多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ: アジア

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    中国大陸の国民党政府は、日本に次いで共産党との戦いに直面することとなった。
    ふたつの党は、第二次世界大戦中は、日本を倒すため停戦協定を結び、大戦が
    終わると内戦が勃発した。

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    当初、蒋介石は、共産党より軍事的に優勢だった。 しかし、国民党の軍隊は、
    農民から土地を奪ったり、政府の役人は外国からの支援を着服して私腹を肥やしたり
    したため、軍事的な優位性も、蒋介石の人気も崩れて行った。

    毛沢東の指揮する共産党は、蒋介石の人気が凋落する間に北部で軍隊の強化に
    勤め、1949年、国民党軍に対して、強力な巻き返しを始めた。

    蒋介石は、敗戦が近いことを悟り、武器、産業物資、政府の財産をトラックに乗せ、
    台湾に移送するよう命じた。 台湾を拠点に共産党との戦いを続けるつもりだった。

    北京では、1949年10月1日に中華人民共和国が成立。 12月になると蒋介石は、
    台湾に向けて大陸を脱出した。 80万人の兵士と200万人の支持者が彼と共に
    渡った。 この亡命集団は、最初から自分たちこそが中国の正当な政府であると
    自認していた。 彼らは、中国大陸を取り返すという目標を達成するために力を
    注いだ。

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    【蒋介石による台湾統治】

    蒋介石の台湾到着は、台湾の大きな変化の予兆であった。 蒋介石は、政府を
    台湾に移したが、台湾の独立は認めなかった。 中華人民共和国も中華民国も
    台湾が中国の一省であると考えは共通していた。 だが両国は、どちらの政府が
    中国を統治するかという点で対立していた。

    この問題では、世界中の国がふたつに割れた。 アメリカをはじめとする国は、
    中華民国の強い反共政策を支持した。 また、ソビエト連邦をはじめとする国は、
    中華人民共和国の主張を支持した。

    この対立の影に、台湾の主人公であるべき台湾住民がいた。 台湾人(1949年
    以前に大陸から来た漢人系移民とその子孫で、『本省人』とも呼ばれる)と先住民
    である。

    二二八事件以来、台湾人と後で大陸から渡って来た中国人(『外省人』とも呼ばれる)
    との間の摩擦は絶えなかった。 台湾人たちは、中華民国に再統一されるのが、
    自分たちのためになるとは信じていなかった。

    独立運動も起こったが、蒋介石は過酷な弾圧を行った。 台湾独立の思想を広める
    ことは、国家反逆罪とされた。 蒋介石は数人の台湾人を政府の役職に就けることで、
    こうした対立をある程度治めた。 しかし、国民党は、台湾に厳重な統制を敷き、
    厳戒例を出し、台湾人を支配するために軍隊に大きな権限を与えた。

    1951年、日本は、旧連合国とサンフランシスコ講和条約を締結、この条約で日本は
    台湾の領有権を放棄、台湾は正式に日本の領有を離れた。 経済面では、蒋介石は
    食料生産の増加などに一定の成果を収めた。 台湾の工業力が発展しはじめるのは、
    アメリカから受けた膨大な経済的援助が背景にあった。 1951年から1965年の間、
    台湾15億ドルの主に軍事財政に向けられた経済援助と25億ドルの軍事資金を
    受けた。

    1954年、アメリカと結んだ米華相互防衛条約によって、近代化を進める上で必要な
    安全保障が確保された。 その目覚しい工業発展によって、台湾は1965年までに、
    自力で経済発展の資金をまかなえるようになった。

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    1930年年代後半、日本と中国とが交戦状態にあった時、日本の台湾総督府は、台湾
    住民を公民化する運動を開始した。 これは、台湾住民の日本人化を更に進めて、
    戦争の態勢を整えようとするものだった。 神社参拝の強要、新聞の漢文記事の廃止、
    日本語を使うよう進めて行く等の方策が採られた。 1940年代には改姓名といって、
    姓名を日本式にする運動も進められた。 これらに対して、台湾住民は、自ら協力
    する者、反抗の意思を示す者等、様々だった。 

    1940年代までに、日本は台湾を軍事基地化していた。 フィリピンの米軍基地を素早く
    空襲する理想的な基地となり、 そのため、米・英連合軍の激しい爆撃の対象となった。
    多くの日本の工場や発電所は、瓦礫となり、飛行場は破壊され、陸上交通もほとんど
    麻痺した。

