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    カテゴリ:南北アメリカ > ブラジル

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    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

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    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

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    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や殖民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が暮らしていた。 北にはアラワク族とカリブ族が、東にはトゥピー・
    グアラニー族がおり、南にはジェー族、西にはパーノ族が住んでいた。 人々は
    豊かな森林で狩りを行い、海辺や川で漁をして暮らしていた。 亜熱帯地方の
    人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、キャッサバ芋を
    栽培していた。

    集落もあり、かやぶき屋根の小さな長屋が集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、
    一家族だけではなかった。 これらブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも
    言われる。 彼らは、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。
    彼らは、工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からかごや壷や装飾品を作っていた。

    【カブラルによるブラジルの発見】
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    【ブラジルの発見と初期の殖民】
    一方、ヨーロッパでは、15世紀に航海と探検の時代が始まった。 航海者たちは、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を探す
    冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民たちは、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人から
    インディオ(スペイン語・ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。 コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルと
    スペインの間に、新しい領土の獲得競争が始まった。

    この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に防ぐため、1493年、法王
    アレクサンディル6世は、ヴェルデ岬諸島の西およそ560キロの大西洋上に南北に
    通る想像上の線を引き、両国の領土境界線とした。 この線から西の全ての
    新しい領土はスペインに、東はポルトガルに帰属することになった。

    両国はこの取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが不満を持ち、境界線を
    1500キロほど西に移すように主張した。 この第二の境界線は、1494年に
    スペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。 この境界線は、
    ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが主権を主張する
    根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督ペドロ・
    アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由してインドに
    行く途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、今の
    バイア州の海岸だった。 彼らは、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は土地譲渡の制度を創設し、領土を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部ではオリンダ
    (レシフェの近く)や、サルヴァドールに、もっと南では、サンヴィセンテ
    (今のサントス付近)に、立派な植民地が誕生した。 1548年、カピタニーアは
    統一され、国王が任命する総督の支配を受けることになり、サルヴァドールが
    首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期、ブラジル北東部を武力で占領し、ポルトガルの
    統治は途絶えた。 1630年、オランダはペルナンブコとオリンダを占領し、
    マラニュン島からサンフランシスコ川下流の流域までの一帯を支配した。 しかし、
    1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、支配権を奪い返した。
    オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いたのは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビのプランテーションを
    作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産するプランテーション農業は、
    多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民のインディオを奴隷とした。
    沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気で死んだり、反抗して殺され
    たりした。 このために、インディオに代わる労働力が必要となり、植民者達は、
    アフリカからおびただしい数の黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、サルヴァドールと
    レシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの都市は、アフリカに
    近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

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    ブラジル連邦共和国の面積は、851万2000平方キロメートルで、これは、
    ロシア、カナダ、中国、アメリカに次いで世界5番目の大きさで、日本の国土
    面積のおよそ23倍ある。

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    【ブラジルの国境】
    ブラジルは、南アメリカ大陸のほぼ半分を占めている。 ブラジルの北端は、
    ブラジル領ギアナ高地とアマゾン盆地から成り、これらの人口希薄な地域は、
    フランス領ギアナ(植民地)、スリナム(旧オランダ領)、ガイアナ
    (旧イギリス領)、および、ベネズエラと国境を接している。 西は、
    道さえないアマゾンのジャングルがコロンビア、ペルー、ボリビアとの
    国境となっている。 南、および、南西に向かっては、平坦で肥沃な農地と
    牧草地があり、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイと国境を接している。
    南アメリカの国々で、ブラジルと国境を接していないのは、エクアドルと
    チリだけである。

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    【ブラジルの主な都市】
    ブラジルには人口100万人以上の都市が沢山あり、それらの都市は、主に
    ブラジルの南半分にある。 サンパウロには、1500万人が住んでいる。
    リオデジャネイロの人口は900万人だが、これはロサンゼルスや横浜の人口の
    およそ3倍である。 ポルトアレグレの人口は220万人となっており、名古屋市の
    人口よりも僅かに多い。

    この他の大都市としとしては、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテが
    人口250万人、パナマ州の州都クリチバが人口150万人、サンパウロ州の州都
    サントスが人口40万人となっている。

