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    カテゴリ:東朝鮮日報 > アーカイブ

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    ◎日和幼稚園訴訟(下)悲劇の伝承

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    <現場で語り部に>
    東日本大震災の津波で子どもを亡くした私立日和幼稚園(宮城県石巻市、休園中)の
    遺族4人が9月30日、園の周辺で、修学旅行で訪れた香川県丸亀高の2年生約90人を
    案内した。

    園児を乗せた送迎バスが炎上した現場付近にたたずむ。 遺族にとって、つらい
    けれど大切な場所だ。 次女明日香ちゃん=当時(6)=を失った佐々木めぐみさん
    (36)が、わが子の遺体を見つけた際の様子を静かに振り返った。

    「体を触るとポロポロと崩れてしまい、抱きしめることができませんでした。
    もっと長生きしてほしかった。 皆さんは家に帰ったら『ただいま』と言って
    ください」

    耳を傾けていた丸亀高の生徒が手で涙を拭った。 小中学生のきょうだい2人が
    いる大麻悠香さん(17)は「胸が苦しくなったけれど、遺族の話を聞いて良かった」
    としみじみ思う。 「香川県は南海トラフ巨大地震の被害が想定されている。
    ちゃんと避難訓練をする必要があると痛感した」。 教訓を持ち帰り生かしたい
    という。



    遺族は訴訟の和解から5カ月後のことし5月、男鹿市の海岸へ足を運んだ。
    その地では1983年5月、日本海中部地震の津波で、遠足中の旧合川南小
    (北秋田市)の児童13人が犠牲になった。

    佐々木さんの夫純さん(36)が、初対面した日本海中部地震の遺族に自分の
    苦しみを重ねて尋ねた。 「32年間、どのようにして子どもたちの死と向き
    合ってきたのかが知りたい」

    小学4年だった長女=当時(9)=を失った福岡史恵さん(65)が答える。
    『ただいま』という言葉がないまま、32年前の姿のままに供養しています」。
    悲劇を語り継いでいくことが、風化の防止につながるとも助言した。

    <苦悩抱えながら>
    震災から間もなく4年9カ月。 早世した園児のきょうだいは、少しずつ成長
    している。 西城春音ちゃん=当時(6)=の仏壇がある石巻市の自宅の座敷で
    11月中旬、姉の楓音(かざね)さん(13)が震災後初めて、妹と一緒に遊んで
    いた形見のおもちゃを広げた。

    女児に人気のリカちゃんの家とシルバニアファミリー。 弟の靖汰君(7)、
    春汰ちゃん(2)が夢中になって遊んだ。 母江津子さん(40)は、何も
    言わず黙って見守っていた。 楓音さんの気持ちを想像してみる。

    「妹が亡くなり、一人でどうやって遊んでいいのか、分からなくなっていた
    と思う。 でも中学生になり、抱え切れなかった思いを少し抱えられるように
    なったのかもしれない」

    江津子さんも、愛するわが子を失った悲しみを抱えながら、命の大切さを
    伝えていくつもりだ。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>【津波訴訟和解1年】「心から」の思い見えず

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    ◎日和幼稚園訴訟(上)謝罪の意味
    東日本大震災の津波で園児5人が亡くなった宮城県石巻市の私立日和幼稚園
    (休園中)の訴訟で、園児4人の遺族側と園側が和解してから2015年12月3日で
    1年となる。 園側からいまだに直接的な謝罪はなく、遺族側は一層、苦悩を
    深める。 遺族らは園側に血の通った対話を求める一方、語り部として命の
    大切さを伝える。 和解後の遺族の日々を追った。

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    <拒否された手紙>
    長女愛梨ちゃん=当時(6)=を失った佐藤美香さん(40)の自宅に11月中旬、
    園側の関係者に出した手紙が返送されてきた。 未開封の封筒には、直筆の
    文字があった。 「受取拒否」 佐藤さんがしたためた手紙はA4判1枚。
    「園側が法的責任を認め、心からの謝罪をする」という訴訟の協議内容を胸に
    納め、和解を決心したいきさつを記した。 和解成立後、園側から連絡がなく、
    手紙を送らざるを得なかった心境もつづった。

    佐藤さんは感情を押し殺して語る。 「法的なしがらみはありません。
    園側には一人の人間として、私たちと向き合ってほしいだけです。 せめて、
    未来を奪われた愛梨たちに真実を伝え、心から謝ってほしい」

