東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



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    カテゴリ: CIS独立国家共同体(旧ソ連邦)

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    ソチ・オリンピックのフィギュアスケートで銅メダルを獲得した
    デニス・テン選手がアルマトイで刺殺された事件に関して、カザフスタンの
    刑事裁判所は、被告人2名に有罪判決を下した。

    アルマン・クダイベルゲノフ被告とヌラリ・キヤソフ被告に対して、
    懲役18年が言い渡された。

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    カザフスタンの国民的英雄であったデニス・テン選手は、2018年7月19日に
    アルマトイで暴漢に大腿部を数ヶ所刺されて出血性ショックのため死亡した。
    テン選手は自身の車のミラーの盗難現場に遭遇し、被告人2人と揉み合いになり
    太ももを刺された。

    ​クダイベルゲノフ被告には窃盗と強盗、並びに、殺人罪が、キヤソフ被告には
    強盗と殺人の罪で有罪が言い渡された。 この2名に加え、意図的な盗難を行い
    通報を怠った罪でザナール・モリブエワ被告にも判決が下された。

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    2018年7月19日、ウズベキスタン・オリンピック委員会は、スポーツ文化省が
    担当している体育とスポーツ強化のための基金創設に関する記者会見を行った。
    この会見には、体育とスポーツ基金の臨時理事であるハルボエフ・ジャモル氏、
    事務次官のアクマル・ババフ氏、メディアの代表者らが出席した。
    2018年3月5日付けウズベキスタン共和国大統領令UP-5368には「行政制度を
    根本的に改善するための措置」が記載されており、これに基づき、ウズベキスタン
    共和国の体育・スポーツ省内に体育とスポーツ振興基金が設立された。 この
    法令では、課題と役割、基金の活動を組織化する手続き、資金形成とその使用
    方法、権利と義務が明確に定義された。

    この基金により、対象範囲が拡大し、以前は19歳未満の選手のみがサポート対象
    であったが、今回から年齢カテゴリによる制限がなくなった。

    この基金の活動では、年齢カテゴリーに関わらず、スポーツ選手をサポートする。
    この基金では、スポーツ施設の建設問題のみを取り扱うのではなく、その課題や
    組織構造が根本的に見直されている。

    2018年〜2019年の対象期間中に、ウズベキスタン・スポーツ文化省の
    体育スポーツ振興財団から資金提供を受けた体育施設やスポーツ施設の建設、
    改築、改修に関する報告会が行われた。 このプログラムの一環として、
    51のスポーツ施設が建設される他、多くのスポーツ施設の改修や修繕が行われる
    予定となっている。 更に、規定に基づき、51のスポーツ施設に対して、必要な
    スポーツ器具を購入する予定となっている。

    上記の例としては、スポーツ施設(アンディジャン、サマルカンド、ブハラ、
    タシケントに4つの総合スポーツ複合施設、12の青少年体育学校とオリンピック
    候補生養成青少年特別体育学校、12の屋内スイミングプール)の建設のために
    238億の予算が割り当てられている。

    既存の15の子供スポーツ複合施設、オリンピック候補生養成体育学校、4つの
    スイミングプールを改修するために950億ドル強の援助が割り当てられる。
    全てのスポーツ施設では、350億ドル相当のスポーツ用具と機材を購入する予定
    となっている。

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    ロシア・パラリンピック委員会事務局長であり、パラリンピック競技大会に
    おいても5回優勝経験のあるアンドレイ・ストローキン氏が、カザフスタン
    共和国の首都アスタナに完成したパラリンピック・トレーニングセンターの
    開会式に出席した。

    リソース:ロシア・パラリンピック委員会

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    開会式には、ヌルスルタン・ナザルバエフ カザフスタン共和国大統領、
    国際スポーツ組織関係者、国内パラリンピック委員会のメンバーや、その他
    来賓らが出席した。 ロシア・パラリンピック委員会会長のウラジミール・
    ルキン氏は、トレーニングセンターの開設に関して、以下の祝辞を述べた。

    「ロシア・パラリンピック委員会は、カザフスタン共和国のスポーツ界全体に
    対して、お祝いを申し上げます。 アスタナに完成したカザフスタンで初となる
    障害者専用施設「パラリンピック・トレーニングセンター」の開所により、
    世界選手権、パラリンピック等の国際的な大会にカザフスタンの選手を送れる
    ようになるため、国内の強化活動にとっては、非常に重要な一歩となります。
    パラリンピック・トレーニングセンターのスタッフ一同に対して、今度の活動の
    成功を祈っております。」

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    ボスニアの首都であるサラエヴォからバスで約3時間強で、ヘルツェゴビナの
    中心都市であるモスタルに到着します。 宿は、バスターミナルから歩いて
    数分のところに予約をしていたため、安心していたところ、その宿が一切何の
    連絡もなしに、急に3日間も閉鎖となり、急遽、すぐそばの宿に泊まることに
    なったものの、こちらの奥さんが凄く親切なお方で英語も堪能であったため、
    むしろ、こちらの方が良かったと思いました。

    とりあえず、モスタルに到着したら、世界遺産である『古い橋』を見なければ
    何も始まらないため、バスターミナルから約1キロほど離れた世界遺産へと
    出掛けました。

