東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ: 北ヨーロッパ

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    ハンソンは1945年に死んだが、T・エルランデルの下で社会民主党政権は続いた。
    1930年代から既に計画されていた福祉社会が戦後の改革によって実現した。
    新しい法律の下で、年金制度が改善され、子持ちの家族に対する給料、健康保険、
    住宅補助、教育改革等が次々と実施されて行った。 これらの資金源のために
    政府は、所得税の累進率を厳しくした。 高所得者には最も重い税金を掛けたため、
    スウェーデンには金持ちも貧乏人も殆んど居ないという社会が出来た。

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    国際的には、エルランデルは独立・中立の立場を取り、世界平和のために協力した。
    1946年国連に加盟、1953年~1961年の国連事務総長、ダグ・ハマーショルドは
    スウェーデン人である。 ハマーショルドは航空事故で死んだ。 1950年代
    初めには、スウェーデンはスカンジナビア5カ国間の協力を促進するための組織、
    北欧会議に参加している。

    国境を守るため強力な軍隊をつくったが、西欧の軍事同盟である北大西洋条約機構
    (NATO)には参加していない。 エルランデルは1969年まで、首相兼社会民主
    労働党党首だったが、その後、オロフ・ペルメが首相、党首共に後を継いだ。

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    急速な成長を遂げた時代で、スウェーデンとノルウェーは1814年以来の連合関係を
    維持していた。 しかし、ノルウェーの場合は、スウェーデンに比べて、議会が
    王室よりも遥かに大きな権力を持つようになり、そうした政治的な違いのため、
    両国間の連合関係は機能しなくなって来た。 そして1905年、スウェーデンの
    オスカル王はノルウェーの王冠を捨て、連合は平和的に解体した。 1900年代、
    大半の国民は生活が貧しく、大きな都市ではスラムの住民が多く見られた。
    工業化が進むに連れ、労働者の生活条件は悪くなる一方だった。

    1907年、グスタフ5世は、改革を求める圧力が高まったため、委員会を作って
    社会福祉の法整備の必要性を検討した。 1909年、24歳以上の全ての男性に
    投票権が与えられ、議員選出のための1人1票制度が実施された。 女性の投票権は
    1919年から認められた。 社会問題の解決に対する政府の関心が高まり、1913年に
    政府は初めて、老齢年金を引き上げ、犯罪に対する罰則を改正し、商店の営業
    時間を規制した。

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    【世界大戦】
    第一次世界大戦(1914年~1918年)がヨーロッパで勃発すると、スウェーデンは、
    ノルウェーやデンマークと同じように、中立を宣言した。 当初は、戦争のお陰で
    スウェーデンの産業は刺激を受け、戦争当事国への製品の輸出が大いに伸びたが、
    戦争が終わらないうちにスウェーデンは食糧不足になり、経済困難に陥った。

    社会主義者で労働界のリーダーであるヒャルマール・ブランティングが、戦後の
    実力者として政界に登場、平和的、かつ段階的な社会改革を主張して、一部の
    政治家グループが求める急激な変革に反対した。 1920年代初めには、経済も
    急速に回復を見せ、国は非常に繁栄した。

    ところが、1930年代には、世界的な不況の煽りでスウェーデンの経済も痛手を
    受けた。 そうした社会条件の悪化に反応して国民は始めて社会民主労働党の
    政府を選び、Pハンソンの指導の下に政権が誕生した。 ハンソンは、農民や
    労働者代表の議員達の支持を受け、生活改善のための福祉政策を実施した。

    しかし、幅広い福祉改革が実施されないうちに、第二次世界大戦(1939年~
    1945年)がヨーロッパで始まり、スウェーデンは再び中立を宣言した。 お陰で
    隣国のデンマークやノルウェーとは違って、戦争中のスウェーデンは侵略を免れ、
    紛争の部外者としての立場を維持出来たのである。

    戦時中は資源を有効に使うためスウェーデン政府は、民営産業の統制、管理を
    強化した。 スウェーデンはまた、人道的な努力の一環として、戦争犠牲者の
    難民受け入れにもひと役買い、ユダヤ人をはじめ、ノルウェー人、デンマーク人、
    フィンランド人、その他、バルト海の近くに住む人達に援助の手を差し伸べた。
    ナチの処刑室から2万人のハンガリー系ユダヤ人を救い出したスウェーデンの外交官
    Rワーレンベルイの話は有名である。 戦争が終わると、スウェーデンは
    ノルウェーとデンマークになかりの経済援助を与えた。

