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    カテゴリ:東朝鮮日報 > アーカイブ

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    不安、恐怖、怒り、喪失感―。 東日本大震災は、被災した多くの子どもの心に傷を
    残した。 日常を取り戻しつつある学校現場で、子どもの心のケアは重要性を増して
    いる。 東松島市はスクールカウンセラーの巡回など、多方面からのサポートに力を
    入れている。

    学校で何が スクールカウンセリング(東松島)不安・恐怖、耐える幼心
    出典:河北新報

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    東松島市の川下公民館で避難生活を送る野蒜小5年の京野瑞樹君(10)は活発な
    野球少年。 お気に入りの野球帽をかぶり、練習に打ち込む。

    3月11日は、学校からの帰り道で巨大地震に襲われ、恐怖で動けなくなった。
    通行人に助けられ、父親の文彦さん(37)らと一緒に野蒜小の屋上に避難し助かった。
    津波は学校の校舎を破壊し、仲良しのクラスメート2人の命を奪った。

    『友達が亡くなってさみしい。 地震が来ると、あの時みたいに胸がどきどきする』と
    瑞樹君。 文彦さんは『普段は口に出さなくても、心の中には(恐怖が)あるかも
    知れない』と思いやる。

    大曲地区センターに避難する主婦千葉理恵さん(30)は、大曲小3年の次女(8)が
    余震の時に示す反応が気掛かり。 『顔色が変わり、パニックのような感じ。 いざと
    いう時、冷静に逃げられるかどうか心配』と話す。

    1,000人を超える犠牲者を出した同市で、小中学校の児童、生徒の死者、行方
    不明者は計32人、両親の一方か両方を亡くした子どもは36人を数える(5月6日現在)。
    避難所生活が長引く中、学区外からのスクールバス通学者は約500人に上る。

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    地震で受けたショックや慢性化する震災ストレスとどう向き合うか。 東松島市は、
    宮城県教委を通じ、岐阜、徳島両県のスクールカウンセラーの派遣を受けている。

    岐阜県の心理士神谷文子さん(36)は、鳴瀬一中に間借りする鳴瀬二中に派遣
    された。 隣接する小野小に入る浜市小も巡回する。 両校とも津波で校舎が使え
    なくなった。

    5月中旬、初めて学校を訪れた神谷さんは子どもの異変に気付いた。 『おなかが痛い』
    『頭痛がする』という訴えを耳にする中で、首や肩を触ってみると、パンパンに張って
    いた。 ささいな事でいら立つ様子も気になった。 リラックスするための呼吸や
    体操の時間をつくった。

    『環境が変わり、日ごろ感じないストレスで神経が過敏になっている。 心身の緊張を
    緩める時間の確保が必要だ』と神谷さんは強調する。

    子どもの心のケアは、震災前から子どもと親しい人々が、日常生活の中で話に耳を
    傾けたり、リラックスさせたりするのが最も効果的とされる。

    徳島県から矢本一中に派遣されている心理士の森世歩さん(29)は『子どもは事情を
    抱えながら精いっぱい頑張っている状態。 周囲の大人たちの安定が欠かせない』と
    保護者と教員の役割の重要性を指摘する。

    市は4月下旬、東大医学部の専門チームと連携し、小中学校全ての児童、生徒
    約3,600人に対し、震災後の心理状況について調査を実施した。 心的外傷後
    ストレス障害(PTSD)が疑われる児童・生徒らの心のケアを行う。

    心理士でつくるケア・宮城と公益財団法人『プラン・ジャパン』(東京都)が6月28日、
    大曲小で教員を対象に心のケア研修会を開いた。 『子どもに希望を持たせたいが、
    簡単に『乗り越えよう』などと言っていいのだろうか』。 教師らにとってスキルを学ぶと
    ともに、互いに抱える悩みを吐露する場になった。

    講師を務めた東北大教育ネットワークセンター長の本郷一夫教授(教育学)は
    『災害直後の心身のストレスは、誰にでも起こる正常な反応。 子どもの拙い言葉を
    受け止め安心感を与えてほしい』と強調。 『長い時間がかかる。先生が心と体の
    健康を保つことも大切だ』と助言した。




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    震災による津波で大きな被害を受けた宮城県女川町では町外に身を寄せ、
    遠距離通学する子どもが数多くいる。 余震の頻発や地盤沈下による道路の
    冠水など、当初は登下校に多くの困難を抱えた。 町教委は町内外にスクール
    バスを運行させ、教員や保護者も子どもたちをサポートした。

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    学校で何が 15Km車とバス乗り継ぐ(宮城・女川町)
    出典:河北新報 2011年7月5日