    ブラジルの中心部に位置するブラジリアは、1960年代に新しい首都となり、
    今では、人口45万人の都市に成長した。 ブラジリアには目立った産業はなく、
    大半の人が政府機関で働いている。

    ブラジル北東部の大都市は、海岸沿いにあり、これらの都市は、港として、
    州都として、経済、文化の中心としての役割を果たしている。 主な都市と
    しては、人口240万人のレシフェ、人口180万人のサルヴァドール、人口160万人の
    フォルタレーザがある。 アマゾンの主要都市は、人口100万人のベレンと
    人口65万人のマナウスがあり、共に港町となっている。

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    2017年7月15日(土)16日(日)の2日間に渡り、東京都代々木公園で
    在日ブラジル商工会議所(CCBJ)主催による第12回ブラジルフェスティバルが
    開催されたため、早速行って参りました。 基本的に毎年参加しておりますが、
    去年は新潟に長期滞在していたため、残念ながら不参加、2年ぶりのブラジル
    フェスティバルとなります♪

    【エルバ・ハマーリョ】



    このフェスティバルでは、ブラジル料理や物品の紹介、ステージでは、ブラジルに
    関連するイベントと、ブラジルと日本との国際交流を目的として毎年7月に開催
    されています。 土日の2日間に渡り、野外舞台では、ブラジルと日本の多くの
    アーティストが、サンバ、アシェ―、セルタネージョ、パーカッション、
    ガフィエイラ、ロック、ショリーニョジャズ、ラップ等の様々な音楽
    パフォーマンスで聴衆を盛り上げたが、今年はメインゲストとして、ブラジルから
    大物歌手のエルバ・ハマーリョが出演した。 30年以上に渡り、第一線で活躍を
    続けるエルバは、バイオン、フォホー、マラカトゥ、MPBなどブラジルの様々な
    音楽をレパートリーとしており、ブラジルで非常に高い評価を得ている。

    出店者は、東京、群馬、大阪、愛知、神奈川から参加しており、会場では50以上の
    屋台が出店し、食べ物ではシュラスコ(焼肉)、フェイジョアーダ(豆煮込み)、
    パステウ(ブラジル風揚げ餃子)、ムケッカ(魚煮込み)、タピオカ、飲み物は
    ブラジルのお酒を使ったカイピリーニャ、バチーダ(カクテル)などが楽しめる。
    その他、物品販売のエリアでは、ブラジルファッション、アクセサリー、土産物
    などの他、海外送金、ブラジル向け引越・輸送などのサービスも紹介している。

    【ブラジル・フェスティバル】
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    【在日ブラジル人】

    2015年6月現在、日本に中長期滞在しているブラジル人の数は17万3038人
    (194国中4位)となっており、そのうち、永住しているブラジル人やその家族は
    11万2157人(4位)で、それ以外のブラジル人が6万881人となっている。 この他に
    90日以下の短期滞在や外交官が1292人居る。 尚、ブラジルは国籍離脱を認めて
    いないため、日本に帰化しても二重国籍の在外ブラジル人になるだけだが、
    日本政府の外国人統計には入らなくなる。

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    ブラジル下院本会議は2016年4月17日、ルセフ大統領に対する弾劾決議案を
    賛成多数で採択した。 審議は上院に移る。 上院の野党勢力は下院より強く、
    上院本会議での採択を経て、弾劾裁判が開かれる可能性が高い。 左派労働党
    政権は4期目で窮地に追い込まれた。

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    投票結果は賛成367、反対137、棄権7、欠席2。 賛成票は、採択に必要な定数
    513の3分の2(342)を超えた。

    報道によると、上院(定数81)で弾劾裁判を開くか否かの採決が5月上旬にある。
    ここで過半数41人が賛成すれば、大統領は職務を180日間停止される。 この
    期間中に始まる弾劾裁判で、定数の3分の2に当たる54人が賛成すれば、大統領は
    失職する。