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    1945年、日本は、連合軍に降伏する。 やがて、中華民国の国民党政府は、新しい
    台湾行政長官を役人や軍隊と共に送り込んで来た。 しかし、この新参者達は、台湾
    住民の同胞ではなく、支配者のように振舞った。 日本人の残した住宅や産業等を
    摂取し、インフレが急激に進み、大規模な食糧不足が起きた。 そして、台北市内の
    小さないざこざから、台湾人と国民党政府との大きな衝突が起きた。

    1947年2月28日に起きたこの事件は、二二八事件と呼ばれているが、台湾住民の
    政府への不満の大きさから、事件は台湾島全土へと広まった。 国民党政府は、
    軍隊を出動させて鎮圧にあたり、台湾人らに2万人とも3万人とも言われる死者が
    出た。 重大な事態に蒋介石は、行政長官と呼び戻し、新しい長官を任命した。

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    日本が台湾を統治していた時期、中国大陸では、多くの事件が起こっていた。 1911年、
    蜂起した華人は、満州人の清朝皇帝を退位させ、翌年、中華民国が成立する。 この
    辛亥革命成功の指導者は、孫文だったが、ほどなく政府の実権を軍人達が握った。
    孫文は、次に南部を拠点にし、軍閥と戦うことになった。 その戦いの過程で孫文は、
    自らが理論化した三民主主義を基本とする中国国民党を結成する。 三民主主義は、
    民族、民権、民生という三つの主義をいう政治理論である。

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    1924年、国民党は、中国全土を統一するため、考えの相容れない中国共産党とさえ
    協力することにした。 1925年に孫文が死ぬと、その後継者は、軍人の蒋介石となった。
    1927年、蒋介石は、南部の広州から軍隊を率いて、北京まで遠征し、軍閥政府を
    倒した。 その後間もなく、国民党は、共産党と手を切り、敵対する政権を樹立する。

    中華民国総統となった蒋介石は、国家の近代化に着手した。 道路、鉄道、工場等の
    建設が始まった。 しかし、国民党政府は、地主への借金に苦しむ農民を助けたり、
    都市労働者が組合を組織することを許したりしなかった。 これは、かえって、共産党の
    支持者を増やす事になった。 そして、更に国民党に困難が降りかかる。

    1931年、日本軍が中国の東北地方を占拠、1937年には、東部沿岸地方の一部を
    占領した。 それから、1945年まで、中国は、日本の侵攻に抵抗し続ける事となった。

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    1874年、日本は台湾に出兵した。 台湾に漂着した宮古島の住民69名のうち
    54名が先住民に殺害された牡丹社事件などから、自国民の保護を主張して
    出兵したのである。 清朝政府もこれを認めて、賠償金を支払った。

    この出兵を切っ掛けに、清朝は台湾の統治に積極的に乗り出した。 有能な
    官吏を派遣して、統治制度の改革と開発を行った。 1885年、清朝は台湾を
    中国の正式な一省に格上げし、1892年には、台北が台湾省の行政の中心になった。
    しかし、清朝の台湾統治の改革は、さほどの成果を見せることはなかった。
    1894年、日清戦争が勃発し、訓練と装備で勝る日本軍が勝利した。

    1894年4月、日本と清朝との間に下関条約が結ばれた。 条約には台湾と
    澎湖諸島が日本へ割譲されることが記されていた。 6月、日本軍は台北に入り、
    台湾総督となった海軍大将の樺山資紀が、日本による統治の始まりを宣言した。
    これで、211年続いた清朝による台湾統治は幕を下ろしたが、清朝は依然として
    中国大陸のほぼ全域を統治していた。

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    【日本の統治時代】

    日本人が台湾に入ると、清朝の役人や軍は中国大陸へ逃亡したが、移住民の子孫や
    先住民たちは激しく抵抗し、特に、先住民は、その後も長く、ゲリラ的な抵抗運動を
    散発的に続けた。 日本の台湾領有の目的は、アジアに君臨していた欧米の勢力に
    対抗する、列強国になるためのひとつの手段であった。 まず日本は、台湾を米や
    砂糖などの食料供給地として利用する。

