多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ: CIS独立国家共同体(旧ソ連邦)

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    旧ソ連構成国だった中央アジアのカザフスタンが国際化を目指して、カザフ語の
    ロシア(キリル)文字表記を止めてローマ字に変更することを決定した。 若者は
    既に携帯電話のメールをローマ字で送るなど、かなり以前からロシア文字離れが
    加速していた。

    『ローマ字は今日、情報通信分野を席巻している』。 2006年にこう述べていた
    ナザルバエフ大統領は今年4月、国営紙に論文を発表。 この中で、表記変更の
    具体的なスケジュールを提示した上で、2025年にはローマ字に完全移行すると
    宣言した。

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    カザフスタンでは、カザフ語が国語、ロシア語は公用語とされているが、多くの
    外国人観光客にとっては、ロシア文字は読むことすら難しい。 カザフスタンは
    元々、イスラム教徒が多数派を占めており、旧ソ連からの独立直後は、アラビア
    文字へ変更する運動も行われたが、定着しなかった。

    1930年代、カザフスタンでは、チュルク系のルーン文字からラテン文字へ、ラテン
    文字からロシア文字へと、2度文字が変更された。 ロシア文字に転換された結果、
    国外のカザフ人とカザフスタンのカザフ人が、文字の上で分断された。

    カザフスタン内には、100以上の民族が暮らしており、カザフ語とロシア語の他に
    先住民族であるウズベク語、タジク語、ウイグル語が教育言語として認められて
    いる。 旧ソ連から独立した1990年代には、カザフ語を強化拡大する政策に重点が
    置かれた。 1997年に言語法が定められ、高等教育まで一貫して受けられるのは、
    カザフ語とロシア語だけとなっているため、カザフ人とロシア人以外の少数民族は、
    カザフ語かロシア語のバイリンガル教育に力を入れている。

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    現在、カザフスタンでは、ロシア系住民が約2割を占めているが、この先、正式に
    ローマ字を使うことになるため、ロシア系住民の国外脱出の機運が更に高まると
    考えられている。 旧ソ連からの独立時、カザフスタンでは、約6割超がロシア系
    住民で占められており、カザフ人は、むしろ、少数派だった。 但し、独立後は、
    カザフ人中心の政策に切り替えられたため、多くのロシア人やウクライナ人たちは、
    カザフからは去って行った。

    カザフ政府筋は『カザフ語のローマ字化後もロシア語は残る』と反論しており、
    『中高年がローマ字に慣れるのは難しいかも知れない』としている。

    尚、これまでにロシア文字を捨てて、ローマ字へ移行した国には、ルーマニア、
    モルドバがあり、現在、セルビアがローマ字へ移行中となっている。

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    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

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    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

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    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

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    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

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    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

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    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

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    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

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    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

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    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

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    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

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    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

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    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア鄭この支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

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    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

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    2017年4月3日午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄
    車内で起きた爆弾テロの主犯格と見られる容疑者が逮捕された。 ロシア通信が
    伝えた声明によると、男は中央アジア出身のアブロル・アジモフ(Abror Azimov)
    容疑者で、モスクワ近郊のオジンツォボで拘束され、容疑者の身柄は、取り調べの
    ため、重大犯罪の捜査を担当する連邦捜査委員会に引き渡された。

    自爆攻撃の実行犯は、アクバルジョン・ジャリロフ(Akbarjon Djalilov)容疑者
    (22)と特定されているが、地下鉄車内で既に自爆しており、中央アジアの
    キルギス生まれで、ロシア国籍を取得していたと見られている。

    連邦捜査委員会によると、アジモフ容疑者は1990年生まれで、「自爆テロリストの
    ジャリロフ容疑者の訓練を行った」としており、首謀者の一人と見なしている。

    14人が死亡、数十人が負傷したこの爆破事件をめぐっては、これまでにモスクワと
    サンクトペテルブルクで8人の身柄が拘束されており、8人全員が中央アジア出身と
    明らかにしている。

