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    カテゴリ: 南北アメリカ

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    皇帝であったペドロ2世は亡命し、ブラジルは正式に共和国の宣言をした。
    1891年には、新憲法が発布された。 共和制への移行は、円満とは言えな
    かった。 古くから勢力を持つ北部の大農園主と、力を付け始めた南部地域の
    産業資本家が対立し、政治を混乱させ、これが軍部が政治に割り込む口実と
    なった。

    結局のところ、南部の勢力が勝利をおさめた。 その後40年以上、ブラジルの
    大統領は、2人の例外を除いて、ミナスジェライスとサンパウロという南部
    2州の出身者で占められた。 州政府は、どこまで自治権を与えるかで
    リオデジャネイロの中央政府と州政府が衝突した。 しかし、その間にも、
    ブラジルの鉄道は発達し、港は近代化され、ブラジルは国際的にも経済力の
    ある国に成長した。

    新しくブラジルに生まれた産業勢力は、南部地域にある2、3の工業と金融の
    中心地に集中していた。 地域格差が目立つようになり、人々はそれに気付き
    始めた。 南部出身の政治家が放置して来た北東部では、貧困と病気がは
    びこり、何百万人という貧しい黒人は、飢えに苦しみながら死んだ。

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    第一次世界大戦が起きると、ブラジルの指導者層は2つに割れた。 上流階級の
    殆どと中流の人々の多くは、連合国側を支持した。 一方、ドイツ支持を表明
    する人達もいた。 南部地方のドイツ系の人々と軍の指導者の一部である。

    ブラジルの船がドイツの潜水艦に何度も撃沈されても、国論は定まらず、1917年、
    ブラジルは、ようやく、ドイツに宣戦布告した。 南アメリカの国の中で、
    ドイツに宣戦布告したのは、ブラジルのみである。 戦争の後で、ブラジル軍部に
    不満が生じ、反乱が起きた。

    1922年の『コパカバーナ砦の反乱』は、中流の下の階層出身の若手将校が、社会
    正義と政治の一新を目指して起こしたものであった。 理想は高いが、準備不足
    だったこの反乱は、たちまち鎮圧された。

    1924年、ひとりの軍人が改革を志した。 元陸軍大尉のルイース・カルロス・
    プレスティスは、軍を率いて全国を行軍し、各地で国の改革を訴えた。 沢山の
    ブラジル人が、彼の考えに共感したが、プレスティスは、反逆行為を行ったとして、
    追放された。 長い間、モスクワに滞在した後、彼は、熱心なマルクス・レーニン
    主義になって帰国し、1934年、ブラジル共産党を組織した。

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    【ジェトゥリオ・ヴァルガスの時代】

    世界的な不況の波がブラジルにも押し寄せ、軍や民間の指導者達は、共産革命を
    恐れるようになった。 そんな時代に、ジェトゥリオ・ヴァルガスは登場した。
    ヴァルガスは、州知事から1930年に、大統領選挙に立候補した。 ヴァルガスは、
    選挙に敗れたが、軍部の支持を得て、共産主義の扇動から国を守るためと言って、
    その年の10月に権力を握った。

    こうして、20年間にも及ぶヴァルガスの時代が始まった。 気さくで、謙虚で、
    温厚な人柄の上に、胸の奥に鉄の意志を秘めたヴァルガスは、護衛も連れずに街を
    散歩し、来客をセンスのあるユーモアで楽しませた。 当時、政治家は、地元の
    利益ばかりを考え、駆け引きに明け暮れていたので、国内は無政府状態に近かった。
    そこに、良心的で正直なヴァルガスが登場した。 彼が大統領になった時、
    ブラジルの人達の大半は、ついに国民と同じ願いを持つ大統領が登場したと
    喜んだ。

    ヴァルガスは、地方意識の強い国民に、州への忠誠よりも挙国の一致が大切だと
    説いた。 議会は、州の間の交易の生涯をなくし、外国債の支払いを停止し、
    工業の育成に務める法案を次々に可決した。 ヴァルガスが、ブラジルで最初の
    職能組合を発足させ、社会保障制度を定めると、一般市民は、大喜びした。
    反乱があると厳しく鎮圧したが、反乱分子の扱いは、寛容であった。

    ファシスト集団の台頭に悩まされたヴァルガスは、1937年11月、国の安全を
    理由に、もう1期大統領を努めると宣言した。 面倒な議会を解散すると、新しい
    憲法を制定し、中央集権的な新国家を建てた。 国民の権利は制限された。 新聞、
    ラジオをはじめとして、学校でさえも、検閲の対象となり、新政府の情報局から
    命令を受けるようになった。

