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    カテゴリ:東朝鮮日報 > アーカイブ

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    2011年3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。 津波で
    ずぶ濡れになった人、建物の屋上で救助を待つ人…。 暖が取れない状況の
    下で、冷たい雪は多くの人の目に『非情の雪』と映った。 天候は夜には
    回復し、満天の星空が広がったが、それもまた『無情の星空』。 放射冷却で
    翌朝にかけて厳しく冷え込み、多くの命を苦境へと追い込んだ。

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    津波の後、雪が降り積もった被災地。寒さに奪われた命も少なくない
    2011年3月11日午後4時ごろ、宮城県南三陸町

    その時 何が 非情の雪、無情の星空(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    皆、寒さでガタガタと震えていた。 唇は紫色で顔面は蒼白。 外は雪。
    低体温症の症状だった。 『震えがひどく、自分で思うように動けない人もいた。
    3人がかりで着替えさせた』 宮城県南三陸町の公立志津川病院の看護師
    佐藤のり子さん(52)は、目の当たりにした低体温症の怖さを思い起こす。

    海岸から距離約400メートルに位置する同病院は津波に襲われ、水は4階まで
    達した。 全身ずぶぬれになったり、横たわったまま水に漬かって半身が
    泥まみれになったりした患者も多かった。

    浸水を免れた西棟5階会議室には、入院患者42人と病院スタッフ約80人、
    駆け込んだ近隣住民約120人の計約240人がいた。 看護師らは5階の限られた
    物資で、患者の体温を保つ工夫を重ねた。 濡れた衣服を脱がせてタオルで
    包み、新聞紙を体に巻いた。 ゴム手袋もはめさせた。 床には段ボールを
    敷き、体を寄せ合うように寝かせた。 毛布代わりに介護用おむつと、外した
    カーテンを掛けた。

    『体を温めてあげたくても電気も火もない。 ありったけの物で、できる
    限りのことはしたんですが…』と佐藤さん。 必死の措置もむなしく、12日
    午後に救出ヘリが来るまでに、患者7人が低体温症等で息を引き取った。

    宮城県石巻市大街道小でも、女性1人が低体温症とみられる症状で亡くなった。
    東松島市野蒜小でも多くの人が濡れた服のまま避難。 割れた窓から吹き込む
    冷気が体温を奪い、お年寄りらが次々と低体温症で死亡した。

    宮城県警が震災から1カ月後にまとめた県内犠牲者8,015人の死因によると、
    低体温症を含む『その他』が58人いた。 あの日の冷え込み、その後の停電や
    燃料難による暖房の欠如…。 過酷な寒さが地震や津波から取り留めた命を死の
    ふちに追いやったのも、この震災の特徴だ。

    仙台管区気象台によると、東北太平洋側各地の気象データは震災後、津波被害や
    停電の影響で入手できなくなった。 宮城県内で唯一切れ目なくデータが残る
    仙台は11日午後、断続的に雪を観測。 第1波襲来後の午後4時半前後は見通しが
    利かないほどの強さになった。

    多くの証言によると、宮城県沿岸の各地は同日夕、雪に見舞われた。 夜は西から
    高気圧が張り出し、東北は広い範囲で晴れた。 気象台は当時の天気図から
    『12日朝は放射冷却で津波被災地は軒並み氷点下2~3度。 被災者には
    厳しい気象条件だった』と推測する。

    志津川病院の看護師畠山啓子さん(53)には二つの『もし』が交錯する。
    『もし、もう少し暖かかったら助かった人もいたかもしれない。 でも、もし
    阪神大震災のような真冬だったら、もっと大変なことになっていた』

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

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    宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム『慈恵園』は、志津川の中心部を
    一望できる高台にある。 棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の
    指定避難場所でもあった。

    南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、
    大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。
    入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、
    職員も1人が亡くなった。

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    その時 何が 高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)出典:河北新報

