多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    カテゴリ: アジア

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    16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。 16世紀半ば、
    台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』と叫んだと言う。
    『麗しの島』という意味である。 そして、その後の数世紀の間、ヨーロッパ人達は
    台湾をフォルモサと呼んだ。

    17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易のために
    拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に上陸。
    その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



    安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
    締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
    攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
    オランダに委ねて行く。

    一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの要塞を
    築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の混乱平定に
    力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、ライバル、スペインを
    この島から追い出した。 1642年には、台湾に居るヨーロッパ人は、オランダ人だけと
    なった。

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    【オランダ統治時代】


    オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を奨励し、
    島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を先住民や
    移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の国々を相手に
    して中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させたのである。

    オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
    砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製陶磁器を
    仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、 習慣性のある
    麻薬、アヘンを買った。



    より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を奨励
    した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。 オランダから来た
    宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい信仰を先住民に教えるために
    学校を建てた。

    オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な税を
    課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や武力を
    用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の反乱である。
    約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃したのだ。 しかし、
    棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで敗北する。 戦死とその後の
    虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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    宋王朝は最終的に、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンによって滅ぼされた。
    1279年フビライ・ハーンは、元王朝を建て、1292年と1297年に、台湾の住民を
    従えようと遠征軍を送ったが、成功しなかった。 これ以後、澎湖諸島に住み着く
    漢人も増え、やがて漢人の官僚が統治することになった。 澎湖諸島は、元王朝の
    辺境の地となったが、先住民と交易するだけで、島には定住しなかった。

    16世紀ともなると、福建の漁民や貿易商人は、漁場や交易の地としての台湾の価値に
    目を向けるようになっていた。 しかし、1368年、元に代わって中国大陸を支配した
    明王朝は、台湾島を中国の一部とはみなしていなかった。

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    【倭寇と移民】

    15世紀、澎湖諸島の他の台湾島に拠点を置く貿易商人も居た。 次第に海賊と化した
    武装商人団もあって、16世紀になると、海賊事件が増えた。 商船の船荷を奪ったり、
    中国大陸の沿岸や朝鮮半島南端を襲撃したのである。 漢人が中心だが、日本人や
    朝鮮人も居た。 14世紀半ばから15世紀に掛けての日本人を中心とした海賊が
    倭寇と呼ばれたのにならって、やはり、倭寇と呼ばれた。 漢人の海賊の中では、
    林道乾と林鳳が最も有名である。 彼らは、16世紀中頃にに暴れ回った海賊で、
    いずれも台湾に拠点を作った。

    海賊が出没する一方で、貿易も盛んで、商人は陶磁器、布、塩等の積荷を、台湾で
    鹿皮や魚等と交換した。 鹿皮は、日本へも運ばれた。 日本の戦国武将が身に付けた
    鹿皮の陣羽織は、台湾の皮で作ったものである。 また、貿易での利益を当て込んで、
    福建省から台湾への移民も増えた。 当時、日本も台湾との貿易には関心を持って
    おり、日本の商船が出たり、豊臣秀吉が1593年には台湾の『高山国』に宛てて書簡を
    出したりしている。

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    台湾の人口の3分の2は都市部に住んでおり、その中でも人口が多いのが台北市で
    ある(人口約270万人)。 台湾北部の都市、台北は、新店渓、淡水河の合流地点に
    位置した行政と産業の中心地である。 1949年以来、台北は中華民国の首都にも
    なっている。

    台北で有名な施設のひとつに国立故宮博物院がある。 ここには1940年に中国大陸から
    運び込まれた数十万点にもおよぶ中国の文物が所蔵されている。 市立美術館も数多くの
    芸術作品を所蔵していることで知られており、油彩、彫刻等の作品が展示されている。

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    台北の淡水河沿いの大稲埕は、元は平地先住民(平埔族)の村だったが、18世紀はじめに
    漢人も移り住み、やがて物流と貿易の町として発展した。 1875年には、台北北部の
    主要都市として発展した。 1875年には台湾全土の政治の中心地となった。 更に、
    日本の統治下(1895~1945年)で台湾は大きく発展する。

    現在、台北と周辺の工場では、コンピューターおよびその関連製品をはじめとして、様々な
    工業製品が作られるようになった。 また、台北は、西部沿岸を走る鉄道(縦貫鉄道)の
    ターミナル駅であり、国内線の空港があり、国際線の空港や、主要都市へ繋がる高速
    道路の起点ともなっている。