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    1800年代は、スウェーデン全土に渡って貧困の時代だった。 ヨーロッパの他の
    国々と同じように、スウェーデンも平和な時期には出生率が上昇、またジャガイモを
    食糧源としたことや、保健衛生の条件が改善されたことで、人口はますます増えた。
    時には、食糧の自給率を上回るペースで人口が増大した。

    スウェーデンの人口は1815年の250万人から、1845年の330万人、1900年までには
    510万人と増えて行った。 1840年から1900年に掛けて85万人が国外へ移住
    したが、これは貧困のためで、行き先は主としてアメリカだった。 スウェーデン
    移民の多くは、アメリカ北中部のミネソタ、イリノイ等に住み着いた。

    同時期、スウェーデン社会に大きな影響を与えるもうひとつの大きな変化が
    起こった。 1800年代末になると、貿易業者や労働者の連合組合が出来出した
    のである。 当時、投票権を持っているのは人口の10%に満たなかった。
    これらの労働組織は、政治的な不満の捌け口にもなった。 労働運動の中では
    労働者の教育の問題も重視され、学校や各種の訓練プランが組合によって作られた。
    1890年代になると、多くのこうした労働者グループを政治的に統合した新しい
    『社会民主労働党』が生まれた。

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    【工業化】
    経済的に色々な問題を抱えながらも19世紀後半、スウェーデンは目覚しい工業化を
    達成した。 スウェーデン人科学者、アルフレット・ノーベルによるダイナマイトの
    発明がなかったら、世界の開発はどれだけ遅れたことか。 ダイナマイトのお陰で、
    スウェーデン自身、道路や鉄路が発達し、そうした交通網の整備されたところへ
    外国資本が加わって、スウェーデンの工業化が促進された。

    製造業が盛んになると雇用が増え、国外への移住者も減り出した。 スウェーデン産
    木材に対する外国からの需要が増えたため、林業も栄え、ノルランドの原生林が
    重要な供給源になった。 スウェーデンはパルプ紙の生産技術をはじめ、鉄鉱石から
    鉄を取り出す技術、良質の鉄鋼生産技術を開発、他のヨーロッパ諸国は
    スウェーデンの鉄鋼を大量に輸入した。 一方、スウェーデン自身も、これらの
    材料から新しい工業製品を作り出し、また多くの消費財も生産し始めた。

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    首都オスロは、南の海岸から長さ97kmのオスロフィヨルドを北に入った奥にある。
    オスロは1050年頃、国王ハラール3世によって建設された。 1624年に退化のため
    破壊されたが、クリスティアン4世が再建し、市民はこの王の名に因んで、都市の
    名をクリスティアニアと改めたが、1925年にオスロの名が復活した。

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    オスロは、1905年にこの国がスウェーデンから独立して以来ずっと、首都としての
    機能を果たしている。 また、ノルウェーの商業、工業、文化の中心でもある。
    人口はおよそ45万人で、面積は453平方キロメートルとなっている。 オスロの
    面積の3分の2は森林と湖沼で、保養地としても理想的となっている。 この
    都市の主要な工業は造船業で、化学薬品、機械、金属、紙の製造も盛んである。

    市外の中心にはカール・ヨハンス通りと呼ばれる大通りがあり、豪華なグランド
    ホテル、黄色いレンガの国会議事堂、オスロ大学、国立劇場などが建ち並んでいる。
    この大通りの起点は中央駅で、終点は王宮庭園である。

    国立絵画館、ヴィゲラン彫刻公園、青空民衆美術館、ヴァイキング船舶博物館なども
    国の内外の観光客が良く訪れる場所である。

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    【その他の都市】
    ノルウェー第2の都市ベルゲンは、人口およそ21万人で、いくつもの山岳に囲まれた
    渓谷にある。 1070年に国王オーラフ3世によって建設された。 何度かの災害に
    みまわれ、また第二次世界大戦による災害を被ったにも関わらず、12世紀に遡る
    数多くの歴史的な建物を保存している。 この都市はノルウェー西部第一の港で、
    文化、漁業、工業の中心となっている。 工業製品としては、鉄鋼、船舶、
    漁業用具、加工食品、林産物、電気製品などがある。

