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    カテゴリ: 東南アジア

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    1840年代のフランスの商人たちは、ベトナムの経済資源の開発に熱心だった。
    彼らはフランス皇帝ナポレオン3世に対して、ベトナムを侵攻するよう圧力を
    掛けた。 フランス艦隊は1858年に、ダナン港の攻撃を繰り返したが、制圧
    することが出来なかった。 翌年、フランス軍はサイゴンを占領すると、
    グエン王朝にメコンデルタを放棄させ、1867年には、この地域をフランス直轄
    殖民地にコーチシナにした。

    フランス軍は1880年代初めに更に北に進軍し、フエと紅河デルタを攻撃した。
    80年代末には、アンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)が
    フランスの手に落ちた。 フランスはこの2地域とコートシナに加えて、やはり
    フランスが支配していたカンボジアとラオスを合わせて、フランス領インドシナ
    連邦を形成した。 フエのグエン王朝は内政だけは行う名ばかりの支配者に
    過ぎず、フランス政府が任命する総督が連邦全体を統治した。

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    植民地の統治者たちは、ベトナムの天然資源を開発して行った。 フランス人は
    メコンデルタの米を増産するために、湿地を干拓し、灌漑設も整えた。 植民地
    政府は、カンボジア国境沿いの土地をフランス人入植者に与え、大規模な農場や
    ゴム園を造らせた。 人口の希薄な中部高原地帯の土地所有者たちは、茶等、
    輸出でお金になる作物を栽培した。 北部では、フランス人は石炭と鉱物を
    採掘した。

    フランス人は、生産物を市場に出荷するために、ベトナム人労働者を使って港湾、
    道路、橋、鉄道を建設した。 だが、ベトナムの経済開発は現地の人々を潤さ
    なかった。 大抵の農民は、所有地の農場に住んでいない不在地主のために
    働いた。 不在地主は、収穫した穀物を現地で売らないで輸出した。 土地を
    失った大勢のベトナム人は、賃金も安く厳しい労働条件の下で、炭鉱やゴム園で
    働かなくてはならなかった。

    【抵抗運動と第二次世界大戦】
    フランスの厳しい植民地支配のため、インドシナ連邦に対するベトナム人の反対が
    強くなった。 貧しい農民たちは、高い税金、官吏の腐敗や、不在地主の権力の
    増大に抗議した。 20世紀初めには、ベトナム人の知識人グループが民族主義運動を
    起こし、フランスの支配を覆して立憲政治を打ち立てようとした。

    1920年代になると、ソ連の指導者レーニンの共産主義が、ベトナムの新しい世代の
    民族主義者に影響を与えた。 その中に、ホー・チ・ミンという若い活動家が居た。
    共産主義者たちは、農場、工場、鉱山等、全ての生産手段の国有化を唱えた。
    フランス滞在中に、ホー・チ・ミンはフランス共産党で活動するようになり、故国に
    戻って共産主義運動を始め、1930年にはインドシナ共産党を組織した。

    1930年代には、ベトナム人は、世界大恐慌を乗り切るのに必死で、政治不安も
    起きなかった。 インドシナ共産党は、不況で反仏感情を一層高めていたアンナンと
    トンキンで、特に運動を成功させた。 1930年代の終わりには、民族主義、
    非共産主義政党も沢山組織された。 これらの政党とインドシナ共産党は、フランス
    植民地政府によって強く反抗した。

    やがて、強力な日本帝国が東南アジアを脅かして来た。 第二次世界大戦で
    日本はアメリカとイギリスと戦い、1942年までにインドシナ半島全体を占領して
    しまった。 日本はベトナムに日本軍を進駐し、ベトナムの軍事施設を使用する
    権利と引き換えに、フランスのインドシナ連邦における主権を認めた。
    インドシナ共産党をはじめ、民族主義諸政党の指導者たちは、中国南部に亡命
    していた。 日本に反抗してベトナムの独立を勝ち取るために、亡命先で統一
    戦線を結成した。 この組織はベトミン(ベトナム独立同盟)と言われ、戦争が
    終わった後、フランスに対して反乱を起こす準備をした。

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    第二次世界大戦が始まった3日後の1941年12月10日、日本軍はフィリピンに
    侵攻した。 フィリピンとアメリカ軍は数ヶ月に渡って日本軍と戦ったが、
    バターン半島、そしてコレヒドール島へと追いつめられた。

    1942年5月、フィリピン共和国は降伏し、日本はフィリピンを占領した。
    ケソン大統領や政府指導者は、亡命政府をつくるため、ワシントンへ避難した。
    フィリピン人の多くは、飢えに苦しんだ。 その中で、フィリピン人の中には
    日本の厳しい支配に、強力を拒み、ゲリラとなって日本に抵抗する者も多かった。

    退却していたマッカーサー将軍とアメリカ軍がフィリピンに戻って来たのは、
    1944年10月だった。 アメリカ軍を助けるために、フィリピン人ゲリラは日本軍を
    捜索した。 そして、主な島々を再び取り戻すためにアメリカ軍に加わった。
    1945年8月15日、日本は降伏し、第二次世界大戦は終わった。

    1942年の日本の勢力図

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    【フィリピンの独立】
    ケソン大統領はアメリカにつくった亡命政府の時代に亡くなり、オスメーニャ
    副大統領が後を継いだ。 1945年、政府はマニラに帰った。 1946年4月に
    行われた大統領選挙で、マヌエル・ロハスが選ばれた。 ロハスは戦争で破壊
    された国家の再建に取り組んだ。

