東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ロシア

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    アメリカが突如、シリアに空爆を始めた。 この空爆は、トランプ大統領の
    命令を受けた米軍が行い、巡航ミサイル『トマホーク』59発を、シリア政府軍の
    基地に向けて発射した。 この基地は、民間人を化学兵器で攻撃した戦闘機の
    拠点だったとしている。

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    米国防総省のデービス報道官によると、ミサイルは米東部標準時の午後8時40分
    (現地時間の午前4時40分)、基地の活動が最も少ない時刻に発射され、航空機や
    格納庫、ガソリンなどの倉庫、弾薬庫、防空システムなどを標的とした。

    米軍によるシリアのアサド政権に対する軍事攻撃は初めてで、トランプ大統領は、
    アサド政権が化学兵器を使用して攻撃を行ったと断定し、『致死性の神経ガスを
    使って、アサドは無力な男性、女性、子供の息の根を止めた』と強調。 対抗措置
    として化学兵器攻撃の拠点となった飛行場への攻撃を命じたと明らかにした。

    一方、ロシアのプーチン大統領は、この米軍による空爆を『主権国家に対する
    侵略だ』、『作り上げられた口実』と非難しており、ロシアとアメリカは、
    シリア上空で軍用機が飛び交う空域で事故が発生するのを回避するため、両軍を
    直接結ぶホットラインを設置していたが、ロシアはこの合意を停止すると発表した。

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    米ロ関係が一気に緊張した形だが、アメリカによる過去の空爆事例を見てみると、
    セルビア、イラク、リビア、シリア、ウクライナとアメリカによる一方的な空爆
    ばかりで、『世界の警察』を自称するアメリカが己の『平和』を一方的に主張して
    介入をして来ると、ろくでもない事しか起こらない。 この事は、広島や長崎を
    見ても一目瞭然。

    >>アメリカが一方的に決めつける平和とは?

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    ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルクの地下鉄で起きた爆破テロ事件で、地元
    メディアは実行犯とみられる男がキルギス共和国出身でロシア国籍の男だと報じた。

    実行犯と見られる男は、1995年生まれのキルギス共和国出身、ロシア国籍の
    アクバルジョン・ジャリロフと報じられた。 この爆破テロ事件は、2017年4月3日
    午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄車内で起きた。
    タス通信によると、これまでに14人が死亡、更に49人が現在も入院中であると
    発表した。



    ソ連時代は、民族対立や人種差別が全くと言っていいほどなかったロシアだが、
    最近は、中央アジアや、ウクライナからの移民や難民が増え過ぎた関係で、
    ロシアと中央アジアとの関係が緊迫している。 そういうところに、このような
    中央アジア出身者によるテロ事件が起きると、アジア人やウクライナ人に対する
    差別が目に見えて増えるため、暫くは情勢不安定になると見るのが妥当。

    180を超える超多民族国家のロシアでは、誰が何人とはハッキリと言えない位に、
    色々な民族が入り混じって生活をしているため、一度争いが起きると、歯止めが
    掛からない。 特に、キルギスは、ロシアにとって、カザフスタンと並んで、
    最も仲が良い国なので非常に残念。

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    近年、モスクワなどでも、移民が増え過ぎて、ロシア人でも仕事がなかなか
    見つからないという話を時折耳にする。 キルギス人は、本来、皆真面目で
    温厚な人が多いが、どうして、こうなってしまったのか? ここ数年、
    中央アジア人は、かなり差別をされており、なかなか仕事が見つからないため、
    こうなってしまったのか。。

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    ソ連崩壊から25年。 ロシアは、旧体制から引き継いだ対外債務をようやく完済
    出来る見込みとなった。

    ロシア政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する旧ソ連時代の債務1億2520万ドル
    (約140億円)を近日中に完済する方針を明らかにした。 セルゲイ・ストルチャク
    (Sergei Storchak)副財務相は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支払いで『旧ソ連
    時代の公的対外債務の返済が完了する。これは歴史的な出来事だ』と述べた。
    ロシアは現在、ウクライナ危機をめぐって、日本や欧米諸国から経済制裁を
    科されている。

    1991年末のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行
    責任を負って来た。 債務の大半は『ペレストロイカ(改革)』で民主化が推進
    された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。

    90年代後半、ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト
    (債務不履行)に陥った。 2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、
    2006年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を
    返済した。

