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    カテゴリ: 北ヨーロッパ

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    デンマークが経済回復の努力を続けている間に、ヨーロッパ諸国は再度の
    大戦への道を歩み続けた。 ドイツの指導者アドルフ・ヒットラーは、ドイツの
    軍備を再建し、デンマークに対する脅威となった。 デンマーク政府は、紛争を
    避けるため、1939年、ドイツと協定を結び、互いに攻撃しないことを約束した。

    1939年、第二次世界大戦が勃発して、ドイツはイギリスと戦端を開いた。
    デンマークは中立を宣言したが、ドイツには先の協定を尊重する意志はなかった。
    1940年4月、ドイツ軍はユトランド半島を占領した。 デンマークがイギリスから
    攻撃されるのを保護するという名目だった。 デンマーク人が協力するならば、
    内政には干渉しないとドイツ政府は約束した。

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    戦争が長引くにつれて、デンマーク国民はドイツ占領への反感を募らせた。
    一部の人々はデモを行い、また一部の人々は、ドイツ系の企業でサボタージュを
    始めた。1943年8月、デンマーク政府は、ドイツに対してこれ以上協力するのを
    拒否し、ドイツ側は国土を摂取した。 1945年5月、ドイツは敗北し、
    ドイツ軍によるデンマーク占領は終わった。

    デンマークは、戦争によって国土を破壊されることはなかったが、経済は
    弱体化し、アメリカ合衆国は産業復興のために資金を提供した。 デンマークは、
    この資金で国際貿易を再開した。

    1953年、新しい憲法が制定されて議会は一院制となり、女性の王族が王位に就く
    ことが出来るようになった。 デンマークは、国際連合に加盟し、また、NATO
    (北大西洋条約機構)にも加盟した。 NATOは防衛的な性格とは言え、軍事
    機構であり、これに加盟したことは、この国の伝統的な中立政策の転換を
    意味した。

    1952年、デンマークは、ノルディック評議会の創立に参加した。 これは、
    スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランドも加わっている。
    経済と社会と文化に関する協力機関である。 1960年、デンマークはEFTA
    (欧州自由貿易連合)に加盟した。 これはEC(欧州共同体)に参加して
    いない国々で構成した貿易気候である。

    1970年までにデンマークは、世界最高の生活水準を達成した。 福祉制度に
    よって高齢者、障害者、失業者を含む全てのデンマーク国民は、生活を維持する
    だけの所得を保証されている。 全ての段階で、教育を無料で受ける制度も
    定められた。 また、全てのデンマーク人が、無料で医療を受けられる制度も
    確立した。

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    エストルップは国王クリスティアン9世の支持を受け、長期に渡って政権を
    維持した。 しかし、1894年の選挙で敗北したため、総辞職した。 以後、
    デンマークは、広い分野での社会福祉政策を次々に実施した。 全ての国民に、
    基本的に必要なものを政府が提供するという福祉国家の基礎が出来上がった。
    1915年、憲法が改正されて、女性参政権、投票年齢の引き下げ、資産家の
    投票上の特権廃止が定められた。

    経済は1900年代以後、繁栄に向かった。 豚と乳牛はこの国の農業で、ますます
    生産量も増加した。 比較的小規模な企業では、銀製品や陶磁器のような
    高品質の輸出品を製造し始めた。

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    貿易を促進するため、デンマーク政府は、コペンハーゲンを自由港にした。
    つまり、コペンハーゲン港に運び込まれる貨物に対しては、輸入関税が免除
    されるという制度である。 デンマークの商船保有数は世界最大級となり、
    労働者は権利擁護のため、労働組合を結成するようになった。 1900年までには
    労働組合運動は、この国に根付き、労働者のストライキ権を保護する法律も
    制定された。 労使双方の努力で、工業労働者の賃金は1875年から1915年
    までに2倍になった。

    1914年に第一次世界大戦が勃発すると、デンマークは中立を宣言した。 この
    戦争では、ドイツを中心とする同盟国が、イギリスなどの連合国を相手に戦った。
    1918年、ドイツは敗北し、講和条約の結果、デンマーク系住民の多い
    シュレスウィヒ北部はデンマークに返還された。