    タイディングス=マグダフィー法に従って、アメリカはフィリピンから手を引いた。
    1946年7月4日、フィリピン共和国は完全独立を達成した。 アメリカは新生
    フィリピンに経済援助を行った。 その代わりに、フィリピン政府はアメリカが
    同国に基地を維持することを認めた。

    戦争の後の国家再建の難しさに加えて、フィリピン政府は共産主義者からの
    挑戦に直面した。 人民解放軍(あるいはフク団。 タガログ語の省略)と
    呼ばれる革命家たちは、ルソン島中心部で活躍した。

    フク団は農民や労働者グループが土地や工場の支配を確立することを望んだ。
    土地支配を分かち合い、収入を平等に分配するという共産主義の原則を適用
    すべきだと考えた。

    1950年代の初期、フク団のゲリラは政府軍を攻撃した。 ゲリラは戦後の苦しい
    経済下に置かれていた地方の多数の人々の支持を得た。 ラモン・マグサイサイ
    国防長官は軍を率いてフク団制圧に当たった。 1953年の選挙で大統領に
    選ばれると、マグサイサイはフク団を押さえ込むのに成功した。

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    1497年にレタイントンが死ぬと、後の皇帝は力が弱くて治世も皆短く、良く組織
    されていた政治制度を無視したので無政府状態を招いた。 16世紀になると、
    政府高官たちが互いに争い、1527年にそのひとり、マツクダンズン将軍が9代
    100年続いたレ王朝を倒し、遂に長年に渡る内乱が始まる。

    16世紀も後半になると、2大氏族が権力を分割して統治した。 北部ではティン氏が
    実権を握ったが、名目的な君主としてレ王朝を再興した。 南部で支配権を確立した
    グエン氏も、表向きはレ王朝を唯一の正統な君主とみなした。

    グエン氏は同時に、クメール帝国(カンボジア)に軍隊を進め、勢力を広めて
    行った。 クメール族は肥沃なメコンデルタをはじめ、広くインドシナ半島を
    支配していた。 グエン氏は、農民をクメール領に送り込んだ。 1690年までに
    ベトナム人は、メコンデルタのクメール族入植地、サイゴンに入り込んでいた。

    グエン氏はまた、絹や貴金属を中国、日本、および、ヨーロッパの商人たちに
    売って、対外貿易を伸ばした。 グエン氏の農園では、農民は国際市場を対象に
    して砂糖等を栽培した。 一方、ローマカトリック教会の宣教師に同行して来た
    ヨーロッパの商人たちは、懸命になって貿易を軌道に乗せ、またベトナム人を
    キリスト教徒に改宗させて行った。

    グエン氏の勢力は拡大して行ったが、メコンデルタに入植したベトナム人たちは、
    圧制に悩んだ。 1771年、ベトナム中部の山村、西山に反乱が起き、同村の
    グエン3兄弟が民衆を率いた。 1780年代に数年間の戦いの後、西山軍が
    メコンデルタからグエン氏の勢力を追い払い、次いで北部のティン氏の軍隊も
    破った。

    3兄弟はベトナムの北部、中部、南部を陥れると、統一政府の西山朝を設立した。
    だが、西山朝は、戦争のために農地が荒れ、収穫が衰えて飢餓になるという
    問題を解決出来なかった。

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    隣国のタイに亡命していたグエン氏一族の若い後継者、グエン・ツアクアインは、
    ベトナムを再び征服しようとした。 アジアに通商の拠点を作り始めていた
    フランス等外国の援助を得て、軍隊をメコンデルタから北へと進め、1802年に
    西山軍を破り、今日のベトナム領の殆んど全部を征服した。 そこでグエン・
    フツクアインはグエン王朝を建てて、自らゼーロン皇帝と称した。

    ゼーロン皇帝はベトナム中部のフエを首都とし、中国風の官僚制を強め、反政府
    勢力を全て潰した。 フランス人のカトリック宣教師が、多くのベトナム人を
    キリスト教徒に変えただけではなく、宮廷政治に干渉したために、ゼーロン皇帝は
    宣教師を弾圧し、フランス人の活動を制限し、国民のキリスト教信仰を禁じた。

    1830年代には、ゼーロン皇帝を継いだ息子のミンマン帝も父帝と同じように
    フランス人の影響に反発した。 皇帝はフランス人宣教師を大勢処刑したが、
    なお布教を続けながら、ベトナムをフランスが取得してしまうことを呼び掛ける
    宣教師も居た。

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    20世紀の初め、ウィリアム・マッキンレー大統領は、アメリカはフィリピン諸島を
    永遠に領有するつもりはないと語っている。 自治に向けて一定期間の準備の後、
    フィリピンが独立するという考えをアメリカは受け入れていた。 このため、
    アメリカのフィリピン統治にとって、教育は最も重要な柱となった。

