多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ: CIS独立国家共同体(旧ソ連邦)

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    首都 ビシケク
    ビシケク空港に到着後、そのままタクシーで約30キロ離れたホステル
    Mukarama-Apa へと向かった。 キルギスはカザフスタン程では
    ないものの、国民全員がロシア語を話せるため、旅行が非常に楽♪
    こちらのホステルでは、ロシア在住のキルギス人と2日合わせて合計で
    6時間も延々とお話をしておりました。 ビシケクは、意外と高地に
    位置しているため、外に出ると結構寒いため、ゲストハウスのオーナーから
    トレーナーと傘を借りてビシケクの中心部へと出掛けました。

    ゲストハウス Mukarama-Apa
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    ロシア語圏では、お茶を飲みながら、延々とお話をするのが普通なので、
    ロシア語を話せると非常に便利。 尚、こちらのホステルでは、度々日本人も
    泊まりに来るとのことで、そのお手紙を見せてもらいました。 かなり親日家の
    オーナーで、日本人にもっときて欲しいと申しておりました。

    料理を作って貰ったり、お世話をして貰ったのは、こちらの娘さんかと思いきや、
    翌日オーナーから聞いた話では、ロシアからやって来たお客さまで、体調が
    悪いので、手伝ってもらっただけと申しておりました。 旧ソ連邦内では、
    これまで生活が非常に厳しかったため、皆助け合いの精神だけは、絶対に
    忘れていないのである。

    【ビシケク】
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    ビシケクのゲストハウスから歩くこと30分。 市中心部の政府施設が集中している
    場所までやって来た。 キルギス人は人種的に元々はコーカソイドだったのだが、
    現在のロシア領のトゥヴァ付近から大量の移住者がやって来て、完全に
    モンゴロイド化した民族であるため、見た目的に非常に日本人に似ています。
    一説によれば、「肉が好きな者はこの地に残りキルギス人となり、魚が好きな者は
    東に移動して日本人になった」とまで言われている程、キルギス人は、日本に
    対しては親日意識を持っている。

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    ビシケクの中心地では、巨大なキルギスの国旗を守るため、衛兵がその麓で番を
    していた。 恐らく、定時になると、ロシアの衛兵交代と同じく、衛兵が交代する
    のだと思う。 この付近が政府機関が集中している地域で、キルギスの心臓部と
    言える。

    【ビシケク中心部】
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    トルキスタン (Turkestan / Turkistan) とは、チュルク系民族が居住する中央アジアの
    地域を指す歴史的な地域名称であり、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、
    キルギス、タジキスタン、トゥルクメニスタンと中国にまたがっている地域を指す。
    人口順では、ウズベキスタン、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、
    トゥルクメニスタンの順にトルキスタン人の人口の割合が多くなっており、中国の
    新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と呼ぶこともある。

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    ビシケクのソ連時代までの旧名は「フルンゼ」であるため、今でもところどころに、
    このフルンゼの文字が残っている。 ミハイル・フルンゼとは、ソビエト連邦の
    政治家で、ロシア革命前後におけるボリシェヴィキの指導者の一人。 ソ連陸海軍
    人民委員および共和国革命軍事会議議長を務めた人物。 旧ソ連では、革命家の
    名前を採った都市名が多かったのだが、ビシケクもその1つ。 ビシケクという
    都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒を作る時の撹拌器の名前に由来する。

    ビシケク中心部にある遊園地でお腹が空いたため、このハンバーガーを食べたが、
    店員が余りロシア語が上手ではなく、60ソムのことを「600ソムです」と言って
    来たため、「60でしょ?」と返したところ、「ああそうだ」と言って来ましたw
    挙句の果てに、おつりが間違っていたので、突っ込みを入れておきましたww

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    タシケントは、旧ソ連邦内でも第4の都市であったのだが、現在のタシケントは
    旧ソ連時代に拡大したエリアが多く、歴史的建築物は多くは残っていない。
    このため、市内には、余り見る物がないため、とりあえず、地下鉄に乗って街の
    北西部にある昔のタシケントの雰囲気が残るエリアにあるバザールを見に行く
    ことにした。 空港そばにあるホステルからタシケント駅までは、約2キロ、
    徒歩30分の距離。 その前に、無料のホステルの朝食堪能♪ カロリー高めの
    日本の食事と比較しても、ウズベキスタンの食事は素朴なのが良く分かる。