    1920年代は経済問題の相次いだ時期だった。 社会民主党は、政府の資金に
    よって工業と農業を発展させ、また、大規模な建設計画を実施して職場を創設
    しようという主張を掲げ、次第に支持層を拡大した。 1924年、トルヴァール・
    スタウニングは、デンマークで初めての社会民主党政権を樹立した。

    しかし、社会民主党は、上院では過半数に達していなかったため、主張を
    実施出来る事が出来ず、スタウニングは、間もなく辞任した。 1929年、
    スタウニングを党首とする社会民主党は、急進党の協力を得て、総選挙に勝利を
    おさめた。 同年、世界大恐慌が始まったが、社会民主党は、1930年代も政権を
    維持した。 スタウニングは、社会福祉を拡大する法律を更にいくつも導入したが、
    財政状況は悪化し続けた。

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    シュレスウィヒとホルスタインのドイツ系住民は、新憲法の受け入れを拒否した。
    そして、他のドイツ諸領邦のつくる連邦に加盟しようと、デンマーク政府に対して
    反乱を起こした。 ドイツ連邦の両大国プロイセンとオーストリアは、
    シュレウィヒと ホルスタインを支持して、デンマーク・ドイツ戦争が始まった。

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    1864年、ドイツ連邦軍は、デンマーク軍を敗北させた。 ウィーン条約によって、
    シュレスウィヒとホルスタインは、プロイセンとオーストリアに引き渡された。
    こうしてデンマークは、最も肥沃な農地の一部を失った。

    若い道路技師エンリコ・ダルガスは、農地の損失を補う方法を考えた。 1866年、
    ダルガスは、海を埋め立てて農地を作るための組合組織を創設した。 農民達は
    沼地を干拓して常緑樹を植え、土壌の浸食を防いだ。 その結果、砂性の土壌に
    穀物が出来るようになった。 この埋め立て事業は極めて広範囲に行われたので、
    両地域の損失に十分見合った。

    同じ時期、農業協同組合の運動が起こって、農業の生産性が高められた。 最初に
    協同組合を作ったのは、スティリング・アネルセンというヒェディングの
    農民である。

    アネルセンは、地元の農民達を説得して、個別に行われていた牛乳の加工を
    共同作業で行うことにした。 共同作業場の出現で、機械の購入、加工法の
    研究、販路の拡大などが、個人ではとても不可能な規模で出来ることが分かった。

    最初の農業協同組合は、その製品の品質の高さでたちまち有名になった。 農作
    業面でのその他の改良も進み、協同組合運動は、たちまちデンマーク全土に
    広まった。

    1870年代になると、別の種類の衝撃がヨーロッパの農業市場を襲った。 アメリカ
    合衆国とロシアの農民が、大量の穀物を極めて低い経費で生産出来るようになり、
    余剰農産物をヨーロッパでも売り始めたのである。 ヨーロッパの生産者達は、
    安い輸入品に対抗することが出来ず、穀物の価格は下落した。

    最初は、穀物価格の下落はデンマークの農民達に損害を与えたが、彼らはやがて
    安い輸入穀物を使って、以前より数多くの家畜を飼うようになった。

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    1880年代には、デンマークの農業協同組合は、多量の乳製品とベーコンを
    イギリスに輸出するようになった。 20世紀末には、この種の産物の輸出国の
    トップとなった。

    デンマークはまた、19世紀末に大きな政治問題をひとつ解決した。 この国の2大
    政党である保守党と自由党が、議会の上院と下院の権限の配分について議論を
    重ねた。 自由党は下院で多数を占め、保守党は上院を制覇していた。 両党の
    妥協が成立して、保守党の政治家やヤコブ・エストルップが首相となって政権を
    握った。

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    1790年、フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に
    皇帝ナポレオン1世と称して各国の征服を始めた。 デンマークは、当初、
    中立を守ったが、1807年、フランスの敵国イギリスは、デンマーク艦隊が
    ナポレオンの手に渡るのを恐れて、引渡しを要求した。 デンマークが拒否すると、
    イギリス海軍は、コペンハーゲンを砲撃して、デンマーク艦隊を摂取した。