    4月16日現在、上院議員で弾劾に賛成を表明しているのは47人。 反対表明は19人。
    既にルセフ大統領の職務停止は避けられない情勢だ。

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    職務停止中はテメル副大統領が暫定大統領に就く。 弾劾が成立した場合も
    ルセフ氏の残り任期である2018年末までテメル氏が大統領職に留まる。 決議案は、
    ルセフ政権が財政赤字を隠し、貧困層への生活保護費や失業保険などを満額給付
    するため不足分を国営銀行に違法に肩代わりさせたとして、大統領を8年間、公職
    追放するよう求めている。

    ルセフ氏は、肩代わりは長年の慣習で問題ないと反論していた。 この日は弾劾
    賛成派、反対派が全国各地で集会を開催。 参加者はテレビで、議員が議場で1人
    ずつ短い演説をした後、口頭で賛否を表明する模様を見守った。

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    日本とブラジルの関係を語る時、日本人の移民とその歴史を抜きで語ることは
    出来ない。 日本からのブラジル移民が始まったのは、今から100年以上も前の
    明治時代まで遡ることが出来る。 明治時代に入り、日本は急激に近代化が
    進められたが、それに伴い、社会のあちらこちらに歪が生まれた。 農村では、
    今までお米で納めていた年貢をお金で支払うこととなり、貨幣経済に慣れて
    いない農民は、たちまち生活苦へと追い込まれた。

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    そんな生活から逃れるために、移民となって海外の新天地へと出掛けて行き、
    そこで働いてお金を稼ぐ人も出て来た。 出稼ぎ先は、はじめは、ハワイや
    アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー等だったものが、やがて、アメリカの日本人に
    対する移民制限が始まった。 そんな時に、奴隷制度が廃止されて、労働力
    不足に悩まされていたブラジルから、日本政府に対して移民の誘いが届いた。



    【コーヒー農園での移民の暮らし】
    第一回の日本からの移民158家族、781名を乗せた笠戸丸が、ブラジルの
    サントス港に入港したのは、1908(明治41)年6月18日のことであった。
    日本からは、約50日間の船旅であった。 当時の移民の多くは、コーヒー農場に
    1年契約で雇われた。 移民家族は、農場内の住居に住み、朝から晩まで
    コーヒーの木の手入れをした。 1つの農場には、何万本ものコーヒーの木があり、
    家族ごとに木が割り当てられ、草取りからコーヒーの実の収穫まで責任を負わ
    された。

    収入は、出荷した袋の数に応じてお金が貰える仕組みであったが、出来の良い
    コーヒーの木があるとは限らなかった。 霜の害により、コーヒーの木が全滅
    することもあれば、逆に採れ過ぎて、価格が暴落してしまい、殆ど収入がない
    こともあった。

    日本からの移民の多くは、3~4年もすれば、沢山お金を稼いで帰る『出稼ぎ』の
    つもりで来ていた。 しかし、夢と現実の落差に気付き、ブラジルの大地に
    しっかりと根をおろして生きて行こうと決意する人達も居た。 また、ある人は、
    農業を辞めて、街に出て別の職業に就く人も出て来た。 このような苦労を重ね、
    日本人移民は次第にブラジルに定着して行った。

    この移民は、日本政府の援助の下に行われ、第二次世界大戦前にブラジルに
    渡った日本人の移民は、約19万人を超えた。

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    【戦中、戦後の不幸】
    第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まると、ブラジルは、中立の立場を
    取っていたが、1942年、アメリカが属していた連合国側に付いて参戦した。
    そのため、ブラジルは、敵対する日本からの移民に対し、公の場での日本語の
    使用、日本語で書かれた書物の所持、日本語新聞の発行等を禁止した。 日本の
    敗戦をめぐっては、日本人移民同士での『勝ち組』『負け組』の対立にまで
    発展した。 『勝ち組』は、日本の敗戦を信じず、『信念派』、『負け組』は
    日本の敗戦を認め、それを知らせようとした人達で『認識派』とも呼ばれている。

    ブラジルに出稼ぎに来ているという認識が強かった当時の移民の中には、
    ポルトガル語を理解しようともせず、また、当時、日本で受けて来た教育の
    影響で、日本への想いが非常に強く、敗戦が信じられない人達も居た。 更に、
    日本語新聞の発行禁止により、情報が伝わりにくくなったため、孤立した人達も
    居た。 そのような人達が、『勝ち組』を襲って殺害する事件が、1950年頃まで
    続いた。