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    ソ連時代の負の遺産は、ロシアがその殆どを引き継いだため、ロシア独立時には、
    この天文学的な大赤字は、一生掛かっても返済出来ないと言われたが、独立から
    25年で完済の運びとなった。 尚、ロシア独立当時の平均的な給与は、円に換算
    すると、月3,000〜6,000円しかなかった。

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    ロシアの歴史の始まりは、かつて、現在のウクライナ付近に存在していた
    『ルーシ』が元となっており、初期の時代は、ウクライナの歴史と同じなのだが、
    モンゴル・タタールによる支配の後、北にあったモスクワ公国が台頭し、現在の
    ロシアとなった。

    ロシアの本来の意味は、『櫂の国』で、当時のロシア国内では、バイキングに
    よる略奪が横行していたが、本来この『ルーシ』とは、バイキング船の『櫂』を
    表していた。

    モンゴル・タタールによる支配を跳ね返したモスクワ公国は、同じ東方正教の国、
    ウクライナをポーランド支配から解放した際に、ウクライナを併合した。
    モスクワは、この時点で、『ルーシ』の正当な後継国となったことから、その後は
    『ルーシ国』という意味の『ロシア』を名乗ることとなった。

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     ロシアには、大きく分けて、王朝が2つ存在したが、そのうちのひとつである、
    リューリック王朝は、スウェーデンから皇帝を招いたもの。 その後、その血が
    途絶えたため、ロマノフ王朝が新たに誕生した。 ロマノフ王朝最後の皇帝、
    ニコライ2世は、1917年の2月革命後で退位に追い込まれ、家族と共に、首都
    サンクトペテルブルク近郊のアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されたが、
    最後はエカテリンブルグで家族共々処刑された。

    革命以降、レーニンが率いるボリシェビキと共産党による、世界初の社会主義国家
    ソ連が誕生した。 その後、ソ連は、アメリカと並ぶ、世界を二分する超大国と
    まで言われ、冷戦時代には、東ドイツまでの東欧をその支配下に置き、約70年もの
    間存在したが、最終的には、当時のゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカ
    (改革)と情報公開が原因で崩壊した。



    ソ連崩壊後の新生ロシアは、ソ連時代の負の遺産を全て引き継いだため、
    天文学的な財政赤字を抱えていたが、その地獄の底のような状況下で、
    突如、彗星のごとく現れたプーチン大統領の一代だけで、この一生涯無理と
    言われた財政赤字を一気に解消した。

    この奇跡的な赤字の解消は、オイルマネーによるところが大きかったのだが、
    ソ連崩壊後は、何でもありの混沌とした時代が続いたため、危ない橋を渡った
    人たちは、一気に新興財閥にまで上り詰めることが出来た時代でもあった。

    社会主義から自由市場主義へと社会が急転換したため、90年代後半は、経済危機を
    招き、日本企業が全撤退するという自体にまで陥ったが、2000年以降は、比較的
    安定しており、大きな経済発展を遂げた。

    その後、ウクライナでの内戦が勃発し、クリミア半島をウクライナから奪還した
    ため、アメリカを中心とする西側諸国から経済制裁を加えられ、ロシアの通貨
    であるルーブルが急落し、現在は、生活にまで深刻な影響が出て来ている。

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    モスクワ経由のアエロフロート・ロシア国際航空で、ロンドンへ海外出張に行って
    来た。 成田空港から、モスクワまでは、約11時間の空の旅。 ソ連時代からある
    アエロフロートは、最新鋭のエアバスを使用しているため、モニター、USB
    コネクター、WiFi、美人キャビンアテンダント付きとなっております☆

    動物愛護の国であるため、アエロフロートの機内には、大型犬も機内持ち込み
    可能。 実際に、猫を機内に持ち込んだことがあるのだが、キャビン
    アテンダント達も非常に親切で、水を持って来て貰ったことがある。 猫を
    ひざの上に乗せていても周囲からも全く文句は言われない。

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    アエロフロートは、かつては、エコノミークラスの更に下のY2クラスに分類
    されていたのだが、今ではサービスにおいても、JALやANAを抜き去り、
    ヨーロッパへの最短ルートとなっている。

    途中、機内食は2回出るのだが、キャビンアテンダントに言えば、飲み物は
    何度でも無料で貰える。 WiFi使用料は30ドル。 英語とロシア語のみで
    その情報が記載されているため、何れかの言語を読めない限り、使えない。
    機内では、ロシア語と英語でもアナウンスしていたが、日本語でのWiFiの案内は
    なかった。 アエロフロートの機内食は、大体、肉か魚を選べる。