    国王フレゼレグ6世は、フランスと同盟を結んで、イギリス他各国と戦った。
    1814年、スウェーデンがイギリス側に立ち、ユトランド半島に侵入して
    デンマーク軍を敗北させた。 1815年、ベルギーのワーテルローでのナポレオンの
    敗北によって、戦乱は終わりを告げた。

    戦乱後のキール協定で、デンマークは、スウェーデンにノルウェーを割譲したが、
    元ノルウェー植民地のフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドは、
    デンマーク領となった。 戦争で経済が破綻したデンマークは、大国の地位を
    失った。 国民の多くは、国王が判断を誤ったために敗戦の憂き目を見たと
    思ったが、ただちに王権を縮小しようとはしなかった。

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    しかし、デンマーク領ホルスタイン在住のドイツ系住民は、独自の憲法を
    要求した。 1830年代に国王は、この要求に応えてホルスタイン、
    シュレスウィッヒ、ユトランド諸島群がそれぞれ別個の議会を開くのを認めた。
    4つの議会は立法権は持たなかったが、それぞれの地域の地主階級が意見を
    表明することは出来た。

    1840年代までに、人々は教育改革と議会制民主主義を要求するようになった。
    1814年、無償の義務教育制度が確立された。 1848年に国王となったフレゼレグ
    7世は、翌年6月5日、国王の権限を大幅に放棄した。 同じ日、国王は、新憲法に
    署名した。 これによって、一般投票による二院制議会制度が確立した。
    この憲法がはまた集会、信仰、出版の自由を保証した。

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    一般市民は、敗戦を貴族のせいにし、自分達が公職に就く権利を増大させる方向で
    動いた。 1665年、議会は王権の制限を全て撤廃し、新しい憲法を採択して、
    国王の選挙制を止め世襲制とした。 小作農を除く全市民が、王の下で平等で
    あることが定められた。

    18世紀初頭に、またスウェーデンと戦った他は、この世紀を通じて、デンマークは
    平和を維持した。 1699年に即位した国王フレゼレク4世は、宗教儀式を行うよう
    奨励した。 各地域に学校が建てられ、一般市民に教育の機会が与えられた。
    しかし、小作農には恩恵が及ばなかった。

    1733年に発布された法令によって、小作農は、一生の大部分を生まれた土地で
    過す事が義務付けられた。 スタウンスボンドと呼ばれたこの政策によって、
    地主は小作農の労役を、他の地主に売る事が出来るようになった。

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    小作農が自分のために使える土地は、極わずかなのに対して、地主への義務は
    重く、家族のために穀物を収穫する時間さえないに等しかった。 個人の
    自由への制約とは無関係に、国全体としての経済状態は、18世紀半ばまでに
    目立って改善された。 ヨーロッパ諸国の大部分が戦争に巻き込まれているため、
    中立政策を取ったデンマークは、貿易を拡大出来たのである。

    デンマークは、カリブ海のセントトーマス、セントジョン、サンクロワの諸島を
    領有し、デンマーク人の会社がそこで農地を経営した。 農地で収穫された
    コーヒー、砂糖、タバコは、ヨーロッパの市場で販売された。 デンマークはまた、
    アジア地域とも貿易を行い、コペンハーゲンの商業中心地としての重要性は
    増して行った。

    1746年にフレセレグ5世が国王になると、デンマーク社会の宗教的厳格さは一部
    失われた。 フレセレグ5世は統治よりも個人的な快楽に興味を持ち、政治は
    大臣達に任せた。 この時代最も力のあった政治家は、アダム・モルトケと
    J・H・Eベルンストフである。 2人は、農業制度の改革を行って、小作農の
    開放に努力した。 ロシアがシュレスウィヒとホルスタインを要求した時、2人は、
    話し合いで扮装を解決して、戦争を未然に防いだ。