    2011年3月11日午後3時半、特養ホーム『慈恵園』の駐車場。 津波がJR志津川駅
    そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。 ホームまでの距離は
    約500メートル。

    『(志津川)高校に行って』『早く逃げて』職員たちは押せるだけの車いすを押して
    走り出した。 ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに
    20メートル以上高い場所にある。

    施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く
    階段手前の坂道で車輪が止まった。 押しても押しても進まない。 家が流される
    のが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。

    ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。
    佐藤さんは必死に木材にしがみついた。 『もう駄目かもしれない』。 そう思った
    瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。

    津波はホームの天井の下30センチまで達した。 気力を振り絞り、施設内で入所者を
    捜し、数人をベッドに戻した。 『すぐ助けに来ますから』。 声を掛け、さらに
    生存者の姿を捜した。 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅く
    だった。

    『誰かいますかー』 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん
    (38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。 救出には志津川高の
    生徒たちも加わった。

    星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、
    2人を運び出した。 3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
    『また(津波が)来たぞー』『早く戻れー』。 高校に駆け戻らざるを得なかった。
    志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。 外は雪。 その夜のうちに、寒さなどで
    8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

    高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを
    担う。 敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。 ホームの
    スタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を
    始めていた。

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    相談員佐々木博美さん(50)は『一番心配したのは、余震で建物が崩れること
    だった。 まさか、ここまで津波に襲われるとは』と振り返る。 施設長の佐藤
    さんは自問する。 『津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を
    避難させられただろうか』

    移送手段は車しかない。 スタッフは29人。 当時ホームにいた高齢者67人の
    多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。 車に乗せる
    のは2、3人掛かりの作業になる。

    町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明に
    なった。 高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない
    10人だった。

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    T4機で曲技飛行隊「ブルーインパルス」を展開する航空自衛隊第11飛行隊が創設
    20周年を迎え、所属する東松島市の空自松島基地で2016年2月6日、記念式典が
    あった。 ブルーインパルスが展示飛行を繰り広げ、節目を盛り上げた。

    出典:河北新報



    式典は格納庫で行われ、隊員やOB、OGら約160人が出席。 第11飛行隊長の日高
    大作1等空佐が「20周年を迎えられたのは先輩方の尽力のたまもの」、第4航空団
    司令の時藤和夫空将補が「東日本大震災のどん底から立ち上がった隊員に敬意を
    表する」とそれぞれ式辞を述べた。

    震災の津波で被災したT4機の尾翼をそのまま用いた高さ約3メートル、長さ約
    5メートルのモニュメントの除幕もあった。 出席者は震災の記憶伝承と飛行の
    安全に向け、思いを新たにした。



    展示飛行では5機のT4機が宙返りや接近飛行、背面飛行といった華麗な技を披露。
    基地周辺に詰め掛けた航空ファンは熱い視線を送った。

    第11飛行隊は1995年12月に発足。 1998年の長野五輪開会式など、これまで
    約360回の展示飛行を重ねた。 震災後は空自の芦屋基地(福岡県)で訓練を重ね、
    2013年3月に松島基地に帰還した。

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    北上川河口に近い宮城県石巻市北上総合支所の庁舎は、2011年3月11日の
    東日本大震災で津波の直撃を受け、全壊状態となった。 庁舎には少なくとも
    57人の住民や職員らがいたとみられるが、無事が確認されたのは男性職員
    2人と小学4年生の男子児童1人だけだった。 庁舎は指定避難所だったにも
    関わらず、生存率はわずかに5%。 多くの人が犠牲になってしまった。

    その時 何が 生存率5%(石巻市北上総合支所)
    出典:河北新報

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    『支所に避難したから心配ないよ。 子どもたちも遊んでる』午後3時15分ごろ、
    建設会社従業員だった岡一也さん(33)は、宮城県松島町の現場からの帰り道、
    妻裕美さん(32)から電話を受けた。 明るい声で長女の吉浜小1年優心さん
    (7)、次女彩巴ちゃん(1)も一緒だという。