    【戦後の日本人移民】
    1951年、サンフランシスコ講和条約(対日平和条約)が日本とブラジルを含む
    連合国との間で結ばれると、翌年からブラジルへの移民が再開された。 敗戦後の
    日本は、外地から引き揚げて来た人達で人口が増え、食料が不足する状態で
    あった。 そんな時、ブラジルへの移民は、日本人にとって、大きな希望と
    なった。 戦後の移民も、初めは、農業移民が募られたが、そのうち、工業化を
    進めるブラジルと共同で事業を行う工業移民が募られた。 しかし、1960年代に
    入ると、日本が高度成長時代を迎え、経済的に恵まれるようになったため、
    1995年を最後に、ブラジルへの移民政策は、打ち切られた。 現在、
    ブラジルには、三世や四世等を合わせると、140万人以上の日系人が居ると
    言われている。



    【日本へ出稼ぎに来る日系ブラジル人】
    一方、最近では、ブラジルに移民した日本人の子孫である日系ブラジル人が、
    逆に日本に出稼ぎに来るという現象が続いている。 ブラジルは、1980年代から
    度重なる不況で失業者が増え、逆に、日本は、その時期には好景気となっており、
    人手不足が深刻となっていたため、ブラジルから多くの日系人がやって来た。
    日本政府は、外国人が仕事のために来日することを厳しく規制してしたが、
    1990年に日系人に対しては、三世までと、その配偶者に限り、日本での労働を
    認めたため、最大で、日系ブラジル人は、約30万近くまで膨れ上がった。

    その後、日本は長期に渡るデフレ不況に陥ったため、逆に、国策によって、
    ブラジルへの帰国が促され、ブラジル経済が活性化して来た影響もあり、現在、
    日本国内のブラジル系日系人は、15万人程度にまで激減りしているとも言われて
    いる。

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    19世紀のコーヒーの生産で発展したサンパウロ州。 その後も発展を続け、
    現在約4,000万人の人口を抱えている。 これは、ブラジル全体の20%以上に
    あたる。

    そして、州都サンパウロも郊外に向けてどんどん膨らみ、人口は1,000万人
    以上となっており、周辺部も含めると、1,500万人を超える大都市へと
    変貌した。



    サンパウロの街は、常に人、車、建物で溢れており、街のビジネス街や
    商業地区には、毎日沢山の人々がやって来る。 幹線道路には、車が列を
    つくり、朝夕のラッシュ時ともなれば、通勤ラッシュで大渋滞となる。

    サンパウロ中心部にあるサントロ地区とその周辺は、食料市場や雑貨の
    卸売り問屋が多く、終日かなりの人出がある。 更に、路上には、露天も
    出店しており、非常に賑やかな地区となっている。 中には、無許可で路上
    販売を行っている人達も居るが、そのような店の方が、むしろ、安く販売して
    いるため、買い物客は、誰もそんなことを気には留めていない。

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    サンパウロの北西にあるセアザ卸売市場では、魚介類や野菜等の生鮮
    食品の他、植木や生花等が集まっている。 その規模は、南アメリカで
    一番となっており、日系人も多く働いている。 特に、野菜、果物、植木、
    生花、養鶏は、日系人がブラジルで開拓した分野となっており、それまで、
    ブラジルでは野菜や果物を食べる習慣がなかったが、日系人がそれらを
    ブラジルに持ち込んだことによって、広まって行ったもの。

    日系人が多く集まっているリベルダージ地区では、毎週日曜日、東洋市が
    開かれており、この市では、東洋人には懐かしい日本食だけではなく、
    盆栽や金魚等の日本の文化を感じさせるものが沢山立ち並んでいる。

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    皇帝であったペドロ2世は亡命し、ブラジルは正式に共和国の宣言をした。
    1891年には、新憲法が発布された。 共和制への移行は、円満とは言えな
    かった。 古くから勢力を持つ北部の大農園主と、力を付け始めた南部地域の
    産業資本家が対立し、政治を混乱させ、これが軍部が政治に割り込む口実と
    なった。