    【夜のモスタル】
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    モスタルでは、モスクが乱立しており、完全にイスラムの世界。 もしろ、
    ヨーロッパ的な要素は何もありません。 強いて言えば、石造りの街並みが、
    若干ヨーロッパ的なだけで、街中から聞こえて来るのは、コーランばかり。
    1ヶ所だけカトリックの教会がありましたが、単なるお慰み程度の教会であるため、
    稀にしかないクロアチア人のためだけにある教会なのでしょう。 尚、
    Julius Meinl は、オーストリアでは、BILLAと並んで、非常にメジャーな
    スーパーですが、何故かモスタルにもありました。

    この日は実は、夜まで何も食べていなかったため、モスタルの雰囲気のある橋の
    たもとで食事を取ることにし、ボスニア風ケバブとボスニアのビールを注文
    しました。

    翌朝は、午後12時30分にドゥブロブニク行きの最終バスが出てしまうため、
    朝一番でバス乗り場に行き、切符を購入し、そのまま、街中の観光へと繰り出し
    ました。 と言っても、モスタルは、基本的に、『古い橋』以外、特に見る物が
    ない街であるため、今度は中心部を通って、『古い橋』へと向かう途中、銃弾の
    跡が、あちらこちらに残っていました。

    【モスタル中心部】
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    モスタル市中心部を流れる川を渡る途中、山頂にある十字架が見えましたが、
    カトリック教会は、ボスニアでは、存在感が極めて薄いため、至る所で、これ見よ
    がしに巨大な十字架が建っていました。 この十字架を見て、このすぐそばには、
    カトリック教会があるという風に分かるシステムの様です。

    海外に行って、最も行く場所と言えば、マクドナルドw 基本的に、地元の料理
    なんぞは一切食べませんので、時間の掛からない、かつ、味が予想出来るマックで
    十分w 材料すら分からない得体の知れない食べ物は、非常に苦手。

    単に、橋の反対側を歩いて来ただけで、川のどちら側から来ても、『古い橋』
    までの距離は、余り変わりません。 ボスニアではカトリック教会は多少なりとも
    あるものの、セルビア正教の教会は見掛けなかったため、恐らく、内戦で破壊
    されたものと思われます。

    【モスタル市中心部】
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    それ以外は、100%イスラムの世界であるため、観光客もほぼ全員イスラム教徒
    ばかりでした。 その後に行った、ドゥブロヴニクとは、客層が全然違っています。
    正に、イスラムがイスラムを呼ぶという感じでした。 世界遺産である
    『モスタルの古い橋』は、内戦中に破壊されてしまったため、内戦が収まった後に
    再建されたため、よくよく見ると、修復後の境界線が分かります。 イスラム教徒に
    大人気の観光スポットであるため、昼間に行くと、満員電車並みの混雑に遭遇する
    こととなります。

    毎日、定時になると、川のほとりに複数あるモスクから、コーランの祈りが響き
    渡るため、ヨーロッパに居るとは思えない程の完璧なイスラムの世界です。 尚、
    ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴ内での民族浄化等により、ヨーロッパでも
    最貧国の部類に入りますが、月給にして2万円程度のウクライナと比較すると、
    平均月収は13万円程度あるそうなので、ウクライナと比較すると、相当ましです。
    物価も日本よりは若干安い程度なので、東京とさほど差はないと感じました。
    恐らく、東京での現在の平均給与は25万円程度で、横浜だと20万円程度しか
    ありません。

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    旧ソ連構成国であった中央アジアのカザフスタン共和国が国際化を目指して、
    カザフ語のロシア(キリル)文字による表記を止めて、ローマ字に変更する
    ことを決定した。 若者は既に携帯電話のメールをローマ字で送るなど、かなり
    以前からロシア文字離れが加速していた。 2006年に『ローマ字は今日、
    情報通信分野を席巻している』と述べていたヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は
    2018年4月、国営紙に論文を発表し、この中で、文字表記変更の具体的な
    スケジュールを提示した上で、2025年にはローマ字に完全移行すると宣言した。

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    カザフスタンでは、カザフ語が国家語、ロシア語は公用語とされているが、多くの
    外国人観光客にとっては、キリル文字は読むことすら難しい。 カザフスタンは
    元々、イスラム教徒が多数派を占めており、旧ソ連からの独立直後は、アラビア
    文字へ変更する運動も行われたが、最終的には定着しなかった。

    カザフスタン国内には、100以上の民族が共存しており、カザフ語とロシア語の
    他にも、先住民族であるウズベク語、タジク語、ウイグル語が教育言語として
    認められている。 旧ソ連邦から独立した1990年代には、カザフ語を強化拡大する
    政策に重点が置かれた。 カザフスタンでは、1997年に『言語法』が定められ、
    高等教育まで一貫して受けられるのは、カザフ語とロシア語だけとなっているため、
    カザフ人とロシア人以外の少数民族は、カザフ語かロシア語でのバイリンガル教育に
    力を入れている。

    現在、カザフスタンでは、ロシア系住民が約2割を占めているが、この先、正式に
    ローマ字を使うことになるため、ロシア系住民の国外脱出の機運が更に高まると
    考えられている。 旧ソ連邦からの独立時、カザフスタンでは、約6割超がロシア系
    住民で占められており、カザフ人は、むしろ、少数派であった。 但し、独立後は、
    カザフ人中心の政策に切り替えられたため、多くのロシア人やウクライナ人たちは、
    カザフスタンから去って行った。

