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    カテゴリ:南北アメリカ > ブラジル

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    浅草で8月の最終土曜日に開催されているサンバカーニバル。 本年度は、2015年
    8月29日(土)に小雨の中での開催となったが、途中からは雨も止み、約47万人の
    見物客で賑わった。 サンバによるパレード、並びに、コンテストを兼ねており、
    日本最大のサンバカーニバルのコンテストとしても知られている。 馬道通り~
    雷門通りまでの浅草の公道を使用して開催されるため、道の両脇は、かなりの
    観光客で溢れかえる。



    浅草は、かつては映画館や演芸など娯楽の一大中心地として名を馳せたが、
    昭和30~40年代には既に街の活気が下火になりつつあった。 これを案じた当時の
    台東区長と浅草喜劇出身俳優の伴淳三郎の発案により、1981年に初めて実施
    されたと言われている。

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    開催当初は、本格的なサンバチームの参加は少なかったものの、近年では、その
    レベルもかなり上がり、本場さながらのチームから、サンバとは余り関係がない
    チームまで、様々なチームが混在している。  サンバと言うと、露出度の高い
    衣装を思い起こしがちだが、実際は、そのような参加者は、極一部に限られており、
    サンバと言うよりも、パレードに近いお祭りとなっている。

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    2015年7月18日~19日に開催された、第10回ブラジルフェスタ2015。 毎年、
    在日ブラジル商業会議所(CCBJ)が主催し、関東近郊(群馬・栃木・茨城・埼玉・
    神奈川)に住んでいる在日ブラジル人達が集まる一大イベントとなっており、
    参加人数が順調に増えていたが、ここ数年は、在日ブラジル人の数がかなり
    減ったため、今年は、去年と比較すると、人出が少なかった。

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    ■ブラジル豆知識

    【サンバ】
    サンバは、4分の2拍子のダンス音楽で、19世紀の終わり頃、ブラジル北東部の港町、
    サルバドールで発祥したとの説が有力となっており、当時は、奴隷貿易によってアフリカから
    沢山の黒人がブラジルへと連れて来られた。 その後、リオ・デ・ジャネイロにおいて、
    アフリカ系黒人の奴隷労働者たちが持ち込んだ、Batucada等の音楽を元に、ショーロや
    ルンドゥー等の要素が取り込まれて成立し、ブラジルを代表する音楽ジャンルとなった。

    【シュラスコ】
    鉄串に牛肉や豚肉、鶏肉を刺し通し、荒塩をふって炭火でじっくり焼く、ブラジルをはじめ
    とする南アメリカの肉料理。 牛肉を中心とした様々な部位を串刺しし、男性ウエイターが
    串ごと客席に運び、目の前で食べたい量を切り分けるという供し方が特徴。 ウエイターが
    持って来る串は肉類だけではなく、エビやパイナップル、焼きバナナ等もある。
    パイナップルは酵素が肉類の消化に良いとされており、理に叶っていると言える。



    【カポエイラ】
    陽気なラテンのリズムに乗せて、格闘技と音楽、ダンスの要素が合わさった
    カポエイラは、2014年11月にユネスコによって無形文化遺産に登録された。
    元々は、奴隷が練習用として踊っていたものが、いつしか変化して、このような
    形になった。

    【カイピリーニャ】
    ポルトガル語で、“田舎の娘さん” という意味。 材料のピンガは、ブラジル産のスピリッツで、
    さとうきびの絞り 汁をそのまま発酵、蒸溜させて作られるため、口当たりがやや重たい感じ。

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    【ルイーザ・ポッシ】

    ルイーザ・ポッシは10代の頃から近所や学校の仲間とバンドを組み音楽フェス等で歌う
    ようになった。 それから10数年を経て、これまでにCD10枚とDVD2枚をリリースして
    いる。 代表曲の“Me Faz Bem”や“Tudo Certo”の他、テレビドラマで使われた
    “Somewhere Over The Rainbow”(ドラマ‘Chocolate com Pimenta’挿入歌)や
    “Eu Sou Assim”(‘Mulheres Apaixonadas’)等もヒット。
     
    ファーストシングル“Eu Espero”は、ブラジル国内のラジオで人気を呼び、ミュージック
    ビデオはMTVの番組MTV Musicで3位になった。 また、レコードテレビの音楽番組
    Ídolosでは、審査員を務め、テレビグローボのThe Voiceでは歌手ダニエルのアシス
    タントとして出演。 これまでにMultishow新人賞、Super Cap de Ouroの最優秀女性
    歌手賞などを受賞している。

    現在は7枚目のアルバム“Sobre Amor e o Tempo”のツアーを行っている他、You Tube
    の公式チャンネルLAB LPで公開するミュージックビデオを制作中。 テレビでは
    GLOBOの情報番組Encontroにもレギュラー出演しており、ドラマ Sete Vidasでは、
    “Pra Te Lembrar”が挿入歌としてオンエア中。

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    日本が長い鎖国の眠りから解き放たれ、海外渡航禁止令が解かれたのは1866年。
    これは、大政奉還が行われる前年に、御免の印章と呼ばれる、現在のパスポートが
    初めて発行されたのが、その始まり。 それ以降、100年以上にも渡り、日本人は、
    海外へと移民をしていた。 ハワイ王国のサトウキビ畑で働く労働者として、1885年
    から10年間で、約2万9千人の日本人がハワイへと渡った。 これを官約移民と呼ぶ。

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    その後、ハワイ王国が、アメリカ合衆国の一部となると、ハワイからアメリカ本土、
    並びに、日本からアメリカ本土、カナダへの移民が増えて行った。 しかし、当時の
    アメリカには、日本人移民を受け入れない動きが強くなっていたため、1899年には
    ペルー、1908年にはブラジルへの移民が始まった。
     
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    ブラジルに渡った日本人は、主にコーヒー農場の労働者として働いた。 当初は、
    海外で働いてお金を貯め、日本に戻る事を考えていた人が殆どであったが、次第に
    移住した国に定住する人が多くなった。 そして、1924年にアメリカで日本人の
    入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移って行った。 その結果、
    第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人の日本人が海外へ移住
    している。

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    第二次世界大戦が起こると、アメリカやカナダでは、日本人とその子孫である日系人は、
    敵とみなされた。 そのため、多くの人たちが土地や家を奪われたり、強制収容所へ
    入れられたりした。 南米でも、住む場所が規制されたり、日本人が経営する店が
    壊されたり、日本人学校が閉鎖されたりと、日本人移住者たちは、それまでと同じ
    暮らしが出来なくなった。

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    戦争が終った後も、北米や南米では、日系人に対する偏見や差別がなくならなかったが、
    そのような状況でも、日系人は、日本に救援物資を送る運動を起こし、毛布や粉ミルク等
    沢山の生活物資を日本へと送った。 これらの品々は、『LARA物資』と呼ばれ、日本人の
    6人に1人がその恩恵を受けた。

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    戦後、日本人の移民が再開すると、多くの日本人が南米へと渡って行った。 しかし、
    1960年以降は、その数も次第に減って行った。 そして、1993年には、国の方針として、
    移住者を海外へ送る事が中止された。 
     
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    ここ十数年、かつて日本人が移住した国々、特に南米から、日系人とその家族を合わせて
    約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日している。 こうした経緯から、日本人の
    海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く理解を深める事を
    目的として、JICA横浜に海外移住資料館が開設される事となった。



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