横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じく
    ロマンス語の1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の
    中間的な特徴を少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、
    フランス語の母音がそれぞれ5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の
    母音は8つとなっている。 スペイン語と違い、曖昧母音 ə もあるが、
    フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、
    『ビール』は、cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって
    西仏どちらかに似ていることが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞に
    あたるものは、スペイン語ではser と estar の2つがあり、フランス語では être
    1つとなる。 スペイン語には見られない副詞的代名詞の hi、en があるのは、
    フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも
    異なり、カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように
    全体的には、お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて
    出会って、自分達の言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が
    増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常に
    さらされている。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que
    (接続詞)という表現の影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+
    不定詞という表現を使う人が少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】
    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的
    背景、政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ
    自治州、マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスや
    イタリアに含まれる地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャ
    では、2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。
    方言としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準
    カタルーニャ語は、東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて
    定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、
    スペイン語と共に自治州の公用語とされている。



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    ドイツ語の初学者は、名詞の性に悩まされ、動詞や形容詞のめまぐるしい語尾変化に
    挫折感を感じてしまう。 しかし、その峠を越えて、文法体系をマスターしてしまえば、
    後は結構自由自在で、分かりやすい。

    西ゲルマン語の代表であるドイツ語は、同系統の英語と異なることろも多く、まずは、
    語彙が本来のゲルマン語起源の単語を多く堅持しており、一方の英語は、ロマンス系の
    語彙を多く取り入れている。

    deutsch

    ドイツ語は、動詞が文の2番目に来る(従属節では文末)。 この原則さえ守っていれば、
    後は自由な語順となっている。 その他は、語順自由という日本語とも通じるところが
    ある。 未来のことを表すのも現在形で大丈夫というところも日本語と似ている。 他にも、
    複合語を得意、格がある(日本語の格助詞に相当)、ローマ字発音でかなり通じるなど、
    日本語話者には、比較的取り組みやすい言語となっている。

    日本人にとって、少々手ごわい発音は、3つのウムラウト(変母音)と、lとrの区別だろう。
    äは、アの口の形でエと、öはオの口の形でエと、üは口唇を丸めたウの形でイと発音
    する。 lは舌の先を上の歯茎の裏側に付けて、rは水なしでうがいをするように口蓋垂
    (喉仏)を震わせて出すのラ行の音となっている。 大聖堂、オーデコロン(ケルンの
    水の意味)、カーニバルで有名なケルンは、Kölnと表記する。



    【ドイツ語の今】


    ドイツ語も他の多くの言語の例にもれず、昨今英語の影響を強く受けている。 それも
    単語の流入だけではなく、文法にまで及んでいる。 ドイツ語は文法が複雑と言われて
    いるが、それでも簡略化の道を進んでおり、教科書では再帰動詞として紹介される
    Ich erinnere mich daran(私はそれを思い出す)が Ich erinnere das のように一般的な
    他動詞として使われ、Ich kenne den Student(en)(私はその学生を知っている) では
    不規則な語尾変化が消失しつつある。

    また、ドイツで最大の外国人居住者のトルコ語が数世代に渡る紆余曲折を経ながら
    新しいドイツ語の形成に一役買っている。 それに加えて、若者言葉の革新性も入りつつ、
    伝統的な造語力も今尚健在となっている。

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    フランス語は、ラテン語から形成された言語で、大部分の常用語は、撥音的に2音節
    だが、音韻変化の過程で、ラテン語の音頭音節とアクセント音節のみが残ったため、
    こうなったと言われている。 しかし、新しい概念を言い表すことが必要となる場合には、
    そのつど、ラテン語に適当な語を求め。、語尾だけをフランス語風に単純化して、
    多音節語を作る。 こうした、2音節以下の短い常用語と数音節からなる長めの
    専門用語という語彙の多様性が、フランス語に豊かな表現力を与えている。

    また、フランス語は美しい響きを持つ言葉としても有名。 その秘密は、単語それ自体が
    固有のアクセントを持たない点に求められる。 フランス語は通常、リズム・グループと
    いって、意味的なまとまりを持った数語(通常5~6音節、長くても8音節を超えない)を
    一息に発音するが、アクセントは、その最後の音節に落ちる。 適度な単調さとそれを
    被るアクセントとの組み合わせが、フランス語に落ち着きと絶妙のリズムを与えている。

