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    カテゴリ: CIS独立国家共同体(旧ソ連邦)

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    ロシア軍が原発を攻撃?
    2022年3月4日午前2時頃、ウクライナ南東部にある欧州最大のザポリージャ原発
    火災が発生し、「ロシア軍が原発に砲撃を加えた」との衝撃的なニュースが
    世界を駆け巡った。 ウクライナのドミトロ・クレバ外相は、ロシア軍が
    ザポリージャ原発に向けて「全方位から砲撃している」とした。 

    ウクライナ当局によると、その日の午後には同原発はロシア軍によって制圧されたと
    なっているが、その後、この原発からの危機的な情報は一切入っていない。 一方、
    イギリスのロイター紙は、「ウクライナ軍による攻撃」とし、ウクライナを
    全面的に非難した。



    ソ連時代の原発
    この原発は元々、ソ連時代の1980年ごろから建設が開始され、1985年~1996年に
    掛けて、順次稼働が始まった原発であるため、1号機~5号機までは、ロシアの
    援助により建設されたことになるのだが、実は、この原発への攻撃は、ウクライナの
    工作員がロシア軍の服を着て火を放ったことが、その後の調査で明らかになって
    いるが、日本の偏向報道は、その事実を一切報道しなかったばかりか、訂正すら
    しなかった。

    ロシア軍はチェルノブイリ原発も既に鎮圧
    ロシア軍は、ザポリージャ原発の他にも、1986年4月に大規模事故を引き起こした
    チェルノブイリ原発も既に制圧しているが、そちらでも特に何の問題も起きていない
    どころか、慢性的な財政難により、全く何もしていないウクライナ政府がこのまま
    大規模原発を管理出来るとも思えないため、元々の建設者であるロシア軍がこれらの
    原発を守ってくれた方が、より安全と言える。

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    虚偽の報道を行った場合の刑罰
    ロシア議会では、「虚偽の報道を行った場合は禁錮刑」という法案が可決され
    たため、これまでは、数々のロシアに対する偏向報道を行って来たロイターも
    いよいよ本当のことを言わざるを得なくなった模様。

    世界中のメディアが、虚偽の報道が出来なくなれば、ロシア軍やプーチン大統領が
    行っているウクライナの極右勢力のネオナチを狙い撃ちした「特別軍事作戦」が
    正しく世界へ報道される日がやって来るかも知れない。

    いずれにしても、一切何も考えない「脳死」の状態でウクライナを一方的に
    支持すべきではない。

    ウクライナ反戦デモにはためく「ネオナチ」の旗
    971094981

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    Twitterからの投稿
    元民主党党首で、元首相であった鳩山由紀夫氏が、ウクライナドンバスにおける
    ウクライナ政府による殺戮を暴露。 ゼレンスキーは、長年に渡り、ドンバス地域の
    ロシア系ウクライナ人達に殺戮を繰り返していたが、「テロリスト」として全く
    取り合わなかったと言う。

    ドンバス住人らとの対話
    ようやく重い腰を上げてウクライナ東部のドンバスに住むロシア系ウクライナ人
    (日本では武装した親露派と偏向報道)らと対話するが、当初は和気あいあいな
    雰囲気であったが、まともに話を聞こうとすらしないウクライナ大統領と住民が
    言い争いになる場面も。 ウクライナ政府の見解では、大統領と武装テロリストとの
    対面である。


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    情報戦真っ只中のウクライナ。 戦争中の割には、かなり平和なのは、
    口喧嘩レベルのバーチャル戦争だから。 ロシアの戦車も全く現れず。

    首都のキエフ
     

    第二の都市ハリコフ


    オデッサ、リヴォフ、スミー他


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    ウクライナはソ連の優等生
    ウクライナは、ソ連時代までは、温暖な気候を利用した工業化と農業が盛んな
    地方(ロシア語で「地方はクライと言う」)で、ソ連国内では、ロシア、
    ベラルーシと並び、「スラブの3大国」「ソ連の優等生」と呼ばれる程非常に
    発展した国であったが、1991年12月にソ連が崩壊、その後は度重なる経済危機、
    政治クーデター等により、国内はすっかりと荒廃した。 旧ソ連邦構成国家の
    中でも、ソ連時代と比較して発展どころか、後退した国は、このウクライナと
    グルジア(ジョージア)のみ。