    結局のところ、南部の勢力が勝利をおさめた。 その後40年以上、ブラジルの
    大統領は、2人の例外を除いて、ミナスジェライスとサンパウロという南部
    2州の出身者で占められた。 州政府は、どこまで自治権を与えるかで
    リオデジャネイロの中央政府と州政府が衝突した。 しかし、その間にも、
    ブラジルの鉄道は発達し、港は近代化され、ブラジルは国際的にも経済力の
    ある国に成長した。

    新しくブラジルに生まれた産業勢力は、南部地域にある2、3の工業と金融の
    中心地に集中していた。 地域格差が目立つようになり、人々はそれに気付き
    始めた。 南部出身の政治家が放置して来た北東部では、貧困と病気がは
    びこり、何百万人という貧しい黒人は、飢えに苦しみながら死んだ。

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    第一次世界大戦が起きると、ブラジルの指導者層は2つに割れた。 上流階級の
    殆どと中流の人々の多くは、連合国側を支持した。 一方、ドイツ支持を表明
    する人達もいた。 南部地方のドイツ系の人々と軍の指導者の一部である。

    ブラジルの船がドイツの潜水艦に何度も撃沈されても、国論は定まらず、1917年、
    ブラジルは、ようやく、ドイツに宣戦布告した。 南アメリカの国の中で、
    ドイツに宣戦布告したのは、ブラジルのみである。 戦争の後で、ブラジル軍部に
    不満が生じ、反乱が起きた。

    1922年の『コパカバーナ砦の反乱』は、中流の下の階層出身の若手将校が、社会
    正義と政治の一新を目指して起こしたものであった。 理想は高いが、準備不足
    だったこの反乱は、たちまち鎮圧された。

    1924年、ひとりの軍人が改革を志した。 元陸軍大尉のルイース・カルロス・
    プレスティスは、軍を率いて全国を行軍し、各地で国の改革を訴えた。 沢山の
    ブラジル人が、彼の考えに共感したが、プレスティスは、反逆行為を行ったとして、
    追放された。 長い間、モスクワに滞在した後、彼は、熱心なマルクス・レーニン
    主義になって帰国し、1934年、ブラジル共産党を組織した。

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    【ジェトゥリオ・ヴァルガスの時代】

    世界的な不況の波がブラジルにも押し寄せ、軍や民間の指導者達は、共産革命を
    恐れるようになった。 そんな時代に、ジェトゥリオ・ヴァルガスは登場した。
    ヴァルガスは、州知事から1930年に、大統領選挙に立候補した。 ヴァルガスは、
    選挙に敗れたが、軍部の支持を得て、共産主義の扇動から国を守るためと言って、
    その年の10月に権力を握った。

    こうして、20年間にも及ぶヴァルガスの時代が始まった。 気さくで、謙虚で、
    温厚な人柄の上に、胸の奥に鉄の意志を秘めたヴァルガスは、護衛も連れずに街を
    散歩し、来客をセンスのあるユーモアで楽しませた。 当時、政治家は、地元の
    利益ばかりを考え、駆け引きに明け暮れていたので、国内は無政府状態に近かった。
    そこに、良心的で正直なヴァルガスが登場した。 彼が大統領になった時、
    ブラジルの人達の大半は、ついに国民と同じ願いを持つ大統領が登場したと
    喜んだ。

    ヴァルガスは、地方意識の強い国民に、州への忠誠よりも挙国の一致が大切だと
    説いた。 議会は、州の間の交易の生涯をなくし、外国債の支払いを停止し、
    工業の育成に務める法案を次々に可決した。 ヴァルガスが、ブラジルで最初の
    職能組合を発足させ、社会保障制度を定めると、一般市民は、大喜びした。
    反乱があると厳しく鎮圧したが、反乱分子の扱いは、寛容であった。

    ファシスト集団の台頭に悩まされたヴァルガスは、1937年11月、国の安全を
    理由に、もう1期大統領を努めると宣言した。 面倒な議会を解散すると、新しい
    憲法を制定し、中央集権的な新国家を建てた。 国民の権利は制限された。 新聞、
    ラジオをはじめとして、学校でさえも、検閲の対象となり、新政府の情報局から
    命令を受けるようになった。