    『大丈夫だな』と思ったが、それが最後の会話となった。 地震直後から、支所には
    近所の人が集まっていた。 近くのデイサービスセンターを利用していた高齢者も
    職員に付き添われて避難していた。

    支所に立ち寄った消防団員の燃料販売業佐々木正人さん(49)は、知り合いの
    裕美さんに『山の方に行かないの?』と声を掛けた。 裕美さんは妹やめいとも
    一緒で、『後で母もこっちに来るはずだから』と答えた。

    佐々木さんは『庁舎の2階まで津波が来るとは想像しなかったが、車で避難出来る
    なら、近くの高台の方がいいのでは、と思った』と振り返る。

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    2006年に新築された庁舎は、鉄骨木造2階で延べ床面積は約2,400平方メートル。
    宮城県沖地震で想定される津波が高さ5.5メートルだったため、建物は1メートル高い
    海抜6.5メートルの場所に建設された。

    1、2階それぞれに支所の事務室と公民館部分があり、津波の際は公民館部分の2階
    多目的研修室に住民を避難させる計画になっていた。

    『多目的研修室、住民31人の避難完了』。 午後3時10分ごろ、2階事務室で災害
    対応に当たっていた支所地域振興課の今野照夫さん(50)に同僚から報告が入った。
    約10分後、支所と吉浜小の間の小川を津波がさかのぼった。 水かさがみるみる
    増し、津波は事務室に流入。 今野さんは『窓や壁もろとも外に押し流され、
    もの凄い水の勢いで地面に押しつけられた』という。

    何とか浮かび上がり、がれきにつかまった。 何度も気を失いながら漂流し、寒さで
    もうろうとしつつ民家に流れ着いた。

    北上総合支所によると、職員38人のうち、津波の襲来時に庁舎にいたのは19人。
    他に警察官や消防職員、警備会社員ら7人もいたが、無事だったのは今野さんら
    職員2人。 住民『31人』のはっきりした内訳は分かっていない。 救助されたのは
    4年生の男子児童だけだ。

    会社員千葉守さん(45)の長女で吉浜小6年の美里さん(12)と、千葉さんの母
    ゆり子さん(62)も支所にいたとみられる。 地震前、公民館の図書室にいる
    美里さんを吉浜小の教諭が確認している。 孫を迎えに向かうゆり子さんの姿も
    近所の人が見ていた。

    2人は今も行方不明。 『美里は、毎週のように単身赴任先の仙台に手紙をくれる
    優しい子だった』と千葉さん。 無念さと割り切れなさが募る。

    『津波で壊滅する建物がなぜ避難所なのか。 高台に避難者を誘導すべきだった
    のではないか』 津波は近くの吉浜小校舎の3階天井まで達した。 同校によると、
    卒業式準備のため学校に残っていた4、5年生の計5人と教職員10人は狭い屋上に
    逃げ、かろうじて難を逃れた。 全校児童49人のうち、死亡・行方不明は
    優心さんや美里さんを含め7人。 いずれも支所にいた可能性がある。

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    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

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    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

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    『南三陸1万人不通』。 人口約1万7,600人の宮城県南三陸町で、
    約1万人と連絡が取れない。 宮城県の発表として、2011年3月13日の
    朝刊はそんな見出しで報じた。

    被害の全容が把握出来ず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の
    事態も心配された。 町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に
    押し寄せる住民…。 混乱を極めた現地には、情報を発信するすべも
    なかった。

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    その時 何が 1万人安否不明(宮城・南三陸町)<出典:河北新報

    南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。 大津波は
    高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん
    (47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。
    住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。

    体育館には既に約100人の町民が避難していた。 夕方には避難者は1,000人
    近くに膨れあがった。 無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
    確保などに追われた。