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    600人を超す教師が、学校を作るためにアメリカからやって来た。 1908年、
    マニアにフィリピン大学が創設されると、何百というアメリカ市民が大学を支持した。
    独立を待ち望んだ者にとっては十分なものではなかったが、アメリカによる支配の
    最初の時期から、フィリピン人は統治に参加した。 マヌエル・ケソン、セルジオ・
    オスメーニャ、マヌエル・ロハスは、アメリカに対して一層の自治を求めた
    フィリピンの指導者たちである。

    p18

    1934年、アメリカ議会でタイディングス=マクダフィー法が通過した。 同法は
    フィリピン憲法や立法府の選出、そしてフィリピン人による大統領を制定していた。

    フィリピンは共和国となったが、国内的には、フィリピン人が支配するものの、
    向こう10年間は、外交と防衛に関しては、アメリカが支配を維持するという
    ものであった。

    1935年5月、フィリピンの人々は憲法を承認し、11月にはマヌエル・ケソンが
    初代大統領に選ばれた。

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    10世紀、唐の崩壊後に起きた中国の内部抗争は、ベトナム人に中国の支配を覆す
    機会を与えた。 愛国的な武将、誤権が率いる反乱軍は中国軍を破り、939年に
    ベトナムの成立を宣言した。

    誤権は、中国に占領される前の王国の首都であったコーロアを都と定めたが、
    短命だったので、強力な国家を建設出来なかった。 944年に誤権が死ぬと、
    財力のある土豪たちが権力争いに走った。

    1009年に、土豪のひとり、李太祖は全土を平定して李王朝を打ち立て、翌年、
    首都を現在のハノイに移した。 国名は後に大越(ダイヴェト)と改めた。
    李王朝は中国の儒学に基づいて、行政制度を組織し直した。 学生は儒学を
    勉強して厳格な採用試験(科挙の制度)に合格しなければ、中央政府の官僚には
    なれなかった。

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    李王朝時代にベトナム人は、新しい水田が欲しくて南へと移動し始めた。 ベトナム
    中部には、チャム族がまだ耕していない土地があったので、チャム族のチャンバ
    王国を攻め、その領土を奪って行った。 ベトナム人農民は、沿岸の低地で米を
    植えはじめ、技師たちは堤防や運河を建設して洪水を防いだ。

    李王朝は、宮廷の高官、陳一族が、一族の幼い男子を李王家継承者の幼女と結婚
    させて、陳王朝を築いた1225年まで続いた。 陳王朝は、ベトナムの政治を
    発展させた。 洪水から水田を守る公共事業によって、農民は穀物の収穫を
    増やしたので、経済は豊かになった。 官僚が行政を握り、仏教が盛んになった。

    13世紀後半に、モンゴル(元朝)軍がアジア大陸東部を伝って、大越に攻め入った。
    この侵略者を追い返したのが、陳興道将軍だった。 14世紀には陳王朝は、ベトナム
    中部のチャンバ王国と軍事衝突を繰り返した。 チャンバ国王が中国に助けを
    求めたために、大越は中国に攻撃されて1407年までに独立を失い、中国(明)の
    直轄地になってしまった。

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    中国の皇帝は上流のベトナム人に中国服を着用するように命じ、また、ベトナム語を
    教えることを禁じた。 過酷な中国同化政策は、既にベトナムの反抗を引き
    起こした。 金持ちの土豪であるレロイは、抵抗運動を組織し、1427年に
    中国人を追い払った。 レロイは大越の皇帝に即位し、ハノイを首都に定めて
    黎王朝を打ち立てた。

    黎王朝が治めた大越は、政治が安定し、儒教文化の黄金時代だった。 黎王朝で
    最も偉大な皇帝黎聖宗は、新たな法律体系を確立し、15巻の大越史の編纂を命じて
    いる。 1470年代にはチャンバ王国を併合して、ベトナム領土を南方へ広げて
    行った。

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    1892年、アンドレス・ボニファシオが『カティプナン』(タガログ語で団結の
    意味)を結成した。 カティプナンは秘密結社で、武力によってスペインの
    植民地支配を転覆させようというものだった。

    1896年、3万人のカティプナンのメンバーがスペイン攻撃に立ち上がった。
    しかし、エミリオ・アギナルドを指導者とする軍だけが、反スペインの戦いに
    成功し、1897年ボニファシオに代わってカティプナンの指導者となった。
    スペイン側は領土の大半を奪い返したが、アギナルド軍の鎮圧には失敗した。

    1897年末、アギナルドはスペインと和平条約を結んだ。 アギナルドの亡命と
    引き換えに、3年以内に自治を約束していた。 同年12月、アギナルドは香港へ
    亡命した。

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    一方、スペインの他の植民地でも反乱が起きていた。 カリブ海の島国キューバが
    スペインから独立を宣言すると、アメリカはこれを支持した。 この結果、
    アメリカとスペインは1898年初め、米西戦争を戦った。

    戦争の報償はフィリピンだった。 1898年4月、ジョージ・デューイ准将は
    アメリカ海軍を率いて香港からマニラ湾に入り、スペイン海軍を破った。
    アギナルドは香港から戻り、カティプナンを率いてスペインと戦った。

    カディプナンの支持のお返しに、アメリカ政府はフィリピンの独立を約束した。
    アメリカとカティプナンの連合軍は、1898年8月、スペインを敗北させた。
    その年の後半、アメリカとスペインは戦争を終結、パリ条約を結んだ。 条約の
    下でアメリカはフィリピン、グアム、プエルト・リコを獲得、スペインには
    2000万ドルを与えた。