    そのために、自作農を増やすための土地制度の改革、米の品種改良、新たな耕作地の
    開墾、用水路やダムの整備を行った。 これらの結果、米や砂糖などの生産高は、
    日本統治時代を通じて増え続けた。 特に砂糖は、日本の領有以前から台湾の
    輸出品であり、砂糖の生産が増すと、日本の需要を満たすばかりではなく、世界でも
    主要な生産地となった。 また、日本は、鉄道を敷き道路を整備し、港を改修し拡張
    すると共に、郵便や電報、電話といった通信網も整備した。 また、各地に保健所や
    病院も開設するなど、伝染病の予防と公衆衛生にも努めた。

    更に、初等教育から大学までの学校をつくり、教育制度を整えた。 この教育は、
    日本語によるもので、日本語を話せる台湾住民も増えて行った。 そして、日本の
    旧制高校や大学へ留学するなど、高等教育を受ける台湾住民の学生も珍しくは
    なくなった。

    このして発展の結果、1930年になると、台湾は工業地域としてもスタートした。
    繊維工場、製油所、製糸工場、肥料工場とはじめとする加工施設も建設された。
    日本の統治は、強い警察力を用いた厳格なものだった。 し かし、その一方で、
    ヨーロッパの列強による植民地には見られない、さまざまな改革が行われて近代化が
    進み、協力する現地住民も増え、その抵抗は、法律での平等を求める運動となった。
    また、その運動に協力したり共感する日本人もおり、日本人と台湾住民との間には、
    対立もあれば、信頼もあるといったさまざまな関係が生まれた。

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    1684年、清朝は台湾を福建省の管轄下に置き、統治を開始した。 しかし、
    その統治は軍事的に重要な澎湖諸島の安全保障と、台湾が将来、海賊や反乱者の
    拠点とならないようにするため、という消極的なものであった。 そして、
    その統治区域は、台湾全土には及んではいなかった。

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    オランダと鄭経が労働力と課税人口を増やそうと努力し、何十万人にも達して
    いた漢人の移住民を清朝は減らそうとさえした。 妻子のない移住民は、
    強制的に故郷へと戻し、新たな移民には厳しい制限を設けた。 しかし、
    中国大陸から次々に移民が渡って来た。

    殆どは中国南部の農村地帯からの人々であった。 そこは人口が過剰ぎみで、
    自分の農地を求めて密航の危険を犯して、台湾へ渡って来たのである。 彼ら
    農民たちは、島に渡るとすぐに土地を耕し始め、未開地は耕作地へと変わって
    行った。 1684年から1735年の間、農民たちは北西沿岸沿いの広い地域と
    南部の広大な土地を開墾して作物を植えた。

    しかし、この新田によって先住民たちは土地を奪われ、沿岸地域から内陸部へと
    押しやられた。 その反面、移住民と通婚するなどして一族諸共漢人化して行く
    先住民もあった。 一方、清朝の役人たちは、島の開発には興味がなかった。
    3年間の任期中、不法な手口を使ってでも自分の財産を増やすことに精を出し
    たのだ。 官僚の汚職がはびこり、台湾は無法地帯となって強盗や社会不安が
    日常化した。



    農業生産高の向上やサトウキビ、茶の輸出などで経済は次第に発展したが、
    利益は役人と商人に吸い取られ、一般の住民はますます不満感を高めた。
    1700年代から1800年代半ばまでに15回もの大きな反乱が起こり、小さな暴動は
    もっと頻繁に発生した。

    発展と混乱の続く1800年代中頃、貿易の拠点など台湾の商業的価値に目を
    付けたイギリスとアメリカは、台湾の占領を狙ったが、実現はしなかった。

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    16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。
    16世紀半ば、台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』
    と叫んだと言う。 『麗しの島』という意味である。 そして、その後の
    数世紀の間、ヨーロッパ人達は台湾をフォルモサと呼んだ。

    17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易の
    ために拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に
    上陸。 その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



    安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
    締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
    攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
    オランダに委ねて行く。

    一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの
    要塞を築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の
    混乱平定に力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、
    ライバル、スペインをこの島から追い出した。 1642年には、台湾に居る
    ヨーロッパ人は、オランダ人だけとなった。

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    【オランダ統治時代】

    オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を
    奨励し、島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を
    先住民や移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の
    国々を相手にして中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させた
    のである。

    オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
    砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製
    陶磁器を仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、
    習慣性のある麻薬、アヘンを買った。



    より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を
    奨励した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。
    オランダから来た宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい
    信仰を先住民に教えるために学校を建てた。

    オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な
    税を課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や
    武力を用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の
    反乱である。 約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃
    したのだ。 しかし、棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで
    敗北する。 戦死とその後の虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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    宋王朝は最終的に、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンによって滅ぼされた。
    1279年フビライ・ハーンは、元王朝を建て、1292年と1297年に、台湾の住民を
    従えようと遠征軍を送ったが、成功しなかった。 これ以後、澎湖諸島に住み着く
    漢人も増え、やがて漢人の官僚が統治することになった。 澎湖諸島は、元王朝の
    辺境の地となったが、先住民と交易するだけで、島には定住しなかった。

    16世紀ともなると、福建の漁民や貿易商人は、漁場や交易の地としての台湾の
    価値に目を向けるようになっていた。 しかし、1368年、元に代わって中国
    大陸を支配した明王朝は、台湾島を中国の一部とはみなしていなかった。

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    【倭寇と移民】
    15世紀、澎湖諸島の他の台湾島に拠点を置く貿易商人も居た。 次第に海賊と
    化した武装商人団もあって、16世紀になると、海賊事件が増えた。 商船の
    船荷を奪ったり、中国大陸の沿岸や朝鮮半島南端を襲撃したのである。 漢人が
    中心だが、日本人や朝鮮人も居た。 14世紀半ばから15世紀に掛けての日本人を
    中心とした海賊が倭寇と呼ばれたのにならって、やはり、倭寇と呼ばれた。
    漢人の海賊の中では、林道乾と林鳳が最も有名である。 彼らは、16世紀中頃に
    暴れ回った海賊で、いずれも台湾に拠点を作った。

    海賊が出没する一方で、貿易も盛んで、商人は陶磁器、布、塩等の積荷を、
    台湾で鹿皮や魚等と交換した。 鹿皮は、日本へも運ばれた。 日本の戦国
    武将が身に付けた鹿皮の陣羽織は、台湾の皮で作ったものである。 また、
    貿易での利益を当て込んで、福建省から台湾への移民も増えた。 当時、日本も
    台湾との貿易には関心を持っており、日本の商船が出たり、豊臣秀吉が1593年には
    台湾の『高山国』に宛てて書簡を出したりしている。

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    台湾の人口の3分の2は都市部に住んでおり、その中でも人口が多いのが台北市で
    ある(人口約270万人)。 台湾北部の都市、台北は、新店渓、淡水河の合流地点に
    位置した行政と産業の中心地である。 1949年以来、台北は中華民国の首都にも
    なっている。

    台北で有名な施設のひとつに国立故宮博物院がある。 ここには1940年に中国
    大陸から運び込まれた数十万点にもおよぶ中国の文物が所蔵されている。 市立
    美術館も数多くの芸術作品を所蔵していることで知られており、油彩、彫刻等の
    作品が展示されている。

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    台北の淡水河沿いの大稲埕は、元は平地先住民(平埔族)の村だったが、18世紀
    はじめに漢人も移り住み、やがて物流と貿易の町として発展した。 1875年には、
    台北北部の主要都市として発展した。 1875年には台湾全土の政治の中心地
    となった。 更に、日本の統治下(1895~1945年)で台湾は大きく発展する。

    現在、台北と周辺の工場では、コンピューターおよびその関連製品をはじめ
    として、様々な工業製品が作られるようになった。 また、台北は、西部沿岸を
    走る鉄道(縦貫鉄道)のターミナル駅であり、国内線の空港があり、国際線の
    空港や、主要都市へ繋がる高速道路の起点ともなっている。



    台湾第二の都市高雄(人口約278万人)は、2010年12月に高雄県を合併したため、
    台北を抜いて、人口では台湾第一の都市となった。 その東にある鳳山に漢人が
    住み着いたことに始まる。 オランダの当地を経て、17世紀に鳳山の外港として
    港が開かれてから、街として発展した。 もとは打狗(ターカオ)という地名で
    あったが、日本の統治時代に音を合わせた高雄となった。