    『残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった』と佐藤さん。
    志津川小から山伝いに避難してきた町民から、『町役場が流失した』と知ら
    されたのは11日深夜。 町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で
    数人が生存しているとも伝えられた。 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

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    『1万人安否不明』の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。
    町から報告された7,500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
    記者『7,500人が避難したとなると、残り1万人は?』

    県『町も正確な数字を把握していない。 単純に引き算すると1万人が安否不明に
    なるが、断定的な数字を出せる状況でない』 1万人安否不明という数字は、
    『犠牲者』という意味を帯びて独り歩きを始めた。 14日には、南三陸町で
    約1,000人の遺体が見つかったと報じられた。 町は一貫して否定し、情報は錯綜
    していた。

    防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。 壊滅した町を庁舎屋上から
    見て祈った。 『みんな、逃げていてくれ』 町は1960年のチリ地震津波で、
    41人の犠牲者を出している。 それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
    佐藤町長は『各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。
    1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった』と振り返る。
    安否確認は難航を極めた。

    町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。 しかし、通信手段がなく、
    対策本部と各避難所との連絡が取れない。 道路もがれきに埋もれている。
    町職員、車、ガソリン。 全てが不足していた。

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    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

    安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。 家族や親類、
    友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回って
    いた。

    町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。 最も多く避難した
    のは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。 避難者名簿に
    載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。 町による安否不明者の確認作業が
    始まったのは3月28日。 避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら
    全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。 町外へ脱出するなどして連絡が
    難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。

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    『仙台市若林区荒浜で200~300人の遺体が見つかる』。 大震災が発生した
    2011年3月11日の夜、衝撃的なニュースが全国を駆けめぐった。 百万都市・
    仙台の海岸沿いに広がる約900世帯の地区では、多くの住民が犠牲になった。
    だが当初伝えられた遺体の数は、混乱の中で錯綜した情報の一つだった。

    その時 何が『遺体200~300人』(仙台・荒浜)
    出典:河北新報 2011年5月22日

    『大津波警報が出ている。 早く逃げろ』 県道塩釜亘理線の東側に開けた
    住宅地。 荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄
    会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び
    掛けて回った。 住民の反応は鈍かったという。

    荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。 高さ2.5メートルの
    離岸堤も備える。 1978年の宮城県沖地震や、昨年2月末のチリ大地震津波
    でも、被害はなかった。

    『荒浜に津波は来ない』。 体験からそう信じる住民が少なくなかった。
    荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。

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    午後3時55分。 濁流が猛烈な勢いで町をのみ込んだ。 4階建ての校舎には
    約320人の児童、地元住民が避難。 津波の威力はすさまじく、校庭などに
    残っていた人々は流されたという。

    荒浜南部の福祉施設で働いていた遠藤雅人さん(32)は地震後、利用者、
    職員計約70人と施設屋上などに避難した。

    『バリバリという音を立てて防潮林の松の木がなぎ倒され、今度はその大木が
    住宅街を根こそぎ破壊した』 犠牲者を出したのは、住宅街だけではない。
    県道塩釜亘理線より西の水田地帯では『車を乗り捨てて逃げる人が濁流に
    のまれた。 大勢の人が必死で走っていたが、津波の速さは尋常ではなかった』
    と遠藤さん。

    複数の生存者によると、大勢の住民が津波の到達直前まで、水田地帯の農道に
    車を止めて沖を眺めていたという。 水田付近で事務所の片付けをしていた
    会社員男性(32)は『住宅街から逃げた住民が車内でラジオを聞いたり、
    立ち話したりしていた。 そのうち津波が押し寄せ、一瞬で辺り一面が水に
    沈んだ』と話す。

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    なぜ、住民はより内陸へと逃げなかったのか。 荒浜に先祖代々住む大学
    源七郎さん(69)が説明する。 『住宅街の西を通る県道塩釜亘理線まで
    逃げれば大丈夫と思ってきた住民がほとんどだった。 地区の避難訓練でも、
    県道を渡ることに力点が置かれてきた』