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    とりあえず、タシケント鉄道駅に到着。 1年前の地球の歩き方を持って来て
    しまったため、「地下鉄内では撮影禁止」との記載があったのだが、気軽に
    写真をバシャバシャ撮っても特に何も言われないため、おかしいと思っていた
    ところ、撮影禁止は昨年解除されたとか。 例え何か言われたとしても、
    こちらは、ロシア語で色々と言い返してやるので、特に問題はないのだがw

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    【タシケントの地下鉄】
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    地下鉄ウズベキスタン線のチョルスー駅で降りて、旧市街最大のバザールである
    チョルスー・バザールへと向かいます。 このバザールは、中央アジアでも
    最大規模で、バザール内はとにかく広大。 日用品からお土産、家具まで何でも
    揃うのが特徴、バザールが最も賑わうのは午前中なので、なるべく早めに訪れるのが
    おすすめ。 バザール内は、2年ほど前までは撮影禁止であったが、禁止が解除
    された。

    チョルスー・バザール
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    【チョルスー・バザール】
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    再度、タシケント鉄道駅からタシケント空港そばにあるホステルまで徒歩で移動し、
    荷物を持って、再度徒歩でタシケント空港まで移動しました。 タクシーで
    移動してもさほど料金は高くはないのだが、ホステルのおばさんに空港までは
    歩いても15分程度であるため、タクシーを呼ぶよりも、歩いた方が早いと言われた
    ため、景色を楽しみながら、歩いて行くことにした。 ホステル内では、全員
    ロシア語が通じたが、1名だけ、なぜか英語で話したがる従業員がいたため、
    その人とだけは英語で話した。

    次の目的地は、カザフスタンのアルマトイ経由でキルギスのビシケクを目指します。

    【タシケント空港】

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    サマルカンド観光のハイライトは、中心部にあるレギスタン広場だけではなく、
    実は、シャーヒ・ズィンダ廟群も見所となっている。 この廟群は、11世紀から
    19世紀までの9世紀の間に建造され、現在では20以上の建造物の集合体と
    なっている。

    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群は建物の建つ位置の高さから大きく3つのグループに
    分かれており、これらの建築物はチャルタクと呼ばれる、4つのアーチ状をした
    ドーム型の通路で結ばれている。 当時の建築物の基礎部分や墓石などの主な部分は
    現代まで残っており、建物の大部分は14~15世紀に建設された。 16~19世紀に
    再建築がなされたが、建物の構成や外観は変化していない。

    シャーヒズィンダ廟群に入る際に、入り口に2台あったバンコマート(ATM)で
    現金を引き出そうとしたところ、2台共故障していたため、お金が全く引き出せず、
    係りの人に相談したところ、クレジットカードでも大丈夫と言われたため、窓口で
    カードを渡したところ、そのクレジットカードのターミナルも壊れていたため、
    タダで入って良しと言われましたw

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    サマルカンドは、「青の町」と言われるだけあって、建物は基本的に青が多い。
    手作りで焼かれた陶器を組み合わせて作られた建物は、非常に美しい。 基本的に
    霊廟であるため、ところどころにお墓があり、歴史の深さが感じられた。

    シャーヒ・ズィンダ廟群内部は、どこまでも青く、霊廟の内部はこのような構造に
    なっていのだが、数世紀に渡り増築を繰り返したたため、お墓がむき出しの
    ままとなっている。

    青いタイルの模様を1つづつ見て行くと、こんな感じとなる。
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    市場とシャーヒ・ズィンダ廟群の間には、前ウズベキスタン大統領のカリモフ氏の
    廟所であるハズラティ・ヒズル・モスクがあり、常に参拝者が絶えない。

    ハズラティ・ヒズル・モスク
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    サマルカンドを後にして、タシケントへと向かいます。 例によって、列車の
    チケットが取れないため、タクシーでの移動。 サマルカンド→タシケントの
    距離は約350kmで、移動時間約5時間、30ユーロ。 今回は、途中でタクシーを
    乗り換えることなく、全て同じタクシーでの移動となりましたが、サマルカンドの
    ホテルに2つ荷物を置いて来てしまったため、その旨をタクシーの運転手に話した
    ところ、速攻で電話を掛けて、後続のタクシーでその荷物を持って来て貰える
    ことになりました♪ 翌朝の早朝に、タシケントのホステルにその荷物が届いて
    おりました。 ウズベキスタンでは、お金で解決出来ない問題はない。
    Byタクシー運転手談w