    ヴァルガスが他の南アメリカの独裁者と違っていたところは、自分のやり方に
    批判的な指導者達さえも役立て、有能な人材を州知事、閣僚、軍の長官、外国の
    大使として起用した。 その度に国民の信頼は、高まるばかりであった。

    ヴァルガスの精力的な活動は、アメリカの援助を引き出し、これにより工業化が
    進められた。 1938年には国立石油審議会が、1941年には、国立製鉄会社が
    始められ、鉄道が延長された。 第二次世界大戦が近づくに連れて、ヴァルガスは、
    一方でドイツ、イタリア系の枢軸国寄りの将校の支持を取り付けながら、もう
    一方で、アメリカとも友好関係を続けなければならなかった。 だが結局、
    1942年8月、ブラジルは、枢軸国に宣戦布告した。

    1945年になって戦争が終わりに近づくと、ヴァルガスの独裁に対する不満が現れ
    始めた。 ヴァルガスは、選挙を行ったが、敗北した。 1946年9月、新政権が
    出来、新憲法が発布された。 しかし、ヴァルガスの時代は、まだ終わらなかった。

    新政府の下のブラジルは、国際収支の赤字や、インフレや政治の腐敗に悩まされ、
    国民の不満が高まった。 しかし、議会は、様々な派閥に分かれ、こうした
    問題に立ち向かう能力も意欲も示さなかった。

    1950年、ヴァルガスは、再び大統領に選ばれたが、かつての手腕は振るえ
    なかった。 大統領が代わっても、増え続ける体外赤字は止まらなかった。
    賃金労働者は、激しいインフレで給料が目減りするのに腹を立て、ヴァルガスの
    経済政策を非難した。 やがて事件が起きた。 ヴァルガスを激しく非難した
    新聞の編集長が、大統領側近が雇った殺し屋に暗殺されそうになった上に、
    同行の軍人が殺害されたのである。 これを切っ掛けに、ヴァルガスの時代は
    終わった。 ヴァルガスは、長く権力の座にあったが、個人への暴力は認めない
    人だった。 側近がこれらの事件に関わっていることを知ると、彼は自殺した。
    1954年8月のことだった。

    JKii

    【ジュセリーノ・クビチェック】
    1956年、ジュセリーノ・クビチェック・デ・オリヴェイラが大統領に選ばれた。
    彼は、1961年まで、民主的に国をおさめた。 経済の悪化をものともせずに、
    クビチェックは、ブラジル人の昔からの夢の現実に務めた。 それはまったく
    新しい土地に首都を築くことであった。 首都であったリオデジャネイロから、
    北西におよそ1,000キロ進んだ土地に、ブラジリアが建設された。 当時は、殆ど
    住む人も居なかったが、そこは、地理的にブラジルの中心地であった。 1960年に
    ブラジリアが完成すると、国民は、国への信頼を取り戻した。 遷都のための
    急激なインフラが生じたことで、クビチェックを非難する人が居るが、歴史は、
    彼の判断の正しさを証明している。 1961年、クビチェックは、平和のうちに、
    任期を終え、後継者のジャニオ・クアドロスに大統領の座を譲った。 一般選挙で
    選ばれた大統領で、任期を終わりまで務めたのは、彼が最後となった。

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    ブラジル南部地域への入植は、初めは北東部と同じ形で行われていた。 しかし、
    天然資源が豊かな南部は、異なった形で発達した。 17世紀後半に、
    ミナスジェライス州で金が見つかると、大勢の人達がこの地方に定住するように
    なった。 これらの人々は、プランテーションを開いたり、作物を輸出したりせず、
    店や小農園を経営して、金鉱を探す人々に商品やサービスを提供した。

    スペインは、政府の代理人に鉱物資源の採掘を管理させたが、ポルトガルは、
    冒険心に富んだ事業主に、採掘を任せていた。 そうした事業主の中には、
    ブラジル北東部の人々も混じっていた。 西インド諸島の砂糖が安いために、
    国際競争に敗れ、サトウキビプランテーションを手放した人々だった。

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    現在、サンパウロと言われている場所には、あらゆる人々がが集まっていた。
    17世紀を通して、彼等は、しばしば何千人という規模で、バンディアと呼ばれる
    探検隊を組織し、新しい資源を求めて、ブラジル内陸部を探検した。 これらの
    人々は、バンデランテと呼ばれ、勇敢なパイオニアとして尊敬されている。

    ほとんどの人は、金やダイヤモンドのような鉱物の採掘のために、組織された。
    このような作業は、ひとつの場所で何年間も続くことが良くあったので、結果的に
    バンデランテ達は、沢山の村や町を建設した。 彼等の活動のお陰で、
    ポルトガルの支配は、法王の決めた境界線を遥かに超えることになったが、
    1750年のマドリード条約で、スペインは、現在のブラジルにほぼ相当する地域
    でのポルトガルの主張を正式に認めた。