    台湾第二の都市高雄(人口約278万人)は、2010年12月に高雄県を合併したため、
    台北を抜いて、人口では台湾第一の都市となった。 その東にある鳳山に漢人が
    住み着いたことに始まる。 オランダの当地を経て、17世紀に鳳山の外港として港が
    開かれてから、街として発展した。 もとは打狗(ターカオ)という地名であったが、
    日本の統治時代に音を合わせた高雄となった。 やがて高雄は台湾を代表する港湾
    都市となり、また、台湾最大の海産物市場がある。 国内線、国外線の空港があり、
    鉄道と高速鉄道のターミナルにあたる高雄は、鉄工所、製鉄所、造船所、製油所等が
    ある重要な産業の中心地でもある。

    中西部にある台湾第三の都市、台中市(人口約275万人)は、もとは平埔族の地で、
    18世紀から漢人が住み着き、やがて発展して19世紀には一時台湾府が置かれた。
    1967年には、台中港が建設され、工業都市としても重要な都市として位置づけを
    されるようになった。



    台湾南部の都市、台南市(人口約189万人)は、最も古い歴史を持つ街である。
    15世紀には、中国大陸や日本の海の商人らの出入りする港町、安平であり、1624年に
    オランダ人が上陸して以降、200年余り、台湾統治の拠点であった。 日本統治時代の
    公共建築物や孔子を祀った廟等、多くの歴史的、宗教的な建造物が残っており、今でも
    台湾の文化の中心地となっている。

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    いくつかの点で、台湾の歴史は中国の歴史と切り離すことが出来ない。 台湾が
    経験して来た多くの変化は、中国で起こった出来事が原因である。 とは言え、
    強い海流、予想のつかない天候変化、台風と言った航海上の危険を伴う台湾海峡に
    よって、ふたつの地域の間では、何世紀もの間、大きな人口移動が妨げられて来た。

    石器や土器等の考古学的発見によれば、2万年前、台湾には旧石器時代の現代人に
    繋がる人類が住んでいた。 一部の学者は、こうしたヒトは、中国が起源だと言う。
    また、別の学者は、東南アジアのマレー半島辺りから渡って来た最初の移民だと
    考えられている。 起源は、いずれにせよ、この頃の人々は低地一帯だけではなく、
    深い山林にも住んでいたのは確かである。

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    【初期の歴史】

    台湾に関する中国・唐時代の記録によれば、漢人とは、この島を流求と呼んだと言う。
    後に、琉球と字が変わった時には、沖縄の事を表し、台湾は、小琉球と呼ばれた。
    また、6世紀はじめに隋の皇帝が兵を送っている。 その頃住民は、木を切り倒し、
    それを焼き払って農地を開墾し、イネ、アワ、マメ等の穀物を植えていた。 島には
    階級支配制度があり、1人の指導者と、何人かの副指導者が治めていた。 敵の
    頭を切り落とし、勇気の証拠として飾る首狩りの風習もあった。 隋の兵は、彼等を
    数千人も捕虜にして連れ帰り、以後は関係が絶えたと言う。

    960年から1279年まで続いた宋の時代、近くの膨湖諸島へ渡る者もあった。
    宋代の貨幣や陶器のかけらが膨湖諸島で発見されたことから、島へ渡るようになった
    のは、11世紀頃から考えられる。 島の近海で獲れる豊富な魚にひかれて漁師が
    渡ったのかも知れない。 台湾まで探検する者も居たことであろう。

    13世紀、台湾と膨湖諸島への探検は更に盛んに行われるようになった。 この頃、
    中国北部の勇敢な民族であるモンゴル人が南下し、宋王朝を現在の浙江省にある
    杭州にまで追いつめていた。 南シナ海に面する江南に移った宋の政府は、造船
    技術の向上を支援し、南海貿易を奨励した。 また、船乗り達は、磁気針を水に
    浮かべて、方位を測定する方法を用いて、中国大陸と台湾の間の海域をより正確に
    航海出来るようになった。 水針は、後の明の時代に羅針盤に発展する。 こうした
    航海術の向上が海上交通を盛んにしたのである。

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    中国大陸東南沿岸部の沖に浮かぶ島である台湾は、今大きな経済力を持つまでに
    発展し、世界中の市場に加工品を輸出している。 20世紀中頃までは、台湾の主な
    産業は農業であった。 島とは言え、台湾には豊かな歴史と文化がある。 17世紀、
    ポルトガル人から『フォルモサ(美しの島)』と呼ばれたこの島は、一部がオランダ、
    次いで清朝の統治を受けた。 やがて、日本と清朝との間に戦争が起こり、1895年
    には 大日本帝国の領土となる。 そして、1945年には、中華民国政府が台湾を
    統治するようになった。