    仙台市が町内会に配布していた『津波避難マップ』。 津波が県道に到達する
    とは想定されておらず、荒浜の住宅街の中でも県道に近い西部は『津波警戒区域』
    に設定されていなかった。 だが、実際に津波はさらに内陸側の東部道路周辺
    まで達した。

    『荒浜新1、2丁目で200~300の遺体との情報』。 これは3月11日夜にあった
    緊急通報の一つだ。 大震災発生の直後で、消防、警察にはそれぞれ何千件
    もの通報が殺到。 関係機関による事実確認は混乱の中、難航を極めていたが、
    その衝撃的な内容は報道関係者の意識を引き付けた。

    情報は一部メディアで『海岸に200人以上の遺体』などと変遷しながら、事実
    として数日間、発信され続けた。 仙台市の死者・行方不明者は21日現在869人。
    荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。 遺体の大半は、県道塩釜亘理線
    沿いの荒浜新1、2丁目や海岸ではなく、荒浜西部の南長沼周辺や東部を流れる
    貞山堀で見つかった。

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    1日20万人が行き交う東北の玄関口が2011年3月11日、激しい揺れに大きな
    ダメージを受けた。 『仙台駅ホーム天井、数十メートル落下』。 3月15日の
    朝刊は、地震当日の仙台駅の状況を伝えた。 JR東日本によると、幸いにも
    死傷者はゼロ。 元々、宮城県は地震が非常に多い地域のため、防災意識が
    非常に高く、地震にはすこぶる強い。

    地震の直前に仙台駅を出発した新青森行きの新幹線は、トンネル内に8時間以上、
    閉じ込められることになる。

    その時何が 新幹線ホーム損壊(仙台駅)
    仙台駅の新幹線ホームは静まりかえっていた。 午後2時42分、盛岡行きやまびこ
    61号が出発。 午後2時44分には東京行きMaxやまびこ144号を送り出していた。

    地震が発生したのは、やまびこ144号がたった2分後。 下り線ホームで1時間先の
    列車を待っていた、むつ市の会社員阿部学さん(38)は、立っていられないほどの
    強い揺れに襲われた。

    15秒後、頭上でけたたましい音が鳴り響いた。 金属製の天井がベラベラと剥がれ
    落ちてきた。 ホーム南側の喫煙所前にいた阿部さん。 『死ぬかもしれない』。
    あわてて北側へホームを走った。 必死に逃げるも、天井板は追い掛けるように
    次々と落ちてくる。

    剥がれ落ちた天井板が強い揺れで激しく波打っている。 『まるで竜のような
    生き物に見えた』 こぶし大のコンクリート片と金具も矢のように降ってくる。
    待合室に逃げ込み、揺れが収まるのを震えながら待った。 駅員が駆け上がって
    きた。

    『外に出ましょう』。 待合室を出ると、ほこりで辺りは黄色がかって見えた。
    誘導されたのは、駅西口のタクシー乗り場前。 約1,000人の駅利用者と
    駅従業員が不安そうにたたずんでいた。

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    JR東日本の関連会社『日本レストランエンタプライズ』仙台支社の三浦仁志さん
    (32)は、上りホームの売店にいた。 あまりの揺れに、しゃがんで床に手を
    ついた。 ふと、顔を上げた瞬間、目の前にスーツ姿の若い男性が腰が抜けた
    ようにへたり込んでいた。

    落下する天井板と売店の看板が2人を襲う。 『上に注意して』。 三浦さんは
    何度も男性に叫んだが、動く気配はない。 『直撃したら危ない』。 三浦
    さんは男性の腕とベルトをつかみ、激しい揺れの中、階段を駆け下りた。
    とっさの判断だった。