    【ポルトガルの支配】
    ブラジル植民地に対するポルトガルの支配は、中南米の多くの地域を支配する
    スペインの統治とは、まるで異なっていた。ポルトガル政府は、カピタンと
    呼ばれる統治者に、地元の出来事を処理する広い権限を与えた。 これは、
    中央集権的なスペイン植民地とは、対象的だった。 独立に向けたブラジルの
    歩みも、スペイン植民地とは異なっていた。 ブラジルには、多くのスペイン
    植民地のような独立のための長い戦争は必要なかった。 ブラジルを独立に
    導いた一連の出来事の始まりは、1807年に起きた、ナポレオンのポルトガル侵略
    だった。

    ポルトガル王はジョアン6世は、王室をそっくりブラジルに移し、自分かその
    子孫が、ポルトガル王として、国に戻れる日が来ることを待つことにした。
    やがてナポレオンは失脚し、1821年、ジョアン6世は、ポルトガルに戻った。
    国王は、まだ20歳を過ぎたばかりの王子ドン・ペドロをブラジルの執政に任命し、
    時が来たら独立を宣言するようにと言い残した。

    翌1822年9月7日、ドン・ペドロは、国民の要求に応えて、独立を宣言した。
    1ヶ月後、彼は、ブラジルの立憲皇帝、終身守護色ペドロ1世となり、ブラジルは、
    ポルトガル王と血の繋がった皇帝を戴く独立王国となった。 しかし、独裁的
    だったペドロ1世は、ブラジル国民に人気がなかった。 フランス革命や、
    アメリカの独立戦争や、スペイン領南アメリカ各地での独立戦争に啓蒙された
    国民は、旧世界の君主の独裁を嫌い、自分達の運命を自分達の手で決めたいと
    願うようになった。

    不満の高まりの中、1831年にペドロ1世は退位し、ポルトガルに帰って行った。
    在位期間は9年間であった。 父親がそうしたように、彼は、息子のドン・ペドロ
    (ペドロ・デ・アルカンタラ)にその地位を譲った。 息子のドン・ペドロは、
    まだ6歳だった。 それからの9年間、ブラジル帝国は、3人の執政によって統治
    されたが、その政治は、全体としては、国民の意志を反映したものだった。
    1840年、15歳になったドン・ペドロは、ブラジル皇帝として即位した。 初めての
    ブラジル生まれの元首であった。

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    【ペドロ2世】(1840年~1889年)
    ペドロ2世は、50年近くも安定した統治を続けた。 中南米植民地の支配者で、
    彼ほど国民から敬愛され、尊敬されている人はいない。 質素を好み、気取りの
    ないその人柄は、あらゆる階層の国民から支持された。 ペドロ2世は、知的
    好奇心が強く、科学や文学の学会を創設した。 アメリカの詩人ロングフェローを
    はじめ、世界的な思想家や文学者と熱心に文通し、スウェーデンの北極探検家
    ノルデンシェルドとは、気象観測情報を交換した。 トロイの遺跡の発見者である
    ドイツのシュリーマンとは、激しい論争をしながら、暖かい友情を育んだ。

    ペドロ2世は、エジプト学に熱心で、そのためにアラビア語やペルシャ語を学び、
    バビロニアの象形文字も研究した。 また、アマゾン盆地を年度も訪れるうちに、
    インディオのトゥピー族や、グアラニー族の言葉を覚え、日常会話が出来るように
    なった。

    ペドロ2世は、長い在位期間の間に、ブラジルを国際社会で安定したものとした。
    国の政策は継続的で安定したものとなり、外国の投資家は、安心してブラジルの
    資源開発に投資した。ブラジルの工業と商業は、ペドロ2世の政治とあいまって、
    大いに発展した。 彼は、鉄道建設を進め、電話の架設工事への投資を主張した。
    電話は、皇帝の親しい友人であるグラハム・ベルの発明であった。

    1856年にパラグアイ戦争が起きると、ブラジルは、アルゼンチン、ウルグアイと
    共に3国同盟を結び、パラグアイに対抗した。 戦争は、1870年に終わり、
    同盟国側が勝利した。 しかし、この紛争は、高くついた。 戦費の負担に対する
    国民の不満が、やがて主君性が終わる一因となった。 しかし、より大きく影響
    したのは、奴隷制の問題だった。 ペドロ2世の要請で、ブラジルは、1851年に
    奴隷貿易を禁止する法律を決めた。 しかし、この法律は、奴隷の輸入を禁止する
    だけだったので、ブラジル人は、まだ奴隷を私有していた。