    2014年12月3日、仙台高裁。 津波犠牲者をめぐり、初の賠償命令が出た
    訴訟は提訴から3年4カ月で幕を閉じた。

    和解調書は「園側は被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する」との
    文言を明記する。 園側は「司法の勧告を厳粛に受け止め、幼くして失われた
    尊い命に思いを致し、冥福を祈る」との談話を出した。

    今年3月と夏、一部の遺族宅に花が郵送された。 差出人は園側の関係者。
    手紙や文書は添えられておらず、遺族は真意を測りかねた。



    <踏み出せぬまま>
    遺族は9月、文部科学省の学校事故対応に関する有識者会議のヒアリングに
    臨んだ。 次女春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)が
    研究者ら委10人に訴えた。

    「判決では園側の謝罪を得られないだろうと考えて和解を選んだ。 裁判の
    出口は出たけれど、そこから一歩を踏み出せずにいる」。 いまだに心の
    整理がつかない真情を吐露した。

    被告が原告の遺族に面会し、直接謝罪する。 日和幼稚園の遺族が対話の
    一歩として望むことが、震災関連の犠牲者をめぐる別の訴訟では実現した。
    その遺族は匿名を条件に胸の内を明かす。

    「訴訟で一番求めていたのは謝罪です。 亡くなった家族は帰ってこない
    けれど、位牌(いはい)の前で手を合わせ、頭を下げてもらったことには
    納得している。 人として最低限のことはしてもらいました」

    民事訴訟の和解に詳しい東北の元裁判官は「日和幼稚園のケースは気持ちの
    面で解決を望む遺族と、法的な問題を解決する裁判との間に大きな落差がある」
    と指摘する。

    「心からの謝罪」は目に見えない。 どうすれば、それがなされたといえるのか。
    元裁判官は「捉え方は難しい。 和解項目は任意であって強制執行はできない。
    園側が亡くなった園児や遺族とどう向き合うかが社会的、倫理的に問われている」
    と話す。

    [日和幼稚園訴訟]東日本大震災の津波で亡くなった園児4人の遺族が2011年8月、
    園側は安全配慮義務を怠ったとして、園側に損害賠償を求め仙台地裁に提訴。
    地裁は2013年9月、法的な責任を認め、園側に賠償を命令。 園側が仙台高裁に
    控訴し、訴審では園側が和解金計6,000万円を支払うことなどで和解した。
    訴えによると、園児を乗せた送迎バスは2011年3月11日午後3時ごろ、園のある
    高台から海側の低地に向けて出発。 約45分後に津波に巻き込まれ、提訴した
    遺族の子ども4人を含む園児5人が死亡した。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~
    >>津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

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    常磐山元自動車学校(宮城県山元町)に通う当時18~19歳の教習生25人らの
    命を奪った東日本大震災の大津波。 『わが子がなぜ』。 無念の思いを胸に
    学校を提訴して4年7カ月、教習生25人の遺族と学校との間で和解が成立した。

    『不十分な点はあるが、和解せざるを得ない』。 仙台市内で記者会見した
    遺族たちは、会見場に教習生の遺影を丁寧に並べた上で複雑な胸中を明かした。

    遺族の多くが望んだ学校経営者による『誠意ある謝罪』は、その文言が法廷で
    裁判長によって読み上げられただけだった。

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    長女悠さん=当時(18)=を亡くした高橋範雄さん(57)は『口頭での陳謝が
    実現しなかったのは非常に残念。 ただ、判決では謝罪自体を得られなかった
    だろう』と自らに言い聞かせるように語った。

    長男公紀さん=同=を失った岩沼市の佐野美智子さん(55)は『和解内容は
    学校の不備を指摘し、教習生に何ら落ち度がないことを認めてくれた。 ずっと
    求めていた答えが得られた』と声を震わせた。

    悲劇を繰り返さないため、事件の教訓化も切望した。 長男佳祐さん=当時(19)
    =が犠牲になり、遺族会代表を務めた福島県新地町の寺島浩文さん(53)は
    『子どもたちの死を無駄にしないでほしい』と言い続けてきた。