    サマルカンド駅
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    タシケントは旧ソ連邦の中では、第4の都市であったため、このサマルカンドでも
    バンコマートのATMがそこら中にあるのかと思いきや、なかなかの独裁国家で
    あるため、バンコマートがほとんどない。 よって、お金を引き出すためだけに、
    タクシーに乗る必要性があり、尚且つ、かなり大手の銀行に行かない限りは、
    米ドルの引き出しが出来ない。 最初に行った銀行では、パスポートと仮住所
    登録票が必須であるため、更にタクシーに乗って、大手の銀行に行って下さいと
    言われたため、お金を引き出すのだけでも、3時間程度の時間を要したため、
    ウズベキスタンへ行く際には、現金を必ず用意しましょう。

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    ウズベキスタンの古都サマルカンドは、シルクロードの要衝として栄えながら、
    13世紀にモンゴル軍の侵攻によって廃墟と化した。 この地を甦えらせたのが、
    一代で大帝国を築き上げた英雄ティムールであった。 ティムールは世界の
    どこにもない美しい都市を目指し建設しようと、各地の遠征先から優れた技術者や
    芸術家たちを連れ帰った。 建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる
    鮮やかな青色タイルは、中国の陶磁器とペルシアの顔料が出合って誕生したもの。
    まさに「文化交差路」のサマルカンドは2001年、世界遺産に登録された。

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    サマルカンド旧市街にあるレギスタン広場の寺院の中は、現在では、お土産屋と
    なっているものの、これらの建物は、元々は学校で、イスラム建築の粋を結集し、
    この様な豪華絢爛な内装となっている。

    シルクロードの重要交易地であったサマルカンドは、長らくこの地の首都であった
    ため、様々な文化を吸収して、独自の文化となった。 サマルカンドは、元々は
    イスラム文化圏ではなかったそうで、西遊記の元となる「大唐西域記」を記した
    玄奘三蔵(三蔵法師)も実際にこの地を訪れたとか。

    中央アジアでは、ウズベキスタンに限らず、このおじいさんの焼き物が至る
    ところにあるのだが、これは、ユーモアのシンボルだそうで、手に持っている物も
    パン、すいか、弦楽器など、中央アジアを代表する物ばかり。

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    サマルカンドで見るべき物は、レギスタン広場だけではなく、その他にも色々と
    見る物があります。 サマルカンドは、紀元前から栄える歴史の古い町であるため、
    街全体が世界遺産に指定されている。

    ヒビニハムモスクは、中央アジア最大のモスクで、たった5年でこの巨大なモスクを
    建設しのだとか。 建設を急ぎ過ぎたため、ところどころ、建物が崩壊しているのが
    難点。。

    ヒビニハムモスク
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    中央アジア最大級のモスク、ヒビニハムモスクの真向かいにあるのは、ティムールが
    愛した妻の霊廟。 ヒビニハムモスクの巨大な正面玄関を入ると、西側には
    大モスク、南と北には小モスクがあり、四方にはミナレットが建っている。

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    青の都 サマルカンド
    サマルカンドは、街全体が世界遺産に指定されています。 その中心部にある
    レギスタン広場は、イスラム文化の総力を上げて建設された正にイスラムの中心地。
    こちらの入場料は、ウズベク人、CIS国民、外国人のそれぞれの料金体系に分かれて
    おり、ウズベク人が3,000ソム、CIS国民が3万ソム、外国人が4万ソムであった
    ため、当初4万ソムを請求されたが、ロシア語で「ここに3,000ソムと書かれて
    いるのに、何で4万ソムなのか?と訊ねたところ、CIS国民は3万ソムです」と
    言われたため、3万ソムで入場しましたw 旧ソ連圏は、ロシア語が話せると、
    どこに行ってもお得♪

    【レギスタン広場】
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    レギスタン広場は、「砂の場所」という意味を持っており、広場内には、マドラサ
    神学校が三棟建っている。 向かって左側にはウルグ・ベク・マドラサ、右側に
    シェル・ドル・マドラサ、更に、中央にはティリャー・コリーモスクマドラサが
    建っているが、の内部は現在では全てお土産屋になっており、高い入場料を支払わ
    なければならない割には、博物館はないという矛盾を抱えている。

    この日は、どうもお祭りらしく、レギスタン広場では、学生らによる演奏が行われて
    いました。 レギスタン広場にあるモスクは、現在ではお土産屋として使用されて
    おり、中に入ると、様々なお土産が売られています。 日本人観光客が多いため、
    あちらこちらから「チョットミルダケ」の呼び込みをされますが、これは、
    ウズベク語では、「ソコノカモネギサン オミヤゲイッパイウリツケルワヨ」と
    言う意味なので、無視した方が良いです。