    やがて高雄は台湾を代表する港湾都市となり、また、台湾最大の海産物市場がある。
    国内線、国外線の空港があり、鉄道と高速鉄道のターミナルにあたる高雄は、
    鉄工所、製鉄所、造船所、製油所等がある重要な産業の中心地でもある。

    中西部にある台湾第三の都市、台中市(人口約275万人)は、もとは平埔族の地で、
    18世紀から漢人が住み着き、やがて発展して19世紀には一時台湾府が置かれた。
    1967年には、台中港が建設され、工業都市としても重要な都市として位置づけを
    されるようになった。



    台湾南部の都市、台南市(人口約189万人)は、最も古い歴史を持つ街である。
    15世紀には、中国大陸や日本の海の商人らの出入りする港町、安平であり、
    1624年にオランダ人が上陸して以降、200年余り、台湾統治の拠点であった。
    日本統治時代の公共建築物や孔子を祀った廟等、多くの歴史的、宗教的な建造物が
    残っており、今でも台湾の文化の中心地となっている。

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    いくつかの点で、台湾の歴史は中国の歴史と切り離すことが出来ない。
    台湾が経験して来た多くの変化は、中国で起こった出来事が原因である。
    とは言え、強い海流、予想のつかない天候変化、台風と言った航海上の危険を
    伴う台湾海峡によって、ふたつの地域の間では、何世紀もの間、大きな人口
    移動が妨げられて来た。

    石器や土器等の考古学的発見によれば、2万年前、台湾には旧石器時代の
    現代人に繋がる人類が住んでいた。 一部の学者は、こうしたヒトは、中国が
    起源だと言う。 また、別の学者は、東南アジアのマレー半島辺りから渡って
    来た最初の移民だと考えられている。 起源は、いずれにせよ、この頃の人々は
    低地一帯だけではなく、深い山林にも住んでいたのは確かである。

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    【初期の歴史】
    台湾に関する中国・唐時代の記録によれば、漢人とは、この島を流求と呼んだ
    と言う。 後に、琉球と字が変わった時には、沖縄の事を表し、台湾は、小琉球と
    呼ばれた。 また、6世紀はじめに隋の皇帝が兵を送っている。 その頃住民は、
    木を切り倒し、それを焼き払って農地を開墾し、イネ、アワ、マメ等の穀物を
    植えていた。 島には階級支配制度があり、1人の指導者と、何人かの副指導者が
    治めていた。 敵の頭を切り落とし、勇気の証拠として飾る首狩りの風習もあった。
    隋の兵は、彼等を数千人も捕虜にして連れ帰り、以後は関係が絶えたと言う。

    960年から1279年まで続いた宋の時代、近くの膨湖諸島へ渡る者もあった。
    宋代の貨幣や陶器のかけらが膨湖諸島で発見されたことから、島へ渡るように
    なったのは、11世紀頃から考えられる。 島の近海で獲れる豊富な魚にひかれて
    漁師が渡ったのかも知れない。 台湾まで探検する者も居たことであろう。

    13世紀、台湾と膨湖諸島への探検は更に盛んに行われるようになった。 この頃、
    中国北部の勇敢な民族であるモンゴル人が南下し、宋王朝を現在の浙江省にある
    杭州にまで追いつめていた。 南シナ海に面する江南に移った宋の政府は、造船
    技術の向上を支援し、南海貿易を奨励した。 また、船乗り達は、磁気針を水に
    浮かべて、方位を測定する方法を用いて、中国大陸と台湾の間の海域をより正確に
    航海出来るようになった。 水針は、後の明の時代に羅針盤に発展する。 こうした
    航海術の向上が海上交通を盛んにしたのである。

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    中国大陸東南沿岸部の沖に浮かぶ島である台湾は、今大きな経済力を持つまでに
    発展し、世界中の市場に加工品を輸出している。 20世紀中頃までは、台湾の主な
    産業は農業であった。 島とは言え、台湾には豊かな歴史と文化がある。 17世紀、
    ポルトガル人から『フォルモサ(美しの島)』と呼ばれたこの島は、一部が
    オランダ、次いで清朝の統治を受けた。 やがて、日本と清朝との間に戦争が
    起こり、1895年には 大日本帝国の領土となる。 そして、1945年には、
    中華民国政府が台湾を統治するようになった。