    平日の午前7時前、宮城県石巻市中心部のアパートを出た庄子宙(そら)君
    (10 )が父和行さん(41)と車に乗り込んだ。

    宙君は女川一小(宮城県女川町)の5年生。 アパートから約15キロ離れた
    学校に通う。 町との境に近い市東部にあるスクールバスの停留所まで、
    和行さんが車で送る。 『お父さんや友達と一緒に学校に行けるから楽しい』。
    登校に約1時間を費やす毎日にも、宙君は屈託がない。

    庄子さん一家は和行さん、妻由美恵さん(37)と宙君、長女礼ちゃん(4)の
    4人暮らし。 和行さんと由美恵さんは石巻市内の会社に勤めている。 2011年
    3月11日まで暮らしていた女川町内の自宅は津波で全壊し、震災後は町内の
    避難所や仙台市内の親類宅などを転々とした。

    『女川には賃貸住宅がないし、小さい子どもがいると避難所では周囲に迷惑を
    掛ける』(和行さん)と、4月初旬に石巻市のアパートに移った。 『女川の
    学校に行きたい』という宙君の思いを尊重し、石巻から女川に通わせること
    にした。

    スクールバスは町内の5小中学校に通う児童、生徒が利用する。運行は4月21日に
    始まった。

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    当初、由美恵さんは心配だった。 『いつ大きな余震が起きるか分からない。
    通学途中に津波が来たり、周りの建物が倒れたりしたらどうしよう』。 万が一に
    備え、宙君に携帯電話を持たせた。

    女川一小は避難所となったため、授業は約2キロ東に離れた女川一中で行っている。
    同中は津波被害を受けた女川港近くの高台にあり、通学には津波で浸水した区域を
    通らなければならない。

    女川一小では児童約2000人の大半がバス通学することになった。 『学校に
    とって、登下校時の児童の安全確保が重要な課題になった』と星圭校長は
    振り返る。

    学校側は町教委やバス会社と打ち合わせを重ねた。 バスの運行ルートは高台の
    道を優先し、地震発生時にはバスを停車させ、運転手が児童を避難誘導するなどの
    対応策を決めた。 『当初はがれきで埋まった道路があり、運行ルートを選ぶのは
    大変だった』と4年生を担任する中沢健一さん(35)は言う。

    安全対策の一環として、学校は5月末まで、15人の教員を交代で登下校時のバスに
    同乗させた。 発着状況は随時、電子メールで保護者に伝えた。 『子どもの
    ことを親身になって考えてくれた』と由美恵さんは感謝する。

    町教委によると、小中学校の全児童・生徒の8割に当たる476人がスクール
    バスで通学(2011年6月20日現在)。 うち町外居住者は計40人に上る。 バスの
    運行が軌道に乗った後も、庄子さん夫婦には別の心配事があった。 石巻市渡波
    地区など、アパートからスクールバスの停留所までの道のりの一部は震災で地盤
    沈下し、冠水しやすい。 登校時間と満潮が重なり、停留所に向かう道路が冠水
    してバス停にたどり着けないこともあった。

    仮堤防の設置や幹線道路のかさ上げなど対策が施され、最近は送迎途中に道路が
    冠水することもほとんどなくなった。 『今は安心して学校に通わせることが
    出来ている。 ただ、女川の復興の兆しが見えないので、先の見通しは立て
    られない』。 庄子さん夫婦は口をそろえた。

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    東日本大震災は、教育の現場にも大きな影響を与えている。 校舎の損壊、
    間借りの教室、不自由な通学、仮設住宅が並ぶ校庭。 学校は幾つもの困難を
    抱えながら、教育の場としての機能を懸命に維持し、被災した子どもたちの
    心と向き合う。

    『ドキュメント 大震災』のシリーズ第3弾では、被災地の学校で何が起きて
    いるのかを追う。

    学校で何が 高校生避難所(気仙沼高)
    出典:河北新報 2011年7月4日

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    宮城県気仙沼市の気仙沼高(生徒810人)では授業を再開した5月から、東日本
    大震災で自宅通学が困難になった生徒37人が柔道場で共同生活を送る。
    『通学の足』だったJR気仙沼線が不通となっている影響が大きい。 過酷な体験は
    まだ消化しきれないものの、親元を離れて学業や部活動に励みながら、ともに
    未来を切り開こうとしている。

    今も体育館などに100人以上の住民が身を寄せる気仙沼高校。 自宅通学が難しい
    生徒たちは校舎隣の柔道場で暮らす。 2011年6月10日午後7時、サッカー部の
    練習を終えた2年二階堂広也君(17)が戻った。 宮城県南三陸町歌津の自宅は
    津波で全壊。 家族とともに町内の親類宅に身を寄せたが、5月9日の授業再開に
    合わせて学校に移った。