    ソ連の時代のアエロフロートは、キャビンアテンダントが国外に勝手に逃げては
    困るという理由により、熊のような体格の女性ばかりがキャビンアテンダントを
    務めていたが、時代は代わり、美人ばかりを取り揃えてサービスを行っている。
    尚、ソ連時代のアエロフロートは、機内はもちろんの事、シベリア上空を通過する
    際にも写真撮影禁止だった。 機内で撮影しているところを見つかると、フィルムを
    取り上げられた時代だった。 機内なのに、雨漏りがするとかも普通で、キャビン
    アテンダントが、ガムテープで応急処置をするという凄まじい時代でもあった。

    成田空港からものの2時間でロシア領内に入り、そこから9時間ロシア国内を飛ぶ
    こととなる。 中国領内を迂回して、ハバロフスク上空からロシア領に入るのだが、
    比較的北側を飛ぶため、上空から見える景色は、かなり寒々しいものとなっている。

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    約11時間の空の旅の後、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港ターミナルDに到着。
    ソ連時代は、このターミナルDはシェメーチェボ第二空港という名前だった。
    但し、建物はその時代とまったく同じ。 トランジットと言えども、空港内から
    外に出る際には、ビザが必須であるため、今回は空港の外には出ずに、ロンドン
    行きの飛行機を待つことにした。

    ロシアでは、2回用の入国ビザを所持していたため、降りようと思えば降りられた
    のだが、シェレメーチェヴォ空港は、中心部にあるベラルーシ駅まで特急で40分
    掛かるため、帰りにモスクワで降りようと考えていたところ、肝心の帰りの
    飛行機が3時間以上も遅れたため、結局、この後、モスクワでは降りられない
    こととなった。 尚、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港では、英語での表記は
    かろうじてあるものの、係員は誰も英語を喋れない。

    シェレメーチェヴォ空港では、トランジットとは言え、パスポートと荷物の
    チェックがあるため、黄色い看板に従って進み、全てのチェックをうけなければ
    ならない。 一応英語表記もあるのだが、昔はロシア語のみの表記であった。
    相当適当な成田空港のパスポートチェックとは異なり、ロシアのチェックは
    かなり厳しいため、変な物を持ち込むと、ここで全て没収されることとなる。



    一昔前までは、手荷物を預けると、出て来ないのが当たり前であったため、空港には
    サランラップのお化けのようなものがあったのだが、今では、普通に荷物が出て
    来るようになった。 そもそも、アエロフロートの職員自体が泥棒という、
    やった者勝ちの航空会社だった。 郵便局も同様で、荷物をEMSで送っても
    届かないのが当たり前だった。

    パスポートコントロールを抜けて、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港の
    トランジットラウンジに到着。 お土産が色々と販売されているのだが、実は、
    この価格は、通常の市場の10倍ぐらいのぼったくり値段。 この3週間後に、
    ロシア連邦にあるウドムルト共和国とタタルスタン共和国に行ったのだが、
    シェレメーチェヴォ空港は、完全に0が一個多かった。

    ロシア人の間でも、シェレメーチェヴォ空港は、両替のレートがあり得ない
    ぐらい高いともっぱらの噂になっているので、空港での換金は、必要最低限に
    しおき、ベラルーシ駅に着いてから両替した方が賢い。

    ロシアでは、プーチン氏の人気が非常に高いということで、様々な大統領グッズが
    販売されていた。 ロシア土産の2大名物と言えば、マトリョーシカと
    シカトゥールカ。 マトリョーシカは、こけしのような木工細工で、
    シカトゥールカは、木で作った小箱に装飾を施したもの。 ロシア軍の
    ちょっとした軍服のようなものも人気。 また、ロシアでは、チェスも非常に
    人気がある。 日本ではチェスはゲームだが、ロシアではスポーツという
    括りになっているため、ロシア人の誰に訊ねても、チェスはスポーツだと
    答えるであろう。 

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    モスクワで乗り換え時間約3時間の後、再度、アエロフロートでロンドン・
    ヒースロー空港へと飛び立った。 ヒースロー空港の地下には地下鉄が通っており、
    ロンドンの中心地まで一本で行くことが出来るのだが、この地下鉄が建設から
    既に100年以上経過しているため、あちこちで工事中。 この日は、ロンドン
    時間の夜の10時過ぎに到着したが、ピカデリーラインの途中駅で全員が地下鉄から
    降ろされ、バスでセントラルラインの終点駅、イーリング・ブロードウェイ駅まで
    強制的に連れて行かれた。 尚、ロンドンの地下鉄は、1駅4.9ポンド、約800円
    もする。