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    トロンヘイムはこの国最古の都市で、人口は13万4,000を越え、ノルウェー第3の
    都市となっている。 997年に国王オーラフ1世によって建てられた。 その頃は
    ニダロスと呼ばれ、1380年までノルウェーの首都であった。 11世紀に、この国の
    守護聖、国王オーラフ2世の墓石の上に建設された大寺院ニダロスドーメンが、
    偉容を誇っている。 トロンヘイムは周辺の農業地帯の商業の中心で、また銅、
    鉄鋼石、木材、業業の輸出の中心でもある。

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    日本とアメリカの教育は、完全にビジネスで、学生のことなど一切考えてはおらず、
    金儲けのことばかり。 それは、完全に教育に現れており、社会形成にも多大な
    影響を及ぼしている。 この動画に出て来る、『テストで点を取る訓練は教育
    ではない』、『裕福になっても他人の境遇を尊重できる人に』、『問題意識を
    持って自分で考えるように教える』、『自分も他人も尊重できて幸せに生きる
    方法を教えている』の部分は全くその通りで、例えば、日本で、問題提起のために
    マイナスが事柄を述べると、一様に嫌な顔をされるのだが、ヨーロッパでは、
    むしろ、社会を変えるための材料を提起してくれたと非常にプラスに受け取られる。



    日本社会がいつまで経っても一切何も変わらないのは、一切問題提起が出来ない
    監視社会であるところで、問題の原因部分には一切触れないため、何もかも、
    泣き寝入りか臭いものにフタで終わる。 ヨーロッパ人と日本人の思考回路の
    最大の違いは、正にこの点で、政治や社会問題を取り上げる事すら許されない
    社会に未来はない。

    日本やアメリカの教育は、単なる詰め込み教育で、記憶力さえあれば、誰でも
    点数を取れる。 特に、日本の場合は、応用は一切要求されないため、丸暗記
    だけでテストは乗り切れる。 最近では、ブラック企業ばかりの社会に成り果てた
    ため、一流大学を卒業したところで、ブラック企業以外の就職先はないので、
    日本の大学は卒業するだけ時間とお金の無駄。

    その国の礎は、教育であることは、ヨーロッパでは既に実証済み。 金儲けの
    ために他人を平気で蹴落として、自分だけのうのうと暮らせる強欲社会はもう
    終わらせるべき。 現状、何でもやった者勝ちとなっているため、お金も集まる
    ところにしか集まらず、経済も回らなくなった。

    【日本とフィンランドの教育制度の違い】
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    フィンランドに負けず劣らず、オランダの教育も日本の数段上を行っているので、
    良いものは素直に受け入れて、前に進むべき。 そのような社会を目指している
    政治家は日本には居ないと思うが、そもそも、国民が選挙によって、自分達の
    社会を自ら選んでいる事も学校でしっかりと教えるべき。

    フィンランドでは、子供が生まれると、国から母親全員にベビー服や布団、
    哺乳びんや絵本などのセットが届き、17歳までの子ども全員に月1万3千円が
    支給される。

    無意味な競争は、子供達から学力と幸福を奪ってしまう。 教育は親の経済力とは
    関係なしに、皆平等に与えられるべき。 フィンランドの学校では、授業料が無料
    というだけでなく、子供達には通学手段、給食、教科書や学用品が無償で提供
    される。

    世界一学校に行くのが苦痛な日本と学校が楽しいフィンランドとでは、教育に
    対する根本的な考え方がまるで異なる。 教育の場である学校までをも金儲けの
    場にしている国では、子供達も金儲けのことしか頭にはなくなるのであろう。 

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    デンマーク語は、かつてヨーロッパ北部の多くの地域で使われたゲルマン語から
    派生した言語である。 12世紀には、スカンジナビア半島使われる言語は、
    西スカンジナビア語と東スカンジナビア語に分かれた。 前者は、ノルウェー語と
    フェローズ語で、後者は、スウェーデン語とデンマーク語である。  しかし、
    現代の北欧三国の言語は、非常に良く似ている。