    『通学の足』だったJR気仙沼線は津波被害で不通となり、代行バスでは片道2時間
    近くかかってしまうからだ。『副キャプテンだし、部活に打ち込みたい』との
    思いも強かった。 気仙沼線の利用者は全校生徒の約4分の1。 復旧のめどは
    立たず、代行バスの本数も少ない。 今春の入学予定者13人を含め既に22人が
    転校した。

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    生徒の避難先は広範囲で、スクールバスではカバーしきれない。 寄宿舎を建て
    たくても、被災地では仮設住宅が優先だ。 気仙沼高が生徒用の『避難所』を
    用意した背景には、そんな事情がある。

    生徒たちは午前6時半に起床、全員で掃除をした後、炊き出しの朝食を取って
    登校する。 昼食は売店のカップめんなどで間に合わせる生徒が多い。 柔道場の
    スペースは男女別にパーテーションなどで仕切られ、夜は身の回りの片付けや
    勉強をして過ごし、畳の上に布団を並べて眠る。

    被災した家族と離れての暮らしに、抱える思いはさまざまだ。 南三陸町志津川の
    3年山内秀斗君(17)は自宅と親の職場が津波で流された。 被災時に携帯電話が
    通じなかった経験から、大学で通信技術を学びたいと考えているが、家族の
    負担を思うと『自分が早く親を養えるようにならないと…』と悩む。

    大学に進学し、国家公務員になろうと考えていた南三陸町歌津の3年三浦竜馬君
    (18)は志望を変え、高校卒業と同時に地元で公務員として働く決心をした。
    震災後、遺体捜索やがれき撤去の作業を通じて地域の人とふれあった経験が
    大きく影響している。

    『1000年後の津波に備えたまちづくりが、自分の世代でできるなんてすごいこと』
    6月28日。 学校の試験の合間の日曜日、生徒数人が柔道場で教科書や参考書を
    めくっていた。 三浦君が目指す地方公務員の試験は9月上旬に始まる。
    『あと70日しかない。 学校の試験と内容が全然違うんですよ』と仲間を
    笑わせた。 生徒たちの『避難生活』について、千田健一教頭(54)は
    『心の中にはつらい思いもあるだろうが、皆で支え合って明るさと前向きさを
    持ち続けている』と語り、こう付け加える。

    『ただ、(37人の中には)進路の選択を迫られている3年生も多い。 人生の
    中でも大切な時期だけに、早く普通の生活に戻してあげたい』

    柔道場で暮らす生徒のうち5人は『被災地高校生からの復興』というブログを
    立ち上げ、心情をつづっている。

    『棺(ひつぎ)の中にドライアイスを入れる仕事をしました。 (中略)大人
    として社会に受け入れられていることを自覚しなければならないと思いました』
    『避難所生活を始めて、どれほど親のおかげで自分が好きなように快適に家で
    過ごしてたかを痛感しました。(中略)避難所生活する高校生は協力しながら
    本当に仲良く過ごしていて感謝でいっぱいです』

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    東日本大震災の津波による七十七銀行女川支店(宮城県女川町)従業員の
    犠牲をめぐる訴訟で、最高裁で敗訴が確定した原告の遺族は2016年2月20日、
    仙台市内で記者会見した。 『企業防災の指針となる判断が示されずに幕を
    閉じた』と強調。 遺族は安全な社会の実現に懸ける思いを一層強めた。

    長男健太さん=当時(25)=を亡くした大崎市の田村孝行さん(55)は決意を
    語った。 『働く者の安全が担保されていない。 原因を究明し、企業防災の
    在り方を追求していく』

    田村さんと妻弘美さん(53)は訴訟と並行して女川町で語り部をし、健太さんらの
    身に降り掛かったことを伝えてきた。

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    早期退職して企業防災の向上を訴える活動に専念するべきかどうか、心が揺らぐ。
    震災から間もなく5年。 田村さんは寝ても覚めても今回の悲劇が頭から離れず、
    心が安らぐ日はなかった。 『銀行は法的責任を免れたが、息子ら12人が犠牲に
    なった責任がある。 真剣に向き合い改善策を示してほしい』と切望する。



    弘美さんは18日、1985年の日航ジャンボ機墜落事故遺族の美谷島邦子さん(69)に
    上告が退けられたことを電話で伝えた。 『声を上げて活動してきたことは大切。
    頑張って続けてほしい』と激励され、勇気が湧いた。

    遺族と企業が向き合い命を守る。 弘美さんが美谷島さんから学び目指す姿だ。
    『家族と銀行が歩み寄り、人命最優先の体制をつくることが息子にとって一番の
    慰めになる』と願う。

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    東日本大震災の津波で従業員が犠牲になった七十七銀行女川支店をめぐる訴訟で、
    2月20日に記者会見した他の遺族も、企業の防災意識の徹底を求めた。