    ノッティングヒルは、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』の
    舞台だった場所で、今でも昼間は、かなりの観光客で込み合っている。 この日の
    目的地は、パディントンベアで有名なパディントン。 ホテルがパディントンに
    あるため、地下鉄で移動したのだが、後で調べたところ、パディントンへは、
    地下鉄よりも国鉄の方が遥かに便利であった。

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    2016年12月15日と16日の両日にロシアの大統領であるウラジーミル・
    プーチン氏が来日した。 日本側では、北方領土の話が進展するのか?の
    話題で持ちきりだったが、そもそも、日本政府は、ロシアに対して、3年
    近くも経済制裁をしているため、領土問題の前に、両国の関係改善の方が
    先のはずなのだが、特に目立った大きな動きはなかった。

    北方領土での日本企業の経済活動は、事実上、日本政府が渡航自粛要請
    (国際法上はロシアの領土であるため、ロシアのビザが必須。 但し、
    日本政府は、これを嫌って渡航自粛を日本国民に要請中)をしており、今回の
    プーチン氏の来日を期に、例えロシアのビザが必要だったとしても、北方領土に
    自由に行き来出来る様になれば、経済的な交流も生まれ、将来に繋がるため、
    全くの空振りだった訳ではない。

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    逆に、今回の日本側の報道で気になったのが、日本政府が北方領土への
    渡航自粛要請を出していることを全く報道しなかったところ。 また、
    政治軍事評論家と称する自称ロシアの専門家たちは、実際はロシア語を
    ほとんど理解出来ないため、終始アメリカの記事を追随するような否定的な
    記事ばかりを書いていたところもかなり気になった。

    北方領土に日本資本がこれまで全く入らなかった理由は、日本政府が意図的に
    禁止していたためであり、ドイツと韓国資本はとうの昔に参入しているため、
    日本ももたもたしていると、参入の機会すら逃すこととなる。

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    日本には、まともなレベルでロシア語を離せる人材がほとんど居ないが、
    ロシア側には日本が喋れる人間も居るので、通訳はロシア側から調達した方が
    無難。 日本とロシアとでは、外国語の教育レベルが違い過ぎる。

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクとは、シベリア開発のために建設された
    シベリアの中では比較的新しい街で、街が造られた当初は、『ノボニコラエフスク』
    という名前だった。 これと同様に、ソ連崩壊直後に、名前が変えられた都市や
    通り名は数多く、ざっと思い出せるだけでも、数知れない。 

    【 国名 】
    ソビエト社会主義共和国連邦 → 独立国家共同体
    ベロロシア → ベラルーシ
    カザフ → カザフスタン
    キルギス → キルギスタン
    ウズベク → ウズベキスタン
    トゥルクメン → トゥルクメニスタン
    タジク → タジキスタン
    タタール → タタルスタン

    【 都市名 】
    レニングラード → サンクト・ペテルブルグ
    ゴーリキー → ニージニー・ノブゴロド
    スベルドロフスク → エカテリンブルグ
    クイビシェフ → サマーラ
    ザゴールスク → セルギエフ・ポサード

    【 通り名・土地名 】
    カリーニン通り → 新アルバート通り(モスクワ)
    カールマルクス通り → 劇場通り(モスクワ)
    レーニンヶ丘 → 雀ヶ丘(モスクワ)

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    実際は、まだまだあるのだが、これを日本語とロシア語で全て覚え直さなければ
    ならないというのには、かなりの時間を要した。 よって、ロシアでは、今でも
    ペテルブルグのことを普通にレニングラードとも言う。 ソ連がなくなり、最も
    変わったのは、社会システムで、社会主義を捨てて、市場経済へ移行するための
    厳しい現実が待っていた。 ソ連の時代は、国が生産管理をしていたため、商品が
    売れようが売れなかろうが、一切関係がなかったのだが、市場経済ではそうは
    行かない。 売れ残り商品は、すぐに在庫となり、マイナスとなって財政に跳ね
    返って来る。 この期に乗して、それまで国立であった設備の私有化が始まった。