    デンマーク語は、長い歴史を通して何度も外部からの影響を受けた。 キリスト教の
    伝来は新しい単語とアルファベットをもたらし、ハンザ同盟との接触は、ドイツ語
    からの多くの借用語を招いた。 都市住民と地方との生活格差が広がるにつれて、
    方言が発達したが、18世紀には、リグスモーレットと呼ばれる標準デンマーク口語が
    使われ始めた。 19世紀末の言語改革によって、リグスプロゲットと呼ばれる
    標準的な文語デンマーク語が成立した。

    デンマークからは、多くの偉大な作家や学者が輩出された。 デンマーク文学の
    創設者と呼ばれる18世紀のルドヴィー・ホルベアは、当時の社会を批判する喜劇を
    書き、歴史に関する著作を数多く著したり、詩を書いたりして、言語としての
    デンマーク語の形成に寄与した。

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    最も有名なデンマーク人作家のひとりに、セーレン・キルケゴールがいる。
    1813年生まれのキルケゴールは、実存主義の父と言われている。 信仰は理性に
    よって支えられるものではなく、信念に基づく行為であると説いた。 キリスト教徒
    でありながら、しばしば福音教会を批判し、教会員たちは振興の基本を本格的に
    検討していないと主張した。

    1805年生まれのハンス・クリスティアン・アンデルセンは、世界で最も広く
    翻訳され愛読されている文学者のひとりである。 作品の中で最も有名なのは、
    『人魚姫』、『みにくいあひるの子』、『はだかの王様』などの童話で、彼の
    作品は、物語が面白いだけではなく、人間性への深い洞察力に富んでいる。

    19世紀後半には、デンマークでは多くの写実的な文学作品が生まれた。 この
    時代の作家には、イエンス・ペーター・ヤコブセン、ヘルマン・ハング、ヘンリク・
    ポントピダンなどがある。

    アイザック・ディネセンの筆名で多くの作品を書いたカーレン・ブリクセンは、
    1885年デンマークの上流階級の家に生まれた。 スウェーデン貴族と結婚した
    彼女は、アフリカの農場に移住し、アフリカでの彼女の経験は、『アフリカの農場』
    などの小説や回想録の元となった。 ブリクセンと並んで、1900年以後の
    デンマーク文学で活躍した作家のひとりに、ヨハンネス・V・イエンセンがあり、
    小説『長い旅』で1945年にノーベル文学賞を受賞した。

    牧師カイ・ムンクは、1930年代に戯曲を書き始めた。 彼はキルケゴールの強い
    影響を受けて、人類はその根本的な罪深さゆえに滅びる運命にあると信じた。
    第二次世界大戦中、ムンクは、ドイツ占領軍に激しく抵抗し、1944年に
    ゲシュタポに虐殺された。

    現代の一流作家としては、マリアネ・ラーセンとヴィタ・アネルセンがある。
    2人の作品は、社会における女性の役割の変化をテーマとしている。 クラウス・
    ルフビャーは、沢山の小説、戯曲、詩、映画台本を書いている。

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに
    頼って、ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、
    フィンランド人をはじめ、領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女
    クリスティーナが王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン
    貴族アレクセル・オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家
    ペール・ブラーヘ公の追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命して
    トゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。
    1640年にはフィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ
    総督は、ラーヘ市をオストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

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    【紛争と改革】
    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きて
    いた。 摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、
    継承者のカール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、
    ポーランドと戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、
    フィンランド人たちは侵攻して来たロシア軍を破った。 スウェーデンと
    ロシアは1660年、フィンランド東部国境を設定し、ポーランドの一部と
    デンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に
    官僚と分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を
    広めて、スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、
    スウェーデンのルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を
    任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを
    教える責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、
    フィンランドは、ほぼ全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、
    フィンランドは、1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化
    して行った。 フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の
    民族と同一だとみなしていた。 この間に、スウェーデン語を話すフィンランド
    生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で権力を持つようになった。

    地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、フィンランド領内の城を
    管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に最高官吏
    として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢の
    フィンランド人がスウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

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    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を
    布教し、多神教のフィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。
    まだ大学がなかった16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の
    教育、宗教の中心地に留学させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・
    アグリコラ(1510年~1557年) は、ドイツのウィッテンベルグの大学で
    学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人に
    マルティン・ルターの革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この
    運動は、ローマカトリック教会の権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ
    各地で、プロテスタントのルター派が広まった。