    ヴァルガスが他の南アメリカの独裁者と違っていたところは、自分のやり方に
    批判的な指導者達さえも役立て、有能な人材を州知事、閣僚、軍の長官、外国の
    大使として起用した。 その度に国民の信頼は、高まるばかりであった。

    ヴァルガスの精力的な活動は、アメリカの援助を引き出し、これにより工業化が
    進められた。 1938年には国立石油審議会が、1941年には、国立製鉄会社が
    始められ、鉄道が延長された。 第二次世界大戦が近づくに連れて、ヴァルガスは、
    一方でドイツ、イタリア系の枢軸国寄りの将校の支持を取り付けながら、もう
    一方で、アメリカとも友好関係を続けなければならなかった。 だが結局、
    1942年8月、ブラジルは、枢軸国に宣戦布告した。

    1945年になって戦争が終わりに近づくと、ヴァルガスの独裁に対する不満が現れ
    始めた。 ヴァルガスは、選挙を行ったが、敗北した。 1946年9月、新政権が
    出来、新憲法が発布された。 しかし、ヴァルガスの時代は、まだ終わらなかった。

    新政府の下のブラジルは、国際収支の赤字や、インフレや政治の腐敗に悩まされ、
    国民の不満が高まった。 しかし、議会は、様々な派閥に分かれ、こうした
    問題に立ち向かう能力も意欲も示さなかった。

    1950年、ヴァルガスは、再び大統領に選ばれたが、かつての手腕は振るえ
    なかった。 大統領が代わっても、増え続ける体外赤字は止まらなかった。
    賃金労働者は、激しいインフレで給料が目減りするのに腹を立て、ヴァルガスの
    経済政策を非難した。 やがて事件が起きた。 ヴァルガスを激しく非難した
    新聞の編集長が、大統領側近が雇った殺し屋に暗殺されそうになった上に、
    同行の軍人が殺害されたのである。 これを切っ掛けに、ヴァルガスの時代は
    終わった。 ヴァルガスは、長く権力の座にあったが、個人への暴力は認めない
    人だった。 側近がこれらの事件に関わっていることを知ると、彼は自殺した。
    1954年8月のことだった。

    JKii

    【ジュセリーノ・クビチェック】
    1956年、ジュセリーノ・クビチェック・デ・オリヴェイラが大統領に選ばれた。
    彼は、1961年まで、民主的に国をおさめた。 経済の悪化をものともせずに、
    クビチェックは、ブラジル人の昔からの夢の現実に務めた。 それはまったく
    新しい土地に首都を築くことであった。 首都であったリオデジャネイロから、
    北西におよそ1,000キロ進んだ土地に、ブラジリアが建設された。 当時は、殆ど
    住む人も居なかったが、そこは、地理的にブラジルの中心地であった。 1960年に
    ブラジリアが完成すると、国民は、国への信頼を取り戻した。 遷都のための
    急激なインフラが生じたことで、クビチェックを非難する人が居るが、歴史は、
    彼の判断の正しさを証明している。 1961年、クビチェックは、平和のうちに、
    任期を終え、後継者のジャニオ・クアドロスに大統領の座を譲った。 一般選挙で
    選ばれた大統領で、任期を終わりまで務めたのは、彼が最後となった。

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    ブラジル南部地域への入植は、初めは北東部と同じ形で行われていた。 しかし、
    天然資源が豊かな南部は、異なった形で発達した。 17世紀後半に、
    ミナスジェライス州で金が見つかると、大勢の人達がこの地方に定住するように
    なった。 これらの人々は、プランテーションを開いたり、作物を輸出したりせず、
    店や小農園を経営して、金鉱を探す人々に商品やサービスを提供した。

    スペインは、政府の代理人に鉱物資源の採掘を管理させたが、ポルトガルは、
    冒険心に富んだ事業主に、採掘を任せていた。 そうした事業主の中には、
    ブラジル北東部の人々も混じっていた。 西インド諸島の砂糖が安いために、
    国際競争に敗れ、サトウキビプランテーションを手放した人々だった。

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    現在、サンパウロと言われている場所には、あらゆる人々がが集まっていた。
    17世紀を通して、彼等は、しばしば何千人という規模で、バンディアと呼ばれる
    探検隊を組織し、新しい資源を求めて、ブラジル内陸部を探検した。 これらの
    人々は、バンデランテと呼ばれ、勇敢なパイオニアとして尊敬されている。