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    その後、中国大陸で起きた大事件が、台湾に大きな影響を与える。 中華民国の
    国民党軍と中国共産党軍との衝突が、中華民国政府の安全を脅かしたのである。
    1949年、蒋介石を首脳とする中華民国指導部は、中国全土を支配した共産党軍から
    逃れ、蒋介石は台湾に渡り、亡命政府を置いた。 そして、1949年には、
    共産党が、中国大陸に中華人民共和国を樹立する。

    国民党が来てから台湾住民は、新たな混成となった。 最大グループは、台湾人で、
    過去数世紀の間に島に移り住んだ漢族の子孫だけが、多くは先住民との混血が
    見られる。 1949年前後に大陸から来た人々も漢族だが、別のグループとなって
    いる。 そして、最も少数派は、台湾原住民と呼ばれる、この島の先住民の
    子孫である。



    台湾と中国大陸との両政権は共に、台湾は中国の一省であり、中国は統一すべきで
    あるという考えを掲げて来た。 だが、統一実現後の政治体制についての考えには
    大きな隔たりがある。 また、独自の道を歩むべきとの考えも台湾では根強く、
    両者は台湾海峡を挟んで対峙が続いている。

    国際連合は長年、中華民国を中国を代表する政府として支持していたが、1970年代
    には、国連加盟国の多くが、中華人民共和国を承認するようになった。 中華民国は
    国連から脱退し、外交関係を持つ国は30カ国足らずである。

    この挫折にも関わらず、台湾の経済成長は1950年代以来、高水準で続き、1970年代
    後半には、アジア最高水準の人々の生活を実現するのである。 更に、その経済力を
    背景に、台湾の政府は、国際関係で積極的な活動を続けた。 台湾は外交的に
    不遇とは言え、日本等多くの国と経済的、文化的な交流を維持している。

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    1988年1月、父親蒋介石の後を継いだ蒋経国が死去し、副総統だった李登輝が
    台湾出身初の指導者になった。 李登輝は民主化を進め、1996年国民による
    初めての直接選挙で総統に選ばれた。 それに継ぐ2000年の総統選挙では、
    野党の民主進歩党から出馬した陳水扁が総統に選出され、国民党は野党になって、
    平和的な政権交代が実現した。

    陳水扁政権は、台湾本位の政策を進める政権としてスタートする。 しかし、
    中華人民共和国は、軍備の拡大や経済面での締め付け等で統一への圧力を
    高めている。

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    香港では、寿司をはじめとする食文化や、アニメ・ゲーム等の大衆文化を
    中心に、日本文化が広く浸透している。 コンビニには、ファッション雑誌や、
    清涼飲料水等の日本語の書かれた商品が溢れ、地元の広東語番組では、
    『イチバン』や『ダメダメ』等、日本語風の表現が時折聞かれる。

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    香港は、このように日本が感じられる社会であるため、公用語の中文、英語を
    除けば、日本語は学習者の最も多い言語と見られている。 話者数に関する
    公式の統計はないが、国際交流基金によれば、2012年時点での日本語学習者は、
    2万2,555人で、そのうち、76%が日本語学校等、学校教育以外の場で日本語を
    学習しており、大学は13%、初中等教育では11%である。

    また、2012年から始まった香港中等教育筆記試験では、日本語を含む6つの
    外国語が選択科目として導入されたが、2015年の試験で日本語を選択した
    受験者は、199人と2位のフランス語(57名)を大きく引き離している。

    学習動機としては、大衆文化と日本旅行への興味、関心が多く、進学、就職等に
    使える実利面もしばしば挙げられるが、同時に香港人学習者にとっては、漢字を
    使用する日本語が他の外国語に比べて学びやすい要因もあるのであろう。 中文と
    英語の読み書きに加え、広東語、中国語、英語の運用能力が前提付けられた
    『両文三語』と呼ばれる言語政策の下で、特に英語に苦手意識のある学習者が
    日本語を学ぶことで言語学習に対する自身を取り戻そうとする場合もある。

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    学習環境は整っており、市中の日本語学校以外にも、現在8つある全ての公立
    大学で日本語が履修出来、日本語、日本文化を専攻出来る大学院、大学、
    コミュニティーカレッジ(短大に相当)も一定数存在する。 このような背景
    により、日本語学習の層も厚く、その中から、香港人日本語教師も数多く輩出
    されている。