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    ウズベキスタンに限らず、この焼き物のおじいさんは、中央アジア全体で
    見られるお土産で、ユーモアの象徴なのだとか。 独特の青の装飾も美しく、
    このおじいさんの焼き物と、いかにもアラブのお土産っぽい雰囲気の物を
    1品づつ購入しました。

    【サマルカンド土産】
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    【サマルカンドの歴史】
    ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて
    文化交差点としてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。 1868年に
    中央アジア一帯はロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。
    サマルカンドは、元々ブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわち、
    タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定に
    よりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までサマルカンドが
    その首都であった。

    サマルカンドは、紀元前10世紀こ頃からイラン系民族のオアシス都市として
    発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、
    アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"で
    最後まで抵抗した。

    【サマルカンド】
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    712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に
    征服され、サマルカンドでのイスラム化が始まった。 イスラム時代を通じて、
    ブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。 751年の
    タラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラム世界で
    最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられている。

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    イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、建物の上部に虎の絵があります。
    これは、この建物の建築を指示した皇帝が自分の力を誇示するために書かれた物で、
    現在では、サマルカンドのシンボルとなっています。

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    ウズベキスタンの移動手段は、タクシーが早くて便利
    ウズベキスタンの観光シーズンは、事前に鉄道のチケットを予約をしておかいないと
    座席がなかなか取れないため、タシケントからタクシーをかっ飛ばして、約600キロ
    離れたブハラまで移動し、3時間ほど観光をした後、更にタクシーで約300キロ
    離れたサマルカンドへと移動しました。 よって、この日1日のタクシーによる
    総移動距離は、900キロを越えました。

    タシケント南駅
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    【ブハラ】
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    シルクロードの交易地 ブハラ
    ブハラは、シルクロードの交易地として繁栄を極めた悠久の都であり、
    旧市街には、今でもそのたたずまいがそのままの状態で残っています。
    完全にイスラムの世界であるため、1日に数回程、お祈りのために全ての
    業務が止まります。

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    カラーン・ミナレット
    ブハラ観光のハイライト、カラーン・ミナレット。 1127年に建てられた
    カラーン・ミナレットの高さは48mもあり、当時のイスラム建築技術の粋を
    集めて建造されました。  このカラーン・ミナレットは、地球の歩き方の
    表紙にもなっているほど有名な観光地であり、「ミナレット」は「塔」という
    意味。 かつては塔の上に明かりが灯され、砂漠を渡る隊商の道標になって
    いたと伝えられている。 また、戦争の際には敵を発見するための見張り台
    としても使われていた。 カラーン・ミナレットは戦争や地震によって何度か
    破損されたが、その都度修復作業が行われた。 19世紀後半までは罪人を生きた
    まま袋に入れて塔の上から投げ落とす刑が行われていたため、「死の塔」の
    別名でも知られるようになった。

    【カラーン・ミナレット】
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    タクシーでの移動
    たった3時間のブハラ観光を終え、ここから更に300キロ離れたサマルカンドを
    目指します。 サマルカンドはブハラからは、乗り合いタクシーで約3時間、
    交渉の結果30ユーロで、バスターミナルが最後のブハラの地となりました。
    ウズベキスタンの白タク運転手は、横の連携が凄いらしく、乗り込んだ車1台で
    サマルカンドまで行くのかと思いきや、途中で2回他のタクシーに乗り換え
    されられました。 その度に、目の前でお金の受け渡しが行われるため、
    人身売買かと思いましたw  最終的に、サマルカンドへ到着したのは、
    午後10時半過ぎであったが、到着時、サマルカンドでは、一部地域で停電が
    発生していたため、ホテルに到着してからは、電気が使えず、そのまま
    就寝しました。。

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    翌朝、テレビを付けたところ、ウズベキスタンでは、何故か熊本と沖縄の
    特集を放送していた。 旧ソ連邦諸国では、日本語の教育が盛んで、
    ウズベキスタンでも小学校から日本語を選択することが出来る程の親日国。
    この日は、サマルカンドの中心部にあるレギスタン広場では、イベントが
    開催されており、色々なアーティストがステージで演奏を行っていました。

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    首都ドゥシャンベ
    地球の歩き方にドゥシャンベは、「歩いて回れるコンパクトな街」との
    記載があったため、街を歩いて見ることにした。 ドシャンベのメイン
    ストリートは、個人商店が中心であるため、それなりに活気がある。
    タジキスタンの首都と言っても、人口は68万人程度しかないため、
    歩いて街を全て見て回ることが出来る。