    【カザフ語とロシア語】
    現在、カザフスタンでは、カザフ語とロシア語の2つの言語が公用語となっている
    ものの、政府やビジネスの場面ではロシア語が使用される場面が多い。 しかし、
    カザフ語に対する敬意が高まる中で、近年ではカザフ語がロシア語より使用される
    ようになって来ている。 カザフスタン国内には、117もの異なる言語が共存して
    おり、その中でもロシア語がお互いの意思疎通を図るための共通言語として、最も
    主要な言語となっている。 2009年の調査では、人口の約85%がロシア語を完璧に
    使いこなせると答えたのに対し、カザフ語は人口の約62%に留まるという結果と
    なった。

    カザフ語は、カカザフスタンを中心に、中国新産ウイグル自治区、ロシア、モンゴル
    西部、中央アジア諸国などで使われるチュルク系の言語である。 チュルク諸語の
    中では、キプチヤク語群や北西語群などと分類され、クルグズ語やカラカルパク語、
    バシュコルト語などとよく似た特徴を持っている、 カザフ語は、他のチュルク
    諸語と同様に、人称や時制などを示す要素が名詞や動詞の後に付く膠着語である
    ことや、語順が主語+目的語+述語であること、母音調和や格助詞が存在するため、
    日本語との共通点が多く、日本語使用者にとつては、習得しやすい言語であると
    言える。

    カザフスタンには、1,000万人を超えるカザフ語話者がおり、カザフスタン国外では
    500万人以上のカザフ語話者が居る。 ソ連時代末期の1989年に、カザフ語が国家語
    となることが法的に定められ、独立後のカザフスタンにおける国家語として制定
    された。 カザフスタンでは、帝政ロシア時代やソ連時代を通じて、ロシア語が
    中心的言語として使われて来たが、独立後の現在でも、カザフスタンは、
    ウズベキスタンやトゥルクメニスタンなど、他の中央アジア諸国と比べて、
    ロシア語の使用頻度が非常に高い。 これは、カザフスタンにおけるロシア人の
    比率の高さにも寄るところがあるが、ロシア語は、ロシア人のみならず、この国に
    住むウクライナ人、タタール人、ドイツ人、朝鮮人他、非ロシア人らによっても
    日常的に使われる実質的な共通語となっている。

    カザフスタンでは、人口の約3分の1が非力ザフ人であるため、ロシア語が住民
    同士の重要なコミュニケーションの手段となっている。 都市部では、カザフ語
    よりもロシア語が流暢なカザフ人も少なくなく、カザフ人同士がロシア語で会話を
    する場面も珍しいことではない。 同じカザフ人であっても、カザフ語を母語と
    する者(あるいは、カザフ語を日常会話で使用する者)とロシア語を母語とする者
    との間には、メンタリティ上の違いがあると指摘されることもある。 また、
    自然科学を中心に、カザフスタンにおける科学・学術分野の発展にロシア語が
    大きく寄与し、諸外国の文化はロシア語を通じて紹介されることが多い。

    ロシア帝政期カザフの文学は、主にロシア語で書かれており、カザフ文学に
    おいても、ロシア語の存在は小さくない。 カザフ語は、1993年の最初の憲法で
    国家語と規定され、ロシア語は、1995年の憲法で、国家組織や行政機関において、
    『公式にカザフ語と同等に使用される言語』と定められている。 尚、カザフ
    スタン大統領の条件のひとつに国家語、すなわち、カザフ語に堪能である
    ことがある。 現在のカザフスタンでは、ロシア語の知識があれば、カザフ語を
    知らなくても、普通に日常生活をおくることが可能となっている。

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    【表記文字の歴史】
    1930年代、カザフスタンでは、チュルク系のルーン文字からラテン文字へ、
    ラテン文字からキリル文字へと、2度文字が変更された。 カザフ人は独自の文字を
    持たない遊牧民族であり、カザフ語はチュルク系言語に属しているが、イスラム
    文化の流入と共に、アラビア文字で表記されるようになった。 その後、1917年の
    ロシア革命後には、ソヴィエト政権により、ローマ字の使用が奨励された。
    しかし、1938年から1940年の間に、ソヴィエト政権によるロシア文化推進の一環
    として、カザフ語はキリル文字で全て表記することが決定された。 キリル文字に
    転換された結果、カザフスタン国内のカザフ人と国外のカザフ人とが文字の上で
    分断された。

    キリル文字は全部で42文字あり、この中には、カザフ語では発音しない文字も
    含まれているが、今後、新たに導入されるローマ字では、全26文字に加えて、
    カザフ語をより正確に表現するために、アポストロフィとローマ字の組み合わせ
    による9文字が追加される予定となっている。 この文字の変更は、デジタル
    時代に備えるためには必須とも言われており、現在のカザフ語の表記方法では、
    PCのキーボードの数字部分まで使用しなければ文字が足りないが、キリル文字
    からローマ字に移行すると、この問題が解決すると言われている。 また、2000年
    から始まった急速な経済成長に伴い、西洋諸国とのコミュニケーションの必要性が
    高まり、英語を学んでアルファベットを受け入れることが求められるようになった
    という経済的な背景がある。

