋から宮殿になったのである。

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    この要塞と海軍造船所のある北辺の拠点について、ピョートルは1704年9月28日に
    メンシコフに送った手紙の中に3、4日後に首都ペテルブルグに行くと書いている。
    これがピョートルがペテルブルグについて首都と述べた最初の例外的なケース
    であった。 だからと言って、ピョートルがこの時ペテルブルグを首都にすると
    既に決めていたことにはならない。 いずれにしても、スウェーデン海軍の攻撃は
    1705年夏までは続いていたのである。

    1709年のポルタヴァでの勝利の後、1711年ピョートルはモスクワに元老院を
    設置し、9名の議員を任命した。 貴族会議に代わって、皇帝の命令を遂行し、
    重要案件については皇帝に代わって仮の決定を下す中央統治機関とした。
    この機関が1712年にペテルブルグに移ったのは、翌1713年だが、これは重要な
    決定であった。

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    ネヴァ川は、ラドガ湖から発してフィンランド湾に流れ込む。 全長74kmと
    短いが水量の豊富な大河である。 『ネヴァ』という名称は、フィン語の
    Nevajoki から出ているが、これは、 Neva(沼)という言葉が元となっている。

    確かにこの川の河口は、沼沢地帯であった。 この川の周辺に住んでいたのは、
    フィン人であった。 この地に勢力を伸ばしていたのは、スウェーデン国家と
    ノヴゴロドというロシアの都市国家である。

    1300年、スウェーデンはネヴァ川にオフタ川が流れ込むところにランズクローンの
    砦を造った。 1年後にその砦はノヴゴロド人によって破壊された。 1323年の
    講和で、ネヴァの流域は、ノヴゴロドのものとなり、ラドガ湖からネヴァ川が
    始まる辺りにオレーシュクの砦が造られた。 その状態が1609年まで300年近く
    続いた。

    17世紀始め、ロシアは『動乱』の世となり、国が乱れに乱れた。 ポーランド王の
    軍にモスクワが占領されるという事態も生じた。 1611年、スウェーデンも
    ロシアに兵を進めて、ノヴゴロドまでを占領した。 ネヴァ川流域も
    スウェーデンの支配下に入った。

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    破壊されていたランズクローンの砦の後には、ニエンシャンツの砦が造られた。
    オレーシュクの砦は、スウェーデン風にノーテブルグの砦と改称された。
    1613年、動乱を克服したロシアは、ミハイル・ロマノソフを皇帝に選んだ。
    彼は、4年後にスウェーデンのグスタフ・アドルフとストルホヴォの講和を結び、
    ノヴゴロドを取り戻したが、東カレリアとネヴァ川流域一帯に対するスウェーデンの
    領有を認めた。

    スカンジナビア半島から発して、バルト海沿岸に覇権を広げた強国スウェーデンの
    威光は、1世紀続いた。 反抗の時をうかがっていた各国は、1700年に行動を
    起こした。 ロシアの若き英主ピョートルもこの年にスウェーデンに戦いを挑んだ。
    だが、8月にスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲したロシア軍は、ピョートルより
    年少のスウェーデン王カール12世の精鋭部隊に壊滅させられてしまう。
    ピョートルは兵を退き、カール12世がポーランドに転戦している間に、ネヴァ川
    流域のスウェーデン領インゲルマンランドを攻めた。

    1702年10月、ノーテブルグの砦がロシア軍の手に落ち、シュリッセリブルグと
    改名された。 1703年4月には、ロシア軍はニエンシャッツの砦を包囲した。
    ピョートルも七個中隊の兵を引き連れて到着した。 スウェーデン軍は降伏を
    否定して、ロシア軍の砲撃を受け、砦は5月1日(12日)に陥落した。 この時、
    スウェーデン軍の軍艦2隻が救援に来たが、ピョートルは、ニエンシャンツの
    砦を我が物とし、これにシュロットブルグ(城の町)という名を与えた。

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    ピョートルは親政開始後、オランダ等に大使団を派遣し、オランダをあがめていた。
    命名はオランダ語によるものであった。 もっとも、彼にはこの砦の位置が不満
    であった。 海から離れていては、海軍基地と結びつかない。 そこで、ネヴァ川が
    3つに分かれているところの中央にある島エニサーリ(ウサギ)島に注目し、ここに
    要塞を造ることを決め、ただちに着工した。 1703年5月16日(27日)のことで
    あった。 ウサギ島は、ニエンシャンツの砦からは、ほぼ6キロ離れており、
    それだけ海に近い場所にある。