    ドゥシャンベ駅
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    【ドゥシャンベ】
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    タジキスタンでは、持参したWiFiルーターの対応国だったのだが、電波が全く
    入らず、しかも、SNSは全てブロックされているため、日本であらかじめ
    インストールしていたVPNを初めて使うこととなった。

    ドゥシャンベは、実はスーツを着た人が多いため、非常にビジネスチックな
    街であった。 海外からのビジネス客も、中国人ばかりで、日本人は1人たり
    とも見掛けなかった。 緑の多いドゥシャンベの街並みは、この場所で
    内戦があったことなど一切感じさせない程穏やかであった。

    ソ連の面影
    旧ソ連内では、自動販売機「ガゾィローフカ」が当たり前の様にあったのだが、
    この自販機は、コップを洗って使い回すというスタイルであるため、通常は、
    マイコップを持ち歩いて使うのだが、ロシアでは、既に完全に姿を消した
    この自販機がタジキスタンでは、まだ現役である事自体、驚きであった。
    タジキスタンでは、この他にも、アイスクリームの「スタカンチク」も普通に
    販売している。

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    ドゥシャンベの街は、想像していたよりも暗い感じはなく、かなり開放的。
    但し、中央アジアは、どこも独裁色が強く、タジキスタンでも、至るところに
    大統領の肖像画が飾られてた。 中心街は、重厚なソ連式の建物が連なって
    いるため、旧ソ連邦内で最もソ連を感じさせる国かも知れない。

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    エアー・アスタナ
    カザフスタンのエアー・アスタナでアルマトイからタジキスタンの首都、
    ドゥシャンベへと飛びました。 アルマトイからドゥシャンベまでは、
    1時間半のフライト時間。 機内では、ピロシキとチョコレートの簡単な
    食事が1度だけ提供されましたが、賞味1時間半のフライト時間の場合、
    水平飛行の時間が30分程度しかないため、かなりあっという間の
    フライトでした。 エアー・アスタナは、今回初めて乗りましたが、
    最新の機材を使用しているため、なかなかの乗り心地でした。

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    エアー・アスタナの機内にはモニターがないため、機内のキャビンクルーに
    確認したところ、何と!WiFiとスマホを使って、映画を見れるのだとか。
    試しにWiFiに接続をして見たがネットに繋がらないw 機内には色々な
    映画があったのだが、WiFiに接続が出来なかったため、ドゥシャンベ到着
    まで、ぼ~っと過ごしました。 アルマトイを飛び立つ前に、タジキスタンの
    ビザについて質問されましたが、ネットに繋がらないため、ビザを見せ
    られないと空港係員には伝えたものの、その後、問題が発覚しました。

    【ドゥシャンベ】
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    ドゥシャンベ空港でのビザ申請手続き
    「ドゥシャンベ」とは、タジク語で、「月曜日」と言う意味で、毎週月曜日に
    市が立っていたため、この様な名前になりました。 中央アジアの中では、
    トゥルクメニスタンと並んで、ビザが必要な国であるため、事前にeビザを
    申請して置いたものの、何かの手違いで、空港到着後、ビザが許可されて
    いない事が判明しました。

    【ドゥシャンベ】
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    ドゥシャンベ空港では、ビザの発給手続きがあるため、延々と待たされることと
    なりましたが、そもそも、領事が窓口に居ない。 何をしているのかと窓の中を
    覗き込んで見ると、どうやら、お祈りをしているらしい。 そんなこんなで、
    30分以上も入国に時間が掛かってしまったものの、日本で事前に申請をして
    置いた筈のビザは、その後、ビザのカテゴリー選択間違いのため、発給され
    なかった事が判明。 但し、タジキスタンのビザは、実は空港でも取得出来る
    ため、その場で50米ドルを支払って新しいビザを発給して貰いました。

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    翌日、メールにて、タジキスタン大使館に、古い方のビザは、キャンセルで
    お願いしますとロシア語と念のため英語で再度メールしたものの、結局のところ、
    こちらのビザがキャンセルになったのかどうかは、未だに分からないまま。
    空港内は撮影禁止だそうで、係員から注意を受けました。

    ドゥシャンベの生活は、思っていたよりも酷くない様子で、スーツ姿で歩いて
    いるため、非常にラフな格好で街中を歩いていたのは、私だけでしたw
    タジク人は、イラン系の人種であるため、カザフ人とは異なり、見た目で既に
    外人だとバレているものの、タジク人は全員ロシア語が話せるため、
    コミュニケーション上で特に問題はありませんでした。