    ウクライナ言語地図
    赤がロシア語、オレンジがロシア語とウクライナ語併用、黄色がウクライナ語

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    ウクライナ系アメリカ人とは?
    ソ連邦崩壊後のロシアも状況は同じどころか、ソ連からの独立時に旧ソ連邦が残した
    天文学的な負債をほぼ1国だけで背負ったため、状況的には、ウクライナなどよりも
    遥かに酷かった。 ウクライナは、国内政治の腐敗を長年放置し、そこをアメリカに
    よって国ごと乗っ取られた格好だが、北米へのウクライナからの移民は、1600年代
    初頭から開始されたものの、大規模な移住は、1880年代に入ってからであった。
    ソ連邦崩壊の後、1990年代初頭にもユダヤ人やプロテスタントを中心に、大挙して
    アメリカへと渡って行ったが、大都市に移住するケースが多く、アメリカやカナダ
    国内では、ウクライナ系の少数民族集団を形成しているが、特にウクライナ系住民が
    多いカナダを経由してアメリカへと入国したウクライナ系アメリカ人が非常に多い。

    2000年にアメリカ合衆国が行った国勢調査によると、ウクライナ系アメリカ人が
    最も多い都市圏はニューヨーク(16万人)、フィラデルフィア(6万人)、
    シカゴ(4万6000人)、ロサンゼルス(3万4000人)、デトロイト(3万3000人)、
    クリーブランド(2万6000人)、インディアナポリス(1万9000人)となっている。
    これらのウクライナ系アメリカ人は、元々ウクライナ人であるため、ウクライナ人と
    顔が全く同じであり、当然、ウクライナ語も喋れるため、今回のウクライナ危機でも
    大いに利用された可能性がある。 尚、これらのウクライナ系アメリカ人は、既に
    3世や4世の世代になっているが、その間に「過去の恨み」が増大しており、ロシアに
    対する怨念は並々ならぬものがある。 尚、ウクライナ議会では、これらの
    ウクライナ系アメリカ人がウクライナ国籍取得後にかなり起用されており、さながら
    アメリカの傀儡政権と言ったところ。

    ウクライナ分裂予想図
    ●東部と南部(クリミア、ドンバス、スラビツカ・ウクライナ)がロシア
    ●南部(ブコビナ)がルーマニア
    ●西部(ガリツィア)がポーランド
    ●南西部(カルパチア)がスロヴァキア
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    ウクライナは、ウクライナ人の意思には関係なく、ロシア革命時に重要な役割を
    果たしたボリシェヴィキによって造られた人工国家であるが、第二次世界大戦の
    結果、欧州の国境は大きく様変わりし、ポーランド、スロバキア、ルーマニア等、
    様々な地域が統合された結果生じた人工国家である。 そもそも、ウクライナは、
    西部、中部、南東部と大きく文化的にも分かれており、東部ではロシア語が
    圧倒的に優勢であるものの、西部ではポーランド時代の影響が色濃いため、
    ウクライナ語が普及している。 経済的に見ても、東部では主に工業、西部では
    主に農業が盛んとなっている。

    現在のキエフ政権は、中部と西部が中心となっており、特に、元々ポーランド領で
    あった西部(ガリツィア)がウクライナの唯一のイデオロギーとされている。
    住民らの基本的な物の考え方も親欧的とされている中部&西部、並びに、親露的な
    東部とでは全く折り合わず、1つの国家とされながらも、実際は全くの別国家で
    ある。

    ウクライナでは近年、10代~30代前半を中心とした「ネオナチ」と呼ばれる
    若年層による国粋主義者が台頭しているが、ウクライナのファシストに若年層が
    大幅に多いのは、ソ連邦崩壊から30年しか経過しておらず、ソ連時代の教育とは
    全く異なる教育を受けた世代が台頭して来たためである。 但し、この教育は、
    ソ連時代のファシストであるステパン・バンデラを担ぎ出した洗脳教育となって
    おり、ウクライナにおける若い世代の大幅な劣化が叫ばれている。

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    ベラルーシでは、2020年8月9日の大統領選で現職であるアレクサンドル・
    ルカシェンコ(67)氏の得票率80%での圧勝が発表されたが、民衆は選挙結果が
    操作されたとし、その後、抗議デモがベラルーシ全土に広がった。 同国の人口は
    約950万、200万弱の首都ミンスクで、日曜日ごとに数万から十数万人のデモが
    数カ月間も続いた。

    ミンスクでのデモの様子


    【反政府デモの経緯】出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)
    2020年
    大統領選挙が行われた翌8月10日、6選を決めたルカシェンコに対して抗議する
    市民と治安維持部隊が衝突し、1人が死亡、多数の市民が拘束された。
    反政府デモは全国的に広がり、10月26日には大規模なゼネストが行われた。

    11月28日には、ルカシェンコは即時辞任を否定した上で、代替案として、改憲を
    提案し、新憲法が成立したあかつきには退任して権限を移譲することを表明した。

    12月17日には対立候補であったスヴャトラーナ・チハノスカヤに人権活動を讃える
    サハロフ賞が授与され、国外に向けてベラルーシの民主化への支援を求めたが、
    2021年2月11日、ルカシェンコが指導する国民会議が開かれ、反体制派が求める
    民主化に応じない姿勢を見せた。