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    その後、中国大陸で起きた大事件が、台湾に大きな影響を与える。 中華民国の
    国民党軍と中国共産党軍との衝突が、中華民国政府の安全を脅かしたのである。
    1949年、蒋介石を首脳とする中華民国指導部は、中国全土を支配した共産党軍から
    逃れ、蒋介石は台湾に渡り、亡命政府を置いた。 そして、1949年には、共産党が、
    中国大陸に中華人民共和国を樹立する。

    国民党が来てから台湾住民は、新たな混成となった。 最大グループは、台湾人で、
    過去数世紀の間に島に移り住んだ漢族の子孫だけが、多くは先住民との混血が
    見られる。 1949年前後に大陸から来た人々も漢族だが、別のグループとなっている。
    そして、最も少数派は、台湾原住民と呼ばれる、この島の先住民の子孫である。



    台湾と中国大陸との両政権は共に、台湾は中国の一省であり、中国は統一すべきで
    あるという考えを掲げて来た。 だが、統一実現後の政治体制についての考えには
    大きな隔たりがある。 また、独自の道を歩むべきとの考えも台湾では根強く、
    両者は台湾海峡を挟んで対峙が続いている。

    国際連合は長年、中華民国を中国を代表する政府として支持していたが、1970年代
    には、国連加盟国の多くが、中華人民共和国を承認するようになった。 中華民国は
    国連から脱退し、外交関係を持つ国は30カ国足らずである。

    この挫折にも関わらず、台湾の経済成長は1950年代以来、高水準で続き、1970年代
    後半には、アジア最高水準の人々の生活を実現するのである。 更に、その経済力を
    背景に、台湾の政府は、国際関係で積極的な活動を続けた。 台湾は外交的に
    不遇とは言え、日本等多くの国と経済的、文化的な交流を維持している。

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    1988年1月、父親蒋介石の後を継いだ蒋経国が死去し、副総統だった李登輝が
    台湾出身初の指導者になった。 李登輝は民主化を進め、1996年国民による初めての
    直接選挙で総統に選ばれた。 それに継ぐ2000年の総統選挙では、野党の
    民主進歩党から出馬した陳水扁が総統に選出され、国民党は野党になって、平和的な
    政権交代が実現した。

    陳水扁政権は、台湾本位の政策を進める政権としてスタートする。 しかし、中華人民
    共和国は、軍備の拡大や経済面での締め付け等で統一への圧力を高めている。

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    香港では、寿司をはじめとする食文化や、アニメ・ゲーム等の大衆文化を中心に、
    日本文化が広く浸透している。 コンビニには、ファッション雑誌や、清涼飲料水等の
    日本語の書かれた商品が溢れ、地元の広東語番組では、『イチバン』や『ダメダメ』等、
    日本語風の表現が時折聞かれる。

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    香港は、このように日本が感じられる社会であるため、公用語の中文、英語を除けば、
    日本語は学習者の最も多い言語と見られている。 話者数に関する公式の統計は
    ないが、国際交流基金によれば、2012年時点での日本語学習者は、2万2,555人で、
    そのうち、76%が日本語学校等、学校教育以外の場で日本語を学習しており、
    大学は13%、初中等教育では11%である。 また、2012年から始まった香港中等教育
    筆記試験では、日本語を含む6つの外国語が選択科目として導入されたが、2015年の
    試験で日本語を選択した受験者は、199人と2位のフランス語(57名)を大きく引き離して
    いる。

    学習動機としては、大衆文化と日本旅行への興味、関心が多く、進学、就職等に使える
    実利面もしばしば挙げられるが、同時に香港人学習者にとっては、漢字を使用する
    日本語が他の外国語に比べて学びやすい要因もあるのであろう。 中文と英語の
    読み書きに加え、広東語、中国語、英語の運用能力が前提付けられた『両文三語』と
    呼ばれる言語政策の下で、特に英語に苦手意識のある学習者が日本語を学ぶことで
    言語学習に対する自身を取り戻そうとする場合もある。

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    学習環境は整っており、市中の日本語学校以外にも、現在8つある全ての公立大学で
    日本語が履修出来、日本語、日本文化を専攻出来る大学院、大学、コミュニティー
    カレッジ(短大に相当)も一定数存在する。 このような背景により、日本語学習の層も
    厚く、その中から、香港人日本語教師も数多く輩出されている。 教師養成機関としては、
    香港中文大学に2006年から2011年まで日本語教師養成を主とした修士課程が設け
    られ(現在は大学院の選択科目として開講)、現在も在留邦人や日本留学経験者の
    ある香港人が養成機関を経ずに教師となり実践経験を積むケースも多い。