    この日ピョートルは、ここに居なかったので、着工は彼の意を受けた腹心の
    メンシコフの仕事であったが、恐らく、場所選びにはピョートルの意思も加わって
    いたのであろう。 数日後、戻って来たピョートルは、ただちに自分用の住居を
    ウサギ島から遠からぬ川岸に建てさせ、3日で完成した。 松の丸太で作られた
    この小屋が後に『ピョートルの小屋』と呼ばれるものであり、ペテルブルグの
    建築物第一号ということになる。 ピョートルは、ここに滞在する時は、この
    小屋に泊まった。

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    要塞は土で盛った保塁で作られ、急ピッチで建設が進んだ。 6月29日(30日)、
    ピョートルは、建設中の要塞にサンクト・ペテルブルグという名を与えた。
    自分の名ではなく、自分の守護聖人であるペトロから取ったものであった。
    それと共に、この日ペテロともう一人の聖人、パウロの名前を合わせて冠した
    聖堂の建設を始めるように命じた。 これがペテロパブロフスク聖堂となる
    のである。

    木造の質素な聖堂は、要塞共々、1703年の秋には完成した。 その頃には、
    要塞もペテロパブロフスク要塞と呼ばれるようになり、サンクト・ペテルブルグ
    という名は、要塞の周りに住み着く人々の集落を指す言葉になっていた。

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    日本人とロシア人とを一口で比較するのは、なかなか難しいのだが、日本から
    最も近い外国であるロシアは、日本人にとっては、謎だらけ。 未だに鉄の
    カーテンの向こう側にあるため、興味深々♪

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    基本的に、日本人とロシア人とでは、思考回路が間逆であるため、コテコテの
    日本的な考え方の人だと、ロシア人とは話が合わないことが多い。 日本人は、
    内向的であるため、なかなか初対面の人とは打ち解けようとしないのだが、それは、
    ロシア人も同じこと。

    よって、お互いに初対面の人には話し掛けることが少ないため、なかなか知り合いに
    なれる機会が少ないのだが、日本人が『内輪』を非常に好むのとは対照的に、
    ロシアは、国内に約180もの民族がひしめく多民族国家であるため、自己主張が
    強い。 よって、基本的に、思っていることは全て口に出して自己主張しな
    ければならないのだが、単一民族である日本人の場合は、『和』を重視する余り、
    自己主張を許さない傾向が強いため、この部分が日本人とは決定的に異なるため、
    この部分で合わないことが多い。

    但し、ロシアは、元々が全体主義の国であったため、この名残で、西欧人のような
    理不尽な自己主張はして来ない。 元々が保守的な国柄であるため、初対面の
    際には、なかなか仲間内に入って行き辛いのだが、一旦仲良くなると、絶対に
    裏切らないのがロシア人。 一方の日本人は、友人や知り合いであったとしても、
    平気でちゃっかり裏切ったりするため、この点もロシア人とは決定的に異なる。



    両国の共通点としては、自殺が多いことを挙げられるが、自殺の原因は根本的に
    異なる。 ロシアの自殺の原因は、政治への絶望、仕事が見つからないことへの
    あせり、借金等が挙げられるが、日本の場合は、将来への不安、不安定な雇用、
    理不尽な雇用条件を挙げることが出来る。

    生真面目で有名な日本人とは対照的に、ロシア人は、仕事中であったとしても、
    結構いい加減。 但し、ロシアでも堅い職業に就いている人の場合は、日本人
    よりも融通が利かないことが多く、何でも規則通りとお役所対応をゴリ押しして
    来ることが多いのがロシア人の特徴。

    仕事中はニコリともしないが、仕事が終われば、満面の笑みを浮かべるのが
    ロシア人で、仕事中は、満面の笑みで対応してくれるものの、仕事が終われば、
    ニコリともしないのが日本人w ロシア人は、常に笑いを忘れないが、日本人が
    冗談を言うことは稀。 時間に対して非常にルーズなのが、ロシア人で、職場に
    15分程度遅れたとしても、特に何も言われず、昼休みも1時間半~2時間程度
    取るのが当たり前。 ロシアでは、退社時にも時間ぴったりに帰宅するが、この
    全てが一切許されないのが日本人。