    ソ連の崩壊とは、戦後そのもので、火事場泥棒のごとく、やった者勝ちの新興財閥が
    次々と現れては消えて行った。 国がなくなったということは、それらを取り締まる
    法律がなくなったという意味で、弱肉強食の世界へと一変した。 この際、一番
    バカを見たのは、正直に生きて来た人間で、それまでは、生活保障が余りにも
    充実し過ぎてたがために、犯罪、殺人、自殺などは、表には出て来なかったが、
    一気にそれらの問題が表面化したばかりではなく、世界でも有数の治安の悪い国に
    成り果てた。

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    1991年末に、新生ロシアになってからは、ロシアは2000年頃まで激しいハイパー
    インフレに常に悩まされ続けたため、殺人、強盗、盗み、自殺等は、日常茶飯事で、
    知識層を中心に、年間で数万人規模で、移民が多発した。 それまでは、日本国内
    には、恐らく、100名程度しかロシア人が住んではいなかったのだが、今では、
    推定でも2万5千人以上のロシア語圏の人たちが日本で生活をしている。 それは、
    田舎の嫁不足を解消するために、長らく結婚紹介所がロシア人女性を日本に送り込み
    続けた結果とも言える。

    ソ連の時代は、東京でもロシア人を探すのは困難を極めたが、今では浅草等の
    観光地に行くと、必ずロシア人観光客が居るのには驚かされる。 正に、時代は
    変わったのである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥

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    1993年当時、カザフスタンの首都であった、アルマ・アタ(現在の首都は
    アスタナ)は、『緑の街』の別名を持っている通り、緑豊かな中央アジアの
    大都市で、旧ソ連邦の中では、かなり南に位置しているため、果物や野菜も
    豊富だった。 当時のノボシビルスクは、ロシア第3の都市とは言うものの、
    外国から最も遠い位置にあるため、ロシア国内でも物資が最も足りていない
    場所であった。

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    カザフスタンにあって、ロシアにはないものを挙げるとすると、馬乳酒の
    クムイスと餃子のお化けのような食べ物マンティを思い浮かべることが出来る。
    クムイスは、若干すっぱく、少々癖のある味で、かなり苦手な味がしたため
    それ以来、一切飲んではいない。

    マンティは、時々、カザフ人の友人宅でご馳走になっていたので、結構馴染みが
    あった。 旧ソ連の中では南国の部類に入るのだが、実際の緯度は札幌と同じ
    程度であるため、冬はかなり寒い。
     
    実は、このアルマ・アタ滞在中に、天山山脈を越えて、中国のウルムチへ行き
    たかったのだが、残念ながら、ロシア側の学生ビザが下りなかったため、断念
    した。 後日ドイツのベルリンにも行こうとしたのだが、こちらも許可され
    なかった。 許可が下りなかった理由は、『学生には必要ないから』という、
    非常に理不尽なものであった。

    当時のロシアのビザには、写真2枚が必要で、そのうち、一枚は、ロシア入国時に
    提出させられ、ビザの中には、滞在都市の記載があったのだが、そこに記載されて
    ある都市以外へ行くことは当時は禁止されていた。 よって、このアルマ・
    アタへの旅行は、ロシアの出入国と滞在都市以外へ行ったという、2重のリスクを
    犯しての旅であった。

    但し、電車に乗る際に、たまたま駅で出会ったカザフ人の友人の知り合いが
    一緒の電車に乗ることになったため、万事事なきを得たが、周囲が全員カザフ語で
    喋っていたため、全く気付かなかったのだが、実際には、車掌に何度もお金を
    要求されたとその知り合いから教えて貰った。

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    ビザが下りなかったため、ウルムチに行くのは諦めたが、せめて、キルギスの
    首都であるビシケク(ソ連時代はフルンゼという名前だった)にだけは行きた
    かったのだが、時間的にこちらも無理だった。 その後、キルギスの担当をして
    いたため、毎日キルギスには電話をしていたが、今でもキルギスには行った
    ことがない。