    奴隷制度の完全な廃止は、さまざまに議論されていたが、経済力のある有力者の
    多くは、これに反対だったのだ。 奴隷制度を支持する人々からの働き掛けを
    逃れるために、ペドロ2世は、ヨーロッパへ休暇旅行に出掛け、その間は、娘の
    イザベラ王女に皇帝の代理を命じた。 1888年、イザベラ王女は、奴隷廃止例に
    署名した。

    かつての奴隷所有者の反発と軍部の不満が高まる中で、1889年、ペドロ2世は
    退位した。 皇帝の地位にあった時から、ペドロ2世は、ブラジルをアメリカ
    合衆国のような民主共和制による自治の国にしようと考えていたため、やがては、
    退位を求められることを覚悟で、民主的な政治勢力を励まし続けた。 ペドロ
    2世の統治が終わる時が来ても、血生臭い事件は起きなかった。 それどころか、
    貧しい者も高い地位にある者も、涙を流して敬愛する皇帝の亡命を見送った。

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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

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    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

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    カナダは、13の州と準州から成る連邦国家であり、10の州と3の凖州から
    成っている。 政治体制は、イギリスにならっている。 公式には、イギリス
    国王が国家元首だが、カナダ総督が代行を務める。 総督の任期は5年で、
    その権限は、非常に限定されている。 連邦政府は、少なくとも、5年おきに
    国政選挙で国会に最多数の議席を得た政党が構成する。

    近年、最も勢力の強い正統は、自由党、進歩保守党だが、それより小規模の
    改革党や、ケベック連合もかなりの支持を得ている。 首相は、政府の省庁を
    指揮する大臣から内閣を率いる。 現在の首相は、ケベック出身のジャスティン・
    トルドー氏で、自由党からの選出となっている。

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    【10州】
    ニューファウンドランド・ラブラドル
    ノバ・スコシア
    プリンス・エドワード・アイランド
    ニューブラウンズウィック
    ケベック
    オンタリオ
    マニトバ
    サスカチュワン
    アルバータ
    ブリティッシュ・コロンビア

    【3凖州】
    ノースウェスト・テリトリーズ
    ユーコン・テリトリー
    ヌナブト

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    各州には、州都と州政府があり、州知事が居る。 オタワの連邦政府は、国防や
    外交政策等、全カナダ国民に関する事柄に対処している。 各州には、礼儀的な
    権限のみを持つ副総督が居る。 選挙で選ばれた議会と政府は、州知事が長を
    務めており、教育、司法、公民権、所得税、固定資産税等の州レベルの事柄を
    管轄している。

    より小規模な評議会が郡、地区、市、郡区、村の運営を行っている。 連邦政府の
    カナダインディアン・北方開発大臣が、ファースト・ネーションズに便宜を図る
    ための計画を指揮している。

    カナダの輸出品の大部分は、アメリカ向けだが、アジアへ小麦を、また、
    ヨーロッパへ工業製品の輸出も行っている。 主な輸出製品は、自動車、産業機械、
    化学薬品等である。 輸入品には原油、化学薬品、消費財等がある。

    【カナダの全輸出に占める割合】
    アメリカ 84.2%
    日本 2.1%
    イギリス 1.8%
    その他 11.9%

    【カナダの全輸入に占める割合】
    アメリカ 56.7%
    中国 7.8%
    メキシコ 3.8%
    その他 31.7%

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    1939年~1945年の第二次世界大戦終了後、カナダに移住していた何百万人
    もの外国人が、カナダ人となり、カナダの人口は急激に増えた。 その多くは、
    ヨーロッパからの移民だったが、中国、インド、パキスタン、アフリカ、
    南アメリカからも多くの人達が移住して来た。 紛争を逃れて来た難民も多く、
    1956年には、ハンガリーから1970年代には、ベトナムとカンボジアから沢山の
    人がやって来た。 21世紀になると、新たにカナダ国民となる人の殆どは、
    インド人とフィリピン人となった。

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    イヌイットの人達は、その多くが、ノースウェスト・テリトリーとヌナブットか、
    ラブラドル半島北部、オンタリオ、ケベックに住んでいる。 エスキモーとは、
    先住民の言葉で『生肉を食べる人』という意味であるため、イヌイットを
    エスキモーと呼んではいけない。