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    カザフスタンの首都は?
    カザフスタンの首都は、1996年までは、国内最大都市であるアルマアタに
    ありましたが、その後、アスタナに遷都されたため、首都ではなくなりました。
    その際に、市の名称も日本語では、カザフ語の「アルマトィ」に改められました。
    「アルマアタ」は女性名詞なので、情け容赦なく格変化をするのですが、
    「アルマトィ」は、複数名詞の外来語と同じ扱いになるため、格変化はありません。

    【アルマアタ】
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    首都名の変更
    アルマアタは「緑の街」と呼ばれているため、街中に緑が非常に多い。 その後
    乗った白タク運転手の話によると、これらの樹木は1917年の革命前までに植え
    られたとか。 樹齢約100年となるため、この様に大きな街路樹となっております。
    現在のアルマアタは、首都を機械的に移されてしまったため、残った元政府機関は、
    その概ねが、アルマアタ市の巨大な行政機関となっています。 アスタナへの遷都の
    理由は、諸説ありますが、中国との国境に近過ぎるのと、カザフスタンのほぼ中央
    部分に位置しているアスタナの方が、ロシアとの交流を促進するためには適している
    ためと言うのが通説です。 尚、アスタナは、アルマアタからは約1200km北に
    位置しており、つい先日、都市名称が「ヌル・スルタン」へと変更されました。

    【追悼 デニス・テン選手】
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    ヴィクトル・ツォイ
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    何故かアルマアタの街角にヴィクトル・ツォイの銅像がアルマアタの街中に建って
    いますが、この場所にこの銅像がある理由は、この場所で映画のラストシーンが
    撮影されたため。 手に炎を持っているのは、最後のシーンでライターでタバコに
    火をつけたか。

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    海南航空で北京からアルマアタへと向かいます。 北京ーアルマアタの
    フライト時間は、約5時間半で、3時間の時差があります。

    カザフスタンのアルマアタは、現在は遷都され、カザフ語のアルマトイへと
    改名されましたが、ロシア語では、今でもアルマアタと呼ばれています。
    アルマアタの意味は「りんごの父親」で、要約すると、「りんごの里」と言う
    意味になります。

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    【アルマアタ】
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    カザフスタン共和国は、旧ソ連邦加盟国で、独立国家共同体にも加盟しており、
    ロシアとは、最も友好的な同盟国として、様々な経済協力や関税協定を結んで
    います。 中央アジア諸国は、2018度から、タジキスタンとトゥルクメニスタンを
    除き、ビザが免除となりました。 独立国家共同体内でも、ベラルーシと
    並んで、最もロシア寄りの国であるため、カザフ人の人口の約60%強がロシア語
    ネイティブです。 ロシア語しか喋れない、ロシア語も喋れる、カザフ語でも
    喋れる、カザフ語しか喋れないの合計4パターンがおりますが、ロシア語理解率は
    100%であるため、カザフでは、ロシア語で話し掛けて何ら問題はありません。

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    尚、この日は、アルマアタ空港に到着したのが午後11時半過ぎで、そのまま宿の方に
    向かったところ、既に施設自体が閉まっていたため、急遽、Booking.comで他の
    施設を予約しました。 アルマアタ中心部にあるこのホステルは24時間営業で、
    1泊600円程度でした。 受付のおねえさんはロシア語ネイティブだったので、
    最後に、記念撮影をお願いしますと言われたため、とりあえず、写真に
    おさまりましたw

    【アルマアタ】
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    アルマアタでホステルに到着したのは午前0時30分過ぎであったものの、日本とは
    4時間の時差があるため、現地時間午前6時にはもう目が覚めました。 よって、
    早朝からデニス・テン選手の殺害現場へと向かいます。 元々、予約を入れていた
    ホステルの方が、その現場には近かったものの、到着時に既に夜中であったため、
    閉鎖されており、約1.5km離れた別の施設に泊まりました。 よって、その施設に
    泊まっていなければ、これらの景色は見れなかった事になります。

    ソ連からの独立後は、路上の表示も、カザフ語にみになった場所が多く、パッと見
    では、何を書いてあるのかが分かりません。。 ロシア語も併記してくれないと、
    ロシア語しか分からない人も多いため、困ると思います。。

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    デニス選手の主な経歴
    テン・デニス・ユーリェヴィチ(Тен Денис Юрьевич)は、カザフスタン共和国の
    フィギュアスケート競技において、史上初めてのメダルをもたらしたアルマトイ市
    出身のフィギュアスケート選手(男子シングル)であり、2014年ソチオリンピック
    では銅メダル、2013年世界選手権では2位、2015年世界選手権では3位、2015年
    四大陸選手権では優勝、2017年冬季ユニバーシアードでも優勝を果たす等、数々の
    輝かしい実績をスケート界に残した人物である。