    尚、アルマ・アタからは、天山山脈がハッキリと肉眼でも見えており、その山脈を
    越えると、そこは中国の新疆ウイグル自治区となっている。 カザフスタンの北の
    端には、世界最大の核実験場であったセミパラチンスクが、また、この新疆ウイグル
    自治区も中国の核実験場として有名な場所となっている。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクは、『シベリアの首都』と呼ばれており、
    シベリア最大の学術研究都市である。 日本のつくばは、このノボシビルスクを
    まねて造ったとも言われており、国立ノボシビルスク大学のレベルは、ロシアでは、
    モスクワ大学に次いで、第2位となっている。 理系が非常に強い大学であるため、
    現在、ノボシビルスク大学の日本の姉妹校は、同じく理系が強い国立東北大学と
    なっている。 尚、ドイツの姉妹校は、オルデンブルグ大学となっており、
    大学側が用意してくれた学生寮では、ドイツ人2人と生活を共にすることとなった。

    ノボシビルスク大学への入学は、簡単なものではなかった。 特に、外国人が
    ロシアの大学に入学をする際には、エイズ検査が必須となっており、その他にも、
    大学側からの招待状と学費の前納が大前提だった。 大学への入学後は、ロシア人
    学生と一緒の授業を受けたものの、全てのロシア語を理解出来ている訳ではない
    ため、かなりのハンデとなった。 その理由から、担当教授とのマンツーマンでの
    ロシア語での特別授業が始まった。 そこでは、古代教会スラブ語を習うように
    言われたのだが、既に死語である教会スラブ語は、使う場所が全くないため、
    教授に頼み込んで、ドイツ語を専攻することにした。

    Transsiberian

    丁度、学生寮では、ドイツ人2人と生活をしていたため、このことをドイツ人学生に
    話したところ、親切にも、無料でドイツ語でのマンツーマンの授業をしてくれた。
    この日から、外ではロシア語、学生寮の中では、ドイツ語で話す生活が始まった。
    元々、ロシア語とドイツ語は文法的にかなり似ているので、両立はさほど難しく
    なかったのと、日本の大学ではやることがなかったため、ドイツ語をかなり本気で
    学んでおり、特に苦にはならないどころか、自分の知識が目に見えて増えて行くのが
    手に取るように分かったため、毎日が充実していた。

    ノボシビルスクは、学術研究都市であるため、行くところと言えば、ショッピング
    センター(ロシア語では『商業中心』と言う)と本屋めぐりぐらい。 たまたま、
    札幌に昔留学をしていたというカザフ人女性と知り合いになり、度々家にも遊びに
    行くようになった。 更に、そのカザフ人の友人の旦那さんの実家があるアルマ・
    アタ(当時はカザフの首都、現在の名前はアルマトゥイ)に遊びに行くことになった
    のだが、その当時、ロシアとカザフスタンの間には、国境があったものの、国境での
    パスポートチェック等は一切なかった。

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    当時のロシアは、ロシア・ルーブルを使用していたのだが、カザフスタンは、ソ連
    時代のルーブルをまだ使用しており、カザフスタンの通貨である『テンゲ』は、
    その1年後ぐらいまで全く流通していなかった。 ノボシビルスクからアルマ・
    アタまでは、電車で40時間、運賃は、日本円にして40円であった。 この旦那の
    方は、現在、カザフのアクタウに住んでいるが、20年以上も音信不通だったが、
    今ではFacebookで繋がっているため、良い時代になったものである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    前回、ハバロフスクからノボシビルスクまでは、シベリア鉄道で丸4日間掛かると
    述べたが、ロシアでは、割とつい最近まで、入国後72時間以内に警察に行って、
    住民登録を必ずしなければならなかったため、この件で罰金を取られることと
    なった。

    当時アエロフロートは、燃料不足により、半年以上も一切飛んでいなかったのだが、
    ロシアでは、そのようなどうでも良いことは一切考慮されないばかりではなく、
    規則は規則なので、どうにもならない。 よって、このような場合は、机を叩いて
    でも怒りの意思表示をしなければならないのがロシアのしきたり。

    実は、チケットを購入して、ハバロフスク空港に到着してから、この衝撃的な
    事実を知ってしまったのだが、その時のアエロフロートの窓口の対応は最悪で、
    チケットは払い戻しするが、手数料が掛かるという意味不明なものであったため、
    怒りの意思表示をしたところ、空港まで送ってくれたロシア人の友人が、こちらの
    余りの剣幕に、呆れ顔で見ていたという逸話が残った。

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    さて、シベリア鉄道だが、ロシアの車両は、外国人専用のスーパーワゴンには
    シャワーが付いているものの、ロシア人向けのコンパートメントや、3段式の寝台
    車両にはシャワーがない。 また、ロシアの長距離列車には、コンパートメント
    内にお菓子が置いてあるのだが、それを食べると別料金を請求される。 ロシアは
    基本的に何でもやった者勝ちで、少しでも遠慮をした人間が100%バカを見るという
    システムが完全なまでに構築されている。