    ソ連邦崩壊後、近隣国であるウズベキスタンとトルクメニスタンでは、直ちに
    キリル文字からローマ字へと表記方法が変更されたが、カザフスタンはこれらの
    国々とは異なり、1991年の独立以来、政治的な繋がりが強いロシアとの関係を
    最重視して来た。 しかし、その一方で、ナザルバエフ大統領は、ロシア、
    ヨーロッパ諸国や中国との関係を視野に入れつつ、長期に渡る国の近代化を推し
    進める『カザフ化』によって、カザフ語やカザフスタンの伝統文化を強化し、
    国民のアイデンティティを取り戻すための計画を複数実施している。 カザフ
    スタンは、ソ連邦が崩壊した後も、ロシアの強大な影響下にあるが、表記文字を
    変更することにより、石油の輸出のみに頼り切った国内経済から、ソ連邦時代の
    暗い過去を捨て去り、より強力な経済力を持つ国へと成長するための施策的な
    政策として、文字の変更を行う計画となっている。

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    【政治的な影響力】
    カザフスタンは、これまでも、ロシアの文化や政治的な影響力からは一定の距離を
    保って来たが、まず、教育現場や政府内で使用される言語が、ロシア語から
    カザフ語へと変更され、外国語教育の現場では、ロシア語と英語が同等の地位
    として扱われるようになった。 カザフ語の映画やテレビ番組が多く制作され、
    自国の文化がより多く取り上げられて来た。

    カザフスタンは、未だ中央アジアに多大な影響を及ぼしているロシアとは徐々では
    あるが、距離を置いているが、近隣諸国と比較して、これまでロシアに配慮した
    政策を採って来たカザフスタンが、何故、今になって表記方法を変更するのか、
    その理由の裏には、近年のロシアの動きを指摘する声もある。 ロシアは近年対外
    関係において、ウクライナやジョージア、シリアへの介入など、積極的に他国に
    干渉する動きを見せている。 このロシアの国際的な動向に対し、カザフスタンを
    含む旧ソ連下にあった中央アジア諸国は、ロシアの影響が再び強まるのではないか
    と懸念しており、今回の表記変更の裏にもこのような懸念が関係しているのでは
    ないかとも言われている。

    カザフ語の表記方法が変わること自体には、国内から概ね支持が得られている
    ようだが、この変更によって困る人たちも当然存在する。 カザフスタン国内には、
    ロシア系の人々が多数住んでおり、国内ではカザフ系の人々に次いで2番目に大きな
    割合を占めるが、ロシア系住民たちは、カザフ語の表記変更に対して、反対の声を
    上げている。 ウズベキスタンやトルクメニスタン等では、カザフスタンより先に
    自国の言語をローマ字表記に変更したが、国内には同様にロシア系住民を多く
    抱えている。 カザフスタンは、この2ヶ国とは比較にならないぐらいの多くの
    ロシア系住民が住んいるため、今後のカザフスタンの動向が注目される。

    カザフ政府筋は『カザフ語のローマ字化後もロシア語は残る』と反論しており、
    『中高年がローマ字に慣れるのは難しいかも知れない』としている。 文字の
    変更後は、自分の名前すらどう表記すれば良いのか分からなくなってしまう
    といった声や、これまで、ロシア語で書かれて来た過去の文書が廃れて行って
    しまうのではないかという懸念の声もある。

    これに対し、ナザルバエフ大統領は、ローマ字表記に変わるのはカザフ語であり、
    カザフスタンからキリル文字やロシア語が消える訳ではない。 色々な不安の
    声もあるが、自分たちはロシア語で世界の文化について学び、その記憶は消える
    ことはなく、また、近隣国とは常に協力して行くつもりであると述べ、不安の
    声を鎮めようとしているが、今後の先行きは、全く不透明となっている。

    Nazarbayev

    【ローマ字表記による弊害】
    ローマ字でカザフ語の発音表記を行う場合、様々な問題が考えられるが、この
    問題に対して、ナザルバエフ大統領は、ローマ字に組み合わせてアポストロフィを
    多用することで解決しようとしている。 しかし、これに対しては、言語学者等が、
    アポストロフィを多用すると、ややこしくて読み辛くなると指摘している。
    また、アポストロフィを多用すると、ウェブ上で検索出来なくなり、SNS上で
    ハッシュタグが使えなくなるといった問題が生じる。

    アポストロフィには、このような問題点があげられるため、アポストロフィを多用
    する代わりに、トルコ語を真似た表記方法にすれば良いのではないかという言語
    学者もおり、実際に2017年8月に言語学者たちから、トルコ語をモデルとした
    発音記号の作成が提案された。 しかし、ナザルバエフ大統領は、この提案を採用
    しなかった。 ソヴィエト政権からの独立以来、26年間以上も大統領であり続ける
    ナザルバエフが考える政策には、誰も異論を唱えられる状況になく、
    アポストロフィの多用が今後推し進められであろう。 但し、ナザルバエフ
    大統領自身も、自分の考えが固まっていないらしく、カザフ語を表記するために
    アポストロフィを多用するか否かは、まだ最終的な決定に至っていないと近しい
    人物に述べており 、今度、アポストロフィ以外のローマ字を補助する形での表記
    方法が検討されて行く可能性は十分あり得る。