    和解を受け『家庭をはじめ企業、学校、公共施設の長は危機管理意識を持ち、
    防災に取り組むことを強く願う』との談話を出した。

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    東日本大震災で学校管理下の児童74人と教職員10人が犠牲となった宮城県
    石巻市立大川小学校の惨事を巡り、23人の児童の遺族19家族が市や県に国賠
    請求を求めた裁判は、2016年1月22日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で
    口頭弁論が開かれ、同校の当時の校長ら5人の証人尋問を4月中に行うことが
    決まった。

    引き渡し時に校庭の様子を目撃した保護者が証人として採用され、教職員で唯一、
    学校現場から生還したA教諭の証人申請については引き続き『留保』となり、
    5人の尋問の後、裁判所が採否を決める。

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    この裁判は、子どもたちの遺族が同校に津波が襲来するまでの約50分間、児童らが
    校庭に居続けたことについて、市側に詳細な経緯と原因を明らかにするよう求めて
    提訴したもの。 これまでの5年間、未だ明らかにされてこなかった事実を目撃者ら
    から得て、真相解明に近づくことができるか。 遺族は司法の場に期待している。



    今回、新たに原告側から証人申請され、採用が決まったのは、地震後、学校に
    当時小学6年の娘を迎えに行った保護者。 採用された5人の中でも、津波に
    襲われる直前に、校庭での児童引き渡しの現場に立ち立った唯一の目撃者だ。

    原告側の吉岡和弘弁護士(仙台弁護士会)によると、この保護者は、地元民放
    ラジオの津波情報を聞きながら学校に娘を引き取りに向かい、14時52分頃から
    15時10分頃まで校庭にいた。 この間、小学6年生の子どもたちが『山に逃げよう』
    と言って、教諭と口論している光景を目撃。 ふだんは泣かない娘が泣いている
    異常な状態を見て、『津波が来ますよ』と担任に伝えると、『お母さん、落ち
    着いてください』などと、たしなめられたという。

    また、娘を連れて帰る途中、学校とも深いつながりのあった地域住民が
    『津波が来る』と言って学校に駆けつけてきた場面にも遭遇したという。
    証人尋問は、2日に分けて行われる。

    1日目の尋問は、震災当時は別の学校にいたが、かつて同小の教頭時代に災害
    対応マニュアルの改訂などに携わり、震災後に指導主事として保護者や住民など
    からの聞き取り調査にも携わった現校長と、震災当時の校長の2人。

    2日目は、地震直後に広報車で2度にわたり大川小前を通った市役所の支所職員の
    他、前出の校庭の様子を目撃した保護者と、『山さ逃げよう』と主張したと
    される当時6年の男児の父親で原告団長の今野浩行さんの計3人が証言する。



    また、原告が申請していた、震災当時、同市内の中学教諭であり、小学6年の娘を
    亡くした遺族でもある母親の証人尋問については、採用されなかった。

    原告の遺族たちは、震災直後から『目の前に裏山があるのに、なぜ避難でき
    なかったのか?』『広報車の“河川に近づかないでください”という呼びかけを
    認識している筈なのに、なぜ避難先に選んだのが河川のすぐそば(堤防上の
    三角地帯)だったのか?』などの観点から、真実の解明を求め、これまで20人
    くらいから聴き取りをしてきた。

    現場で児童らと共にいて唯一生還した当時の教務主任だった男性教諭については、
    地裁は引き続き『留保』とした。 この教諭については、遺族たちから証人
    として採用するよう裁判所に対して強い要請が出されているものの、主治医が、
    体調や精神状態を悪化させると尋問に反対している。

    裁判所側は、他の証言を聞いた上で、さらに教務主任の証言が必要かを判断する
    方針だ。 一方、被告側の準備書面によれば、市は、当時、校庭から移動を始めた
    児童らに向かって、教頭が、『津波が来ていますので皆さん急いでください』と
    発言したことを、<『津波を目撃した』事実を裏付けるものではない>とし、
    教職員が津波を予見できていたとする原告側の主張に反論した。

    また県も、高知県でサッカーの試合中に落雷で亡くなった部活動事故の平成18年の
    最高裁判決や、平成27年の宮城県山元町立東保育所の高裁判決(上告中)を
    引き合いに出し、東日本大震災の特殊性を踏まえた上で予見可能性や予見義務の
    判断すべきとし、『学校の校庭から避難することを選択することが法的に義務
    づけられる程度の危険が迫っていることを予見するのは、尚のこと困難であった
    とみるべきである』と主張した。

