横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ: 北ヨーロッパ

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    日本とアメリカの教育は、完全にビジネスで、学生のことなど一切考えてはおらず、
    金儲けのことばかり。 それは、完全に教育に現れており、社会形成にも多大な
    影響を及ぼしている。 この動画に出て来る、『テストで点を取る訓練は教育ではない』、
    『裕福になっても他人の境遇を尊重できる人に』、『問題意識を持って自分で考える
    ように教える』、『自分も他人も尊重できて幸せに生きる方法を教えている』の部分は
    全くその通りで、例えば、日本で、問題提起のためにマイナスが事柄を述べると、一様に
    嫌な顔をされるのだが、ヨーロッパでは、むしろ、社会を変えるための材料を提起して
    くれたと非常にプラスに受け取られる。



    日本社会がいつまで経っても一切何も変わらないのは、一切問題提起が出来ない監視
    社会であるところで、問題の原因部分には一切触れないため、何もかも、泣き寝入りか
    臭いものにフタで終わる。 ヨーロッパ人と日本人の思考回路の最大の違いは、正に
    この点で、政治や社会問題を取り上げる事すら許されない社会に未来はない。

    日本やアメリカの教育は、単なる詰め込み教育で、記憶力さえあれば、誰でも点数を
    取れる。 特に、日本の場合は、応用は一切要求されないため、丸暗記だけでテストは
    乗り切れる。 最近では、ブラック企業ばかりの社会に成り果てたため、一流大学を
    卒業したところで、ブラック企業以外の就職先はないので、日本の大学は卒業するだけ
    時間とお金の無駄。

    その国の礎は、教育であることは、ヨーロッパでは既に実証済み。 金儲けのために
    他人を平気で蹴落として、自分だけのうのうと暮らせる強欲社会はもう終わらせるべき。
    現状、何でもやった者勝ちとなっているため、お金も集まるところにしか集まらず、経済も
    回らなくなった。

    【日本とフィンランドの教育制度の違い】
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    フィンランドに負けず劣らず、オランダの教育も日本の数段上を行っているので、良い
    ものは素直に受け入れて、前に進むべき。 そのような社会を目指している政治家は
    日本には居ないと思うが、そもそも、国民が選挙によって、自分達の社会を自ら選んで
    いる事も学校でしっかりと教えるべき。

    フィンランドでは、子供が生まれると、国から母親全員にベビー服や布団、哺乳びんや
    絵本などのセットが届き、17歳までの子ども全員に月1万3千円が支給される。

    無意味な競争は、子供達から学力と幸福を奪ってしまう。 教育は親の経済力とは関係
    なしに、皆平等に与えられるべき。 フィンランドの学校では、授業料が無料というだけ
    でなく、子供達には通学手段、給食、教科書や学用品が無償で提供される。

    世界一学校に行くのが苦痛な日本と学校が楽しいフィンランドとでは、教育に対する
    根本的な考え方がまるで異なる。 教育の場である学校までをも金儲けの場にしている
    国では、子供達も金儲けのことしか頭にはなくなるのであろう。 

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    デンマーク語は、かつてヨーロッパ北部の多くの地域で使われたゲルマン語から
    派生した言語である。 12世紀には、スカンジナビア半島使われる言語は、
    西スカンジナビア語と東スカンジナビア語に分かれた。 前者は、ノルウェー語と
    フェローズ語で、後者は、スウェーデン語とデンマーク語である。  しかし、
    現代の北欧三国の言語は、非常に良く似ている。

    デンマーク語は、長い歴史を通して何度も外部からの影響を受けた。 キリスト教の
    伝来は新しい単語とアルファベットをもたらし、ハンザ同盟との接触は、ドイツ語
    からの多くの借用語を招いた。 都市住民と地方との生活格差が広がるにつれて、
    方言が発達したが、18世紀には、リグスモーレットと呼ばれる標準デンマーク口語が
    使われ始めた。 19世紀末の言語改革によって、リグスプロゲットと呼ばれる
    標準的な文語デンマーク語が成立した。

    デンマークからは、多くの偉大な作家や学者が輩出された。 デンマーク文学の
    創設者と呼ばれる18世紀のルドヴィー・ホルベアは、当時の社会を批判する喜劇を
    書き、歴史に関する著作を数多く著したり、詩を書いたりして、言語としての
    デンマーク語の形成に寄与した。

