多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、領主から
    強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を構成する
    ドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に分散した
    ハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、トルコからの脅威に
    絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、
    この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と
    考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。 この和議で、
    ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認められた。 フェルディナント
    1世も、オーストリア領内にカトリック教会の権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年退位して、
    スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土はこれ以後、オーストリア
    系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントとカトリックの
    対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの貴族達は、プロテスタントの
    教会や大学を支持した。 だが、チロルのようないくつかの州では、カトリック教会に
    好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威の脅威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、フェルディナントは、
    ベーメン王となった。 しかし、1619年にフェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に
    選出されると、ベーメンのプロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。 ハプスブルグ
    家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来るプロテスタント教徒軍と戦った。
    戦争末期には、スウェーデン軍が勝利をおさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を
    引くことになった。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の
    宗教を選択する権利を再確認した。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に司法、
    警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、1998年に
    結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに渡る
    プロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々がテロの犠牲に
    なった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教という
    『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪だと思わせる
    効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。 そもそも、
    イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀にローマ法王が
    イギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住むカトリック系
    住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の武装蜂起が頻発
    したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、人口の60%に当たる
    500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、プロテスタント系
    の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。 1949年、アイルランド
    共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のままだった。 危機感を抱いたのは
    北部に残された少数派のカトリック系住民だった。 彼らは、イギリス自治権を要求
    したが、これを押し潰そうとする多数派のプロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めたことに
    反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という武力組織を結成、
    イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団だとするイギリスと、
    イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの間で、一切の妥協はなく、
    犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなったとは言え、北アイルランドは紛争
    では、被害者が出なかった家族はないと言われる程癒しがたい傷を残した。 住民達は
    今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ亀裂も深く、
    本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた若者2人が
    変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、フランス全土に広がり、
    死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、ヨーロッパ
    中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、スペインや
    イタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど、
    かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ諸国を始め、中東、アジアからの移住が
    本格化した。

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    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、戦後は
    自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足があった。
    政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに対しては、ほぼ無制限に
    滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりもあまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労目的の移民
    受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働条件や劣悪な環境の
    地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、政治的問題に発展する
    ことを恐れたことがあると言われている。

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    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに1万フラン
    (約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。 1981年、ミッテラン
    大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の権利の確立が保障されたが、
    その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の縮小や、1993年には改定移民法、
    国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の保護も大幅に制限された。 また、
    1997年の移民法は、滞在許可証の更新を認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、移民たちと
    フランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、3K(きつい、汚い、
    危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか貰えない。 にも関わらず、移民達が
    自分達の仕事を奪っていると考えるフランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした
    風潮の高まりが、大きな社会問題となって来ている。

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    労働党から政権の座を引き継いだのは、マーガレット・サッチャーを党首とする保守党で
    あった。 サッチャーは、イギリス連合王国初の女性首相となった。 サッチャーが
    目指したのは、国有化されていた企業を私有化し、労働組合の力を弱め、社会福祉への
    支出を減らすことなどだった。 これらの政策で、インフレは抑えられたが、失業率は
    上がり、ストライキも止まらなかった。

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    ところが、1982年、一時的にではあるが、イギリス国民が経済上の不安を忘れる
    事件が起きた。 イギリス・アルゼンチン紛争である。 南アメリカ大陸近くの小さな
    島が集まったフォークランド諸島の所有権を主張して、イギリスとアルゼンチンが
    争ったのだ。 イギリスは、1万人の兵士から成る特別部隊を送り、アルゼンチン軍を
    撃破した。 フォークランド紛争の勝利により、サッチャー首相の人気は急上昇した。

    サッチャーは、人気の高まりを利用して、1983年の総選挙で保守党が再び多数党となり、
    政権を握った。 また、1987年の総選挙でサッチャーは、首相として史上初の連続3選を
    果たした。 勝利原因は、労働党内部の統一が取れなかったこと、つまり、労働党内の
    不満グループが新党、社会民主党を結成したことである。