    実は結構温和な性格のルカシェンコ氏
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    2021年
    3月25日、チハノフスカヤが、自由の日にルカシェンコへの退陣を求める抗議
    活動を改めて行うことを呼びかけた。 当日、ミンスクの街頭を少数の集団が
    行進したが、200人以上の市民が逮捕された。 ベラルーシ当局はこれらの抗議
    活動を何とか抑え込み、2021年現在ベラルーシ国内においては大規模な不服従
    行動は起きていない。

    5月23日、ベラルーシ領空を飛行していた旅客機をミンスクの空港に着陸させ、
    搭乗していた反体制派メディア「ネフタ」の共同創設者であるロマン・
    プラタセヴィチが拘束された。 翌24日、ルカシェンコはデモに対する報道を
    禁止する法律に署名した。

    8月1日、東京オリンピックでベラルーシ代表として出場していたクリスチーナ・
    ツィマノフスカヤが、ベラルーシのSNS「テレグラム」で自国のコーチ陣を
    批判したとして帰国命令が出たことから、オーストリアへの亡命を希望し、
    最終的に4日、人道ビザを発給したポーランドへと亡命した。

    8月3日、隣国ウクライナでベラルーシからの脱出を支援してきたヴィタリー・
    シショフが首吊り状態で発見された。

    11月8日、EUの経済制裁に対抗する形でベラルーシの隣国であるポーランドとの
    国境に中近東系の移民を送り込む問題が発生した。

    12月14日、ベラルーシの裁判所は、シャルヘイ・チハノフスキーを含む
    反政府指導者6人に対し10年以上の禁固刑を言い渡した。

    政府支持派と反政府派が盛んにデモを行なった

    【西側による情報操作】
    同国史上、過去に類を見ない異例の事態となり、政権のデモ弾圧も激しさを増し、
    11月には治安部隊による全国の日曜デモで拘束者が1日千人を超える日が続いた。
    西側メディアは盛んにルカシェンコ大統領を「ヨーロッパ最後の独裁者」として
    非難し、デモを取材するジャーナリストも標的にされ、多数拘束された。

    「英雄の行進」と名付けられたデモには数万人が参加したが、実は、このデモは、
    反政府派によるデモだけではなく、政府支持派のデモも頻繁に行なわれたのだが、
    その様子を西側のメディアは一切報道しなかった。 政府支持派と反政府派の
    行進は、すぐ隣りでのすれ違いも多々あったが、特に暴動は起きなかった。

    政府支持派と反政府派の見分け方は非常に簡単で、それぞれ支持する側の国旗を
    手に、政府支持派は口々に「За Беларусь!(ベラルーシ賛成)」「За Батьку!
    バーチカ賛成)」と叫び、また、手にはベラルーシ国旗を持ち、行進した。

    一方の反政府派は、口々に「Уходи!(出て行け)」と叫び、白赤白の旧ベラルーシ
    人民共和国の国旗を手に行進した。 赤と白は、伝統的にリトアニア大公国と
    ポーランド・リトアニア共和国の国家の紋章に使われた色である。

    日本では、ルカシェンコ大統領は、反政府派を認めないと報道されたが、現地の
    ベラルーシのロシア語放送を見る限り、ルカシェンコ大統領は、反政府派の
    デモを禁止などはしておらず、むしろ、容認したため、その後、デモは鎮静化した。

    ※「バーチカ」は元々は「父親」と言う意味だが、ここでは「ルカシェンコ」の意味

    現在のベラルーシの国旗         旧ベラルーシ人民共和国の国旗
    elarusvg556e

    【ヨーロッパ最後の独裁者】
    日本をはじめ、西側メディアがこぞって使用した「ヨーロッパ最後の独裁者」と言う
    言葉だが、これは、アメリカ43代目大統領のジョージ・ブッシュJrが、当時用いた
    表現と全く同じであり、かつ、1度しか口にしなかったものだが、日本では
    ベラルーシ大統領を報じる際には、必ずと言って良いぐらいに「枕詞」として
    必ず用いられているが、アメリカは、敵対する国、または、従わない国に対して、
    常に介入、制裁、戦争を仕掛けているため、本当の独裁者はどちらなのかと
    言いたくなる。

    最近のニュースは、アメリカのバイアスが必ず入っているため、しっかりと歴史を
    学び、何でも鵜呑みにせずに、自分の頭で考え、ウソと真実を見極める知識を
    持つべし。

    ミンスクでの大規模デモの様子
    2020FF8001

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    アルメニアが実効支配するアゼルバイジャン領ナゴルノ・カラバフ地域をめぐる
    紛争で、トルコがアゼルバイジャンへの軍派遣へ動き始めた。 現地では、44日間の
    軍事衝突の末に停戦合意が発効したばかり。 派兵は停戦監視にあたるロシア軍との
    「共同活動」を目的とするが、関係国の警戒心は強い。 支配地の多くを失う
    アルメニアの混乱も続き、和平を見通せなくなっている。