    学習方法もテクノロジーの発達と共に変化を見せている。 従来は文法、読解は出来
    ても会話が苦手なのが香港人学習者の特徴とされて来たが、インターネットで手軽に
    日本語コンテンツに触れられる環境が整ったことから、近年では、若者層を中心に、
    独学が一般化し、ウェブ上のデジタル教材を活用したり、ソーシャルネットワークで
    日本語母国語話者と交流したりして、教育機関に通わずにコミュニケーションスキルを
    磨く学習者が増加している。 こうした学習者の広がりを受け、大学でも日本語
    既学習者があえて初級の日本語のクラスを履修し、高得点を狙おうとする現象が顕著に
    なった。

    新界付近の住宅地にある日本語学校を例に取ると、新規受講は日本旅行が切っ掛け
    という場合が目立ち、外国語の通じにくい地方へ旅行に行くため、中上級まで学習を
    継続する受講生も少なくない。 2011年の東日本大震災直後は、超円高も相まって、
    日本への渡航が下火になり、受講者が一旦減少したものの、近年円安傾向で再び
    日本旅行にブームが起き、回復傾向にある。 極端な例としては、日本で不動産を
    購入し、年間数ヶ月間を日本で過ごし、日本語力を鍛える強者も存在する。

    ここ数年の韓流ブームで韓国文化に関心を持ち、韓国語を学ぶ人が増えたため、
    日本語教育にも若干影響が見られるようになった。 韓国語熱の高まりを受け、
    一部の日本語学校では、韓国語コースも開講しているが、ここ1~2年は、日本旅行
    ブームの恩恵を受けてか、一時期低下傾向にあった日本語学習者数が上昇に転じ、
    横ばい傾向にあった韓国語を尻目に、安定した伸びを見せている。

    また、旅行や大衆文化等で幅広く学習者を引き付ける日本語に対して、韓国語は、
    Kポップや韓流ドラマの女性ファンが中心で学習者の偏りが大きい。

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    香港にとって、日本は間違いなく最も親密な関係を持つ、重要な外国のひとつ
    である。 貿易、投資、企業の駐在等、相互の経済交流は、極めて密接である。
    外務省の海外在留邦人数調査統計によれば、香港総領事館の管轄地域(香港と
    マカオ)の2014年の在留邦人の数は、2万7,146人に達しており、韓国全体
    (3万125人)に匹敵する。 こういった現在の経済関係に限らず、日本は香港の
    歴史、文化、社会に大きく影響を与えてきた国のひとつであり、香港を語る上で、
    日本の存在は欠かせない。

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    日本が最も直接的に香港に関わったのは、第二次世界大戦中の占領であった。
    1941年12月8日、日本は対英米開戦し、真珠湾攻撃と同時に、香港にも攻め
    入った。 12月25日、イギリス香港政庁は日本に降伏し、その後、1945年8月
    15日の敗戦まで、日本は香港を占領した。 降伏の日は『ブラック・クリスマス』
    と呼ばれ、日本の占領期間を指す『3年8ヶ月』は、香港史においては、暗黒
    時代として記録されている。 香港の人口が多過ぎると見た日本軍は、市民の
    香港からの追放や殺害等を行い、人口は占領前の150万人から敗戦時の60万人
    まで減少した。 日本語教育が強制され、経済は著しく混乱して飢える者も
    多かった。

    その中でも、現在まで禍根を残した問題が、軍票問題である。 日本軍は、軍票と
    呼ばれる紙幣を発行し、香港市民に強制的に財産を軍票に換金させたが、日本の
    敗戦によって、軍票は紙くずと化した。 財産を失った被害者達は、戦後賠償を
    求めて日本でも裁判を起こしたが、敗訴している。 彼らは、しばしば香港の
    日本総領事館に対して、抗議活動を行っている。 また、歴史問題に関しても、
    香港の反日感情は弱くなく、しばしば反日デモも発生する。

    また、尖閣諸島の中国による領有を主張する『保釣問題』も存在する。 香港
    での保釣運動は、アメリカが沖縄返還と合わせて尖閣諸島を日本に返還する事を
    決定した事を受けて開始された。 1971年2月28日には、香港では初めての
    日本総領事館へのデモ行進が行われ、その後、大規模な集会等も行われた。
    1996年には、日本の右翼団体が尖閣諸島に灯台を建設した事を切っ掛けに、
    再び保釣問題が盛り上がり、9月26日には、尖閣諸島付近で海上保安庁に阻止
    された『保釣号』に乗っていた活動家が、島への上陸を強行しようとして海に
    飛び込み海上保安庁に阻止され、溺死した。 これを受けて、活動家を追悼する
    集会には、5万人が参加したという。 そして、2012年8月15日には、
    『保釣行動委員会』メンバーが尖閣諸島に上陸し、日本の世論を驚かせた。