    【ソチ五輪では銅メダルを獲得】
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    家族
    中央アジアのカザフスタンは、「民族の十字路」と呼ばれており、朝鮮人や
    ドイツ人他、100を超える民族が共存しているが、デニス選手の曽祖父は、
    大韓帝国時代の軍人、閔肯鎬であり、日本からの独立運動に尽力し、1908年
    2月28日、雉岳山で日本兵の不意の襲撃を受けて逮捕された後、翌日の2月29日、
    部下の義兵らが救出作戦を起こし、奪還されることを恐れた日本軍により
    射殺された。 その後、その子孫は亡命を余儀なくされ、家族は安重根の助けで、
    豆満江を渡ってロシアに逃れた。 スターリンの時代には、その家族は
    カザフスタンに強制移住を余儀なくされ、この地に連れて来られた。

    デニス選手の先祖 閔肯鎬


    フィギュアスケートとの出会い
    プロヴァイオリニストである母親の影響で7歳から5年間音楽学校に通い、
    ピアノと合唱を学んだが、2002年にはカザフスタン少年合唱団員の一員として、
    韓国の釜山で開催された世界合唱大会に出場し、2位となった。

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    5歳の時、母親の希望によりスケートを始める。最初は冬場にアルマトイ市内の
    屋外リンクで練習を行い、後にショッピングモール内のリンクへと場所を移した。
    9歳の時、ロシアのオムスクで行われた大会で優勝した際に、ジャッジのひとりから
    旧ソ連地域内の低年齢競技者を対象とした競技会「クリスタルスケート」に招待
    された。 この大会でエレーナ・ブイアノワと出会い、彼女が指導する
    サマーキャンプに参加するようになり、10歳の時、ブイアノワの勧めで母親と共に
    ロシアに移住。 2004年から2010年までの7年間、モスクワでブイアノワと
    タチアナ・タラソワから本格的な指導を受けた。 2010~2011年のシーズンから、
    コーチをフランク・キャロルに変更し、拠点をロサンゼルスへと移した。

     

    フィギュアスケート以外にも、テコンドー、空手、テニス、水泳、器械体操等にも
    挑戦した事があり、この他にも、作詞作曲の音楽活動、写真、映画のシナリオ
    作成等を本格的に行う等、非常に多彩な才能を持っていた。

    デニス選手殺害事件
    2018年7月19日、デニス選手は、アルマトイ市中心部にあるレストランで友人らと
    昼食を楽しんでいた。 食事が終わり、デニス選手が車に戻ろうとしたところ、
    デニス選手の車のミラーを盗もうとしていた男2人組と遭遇し、そのまま20m程
    犯人を追い掛けたが、その場で脚2ヵ所をナイフで刺され、数十分後に通行人に
    発見されたが、既に約3リットル以上もの出血があり、救急車でアルマトイ市内の
    病院に運ばれた時点で、既に臨床的な死を向えていたが、同日午後5時30分、
    正式に死亡が確認された。


    デニス選手が刺殺された場所
    この場所は、アルマトイ市中心部にある、お洒落な地域で、周囲には、数軒の
    カフェテリアとレストランがある。 すぐ目の前のカフェテリアからは、
    この現場が丸見えで、道路には防犯カメラも設置してあるが、誰も気付くことは
    なかった。。 その後、この通りを偶然通りかかった女によって、デニス選手は、
    財布が盗まれたのだが、その時点でこの女が通報をしていれば、まだ助かった
    可能性があった事は否めない。。

    アルマトイでは、この事件を誰も語ろうとはしておらず、余りにも不審な点が
    多過ぎるため、計画的に誰かがデニス選手を殺害しようとしていたとの噂もある。

    赤いリボンの様な物は、デニス選手の死後に設置された物
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    意外と人通りが多い。。
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    最後に食事をしていた場所。。
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    恐らく、この場所にレクサスを停めて、犯人と遭遇した。。
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    ベイセイトフ通りとクルマンガジー通りが交差する交差点付近で殺害された