    「停戦合意は重要だが、あいまいさは取り払わなければならない」とフランスの
    ルドリアン外相は11月17日、議会でこう語り、合意を仲介したロシアに対し、
    停戦でトルコが果たす役割について説明を求める考えを強調した。 フランスは
    ロシア、米国と共に1990年代から続く和平競技の共同議長国となっている。

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    停戦合意が発効したのは11月10日。 その翌日、トルコのエルドアン大統領は
    与党の会議で「ロシアと共に停戦監視の役割を担う」と発言した。 停戦合意は
    アルメニアがナゴルノ・カラバフ地域の一部を残し、90年代から支配して来た
    周辺地域をアゼルバイジャンに引き渡すとしている。 ロシア軍が停戦監視を
    担うことも決まっている。

    だが、発表された和平合意の声明にトルコに関する記述はなかった。 関係国に
    疑心が広がったのは、直後にエルドアン氏と共にロシアのプーチン大統領が
    電話協議し、トルコ側が両国による停戦監視のための「共同センター」設置が
    決まったと発表したからだ。



    トルコ議会は11月17日、期限を1年とするアゼルバイジャンへの軍派遣を承認した。
    9月末の衝突開始以来、エルドアン氏はアゼルバイジャンの軍事行動を支援する
    発言を繰り返して来た。 トルコとアルメニアの間には、第一次世界大戦中の
    アルメニア人迫害をめぐる歴史論争があり、アルメニア系住民が暮らすナゴルノ・
    カラバフ付近でトルコ軍が活動すれば、アルメニアを刺激するのは避けられない。

    ロシアもトルコとの「共同センター」設置の合意は認めている。 プーチン氏は
    11月17日夜に国営テレビで「アゼルバイジャンの要請だった」と明かした。
    但し、活動内容については、あいまいで、センターの場所やトルコ軍の派遣規模は
    不明なままとなっている。

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    停戦合意の直前、アゼルバイジャン軍は、ナゴルノ・カラバフ第二の都市シュシャを
    制圧。 事態が緊迫する中、ロシアはアゼルバイジャンを支えるトルコの納得を
    得るため、停戦交渉の枠外で妥協を強いられた可能性がある。

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    旧ソ連邦を構成していたモルドバ共和国で2020年11月15日、任期満了に伴う
    大統領選の決選投票が行われ、親欧州派の野党「行動と連帯」のマイア・サンドゥ
    党首(48)が暫定結果で57・75%の票を獲得し、初当選した。

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    親露派の現職ドドン氏(45)の得票率は42・25%で、投票率は52・78%。
    同国で女性が大統領に就任するのは初めて。 ドドン氏は選挙で不正があった
    として、抗議運動を呼びかける可能性がある。

    11月1日の大統領選では、どの候補も過半数の票を獲得できず、1位のサンドゥ氏と
    2位のドドン氏が決選投票に進んだ。 モルドバは首相権限が強く、大統領の
    決定には議会などの承認が必要。 議会はドドン氏の与党・社会党が第1党だが、
    単独過半数を得ておらず、解散総選挙の可能性も指摘されている。

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    タス通信によると、サンドゥ氏は「経済を立て直すために国を団結させる」と
    勝利宣言した。 サンドゥ氏は教育相などを経て、2019年6月に社会党との
    連立内閣で首相に就任したが、首相権限の強化案を巡り議会と対立して同11月に
    退任し、ドドン政権の腐敗などを批判していた。 欧州連合(EU)との
    関係強化を訴えており、対露関係が悪化する可能性がある。

    【沿ドニエストル共和国】
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    モルドバ共和国内のドニエストル川沿いには、ロシア寄りの未承認国家である
    沿ドニエストル共和国があり、実質モルドバの支配を受けていないため、
    ロシアとの関係が悪化すると、地政学的な危険性が増す可能性がある。

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    2020年9月27日の朝、アゼルバイジャンとアルメニアの係争地となっている
    アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)を巡り、ナゴルノ・カラバフ
    境界沿いで軍事衝突が勃発した。 アゼルバイジャンとアルメニア双方共に
    相手国が先に攻撃したと主張しているが、この衝突はトルコからの影の支持を
    取り付けたアゼルバイジャンによって開始された可能性が高く、主要攻撃目標は
    山岳地帯の少ないナゴルノ・カラバフ南部とされた。

    アゼルバイジャン側の発表によれば、11月8日にナゴルノ・カラバフ南部要衝の地
    であり、第2の都市であるシュシャが陥落した。 折りしも11月9日は、
    アゼルバイジャン国旗の日であるため、アゼルバイジャン軍が集中的に南部を
    砲撃したと見られる。 下記の停戦合意により、シュシャは、今後は
    アゼルバイジャン領となる。