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    これらの事柄から、日本でも香港も中国大陸同様に、激しい反日感情を抱いた
    土地であると見る人も多いが、実際には、大陸と香港の反日運動には、相違点も
    多い。 第一に、大陸との『愛国』の温度差である。 保釣行動委員会の
    メンバーは、中央政府と対立する民主派によって構成されており、これらの対日
    抗議運動の他、天安門事件追悼活動等にも深く関与している。 その主要な者の
    多くは、中国政府によって大陸に入ることすら認められず、むしろ、西洋的
    価値観に近い売国奴と非難される側にある。 香港の保釣行動委員会の主張は、
    日本に抗議するという点で大陸と同じでも、毛沢東像を掲げた大陸の反日でもとは
    相容れない。 第二に、反日の質の違いである。 香港でも歴史問題や尖閣諸島に
    関係する反日でもはしばしばあるが、デモは暴力行為を伴わず、日系デパートの
    並ぶ中心街を整然と行進し、日本製品ボイコット運動が盛り上がる事もない。

    暴動化する大陸の反日デモよりも、遥かに冷静なデモが行われる理由としては、
    もちろん大陸と香港の社会の相違という原因も大きいが、同時に重要なのは、
    戦後日本と香港が積み上げて来た、友好的で密接な交流の歴史であろう。
    日本政府観光局の統計では、2014年の香港からの訪日客は、のべ92万5,975人に
    達した。 総人口わずか720万人ながら、台湾、韓国、中国に次いで、訪日客数は、
    世界第4位である。 香港では、ポップカルチャーや食文化、家電や生活用品等を
    中心に、日本文化や製品が大いに支持されており、日系資本のデパートから
    『日本城(ジャパン・ホームセンター)』と称する日用雑貨のチェーン店、地元系の
    小さな日本料理店まで、街頭には日本の影響が至るところに見られる。 日本は
    もはや市民生活の一部になっていると言っても過言ではない。

    また、多くの香港人が日本訪問や日本人との接触を通じて、現在の安全で繁栄する
    清潔な日本、勤勉で正義正しい日本人に好感を持っている。 香港大学民意研究
    プログラムの2015年5~6月の調査では、54.5%の人が日本の人々に好感を
    持っていると答えた。 これは、中国大陸の人々に好感を持つ割合(28.2%)は
    勿論の事、香港の人々自身への高感度(40.7%)をも大幅に上回り、調査対象の
    16カ国、地域中、台湾、シンガポールに次いで3位の高評価であった。

    一方、同じ16カ国、地域の政府に対する意識を尋ねると、日本政府に好感を持つと
    答えた者は、わずか17.5%と、タイ、ロシアに次いで、同調査では下から3番目で
    あり、反感を持つと答え者は48.4%にも達し、アメリカ(35.7%)を引き離して、
    調査対象中で最も多い。 香港市民の日本政府に対する評価は極めて低い。
    これは編に、歴史問題や領土問題を巡って、日中関係が緊張している事の反映で
    あると言える。

    このように、香港の人々の対日感情は、親日と反日の一言ではとても割り切れない、
    極めて複雑な側面を含んでいる。 現在の日本人が香港の人々との付き合いを
    するにあたり、反日感情を過度に心配する必要はなく、観光客が日本人である
    という理由で理不尽な扱いを受ける事はまずない。 しかし、他方では、両地の
    間に過去不幸な歴史も存在し、被害を被った人や、日本への反感を持っている人が
    かなり居るという事も、決して忘れてはならない事実なのである。

    【お勧めの一冊】


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    香港住民は、自らを何人だと考えているのか。 この問いの答えは、当の
    香港人にとっても自明のものではない。 香港大学の世論調査プログラムでは、
    返還以来、継続的に香港住民が自分を何人と称するかについて調査を行っているが、
    それによると『香港人』という回答は、返還以来減少していたが、2000年代末頃
    から増加に転じ、2012年上半期には、返還後最も高い45.6%を記録している。
    これに対して『中国人』という回答は、ほぼ逆の動きを見せている。

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    『香港人』という意識は、一般に、1960~70年代の香港の社会的、文化的変容の
    中で原形が生まれ、返還後の1980年~90年代には、『香港人』は『中国人』とは
    異なるという意識が顕著になって行ったとされる。 改革、開放当初、発展を
    始めたばかりの中国大陸は、戦後の高度成長を経て、国際金融センターとしての
    地位を確立していた香港から見れば、『貧しくて遅れた』存在であり、大陸側から
    来る新移民に対して、テレビドラマ等を通じて『ダサい、怠慢、公的道徳に欠けた』
    等、ネガティブなイメージが共有されて行った。