    ほとんどの人は、金やダイヤモンドのような鉱物の採掘のために、組織された。
    このような作業は、ひとつの場所で何年間も続くことが良くあったので、結果的に
    バンデランテ達は、沢山の村や町を建設した。 彼等の活動のお陰で、
    ポルトガルの支配は、法王の決めた境界線を遥かに超えることになったが、
    1750年のマドリード条約で、スペインは、現在のブラジルにほぼ相当する地域
    でのポルトガルの主張を正式に認めた。

    【ポルトガルの支配】
    ブラジル植民地に対するポルトガルの支配は、中南米の多くの地域を支配する
    スペインの統治とは、まるで異なっていた。ポルトガル政府は、カピタンと
    呼ばれる統治者に、地元の出来事を処理する広い権限を与えた。 これは、
    中央集権的なスペイン植民地とは、対象的だった。 独立に向けたブラジルの
    歩みも、スペイン植民地とは異なっていた。 ブラジルには、多くのスペイン
    植民地のような独立のための長い戦争は必要なかった。 ブラジルを独立に
    導いた一連の出来事の始まりは、1807年に起きた、ナポレオンのポルトガル侵略
    だった。

    ポルトガル王はジョアン6世は、王室をそっくりブラジルに移し、自分かその
    子孫が、ポルトガル王として、国に戻れる日が来ることを待つことにした。
    やがてナポレオンは失脚し、1821年、ジョアン6世は、ポルトガルに戻った。
    国王は、まだ20歳を過ぎたばかりの王子ドン・ペドロをブラジルの執政に任命し、
    時が来たら独立を宣言するようにと言い残した。

    翌1822年9月7日、ドン・ペドロは、国民の要求に応えて、独立を宣言した。
    1ヶ月後、彼は、ブラジルの立憲皇帝、終身守護色ペドロ1世となり、ブラジルは、
    ポルトガル王と血の繋がった皇帝を戴く独立王国となった。 しかし、独裁的
    だったペドロ1世は、ブラジル国民に人気がなかった。 フランス革命や、
    アメリカの独立戦争や、スペイン領南アメリカ各地での独立戦争に啓蒙された
    国民は、旧世界の君主の独裁を嫌い、自分達の運命を自分達の手で決めたいと
    願うようになった。

    不満の高まりの中、1831年にペドロ1世は退位し、ポルトガルに帰って行った。
    在位期間は9年間であった。 父親がそうしたように、彼は、息子のドン・ペドロ
    (ペドロ・デ・アルカンタラ)にその地位を譲った。 息子のドン・ペドロは、
    まだ6歳だった。 それからの9年間、ブラジル帝国は、3人の執政によって統治
    されたが、その政治は、全体としては、国民の意志を反映したものだった。
    1840年、15歳になったドン・ペドロは、ブラジル皇帝として即位した。 初めての
    ブラジル生まれの元首であった。

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    【ペドロ2世】(1840年~1889年)
    ペドロ2世は、50年近くも安定した統治を続けた。 中南米植民地の支配者で、
    彼ほど国民から敬愛され、尊敬されている人はいない。 質素を好み、気取りの
    ないその人柄は、あらゆる階層の国民から支持された。 ペドロ2世は、知的
    好奇心が強く、科学や文学の学会を創設した。 アメリカの詩人ロングフェローを
    はじめ、世界的な思想家や文学者と熱心に文通し、スウェーデンの北極探検家
    ノルデンシェルドとは、気象観測情報を交換した。 トロイの遺跡の発見者である
    ドイツのシュリーマンとは、激しい論争をしながら、暖かい友情を育んだ。

    ペドロ2世は、エジプト学に熱心で、そのためにアラビア語やペルシャ語を学び、
    バビロニアの象形文字も研究した。 また、アマゾン盆地を年度も訪れるうちに、
    インディオのトゥピー族や、グアラニー族の言葉を覚え、日常会話が出来るように
    なった。