    妻祐子さん=当時(47)=の行方が分からない女川町の高松康雄さん(59)は
    『いい加減な避難行動を裁判所が良しとしたことで、同じ事が繰り返されないか
    心配だ。 残念としか言いようがない』と落胆した。

    姉美智子さん=当時(54)=を失った仙台市太白区の丹野礼子さん(57)は
    『12人の犠牲を無駄にせず、職場の防災意識徹底を社会で広く図って欲しい。
    それが故人の供養になり、今後の命を救うことにつながる』と望んだ。

    弁護団の佐藤靖祥弁護士は『津波訴訟は各地であり、最高裁として安全配慮義務の
    統一的解釈を示して欲しかった』と悔やんだ。

    <2011年>
    3月11日 東日本大震災発生。 女川支店屋上に避難した従業員13人のうち
    12人が死亡・行方不明になる

    <2012年>
    9月11日 従業員3人の遺族が銀行を提訴。 銀行が2009年に防災マニュアルを
    改定して屋上を避難先に追加したことや、震災直後に避難先として高台ではなく
    屋上を選んだことについて『安全配慮義務違反に当たる』と主張

    <2013年>
    1月15日 銀行側が弁論で『支店屋上の高さを超える津波襲来は予見できなかった』
    と反論

    12月17日 仙台地裁で訴訟が結審

    <2014年>
    2月25日 仙台地裁が『高さ約10メートルの屋上に緊急避難することには合理性が
    あった』として訴えを棄却。 遺族側は即日控訴

    <2015年>
    4月22日 仙台高裁が1審判決を支持し、控訴を棄却。 遺族側は上告

    <2016年>
    2月17日 最高裁第2小法廷が上告を退け、遺族側の敗訴が確定

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    2011年3月11日の巨大地震発生時、宮城県石巻市の離島・金華山の港では、
    最終便となる定期船『ホエール』(19トン、72人乗り)が鮎川港への出発を
    待っていた。 突然の大きな揺れと津波の恐怖。 乗客を守るため、乗員は
    瞬時の判断を迫られた。

    逃げる その時 金華山定期船(石巻)
    出典:河北新報 2011年6月30日

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    大きな揺れが港を襲った瞬間、待合所にいた乗客の男性2人が青ざめた表情で
    船に飛び乗った。 午後3時の出発を待っていた『ホエール』。 待合所には、
    他にも黄金山神社の参拝客とみられる十数人がいたが、一様にどうしていいか、
    分からない様子だった。

    ホエールは地元の金華山観光が運航する小型旅客船。 この日は非番の船長に
    代わり、機関長の鈴木孝さん(63)が、かじを取っていた。 揺れから約5分後に
    突然、潮が上がり始めた。

    『まずい』。 鈴木さんは船をバックさせ、いったん岸壁を離れた。 無線から
    金華山観光社長遠藤得也さん(70)の声が響いた。 『客を乗せて沖に避難
    してくれ』 再び接岸して残りの客を乗せようか。 鈴木さんは迷ったが、
    岸壁は既に水没しかけている。 『だめだ。間に合わない』
    『危ないから神社に逃げて』。 鈴木さんは陸にいる人たちに船のマイクで
    何度も叫ぶと、全速力で沖を目指した。

    左手の金華山沖から、ものすごい高さの黒い波が迫った。『幅500メートルぐらいは
    あったか』。 鈴木さんは必死で逃げた。 鮎川港で地震に遭った遠藤社長は
    同じころ、海上タクシーとして使っている『くろしお』を>守るため、沖に
    向かって出港。 操舵室から全速力で逃げるホエールが見えた。

    金華山にぶつかった波がホエールを追いかけているかのようだった。

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    遠藤社長が振り返る。 『お客さんのことと自分の安全確保のことで、頭は
    パニックだった』 ホエールに乗り込んだ2人は、宮城県大和町の無職甘竹
    三郎さん(67)と仙台市太白区の無職三浦正靖さん(67)。 石巻高OBで
    つくる山歩きサークルの例会で金華山を訪れていた。

    甘竹さんは『白波を立てて津波が迫ってきた。 船にぶつかったら、終わり
    だと思った』と言う。 サークル仲間で仙台市青葉区の山岳写真家東野良さん
    (67)は、待合所から避難する途中、沖に逃げるホエールを手持ちのカメラで
    撮影。 『とにかく無事を祈りながらシャッターを押した』

    2隻は牡鹿半島の先端、黒崎灯台から約5キロ南まで避難。 金華山と牡鹿半島の
    海峡は、引き波で海底が露出するほどだったが、その海域を脱したホエールは
    無事だった。