    殆どのファースト・ネーションズは、オンタリオのオジブワ族、ケベックの
    クリー族といったっように、部族の名前で呼ばれるのを好み、先祖から受け
    継いだ土地に住んでいるが、なかには都市へ移り住んだ人もいる。 伝統的な
    技術を受け継ぐ人々もいて、例えば、太平洋岸に住む人達は、驚いたような
    表情のカラフルな儀式用のお面を作ったり、トーテムポールを彫刻したりする。
    こうしたファースト・ネーションズの彫刻、絵画、舞踊等は、広く知られる
    ようになり、カナダ文化を象徴するシンボルとなった。

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    カナダの最重要課題である民族問題は、1600年代にフランスがケベックを
    中心とした植民地をつくった頃に始まった。 カナダで支配権を握っていた
    フランスにイギリスが挑み、両国間の対立と争いが長年続くことになった。
    イギリスが勝利したものの、1774年のケベック条約でケベック住民の法的権利と
    信仰上の権利が認められた。

    フランス系カナダとイギリス系カナダの争いは、ケベックがフランス語の国
    として独立することを求める運動に発展した。 1980年と1995年のケベック
    住民投票による2度の投票の結果、ケベックは、カナダ連邦に留まることと
    なった。 しかし、1995年の投票の結果は、わずかな差だった。 カナダは
    ひとつの国として21世紀を迎えたが、ケベックの独立の夢は今も消えていない。

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    ブラジルで最も人気があるものと言えば、リオ・デ・ジャネイロのカーニバル。
    毎年、このお祭りを見るために、沢山の観光客がブラジルを訪れる。
    カーニバルは、元々は、カトリックのお祭りで、『謝肉祭』とも言う。
    イエス・キリストが十字架に掛かって亡くなってから、復活したとされる日の前、
    40日間は、肉を絶ち切らなければならない。 そこで、その直前の数日間を
    賑やかに過ごすというのが、カーニバルとなっている。



    このお祭りは、元々は、ヨーロッパの方で盛んに行われている行事で、
    ブラジルでは、初めは、一部のポルトガル人が行っていたが、そのうち、黒人も
    参加するようになった>もの。 特に、19世紀後半になると、黒人達が活躍し、
    やがて、アフリカから伝わる音楽を元に、サンバという新しい音楽を作り出した。
    その音楽がカーニバルにも取り入れられて、ブラジル独特の祭りとなった。

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    リオのカーニバルは、月の運行を元にした太陰暦によって行うため、毎年、2月か
    3月の初めの土曜日から4日間が開催日となる。 2016年度は、2月5日からの4日間。
    リオ・デ・ジャネイロ以外でも、ブラジル各地では、その土地の特色を活かした
    お祭りが行われている。

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    1931年、カナダは、独立国家となった。 イギリス女王エリザベス2世が国家
    元首だが、あくまでも、礼儀的な職務のみを行う。 1960年代にフランス系の
    ケベック州の独立運動による国民投票が行われ、1980年と1995年の2度とも、
    ケベックの独立は否決された。

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    ファースト・ネーションズのグループもまた、より広範な平等と土地の権利を
    求めて運動して来た。 1980年代以降、ファーストネーションズは、自治を認め
    られることが多くなって来た。 1999年には、昔からイヌイットが住んで来た
    地域に、新たにヌナブット準州が設立された。

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    カナダは、国際社会でも大事や役割を演じている。 カナダは、1914年~1918年の
    第一次世界大戦、1939年~1945年の第二次世界大戦では、アメリカ、イギリスと
    ともに戦った。国際連合(UN)、北大西洋機構(NATO)の主要メンバーでも
    ある。 また、1950~1953年の朝鮮戦争では、国際連合軍に参加し、世界中の
    平和維持活動にも参加している。

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    カナダでは、1967年にモントリオールで万国博覧会『エキスポ67』を、そして、
    1976年には、やはりモントリオールでオリンピックを開催した。 これらの
    イベントには、世界中から沢山の人が訪れ、カナダは、賞賛を浴びた。 そして、
    21世紀に入った今、カナダは、世界の舞台でしっかりと名声を確立している。
    隣国アメリカの強い影響を受けながらも、カナダは、独自で六色のある文化、
    経済、政治を発展させている。

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    18世紀になると、イギリスは、カナダに加えて、建材のアメリカにも13州の
    植民地を所有するようになっていた。 アメリカで独立戦争(1775年~1783年)が
    起こり、植民地側が勝利すると、イギリスを支持する多くの英国派(ロイヤリスト)
    達は、独立した新国家に住む事を嫌い、カナダに移り住んだ。 1791年、
    イギリスは、拡大する植民地をアッパー・カナダ、ローワー・カナダとに分割した。