    今後、A教諭の証人申請が採用されない場合は、6月頃に結審し、夏頃をめどに
    判決が下される見込みだ。

    出典:Haffpost

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    宮城県石巻市は2016年4月14日、東日本大震災の犠牲者とみられる身元不明の
    遺骨が入った34の骨箱を、石巻霊園(同市大瓜)のコンテナ仮安置所から3月に
    新設した近くの石巻第2霊園の納骨堂へ移した。

    仮安置所と納骨堂の双方で法要があり、市職員や僧侶、葬祭業者ら約40人が出席。
    参列者は僧侶の読経が響く中で焼香し、犠牲者の冥福を祈り手を合わせた。

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    仮安置所は2011年12月に設置された。 隣接するプレハブに慰霊スペースを設け、
    行方不明者の家族らが供養に訪れた。 プレハブは今後も残し、納骨堂脇にも
    焼香台を設置した。

    一方、市内では南浜地区に整備する復興祈念公園への納骨を望む声もある。
    17カ寺でつくる石巻仏教会は14日、市役所で記者会見し、桂田文隆会長が
    「多くの人が訪れて心を寄せる場所に安置するべきだ」と署名活動に協力を
    呼び掛けた。

    亀山紘市長は「丁寧に安置することが犠牲者への務めだと思う。 祈念公園へと
    いう意見も真摯(しんし)に受け止め検討したい」と話した。

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市の大川、門脇両小の校舎について、
    亀山紘市長が2016年3月26日、保存することを正式表明した。 記者会見での
    主なやりとりは次の通り。

    ◎遺族への配慮 在り方探る 出典:河北新報

    -保存を決めた理由は。
    -『最大被災地の石巻市で、大災害の教訓を伝えていくことが重要。 命が
    奪われたことが一番の教訓。 大川小は児童と教職員計84人が犠牲となった。
    悲しみを伴う事実を伝えるためにも校舎を残す意義はある。 門脇小は津波と
    火災の痕跡があり、校舎にいた人は裏山の日和山に逃げて助かった』

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    『実際に被害を受けた建物を見るのと、映像を見るのとでは伝わり方が違う。
    保存の期限は決めていない。 できるだけ長期にわたり伝承していくことが
    必要だ。 語り部をしている遺族らの協力も受け、防災・減災の取り組みを
    していきたい』

    -もっと議論すべきではなかったかとの声がある。 『民主的にさまざまな
    -『意見を聞き、結論に至った。 保存、解体の両論が拮抗しているのは間違い
    ないが、震災から5年を迎えた今、先送りせず保存を決めるべきだと考えた。
    解体を望む遺族らのつらい思いに配慮した保存の在り方を検討していく』

    -仮に亀山市長が交代した場合、後任に両校舎をどうつないでいくのか。
    -『住民らとの話し合いを今後進める中で両校舎の具体的な残し方について合意
    していけば、首長が代わったとしても重要な遺構として伝わっていき、保存
    方針が変更されることはないと思っている』

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布
    される『仮設きずな新聞』が終刊となった。震災から5年が過ぎ、資金や
    担い手が不足し、継続が難しくなったという。 被災者から感謝と惜しむ
    声が相次ぎ、新聞制作や配布を支えてきたボランティアらが新たな情報紙の
    発行を検討している。
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    被災者支援に取り組む団体『ピースボート災害ボランティアセンター』が
    2011年10月に創刊。 A4判4ページで、約5,500部を市内133カ所の
    仮設団地で配ってきた。

    終刊について、編集長の岩元暁子さん(33)は『助成金などの支援が年々減り、
    資金難と担い手不足が主な要因』と説明する。

    岩元さん自身も結婚し、東京の夫とは別居状態が続く。 『歳月を経て支援者側の
    生活環境も変わった。 仮設住宅の解消まで頑張るかどうか悩んだが、どこかで
    区切りが必要』と話す。

    きずな新聞には住民の活動や地域の催し、健康に関する話題など暮らしに役立つ
    情報を掲載。 ボランティアや地域住民が一軒一軒を訪ね、直接手渡す
    『見守り活動』が好評だった。