    【3分割されたナゴルノ・カラバフ】
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    元々この地は、スターリンの時代に、隣国同士を反目させるために、わざと
    中央アジア諸国間の国境線を複雑にした歴史的な経緯があり、長年に渡り、民族間の
    対立や散発的な小競り合いが絶えなかった。 国連や多数の国々がこの軍事衝突を
    強く非難し、停戦交渉を再開するよう双方に求めた一方、アフガニスタン、
    パキスタン、イスラエル、トルコはアゼルバイジャンへの支持を表明した。 また、
    フランスがアルメニアへの支持を表明し、イランもアルメニアを支持したが、
    地域の安定化を求める声を無視しての支持だとして非難されている。 尚、
    サウジアラビアとアラブ首長国連邦は、アルメニアを支援したと考えられている。

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    【停戦合意と平和維持活動】

    欧州安全協力機構ミンスクグループの仲介により、アルメニアと
    アゼルバイジャンは、2020年10月10日正午からの停戦と協議開始で合意したが、
    停戦合意後も戦闘は続き、10月17日には軍事衝突の鎮静化を図るため、10月18日
    0時から2度目の停戦で合意した。 しかし、停戦が履行される気配はなく、
    10月25日にはアメリカ合衆国の仲介によって10月26日8時から3度目の停戦で
    合意したが、合意後も戦闘が続き、4回目の停戦合意はロシアのプーチン大統領の
    仲介により、両当事国が停戦協定に調印、モスクワ時間11月10日午前零時
    (日本時間同日午前6時)に発効した。 今回の紛争の実態は、
    アゼルバイジャン軍の勝利、アルメニア軍の敗北(降伏)となっている。

    ロシアは、今後5年間、ナゴルノ・カラバフでの平和維持活動に当たり、同国
    西部のウリヤノフスク・ボストーチヌイ空港から、配備に必要な1,960人の
    要員と軍用車両、更に、戦闘ヘリコプターなどを大型輸送機で移送した。
    平和維持軍は、ナゴルノ・カラバフに展開する両軍の最前線と、アルメニアから
    ナゴルノ・カラバフに通じる「ラチン回廊」に沿って監視所を設置する予定で、
    司令部は首都のステパナケルトに置かれる。

    ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャン西部、ウクライナの国境から50キロ
    程度に位置し、1994年の戦争終結以降、アルメニアが実効支配して来た。
    今回の戦争では、約3,000人が犠牲になったと見られている。 但し、
    アルメニア軍は自軍戦死者数を毎日発表しており、11月9日現在の累計
    戦死者数は1,221人となっているが、アゼルバイジャン軍は戦争開始以来、
    1度も自軍戦死者数を発表していないため、戦死者数が、大幅に上回っている
    可能性も否定出来ない。

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    【ナゴルノ・カラバフ戦争停戦に関する声明文】
    アゼルバイジャン・アリエフ大統領、アルメニア・パシニャン首相、ロシア・
    プーチン大統領

    我々は、ナゴルノ・カラバフ戦争停戦で合意、下記声明を発表する。

    1. ナゴルノ・カラバフ紛争地域における全面的停戦と戦闘行為中止をモスクワ時間
    2020年11月10日午前零時に実施する。 アゼルバイジャン共和国とアルメニア
    共和国、(以後“当事国”)は確保した現在の位置に留まる。

    2. アグダム地区とアルメニア側が確保しているアゼルバイジャン共和国ガザフ
    地区は、2020年11月20日までにアゼルバイジャン側に返還する。

    3. ナゴルノ・カラバフの境界線とラチン回廊沿線に、1,960人のロシア平和
    維持軍が展開する。 平和維持軍の装備は90輌の装甲車、380台の車両と
    特殊機材車とする。

    4. ロシア平和維持軍は、アルメニア軍の撤収と並行して、5年間の期間で駐留する。
    もし、双方が半年前までに反対を表明しない場合、平和維持軍の駐留期間は
    自動的に5年間延長される。

    5. 停戦合意事項の管理を効率的に実施すべく、平和維持センターを設置する。

    6. アルメニア共和国は2020年11月15日までにケルバジャル地区を、12月1日までに
    ラチン地区をアゼルバイジャン共和国に返還する。 但し、ラチン地区に
    関しては、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続する幅5キロの回廊を保証する。

    7. 国内の避難民と難民は国連難民高等弁務官事務所管理の下、ナゴルノ・カラバフ、
    および、その周辺地区に帰還する。

    8. 捕虜、拘束者、遺体の交換を行う。

    9. アルメニア共和国は、アゼルバイジャン西部と(アゼルバイジャンの飛び地)
    ナヒチェヴァン自治共和国を接続する輸送路建設を保証する。 輸送路管理は、
    露連邦保安庁傘下の国境警備隊が行う。