    尚、これまでにロシア文字を捨てて、ローマ字へ移行した国には、ルーマニア、
    モルドバがあり、現在、セルビアがローマ字へ移行中となっているが、今後、
    カザフスタンがどの様な道を模索するのかは、全くの未知数となっている。

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    リトアニアの首都ヴィリニュスは、ヨーロッパ風の建物が多く、ロシアとは
    若干雰囲気が異なる。 ヴィリニュスでは基本的に、ロシア語は全世代を通して
    通じるのの、若者や地方に行くと、ロシア語は余り通じず、英語の方が通じるため、
    リトアニアでは、ロシア語と英語とちゃんぽんで会話をした。

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    リトアニアは、非常に治安が良いため、夜一人で出歩いても、全く問題なし。
    首都と言っても、人口56万程度のこじんまりとした街であるため、中心街は
    全て歩いて見て周ることが出来る。 宿泊した場所が、旧市街の中であったため、
    主な観光地は、ものの数十分程度で大体見て回ることが出来た。 尚、リトアニア
    では、午後8時以降のアルコールの販売は禁止されており、特に、日曜日は、
    午後3時以降はアルコールの販売が禁止されているため、要注意。

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    ヨーロッパ周遊型のWiFiを借りた筈が、どこの国も電波の入りが悪く、実際は、
    殆んど使えず。 電波がまともに入ったのは、このリトアニアだけであったが、
    それでも、電波が非常に弱いため、電波が頻繁に入ったり切れたりした。
    しかも、道に迷っている最中に電波が入らなくなったため、予想外に時間が
    掛かる朝の散歩となった。

    【お勧めの一冊】



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    カウナスは、第二次世界大戦、すなわち、ソ連邦への併合以前までは、
    リトアニアの首都であったため、『杉原千畝記念館』は、元々は、
    日本大使館であった。 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、
    多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア
    併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという
    方法しか残されていなかった。

    >>杉原千畝 ~六千人の命のビザ~

    杉原は、苦悩の末、外務省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 その後、
    戦況が悪化したため、日本大使館は閉鎖、カウナス市内を転々としながら、更に
    ビザの発給を続けた。 合計で約2,000枚のビザを発給したものの、本国からの
    命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、外務省をも
    追われる事となる。

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    カウナス駅に今でも杉原千畝のプレート残されている。 日本大使館が閉鎖され、
    最後の最後までビザを書き続けたのがカウナス駅。 千畝は、その後、汽車で
    ベルリンへと向かった。 ユダヤ人たちが日本の通過ビザを欲しがったのは、日本へ
    行きたかったからではなく、日本を経由して、第三国へ脱出しかたったためで、
    当時は、シベリア鉄道に乗って、日本を経由して、オランダ領のキュラソーに
    行くしか残された道はなかったのである。

    その後、杉原は、ユダヤ人たちからは非常に感謝されたが、日本での扱いは、
    外務省に無断で勝手にビザを発給したとして、名誉剥奪のまま無念の死を遂げた。
    2000年に日本政府から正式に名誉回復がなされたのは、杉原の没後14年目、
    そして生誕100年という節目のことであった。

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    ベラルーシのミンスク経由で午後10時半過ぎにヴィリニュス駅に到着した。
    そのままタクシーに乗って、宿まで行く途中で、スーパーに寄って貰ったところ、
    周囲の人達が、2回程、何やら英語でアドバイスをしてくれたため、よくよく
    ロシア語(ヴィリニュスは大体ロシア語が通じる)で詳細を問い返してみた
    ところ、『午後8時以降はアルコールの販売が禁止されているため、購入出来ない』
    とのことだった。 買うのであれば、ノンアルコールにしなさいとのことで
    あったが、にわかにはその話が信じられなかったため、タクシーの運転手に
    再度確認したところ、やはり、午後8時以降はアルコールの販売が禁止されており、
    特に、日曜日は、午後3時以降はアルコール販売は禁止されていると言われたため、
    この日は、ミネラルウォーターのみを買ってすぐに宿へと向かった。

    翌日早朝から、いよいよ、十字架の丘へ
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    一夜明けて、午前7時代の電車で約2時間半掛けて、リトアニア第3の都市である
    シャウレイへと移動。 シャウレイ駅とバスターミナルは、歩くと実は10分弱
    掛かる。 しかも、バスの本数が非常に少なく、鉄道との接続が悪い。 更には、
    最寄の『ドマンタイ』のバス停から、十字架の丘までは、約2キロ程離れて
    いる。 このため、シャウレイ駅からタクシーで世界遺産の十字架の丘へと
    向かうことにした。

    実は、この十字架の下には、遺体は一切なく、すぐ隣りのラトビアやエストニア
    にも同様の十字架があるのだが、何故かリトアニアの十字架の丘だけが有名と
    なっており、世界遺産にも指定されている。