    2隻は金華山と網地島の中間点で一夜を明かした。 余震は収まらない。
    サーチライトで照らし出された海面には、無数のがれきが漂っていた。
    ホエールには鈴木さんと客2人の他、乗務員2人が乗船。 恐怖で眠れない
    甘竹さんに、乗務員は励ましの言葉をかけた。 『水も食料もある。大丈夫。
    無事に帰れる』

    翌12日、遠藤社長は沖に避難していた数隻の小型船の助けを借り、ホエールの
    乗客と、黄金山神社に避難していた計約30人を鮎川港に搬送した。

    鈴木さんが鮎川港に上陸できたのは、地震発生から3日後の3月14日。
    『あの時、全員の乗船を待っていたら、きっと助からなかった』

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    大震災では、大勢の外国人も被災した。 警察庁によると、2011年6月
    27日現在、死亡した外国人は29人。 うち7割近い20人が宮城県内で亡くなった。
    震災発生直後、外国人が取った行動を調べると、運に加え、『日本語』
    『近所付き合い』『防災意識』の3点が生死を分けた要因として浮かび上がった。

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    逃げる その時 外国人(宮城)出典:河北新報 2011年6月28日

    『高台に避難してください』 津波から多くの日本人の命を救った防災無線や
    ラジオの呼び掛けが、宮城県南三陸町のフィリピン人にはほとんど理解されて
    いなかった。

    35年前に来日した英語講師佐々木アメリアさん(57)は『心配していた通りに
    なった』と表情を曇らせる。 震災後、フィリピン人妻ら十数人に聞いたところ、
    『高台』『避難』の意味が分からなかった人が多かった。 大半は日本人の夫と
    逃げたか、隣近所の日本人に促されて逃げ、一命を取り留めたが、女性(29)が
    津波で亡くなった。

    アメリアさんによると、女性は日常会話は出来たものの、防災無線の日本語は
    聞き取れなかった可能性が高い。 石巻市のスナック勤めで、南三陸町の
    フィリピン人社会や、隣近所との付き合いはほとんどなかった。 『日本人の夫
    以外に、避難するよう教えてくれる隣人はいなかったはず』とアメリアさんは
    見る。

    流ちょうな日本語を話す千葉ジョイさん(44)は『私も『高台』『避難』の
    意味は分からなかった。 『高い所に逃げて』と繰り返し言われれば、助かった
    かもしれない』と同胞の死を悼む。

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    志津川中で避難生活を送る来日20年の小山ジュリエットさん(44)を救ったのは、
    防災無線を聞き取る日本語能力と夫からの電話だった。 地震と停電で通話
    出来ないと思っていた携帯電話が午後3時10分過ぎ、突然鳴った。

    『大津波が来る。 出来るだけ高い所に逃げろ』。 夫の宣広さん(42)だった。
    宣広さんは近海マグロはえ縄船の漁師。 太平洋の沖合数十キロで津波をいち
    早くキャッチし、衛星電話で危機を知らせた。

    地震発生時、海沿いにある水産会社の加工場にいたジュリエットさんは防災
    無線に従い、既に指定避難所の志津川小へ向かっていた。 途中、志津川
    保健センターにほど近い夫の実家に立ち寄った。

    直後、宣広さんから電話があった。 忠告に従い、義父母と一緒に高台に
    逃げた。 振り返ると『真っ黒な濁流が、数分前までいた小高い場所を
    のみ込んでいた』という。

    ジュリエットさんの友人の斎藤ジュリエットさん(44)は同じころ、日本人の
    夫と逃げた高台で、泣きながら上空を見上げていた。 『この世が終わる。
    イエス・キリストが降臨する』と。

    あの時、中国・大連出身の広岡燕燕さん(37)は宮城県山元町の自宅にいた。
    海岸まで約1.2キロ。 『地震が起きたら津波が来る。 すぐ役場へ逃げて』。
    日本人の夫の口癖が頭に浮かんだ。

    サンダル履きのまま、3キロ以上離れた町役場を目指し、長女歩実さん(7)と
    自宅を飛び出した。 道路はひび割れ、水が噴き出す。 空は暗く、海岸から
    真っ黒い土煙が追い掛けて来る。

    津波の恐怖と闘いながら、十数分走り続けた。 息も絶え絶えになり、道路に
    飛び出して白いワゴン車を止め、叫んだ。 『娘だけでも』。 ワタナベと
    名乗る男性が2人を乗せてくれた。

    津波は町役場の近くまで迫り、自宅1階は水に漬かっていた。 『夫の口癖と、
    親切な日本人のおかげ』。 山元町の仮設住宅で、燕燕さんは歩実さんの
    髪を優しくなでた。