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    多くのフィリピン人にとって、アメリカの占領はスペインの植民地支配と
    比べても、状況は改善されなかった。 アギナルドや多くのフィリピン人は
    アメリカに抵抗した。

    いかなる形の植民地支配も拒否し、アギナルドは1899年に独立を宣言した。
    1901年に逮捕されるまで、彼はアメリカに対する武力闘争を指導した。 その後も
    アギナルドの軍隊はしばらく戦い続けた。

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    ベトナムの歴史は、現代ベトナム人の祖先が少なくとも4000年前に住んでいた
    紅河デルタから始まる。 彼らはやがて耕作地を求めて南へと移動し、現在
    ベトナム中部とされている地域で、チャム族、クメール族と接触する。

    チャム族は現代カンボジア人と人種的に関係が深い種族であり、クメール族は
    メコンデルタを支配していた。 ベトナム人は結局、この2つの種族と紛争を
    引き起こし、18世紀半ばまでに敵対する種族を破って、現代ベトナムを
    形作くっている国土の全部を支配した。

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    【初期の諸王国】
    遺跡の発掘で分かったことだが、紅河デルタに最初の大きな中央集権の国が
    現れたのは紀元前800年ごろだった。 当時を『ドンソン文化期』と言う。
    人々はデルタの河川の治水のため、堀や運河を掘った。 また、らく田と
    呼ばれる稲作水田の灌漑に、南シナ海の潮の干満を利用した。 洪水や日照りから
    土地を守り、また、灌漑をすることによって、ドンソン文化期には必要な
    だけ収穫をあげていた。

    ドンソン人たちは、丸木舟など小舟を使って旅や交易をした。 インドシナ
    半島での交易を通じて冶金の知識を広げ、青銅器の制作を学んで工具、武器、
    鼓、器や装飾品を作った。

    紀元前250年前に、ベトナムの支配者、安陽王は、デルタ地帯のドンソン人たちと
    近隣の高地の人々を統合して、オウラク王国を打ち立てた。 その首都は、
    ハノイの32km北にあるコーロアだった。 王国の人々は大概、現地の土豪の
    所有地である稲作水田で働く農民だった。

    紀元前207年になると、中国の将軍、趙佗が紅河デルタを征服し、自ら王に
    なって独立国、南越を打ち立て、中国の承認を得た。 紀元前111年には、
    中国(前漢)の武帝の軍隊が南越を襲って滅ぼし、中国領にしてしまった。

    中後くの文化はベトナム社会を変えた。 例えば、中国の儒教哲学が、
    ベトナムにおける政治と日常生活の厳格な規範となった。 また、ベトナム人は
    中国の官吏や教育者が読み書きに使っていた漢字を採用した。

    中国のベトナム支配は1000年間続いた。 その間、ベトナムの知識階層は
    、中国の仏教信仰をはじめ、中国文化を受け入れて行った。 中国人はまた、
    ベトナム人に養蚕、貨幣の鋳造、磁器の生産を教えた。 ベトナムの海岸沿いに、
    対外貿易を推し進めるために港もいくつか建設した。 貿易が発展するにつれて、
    富と力を蓄えたベトナム人の一族も出て来た。

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    植民地の経済は成長を続けたが、大半のフィリピン人は恩恵を受けなかった。
    宣教師やスペイン当局者、それと少数の金持ちフィリピン人が土地の大半を
    所有し、商業を支配した。 フィリピン人の大半は小作農で、高い地代を
    払わされた。

    フィリピン人の不満は深まり、いくつかの反乱が起きた。 ルソン島の
    イロカノ族は、1807年、政府がワイン製造工場の支配を手にすると、反乱を
    起こした。 1841年には多くのフィリピン人が、スペインの圧政に抗して
    ルソン島で武装蜂起した。 アポロナリオ・デ・ラ・クルツの戦いに加わった。

    19世紀を通じて、多数のフィリピン人グループが、経済改革や政治的自由を
    求めて、スペインの指導者に圧力を掛けた。 だが、教育もなく、植民地行政に
    直接その声を反映出来る手立てがなかったため、その努力は、ほとんど実らな
    かった。

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    【ホセ・リサール】
    マニラおよびヨーロッパの大学で勉強したフィリピン人の小さなグループに、
    ホセ・リサールがいた。 1800年代の終わりまでに、フィリピン独立のための
    最も有名な指導者になった。 1891年、医者であり作家でもあったリサールは、
    フィリピン連盟をつくった。 組織は、大農園での強制労働のようなスペインの
    権力乱用を止めさせようとした。 連盟の目標は、自治国家をつくることに
    あった。

    リサールが組織の活動を始めると間もなく、スペイン当局はリサールを
    ミンダナオ島に追放した。 リサールはフィリピン人の抵抗の象徴になると、
    スペインは彼を処刑した。 リサールの指導を欠いて、フィリピン連盟も解散
    した。

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    ベトナムの人口(7,180万人)の約20%は、都市部に住んでいる。 大都市は
    ホーチミン市、次いでハノイ、ハイフォンとなっている。 この次に重要なのは、
    ダナン、フエ、ニャチャンで、このこの3都市は全て中部の海外沿いにある。

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    【ホーチミン】(旧サイゴン)
    サイゴンとその周辺のメコンデルタ地区には、400万人が住んでいる。 滅多に
    使われることがないこの街の正式名称『ホーチミン市』は、フランスから
    ベトナム独立を勝ち取った戦争の指導者である共産主義者を記念したもの。