    入植者や探検家が西へ進むにつれて、カナダは、更に拡大し、1812年に
    レッドリバー植民地(現在のマニトバ州)、そして、1848年にブリティッシュ・
    コロンビアを獲得した。 1812年に10万人にも満たなかった人口が、1860年代は、
    300万人に達し、その後もイギリス等からの移民がどんどん入って来て、人口は、
    急激に増加した。

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    1812年、アメリカとイギリスの間で1812年戦争が勃発した。 アメリカ軍が
    カナダに攻め入ったが、イギリス軍は、小部隊ながら、毛皮商やファースト・
    ネーションズ、それに、アメリカに対する忠誠心を既に失っていたロイヤリスト達に
    助けられて、アメリカ軍の攻撃を食い止めた。 この経験により、彼等には、
    侵略者に対抗 する仲間としての意識が芽生えた。 しかし、フランス系の人達は、
    不満だった。 ファースト・ネーションズの指導者達も自分達の土地が入植者に
    取られるのは、面白くなかった。

    1837年、フランス系カナダ人のルイ・パピーノは、ローワー・カナダのイギリス
    政府に対して、反乱を起こしたが、失敗に終わった。

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    1867年、アッパー・カナダとローワー・カナダは、それぞれ、オンタリオと
    ケベックとなり、この2つとノバ・スコシア、ニューブラウンズウィッグとが
    連合して、政府、議会、首相を持つ英自治領のカナダが出来た。 レッドリバー
    植民地のメディス達は、その一部となる事に反対した。 オンタリオの入植者に
    土地を奪われるのではないかと恐れたのだ。

    1869年、ルイ・リエルは、反乱軍を率いて、植民地の指揮権を握った。 彼は、
    レッドリバー植民地が1870年にカナダの一部となる時に、必ず公平な条件になる
    ように交渉した。 その結果、レッドリバー植民地は、新設されたマニトバ州の
    一部となり、ケベックと同じく、マニトバでも英語とフランス語
    (メティスの言葉)が同等に扱われる事となった。

    リエルは、1875年にアメリカへ亡命をせざるを得なくなった。 1885年に彼は、
    今のサスカチェワン州に戻り、そこで、ファースト・ネーションズを率いて、
    同じような反乱を起こしたが、その時は、リエルは捕らえられ、反逆者として
    レジャイナで処刑された。 しかし、ケベックでは、リエルは、英雄と
    見なされた。

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    カナダの先住民族であるファースト・ネーションズの祖先は、人類の南北アメリカへの
    移動に伴って、カナダへやって来た人々である。 数千年に渡る人類とこの地との
    関わり方は、ファースト・ネーションズの生活にもそのまま反映している。

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    16世紀にフランス人とイギリス人がカナダへやって来て、住むようになったが、彼らは、
    ファースト・ネーションズと交易をしたり、戦ったりした。 カナダという名前は、この頃に
    出来たもので、イロコイ族の言葉で『村』をを意味する『カナタ』が起源だと言われている。

    18世紀になると、フランスとイギリスが互いに戦うようになった。 イギリスが勝利したが、
    フランスの影響は、今でもカナダに色濃く残っている。 その後、世界各地からやって来た
    移民達も国家建設に貢献して来た。

    歴史学者によれば、最初にカナダにやって来た人達は、1万5,000年から3万年前に
    アジアと北アメリカを繋いでいた陸地を渡ってやって来たという。 それから、彼らは、
    次第にカナダ中に散らばって行った。 西暦1,000年頃に、スカンジナビアから来た
    バイキングが定住してたグリーンランドから、レイフ・エリクソンが、ニューファウンド
    ランドにやって来た。

    彼は、発見した土地を『ヴィーン・ランド』(ワインランド)と名付けた。 恐らく、その
    名前なら他の入植者をも引き付けるだろうと期待したのだ。 しかし、それ以降は、
    わずかな数のバイキングがやって来ただけで、入植は長続きしなかった。

    次にやって来たヨーロッパ人は、イギリス王国に雇われたイタリア人のジョン・カホットで、
    1497年の事であった。 帰国した彼がカナダの海は、豊富だと報告すると、イギリスと
    フランスの漁師は、こぞって漁に出向いた。 ヨーロッパ人は、カナダには、金が沢山
    あると思っていたが、実際に見つけたのは、魚、木材、毛皮といった、別の種類の
    宝物だった。

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    フランス人ハンター達が毛皮を求めて、カナダ内陸部を探検するようになり、カナダに
    『ヌーベル・フランス』という名の植民地を建て、アカディア、ケベック、モントリオールを
    入植地とした。 入植者達は、ヒューロン族や、他の部族と手を結び、強敵イロコイ族と
    戦った。 フランス人宣教師がキリスト教を広め、カナダで最初の教会が作られた。