    岩元さんは14日、最終号の第113号を手に石巻市鹿又の役場前団地を訪れ、住民に
    終刊を説明。最終号を配りながら、近況などを聞いて回った。

    平塚好夫さん(70)は同市門脇にあった自宅が津波で流失。 2011年10月から、
    同団地で妻と暮らす。 『本当にありがたかった。毎回楽しみだっただけに、
    終わるのは寂しい』と話す。

    きずな新聞は他の支援団体にも浸透し、新聞作りに協力する人もいた。 そうした
    メンバーからも惜しむ声が上がる。 岩元さんは『きずな新聞は終刊となるけれど、
    発行頻度を減らすなどして別の形の新聞を協力者たちと作りたい』。 夏ごろの
    発行を目指し、新媒体の準備を進めている。

    出典:河北新報

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    東日本大震災の津波で犠牲となった家族の勤務先や行政を相手取った
    5件の津波裁判の原告遺族らが2016年3月5日、仙台市に集まり、震災の教訓を
    語り合うフォーラムを開いた。 そろって公開の場で討論するのは初めてで、
    『企業や組織は人命を最優先に行動してほしい』などと組織防災の必要性を
    訴えた。

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    フォーラムは七十七銀行女川支店(宮城県女川町)訴訟=最高裁で敗訴確定=の
    原告の呼び掛けで実現した。 行員だった長男健太さん(当時25歳)を亡くした
    田村孝行さん(55)は『連携して大切な命について語り続け、有事が起きた際の
    企業や組織の仕組みづくりを訴えていきたい』と話した。

    同県山元町立東保育所で長男将宏君(当時6歳)を亡くした鈴木あけみさん
    (50)は提訴した理由を『お金のためではなく、町に謝罪して本当のことを
    語ってほしかったから。 最高裁で門前払いになったが、上告せずに後悔する
    よりは良かった』と説明。 同県石巻市の日和(ひより)幼稚園訴訟で和解に
    応じた西城靖之(やすし)さん(47)は『絞り込まれた争点だけ争う裁判の
    仕組みに限界を感じた。 どうしたら子どもの命を守れるかを模索しながら、
    国や自治体に働きかけていきたい』と語った。

    係争中の石巻市立大川小学校訴訟、常磐山元自動車学校(山元町)訴訟の原告
    遺族も参加した。

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    宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高(生徒344人)は、東日本大震災の津波で校舎が
    大きな被害を受けた。 現在、産業経済科は気仙沼西高(気仙沼市)、情報海洋科は
    本吉響高(同)、機械技術科は米谷工高(宮城県登米市)に分かれて授業を受ける。
    校舎分散によって通学に長時間かかったり、部活動のために学校を移動したり、生徒は
    不自由な学校生活を余儀なくされている。

    学校で何が 生徒3カ所に分散(宮城・気仙沼向洋高)
    出典:河北新報

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    まだ人影もまばらな午前6時過ぎ。 気仙沼市唐桑町の福祉施設前の停留場で、梶原
    初城君(15)は眠そうな表情でスクールバスに乗り込んだ。

    気仙沼向洋高の機械技術科1年。 毎朝午前5時に起床し、自宅から50キロ以上離れた
    米谷工高に、スクールバスで通っている。

    父母と祖母、妹の5人暮らし。 『早く手に職を付けたい』と、実業高の向洋高を志望した。
    将来は自動車関係の工場で働くのが夢だ。

    しかし、希望に包まれるはずの高校生活は、入学式前につまずいた。 学校は震災で
    津波をかぶり、校舎は全壊。 授業開始は2011年5月上旬まで遅れた。

    さらに、向洋高が科ごとに分散したため、通学先は同校から20キロ以上離れた米谷
    工高に代わった。 向洋高であれば1時間程度だった通学時間は、倍の2時間になった。

    午前8時、スクールバスは米谷工高に到着した。 梶原君は『バスに2時間も揺られると
    正直疲れる。 少しずつ慣れてきたとはいえ、やはり学校は近くにある方がいい』と
    つぶやいた。

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    学校分散は、部活動にも影を落としている。
    午後5時の気仙沼西高グラウンド。 向洋高ラグビー部の生徒ら約30人がパスの練習を
    始めた。 米谷工高や本吉響高で授業を受けた後、部活動のために、バスで駆け付ける
    部員を待ってスタートする。 震災前より1時間半も遅い始動だ。

