1840年代のフランスの商人たちは、ベトナムの経済資源の開発に熱心だった。
彼らはフランス皇帝ナポレオン3世に対して、ベトナムを侵攻するよう圧力を
掛けた。 フランス艦隊は1858年に、ダナン港の攻撃を繰り返したが、制圧
することが出来なかった。 翌年、フランス軍はサイゴンを占領すると、
グエン王朝にメコンデルタを放棄させ、1867年には、この地域をフランス直轄
殖民地にコーチシナにした。
フランス軍は1880年代初めに更に北に進軍し、フエと紅河デルタを攻撃した。
80年代末には、アンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)が
フランスの手に落ちた。 フランスはこの2地域とコートシナに加えて、やはり
フランスが支配していたカンボジアとラオスを合わせて、フランス領インドシナ
連邦を形成した。 フエのグエン王朝は内政だけは行う名ばかりの支配者に
過ぎず、フランス政府が任命する総督が連邦全体を統治した。
植民地の統治者たちは、ベトナムの天然資源を開発して行った。 フランス人は
メコンデルタの米を増産するために、湿地を干拓し、灌漑設も整えた。 植民地
政府は、カンボジア国境沿いの土地をフランス人入植者に与え、大規模な農場や
ゴム園を造らせた。 人口の希薄な中部高原地帯の土地所有者たちは、茶等、
輸出でお金になる作物を栽培した。 北部では、フランス人は石炭と鉱物を
採掘した。
フランス人は、生産物を市場に出荷するために、ベトナム人労働者を使って港湾、
道路、橋、鉄道を建設した。 だが、ベトナムの経済開発は現地の人々を潤さ
なかった。 大抵の農民は、所有地の農場に住んでいない不在地主のために
働いた。 不在地主は、収穫した穀物を現地で売らないで輸出した。 土地を
失った大勢のベトナム人は、賃金も安く厳しい労働条件の下で、炭鉱やゴム園で
働かなくてはならなかった。
【抵抗運動と第二次世界大戦】
フランスの厳しい植民地支配のため、インドシナ連邦に対するベトナム人の反対が
強くなった。 貧しい農民たちは、高い税金、官吏の腐敗や、不在地主の権力の
増大に抗議した。 20世紀初めには、ベトナム人の知識人グループが民族主義運動を
起こし、フランスの支配を覆して立憲政治を打ち立てようとした。
1920年代になると、ソ連の指導者レーニンの共産主義が、ベトナムの新しい世代の
民族主義者に影響を与えた。 その中に、ホー・チ・ミンという若い活動家が居た。
共産主義者たちは、農場、工場、鉱山等、全ての生産手段の国有化を唱えた。
フランス滞在中に、ホー・チ・ミンはフランス共産党で活動するようになり、故国に
戻って共産主義運動を始め、1930年にはインドシナ共産党を組織した。
1930年代には、ベトナム人は、世界大恐慌を乗り切るのに必死で、政治不安も
起きなかった。 インドシナ共産党は、不況で反仏感情を一層高めていたアンナンと
トンキンで、特に運動を成功させた。 1930年代の終わりには、民族主義、
非共産主義政党も沢山組織された。 これらの政党とインドシナ共産党は、フランス
植民地政府によって強く反抗した。
やがて、強力な日本帝国が東南アジアを脅かして来た。 第二次世界大戦で
日本はアメリカとイギリスと戦い、1942年までにインドシナ半島全体を占領して
しまった。 日本はベトナムに日本軍を進駐し、ベトナムの軍事施設を使用する
権利と引き換えに、フランスのインドシナ連邦における主権を認めた。
インドシナ共産党をはじめ、民族主義諸政党の指導者たちは、中国南部に亡命
していた。 日本に反抗してベトナムの独立を勝ち取るために、亡命先で統一
戦線を結成した。 この組織はベトミン(ベトナム独立同盟)と言われ、戦争が
終わった後、フランスに対して反乱を起こす準備をした。
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