    フランスがカナダ東部に入植し、ミシシッピ川に沿って、現在のアメリカの方へと南下して
    行く一方で、イギリスは、ハドソン湾周辺を探検していた。 ハドソン湾の名前は、
    1610年に船でここへやって来たヘンリー・ハドソンにちなんだものだ。

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    ヨーロッパで何世紀にも渡って対立して来たフランスとイギリスは、ここでもやはり争う
    事となった。 イギリス人農民とフランス人毛皮商人が土地問題で争いを始め、入植者、
    兵士、ヨーロッパの船員、そして、ファースト・ネイションズまでをも巻き込み、北アメリカの
    統治をめぐり、1689年から1763年までの間に4度の戦争を繰り広げた。 最後の
    戦いとなった七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は、1763年に終わり、イギリス軍が
    勝利を治めてカナダの統治権を獲得した。

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    現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
    命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
    航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
    発端となった。

    フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
    命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
    と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
    ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
    ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
    十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
    フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
    創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

    【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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    現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
    中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
    言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
    (1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
    移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
    人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
    文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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    カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
    イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
    スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
    以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
    からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
    アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
    攻撃した。

    しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
    付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
    バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
    間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
    戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
    戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

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    1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
    第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
    35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
    フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
    アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
    たちであった。

    1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
    それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
    ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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    カナダは、英語とフランス語の2言語を公用語とするバイリンガル国家であり、
    『1982年憲法』では、両言語を以下のように規定している。

    『英語、及び、フランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会、及び、連邦政府の
    全ての機関における使用言語として、対等な地位と権利が認められる』(憲法第16条
    第1項)

    但し、これは、国民に両言語の習得を義務付けている訳ではなく、連邦政府の全ての
    公的機関において、この両言語が対等に扱われているため、どちらかの言語を話す
    事が出来れば、国のサービスを受けられる事を意味している。

    【カナダ国歌】 バイリンガルバージョン


    アメリカでは、英語を強要されるが、カナダの場合は、基本的に、この両言語によって、
    公的機関でのコミュニケーションが図られる事となっているが、実際は、多民族の
    移民国家らしく、窓口には、多数の移民を取り揃えているため、その他の言語でも
    一律にサービスを受ける事が出来る。

    カナダ人の約85%(2,686万人)は英語を話し、約31%(979万人)がフランス語を話す
    ため、バイリンガルを含めて合計すると、100%を超えることとなる。 但し、カナダでは、
    言語的な地域格差が大きいため、皆一様に両言語を自由に操れる訳ではない。
    小学校等の義務教育では、お互いの言語を学ぶことが義務付けられてはいるものの、
    両言語のバイリンガルは、概ね、両言語の言語的な境界線上にある首都のオタワ~
    ケベック州周辺に限られる。 首都であるオタワは、元々、ビクトリア女王が、両言語
    話者達の融和を願って、わざわざ言語境界線上に新たに建設したバイリンガル都市。

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    カナダ最大の都市である、トロントがあるオンタリオ州では、約85.9%が英語を話すが、
    残りの約14%が全てフランス語話者という訳ではない。 トロントにおける
    英仏バイリンガルの比率は、約11.4%となっており、決して高くはない。 逆に、フランス語
    だけが公用語となっている、カナダ第二の都市であるモントリオールを有するケベック州
    では、約53.9%が、フランス語を話すが、全ての方向を英語話者らによって囲まれて
    いるため、約4割がバイリンガルとなっており、バイリンガル率がカナダの中で最も高い。

    ケベック州は、カナダ連邦の中でも唯一、フランス語のみを公用語としているが、その
    面積は、カナダの約4分の1を占めており、英語話者に対しても、かなり敵対意識が高い。



    この他にも、カナダは、多民族国家、移民国家であるため、公用語以外の言語が
    日常的に使用されている。 例えば、家庭言語として、英語、フランス語に次いで最も
    多く話されているのは、約2.6%=76万人の話者を抱えている、中国語(広東語)である。
    その次に、インドやパクスタンで話されている、パンジャビ語が、約0.8%=約27万人を
    占めている。

    更に、カナダの多様化に拍車を掛けているのが、アラビア語話者の急激な増加で、
    約0.5%の14万4,000人となっている。 この他にも、近年は、アジアからの移民が
    増加しており、カナダでは、言語の多様化が進んでいる。 世界一の移民都市である
    トロントでは、地下鉄やバスに乗っていても、見渡す限り移民ばかりが乗っているため、
    通常、英語などでは喋っていない事の方が圧倒的に多いのだが、例え英語や
    フランス語で話していなくとも、お互いに理解する努力さえ惜しまなければ、世界中
    どこに行っても、誰とでも仲良くなれるため、カナダでは、積極性が非常に重要となる。