    1784年、ベルンストホフの甥アンドレアス・ペーター・ベルンストホフが、
    新内閣の首班となった。 1788年、若いベルンストホフはスタウスボンドを
    廃止して、小作農を開放した。 小作農制度の廃止は、この国の農業に大きな
    変化をもたらした。 政府は、特別の銀行を創設して、小作農が自分の農地を
    買うための資金を提供した。 農地を賃貸する地主が、借り手を公平に扱う事を
    義務付ける法律も制定された。

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    1588年、若くて人気のあるクリスティアン4世が王位に就いた。 王は、
    コペンハーゲンの市街を拡張し、株式交換所や、フレゼレグスボア城など、多くの
    華麗な建築物を建造させた。 しかし、クリスティアン4世の領土的な野望は、
    やがてこの国の財政を重く圧迫することになった。

    1611年、クリスティアン4世は、スウェーデンと戦争を始めたが、敗北の
    連続で、経費ばかりがかさんだ。 1613年から1618年に至る5年間の平和により、
    デンマークの経済力は回復した。 1618年にドイツで三十年戦争が始まると、
    クリスティアン4世とその軍隊は、ドイツのプロテスタント勢力を助けて、
    カトリックの軍と戦った。

    1626年、デンマーク軍は、ドイツのハルツ地方で大敗北を喫した。 3年後、
    ドイツのカトリック諸侯軍は、ユトランド半島を占領し、クリスティアン4世は、
    和議を結ばなければならなかった。 1643年、スウェーデンがデンマークを攻撃し、
    デンマークは、またもや敗北した。

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    1648年に講和条約が結ばれ、デンマークは、ゴットランド島をスウェーデンに
    返還し、現在スウェーデンの中央部となっているイェムトランとヘレダーレンを
    割譲した。 デンマーク海軍は壊滅し、貿易は衰退して国力は傾いた。 元老院は、
    クリスティアン4世の息子フレゼレグ3世を国王に選ぶに先立って、王権に厳しい
    制限を付け、勝手に戦争をする事を禁じた。 それにも関わらず、フレゼレグ
    3世は、1657年、失われた領土を回復しようとスウェーデンに攻撃を加えた。

    1658年、スウェーデン軍は氷結したエーレ海峡を渡ってデンマークに攻め込み、
    フレゼレグ3世は、講和を余儀なくされた。 その結果、デンマークは、
    ノルウェーのトロンヘイム地方を割譲した他、スコーネとボルンホルム島を
    スウェーデンに譲渡した。

    1660年、スウェーデンとの戦争が再度勃発し、オランダと同盟したデンマークが
    有利となった。 講和条約によってスウェーデンは、トロンヘイム地方と
    ボルンホルム島をデンマークに返還したが、スコーネなどエーレ海峡東岸地域は、
    最終的にスウェーデンの領土となった。

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

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    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    【デンマークによる征服】
    アルフレッド王死後も、王国の統一は破られず、平和が続いた。 だが、11世紀
    初頭に再びデンマークが侵入して来ると、ウェセックスのエセルレッド王は、
    デーン税と呼ばれる税金を徴収し、この金でバイキングを買収し、その襲来を
    防ごうとした。 しかし、これも長続きせず、1013年にデンマーク人が大軍で
    襲って来た。 スウェイン王の下、デンマークのバイキングはエセルレッドの
    領土を征服した。

    スウェイン王が1014年に死んだ後、王国は息子のカヌートが引き継いだ。
    カヌートは、イングランド人にもデンマーク人にも支持されたが、カヌートの
    後継者には人望のあつい者が出ず、また、直径の跡継ぎも残さずに死んだ。

    1042年、ウェウセックスの指導者達は、エセルレッド王の息子であり、
    ノルマンディー(現在のフランス北西部地方)で育てられたエドワードを
    イングランド王に選んだ。 懺悔王のあだ名を持つエドワードは、信仰心があつく、
    治世の大半をロンドンの寺院建設に費やした。 現在のウェストミンスター
    寺院がそれである。