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    東日本大震災で被災した宮城県名取市閖上地区で2016年2月14日、1985年の
    日航ジャンボ機墜落事故の遺族と、閖上や宮城県石巻市大川小、七十七銀行
    女川支店(宮城県女川町)などで愛する人を失った遺族が集い、交流した。
    悲痛な体験を語り合い、失った命の重さを共有した。

    出典:河北新報 

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    震災の記憶を継承する施設『閖上の記憶』には、墜落事故の遺族会『8.12連絡会』
    の3人を含め計17人の遺族らが集まった。 大川小で次女千聖(ちさと)さん=
    当時(11)を亡くした紫桃隆洋さん(52)は『家族という言葉が突然遺族に
    変わり、ためらいながら5年が過ぎた』と複雑な胸中を明かした。

    七十七銀行女川支店行員だった長男健太さん=当時(25)を失った田村孝行さん
    (55)は『つらさ、悲しみはあるが涙も出ない。 同じ苦しみを繰り返さない
    ために学んだことを後世に伝えたい』と述べた。

    墜落事故で次男健君=当時(9)=を亡くした8.12連絡会事務局長の美谷島
    邦子さん(69)は『私たちは風車と同じで、風の中でくるくる回ったり
    止まったりする。 一緒に泣いたりしながら少しずつ前に進んでいければいい』
    と話した。

    この日の交流は、閖上中で長男公太君=当時(13)=を失った同中遺族会代表
    丹野祐子さん(47)や、美谷島さんが呼び掛けた。

    丹野さんは昨年夏、墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に登り、深い
    悲しみを抱えて30年間活動してきた遺族の思いに胸を打たれた。 『場所は
    違っても失った命を忘れないという思いは同じ。 何も言わなくても分かり
    合える遺族同士のつながりを今後も大事にしたい』と力を込めた。

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    地域を挙げて避難訓練を重ね、手助けが必要な障害者やお年寄りの
    把握にも努めて来た宮城県気仙沼市唐桑町小鯖地区(155世帯)では、
    住民がほぼ訓練通りに行動し、犠牲者を最小限に食い止めた。 自治会が
    『隣組』ごとに編成した12班は、それぞれ事前に決めていた避難場所に
    組織的に避難。 各班の責任者に配備されたトランシーバーも、安否確認や
    責任者同士の連絡に威力を発揮した。

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    逃げる その時 備え(気仙沼・唐桑町小鯖地区)
    出典:河北新報 2011年6月24日

    『迷わず、訓練通りに体が動いた』。 7班責任者の衣料店経営鈴木茂さん
    (56)が、地震直後の行動を振り返る。

    玄関に常備するトランシーバーを手に外に出た鈴木さんは、7班の全10世帯を
    避難路に誘導し、体が不自由なお年寄りだけを車に乗せて避難場所へと運んだ。
    『うちにいたい』と拒む人もいたが、親類を連れて再び迎えに行き、説得した。
    『5班は大丈夫』『異常なし』。 住民の安否確認を終えた各班の責任者から、
    相次いでトランシーバーに連絡が入った。

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    鈴木さんは『携帯電話がつながらない中、班ごとに安否が確認できた。 大きな
    安心感があった』と振り返る。 小鯖漁港のそばで釣具店を営む小松好子さん
    (82)を救ったのは、近所のガソリンスタンドの男性社員の声だった。

    『地震の次は津波が来るから。 もう1段、もう1段上がりなさい』当時自宅に
    いたのは、6人家族のうち小松さんだけ。 避難を促す声に背中を押されるように、
    自宅裏の避難階段を夢中で上った。

    午後3時10分過ぎ。 後ろから10メートル以上の黒い波が迫って来た。 高台に
    上った小松さんは、引き波で店舗を兼ねた自宅が湾内に流されるのを見た。
    最後尾で誘導した尾形和洋さん(34)は『お年寄りの足では、津波に飲まれかね
    なかった。 高齢者の避難に最も気を使った』と言う。

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    小鯖自治会副会長の鈴木貞治さん(62)は『迅速に避難を誘導できたのは、
    日ごろの訓練のおかげ』と強調する。 12班はそれぞれ最寄りの高台を1次避難
    場所に指定し、経路を示した避難地図を全戸に配布。 要援護者を把握するため、
    『住民名簿』や『家族カード』を作り、訓練を重ねて、近所ごとに要援護者を
    誘導する取り組みも進めていた。

    津波で海岸沿いの住宅53世帯が被災したが、1次避難場所は全て無事だった。
    浸水域は、避難地図作成のベースになった宮城県沖地震の想定浸水範囲
    『標高10メートルライン』と重なる。 1次避難場所は標高20メートル前後の
    場所に指定していた。

    避難場所に逃げたのは12カ所で計151人。 自宅にいたほとんどの住民が
    助かったが、3世帯6人が行方不明となった。 住民によると、このうち1世帯
    3人は、いったん避難路を上ったが、『忘れ物』と言って自宅に戻った。
    家族の一人は元遠洋漁船員。 航海が長く、日ごろ訓練に参加出来なかった。