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    最も有名なデンマーク人作家のひとりに、セーレン・キルケゴールがいる。
    1813年生まれのキルケゴールは、実存主義の父と言われている。 信仰は理性に
    よって支えられるものではなく、信念に基づく行為であると説いた。 キリスト教徒
    でありながら、しばしば福音教会を批判し、教会員たちは振興の基本を本格的に
    検討していないと主張した。

    1805年生まれのハンス・クリスティアン・アンデルセンは、世界で最も広く
    翻訳され愛読されている文学者のひとりである。 作品の中で最も有名なのは、
    『人魚姫』、『みにくいあひるの子』、『はだかの王様』などの童話で、彼の
    作品は、物語が面白いだけではなく、人間性への深い洞察力に富んでいる。

    19世紀後半には、デンマークでは多くの写実的な文学作品が生まれた。 この
    時代の作家には、イエンス・ペーター・ヤコブセン、ヘルマン・ハング、ヘンリク・
    ポントピダンなどがある。

    アイザック・ディネセンの筆名で多くの作品を書いたカーレン・ブリクセンは、
    1885年デンマークの上流階級の家に生まれた。 スウェーデン貴族と結婚した
    彼女は、アフリカの農場に移住し、アフリカでの彼女の経験は、『アフリカの農場』
    などの小説や回想録の元となった。 ブリクセンと並んで、1900年以後の
    デンマーク文学で活躍した作家のひとりに、ヨハンネス・V・イエンセンがあり、
    小説『長い旅』で1945年にノーベル文学賞を受賞した。

    牧師カイ・ムンクは、1930年代に戯曲を書き始めた。 彼はキルケゴールの強い
    影響を受けて、人類はその根本的な罪深さゆえに滅びる運命にあると信じた。
    第二次世界大戦中、ムンクは、ドイツ占領軍に激しく抵抗し、1944年に
    ゲシュタポに虐殺された。

    現代の一流作家としては、マリアネ・ラーセンとヴィタ・アネルセンがある。
    2人の作品は、社会における女性の役割の変化をテーマとしている。 クラウス・
    ルフビャーは、沢山の小説、戯曲、詩、映画台本を書いている。

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに
    頼って、ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、
    フィンランド人をはじめ、領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女
    クリスティーナが王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン
    貴族アレクセル・オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家
    ペール・ブラーヘ公の追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命して
    トゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。
    1640年にはフィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ
    総督は、ラーヘ市をオストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

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    【紛争と改革】
    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きて
    いた。 摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、
    継承者のカール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、
    ポーランドと戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、
    フィンランド人たちは侵攻して来たロシア軍を破った。 スウェーデンと
    ロシアは1660年、フィンランド東部国境を設定し、ポーランドの一部と
    デンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に
    官僚と分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を
    広めて、スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、
    スウェーデンのルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を
    任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを
    教える責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、
    フィンランドは、ほぼ全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、
    フィンランドは、1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化
    して行った。 フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の
    民族と同一だとみなしていた。 この間に、スウェーデン語を話すフィンランド
    生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で権力を持つようになった。

    地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、フィンランド領内の城を
    管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に最高官吏
    として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢の
    フィンランド人がスウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

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    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を
    布教し、多神教のフィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。
    まだ大学がなかった16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の
    教育、宗教の中心地に留学させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・
    アグリコラ(1510年~1557年) は、ドイツのウィッテンベルグの大学で
    学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人に
    マルティン・ルターの革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この
    運動は、ローマカトリック教会の権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ
    各地で、プロテスタントのルター派が広まった。

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    デンマークの国民は高額の税金の見返りとして、多くの種類の社会サービスと
    福祉サービスを受けることが出来る。 国民健康保険制度によって、国民には
    無料の医療と入院看護が保証されており、薬剤と一部の歯科医療の料金を支払う
    だけで良い。

    出世時の予想寿命は極めて高く、75歳となっている。 1980年代には、出生率が
    低く、政府は2~3年後には人口が減少すると予想した。 しかし、1990年には
    出生率がわずかながら上昇し、人口はこのまま安定するか、わずかながら増加する
    だろうと予想されている。

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    退職者は年金を支給されるが、生活費の上昇に応じて増額される。 高齢者が
    出来るだけ長く自分の家で暮らせるように援助するのが、政府の方針である。
    介助や介護の必要な退職者は、公立のホームに入ることが出来る。 ホームは、
    全て個室制となっている。

    政府はまた、失業と労働災害による疾病に対して、保険金を支給する。 職のない
    人々に対しては、職業訓練の制度がある。 障がい者には、特別の援助が用意
    されている。 働く親には、公立の保険が設けられている。