    1066年、エドワード王が跡継ぎを残さずに死ぬと、イングランドの指導者達は、
    義理の弟ハロルドを王位に就けようとしたが、ハロルドは、その難しさを
    知っていた。 故エドワードの遠縁ノルマンディー公ウィリアムなどが王位
    継承を主張していたからだ。 ウィリアムは兵を率いて、イングランド南部に
    上陸、1066年10月14日ヘースティングスの戦いでハロルドを破った。
    ウィリアムは、ノルマン人初のイングランド王となり、ウィリアム征服王と
    呼ばれた。

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    【ノルマン人治下での変化】

    ノルマン人の勝利の後、ノルマン人の貴族、聖職者、役人、職人、商人が
    大挙してイングランドに渡り、ウィリアム征服王は、イングランド人から
    奪った土地を彼らに分け与えた。 ノルマン人は、独特の建築様式を持ち込み、
    新たに建てられた城塞や聖堂に反映された。

    ノルマン人の言語であるフランス語は、裕福で教養のある上流階級の言葉
    となるが、一般の人々は、アングロ・サクソンの言語から発達した初期の
    英語(古英語)を依然として使っていた。 ノルマン征服はまた、
    イングランドの権力構造を激変させた。 土地所有者は、資力がどれほど
    大きくとも、その地位は、王位の下にあり、また、王室を除く全ての人は、
    自分より上の地位にある人に責任を負うことになった。

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    ウィリアムとその後継者達は、この封建制と呼ばれる制度を1世紀掛けて強化して
    行く。 内乱や、不満を募らせたノルマン人、イングランド人貴族の小さ反乱は
    あったが、封建制は続き、1154年までにノルマンの政治形態が確立された。

    この年、ウィリアムの曾孫アンジュー(ノルマンディーの南)のヘンリーが
    イングランド王となり、フランスのアンジュー、アキテーヌ、ノルマンディーの
    地に加え、イングランドも所領として支配することになった。

    【おすすめの一冊】


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    クヌッド4世の弟ヴァルゼマール2世が1202年に国王になると、ドイツの
    諸侯との間で抗争が生じた。 ヴァイゼマール2世は、バルト海沿いの
    ドイツ騎士団と戦って、エストニア、メクレンブルク等各地を占領した。

    北ドイツの諸侯は、反撃を開始して、1223年、ヴァイゼマール2世を捕らえて
    監視した。 ヴァイゼマールは、自由を回復するため、征服した領土のうち、
    エストニアを除く大部分を放棄した。

    ヴァイゼマール2世が1241年に死ぬと、再び内戦が頻発した。 王族、貴族、
    聖職者達が権力抗争を始めたのである。 1282年、貴族達は、ヴァイゼマール
    2世の孫にあたる国王エーリック5世に強制して、王権を制限する憲章に
    署名させた。

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    1286年にエーリック5世の後を継いだ息子のエーリック6世メンヴェドは、
    北海とバルト海沿岸のドイツ商業都市の連合体であるハンザ同盟の勢力を抑え
    ようとした。 王はそのために、国土の一部を抵当に入れて軍備を調達した。
    スコーネまでがドイツ貴族の所有となった。

    1333年、スウェーデンはドイツのホルスタイン公からスコーネを買い取った。
    これは、デンマークへの重大な脅威と考えられた。 エーリック5世の孫
    ヴァイゼマール4世アッターダーは、1346年、エストニアをドイツ騎士団に
    売却し、その金で抵当に入れられていた国土を買い戻した。

    こうして力を付けた王は、1360年、スコーネをスウェーデンから回復し、翌年、
    ゴットランド島にあるハンザ同盟の有力都市、ヴィスビを占領した。 また、
    娘マルグレーテをノルウェー王ホーコン6世と結婚させた。

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     紀元前800年頃には、南のフランク王国が強大となって、ユトランド半島を
    脅かし始めた。 デンマーク王ゴットフレッドは半島を横断する堅固な城壁を
    造って、フランク人の侵入を防いだ。 王が殺害されると、その甥、ヘミングは
    逆にフランク王国の領域に侵入して略奪した。 やがてデンマーク以外の
    北欧諸国の船乗りや冒険家達も混じって、バルト海や北海を渡って、ヨーロッパ
    各地への侵入を始めた。 この侵入に加わった人々をバイキングと呼ぶ。