    サイゴンは、6世紀にカンボジアのクメール族が築き、南進を続けていた
    ベトナム人が、サイゴン周辺に定住し始める17世紀まで、クメール帝国に属して
    いた。 次第に大きな港町になり、それがフランス人の目に留まって、19世紀に
    植民地にされてしまう。 フランス人は幅の広い大通りをつくり、住宅地には
    ヨーロッパ・スタイルの家屋を建て、今でもフランス風の様相を見せている。

    ベトナム戦争の間、アメリカ軍部隊、ジャーナリスト、一般外国人がサイゴン市内の
    ホテル、ナイトクラブ、喫茶店にあふれ、サイゴンの経済は戦時活動に密着して
    いた。 戦争が終わると、サイゴンの経済は低下し、多くの企業は潰れ、あるいは、
    政府に接収された。 だが最近は経済が回復して、ナイトクラブも再開し、新しい
    ホテルや事業所がたくさん建設されている。 道筋に並ぶ露店商人たちも景気が
    良くなっており、シクロ(三輪自動車のタクシー)が街中にあふれている。

    ベトナム南部の金融、商業の中心地であるサイゴンは、ゆっくりだが戦争の痛手から
    立ち直っている。 市内の工場では、食品を加工し、家具やカーペットを生産して
    いる。 家族経営の小企業が栄え、一時は売り物がなかった露店の食品市場は、
    果物や野菜で一杯になっている。

    【ハノイ】
    ベトナム第二の都市ハノイは、11区から成る大ハノイ(人口約300万人)で、
    そのうち4区が首都ハノイ(人口92.5万人)となっている。 北部の工業の
    中心地で、自転車、たばこ、農耕機械、木製品を生産している。 最近の経済
    改革で、ハノイに対する外国の投資を奨励し、多くの私企業が開業した。

    トンキン湾から紅河を72キロ遡った地点にあるハノイは、1010年に李王朝(最初の
    ベトナム人統治者一族)の王都となった。 19世紀にベトナム王国が首都をフエに
    移すまで、ハノイは文化と教育の中心だった。

    ハノイの繁華街の真ん中にホアン・キエム湖がある。 その周りの公園では、
    市民たちは祭りやバイクレース、ハトレースが開催されている。 湖の南側は、
    近代的な商業地区で、フランス植民地時代に建てられたホテルや大きなストアが
    並んでいる。 また、北側はハノイの旧市街地区で、古い寺や故ホーチミンの
    霊廟がある。

    【ハイフォン】
    ハノイから東へ100キロ余り、トンキン湾に面しているのが、ハノイの外港であり、
    ベトナム北部の最も重要な港であるハイフォン(人口150万人)で、ハイフォン港で
    陸上げされた荷は、鉄道でハノイに運ばれる。 港内では無数の小舟が荷船や
    タッグボート、貨物船ともみ合うようにして走っている。 大型船が入港、停泊
    出来るように、港湾の改良、拡大の計画が進められている。

    19世紀末にフランス人が開港したハイフォンは、第二次世界大戦中に日本軍に占領
    された。 ベトナム戦争中、北ベトナムが輸入する軍事物資の大半は、ハイフォン港
    で積み荷を降ろしていた。 その結果、港はアメリカ軍機の猛烈な爆撃の標的と
    なった。 戦争で受けた被害の修復工事が、まだ市内の各地で行われている。

    ハイフォンの主な産業は、造船、魚介類の缶詰、ガラス製品、純毛カーペットで
    ある。 リン酸塩で肥料を生産している工場もある。 近くにある水力発電所から、
    ハイフォン市内の工場に送る電気の変電所もある。 港湾都市の伝統から、海軍の
    学校が2校ある。

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    1500年代の初め、ヨーロッパの探検家たちははアジアの豊かな香料マーケットへの
    近道を探していた。 ポルトガルで生まれで、スペインの旗の下に航海を
    続けていた探検家、フェルディナンド・マゼランが東南アジアの水域に達した。
    一行は現在のマレーシアとインドネシアまで来た。

    【マゼラン上陸記念碑】
    5d953eb3

    1521年、第2回の遠征でマゼラン隊は、レイテ島の南の小さな島、ホモンホンに
    達した。 近くのリマサワやセブに旅をし、マゼランは島民たちと友好的に
    交流した。 地元民はヨーロッパ人を歓迎し、キリスト教を受け入れることに
    同意した。

    しかし、マゼランの会った人々が全て友好的だった訳ではない。 マクタン島の
    支配者のラプラプはヨーロッパの様式を受け入れたり、ヨーロッパ人に支配される
    ことを拒んだ。 マゼランはラプラプたちを征服しようとしたが、ラプラプの兵は
    ヨーロッパ簡単に破ってしまった。 1521年4月27日、マゼランは戦闘で殺され、
    生存者はフィリピンを離れ、西へ向かって世界周航の旅を続けた。

    【ラプラプの像】
    32b117f0

    この敗北にも関わらず、スペイン人は太平洋の探検を続けた。 1545年2月には、
    ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがミンダナオ島に上陸し、後援者フィリップ王子
    (後の国王フィリップ2世)の名前をとって、島々をフィリピナスと名付けた。
    ビリャロボスは島々に永久的な居留地をつくることでスペインの権利強化を望んだ
    のである。