    教師養成機関としては、香港中文大学に2006年から2011年まで日本語教師養成を
    主とした修士課程が設けられ(現在は大学院の選択科目として開講)、現在も在留
    邦人や日本留学経験者のある香港人が養成機関を経ずに教師となり実践経験を積む
    ケースも多い。

    学習方法もテクノロジーの発達と共に変化を見せている。 従来は文法、読解は
    出来ても会話が苦手なのが香港人学習者の特徴とされて来たが、インターネットで
    手軽に日本語コンテンツに触れられる環境が整ったことから、近年では、若者層を
    中心に、独学が一般化し、ウェブ上のデジタル教材を活用したり、ソーシャル
    ネットワークで日本語母国語話者と交流したりして、教育機関に通わずに
    コミュニケーションスキルを磨く学習者が増加している。 こうした学習者の
    広がりを受け、大学でも日本語既学習者があえて初級の日本語のクラスを履修し、
    高得点を狙おうとする現象が顕著になった。

    新界付近の住宅地にある日本語学校を例に取ると、新規受講は日本旅行が切っ掛け
    という場合が目立ち、外国語の通じにくい地方へ旅行に行くため、中上級まで
    学習を継続する受講生も少なくない。 2011年の東日本大震災直後は、超円高も
    相まって、日本への渡航が下火になり、受講者が一旦減少したものの、近年円安
    傾向で再び日本旅行にブームが起き、回復傾向にある。 極端な例としては、
    日本で不動産を購入し、年間数ヶ月間を日本で過ごし、日本語力を鍛える強者も
    存在する。

    ここ数年の韓流ブームで韓国文化に関心を持ち、韓国語を学ぶ人が増えたため、
    日本語教育にも若干影響が見られるようになった。 韓国語熱の高まりを受け、
    一部の日本語学校では、韓国語コースも開講しているが、ここ1~2年は、日本旅行
    ブームの恩恵を受けてか、一時期低下傾向にあった日本語学習者数が上昇に転じ、
    横ばい傾向にあった韓国語を尻目に、安定した伸びを見せている。

    また、旅行や大衆文化等で幅広く学習者を引き付ける日本語に対して、韓国語は、
    Kポップや韓流ドラマの女性ファンが中心で学習者の偏りが大きい。

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    香港にとって、日本は間違いなく最も親密な関係を持つ、重要な外国のひとつ
    である。 貿易、投資、企業の駐在等、相互の経済交流は、極めて密接である。
    外務省の海外在留邦人数調査統計によれば、香港総領事館の管轄地域(香港と
    マカオ)の2014年の在留邦人の数は、2万7,146人に達しており、韓国全体
    (3万125人)に匹敵する。 こういった現在の経済関係に限らず、日本は香港の
    歴史、文化、社会に大きく影響を与えてきた国のひとつであり、香港を語る上で、
    日本の存在は欠かせない。

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    日本が最も直接的に香港に関わったのは、第二次世界大戦中の占領であった。
    1941年12月8日、日本は対英米開戦し、真珠湾攻撃と同時に、香港にも攻め
    入った。 12月25日、イギリス香港政庁は日本に降伏し、その後、1945年8月
    15日の敗戦まで、日本は香港を占領した。 降伏の日は『ブラック・クリスマス』
    と呼ばれ、日本の占領期間を指す『3年8ヶ月』は、香港史においては、暗黒
    時代として記録されている。 香港の人口が多過ぎると見た日本軍は、市民の
    香港からの追放や殺害等を行い、人口は占領前の150万人から敗戦時の60万人
    まで減少した。 日本語教育が強制され、経済は著しく混乱して飢える者も
    多かった。

    その中でも、現在まで禍根を残した問題が、軍票問題である。 日本軍は、軍票と
    呼ばれる紙幣を発行し、香港市民に強制的に財産を軍票に換金させたが、日本の
    敗戦によって、軍票は紙くずと化した。 財産を失った被害者達は、戦後賠償を
    求めて日本でも裁判を起こしたが、敗訴している。 彼らは、しばしば香港の
    日本総領事館に対して、抗議活動を行っている。 また、歴史問題に関しても、
    香港の反日感情は弱くなく、しばしば反日デモも発生する。