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    バイキングは巧みに組織された航海者集団だった。 快速の小型船舶で大船団を
    組み、各地に奇襲を加えて相手を武力で圧倒した。 続く250年余りの間、
    デンマーク系、ノルウェー系、スウェーデン系のバイキングは、領土獲得と交易に
    はげんだ。

    デンマーク系とノルウェー系のバイキングは、西と南に進み、イギリス諸島沿岸を
    攻撃した。 イギリスの一部の地域では、村や町の破壊を免れるために、デーン
    ゲルトと呼ばれる賠償金をバイキングに支払った。 イギリスのその他の地域では、
    デンマーク系のバイキングが定住して、土地の人々と婚姻関係を結んだ。 886年、
    当時のイギリス王は、デーン人の定住地を独自の主権を持った地域と認めた。
    この地域をデーンローと呼ぶ。

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    へミングの死後分裂していたデンマークは、900年、ゴルム老王の下に最終的に
    統合された。 ゴルムが死ぬと、自由民達は、集会を開き、ゴルムの息子ハーラル・
    ブロータンを国王に選んだ。 ハーラルは、国王の領域を広げ、父ゴルムと自分の
    功績を石の記念碑に刻み込んだ。 イェリングに建てられたこの記念碑には、
    ハーラルがデンマーク全土とノルウェーの一部を征服して、国民をキリスト教に
    改宗させたと書いてある。

    ハーラルのこの主張にも関わらず、当時この国でキリスト教を信仰していたのは
    極僅かで、大部分の人達はオーデン、フライア、トール等の北欧の神々を崇拝
    していた

    ハーラルはドイツの主権者が、デンマーク人を改宗させる名目で国土を侵略
    するのを防ぐため、キリスト教になったらしい。

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    デンマークの人口の約85%は都市部に住んでいる。 海洋と航海に依存して来た
    歴史的な経緯から、主な都市の殆どは、海岸部にあるが、大きさと重要性という
    点において、コペンハーゲンは、デンマーク国内でも随一の都市と言える。

    人口約140万人の首都コペンハーゲンは、産業と教育と文化の中心であり、最大の
    港湾でもある。 市街の大半は、シェラトン半島の東海岸にあるが、南部は隣接
    するアマイェル島に広がっている。 1160年、デンマーク王国ヴァルゼマール
    1世は、当時漁村だった地域を大司教アプサロンに与えた。 アプサロンが建設し
    た街はケブマンスハウン、つまり、『商人の港』と呼ばれ、これがやがて今の
    名前となった。

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    アプサロンは、スロスホルメン島に要塞を建設した。 コペンハーゲンの中心部
    にあって、運河に囲まれているスロスホルメン地域には、現在デンマーク政府が
    置かれている。 国会の開かれるクリスティアンスボア宮は、かつて政府官庁の
    全てが置かれていた。 時代と共に大きなスペースが必要となった官庁は、まず
    スロスホルメンの他の建物に移り、やがて首府の中の別の地域へと移って行った。

    クリスティアンスボア宮の北1.6kmたらずのところに、アリエンボア宮がある。
    この宮殿は八角形の広場を囲む4つの建物から成り立っている。 その建物の
    ひとつに国王が住み、もうひとつの建物は、王位継承のために留保されている。
    3つ目の建物は、外国の王侯の宿泊にあてられ、4つ目の建物が宮内庁である。

    コペンハーゲンの商業地域の中に、1843年に開設された有名な公園兼遊園地の
    ティボリ庭園がある。 この庭園には、交響楽やバレエの演奏会場、ダンスホール、
    パントマイム劇場、児童遊技場、レストラン他がある。

    コペンハーゲンは、この国の文化の中心で、デンマーク王立バレエ劇場や、数多くの
    博物館がある。 1970年代以降、ここはまた、廃屋を取り壊した跡地を利用して、
    クリスティアニアという芸術村が形作られている。 コペンハーゲンの東の
    中心部にあるこの小さな地域社会には、大勢の芸術家や職人が集まって来る。