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    2020年10月5日、中央アジア・キルギスの首都ビシケクで議会選の結果に抗議する
    デモが起こり、野党勢力は6日までに政府庁舎を次々と占拠し、首都は騒乱状態と
    なった。 事実上の政変とみられる。 政変の背景には、ジェエンベコフ大統領派と
    汚職で有罪となり投獄されたアタムバエフ前大統領派の強い確執があるとみられる。

    前日に投開票された議会選(1院制、定数120)の不正を訴える野党支持者らが
    数千人規模の抗議活動を行い、治安部隊と衝突したとタス通信などが伝えた。
    保健省の発表では1人が死亡し、約690人が負傷した。 デモ隊は政府庁舎などを
    奪取し、収監中のアタムバエフ前大統領らを解放。 中央選挙管理委員会が
    選挙結果の無効を宣言するなど混乱が続いている。

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    タス通信などによると、4日の議会選には16の政党が参加。 中央選挙管理委員会の
    暫定結果では、議席獲得に必要な得票率7%を超えた政党は4党だけで、このうち
    野党は1党のみで、政権に近い勢力が多数を占める見込みとなった。

    議席を得られない野党勢力は5日、選挙の不正を訴え、首都ビシケクなどで抗議
    活動を始め、排除を試みる治安部隊と衝突した。 一部は大統領府や議会などに
    侵入し、汚職などの罪で有罪判決を受けたアタムバエフ氏ら収監中の政治家を
    相次いで解放するなど、混乱は夜通しで続いた。

    野党側は「犯罪的な政権の打倒」を宣言し、新内閣の組閣に向けた調整評議会を
    設置。 地方知事の辞任表明も相次ぎ、ビシケクでは警察が姿を消し、臨時の
    市長が任命されたという。 一方、ジェエンベコフ大統領は6日、「非合法な権力
    奪取の試み」を批判。 事態沈静化に向け、選挙に参加した野党も含む全政党に
    協議を呼びかけているが、混乱が長期化する恐れがある。

    キルギスはソ連崩壊後に独立した中央アジア5カ国のうち「最も民主的」と呼ばれ、
    2005年と10年には野党主導の抗議活動の結果、当時のアカエフ、バキエフ
    両大統領がそれぞれ亡命した。 元首相のジェエンベコフ氏は17年の大統領選で
    初当選。 2019年8月には対立していたアタムバエフ氏を汚職容疑で拘束した。
    最近は新型コロナウイルスの感染拡大により経済状況が悪化し、政権への不満の
    広がりも伝えられていた。

    ジェエンベコフ大統領は「政権奪取の試みがあった」と批判し、対話を呼び掛けた。
    しかし野党側は大統領退陣、新たな政府樹立を要求し、情勢は一気に緊迫した。

    歴代統領一覧
    Flag of the Kyrgyz Soviet Socialist Republic.svg キルギス・ソビエト社会主義共和国
    キルギスの旗 キルギスタン共和国大統領
    大統領所属政党在任期間備考
    11Askar Akaev MoscowRia 08-2016.jpgアスカル・アカエフ
    Аскар Акаевич Акаев
    無所属1990年10月27日
    1991年8月31日
    キルギスの旗 キルギスタン共和国・キルギス共和国大統領
    大統領所属政党在任期間備考
    1-Askar Akaev MoscowRia 08-2016.jpgアスカル・アカエフ
    Аскар Акаевич Акаев
    無所属1991年8月31日
    1991年10月29日
    11991年10月29日
    1995年10月29日
    21995年10月29日
    2000年10月29日
    32000年10月29日
    2005年3月24日
    辞任
    -Replace this image JA.svgイシェンバイ・カドイルベコフ
    Ишенбай Дүйшөнбиевич Кадырбеков
    無所属2005年3月24日
    - 2005年3月25日
    大統領代行
    -Kurmanbek Bakiyev.jpgクルマンベク・バキエフ
    Курманбек Сали уулу Бакиев
    キルギスタン人民運動2005年3月25日
    - 2005年8月14日
    大統領代行
    242005年8月14日
    2007年11月5日
    2アク・ジョル2007年11月5日
    2009年7月23日
    新党結成
    52009年7月23日
    2010年4月7日
    辞任
    -Roza Otunbaeva.jpgローザ・オトゥンバエヴァ
    Роза Исаковна Отунбаева
    キルギス社会民主党2010年4月7日
    - 2010年5月19日
    臨時政府
    2010年5月19日
    - 2010年7月3日
    暫定大統領
    362010年7月3日
    2011年12月1日
    議院内閣制を導入
    472012-03-20 Almazbek Atambayev.jpegアルマズベク・アタンバエフ
    Алмазбек Шаршенович Атамбаев
    キルギス社会民主党2011年12月1日
    2017年11月24日
    58Sooronbay Jeenbekov at the Eurasian Intergovernmental Council meeting, 7 March 2017.jpgソーロンバイ・ジェーンベコフ
    Сооронбай Жээнбеков
    キルギス社会民主党2017年11月24日
    - (現職)
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    アルマアタ(アルマトゥイ)