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    更に、独特の響きを持つ母音の働きがある。 例えば、鼻母音は、母音の後に
    鼻子音nが続く場合には、そのnを発音せずに、代わりに母音の呼気の一部を鼻腔に
    送って発音する。 現在フランス語には[ɑ̃][ɔ̃][ɛ̃][œ̃]の4つの鼻母音がありますが、
    それぞれの母音の鼻腔における共鳴音がnという子音に取って代わった訳で、
    これが深くて柔らかい響きをフランス語に与えている。 また、脱落音のeといって、
    アクセントを受けない位置にある母音はeは、多く無強勢音に弱まり、かつ、リズム・
    グループの中では、消失する。 これもまた、フランス語に軽やかな響きを与えることに
    大きく関わっている。



    【フランス語の今】

    グローバリゼーションの進行する現在、フランスにいやおうなく英語が押し寄せている。
    しかし、英語をフランス語に言い換え、自分達の言葉の純粋性を保とうとする努力が
    官民を問わずに払われている。 ある統計によれば、高級紙ル・モンドには、
    165語に1語の割合でしか外来語が混じっていない。 脱落性のeが頻繁に省略されて、
    耳障りな子音の連続が増えたが、4つの鼻母音の区別があいまって、 [ɑ̃]と[ɔ̃]の
    中間の鼻母音ひとつで済まされる傾向が現れている。

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    ポルトガル語は、イタリア語やフランス語と同じロマンス語系統の言語で、イベリア半島
    では、ガリシア語やスペイン語と国境を接している。 ガリシア語とは近い関係にあり、
    少し離れたスペイン語でもネイティブ同士であれば、相互理解可能な言語となっている。

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    他のロマンス語に比べ、ポルトガル語は、仮定表現の条件説に、接続法未来形が依然
    として残っていることや、フランス語やイタリア語で顕著である複合過去が発達せず、
    ラテン語の完了形に起源する単純系を過去の表現に使い続けていることなどが特徴と
    して挙げることが出来る。

    また、不定詞に統語上の主語に対応する人称語尾が付いた人称不定詞と呼ばれる
    形式は、近隣のロマンス語には見当たらない珍しい特徴となっている。

    Vou preparar umas sandes para voces levarem.『君達が持って行くようにサンド
    ウィッチを用意しよう』という文では、para(~のために、前置詞)、voces(君達、主語
    代名詞3人称複数)、levarem(原型の不定詞levarに3人称複数の人称語尾emが
    付いたもの)という構成で、『誰が持って行く』のかという点を強調した文にすることが
    出来る。

    同じ内容をVou preparar umas dandes para que voces levem.として文接続詞の
    queを挿入し、動詞をlevem(接続法現在3人称複数)にして従属文を用いた表現にも
    出来るが、後半部分をpara levarと語尾なしの不定詞にしてしまうと、単にテイクアウトの
    意味にしかならない。 人称不定詞は、法と時制と人称(と数)を備えた動詞の定形と
    それに関して中立的な不定詞の中間に位置するもので、準定詞と呼ぶべきであるという
    主張がある。

    音声面では、鼻母音の多いことが特徴で、5つの単鼻母音の他に、ポルトガル語に
    特有の二重鼻母音(ポルトガルで4つ、ブラジルで5つ)がある。 音節の構造が比較的
    単純で、日本人には学習しやすい言語と考えられているが、実際には、無強勢母音の
    弱化現象をはじめとして、聞き取りが難しい他、日本語の音体系から来る干渉もあり、
    日本人には致命的な落とし穴が少なくない。



    【ポルトガル語の古今】

    ポルトガル語が話されるようになる地域が独立して歴史に姿を現すのは、1096年で、
    この年、レオンとカツティーリャの王アルフォンソ6世が、ブルゴーニュの騎士エンリケに
    ポルトガル北部かあコインブラ辺りまでを伯爵領として譲渡した。 レコンキスタと
    呼ばれるイスラム教徒側に対するキリスト教の側からの国土回復戦争を通じて、
    南に領土が拡大する中、エンリケの子、アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王
    (1143年~)となる。