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    【デンマークのその他の都市】
    オールフスは、ユトランド半島の東海岸にある大港湾都市で、人口は約26万人と
    なっている。 造船業の他にも、機械、ビール、繊維類の製造も盛んに行われて
    いる。 この都市には、10世紀から司教が住み、1201年から300年以上掛けて
    完成された有名な寺院がある。 オールフスは、デンマーク第二の都市で、文化と
    教育の中心地でもある。 オールフス大学は、湖に面した緩やかな斜面に位置
    しており、近代的な設計様式で有名となっている。 オールフス植物園の中には、
    『昔の街』と呼ばれる一角があり、ここには国内外各地から集められた小さな
    家屋が数多く展示されている。

    人口17万人のオーデンセは、デンマーク第三の都市で、フェン島東部のオーデンセ
    フィヨルドの置くから少し離れた位置にある。 元は、北欧伝説の神、オーデンを
    祀る場所で、町の名前もそれに由来する。 童話作家ハンス・クリスティアン・
    アンデルセンは、ここで生まれた。 オーデンセは、今では重要な工業都市と
    なっており、電子機器、繊維類、木材を生産している。 ここにはまた、大造船所が
    あり、マンモスタンカーを製造している。 この都市とオーデンセフィヨルドの
    間には、長さ8kmの運河がある。

    人口約15万人のオールボアは、ユトランド半島北部のリムフィヨルドの奥に位置
    していて、11世紀発祥の大運河都市である。 グリーンランドとの交易は、殆どが
    この都市の近代的な港湾施設を通じて行われている。 オールボアは、造船と
    セメントの街として、国の経済に重要な役割を果たしている。 また、タバコと
    デンマークならではの飲み物、アクアヴィットが生産されている。 1430年に
    建築が始まった聖ボトルフ教会は、この街の歴史的建築物のひとつとなっている。
    1620年代にイエンス・バングという裕福な商人が建てた5階建ての豪壮な石造りの
    家も歴史的建築物として有名。

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    現在のデンマークの国土で、最後の氷河期の氷が解けて消え始めたのは、紀元前
    1万2000年頃である。 紀元前1万1000年頃には、遊牧民の集団がやって来た。
    彼らは、トナカイを捕獲して、食料と毛皮を得ていたらしい。 紀元前3000年
    頃には、人々は定住地を作り始め、森林を焼き払って、灰の中に穀物を栽培した。
    食料用の家畜も飼われていた。

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    紀元前3000年前後に氷河が解けたため、ヨーロッパ北西部の一部は水没した。
    その後、比較的標高の高い地面が海面から次第に姿を現し始め、一部がこの国の
    島々を形作った。 紀元前2000年から1500年位の間に、東と南から新来の人々が
    ユトランド半島に侵入した。 彼らは、現在のデンマーク人語の祖先である
    ゲルマン語を話していたと思われる。 そして、青銅製の頑丈な武器や精巧な
    装飾品を作り、帆船で海を渡って、ヨーロッパの他の地域と交易をしていた。

    紀元前500年頃までに、この国土の住民達は、鉄製の武器や道具を作る方法を
    会得した。 その後、600年余りの事は良く分からないが、この間に北欧全体の
    気温が寒冷化して、人口が減少し、他の地域との交易も衰えたらしい。
    一部の集団は、南に移住したと思われる。 紀元前100年以降、この国の人々は、
    他の国との交易を再開した。

    6世紀までに人口が急増し、多数の小王国が成立した。 紀元前500年前後、現在の
    スウェーデン南部のスコーネ地域から、デーン人と呼ばれる人々が、エーレ海峡を
    超えてデンマークにやって来た。

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    その後の300年の間に新来者は、スコーネ、シェルラン島、ユトランド半島に
    またがる王国を建設し、この国の名をダンマルク、つまり、『デーン人の国』と
    呼んだ。 これが、デンマークの国名の起源である。

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