    昨年の県大会で4強に勝ち進んだ強豪だが、ことしの練習量は少なめ。 西高の生徒も
    練習しているため、グラウンドを広々と使うわけにもいかない。

    週5日実施していた平日の全体練習は、週3日に減らした。 練習後に車で迎えに来る
    保護者の負担を減らすための措置だ。 残る2日は、各自が筋力トレーニングを行う
    ように指導している。

    顧問の舩引裕介教諭は言う。 『保護者に毎日車で迎えに来てもらうわけにはいかない。
    こちらは間借りしている立場なので、限られた時間とスペースで効果的な練習を心掛けて
    いる』

    学校は3つに分かれても、生徒たちの思いは1つだ。 生徒会執行部が6月、今年の
    体育祭について、各校で参加するか、向洋だけで実施するかをアンケートしたところ、
    後者が89%に達した。

    生徒からは『一つの高校なので、向洋だけで思い出をつくりたい』『今はバラバラに
    なっているけれど、みんなそろってやりたい』などの声が相次いで寄せられた。

    武田元彦教頭は『各校に分かれても、向洋を思う生徒の思いはひしひしと感じる。 文化祭を
    含め、一つにまとまるイベントを何とかして成功させたい』と語る。

    11月、向洋高は気仙沼高(気仙沼市)の第2グラウンドに2階建ての仮設校舎を建設し、
    再出発する。 分散した三つの科は1カ所に集まり、再び元の形に戻る。

    学校分散に区切りがつくことが、梶原君の当面の夢だ。

    『産業経済科にも情報海洋科にも友だちはたくさんいる。 いつでも自由に会えるように
    なるよう、早く校舎が完成して欲しい』

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    東日本大震災の被災地では、校庭に仮設住宅が立ち並ぶ学校がある。
    震災の発生から4カ月が過ぎた今も、体育館で被災者が避難生活を送る
    学校もある。 子どもたちが思う存分、体を動かせない状況だ。

    津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の小中学校では、限られた
    スペースと時間の中で、やりくりを強いられている。

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    学校で何が 半分の校庭(宮城・南三陸町)
    出展:河北新報 2011年7月13日

    市街地が津波の被害を受ける中、高台にあって難を逃れた歌津中(生徒136人)。

    午後4時すぎ、校庭で部活動が始まった。 校庭の約半分は37戸の
    仮設住宅で占められている。 残った縦60メートル、横80メートルほどで
    野球部とサッカー部の計30人ほどが練習する。 キャッチボールやノックを
    する野球部員のすぐ隣で、サッカー部員がドリブルを繰り返す。 「ノックも
    加減しなければならない」。 野球部監督の長野孝志教諭(25)は漏らす。

    仮設住宅と校庭の境目には防護ネットが張られたが、打撃練習はミート中心
    になる。 3年の後藤寛飛君(14)は「思い切ってスイングしたい」と言う。
    歌津中は校庭の半分だけでなく、体育館も使用できない状態だ。 避難所として
    使われ、24人が身を寄せる。

    屋内競技のバレーボール部や剣道部などは、隣接する伊里前小(児童139人)の
    体育館や多目的ホールを借りて練習する。 「コートがあるので、試合形式の
    練習ができる」。 バスケットボール部監督の小野寺孝夫教諭(50)は
    感謝する。

    校舎と校庭の間の舗装路も貴重な練習スペースだ。 小学校のリングが
    ミニバスケット仕様で低いため、ボランティア有志が資金を募って提供して
    くれたリング2基が設置されている。

    ランニングの場所でもあるが、練習が時折、中断される。 「はい、後ろから
    車が来たよ」。 仮設住宅や避難所の住民の車が舗装路を通行する。 伊里前小
    では、被災で校舎が使えなくなった名足小の児童74人が、間借りして授業を
    受けている。校庭は、やはり仮設住宅が建ち、従来の約半分の広さになった。

    時間も制約されている。 「鉄棒とか、みんなともっと一緒に遊んでいたいな」。
    午後3時すぎ、帰りの会を終えた伊里前小4年の及川萌さん(10)はバスに
    乗り込むと、物足りなさげに、見送りの先生に手を振った。

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    本来、夏場の最終下校時刻は午後4時半。 今は安全面を考慮し、スクール
    バスで午後3時半には一斉下校する。 伊里前小、名足小とも、児童が校庭で
    遊ぶ時間は少なくなった。