    食糧不足や地元民の敵意などから、彼の計画は失敗した。 それにも関わらず、
    スペイン人は最初の居留地をセブ島のサン・ミゲル(後のセブ市)に設立した。
    1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが更に発展させ、兵士400人と数人の
    宣教師が住み着いた。

    【マゼランクロス】
    cdec0766

    【初期のスペイン支配】
    住民たちは、ヨーロッパ人の支配に強い怒りを抱いたが、レガスピと軍隊は、
    次第に島民たちをスペインの勢力下に置いて行った。 その後もスペインからは
    兵士や宣教師たちが、相次いでやって来た。

    宣教師の勧めで、島民たちの多くがキリスト教徒となった。 その中でイスラム
    教徒は、兵士たちには最も征服するのが難しく、宣教師たちには改宗させるのが
    難しいグループだった。 中でもミンダナオ島のイスラム教徒たちは、最後まで
    スペインに屈しなかった。

    1571年、レガスピと軍隊はマニラを占領した。 ルソン島のイスラム勢力は
    少人数ながらスペインと戦ったが、結局敗れた。 ルソン島の山岳民族である
    イゴロット族もスペインの勢力拡大に抵抗し、ヨーロッパ人を悩ませ続けた。

    抵抗する島民の大半を抑えると、植民者たちは地域一帯を自分たちの主権拡大に
    役立てた。 マニラを南アフリカから太平洋を通って銀を運ぶ船舶のための
    重要な港にした。 中国の商人は、そこで磁器や絹、織物をスペイン人の
    持っている金と交換した。 これら初期の植民者は、とうもろこしを紹介し、
    米作地帯で灌漑システムを改善した以外には、フィリピン経済の発展に大した
    ことをしなかった。

    【セントニーニョ教会】

    600719b1

    【スペインによる占領】
    スペインはフィリピンの支配にあたって、住民たちが用いていた機構を拡大する
    ことにした。 政府の基本の単位は村、もしくは、バランガイで、村には住民たちの
    非公式の集まりで選ばれたダトゥー(支配者)が居た。

    ローマ・カトリックの僧侶たちは、宣教師として、また、植民地の行政の代表として
    バランガイに住んだ。 住み着くことで、彼らはダトゥーの選出に強い影響力を
    与えることが出来た。

    このようなスペイン人宣教師によるフィリピンの間接支配が、成功しなかった地域も
    ある。 ルソン島北部の支配者、ディエゴ・シランは1762年、スペインに反逆し、
    ビガンに自らの政府をつくった。 南の島々のイスラム教徒たちは、スペインの
    軍の前進基地を襲い、独立を達成した。

    18世紀後半、スペインは多くの反乱グループに対し、再び武力を使った。
    ヨーロッパ人はまた農業改革を進めた。 行政官は農民たちに、マニアアサ
    (ロープを作る)や、茶、タバコなど輸出作物の栽培を進めた。 植民地政府は、
    タバコの専売権を確立し、それは当局者たちに巨額の富をもたらした。

    1800年代の初め、スペインはイギリスやアメリカ合衆国、フランス、その他の
    国々の商人たちとの貿易のため、フィリピンを開いた。 サトウキビ、マニラアサ、
    タバコが主な輸出品となって、フィリピンの経済発展に役立った。

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    インド洋と太平洋の間にあるためフィリピンは、海上交易を行う人々にとって
    便利な寄港地だった。

    フィリピンの南西、スマトラ島にあったスリ・ビジャヤ王国からも沢山の商人が
    やって来て、紀元前600年代までには、スリ・ビジャヤは太平洋の主要な交易勢力と
    なった。

    スリ・ビジャヤはフィリピンを含め、東南アジア全域に渡る海上ルートを支配した。
    スリ・ビジャヤによるフィリピンおよび東南アジア一帯の交易支配は、およそ
    500年に渡って続いた。 ビサヤ諸島というのは、彼らの名前から取ったものだ。
    彼らは、フィリピン諸島の宗教にも影響を与えた。

    スリ・ビジャヤ人は、紀元前6世紀にインドでゴータマ・ブッダにより始められた
    仏教をフィリピンに紹介した。 ヒンズー教を奉じるマジャパヒト王国は、
    1200年代の後半にジャワ島に出現した。 間もなく、フィリピンにおける海上
    ルートの支配者として、スリ・ビジャヤ人にとって代わった。 マジャパヒトの
    指導者たちは、支配地域にヒンズー教を取り入れようとはしなかったが、ヒンズー
    文化の多くの要素がフィリピンにも入った。

    例えば、フィリピン人の正装であるバロン(独自のシャツ)は南インド出身の
    ヒンズー人が身に着けている上着を改めたものだ。 フィリピン人はまた、
    ヒンズー教の言語であるサンスクリットから多くの言語を取り入れている。

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    【アラブと中国商人たち】
    スリ・ビジャヤとマジャパヒトの影響が強かった時代、アラブ人と中国商人たちも
    フィリピンにやって来た。 14世紀までには、アラブ人学者たちがフィリピン諸島の
    南部に上陸し、イスラム教を広めた。

    イスラム教は7世紀にアラビアで生まれた。 15世紀の中頃までには南の島々、
    特にミンダナオ島で多くの人々がイスラム教徒となった。 インド、マラッカ、
    ボルネオなどからもイスラム教徒の商人がやって来て、イスラム教を広めるのを
    手伝った。