    とは言え、一方で、香港在住民の対部分は、中国大陸から移って来た難民、移民、
    および、その子孫であり、民族的、文化的起源が中国にあることは否定し難い。

    こうした中で、香港住民は、非民主的で遅れた中国大陸と対比されたり、中国共産党
    政権の脅威を訴える局面では『香港人』となり、一方で伝統文化や中国人スポーツ
    選手の活躍を誇りに思う時は『中国人』となるというように、両者を使い分け、
    あるいは、両者の間を揺れて来た。 帰属意識の矛先が、20年も経たない短期間の
    うちに二転三転しているということ自体、この交錯した心理を良く物語っている。

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    2014年12月23日、RFI中国語版によると、香港で行われた世論調査で、『香港人』
    としてのアイデンティティーが『中国人』としてのアイデンティティーを大きく
    上回った。  香港大学民意研究計画センターは香港市民のアイデンティティーに
    関する世論調査を実施した。 12月10日から16日に掛け、1,016人を対象に電話
    調査が行われた。『香港人』と回答したのは42%。 『中国人』との回答は18%
    となった。 

    また、『香港人』『アジア人』『中華民族の一部』『世界市民』『中国人』
    『中華人民共和国公民』というそれぞれの項目に対して、どれほどの帰属感を
    感じるかを0〜100点で表現してもらったところ、『香港人』の平均得点は約80点と
    前回調査を2点上回った。 その他、『アジア人』69.8点、『中華民族の一部』
    65.9点、『世界市民』63.7点、『中国人』62点。『中華人民共和国国民』
    54.4点となった。 

    『中国人』『中華人民共和国国民』の平均点は、2008年の調査開始以来、過去最低
    となった。

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    マカオ(澳門)は、東アジアで最も古いヨーロッパと中国明代の面影が残る
    小さな街。 2015年現在、人口64万人、面積30平方キロメートル、東京都
    府中市とほぼ同じ大きさで、板橋区よりも少し小さい。 最初に街が開かれた
    のは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3部分から成っていたが、両島を
    繋ぐ橋の両側に広大な埋立地コタイが造られ、面積が大きくなった。

    中国の歴史的商業都市、広州に連なる珠江の東シナ海の河口の西南部に位置して
    いるのがマカオとなっており、北東部に位置しているのが香港となっている。
    両地域の移動は、高速フェリーで1時間だが、建設中の港珠澳大橋が開通すれば、
    車で30分となる。 両地は近くなる上、似た歴史を持つが、マカオは決して
    リトル香港ではない。

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    15世紀以降、ヨーロッパで最も大規模な航海に出たポルトガルが、アフリカ西岸を
    南下し、喜望峰を超え、イスラム圏を東に進み、インドを超え、東南アジアを抜け、
    中国南部へと至る。 16世紀はじめに中国に到達し、1557年頃マカオに居留地を
    得て、19世紀に統治権を得た。

    第二次世界大戦後は、ポルトガル本国の力が弱く、1960年代の中国の文化大革命の
    影響を受けて、マカオで起こった中国人による暴動(12.3事件)をポルトガル側が
    単独で鎮圧出来なかったため、マカオでは、中国の影響が強まったと言われている。

    更にポルトガル本国では、1974年に民主革命があり、共産主義の影響を受けた
    軍人によって、独裁政権が倒され、海外領や、かつての海外の植民地が解放されて
    行く。 マカオについても、中国への返還に抵抗が見られず、香港の返還が決定
    した後で、すんなりとマカオの返還が決まり、1999年12月20日に中国の特別行政区
    となった。

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    マカオの返還前の住民社会構造は、4層から成っていた。 本国派遣のポルトガル人、
    最も多い中国(広東)人、その中間に位置するマカエンセ、中国や東南アジアからの
    出稼ぎ労働者である。 マカエンセは、中国とポルトガル、ないし、その他の地域の
    混血グループである。 世界に数万、マカオには、数千人居ると見られている。
    中ポ両言語を話し、独自の文化、コミュニティー、ネットワークを持つ。 伝統
    マカオ社会、行政や初期香港において、仲介以上の役割を果たして来た。

    出稼ぎ労働者は、主に工場、商店、家事労働なとに従事する期限付きの輸入労働力で
    ある。 返還の頃は1万人前後であったが、ここ数年間で急増し、2014年には、
    17万人近い規模となった。 そのうち、11万人が中国からで、中国の労働力輸出
    としても注目するところとなった。