    ペドロ2世は、長い在位期間の間に、ブラジルを国際社会で安定したものとした。
    国の政策は継続的で安定したものとなり、外国の投資家は、安心してブラジルの
    資源開発に投資した。ブラジルの工業と商業は、ペドロ2世の政治とあいまって、
    大いに発展した。 彼は、鉄道建設を進め、電話の架設工事への投資を主張した。
    電話は、皇帝の親しい友人であるグラハム・ベルの発明であった。

    1856年にパラグアイ戦争が起きると、ブラジルは、アルゼンチン、ウルグアイと
    共に3国同盟を結び、パラグアイに対抗した。 戦争は、1870年に終わり、
    同盟国側が勝利した。 しかし、この紛争は、高くついた。 戦費の負担に対する
    国民の不満が、やがて主君性が終わる一因となった。 しかし、より大きく影響
    したのは、奴隷制の問題だった。 ペドロ2世の要請で、ブラジルは、1851年に
    奴隷貿易を禁止する法律を決めた。 しかし、この法律は、奴隷の輸入を禁止する
    だけだったので、ブラジル人は、まだ奴隷を私有していた。

    奴隷制度の完全な廃止は、さまざまに議論されていたが、経済力のある有力者の
    多くは、これに反対だったのだ。 奴隷制度を支持する人々からの働き掛けを
    逃れるために、ペドロ2世は、ヨーロッパへ休暇旅行に出掛け、その間は、娘の
    イザベラ王女に皇帝の代理を命じた。 1888年、イザベラ王女は、奴隷廃止例に
    署名した。

    かつての奴隷所有者の反発と軍部の不満が高まる中で、1889年、ペドロ2世は
    退位した。 皇帝の地位にあった時から、ペドロ2世は、ブラジルをアメリカ
    合衆国のような民主共和制による自治の国にしようと考えていたため、やがては、
    退位を求められることを覚悟で、民主的な政治勢力を励まし続けた。 ペドロ
    2世の統治が終わる時が来ても、血生臭い事件は起きなかった。 それどころか、
    貧しい者も高い地位にある者も、涙を流して敬愛する皇帝の亡命を見送った。

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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

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    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

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    ブラジルで最も人気があるものと言えば、リオ・デ・ジャネイロのカーニバル。
    毎年、このお祭りを見るために、沢山の観光客がブラジルを訪れる。
    カーニバルは、元々は、カトリックのお祭りで、『謝肉祭』とも言う。
    イエス・キリストが十字架に掛かって亡くなってから、復活したとされる日の前、
    40日間は、肉を絶ち切らなければならない。 そこで、その直前の数日間を
    賑やかに過ごすというのが、カーニバルとなっている。



    このお祭りは、元々は、ヨーロッパの方で盛んに行われている行事で、
    ブラジルでは、初めは、一部のポルトガル人が行っていたが、そのうち、黒人も
    参加するようになった>もの。 特に、19世紀後半になると、黒人達が活躍し、
    やがて、アフリカから伝わる音楽を元に、サンバという新しい音楽を作り出した。
    その音楽がカーニバルにも取り入れられて、ブラジル独特の祭りとなった。

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    リオのカーニバルは、月の運行を元にした太陰暦によって行うため、毎年、2月か
    3月の初めの土曜日から4日間が開催日となる。 2016年度は、2月5日からの4日間。
    リオ・デ・ジャネイロ以外でも、ブラジル各地では、その土地の特色を活かした
    お祭りが行われている。

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    町の人口の約15%がブラジルなどの外国人が占めるという、日本一外国人の比率が高い
    群馬県大泉町で9月12日、『大泉カルナバル2015』が開催された。 この大会の目玉である
    サンバコンテストでは、愛知県や静岡県等から参加した4チームにより競われ、本年度は、
    リベルダージが優勝を飾った。



    サンバコンテストの後は、会場が一体となって音楽に合わせて踊る『パゴージ』が開かれた。
    会場にはブラジルの他、インド、エジプト、トルコ等の外国料理や服、雑貨などの販売
    ブースが約60店出店した。 入場は無料だが、テント下のイスに座ってサンバコンテストが
    見られる部分は、有料席となっている。 大泉カルナバルは、多文化共生を掲げ
    『日本のブラジル』と呼ばれる町の特色を発信しようと毎年開かれ、今年で9回目。
    昨年は28,000人が訪れた。



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