    今回、タクシーに乗って、時間を節約したのは、その後、リトアニア第2の
    都市であるカウナスへ移動するため。 実は、シャウレイからカウナスへは、
    鉄道で行くと、一旦ヴィリニュスまで戻って、更にV字に遠回りして行くため、
    1日で両都市を見て回る場合は、乗車時間の短いバスしかない。

    シャウレイからカウナスへは約3時間程度で、高速バスではなく、単なる一般
    バスであるため、距離の割には、妙に時間が掛かるため、どちらも余りゆっくり
    とは見て回る時間がないため、タクシーを使って、可能な限り、行きたい場所を
    限定して見て回るしかない。

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    十字架の丘の歴史
    リトアニアは1795年の第3次ポーランド分割で、ロシア帝国の支配下に置かれる
    こととなった。 ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした
    (1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。
    これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。 反乱兵の家族が、
    彼らの遺体のかわりに十字架をこの丘に建てたのである。 1918年、リトアニアは
    独立を回復。 独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちの
    ために祈る場所となった。 その後、ナチスドイツのホロコーストや、再度
    ソ連の支配下へ置かれたりと、辛い時期を経験したリトアニアだが、この丘には、
    リトアニアの独立を願って、十字架を建てる人たちで溢れた。 1991年末に
    ソ連の崩壊と共に、リトアニアは再び独立を回復。 その当時、この丘には、
    約6万の十字架が建てられていたと言う。 現在は、約20万もの十字架が建て
    られているとも言われている。

    【十字架の数】
    1900年 130
    1902年 155
    1922年 50
    1938年 400 以上
    1961年 5,000 が破壊される
    1975年 1,200 が破壊される
    1990年 約 55,000

    リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を
    持っていた。 丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や
    遺産への忠誠心を示した。 それは、非暴力による抵抗を表していた。 にも
    関わらず、ソ連は3度に渡りブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。

    1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、
    そして犠牲者のための場所であると述べた。 2000年、フランシスコ会の修道院が
    この丘の近くに完成した。 内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れた
    とされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連している。この丘は未だいずれの
    管轄にも属していないため、自由に出入りし、十字架を建てることが出来る。

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    第二次世界大戦の歴史を展示している『大祖国戦争博物館』は、ミンスクを
    中心としたベラルーシにおける戦争の歴史を分かりやすく展示した博物館で、
    ミンスクを理解するためには、是非訪れて欲しい観光スポット。

    この博物館では、武器や写真、ジオラマ等による展示が行われており、
    ベラルーシでは『大祖国戦争』と呼ばれている『第二次世界大戦』の歴史を
    伝えている。 当時ミンスク郊外には、アウシュビッツ等に次ぐ第3のナチスの
    収容所があり、20万人が虐殺されたとも言われている。 その収容所の様子を
    伝える展示もあり、他の国では見る機会が非常に少ない貴重な戦争の博物館で
    あるため、改めて平和について考えさせられるミンスクのおすすめ観光スポット。

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    ロシア語では、『第二次世界大戦』のことを『大祖国戦争』と呼ぶが、それは、
    対独戦で100万人以上にも及ぶ多大な戦死者を出したためこう呼ばれている。
    ミンスクの街は、ドイツ軍によって徹底的に破壊され、その後、社会主義経済に
    則り、復興されたため、ミンスク市内は旧ソ連式の大規模な建物が多い。

    戦争とは、幾ら語り継いだとしても、正確には伝わらないため、このような
    目で見て直接確かめることが出来る展示型の博物館が最も効果的。 米軍により
    爆撃を受けた仙台にも『戦災復興記念館』なるものがあるが、館内の展示品が
    少ないため、余り実際の戦争を想像出来ないのだが、この巨大な戦争博物館では、
    様々な展示品を用いて、かなり忠実に戦争を再現している。

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    大祖国戦争博物館は、地下鉄の駅からは若干離れており、全ての展示を見て周る
    ためには、半日程度は必要。 但し、この日は、列車が出るまでの時間が少なかった
    たため、45分程度の駆け足での見学となってしまったが、もっとゆっくりと時間を
    翔けて、色々な事を考えながら見たい設備であった。

    案内に展示していある展示物は、実際に戦争で使用された物も多く、非常に
    生々しく、蝋人形を交えて、更に細かく説明をしているため、非常に分かりやすい
    設備であった。

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    その後、ミンスク駅の1番線の一番奥にある21番線からビリニュス行きの電車に
    乗り、リトアニアの首都であるヴィリニュスへと旅立った。 ロシアから
    ベラルーシへ入国し、リトアニアへ抜ける場合、ベラルーシのビザが絶対に必要
    となる
    。 ビザをを所持していない場合、ここからリトアニアとの国境までは
    行けるものの、そこでビザがないことが判明すると、またミンスクまで強制的に
    連れ戻されるため要注意。

    べラルーシの国境が、実際のロシアとEUとの国境となるため、世界でも出入国
    審査が非常に厳しい場所となっている。 元々は、同じソビエト連邦という国
    だったのだが、体制が急激に変わったため、色々と面倒な手続きが増えた。

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     2018年8月9日、カザフスタンの最大都市、アルマトイで7月19日に刺殺された
    デニス・テン選手にちなんで名付けられた公立財団が設立されることが発表された。
    刺殺現場となったアルマトイ市内の現場には記念碑が建設されるという。