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    【キルギス共和国外務省の表明】
    キルギス共和国外務省は、一連のマスメディアを賑わせた2017年4月3日のサンクト
    ペテルブルグ地下鉄テロの容疑者であるジャリロフ・アクバルジョンがキルギス
    共和国民であるとの情報は事実とは異なることを正式に表明する。
     
    キルギス外務省が有する報告によると、A.ジャリロフは、1995年4月1日、キルギス
    南部のオシュ市に生まれ、民族的にはウズベク人であり、中等教育を満了して
    いない。

    A. ジャリロフが、かつてキルギス共和国国籍のパスポートを取得した事実はない
    ことを明言しておかねばならない。 2011年、16歳に達したジャリロフはロシア
    国籍の父の請願と共に申請書を提出し、ロシア国籍のパスポートを取得して以来、
    常にロシア連邦領内に居住していた。

    現在、キルギス共和国当局は、事件の捜査に関しロシア連邦の法執行機関への
    全面的な協力を行なっている。

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    カザフスタンの人口は、約1680万人で、そのうち、この国の名に由来するカザフ人
    (チュルク系の言語を話し、イスラム教スンニ派を信仰)の占める割合は、約40%に
    過ぎない。 また、スラブ系民族に属するロシア人は、人口の38%を占めており、
    カザフスタン人とほぼ同じ割合である。

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    主な少数民族としては、ドイツ人6%、ウクライナ人5%が挙げられるが、その他にも
    タタール人、ウズベク人、ウイグル人、ベラルーシ人、朝鮮人も住んでいる。
    カザフ人と言うのは、トルコ系とモンゴル系の両民族の血を引いている。
    『カザフ』という言葉が使われるようになったのは、16世紀である。 17世紀に
    なると、カザフ民族は、3つの独立した集団に分離し、互いにしばしば対立し、
    また、モンゴル系の部族とも争いを繰り返した。 彼らは、19世紀まで主に
    遊牧民として生活をしていた。

    1822年以来、カザフ人の住む地域は、ロシアに占領されていた。 1873年に併合
    された後、1880年代を中心に、ロシア人の入植が始まった。 1916年には、皇帝
    支配に抵抗して、暴動が起こったが、流血のうちに鎮圧された。 1917年のロシア
    革命後の数年間、カザフスタンは、内乱の舞台となったが、ボリシェビキの勝利に
    終わった。

    1920年、キルギス自治共和国がロシア共和国内の自治共和国として設立された。
    当時、キルギスという言葉は、カザフと混同して使われた。 1926年には、カザフ
    自治共和国と改称し、更に、1936年には、ソ連構成の一共和国に昇格した。

    その中でソビエト化や集団化の政策は暴力をも辞さずに推進された。 1941年には
    数十万人のロシアに住むドイツ人が、強制的にカザフスタンに移住させられた。
    1954年、新しく開拓地を広げる運動が起こったが、結果的には、ますます多くの
    ロシア人入植者をもたらしただけであった。

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    1985年からの、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)の気運の中、1986年に
    反ロシア抵抗運動が初めて起こった。 1990年10月25日にカザフスタンは、主権
    宣言を採択し、翌1991年12月16日に独立宣言を採択した。 同年12月21日は、
    独立国家共同体(CIS)に加盟。 この国家連合は、まだ創立後間もなく、形態が
    定まっていなかったのだが、その加盟国の中でカザフスタンは、際立った存在で
    ある。

    非スラブ系の共和国の中で、核兵器を所有するのは、カザフスタンのみで、国内
    では、カザフ民族とカザフ以外の多民族の間の緊張が高まっている。 また、
    ロシアとの国境問題もある。

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    古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
    8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
    モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
    18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
    次第に征服して行った。

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    1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
    併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
    地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
    かった。

    ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
    となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
    独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
    あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
    求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
    社会主義共和国』の設立が宣言された。

    1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
    共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
    それぞれソ連邦構成共和国となった。

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    【アルメニアとの宿命的対立】
    1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
    アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
    宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
    カラバフ自治州で始まった。

    約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
    よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
    統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
    返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
    アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
    会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
    アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
    凶行が繰り広げられた。

    ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
    直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
    アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

    数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
    同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
    ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
    この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

    新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
    独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

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    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

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    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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