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    フィンランド語には、母音が8つあり、最初の4つは、日本語のアイウエオと
    ほぼ同じ母音となっている。 残りの4つの母音のうち、u は、英語と同じで
    唇を丸くして発音します。 日本語のウとは殆んどの方言では唇を丸くせず、
    イと同じような平べったい唇の形で発音するため、日本語のウでは代用出来ない。 
    はドイツ語の ä よりは英語の hand や bag の ӕ に近い。 ö は、ドイツ語の
    ö のように、オを発音する唇の構えでエを発音するとこの音になる。 y は、
    ドイツ語の ü のように、u の口構えでイーを発音するとこの音になる。



    母音の数の多さに加え、母音調和と呼ばれる現象があり、これは、a o u と
    ä ö y が別々のグループを作っていて、1つの単語の中に混在しないという現象を
    こう呼ぶ。 但し、 e と i は、どちらのグループにの母音とも同じ単語の中で
    共存出来る。

    母音調和があるために、名詞や動詞の活用語尾も2通りある。 語尾は1つ
    だけではなく、いくつか連続することもあるため、語尾がいくつも連なった長い
    単語も母音調和の対象となる。

    理屈だけで考えると面倒な言語に思えるが、不思議なことに、実際に
    フィンランド語を話す時は、2つのグループの母音を混在させると、非常に発音
    しにくくなる。 少なくとも母語として話す人々にとっては、母音調和は、
    効率的、かつ、自然な仕組みということになる。

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    【フィンランド語の今】
    首都ヘルシンキは、今でこそフィンランド語一色のように見えるが、19世紀に
    首都として建造された頃は、スウェーデン語一色の街であった。 このことは、
    ヘルシンキという街の名前や、市内各地の地名からも明らかで、ヘルシンキで
    話されるフィンランド語の俗語は、スウェーデン語起源の語彙であふれている。
    もちろん、ヘルシンキにはスウェーデン語系の住民も少なからず住んでいる。
    ヘルシンキは、現在でも、フィンランド語とスウェーデン語の両方を公用語と
    する自治体で、通りの名前も道路標識も2つの言語で書かれている。

    ヘルシンキ大学にフィンランド語学が設置されたのは、1851年だが、初代の教授の
    カストレーンも、次の教授のレンルートも共にフィンランド語が母語なのに、
    名前は、スウェーデン語で、2人共フィンランド語学の講義も論文も
    スウェーデン語で行っていた。 フィンランド語で講義をしたり、論文を書いたり
    出来なかった理由の1つは、学術用語が整備されていなかったためであった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
    正教派を採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
    文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
    この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
    いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

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    【スウェーデンの支配】

    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
    に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
    責任者とした。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
    地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
    両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
    フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
    間で話されるようになった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。

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    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前
    7000年頃だった。 当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今の
    バルト海は淡水湖だった。 一番古い居住者達は、歴史学者がラップランド
    先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。
    ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料とした。 船を作くり、船首の
    飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示されている。

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    【新移住者の到来】
    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド
    領だったカレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も
    居た。 そこに定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器
    となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、
    歴史家はその磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、
    フィンランド南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。
    この民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今の
    フィンランド南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在の
    ラハティ市からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。
    フィン語族第3のグループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境
    沿いに住んだ。 各グループの居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

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    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、
    海岸沿いにあるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

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    【ヘルシンキ】
    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな
    花崗岩の半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。
    文化活動の中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、
    陶磁器、繊維など大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、
    初期の定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを
    雇い市を再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つ
    ゆったりとした都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、
    周辺にも住宅地区を沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の
    交通混雑の緩和に役立っている。

    【その他の都市】

    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心
    都市となっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に
    分断されている。 1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な
    工業都市に成長した。 現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産して
    いる。 大学と技術カレッジがそれぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、
    ボスニア湾のアウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の
    中心地でもある。 1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、
    スウェーデンに非常に近いため、住民の約5%は主としてスウェーデン語を
    用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口
    10万4千)、古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。
    ヴァーサ市民の約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、
    3月に冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の
    北端にあるユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に
    近く、林業の中心地となっている。

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    デンマークは、世界で初めて児童の教育を義務制にした国のひとつである。
    義務制の基礎教育は、9年間だが、自発的に10年目の教育を受ける者も多い。
    義務教育の間は、学年末ごとの試験を受ける必要はない。 しかし、最終学年の
    終わりには、希望すれば、卒業試験を受けることが出来る。 約91%の児童が
    公立学校に通学し、残りが私立学校で勉強している。 私立校の経費は、国家が
    85%を負担する。