    この社会構造は、エスニシティーによる役割分担である。 ローカル住民の中では、
    マカエンセは優位にあり、例えば、勤勉でなくとも、高位に就いた。 マカオの
    中国人にとっては、中国の政治力や経済力に期待を寄せる所以となった。 共産
    主義の中国の外に住む中国人の中で、最も中国への親近感が高いのが、マカオで
    あろう。

    ポルトガルの影響は、今後も文化や宗教の分野を中心に、色濃く残って行くだろう。
    文化を重んじる細やかな感性は、マカオの地に根付いており、マカオの中国人からも
    感じ取ることが出来る。

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    マカオをポルトガル大航海の終点と見る時、マカエンセ、マカオ料理、マカオの
    建築物や風景等は、旧ポルトガル領の他地域の特徴が融合し、その情緒がマカオ
    そのものと言えるのかも知れない。

    マカオ経済に関しては、特殊な産業構造、賭博産業と観光業が突出している。
    2014年の雇用者数を見ると、賭博関係が27.5%、ホテルやレストラン関係が16%を
    占めている。 マカオの公営賭博は、19世紀頃以来の歴史を持つ。 返還後、カジノ
    投資が自由化され、海外資本の大規模開発が行われ、中国からの客が押し寄せた
    結果、2006年には、カジノの売り上げが世界最高となった。 現在の売り上げ
    規模は、ラスベガスの7倍となっている。 それによって、マカオ全体の収入が
    急増した。

    2014年の一人当たりのGDPは、約8万9千米ドル(約1千70万円)で世界トップ
    クラス、返還当時の5倍以上にあたる。 だが、これらの数字は、中国に左右され、
    近年の中国幹部の汚職摘発の影響で、カジノの売り上げ、GDP共に、減少した。

    賭博が基幹産業となっている社会には、特殊性があり、ギャンブル依存の問題が必ず
    生じうる上、換金や性的サービスの分野も増長する。 そのため、子供や公務員の
    賭博場への出入りは禁止され、『カジノ社会学』という研究分野もある。 日本では、
    ギャンブル依存が放置されたまま、カジノ解禁が提案されている。 マカオの経験
    から日本が学ぶところは多いであろう。

    中国の対外的な窓口であったマカオは、香港の成立以降、その甘みを奪われた。
    地理的にも珠江が運ぶ砂が港としてのマカオを不利にしたという。 しかし、
    返還後は、中国の川砂ではなく、中国人の欲望をかき集め、繁栄に至った。 
    マカオは、今後も独自の戦略によって、大変貌するであろう。

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    イギリスは当初、主権を中国に返還しても、行政権をイギリスが持ち続ける
    という方式も考えていた。1982年9月24日、北京の人民大会堂で、マーガレット・
    サッチャーは鄧小平との会談に臨んだ。 フォークランド紛争に勝利して自信に
    満ちたサッチャーは、意気揚々と北京に乗り込んだが、そこで手痛い挫折を
    味わった。

    イギリスが香港を条約によって正式に得たということ、香港の繁栄はイギリスが
    築いたということを堂々と主張するサッチャーに対して、鄧小平は大いに怒り、
    『爆撃しろ』という言葉も吐いたという。

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    サッチャーが香港に関するイギリスの法的な立場を強調したことに、鄧小平は
    一向に関心を示さなかったという。 中国人の目から見れば、イギリスが香港
    統治の根拠としている南京条約・北京条約・新界租借条約は、強制しされた不平等
    条約であり、中国人としては香港を取り戻すことはナショナリズムに触れる問題
    であった。

    この後両国は交渉を重ねるが、結局イギリスは香港統治の継続を断念し、1984年
    12月19日に中英共同声明が正式調印され、イギリスは1997年7月1日に香港を中国に
    返還すること、そして返還後の香港では『一国二制度』が実施されることが約束
    され、香港返還問題は決着を見た。

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    尚、1997年に租借期限を迎えたのは、新界地区のみであり、期限なしで割譲された
    香港島と九龍半島については、理論上この日を期限とする必要はない。 しかし、
    香港の発展はこの三地区を跨いで進められており、道路や地下鉄網だけではなく、
    啓徳空港の滑走路も新界と九龍の双方に跨っているため、新界のみを返還するのは
    事実上不可能であり、全ての香港が一括して返還されることになったのである。

    中英両国は、全ての香港の返還に基本合意したが、1984年の共同声明調印から
    1997年の返還までの過渡期と言われる時期の香港政治は波乱万丈であった。 特に
    民主化問題を巡って、両国は対立を繰り返した。 1997年の返還自体は、
    スムーズに行われ、『一国二制度』方式の実践が始まった。