    一方、中国人商人たちは、北からフィリピンにやって来た。 その多くはルソン島に
    上陸すると、絹や磁器をフィリピンの木材や金と交換した。 明の時代(1368年~
    1644年)、商人たちはルソン島に居住地をつくった。 例えば、リンガエン港は、
    その名を当時の有力な商人、リン・ガイエンから取ったものだ。

    15世紀の始めには、中国人指導者た北の島々のいくつかを治める程、中国の影響は
    強大となった。 中国人は南から来たイスラム教徒と衝突し、結果的には、多くの
    居住地を失うことにもなった。 1500年代の初めまでには、イスラム教徒たちは、
    勢力をルソン島のほぼ全域に広めた。

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    セブ島滞在3日目は、たまたま、ネットで発見した、地元では何でも願いが叶う
    教会として非常に有名な、シマラ教会へと行きました。 セブ・シティーの
    南バスターミナルからバスに揺られること丸2時間、 セブ島南部にある、
    シボンガという街の郊外にこの巨大で豪華絢爛な教会はあります。

    【シマラ教会】
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    セブ島には、バス停というものが存在しないため、降りたい場所をあらかじめ
    車掌に伝え、希望の場所で降ろしてもらいます。 シマラ教会への行き方は、
    南バスターミナルからオスロブ行きかシボンガ(シマラ)行きのバスに乗ります。
    今回は、たまたま朝5時40分南ターミナル発のシボンガ(シマラ)行きのバスに
    乗りました。 このバスは冷房なしのため、窓は全開、ドアも閉まりません。

    バスの種類は、大きく分けて冷房付きと冷房なしに分かれるのですが、バスの
    種類が全く異なるのに、料金は同じ80ペソ(160円)です。 シマラ教会は、
    現地のツアーでも行けるのですが、セブのオプショナルツアーは、大体が1万~
    2万円が相場であるため、このバスがいかに安いのかが分かると思います。
    シボンガの中心部から更に15分程度行った何もない場所がシマラです。

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    セブ・シティーは渋滞だらけで、シマラ教会までは、2時間半程度掛かると聞いて
    いたたため、かなり早めに宿を出たのが功を奏し、午前7時20分には、シマラ教会の
    前に到着しました。 教会が開くのは午前8時からであるため、ここでソーセージ
    (10ペソ)と卵(15ペソ)を朝食として取りました。 朝食を歩きながら食べて
    いる間に、急に雨が降り出しましたが、15分程度であっという間に止んだため、
    教会が開いた頃には、すっかりと晴れ渡っていました。 神聖な教会内は、ドレス
    コードが厳しく、短パンやサンダル等は禁止されているため、シマラ教会を訪れる
    際には、服装に気を付けましょう。

    シマラ教会は、フィリピン人の憧れの地で、一生に一度は行きたい場所だとか。
    日本で言うところのディズニーランドのような場所で、豪華絢爛なその見た目も
    ディズニーランドそのもの。 何でも願いが叶う教会では、お布施やお賽銭のような
    ものは必要なく、実際に願いが叶った際に、お礼参りを行い、色々な物を寄進する
    そうです。 早い話が、願いが叶わなかった場合は、一切何も供える必要性なし。

    教会内に限らず、セブは野良犬が非常に多く、普通に道を歩いていました。
    教会内にも多数の野良犬がおり、フィリピン人のおおらかな国民性を見た気が
    しました。 午前8時の開門と共に、中に入り、早速教会内探検の始まりです。

    シマラ教会は、非常に巨大な教会であるため、教会の中まで入るまでが大変。
    未だ未完だそうで、あちこちで工事が進められていました。 尚、シマラ教会へは、
    南バスターミナルからシマラまでが1時間半弱で80ペソ(160円)、その後、シマラ
    からのバイクタクシーが5分で20ペソ(40円)で、合計でも2時間掛からずに
    到着する事が出来ました。

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    教会の内部は、カトリックの教会と言うよりも、聖母マリア様の教会という感じが
    しました。 よって、幼い頃のキリストの像が多く、内部の博物館では、色々な
    国のマリア様の像が並んでいます。 カトリックとプロテスタントとの代表的な
    違いのひとつに、聖母マリア様を敬うかどうかというものがありますが、
    カトリックは、マリア様を非常に敬うため、このような豪華絢爛な教会となって
    います。

    教会内には、様々なマリア様とキリストの像が並んでいますが、観光客はさほど
    おらず、地元の巡礼者の方ばかりで、敬謙なクリスチャンでなくとも、心が洗われる
    想いがしました。 教会内の売店では、数々のキリストグッズが大量に販売されて
    いますが、結構高い。 信心深い人であれば、この値段でも購入すると思うのだが、
    とりあえず、お手ごろな十字架を1つ購入しました。

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    シマラ教会で最も奥の間にあるこの教会のご本尊的な存在のマリア像。 この像は、
    非常に人気があるため、ものの10秒程度しか願い事が出来ないという、とても
    ありがたい像です。 その手前にあるマリア様の像は、1名に付き1分以上もお祈りを
    するため、朝早く行かないと、30分以上も待たされる事となるため、早めに
    この教会に到着する事をお勧めします。