    旧ソ連国内で放送された追悼ドキュメンタリー番組


    デニス・テン選手の母親であるオクサーナ・テンさんは、家族が多大な困難に
    直面している際にも、カザフスタン国民の方々に支えて貰ったことに対して、
    まずは感謝し、デニスの友人、ファン、彼の教え子らに対して、デニスの記憶を
    永続的に残すための今後の取り組みについて語った。 現在、カザフスタン
    国内では、多くのアイデアや提案が表明されており、文化スポーツ省と
    アルマトイ市と共に話し合いと行い、公的資金の調達と今後の活動に対する
    理解を両者から得たと語った。

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    その上で、既にこのプロジェクトは動き出しており、『デニス・テン特別公立基金』
    が創設され、カザフスタン文化スポーツ省は、デニス・テン記念スケート・
    アカデミーの創設を計画していると言う。 更に、アルマトイ市側は、デニス選手の
    功績を称えて、毎年スケートの国際トーナメントを開催することを約束し、殺害
    現場となってしまった場所には、デニス選手の記念碑を建設するため、彫刻家の
    選定を行っており、デニス選手の生家にプレートを取り付けて、本の出版も
    約束した。 そのため、オクサーナさんは、デニス選手の友人らと共に出版へ
    向けての準備を行っていると語った。 このため、デニス・テン公式Instagram
    では、本に掲載出来るデニス選手の画像を募集している。

    我々は、援助の手を差し伸べてくれた全ての人達に感謝しており、全ての
    プロジェクトの実現に向けて、近々、デニス・テン基金の公式な住所を発表すると
    述べた。

    【カザフスタン】デニス・テン選手の突然の死に5,000人超が彼の死を悼む

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    ドキュメンタリー番組『テンと言う名の星』


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    ベラルーシの首都であるミンスクは、人口約200万人程度のこじんまりとした街で、
    仙台の姉妹都市となっている。

    ミンスク空港からミンスク市内へやって来る際は、宿のおばさんに地下鉄の
    終点駅まで乗せて来てもらったため、空港への行き方が分からなかったが、
    ミンスク駅のお隣り(と言っても、日本の感覚で言うと5件ぐらい隣り)に
    あるバスターミナルから空港行きのシャトルバスが20分間隔で出ている事が判明。
    更に、後で分かった事だが、このシャトルバスは、40分おきに乗り合いタクシーと
    路線バスが交互に出発しているため、空港への到着時間が20分程度異なっている。

    乗り合いタクシーは空港まで40分程度で到着するのだが、路線バスの場合は、
    1時間弱掛かる。 しかも、乗り合いタクシーの場合は、「降ります」の意思表示
    ボタンが付いていないため、降りたい場所に近づいたら、運転手に
    「降ろしてください」と意思表示をしない限り、タクシーから降りる事すら
    ままならないw

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    ミンスクは、こじんまりとした街なので、徒歩で街中にある主要な観光地を
    全て見て周ることが出来るが、要所要所では、やはり、運賃約30円でどこまで
    でも乗れる地下鉄が便利。 外は暑いので、地下鉄の中は避暑地にもなる。
    有事の際には、核シェルターにもなるモスクワの地下鉄とは異なり、ミンスクの
    地下鉄は、そこまで深い場所を走っていないため、エスカレーターの移動も
    さほど苦にはならず。 ミンスクは思っていたよりも綺麗な街並みなので、主な
    観光地を徒歩で丸1日掛けて、ほぼ網羅した。

    「最も社会主義時代の痕跡が色濃く残る国」という偏った情報に騙されて、
    重苦しい雰囲気の街を想像していたのだが、ミンスクは、想像以上に綺麗な街で
    あった。 ドイツ軍に街を破壊されてからは、ソ連式の復興計画に則り、
    街の復興がなされた名残で、多少ソ連式の重厚な建物は残っているものの、
    そこまでの暗さは感じられなかった。 道路の清掃も行き届いており、中途半端に
    アメリカの薄汚い街へ観光に行くよりも、ミンスクの方が断然お勧め。 ロシア語も
    全く訛っていないため、ロシア語留学にも適している。

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    明るい雰囲気のミンスク市内。 この周辺が街の中心部であるため、お土産屋の
    キオスクが軒を連ねていた。 ベラルーシの民族衣装を着た人形やロシアの
    マトリョーシカなど、観光客は少ないなりに、それなりには居るのだと思った。
    但し、皆ロシア語で喋っていたため、旧ソ連邦内、特に、ベラルーシではビザが
    必要のないロシアからの観光客だと思う。

    ヨーロッパにある街の中心部には、必ず教会があるのだが、敬虔な祈りの場で
    あるため、観光地ではない。 写真を撮るのは余りお勧め出来ないが、邪魔に
    ならない程度であれば、特に文句を言われることもないので、主なものだけ
    写真に収めて、教会を後にした。

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    先ほどの教会がある地下鉄の駅からは若干離れているものの、正しい歴史を
    知るために、第2次大戦の記念館に行く事にした。 ミンスクは、ドイツ軍に
    よって破壊された街だが、ビリニュスはソ連軍によって破壊されたもの。
    ヨーロッパでは、至る所で殺し合いをしているので、それを乗り越えてEU
    というものが存在している事を忘れてはならない。