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    香港は、『借りた場所で借りた時間を』過ごしていると言われる。 イギリスが
    1898年に新界を租借した際、その期間は99年間とされた。 すなわち、1997年
    以降、香港の地位がどうなるかについては、長い間議論がなされていなかった。

    1970年代になると、香港の将来問題が本格的に浮上して来た。 1971年着任の
    クロスフォード・マクルホース香港総督が、香港の社会福祉を急速に拡大した
    背景には、1967年の香港暴動に対する反省も言われるが、新界租借期限が迫る
    中で、中国よりもあらゆる面で優れている統治を行い、中国との交渉を有利に
    するためという、イギリスの外交政策の目的のためでもあったという。

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    イギリスは、1997年以降も香港の統治を続けることを希望していたが、中国は、
    香港の回収を目指した。 1971年11月、中華人民共和国は長年の努力の末、台湾の
    中華民国に変わって国連代表権を得た。 すると翌年1972年3月んみ、中国は
    香港について、イギリスに占領された中国の領土であるとの立場を明確化し、
    国連の植民地リストから香港とマカオを削除するよう求めた。 1979年3月、
    マルクホース香港総督は初めての香港総督の公式訪問という形で北京を訪問したが、
    その際、中国の最高指導者であった鄧小平は、イギリスの香港統治の継続を明確に
    受け入れることはせず、香港を回収する可能性をほのめかした。 しかし、
    マルクホースは、香港の動揺を恐れ、香港に戻ると『投資家は安心して良い』
    という鄧小平の伝言のみを発表した。

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    中国はこの頃、台湾問題の解決の手段として、社会主義中国の中で、一部地域に資本
    主義の政治、経済、社会等の体制を残すという『一国二制度』方式の原型を構想し
    初めていた。 1979年元日、中国はアメリカとの国交を正常化した。 これと
    同時に、中国は台湾に対して、『台湾同胞に告げる書』と題する公開書簡を発表し、
    台湾問題の平和解決、現状を重視した現実的な統一政策を提案していた。

    1982年に改正された新憲法では、特別行政区を設置出来るとの条項が追加された。
    台湾の統一問題が進展しない中、中国はまず香港で『一国二制度』を実践し、これを
    モデルケースとして示すことで、台湾を統一に導こうと考えたのである。

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    戦後の香港は、著しい経済発展の時代でもあった。 戦前の香港の主要産業
    であった中国大陸との中継貿易は、共産党政権の誕生によって、大きな打撃を
    受けたが、大陸から香港に来た資本家が工業を興し、難民がこれに労働力を提供し、
    香港はやがて台湾、韓国、シンガポールと共に『アジア四小龍』と称される。
    新興工業経済地域(NIES)に数えられるようになったのである。

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    しかし、庶民の生活は苦しく、植民地支配の下、政府の福祉や弱者対策も不十分
    であった。 このため、1960年代までの香港では、暴動も頻発した。 1956年の
    九龍半島と新界の工業地区での暴動は、戦後初めてのものであり、10月10日の
    中華民国の建国記念日に、公共住宅に中華民国旗を掲げることへ不満を持った
    親国民党の派閥が起こした右派暴動であった。 1966年4月6日には、香港島と
    九龍を結ぶ庶民の足『スターフェリー』の値上げに反対する運動が暴動化した。

    中でも大規模なものは、大陸の文化大革命の影響を受けた左派系の派閥が主導した、
    1967年の暴動であった。 同年5月、九龍の造花工場の労働闘争が、香港政庁批判の
    政治運動と化した。 これを背後で共産党組織、広東省の紅衛組織が支援し、
    暴動化した。 8月には左派は、時限爆弾によるテロを開始し、半年以上の
    混乱の中、政府公表で死者51人、負傷者848人、逮捕者は5,000人以上、秘密裏に
    大陸に追放された者多数という悲劇を産んだ。

    これにより、香港の左派は、大きく信用を失ったが、同時に香港政庁もこれまでの
    高圧的な統治への反省を迫れらた。 1970年代になると、『中文公用語化運動』や
    『保釣運動(尖閣諸島の防衛)』など、地元意識の高まりを象徴する学生運動が
    多発した。 イギリスの労働党政権も、香港の福祉の充実を香港政庁に対して
    求めた。

    政庁と市民は、それまで政庁が政権を独占し、地元市民の生活は、半ば放置された
    ような状態にあったが、経済、社会の発展に伴い、相互に要求を伝えたり、民意を
    聴衆したりする必要性を認識した。 民主化は行われなかったが、香港政庁は、
    詰問などの仕組みを通じて、民意を汲み取ることに努めた。

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