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    東北新幹線のレールでは、上下18本が営業運転中だった。 約830人を乗せた
    新青森行きはやて・こまち27号は、大崎市の第1三本木トンネル内で緊急
    停止した。 仙台駅を出て8分後。 走行時速は270キロだった。

    『脱線してしまうんじゃないか』。 8号車にいた仙台市太白区の税理士
    大藤正樹さん(57)は、右に左にうねりながら走り続ける列車に恐怖を覚えた。

    車内は節電のためか、空調と照明はギリギリに抑えられた。 車内販売の食料は
    買い尽くされた。 大藤さんは空腹に耐えながら、待つこと8時間。 時計は午後
    11時を回っていた。 救出に駆け付けたJR社員が照らす懐中電灯を頼りに脱出、
    乗客はトンネル内をぞろぞろと歩き続けた。 20~30分後、外に出ると雪が
    舞っていた。

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    『不幸中の幸い。 大惨事になっていてもおかしくない』。 居合わせた乗客らは
    口を揃える。 渡辺英明仙台駅長(57)も『地震発生が、夕方のラッシュ時の前
    だったのが幸いした』と>認める。

    仙台駅を地震発生の2分前に発車したやまびこ144号は、仙台市太白区長町の
    高架上に緊急停止。 乗客約280人は間もなく脱出したが、車両は電柱の復旧
    工事などが終了する4月22日まで、その場にとどまった。 大惨事を免れた
    東北新幹線。 『安全神話』はかろうじて守られたものの、全線復旧には
    50日を要した。

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    震災の直前、JR仙石線野蒜駅(宮城県東松島市)を同じ時刻に発車した2本の
    列車があった。 ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。
    海沿いを走行中に地震に襲われ、2011年3月12日の朝刊は『野蒜駅付近を走行して
    いた列車と連絡が取れないとの情報がある』と伝えた。 乗客の明暗が分かれた。

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    その時何が 消えた列車(東松島)
    出典:河北新報

    3月11日午後2時46分。 2本の列車は、時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ
    出発した。 窓の外は雪が舞っていた。

    仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。 駅を出てすぐ、携帯
    電話が一斉に鳴りだした。『宮城沖で地震発生』。 緊急地震速報だった。ほぼ
    同時に車両が揺れ始めた。 あちこちで悲鳴が上がった。 石巻専修大3年
    菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。 『大人2人に揺さぶられて
    いるようだった』

    車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。 近くには東松島市指定避難所の
    野蒜小があった。

    『乗客を野蒜小に避難させてください』。 仙台のJRの指令担当者から無線指示を
    受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。 誘導された
    体育館には、既に100人以上が避難していた。

    【5年が経過した野蒜駅前】


    午後3時50分ごろ。『津波が来たー! 2階に上がれー!』。 入り口近くにいた
    菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。 人が殺到した近くの階段を避け、ステージ
    奥の階段へ走った。 そこも行列だった。 順番を待つ間に水は足首まで達した。

    現実感がなかった。 『映画みたいだ』と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に
    割れ、泥水が一気に流れ込んできた。 後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく
    流されたが、なすすべはなかった。 必死で2階に上った。

    JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。
    混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。 2カ月が過ぎた今も、体育館に避難
    した乗客数すら『不明』のままだ。

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    津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。 菊谷さんは
    『もし車内に残っていたら、死んでいただろう』と振り返る。

    下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。 幸運にもそこは十数
    メートルの高台だった。

    『とどまった方が安全だ』。 地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しよう
    とした若い乗務員に助言した。 乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある
    3両目で待機することになった。

    高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。
    『上り列車は無事だろうか』。 石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅で
    すれ違った列車の安否が気掛かりだった。

    乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの
    男性を救出した。 震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
    『暗くなる前に一口ずつどうぞ』。 ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。
    それを機に和泉さんら他の乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。 自然に
    分かち合いの輪が生まれた。

    1人だけ、心細そうな男の子がいた。 大人がさりげなく見守り、励ました。
    夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。 『みんな自分のことのように
    ホッとした』と和泉さん。 その晩、男の子は母の腕で眠った。 夜は長く、
    寒かった。 乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。