    ロシア人は、日本が大好きだが、日本人はロシアが大嫌いという特徴も典型的な
    特徴と言えるのかも知れない。

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    ペテルブルグの郊外には、皇帝の離宮がいくつもある。 代表的なものは
    ツァールスコエ・セロー(ソ連時代はプーシキン)、ペテルゴーフ(現在は
    ペトロドヴァレツ)である。 ツァールスコエ・セローは、ペテルブルグから
    南方約25kmのところにある。

    1725年、ピョートルの死後からツァーリの離宮が置かれた。 エリザヴェータ
    女帝時代、エカテリーナ2世時代に宮殿が整備された。 ピョートルの妃で、
    女帝となったエカテリーナ1世のために建てられた宮殿がエカテリーナ宮殿である。
    これがラストレッリによって拡張され、改築され、バロック様式の豪華絢爛たる
    宮殿になった。 1756年にラストレッリの改築は完成した。

    この宮殿の中で特に名高いのは、琥珀の間である。 1791年この宮殿の大広間で
    日本からの漂流民である大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、日本帰国を
    許されたのである。

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    1800年には、第2の宮殿アレクサンドル宮殿が完成した。 これはクワレンギの
    設計による古典主義的建築である。 エカテリーナ2世は、愛する孫の
    アレクサンドルを身近に置こうと、アレクサンドル(後の1世)のためにこの
    宮殿を建てたのである。 1811年エカテリーナ宮殿の右側に貴族男子の中高等
    学校、リツェイが開校した。 ここに学んだのが、詩人のプーシキンである。

    帝政最後の皇帝ニコライ2世は、妃アレクサンドラ・フォードロヴナが
    ペテルブルグを嫌ったために、首都にいる時には基本的にツァールスコエ・セロー
    のアレクサンドル宮殿で生活をした。 皇帝と皇后は、王女オリガ、タチヤーナ、
    マリヤ、アナスタシヤ、血友病の皇太子アレクセイと共に、この宮殿に立て
    こもっているがごとくであった。

    皇后が信頼する女官アンナ・ビルボーヴァは、ツァールスコエ・セローの街の中に
    家を借りて住み、皇后がラスプーチンと会う便宜を図った。 ラスプーチンは、
    皇太子が出血する際の痛みを止めるのに不思議な力を発揮し、皇后の絶大な信頼を
    得ていた。 皇太子の血友病は公式には全く秘密にされていたので、皇后、女官
    アンナとラスプーチンの関係は疑惑を持って見られるに至った。 二月革命後、
    皇帝の一家はこの宮殿に監禁される生活となった。 そして、シベリアに流刑に
    なったのである。

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    革命後、この街は、ジェツコエ・セローと改称されたが、1937年プーシキンの死後
    100年を記念して、プーシキンと改称された。 独ソ戦争の際、ドイツ軍は、この
    街を占領し、宮殿を完全に略奪した。 ドイツ軍が撤退した時、宮殿は壁だけが
    残っていたに過ぎない。 戦後の困難な状態の中で、完全復元の決定がなされ、
    途方もない努力によって、エカテリーナ宮殿は1959年に復元作業が終わり、公開
    された。

    ペトロドヴァレツは、ペテルブルグの西30kmのところにあって、フィンランド湾の
    南岸に位置している。 エルミタージュの脇の船着場水中翼船で30分、鉄道なら
    40分の距離である。 ここは元ペテルゴフと呼ばれ、1714年に早くも開かれた。

    大宮殿は海に開かれた斜面の上に建てられたが、その後の1755年にラストレッリに
    よって改築された。 大宮殿から下に噴水の階段が作られている。 夏の離宮
    として皇帝達に愛された。 ペテルブルグを離れることを望んだニコライ2世は、
    ここに来ると、大宮殿ではなく、その東の森の中の『農園』と名付けられた質素な
    パビリオンで人と会うことを好んでいた。

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    ペテルゴフもドイツ軍に占領された。 そしてここも完全な廃墟となった。
    これを復元しようという努力は、戦争中の1944年から始まった。 ペテルゴフ
    というドイツ風の名前をペトロドゥヴァレツというロシア風の名前に変えたのも、
    ドイツ軍に対する怒りの表れであったかも知れない。 1947年には、最初の
    噴水が水を出し始めた。 復元作業は60年代に終わった。

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