    博物館に行く途中にデパートがあったため、若干寄り道。 地下に食料品
    売り場があったため、ミンスクの生活を垣間見るために、色々と見て回った。
    ミンスクでは、流石にお隣りウクライナ・ポロシェンコ大統領の「アリョンカ」は
    売っていなかった。 物の全くない時代に旧ソ連に住んでいた者としては、
    世界が大きく変わってしまったという感想しか出て来ないのだが、逆を言うと、
    超極貧な地域でも、ものの20年程度で、この様に大発展出来る事を意味している。
    日本の場合は、逆にこの20年間ですっかりと退化してしまったため、
    ベラルーシをはじめ、旧ソ連地域における存在価値を全く見出せなかった。

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    そのお隣りに本屋があったため、日本語の本を物色。 旧ソ連邦では、日本語の
    人気が高いため、日本語の教科書が30種類程度も置いてあった。 ここで
    自分へのお土産として、露和辞典を700円程度で購入した。 語彙数は約2万語
    であるため、基礎的な単語しか書かれていないのだが、用例が多いため、非常に
    勉強になる1冊であった。

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    モスクワから1時間半のフライトで、ベラルーシの首都ミンスクに到着。
    このミンスク第2空港は、中国の資本で建設されたとかで、あちこちに漢字
    表記があるため、日本人には非常に便利。 空港到着後は、ベラルーシの
    厳しい入国審査があるのかと思いきや、一切何もなく、そのまま外に出て
    しまったため、拍子抜けした。 夜中の11時半にミンスクに到着したため、
    タクシーが一切捕まらず、色々と交渉した結果、恐らく、ミンスク市が
    運営している予約制のタクシーを1時間後にようやく予約出来たため、
    夜中の1時過ぎに本日のお宿である健康センターへとたどり着いた。

    【ミンスク】
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    空港から宿までの道には、街灯がひとつもなく、正に漆黒の闇の中を林の
    中へとずんずん突き進んだ場所にこの健康センターがあるのだが、一夜明けて、
    朝になると、素敵な森の中にある施設である事が判明。 日本円にして1,200円
    程度でスウィートルームを予約したため、朝から気分は大金持ちのおぜう様w
    健康センターだけあって、マイナスイオンたっぷりの朝の散歩が気持ち良い。
    敷地内には、サウナやらレストランやら、色々な施設があった。

    ミンスク市内は、ロシア語とベラルーシ語のちゃんぽん表記が多く、周囲は
    皆ロシア語だけで話しているのに、地下鉄の放送は、ベラルーシ語と英語のみ。
    元々、ベラルーシ語は「死語」と呼ばれる程すたれた言語だったが、近年になって、
    徐々に復活をしている模様。 旧ソ連邦の国々では、ロシア語のみが公用語で
    あったため、ベラルーシ語やウクライナ語が激しく規制されていた時代もあった
    影響で、各民族語がすたれたのだが、ソ連から独立の後は、各民族語の復活に
    力を入れている国々もあるものの、ウクライナのように、余りにも強引な
    やり方をして、ロシア語話者の人権を無視している国もあるため、ベラルーシ語の
    復活にも、慎重な体制で臨んで欲しいところ。

    【ミンスク】
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    基本的に、ベラルーシ語はロシア語に非常に似ているため、特にロシア語の
    アナウンスをしなくとも理解出来るのだが、周囲で喋っている言語と、公共
    放送とのズレがあるのには違和感を感じた。 大阪で標準語の放送等、この逆
    パターンは、幾らでもあると思うのだが、道路表記は、話し言葉が追いついて
    来てから変更した方が良いと思った。

    ミンスク駅構内のキオスクでは、溢れるばかりの商品が並べられていた。
    一部の旅行雑誌には、「ベラルーシは、旧ソ連邦の中でも最もソ連時代の面影を
    残している国」との記載があったため、どれほど古めかしい国なのかと思いきや、
    こんな程度のレーニンやらモニュメント的な遺物は、ロシアこくないにもまだまだ
    残っているため、ロシアとベラルーシの決定的な違いは見出せなかった。
    ベラルーシでは、チェルノブイリ原発事故の影響で、国内を旅行するという
    習慣がないそうなのだが、その現実を後で何気ない場所で見る事となった。

    【ミンスク】
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    ミンスク駅前には、重々しい重厚な雰囲気の建造物があり、社会主義建設の
    象徴となっている。 この日は、このまま夜にこの駅からビリニュスへ向けて
    旅立つため、まずは、駅の下見から。 行き先とホームの番号が記載されている
    ものの、ビリニュス行きの電車は、1番線の最先端部分にある21番線からの出発と
    なっており、非常に分かり辛い。 ミンスク空港から入国し、5日間のビザなし
    訪問でベラルーシへやって来た人達の場合は、鉄道での国境越えは絶対に出来ず、
    今回は、わざわざベラルーシのビザを取得して来ているため、この超難ルート
    での国境越えに挑みます。 ミンスク空港からのビザなし訪問でベラルーシへ
    入国した場合は、絶対にミンスク空港から以外は出国出来ないため、ご注意
    くだされ(出発前にベラルーシ大使館に確認済み)
    。 

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