    【5年が経過した東松島市】


    12日朝。 乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、
    指定避難所の公民館へ向かった。

    『一人一人ができることをやった。 みんなの力で乗り越えられた』。
    和泉さんは今、そう思っている。

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    東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
    東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

    復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
    出典:河北新報

    『仙台空港ターミナルビルに1,300人が孤立』。 2011年3月13日夕に発行された号外は、
    宮城県や県警などの情報として、こう報じた。 国内8都市、海外7都市と結ぶ東北の
    空の玄関口は、滑走路などが津波に襲われ水没。 周囲は無数の自動車やがれき、
    小型飛行機が浮かぶ中で、空港ビルは『孤島』と化していた。

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    ◎仙台空港水没(岩沼市、名取市)
    仙台空港の上空は、どんよりとした低い雲が垂れ込めていた。 3月11日午後2時40分、
    中国国際航空924便が、乗客61人を乗せ、中国・大連に向けて離陸した。 激しい揺れが
    襲ったのは、わずか6分後だ。 実は、地震の1分前、2時45分に大阪(伊丹)発の
    日本航空2209便が着陸するはずだった。 天候不良で到着が遅れていた。

    仙台空港であの日、発着を予定したのは国内線約80便、国際線8便に上る。 空港で
    旅客機の駐機がゼロになるのは1日3、4回、それも、それぞれ数分から20分程度に
    すぎない。 地震発生時、大阪便の遅れで、奇跡的に滑走路に旅客機はなかった。
    空港関係者が『不幸中の幸い』と胸をなで下ろしたのは、だが、わずかな時間だけだった。

    午後4時ごろ、車やがれきをのみ込みながら、巨大津波が襲来する。 宮城県岩沼市
    下野郷の特別養護老人ホーム『赤井江マリンホーム』は、目と鼻の先に太平洋が広がる。
    津波が来るとラジオが告げた。 事務長の鈴木信宏さん(53)は、避難先を約1キロ北の
    仙台空港ターミナルビルに決めた。

    職員は利用者96人を9台の車でピストン輸送した。 職員を含む144人全員が避難を
    終えたのは、津波が襲来する直前、午後3時53分だった。 空港ビルは、宮城県名取市と
    岩沼市の指定避難所だ。 地域の住民約250人が続々と集まった。 岩沼市議会議長の
    沼田健一さん(61)=同市下野郷=も身を寄せた。



    津波が滑走路を水の底に沈め、到着ロビーなどがある空港ビル1階にがれきや車などを
    押し込んだ。 停電、断水、通信不能。 旅客や地域住民、航空会社やビル、関連施設の
    職員ら1,600人が孤立した。 目の前の惨状に、沼田さんは『1週間は脱出できないと
    覚悟した』。

    1,600人は2階、3階に分かれ、土産品などを食べた。 空港に食料と水は十分にあった。
    孤島のビルに最初にたどり着いたのは、富山県高岡市高岡消防署の特別救助隊員
    だった。 夜通し車両を走らせ、12日早朝から救助に入った。 空港の約1キロ手前で
    道路は冠水。 ボートで接近を試みたが、がれきに阻まれ船外機もオールも使えない。
    隊員が交代で、胸まで水に漬かってボートを押した。 午前10時22分、ようやく空港ビルに
    着いた。

    救助隊長の小原政和さん(35)は、避難者たちの安堵の表情を見て、『全員を助け出さ
    なければならないと強く思った』と振り返る。

    『滑走路伝いに西側ゲートから陸路が使える』。 救助隊から連絡を受けた名取市消防
    本部が、がれきを撤去し、午後4時ごろ、車1台分の通路を確保した。 地震発生から
    25時間。 空港の孤立状態が解消された。