    12班の責任者、後藤一郎さん(63)も行方が分からない。 地震発生後、
    トランシーバーで『異常なし』と仲間に連絡していた。 妻光子さん(55)は
    『近所の安否確認をした後、つないでいた愛犬を逃がすため自宅に戻った
    のでは』とみている。

    他に、お年寄りと娘の1世帯2人が逃げ遅れた。 万全だったはずの備え。
    想定通りの津波。 それでも犠牲者が出た。 住民は言う。 『津波から逃げる
    には、備えが要る。 でも、いざとなれば何が起こるか分からない。 失敗こそ
    教訓にして、記憶に留めたい』

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    東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
    発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
    必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。

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    宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
    大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
    避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
    身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

    目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
    車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
    ものの、どうすることも出来なかった。

    2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
    よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
    見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
    伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。

    内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
    目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
    ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
    車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
    車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。

    かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
    笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
    使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
    離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
    地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。

    幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
    ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
    交じっていた。

    とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
    乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。

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    堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
    だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
    東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
    だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。

    気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
    からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
    途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。

    佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
    誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
    という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。

    震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
    逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
    (津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
    安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
    と話す。

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    志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場
    『高野会館』。 震災時、利用客や従業員ら約330人は会館に留まった。
    『帰したら、津波で危険だ』。 避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、
    全員の命を救った。

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    高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら
    2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)


    逃げる その時 帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)
    出典:河北新報 2011年6月23日

    会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。 階段の前で、
    従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
    『生きたかったら、ここに残れ』。 男性の怒鳴り声が響いた。

    『頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する』。 同会館営業部長の佐藤由成さん
    (64)は、1988年の開館当初から勤務。 設計段階から知り尽くした建物の強度に
    自信を持っていた。

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    330人を救った高野会館の屋上。 中央奥に見えるのが公立志津川病院
    2011年6月19日 宮城県南三陸町志津川


    『お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう』と判断したのは町社会福祉
    協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。 経験と利用客の状況を踏まえ、4階
    建ての会館に留めるのが最善と考えた。 地震発生時、3階の宴会場は、老人
    クラブによる『高齢者芸能発表会』の閉会式の最中。 強烈な横揺れに大勢の
    客はパニック状態になった。

    1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員
    らが来館者を上階に誘導するのが見えた。 最高齢90代後半、平均80歳前後。
    来館者の避難は困難を極めた。 『早ぐ上がって、早ぐ上がって』。 営業課長の
    西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。 階段は人でびっしり。
    『このままでは津波に飲まれる』。 体力のある人がお年寄りを背負った。

    町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、
    背後に津波を感じた。 ガチャン、バキバキ。 1階の窓ガラスが割れ、2階にも
    がれきが流れ込んだのが音で分かった。 3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを
    大量の水が突き破った。 足元もぬれていた。

    屋上には既に水が押し寄せていた。 水位は膝まである。 『ここもだめか』。
    西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などが
    ある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

    四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。 佐藤さんの手帳には
    津波の記録が残る。

    <午後3時26分、第1波。 40分、引き始め>
    <4時13分、第2波。 28分、引き方開始>
    <5時、第3波。 10分、引き波開始>

    そう書いたところで手が止まった。 2キロ弱先の荒島までの海底が姿を
    現している。 『次の波が来たらみんな死んでしまう』。 スーツの内ポケットに
    手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。 自分が流されても記録は残るように―。

    佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。 屋上までには到達
    しなかった。 会館に孤立したのは約330人。 4階にある約25平方メートルと
    約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。

    室内は人いきれで息苦しいほどだった。 深夜、80代の女性が意識もうろうと
    なった。 『脳梗塞の疑いがある』と町社協の看護師。 佐藤さんは最上部に
    上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。

    『先生、倒れている女性がいます。 波が引いたら、そちらで診ていただけ
    ませんか』 医師とみられる男性の声が返ってきた。 『こちらは薬も電気もない。
    7人が亡くなりました』

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    風通しの良い場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう
    促した。 『外の空気吸ってきてけさい』。 10分ほどの短時間だったが、
    室内に外気が入ると女性は持ち直した。

    職員らの判断と機転。 会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。
    『よく生きていられた。 従業員らの指示に従い会館に残ってよかった』

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    仙台港近くの展示場『夢メッセみやぎ』は震災時、イベントの最中だった。
    混乱に陥った来場者約700人をイベントの運営者が屋上へ避難誘導することで、
    幸いにも死傷者は出なかった。 だが、これがもし数千人規模の大イベント
    だったら―。 『避難場所が足りず、大惨事になっていたはず』。
    関係者は血の気が引く思いで振り返る。