    アルマアタ(アルマトゥイ)近郊、標高1,700mにあるメデオスタジアム。
    冬はこのスタジアムがスケートリンクになりますが、春のため、氷は張って
    ありませんでした。 この場所は26年前にも1度来ているので、もう1度来て
    見たかった。 ただし、26年ぶりの割には、特に何かが変わったという
    雰囲気はなく、昔のままでした。 当時は、スケートリンクではなく、何かの
    スタジアムだったと思います。

    メデオスタジアム
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    メデオスタジアムから上には、更にシャトルバスで登る事が出来ます。 5月初め
    とは言え、まだまだ雪が残っており、スキーが出来るようになっていました。
    この山を越えると、すぐそこはもうキルギス。 アルマアタは、中国にも
    キルギスにも近過ぎるため遷都されたと言われています。

    シムブラク スキーリゾート

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    メデオスタジアムからこの場所には、シャトルバスの他、ロープウェイでも登る事が
    出来ますが、料金がちょっとお高目のため、帰りもシャトルバスで下りる事に
    しました。 高原リゾート地は、スイスを思わせますが、ここはカザフスタンですw
    中央アジアでは、カザフに限らず、鷲を使った狩りが盛んであったため、今でも
    観光地では、この様な風景を見ることが出来ます。 この日は気温5度と若干
    寒かったものの、屋外でのアクティビティーも色々行われていました。

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    初代大統領記念公園

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    メデオスタジアムから地上へと戻り、次の場所へ行く途中で、たまたま通り掛った
    「初代大統領記念公園」。 娘は大統領選で敗れ去りましたが、初代大統領の
    名前は、首都の名前になったり、アルマアタの通りの名前になったりと、今でも
    権力を持っているのが良く分かります。 因みに、デニス・テン選手の自宅が
    あった通りの名前が「ナザルバエフ通り」と改名されました。

    途中から乗り合いタクシーで一緒になったポーランド人が、アルマアタ近郊に
    ある世界で2番目に高い湖である「大アルマアタ湖」に行くと言うので、一緒に
    付いて行くことにしました。 ところが、霧で一寸先は闇w 下界はそこまで霧が
    出ていなかったものの、上に登れば登るほど、霧が行く手を阻みました。。

    湖自体もガチガチに凍っており、仕方がないので、石を投げて氷を破壊して遊び
    ましたw 山頂から少し下ると、霧が晴れて来ました。 途中で、この様な観光客
    向けのユルタがあったため、途中で馬乳酒クムイスと駱駝乳酒シュバットを飲んで
    みたものの、馬乳酒はすっぱ過ぎて、らくだの方がましでした。

    【山頂にある大アルマアタ湖と地下鉄】
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    建設に20年以上もの歳月を要したアルマアタの地下鉄。 建設当時は都市名が
    アルマアタで、国名はカザフ共和国でしたが、完成時には、都市名がアルマトイに、
    国名はカザフスタン共和国へと変更されています。 それプラス、アルマアタは
    遷都されているため、元政府機関の巨大な建物が市内に残骸の様に残っています。

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    ビシケク(フルンゼ)
    ビシケク散策は続きます。 中心部にはソ連時代の建築物が数多く残っているため、
    ソ連を感じたいのであれば、ビシケクはうってつけ。 大型で大げさなデザインは、
    ソ連式共産主義の象徴。 記念碑が妙に多いのもソ連の特徴で、街の至るところに、
    この様な記念碑が建っています。
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    ビシケク中心部を歩いていたところ、大学があったため、中を見に入りました。
    最近は、ロシアの大学とかでも、入り口にゲートが据え付けられており、なかなか
    中まで入るのは難しいものの、この大学には特に何もなかったため、すんなり中へ
    入れました。 地球の歩き方を持たずに適当に散策をしたため、恐らく、キルギス
    国立大学ではないかと思われます。

    ビシケクは緑の多い街で、市中心部でもこんなに緑があります。 晴れているので、
    暖かいように見えますが、この日の気温は5月の初めなのに、何と7度。 ビシケクは
    結構標高が高いため、涼しいを通り越して結構寒い。 よって、ゲストハウスの
    オーナーから、ジャージと傘を借りて出掛けました。