    2010090801

    中等教育の3年間で、言語能力を重視する教育課程と、数学を重視する教育課程の
    どちらかを選ぶことが出来る。 こうして、基礎学力を身に付けた者の3分の2が、
    工業、または、商業教育の専門学校に入る。 大学に進学する場合は、最終試験に
    合格しなければならない。

    この国には、5つの大学があり、1479年に創立されたコペンハーゲン大学が最も
    古い。 一番新しいのは、1974年に開設された大学である。 後期高等教育の
    学校としては、その他に、工学、薬学、歯科学、建築学、獣医学、その他の
    専門教育を行う各種専門学校がある。

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    デンマークの教育制度のもうひとつの特徴は、寄宿生の国民大学の存在で、国民
    大学は全て私立である。 最初の国民大学は、1844年に、歴史学者であり詩人でも
    あるニコライ・フレゼレグ・S・グルントヴィーによって設立された。

    グルントヴィーの目標は、特に農村出身の若者達に、社会や政治への関心を強く
    持たせて、才能を伸ばすチャンスを与えることにあった。 デンマークに始まった
    この国民大学運動は、その後、北欧全体に広がった。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島と
    ロシア連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは
    領土を拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い
    歴史の中で多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀
    半ばから1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服
    したが、ロシア皇帝は、スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのまま
    フィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る
    気持ちが高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国
    完全併合の企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩として
    ロシア帝政を倒すと、フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを
    避けようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、
    中立政策を放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連は
    フィンランドに莫大な金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し
    近代化した。 また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償
    支払いを完了した。 それ以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持する
    ことを最優先とした。 同時にフィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の
    協定も発展させた。 これらの努力によって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、
    フィンランド人の生活水準は非常に良くなった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして
    働いている。

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    福祉のために多くの予算が割かれることも一因となって、デンマークは間もなく
    財政赤字を生じるようになった。 1970年代初期には、外国からの借款の金額が
    増加した。 経済上の利益のため、デンマークはEFTAを脱退してECに加盟した。
    1973年と1974年の世界的な石油危機によって、石油の輸入価格は上昇し、
    借款額は急上昇した。

    借款を返済する一助として、政府は大増税を実行した。 増税に抗議して政府支出の
    削減を要求する政党が結成された。 党員の多くは、伝統的な非社会主義集団の
    出身者であり、また、社会民主党の中で、比較的保守的な集団の出身者でもあった。

    それでも労働者の賃金は、毎年上昇し続けた。 賃金の支払いやその他の経費に
    充てるため、企業の多くは、製品の価格を下げ、世界市場での競争力が低下した。
    同じ時期、政府は多数の労働者を公務員として雇用した。

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    1982年、長期に渡って政権を維持して来た社会民主党が、総選挙に敗北した。
    80年代の終わりまで、どの政党も議会で過半数を占めることが出来ず、12の党が
    様々な組み合わせでの連立政党を組織したが、いずれも短期間しか政権を維持
    出来なかった。

    1982年、社会民主党などを除く4つの政党が政権を握った。 保守党のポウル・
    シュリッターが首班となった。 シュリッター政権は、財政支出を削減したが、
    企業の借款が続いたため、国全体としての貿易赤字は増加した。

    1980年代半ばには、環境問題も大きな議論を巻き起こした。 1987年、国会は
    極めて厳しい環境保護法を通過成立させた。

    1980年代末、シュリッターは、国の借款と支出を大幅に削減して、外国への負債を
    払い始めることを提案した。  国は福祉への支出を削減し、賃金の増加は、
    生産性を上げた労働者にしか認めないことにした。 労働者はこれで一時的に
    せよ賃金の増加を抑えられ、高額の税金を支払わなければならなくなった。

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    1990年代の初め、ECは加盟国相互間の全ての貿易障壁を取り除く準備を始めた。
    オランダのマーストリヒトで条約が結ばれてEUが成立し、単一のヨーロッパ通貨を
    つくる計画が立てられた。 しかし、デンマーク国民の多くは、この条約によって、
    経済と政治の独立性が奪われるのではないかと恐れた。

    1992年6月、デンマークの有権者達は、国民投票でこの条約を退けた。 この投票
    結果は、ECの将来にも、ヨーロッパの経済システムの中での、デンマークの地位に
    暗い影を投じたが、翌1993年5月、再度の国民投票によって同条約は批准された。

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