    死亡に至った経緯
    過去の歴史に「もしも」はないが、もしも、以下の不幸な事実が何重にも
    重ならなければ、デニス選手は死なずに済んだはず。。

    ① もしも、ソチオリンピックで銅メダルを取っていなければ
    ② もしも、ナザルバエフ元大統領が高級車をプレゼントしていなければ
    ③ もしも、この場所まで車で行かなければ(自宅から現場までは徒歩で30分)
    ④ もしも、後10分早く、あるいは、遅くこのレストランを出ていれば
    ⑤ 例え、犯人に遭遇したとしても、後を追わなければ
    ⑥ もしも、友人が車まで見送りに来てくれていたならば
    ⑦ もしも、誰かが、すぐ隣のカフェテリア、あるいは、レストランから見ていれば
    ⑧ もしも、過去に同様な事件を起こした犯人がアスタナで保釈されなければ
    ⑨もしも、その犯人がアルマトイに来なければ
    ⑩もしも、その犯人が別の場所を刺していたならば
    ⑪もしも、通行人がもっと早く見つけていたならば
    ⑫もしも、この場所に来ていなければ

    アルマトイでは、誰も何も語ろうとはしていないため、事実は分からないが、
    どうも、デニス選手が朝鮮人である事が原因ではないかと言う説もある。 よって、
    もしも、デニス選手が朝鮮系のカザフ人でなければ、助かった可能性もあった
    のである。 現地で調査を行ったところ、朝鮮系だから、通行人に見殺しに
    されたとの意見もあった。

    デニス選手が埋葬された場所
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    ネット上では、デニス選手が埋葬された場所に関して、全く公開されておらず、
    様々な情報が飛び交っているものの、正確な埋葬場所は、元ドゥルジバ村で、
    現在は、ドスティック小地区と改名されたヌルマガンベトフ通りにある墓地の
    片隅に埋葬されています。 デニス選手のすぐ隣には、彼の祖母と祖父も共に
    眠っており、そのすぐそばには、彼の家族のお墓もあります。 尚、アルマトイの
    墓地には、名前がないため、この場所を探すのは、非常に困難なため、現地を
    良く知るタクシーの運転手にこの場所まで連れて行って貰うしかありません。
    アルマトイ市内を走っている地下鉄終点駅のモスクワ駅からは約5キロ、歩くと
    約1時間の場所にこの墓地はあります。

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    デニス選手を小さい頃から知っているという墓守の方が彼のお墓付近に居ますが、
    彼の話に寄れば、デニス選手が死亡した際に、このお墓の道路もかなり修復された
    そうです。 その点でも、デニス選手は、死亡した後にも、社会貢献したのだと
    思いました。 お恵みを求められたため、数十円程度を渡してお墓の掃除を
    お願いしますと言って来ました。

    このピンが指している場所の左上の緑地が埋葬された墓地



    デニス選手が住んでいた場所
    殺害事件以降、彼の家族は、別の場所に引越し、元々住んでいた場所には、
    デニス・テン基金」が置かれました。 また、彼が住んでいたマンションには、
    メモリアル・ボードが設置され、今後、殺害現場には、彼を称える記念碑が
    設置される計画です。

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    ナザルバエフ大通り46番にあるメモリアル・ボード。 アルマトイ市の
    最も繁華街にあります。 尚、ナザルバエフ大通りは、半年前に改名された
    ばかりであるため、デニス選手が生きていた時は、フルマノフ通りと言う
    名前でした。

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    ナザルバエフ大通り46(ロシア語 Проспект Нурсултана Назарбаева


    デニス選手の死亡が確認された場所
    ベイセイトフ通りとクルマンガジー通りが交差する交差点付近で通行人に
    発見されたデニス選手は、約1時間後に、現場から約2キロ離れた病院に運ばれ
    ましたが、その時点で、既に臨床的な死を向かえており、中央市立病院にて
    午後5時30分に正式に死亡が確認されました。。

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    【追悼 デニス・テン選手】
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    ソチ・オリンピックのフィギュアスケートで銅メダルを獲得した
    デニス・テン選手がアルマトイで刺殺された事件に関して、カザフスタンの
    刑事裁判所は、被告人2名に有罪判決を下した。

    アルマン・クダイベルゲノフ被告とヌラリ・キヤソフ被告に対して、
    懲役18年が言い渡された。

    15458256983

    カザフスタンの国民的英雄であったデニス・テン選手は、2018年7月19日に
    アルマトイで暴漢に大腿部を数ヶ所刺されて出血性ショックのため死亡した。
    テン選手は自身の車のミラーの盗難現場に遭遇し、被告人2人と揉み合いになり
    太ももを刺された。

    ​クダイベルゲノフ被告には窃盗と強盗、並びに、殺人罪が、キヤソフ被告には
    強盗と殺人の罪で有罪が言い渡された。 この2名に加え、意図的な盗難を行い
    通報を怠った罪でザナール・モリブエワ被告にも判決が下された。

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