    ロシアを訪れた人間が、ロシアに対して、好意を抱くか、または、悪意を抱くか
    なのだが、基本的に、ロシア語を喋れない人間の場合は、ぞんざいな扱いしか受け
    ないため、嫌いになる確率の方が遥かに高い。 但し、例え片言だけでもロシア語を
    喋れると、大歓迎されるため、好きになるという、インド並ぐらいに好き嫌いが
    ハッキリと分かれる国でもある。

    元々、ロシアは世界一の超多民族国家であるため、アジア人でも特に差別はされない
    のだが、よほどのインテリでもない限り、外国語は通じないため、ロシアを訪れる
    際には、基本的にロシア語が必須となっている。 但し、2000年以降は、急速に
    英語が普及したため、大学の学生レベルであれば、ある程度英語を喋れるように
    なったのには、時代の流れを感じずにはいられない。

    ソ連時代の外国語と言えば、ドイツ語とフランス語がメインで、英語はかなり
    マイナーな言語でワンツースリーのレベルでも一切通じなかった。

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    ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
    ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
    締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
    自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
     
    93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
    しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
    大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
    ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
     
    93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
    1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
    来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
    全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
    状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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    その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
    車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
    していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
    だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
    表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
    から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
    犬死も同じ時代であった。
     
    それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
    対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
    夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
    研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
    治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
    スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
    地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
    なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
    ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
    週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
     
    尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
    機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
    同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
    前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
    当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
    ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
    鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
    乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

    当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
    180ドルであった。

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    ソ連崩壊直前の1989年当時、ロシアの通貨であるルーブルは、360円だった。
    但し、その年にロシアルーブルは一気に下落して、10分の1の価値である、36円
    まで暴落した。 ここからロシアの経済危機とハイパーインフレが始まった。
    90年1月には、モスクワのプーシキン広場に初めてアメリカ資本のマクドナルドが
    進出し、ソ連の歴史が始まって以来、身分の高い店員様が客に対して、
    『ありがとうございました』と言ったことが非常に話題となった。 それまでの
    ソ連の店では、客が店を後にする際に『ありがとう』と言い、店員の言葉と言えば、
    『どういたしまして』が普通だった。
     
    当時、和食レストランは、モスクワでは『サクラ』という一店しか存在していな
    かったのだが、今では、モスクワ市内だけでも、700店を超えるのだとか。 今や、
    ユニクロや丸亀製麺までもが進出を果たしており、この25年間のロシアの変貌振り
    には驚きを隠せない。 恐らく、この25年間でここまで変貌を遂げた国は、ロシア
    以外にはないであろう。 中国も大変貌を遂げてはいるものの、社会主義から資本
    主義への転換はしていない。 ロシアが最も変わったところは、やはり、社会主義
    から資本主義へと転換し、地獄の底を這いながらも、ここまで経済発展したところに
    尽きる。 現在のモスクワ・シティーは、新宿と何ら遜色がないばかりか、むしろ、
    発展している。 これが、経済危機で何年も完成が遅れた建物群かと見まごうばかり
    である。

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    ソ連当時、バスのチケットは、運転手から買うものだった。 よって、車内で隣の
    人にお金を渡せば、めぐりめぐって、自分のところへチケットとおつりが返って
    来るという、非常にのどかなものだった。 その後、ソ連が崩壊してしまったため、
    このような風習はすっかりと消え去った。 ソ連時代の最大の特徴は、民族友好で、
    ソ連国内に約180も居る多民族は、皆平等なソ連人だった。 基本的に国民全員が
    公用語であるロシア語を操り、社会主義の時代は、国をあげて教育にも熱心に力を
    入れたため、あれだけ広大な国であるのにも関わらず、ロシア語には方言という
    ものがほぼない。

    社会主義とは、アメリカ的なイデオロギーから見ると、悪らしいが、国家が計画的に
    経済を建設する社会であったため、国民全てに、マンションと別荘も与えられる
    という、強欲資本主義では到底あり得ない特典もあった。 よって、贅沢さえしな
    ければ、皆が幸福で居られる社会でもあった。 それゆえに、逆に発展性がなく
    なり、働いても働かなくとも、給与は同じという生温い社会が70年間も続いたため、
    ソ連は崩壊したとも言える。


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