    また、尖閣諸島の中国による領有を主張する『保釣問題』も存在する。 香港
    での保釣運動は、アメリカが沖縄返還と合わせて尖閣諸島を日本に返還する事を
    決定した事を受けて開始された。 1971年2月28日には、香港では初めての
    日本総領事館へのデモ行進が行われ、その後、大規模な集会等も行われた。
    1996年には、日本の右翼団体が尖閣諸島に灯台を建設した事を切っ掛けに、
    再び保釣問題が盛り上がり、9月26日には、尖閣諸島付近で海上保安庁に阻止
    された『保釣号』に乗っていた活動家が、島への上陸を強行しようとして海に
    飛び込み海上保安庁に阻止され、溺死した。 これを受けて、活動家を追悼する
    集会には、5万人が参加したという。 そして、2012年8月15日には、
    『保釣行動委員会』メンバーが尖閣諸島に上陸し、日本の世論を驚かせた。

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    これらの事柄から、日本でも香港も中国大陸同様に、激しい反日感情を抱いた
    土地であると見る人も多いが、実際には、大陸と香港の反日運動には、相違点も
    多い。 第一に、大陸との『愛国』の温度差である。 保釣行動委員会の
    メンバーは、中央政府と対立する民主派によって構成されており、これらの対日
    抗議運動の他、天安門事件追悼活動等にも深く関与している。 その主要な者の
    多くは、中国政府によって大陸に入ることすら認められず、むしろ、西洋的
    価値観に近い売国奴と非難される側にある。 香港の保釣行動委員会の主張は、
    日本に抗議するという点で大陸と同じでも、毛沢東像を掲げた大陸の反日でもとは
    相容れない。 第二に、反日の質の違いである。 香港でも歴史問題や尖閣諸島に
    関係する反日でもはしばしばあるが、デモは暴力行為を伴わず、日系デパートの
    並ぶ中心街を整然と行進し、日本製品ボイコット運動が盛り上がる事もない。

    暴動化する大陸の反日デモよりも、遥かに冷静なデモが行われる理由としては、
    もちろん大陸と香港の社会の相違という原因も大きいが、同時に重要なのは、
    戦後日本と香港が積み上げて来た、友好的で密接な交流の歴史であろう。
    日本政府観光局の統計では、2014年の香港からの訪日客は、のべ92万5,975人に
    達した。 総人口わずか720万人ながら、台湾、韓国、中国に次いで、訪日客数は、
    世界第4位である。 香港では、ポップカルチャーや食文化、家電や生活用品等を
    中心に、日本文化や製品が大いに支持されており、日系資本のデパートから
    『日本城(ジャパン・ホームセンター)』と称する日用雑貨のチェーン店、地元系の
    小さな日本料理店まで、街頭には日本の影響が至るところに見られる。 日本は
    もはや市民生活の一部になっていると言っても過言ではない。

    また、多くの香港人が日本訪問や日本人との接触を通じて、現在の安全で繁栄する
    清潔な日本、勤勉で正義正しい日本人に好感を持っている。 香港大学民意研究
    プログラムの2015年5~6月の調査では、54.5%の人が日本の人々に好感を
    持っていると答えた。 これは、中国大陸の人々に好感を持つ割合(28.2%)は
    勿論の事、香港の人々自身への高感度(40.7%)をも大幅に上回り、調査対象の
    16カ国、地域中、台湾、シンガポールに次いで3位の高評価であった。

    一方、同じ16カ国、地域の政府に対する意識を尋ねると、日本政府に好感を持つと
    答えた者は、わずか17.5%と、タイ、ロシアに次いで、同調査では下から3番目で
    あり、反感を持つと答え者は48.4%にも達し、アメリカ(35.7%)を引き離して、
    調査対象中で最も多い。 香港市民の日本政府に対する評価は極めて低い。
    これは編に、歴史問題や領土問題を巡って、日中関係が緊張している事の反映で
    あると言える。

    このように、香港の人々の対日感情は、親日と反日の一言ではとても割り切れない、
    極めて複雑な側面を含んでいる。 現在の日本人が香港の人々との付き合いを
    するにあたり、反日感情を過度に心配する必要はなく、観光客が日本人である
    という理由で理不尽な扱いを受ける事はまずない。 しかし、他方では、両地の
    間に過去不幸な歴史も存在し、被害を被った人や、日本への反感を持っている人が
    かなり居るという事も、決して忘れてはならない事実なのである。

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