    サッチャー政府は、政府支出の削減や、国有企業の私的法人への売却を図った。 だが、
    1990年には、激しいインフレと高い失業率などが原因で、保守党支持は弱まった。
    人頭税と呼ばれる地方税の導入計画も、保守党政府の不人気の元となった。 1990年
    4月、ロンドンでこの税に反対する市民の怒りが爆発、暴動となった。 サッチャーは、
    人気が落ち、12月に保守党の仲間から党首を辞めるよう要請された。 保守党は
    大蔵大臣だったジョン・メージャーを党首に選び、メージャーが新首相となった。

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    1992年4月の総選挙で再び保守党が議会の多数を占め、メージャーが首相を続けた。
    メージャーの考えは、サッチャーと共通なものが多いが、ECと協力して行くことに
    サッチャーほど反対していない。

    1992年にはEC加盟国はヨーロッパの更なる統合を目指して、マーストリヒト条約(欧州
    連合条約)に調印、1993年からEU(欧州連合)として、ひとつの貿易圏を形成している。
    1994年には、イギリスとフランスを結ぶ海峡横断トンネル(ユーロトンネル)が開通し、
    両国が結ばれるようになった。

    しかし、このような動きがあったにも関わらず、イングランドの人々は、自分達は
    ヨーロッパ大陸の人々とは別だと考え、イングランドの長い歴史や文化を誇りに思って
    いる。

    イングランド自身、北部と南部に分裂しようとしていると言う人もある。 保守党の
    拠点であるイングランド南部は、サッチャー、メージャーの下で繁栄して来た。 北部は、
    失業者も増え、経済も衰えた。 大きな都市は、今尚労働党支持が多い。 イングランドの
    将来は、これらの経済、および、社会問題の解決にかかっている。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第にスイス
    地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な領地を統治する
    ようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、ヨーロッパの多くの地域との間に
    重要な交易が始まった。 村人達は、街の市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの
    農村から運ばれて来た穀物と交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。 なかでも、
    ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。 その頃、
    小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、自由の身になる者が
    大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部のシュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの
    3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていたこの
    3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。 3州は、
    ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いのタ対立を
    解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、1年に
    一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わったのは、
    主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に対抗する
    3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた盛んに
    なった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人との戦いで戦死し、
    バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン(今のチェコ)の国王オットカル2世は、
    フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に
    併合した。

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    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家のルドルフを
    神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の軍隊は、マルヒフェルトの
    戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの領土は次々とルドルフの支配化に入った。
    こうして、ルドルフを初代とするハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも
    渡ってオーストリアに君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主の
    ほとんどは、同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

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    【帝国の膨張】

    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、チロル
    以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの息子
    マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド(現在の
    オランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によってハプスブルク家の
    領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王フェルディナントの娘と結婚させた。
    この結婚から生まれたカール5世は、1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ
    帝国皇帝に選出された。 その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な
    領域をハプスブルク家当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンとハンガリー
    両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、両国の王を兼ねた。
    ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、マジャール人が創設した国である。
    ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を得て、フェルディナントに反抗した。 当時の
    トルコは軍事大国で、バルカン半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、
    1529年にウィーンに迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうとしなかった。
    保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、チェンバレンは
    仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは辞職し、ウインストン・
    チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の首相となった。 イギリスと
    連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国のドイツ、イタリア、日本と戦った。
    第二次世界大戦である。

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    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、ロンドン、
    コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、港湾設備、工場、
    住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を輸送する船が、ドイツの
    潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の配給が日常のことになった。
    だが、イギリス国民は、戦争支持の決意をあらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の多くは、
    廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て直しには、
    アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ国家の
    管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】

    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題解決に
    努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、これは
    イギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうとする動きの
    ひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こるなど、
    問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった労働党が非核武装
    問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を国の政策にしたいと
    思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、1979年に政権を失った。

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    ヨーロッパで初めて慰安婦像設置の計画を進めていたドイツ南西部のフライブルク市が、
    日本側からの抗議を受け中止を決定した。

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    慰安婦像の設置をめぐっては今年5月、フライブルク市の姉妹都市である韓国
    スウォン市が提案し、合意していたもの。 しかし、日本などから抗議が殺到、さらに、
    日本側の姉妹都市である愛媛県松山市も『像が設置されれば交流に影響が出る
    恐れがある』と懸念を伝えていた。