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    シマラ教会の内部は、無数のマリア像とキリスト像がありますが、それぞれの像に
    願いを掛ける人たちが多数居るため、木像の足の一部が若干削れています。 日本で
    言うところのお遍路のような感じにあたるため、カトリックが国教のフィリピンの
    中にあっても、かなり特別な教会のようです。 教会内の博物館中には、世界中の
    マリア像、並びに、キリスト像を展示しているフロアーがあります。 ここでは、
    中国風のマリア様やインド風のマリア様が多数展示されています。

    約1時間半程で、シマラ教会ともお別れ。 カトリックとプロテスタントの違い
    として、教会が豪華か質素かの違いがありますが、カトリックの教会は非常に
    豪華絢爛なので、その分をどこかに寄付として渡してあげた方が、人助けになると
    考えてしまうのは、プロテスタントに毒されているからなのか。

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    シマラ教会付近は、教会内部の豪華絢爛な雰囲気とは似ても似つかぬ貧困地域
    なので、教会を一歩外に出ると、現実を突きつけられます。 最寄のシマラの
    バス降り場(セブにはバス停と言う概念がない)は、こんな感じになっており、
    車掌に前もってシマラ教会の最寄でバスを降ろしてくれるように頼んでおかない
    限り、この教会には到達出来ません。

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    この場所から坂道を登ること5分程度にあるのが、豪華絢爛なシマラ教会です。
    バイクタクシーの値段は交渉性で、行きは30ペソ(60円)、帰りは20ペソ(40円)
    でした。 ここから頑張れば40分程度で歩いてシマラ教会まで歩いて行く事も出来
    ますが、60円程度であれば、バイクタクシーを利用した方が断然便利です。 尚、
    シマラ手前のシボンガ市中心部でバスを降りてしまうと、シマラ教会までは、20~
    200ペソ(40円~400円)程度請求されるとか。 最後は、セブ・シティー行きの
    バスが通り掛った際に、手を上げてバスを止めてからバスに乗りこみます。

    シボンガからセブ・シティーまでの帰りのバスは冷房付きで、座席もそこそこバネが
    利いていたため、行きのバス程は揺れが激しく、早朝に起きて寝不足もあって、
    途中で1時間程度寝込んでしまいました。 冷房なしのバスの場合は、揺れが
    凄まじく、お尻が席から何度も浮く感じの揺れ方をするため、居眠りは絶対に
    無理です。

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    セブ島南部にある諸都市へのバスは、南バスターミナルから出ています。
    ここから北ターミナルへは2キロ以上も離れているため、タクシーで移動するしか
    ありません。 南ターミナルの方がセブ中心街へは近いため、ここから1キロ程度
    歩いて、中心部へと向かいました。

    セブ島では、基本的にバスが一切走っていないため、バスは都市間を結んでいる
    高速バスしかありません。 空港とセブ・シティーを結ぶバスもありません。
    全体的にバスが不足しているのだと思います。 バスターミナル付近は、路上に
    商品を広げた人たちが多く、活気がありますが、特に欲しい物はないため、素通り
    しました。 フィリピンでは、手にビニール袋をして手づかみでご飯を食べるのが
    普通らしい。

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    午前5時40分に南ターミナルを出発したため、午前11時20分にはセブ・シティーへと
    戻って来てしまい、予定よりも2時間程度余裕が出来たため、最後はセブ・シティー
    中心部を散策しました。 最後に食べた昼食は、地元で大人気のハンバーガー
    ショップのジョリービー♪ ハロハロは、フィリピンが発祥らしい。 全て残金を
    逆算して不要なペソを使ってスーパーで買い物をしたため、最終的に残ったペソは
    5ペソのみ。 これだけ食べて164ペソ(328円)でした。 但し、最後に空港で
    750ペソを現地通貨で支払わなければならなかったため、この努力は無駄でした。
    クレジットカードでの支払いは出来なかったため、空港で再度ペソに両替をする
    こととなりました。

    セブ・シティーの全体的な雰囲気としては、70年ぐらい前の終戦直後程度の生活
    レベル。 ちょっと裏通りに入ると、非常に汚い。 果物は大体10~25ペソ前後
    でした。 果物は、日本でも見たことがないようなものばかりで、物価も非常に
    安いため、街角で色々な果物を試して見るのも良いかも知れません。

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    マクタン・セブ国際空港は、セブ島にあるセブ・シティーからは、タクシーで
    丸1時間程度掛かります。 空港内はかなりリゾート地らしいのですが、空港から
    一歩外へ出ると、雰囲気が全然違うため、ホテル周辺のリゾート地とこの空港だけ
    しか見ていない場合は、セブ島は単なるリゾート地としてのイメージしか残らない
    かも知れません。

    マクタン・セブ国際空港では、出国時に750ペソを現金で支払う必要性がたるため、
    手持ちのペソが足りず、一旦空港で全ての手続きを済ませてから、再度両替のために
    空港の外に出ることに。 現金でしか支払いが出来ないのであれば、窓口の直ぐ
    隣りに両替所を置いておいてくれれば良いものを、そんな気の利いた施設はセブには
    ないため、いっそのこと、通常通り、支払い時に出入国税と空港利用税を全て
    あらかじめ徴収して欲しいです。 帰りの飛行機は、セブ空港からは4時間40分
    でした。

    【お勧めの一冊】


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