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    逃げる その時 イベント会場(仙台港・夢メッセみやぎ)
    出典:河北新報 2011年6月22日

    建物がミシミシときしみ、はりがたわんだ。 食器は散乱。 照明が消えると、
    パニック状態に陥った人々は出口に殺到した。 2011年3月11日。 メッセ
    展示棟は平日ながら大勢の来場者でにぎわっていた。 全国のご当地グルメ
    100店を集めた『グルメコロシアム』が開幕。 華やかな食が並ぶ会場を
    午後2時46分、激しい揺れが襲った。 会場にいた仙台市青葉区の自営業泉田
    智行さん(35)は『多くの女性がしゃがみ込み、泣き叫んでいた』と語る。

    『大津波警報が出ています。 落ち着いて。ここを離れないでください』。
    揺れが収まった午後3時過ぎ、避難が始まった。 メッセ会議棟と、隣接する
    仙台港国際ビジネスサポートセンター(アクセル)の二手に分かれ、会場
    スタッフ50人が誘導した。

    いち早く動けたのは理由がある。 2日前にあった震度5弱の地震を受け、この日
    朝に津波を想定した避難手順を打ち合わせしていた。 障害者、高齢者らの
    避難には来場者も協力し、車いすを担いで屋上への階段を上った。

    それでも避難は間一髪だった。 『どうせ津波なんて来ない。 帰らせろ』。
    車に乗り込もうとする来場者を、スタッフは半ば強制的に押しとどめた。
    『無理にでも屋上へ避難させて正解だった』。 イベント主催者である
    仙台放送の倉内宏事業部長(46)が振り返る。

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    午後3時53分。 隣接する仙台港の輸出用モータープールの車を押し流しながら、
    茶色い水が押し寄せてきた。 200人が避難した会議棟周辺には、津波に気付か
    ないまま走る車がいた。

    『運転手さん 止まってー』『急いで高い場所に上がれー』。 屋上から拡声器で
    必死に呼び掛けたが、何台もの車が津波に流されて行く。 宮城県亘理町の主婦
    (40)は『車中で聞こえなかったのだろう。 地獄絵図だった』と声を震わせる。
    高さ13メートル、2階建ての会議棟も屋上の数メートル下まで水が迫り、女性と
    子どもは給水タンクに上らせた。

    会議棟入り口に津波で激突した車3台から炎が噴き出し、建物に黒煙が入り込んで
    来た。 目の前のコンビナートも火の海になっている。 出店者の渡辺真奈美さん
    (43)=北海道利尻富士町=は『建物がいつまで持つか、みな恐怖の絶頂だった』。
    吹雪が容赦なく吹きつけ、うずくまる避難者も出てきた。

    『もう限界だ』。 歩けるくらいに波が引いたのを見計らい、会議棟の200人は
    裏口から、5階建てのアクセルを目指し脱出した。 『今また津波が来たら…』。
    渡辺さんは祈るような気持ちだったという。 元々いた人も含め、アクセルには
    700人を超える避難者が集まった。 ペットボトル10本程度の水と菓子を分け合い、
    一晩をしのいだ。 防寒用に配られたのは新聞紙1人1枚。 幸い医師と看護師が
    居合わせ、妊婦や透析患者のケアが出来た。

    主催者のマイクロバスで来場者をJR陸前高砂駅へピストン輸送し終えたのは翌日
    夕方だった。 アクセルが収容出来るのは、700人が限度とみられる。 『平日
    だったのが幸運だった。 数千人の訪れる土日だったら、逃げ場がなく誘導も
    無理だった』。 メッセを管理するみやぎ産業交流センターの高橋一夫常務
    (63)は胸をなで下ろしつつ、こう指摘する。 『津波はいつか再び来る。水、
    食料を備蓄できる避難ビルを早く仙台港に造って欲しい』

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    東日本大震災から4年11カ月となった2016年2月11日、東京電力福島第1原発
    事故で全町避難が続く福島県大熊、双葉両町を上空から望んだ。

    廃炉作業が進む第1原発の原子炉建屋付近は大型クレーンが林立する。 かつて
    雑木林が広がっていた南側には、汚染水タンクが所狭しと並んでいた。

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    原発から3キロほど離れた双葉工業団地。 除染廃棄物の中間貯蔵施設建設に向け、
    県内から搬入された廃棄物の一時保管場がある。クレーンを使った積み上げ
    作業が行われていた。

    沿岸部に目を向けると、県警や消防が月命日に合わせ、行方不明者の一斉捜索に
    当たっていた。 一帯は帰還困難区域。一時帰宅は認められているが、住民の
    姿は確認できなかった。

    出典:河北新報

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