    当時の言語で書かれたテキストが現れるのは12世紀後半だが、この頃のポルトガル語は
    北のガリシア語との区別がまだはっきりとせず、書き言葉もラテン語が主体だった。
    ポルトガル語が現在の形となって来たのは、国の中心がリスボンからコインブラ辺りの
    中南部に移り、ルネッサンスの影響を受けて、言語規模が徐々に確立して行く16世紀に
    なってからである。

    1572年に出版された長編叙事詩の『ルタニアの人々』は、ギリシャやローマの古典的
    作品に範を取りながら、バスコ・ダ・ガマのインド航海やポルトガルの歴史を優雅な
    文体で詠いこんだもので、古典期のポルトガル語が結晶したものと言える。

    この頃、ポルトガル語は、アフリカ沿岸からインドやアジアに至る広い地域で通商目的に
    用いられており、日本が最初に直接接触したヨーロッパの言葉でもあった。 日本人で
    ポルトガル語を最初に習得したのは、フランシスコ・ザビエルの通訳を務めた鹿児島の
    弥次郎(生没年不明)と言われている。 1822年にブラジルが独立した後もポルトガル
    帝国の版図はアフリカからインド、中国のマカオまで広がっていた。

    1974年にクーデターで本国の独裁政権が打倒され民主化した後、アフリカの旧植民地は
    独立したが、公用語にはポルトガル語を採用している。 アフリカ諸国では、ポルトガル
    語はますます普及する傾向にあり、アンゴラのポルトガル語、モザンビークの
    ポルトガル語という変種が認められるのもそう遠くはないのかも知れない。

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    1815年のウィーン会議で、ナポレオンに占領されていたジュネーヴ、バレー、
    ヌーシャテルの旧同盟州が新たにスイス連邦に加わえられることが決定され、
    22州の連邦が成立する。 この時、スイスの永世中立と独立も承認された。

    ウィーン会議では、スイス憲法の問題は取り上げられなかった。 ナポレオンの
    敗退後、スイス憲法は効力を失い、スイスの領土は殆んど2、3の有力な家に
    よって支配され、半ば独立した州(カントン)のゆるやかな連合体に戻った。

    工場労働者や農民から、政府の民主化に強化する要求が盛んに出され、それに
    連れて再び宗教と社会の対立が激しくなった。 1880年代になると、改革運動が
    強まり、政府が倒される州もあった。

    1834年に、最も自由な都市州において、教会の所有する土地への課税、信仰の
    自由、教会から独立した公立学校制度を要求する運動が高まった。 これに
    反感を抱いた保守的なカトリック派の7州が同盟を結んで、この運動に対抗した。
    連邦政府は、同盟の解散を命じるが、7州が拒絶したため、1847年に、3週間に
    渡って内乱が起きた。 7州の同盟軍は敗北し、翌年、新憲法が制定された。

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    【1848年憲法】

    新憲法は、州と連邦政府間の権限を慎重に分けるものだった。 将来ヨーロッパで
    いかなる紛争が起きても、スイスの中立を守るため、外敵の攻撃に備える軍隊と
    防衛制度を区別する条項が盛り込まれた。 更に、商取引の効率を上げるため、
    慣習と度量衡と通貨にそれぞれ同一の基準が設けられた。

    新憲法によって、スイスが抱えていた最もやっかいな政治上の問題が解決し、
    経済活動に集中出来るようになった。 その結果、19世紀中頃には、景気が著しく
    向上した。 自由貿易政策により貿易が増大し、産業も発展した。 スイスは、
    貿易相手国がスイスからの輸入品に関税を掛けなかった。 スイスは、小国だが、
    自由貿易の政策のお陰で、外国に多くの市場を獲得出来たのである。

    政府の制約を受けないスイスの商業は、瞬く間に発展した。 教育を受けた
    商人階級と政府の力で、政界の産業界と市場の変化にうまく対応することが出来た。

    自国の製品を輸出するため、鉄道と道路網が整えられ、生産性を高めるため
    機械化して、諸外国と有利な通商協定を結んだ。 スイスの繁栄には観光も
    役立った。 アルプスの雄大な自然を求めて、外国から大勢の人々が観光や
    保養にやって来たからである。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