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    北米大陸に最初の人類がアジアから渡来したのは、今から1万3千年以上も
    前のことである。 以降、数回に渡り、複数の集団が大陸に渡来し、融合や消滅を
    繰り返しながら、各方面へと拡散して行った。

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    カナダの先住民とは、通常、ヨーロッパ人が到来する以前から保持して来た人々を指す。
    現在、その先住民たちは、ヨーロッパ系の移植者達が創り出したカナダという国家の中で、
    人口のみならず、政治経済的にも少数派となっている。

    カナダでは、1982年に制定された憲法によって、先住民は、インディアン、メイティ、
    イヌイットであると規定されている。 インディアンは、複数の先住民族の総称であり、
    現在では、ファースト・ネイションズと呼ばれて、615のネーションにそれぞれ分かれている。

    メティスとは、かつて毛皮交易に関わった人々の子孫で、独自の文化を形成し、保持して
    いる人々である。 彼らの殆どは、アルバータ州やマニトバ州の指定保留地や都市に
    住んでいる。 イヌイットは、カナダ極北地域を主な居住地とするイヌイット語を母語とする
    人々である。

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    2006年のカナダ国勢調査によれば、カナダ先住民の総数は、およそ117万人となっており、
    カナダの総人口の約4%弱しかいない。 その内訳は、ファースト・ネーションズが、約69万
    8,000人(約60%)、メイティが約39万人(約33%)、イヌイットが約5万人となっている。
    イヌイット以外の先住民達の大半は、出身地を離れ、都市部等で生活をしている。

    ヨーロッパ人との接触が始まった15世紀頃の北米大陸の先住民社会には、7つの文化
    領域が存在していた。 そのうち、極北、亜極北、北西海岸、東部森林という5つの文化
    領域が、現在のカナダに相当する地域に存在していた。

    カナダの先住民達は、ヨーロッパ人との接触を通して、大きく変貌して行った。 16世紀頃
    から、カナダ東部において、ビーバーの毛皮交易が始まり、先住民達を巻き込みながら、
    西部へと斬進した。 18世紀から、19世紀初頭にカナダ北西部で行われたラッコの
    毛皮交易には、多数の北西海岸先住民が参加した。 一方、16世紀以降、ヨーロッパ
    出身の多数の入植者が東部海岸から西部へと農耕地や放牧地を求めてやって来た。

    ヨーロッパ人らの入植により、先住民達は、先祖伝来の土地を奪われたり、立ち退きを
    余儀なくされた。 更に、天然痘や、はしか等の伝染病が伝わり、人口が激減し、
    19世紀後半には、カナダ国家の中に政治経済的に取り込まれた。

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    北米において、イギリスがフランスに勝利し、1763年にパリ条約が締結されると、
    フランス植民地は、極一部を除き、イギリス領となり、イギリス王国宣言が発布された。
    この宣言により、北米における先住民政策が明らかになった。

    1867年にドミニオン・オブ・カナダが形成されると、多数の移民がカナダ西部へと移住を
    開始したので、カナダ政府は、1871年から1921年に掛けて、ここの先住民グループと
    11の条約を締結し、土地を入手して行った。 また、1876年には、先住民政策の指針と
    なるインディアン法を制定した。 土地に関する条約を締結したインディアンは、公認
    インディアンとなり、それ以外の先住民は、非公認インディアンと分類された。

    カナダにおいて、先住民の状況が変化し始めたのは、第二次世界大戦に兵士として
    参加した先住民の貢献を評価し、市民権を与える等の方策が採られた時期であった。
    しかし、主流社会による同化政策や先住民に対する差別が続いたため、権利の拡大や
    獲得を目指す先住民運動が1960年代から盛んになった。

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    カナダにおける先住民政策の流れが大きく変わったのは、1973年のカナダ最高裁判所
    によるニスガ裁判であった。 この判決によって、条約を締結していない先住民の権原が
    消滅していない事が確認された。 先住民の権原とは、先住民が持つ諸権利が発生
    する根拠となる理由や原因の事である。 このため、カナダ政府は、1974年に先住民
    権益審議局を創設し、先住民の土地の所有権や生業権、言語権等について、先住民と
    政治的な話し合いを開始した。 現在でも尚、ブリティッシュ・コロンビア州の先住民達
    とは、政治的な交渉が続いている。

    先住民の諸権利は、1982年に憲法によって、守られることが明記された。 更に、カナダ
    政府は、1995年に先住民の政治的な自治を容認する政策を打ち出した。 このように
    カナダでは、先住権や先住民の自治権が徐々に承認され、実現されつつある。

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