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    デンマークの国民は高額の税金の見返りとして、多くの種類の社会サービスと
    福祉サービスを受けることが出来る。 国民健康保険制度によって、国民には
    無料の医療と入院看護が保証されており、薬剤と一部の歯科医療の料金を支払う
    だけで良い。

    出世時の予想寿命は極めて高く、75歳となっている。 1980年代には、出生率が
    低く、政府は2~3年後には人口が減少すると予想した。 しかし、1990年には
    出生率がわずかながら上昇し、人口はこのまま安定するか、わずかながら増加する
    だろうと予想されている。

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    退職者は年金を支給されるが、生活費の上昇に応じて増額される。 高齢者が
    出来るだけ長く自分の家で暮らせるように援助するのが、政府の方針である。
    介助や介護の必要な退職者は、公立のホームに入ることが出来る。 ホームは、
    全て個室制となっている。

    政府はまた、失業と労働災害による疾病に対して、保険金を支給する。 職のない
    人々に対しては、職業訓練の制度がある。 障がい者には、特別の援助が用意
    されている。 働く親には、公立の保険が設けられている。

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    フィンランド語には、母音が8つあり、最初の4つは、日本語のアイウエオと
    ほぼ同じ母音となっている。 残りの4つの母音のうち、u は、英語と同じで
    唇を丸くして発音します。 日本語のウとは殆んどの方言では唇を丸くせず、
    イと同じような平べったい唇の形で発音するため、日本語のウでは代用出来ない。 
    はドイツ語の ä よりは英語の hand や bag の ӕ に近い。 ö は、ドイツ語の
    ö のように、オを発音する唇の構えでエを発音するとこの音になる。 y は、
    ドイツ語の ü のように、u の口構えでイーを発音するとこの音になる。



    母音の数の多さに加え、母音調和と呼ばれる現象があり、これは、a o u と
    ä ö y が別々のグループを作っていて、1つの単語の中に混在しないという現象を
    こう呼ぶ。 但し、 e と i は、どちらのグループにの母音とも同じ単語の中で
    共存出来る。

    母音調和があるために、名詞や動詞の活用語尾も2通りある。 語尾は1つ
    だけではなく、いくつか連続することもあるため、語尾がいくつも連なった長い
    単語も母音調和の対象となる。

    理屈だけで考えると面倒な言語に思えるが、不思議なことに、実際に
    フィンランド語を話す時は、2つのグループの母音を混在させると、非常に発音
    しにくくなる。 少なくとも母語として話す人々にとっては、母音調和は、
    効率的、かつ、自然な仕組みということになる。

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    【フィンランド語の今】
    首都ヘルシンキは、今でこそフィンランド語一色のように見えるが、19世紀に
    首都として建造された頃は、スウェーデン語一色の街であった。 このことは、
    ヘルシンキという街の名前や、市内各地の地名からも明らかで、ヘルシンキで
    話されるフィンランド語の俗語は、スウェーデン語起源の語彙であふれている。
    もちろん、ヘルシンキにはスウェーデン語系の住民も少なからず住んでいる。
    ヘルシンキは、現在でも、フィンランド語とスウェーデン語の両方を公用語と
    する自治体で、通りの名前も道路標識も2つの言語で書かれている。

    ヘルシンキ大学にフィンランド語学が設置されたのは、1851年だが、初代の教授の
    カストレーンも、次の教授のレンルートも共にフィンランド語が母語なのに、
    名前は、スウェーデン語で、2人共フィンランド語学の講義も論文も
    スウェーデン語で行っていた。 フィンランド語で講義をしたり、論文を書いたり
    出来なかった理由の1つは、学術用語が整備されていなかったためであった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
    正教派を採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
    文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
    この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
    いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

    swedishlands

    【スウェーデンの支配】

    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
    に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
    責任者とした。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
    地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
    両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
    フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
    間で話されるようになった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。

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    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前
    7000年頃だった。 当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今の
    バルト海は淡水湖だった。 一番古い居住者達は、歴史学者がラップランド
    先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。
    ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料とした。 船を作くり、船首の
    飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示されている。

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    【新移住者の到来】
    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド
    領だったカレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も
    居た。 そこに定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器
    となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、
    歴史家はその磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、
    フィンランド南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。
    この民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今の
    フィンランド南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在の
    ラハティ市からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。
    フィン語族第3のグループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境
    沿いに住んだ。 各グループの居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

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