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    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、ウィーンの
    東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、ハプスブルグ家の
    皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、
    ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、まさに
    血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの王位にすえ
    ようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。 スペイン継承戦争と
    呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド
    などを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく支配出来ず、
    各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーとベーメンの自治を求める
    動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。
    その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、ベーメンの富裕な属州
    シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め込んだ。 フランス、スペイン
    などの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアはやむなく
    フリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、シュレージエンの
    回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年にフリードリヒの勝利に
    終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を向けた。
    発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の政策だった。
    マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の資産を摂取した。 1774年
    彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられる
    ようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の近代化に努め、
    諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、農民達を領主への
    義務の多くから解放した。

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    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、イギリス
    国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学には入学出来ず、
    ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。  しかし、今はこのような差別は
    ない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、今では欠かさず教会に
    通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展して来た。
    ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は現在はなく、学校や教会を
    設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は40万人にも
    昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を逃れてやって来た。
    ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者のための福祉事業が運営
    されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク教徒、
    ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒はパキスタン、
    バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的伝統を保つため、独自の
    学校を運営している事が多い。

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    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。 英語は
    アングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、発達の段階に
    よって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。 アングロ・サクソン
    年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ1100年まで使われた。
    ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す英語には、
    地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、スカウスと呼ばれる方言、
    ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディーという方言を話す。 ロンドンっ子の
    中には、コックニーと言われるロンドン訛りを使う人もいる。

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    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオやテレビで
    標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の差を強めている
    事もある。

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、その
    世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と旧教の
    対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは中立の
    立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、スイスの独立と
    中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、国会と
    呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は定期的に
    召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、各州の重要な
    決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、ローマカトリックか
    プロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』と
    呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、フルブール、
    ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い都市州では、富裕な
    地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じだったが、
    支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、国家として
    団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか安定を保ち、
    紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    イングランドでは、5歳から16歳の子供は、義務教育を受けなければならないことに
    なっている。 識字率は、99%で、ほとんどの子供が公立の学校に通っている。
    これらの学校の中には、イギリス国教会やローマ・カトリック教会など、宗教的な
    つながりを持つものも多い。

    イートン校、ハロウ校、チャーターハウス校など私立の学校に通う者も少数いる。
    これらの学校では、授業料を取り、私立であるが、パブリックスクールと呼ばれて来た。

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    初等教育は大体11歳で終わり、中等教育は16歳までである。 中等教育のほとんどは、
    総合中学校で、生徒達は多くのコースの中から自分に合ったものを選ぶことが出来、
    また、能力によって区別されることはない。

    中等教育修了後は、技術や職業訓練を受ける学校に通うことも出来るし、大学に入る
    ための勉強を続けることも出来る。

    イングランドの最も有名な大学は、12世紀に創設されたオックスフォード大学と
    13世紀創設されたケンブリッジ大学である。 最高レベルの教育を誇るこれらの大学は、
    いくつものコレッジ(学寮)から成っている。 1945年以来、政府は放送大学などの
    大学を創設して来た。 放送大学はキャンパスを持たずにテレビ、ラジオ、ビデオ、
    郵便などを通じて授業をする大学である。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の変化も
    重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、ローマカトリックの
    忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合うものが出て来る。
    それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の運営について改革を求めた。
    その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身のツウィングリという
    カトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツとフランスの改革者と共に、カトリック
    教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰のもとにするより簡素な宗教、つまり、
    プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏のスイス都市に
    伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、自分達の信仰を攻撃
    するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。 スイスは、カトリック教徒と
    プロテスタントに二分され、両者は戦いによって、その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、グラールス、
    ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒのカッペルでツウィングリの一派
    と戦った。 ツウィングリは戦死するが、後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が
    認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人のカルバンが、
    自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。 カルバンは、教会と
    政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがてジュネーヴの有力者達は、
    カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と宗教を
    組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から独立した市参事会に
    与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン(すごろくに
    似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止された。 カルバンは
    また、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学になった。

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