    伊里前小の兵藤文隆校長(57)は「帰宅してもがれきで広場は使えない。
    子どもの運動量は間違いなく減っている」と懸念する。

    歌津中の生徒も状況は同じだ。 「はい、じゃあ今からシュート練習」。
    バスケットボール部の部員が舗装路で走り込みを終え、ボールを持ち出して
    間もなくの午後6時前。 下校のスクールバスが滑り込んで来た。
    「えっ早いよ」「シュート練習、もうちょっとしたい」

    部活は終了。 生徒たちはジャージー姿のまま、慌ただしくバスに乗り込んだ。
    仮設住宅の建設が進めば、体育館は避難所の役割を終え、使用が可能になる。
    一方で仮設住宅の入居期間は原則2年。 子どもたちの不自由な学校生活は続く。

    伊里前小の兵藤校長は「体を動かすことで、つらい現実をひとときでも忘れ
    られる。 ストレスも発散できる。 工夫をして運動の機会を増やしていきたい」
    と語る。

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    東日本大震災で校舎が被災した岩手県大槌町大槌小(児童205人)と岩手県
    山田町船越小(児童159人)は、山田町にある県の研修施設
    『陸中海岸青少年の家』を一緒に間借りしている。 自治体が異なる2校の
    『寄り合い所帯』は、不慣れな施設で可能な限りの教育機能を果たそうと
    している。 『授業に支障が出ないように』。 さまざまな制約の中、
    教職員らは施設利用の調整に苦心を重ねている。

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    学校で何が 寄り合い所帯(岩手・山田町の船越小と大槌町の大槌小)
    出典:河北新報 2011年7月9日

    朝の登校時間、2校の児童を乗せた9台の通学バスが、続々と青少年の家に
    到着する。 2011年7月5日はボランティアの男性が扮するピエロが、皿回しを
    披露して出迎えた。 児童は大喜びでピエロに『おはよう』とあいさつし
    『校舎』に入った。

    『今日は朝から元気いっぱいね』。 大槌小の小野寺美恵子校長(58)は笑みを
    浮かべた。 震災前と環境はがらりと変わったが、子どもたちの元気な姿が
    学校に徐々に戻ってきている。 2校は校舎が震災の被害に遭い、使用不能に
    なった。 それぞれ他校を間借りすることも考えたが、受け入れ人数に限りが
    あった。

    山田、大槌の両町教委ともに『児童を離れ離れにしたくない』と、一校
    丸ごと入れる施設を探した。 たどり着いたのが、大槌小から直線で約7キロ、
    船越小からは約4キロ離れた青少年の家だった。

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    異例の学校生活は4月下旬に始まった。 2校は青少年の家の体育館や研修室を
    間借りしている。 高さ約2メートルの板材の間仕切りや段ボールを使い、2校の
    計12学級の教室と職員室のスペースを設けた。

    震災前のそれぞれの学校と比べると、不自由さは否めない。 間仕切りが
    あっても隣のクラスの声が聞こえ、気になることも多い。 顕微鏡などの
    器具がそろわず、理科の実験も満足に出来ない。 体育はグラウンドで行うが、
    プールはない。 雨の日は体育館を使いたいところだが、既に職員室や教室に
    転用されてしまっている。

    子どもたちが落ち着きを取り戻せるように、授業を最優先させたため、船越小は
    5月に開催予定の運動会を10月に、大槌小は修学旅行や遠足を2学期に延期した。
    『制約は覚悟していた。 それでも工夫し、できる範囲で取り組んでいる』。
    船越小の佐々木道雄校長(54)は説明する。

    ある学級の音楽の時間には、隣の学級は外で体育の授業。 グラウンドの使用が
    重なる時は片方に広く割り当て、もう一方は狭い方を使い、次の機会に入れ
    替える。 演奏家や著名人の慰問がある時は、互いに参加を呼び掛けるなど
    交流も図った。 『できないこともあるが、この場所だからできることもある』。

    2校の校長は口をそろえる。 そんな教育現場の『寄り合い所帯』も今月下旬に
    始まる夏休みが明けると、解消される。 大槌小が、大槌町寺野地区に9月に
    完成する見込みの仮設校舎へ、被災した同町の小中学校計4校とともに移る
    からだ。