    マリンホームの利用者と職員は12日夕方、空港職員らは13日にバスや徒歩で脱出を
    開始した。 最後の住民約100人が空港を後に
    したのは3月16日だった。

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    東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
    東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

    復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
    『ドキュメント大震災』。 シリーズ第1弾『その時何が』では、震災直後の混乱の中で
    断片的な情報だけが入り、詳細が不明のままとなっていた出来事を掘り下げる。

    出典:河北新報

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    ◎その時何が(1) 屋上のSOS(石巻)

    2011年3月13日の朝刊に、宮城県石巻市の学校を上空から撮影した写真が載った。
    屋上に『SOS』の白い文字が浮かんでいる。 小さな人影が両手を大きく広げ、助けを
    求めていた。

    その学校は大街道小学校だった。 石巻工業港から北へ約1キロ。 3月11日の津波で
    1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。 2、3階に避難した住民や教員、児童ら
    約600人が孤立状態に陥っていた。 甲斐好子さん(36)は地震後、首まで水に漬かり
    ながら、近所のお年寄りや赤ちゃんを救助。 ずぶぬれになって、母親(69)と学校に
    たどり着いた。

    恐怖と不安の一夜。 上空に非常事態を象徴するヘリコプターの爆音がとどろいていた。
    夜明けが近づくと、爆音が交錯し始める。 12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交って
    いた。 甲斐さんら数人が屋上へ駆け上がった。 ヘリを見上げる。 『気付いて』。
    救助を求めようとの声が挙がった。 誰が発案したか甲斐さんは覚えていないが、
    教員らがB4判のコピー用紙を持ってきて、並べ始めた。 『SOS』。 風で飛ばされぬよう、
    ウレタンの破片を重りにした。



    甲斐さんはヘリに向かって必死に手を振った。 『何か物資を落としてくれないか、誰か
    降りてくれないかって…。でも、みんな飛び去ってしまった』

    約600人を飢えが襲った。 備蓄食糧はなかった。 避難者のうち子どもが約400人。
    わずかな食べ物でも、子ども達を優先した。 11日は放課後児童クラブの菓子を
    児童らに分けた。 12日、水が止まる。 住民らはスティック袋に入った砂糖をなめた。

    北村統教頭(49)は『先生方や大人は2、3日間、ほとんど食べるものがない状態。 我慢
    するしかなかった』と言う。

    水が徐々に引き始めた12日、自宅などから逃げ遅れた住民らが水に漬かりながら、
    続々と校舎に来た。 避難者は1,300人まで膨れ上がった。

    近所の中華料理店が炊き出しをしたのは14日だ。 紙コップ半分ぐらいの野菜スープを
    皆ですすった。 だが、周囲にガソリンやガスの臭いが漂い、炊き出しは中止せざるを
    得なかった。

    差し入れや買い出しで調達したわずかな食料を分け合った。 自衛隊員が19日、
    おにぎりとお湯を運んで来た。 拍手が湧き上がった。 『ごつごつした、いかにも
    男の人が握ったおにぎりだった』。 甲斐さんはその味が忘れられない。



    校舎の中では、懸命な救命、医療活動も続いていた。 石巻市立病院の看護師
    中里珠丹さん(36)は12日早朝、教員の叫ぶ声を聞いた。 『誰か看護師さんはいま
    せんか』。 1階の保健室へ行くと、ベッドに女性が横たわっている。 低体温症だった。
    毛布はない。 カーテンを体に巻き付けた。

    もう一人いた看護師と心臓マッサージを施したが、女性は間もなく、静かに息を引き取った。
    十分な治療設備はない。

    ピンセットは、ライターであぶって消毒した。 急ごしらえの救護室には昼夜を問わず、
    行列ができた。 中里さんは10日間、ほとんど寝る時間もなく、応急処置などに忙殺
    された。

    日赤の緊急医療チームがやって来たのは震災1週間後だった、と記憶する。
    『精神的にも肉体的にも、もう限界だった』



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