    【ビシケク】
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    楽しかったビシケクともこれでお別れ。 市内から約30キロ離れたビシケク空港に
    向かいます。 キルギスにもYandexタクシーがあるため、オーナーにタクシーを
    呼んで貰いましたが、このゲストハウスでは、色々と話し込んだため、非常に
    お名残り惜しい。 ビシケクに行ったら、またこのゲストハウスに絶対に
    泊まります。

    こちらは、ビシケク空港にあったキルギス土産の数々。 このモンゴルのゲルの様な
    物は、ロシア語では「ユールタ」と言うのだが、学生時代に覚えた単語なのに、
    意外と忘れていませんでした。

    【ビシケク】
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    ビシケク・マナス国際空港から、カザフスタンのエア・アスタナでアルマ・アタへと
    向かいます。 キルギス人に言わせると、カザフスタンは歴史を勝手に書き換えて
    いるそうで、元々は、どちらもキルギスだったとか。 中央アジアの歴史は、
    スターリンによって、かなりの資料を処分されてしまったため、明らかになって
    いない部分が多いものの、中央アジアの第一人者は日本には存在しないため、
    これから中央アジアを研究すれば、誰でも第一人者になれなくもないw マナス
    国際空港の空港コードは、旧名のFRUのまま残っております。

    【ビシケク・マナス国際空港】
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    首都 ビシケク
    ビシケク空港に到着後、そのままタクシーで約30キロ離れたホステル
    Mukarama-Apa へと向かった。 キルギスはカザフスタン程では
    ないものの、国民全員がロシア語を話せるため、旅行が非常に楽♪
    こちらのホステルでは、ロシア在住のキルギス人と2日合わせて合計で
    6時間も延々とお話をしておりました。 ビシケクは、意外と高地に
    位置しているため、外に出ると結構寒いため、ゲストハウスのオーナーから
    トレーナーと傘を借りてビシケクの中心部へと出掛けました。

    ゲストハウス Mukarama-Apa
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    ロシア語圏では、お茶を飲みながら、延々とお話をするのが普通なので、
    ロシア語を話せると非常に便利。 尚、こちらのホステルでは、度々日本人も
    泊まりに来るとのことで、そのお手紙を見せてもらいました。 かなり親日家の
    オーナーで、日本人にもっときて欲しいと申しておりました。

    料理を作って貰ったり、お世話をして貰ったのは、こちらの娘さんかと思いきや、
    翌日オーナーから聞いた話では、ロシアからやって来たお客さまで、体調が
    悪いので、手伝ってもらっただけと申しておりました。 旧ソ連邦内では、
    これまで生活が非常に厳しかったため、皆助け合いの精神だけは、絶対に
    忘れていないのである。

    【ビシケク】
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    ビシケクのゲストハウスから歩くこと30分。 市中心部の政府施設が集中している
    場所までやって来た。 キルギス人は人種的に元々はコーカソイドだったのだが、
    現在のロシア領のトゥヴァ付近から大量の移住者がやって来て、完全に
    モンゴロイド化した民族であるため、見た目的に非常に日本人に似ています。
    一説によれば、「肉が好きな者はこの地に残りキルギス人となり、魚が好きな者は
    東に移動して日本人になった」とまで言われている程、キルギス人は、日本に
    対しては親日意識を持っている。

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    ビシケクの中心地では、巨大なキルギスの国旗を守るため、衛兵がその麓で番を
    していた。 恐らく、定時になると、ロシアの衛兵交代と同じく、衛兵が交代する
    のだと思う。 この付近が政府機関が集中している地域で、キルギスの心臓部と
    言える。

    【ビシケク中心部】
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    トルキスタン (Turkestan / Turkistan) とは、チュルク系民族が居住する中央アジアの
    地域を指す歴史的な地域名称であり、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、
    キルギス、タジキスタン、トゥルクメニスタンと中国にまたがっている地域を指す。
    人口順では、ウズベキスタン、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、
    トゥルクメニスタンの順にトルキスタン人の人口の割合が多くなっており、中国の
    新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と呼ぶこともある。

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    ビシケクのソ連時代までの旧名は「フルンゼ」であるため、今でもところどころに、
    このフルンゼの文字が残っている。 ミハイル・フルンゼとは、ソビエト連邦の
    政治家で、ロシア革命前後におけるボリシェヴィキの指導者の一人。 ソ連陸海軍
    人民委員および共和国革命軍事会議議長を務めた人物。 旧ソ連では、革命家の
    名前を採った都市名が多かったのだが、ビシケクもその1つ。 ビシケクという
    都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒を作る時の撹拌器の名前に由来する。

    ビシケク中心部にある遊園地でお腹が空いたため、このハンバーガーを食べたが、
    店員が余りロシア語が上手ではなく、60ソムのことを「600ソムです」と言って
    来たため、「60でしょ?」と返したところ、「ああそうだ」と言って来ましたw
    挙句の果てに、おつりが間違っていたので、突っ込みを入れておきましたww

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