    町教委の鎌田精造学務課長(50)は『児童や教職員の負担を軽くする意味でも、
    一日も早く町内で学校生活を送らせてあげたい』と言う。 残る船越小は
    大槌小の移転で、体育館や研修室を広く使えるようになるが、青少年の家での
    間借りは少なくとも2012年度まで続く見通しだ。

    山田町教委の甲斐谷義昭教育次長(56)は『仮設ではなく、本校舎の新築を
    考えている。 少しでも早く建てたい』と強調する。

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    仙台市泉区の南光台小は東日本大震災で校舎が大きな被害を受け、全面的に
    使用出来なくなった。 近隣に児童772人を収容出来るような施設はなく、
    子どもたちは3カ所に分かれて学校生活を送る。 学校はボランティアや
    地域の人たち、保護者らの協力を得ながら、教育環境を少しでも整えようと
    工夫を凝らす。

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    学校で何が 分散授業(仙台・南光台小)
    出典:河北新報 2011年7月7日

    南光台小は地震で、校舎と体育館の壁や柱に亀裂が入り、校庭も地割れした。
    1週間後の応急危険度診断では『危険』の判定を受けた。 1年生4学級は入学以来、
    学校に隣接する南光台コミュニティ・センター多目的室で授業を受ける。
    段ボールで四つに仕切った空間が『教室』だ。 他の学級の声や音が漏れ、
    先生の声が聞きにくかったり、児童の集中力を妨げたりもする。

    『こうするときれいに貼れるね』。 2011年7月4日、1年4組の図工の授業で、
    宮城学院女子大4年の柳内亜希子さん(22)がテープやはさみの使い方を
    子どもたちに教えた。

    柳内さんは同大の災害復興ボランティア。 大学側が協力を申し出て支援に
    当たっている。 落ち着かない状況の中で、学習につまずかないようにする
    のが役目だ。 先生の声が児童に届いているかどうかを確認し、学習を手助け
    する。

    1年生の学年主任の五十嵐深和子教諭(53)は『普通の学校で出来ることは、
    ここでもする。 不自由さの克服を、子どもの自信につなげたい』と強調する。
    新学期は市内の他の小学校より4日遅い4月15日に始まった。 当初は近くの
    学校や公共施設4カ所に分散。 5月23日からは1年生がコミュニティ・センター、
    2~4年生が南光台中、5、6年が八乙女中に間借りしている。

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    教員は、原則として担任する学年が利用する施設に通勤する。 全員がそろう
    のは週2回の打ち合わせの時だけ。 飯塚巌校長と教頭、養護教諭が1日2回以上、
    3カ所を巡回し、配布物を届けるとともに、子どもたちの様子の把握に努める。

    授業とともに、学校行事でも苦労する。 新学期が始まってから全校児童が一堂に
    会したのは、5月21日の運動会しかない。 学校には久々に児童の歓声が戻ったが、
    校庭の補修が終わったのは運動会の3日前だった。 玉入れ、綱引きなど事前練習の
    要らない種目が中心となった。

    4月23日の授業参観では、保護者に負担がかかった。 きょうだいが通う家庭では、
    授業中に離れた施設の間を移動せざるを得なかった。 6年生の息子と3年生の娘の
    母親(39)は『南光台中から八乙女中への移動で10分かかり、最後の5分しか
    見られなかった』と言う。 学校はこのため、7月中旬の授業参観は、施設ごとに
    実施日をずらすことを決めた。

    子どもたちの環境を良くしようと、懸命の努力が続く。 学校は校舎の図書室から
    持ち出した数十冊を段ボール箱に並べ、各施設の教室の近くに置いた。 教員が
    定期的に本を入れ替える。

    離れた施設に通う児童の安全を確保するため、登下校の時間には、地域の人たちが
    通学路に立って子どもたちを見守り、学年を確認しながら誘導に当たっている。
    分散しての授業は、校庭にプレハブ校舎が完成する11月まで続く見通しだ。
    損壊した校舎について、地域住民や保護者らは建て替えを要望しているが、学校に
    よると、補修か建て替えかの結論は出ていないという。

    飯塚校長は『児童を含め、多くの協力があって学校生活が送れている』と感謝し
    つつ、『早く全学年がそろって授業をしたい』と本来の姿に戻ることを待ち望む。

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