    これを受け、フライブルク市は設置中止を決定し、スウォン市の市長にも直接伝えた
    ということです。 フライブルク市は『日韓の2国間の問題に干渉すべきでないと
    判断した。 我々は双方とうまくやって行きたい』と話した。



    慰安婦像は、韓国以外ではアメリカやオーストラリアなどにあるが、フライブルク市に
    設置されればヨーロッパで初めてとなる予定だった。

    ヨム・テヨン水原市長は、フライブルク市に遺憾の意を含めた公式立場を伝え、
    日本側にも抗議書簡を送ると明らかにした。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。 この
    新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国(公爵の領地)などの
    領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の中で、7人が選挙候と呼ばれる
    地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組みであった。 976年、オットー1世の後継者
    であるオットー2世は、バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的
    地位の低い君主)に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに入植して、
    村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと東のマジャール人の
    土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が新たに整備されて近隣諸国
    との交易が拡大された。 オーストリアは、神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、
    実質的には、独立国の要素が大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、バーベンベルク家は
    皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世
    ヤソミルゴットの地位を公爵に引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、
    初めてウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で繁栄を
    続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の戦士達は、
    イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かうことが多かったため、
    オーストリアの経済的重要性が大きくなった。 リンツやクレムスなど川沿いの都市が
    この時期に誕生した。 1192年、隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま
    死ぬと、バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    ビクトリア女王の死去した1901年には、他の国々、中でもドイツとアメリカ合衆国は、
    製造業や鉄鋼生産の面でイギリスの強敵になっていた。 ドイツは海軍力と工業力を
    伸ばし、植民地、国際市場、外交の点でイギリスの敵対国となっていた。

    1914年、オーストリア(ドイツの同盟国)が東ヨーロッパのセルビアを攻撃したのが発端で、
    19~20世紀に掛けて結んでいた種々の同盟関係によって、イギリス、フランス、ロシアが
    参戦して世界大戦となった。 これが第一次世界大戦である。 イギリス、フランス、
    ロシアは、ドイツ、オーストリア、トルコを相手に戦った。

    あらゆる階級や職業の何百万人ものイギリス人が志願、または、徴兵によりイギリス軍に
    編入されて、フランス、ベルギー、中東の地で戦った。 イングランド諸州も軍隊を送った。
    国民がこの戦争を支持したからだ。

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    戦争に勝つために工場に出たり、看護師として海外へ行く女性もいた。 広い自分の
    屋敷を傷病兵の収容病院のために提供する人もいた。

    しかし、戦争が長引き、多数の若者が見込みもないまま戦闘で戦って死んで行くにつれて、
    大衆の支持は弱まった。 1918年、対戦終結には80万人以上ものイギリス人が命を
    落としていた。 この世界規模の戦争は、イギリス社会に大きな変化をもたらした。
    ビクトリア女王の時代には階級の区別がはっきりしていたが、大戦後の、女王の孫
    ジョージ5世の代には薄れていた。

    イギリス女性達は、対戦中に手に入れていた自立を守ろうとし、1918年には選挙権を
    勝ち得た。 労働党は、自由党をジリジリと追い出し、政権は労働党と保守党の間で
    交代した。 これまで地主や工場経営者と戦って来た農民や労働者も、繁栄の恩恵に
    あずかることを期待した。

    だが期待は外れた。 1930年代の世界的大不況でイングランドの農工業は、苦境に
    陥り、労働党、保守党どちらが政権を取っても300万人の失業者、市場の減少、植民地
    での暴動を解決出来なかった。 また、第一次世界大戦で敗戦したドイツが再び
    陸海軍力、経済力を強めて来た。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の財宝を求めて
    東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を攻撃し、やがて
    ヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・シーザー指揮の下、
    ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を広げて行く。 紀元前15年には、
    ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、ローマ
    帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や果物を栽培し、
    ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、小さな市場を持つ
    街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、ヘルベチア族の
    定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、ヘルベチアの領土を
    取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を取り戻すため、ローマの役人は
    ヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】

    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に改修し、ローマ
    カトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家のカール王(後のカール大帝)が
    現在のスイス、フランス、オランダ、オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの
    地域を含む広大なキリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇も
    カール王の力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の侵入に備えて
    兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、王には服従した。 王位は、
    世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来上がっていた。
    小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く代わりに、食料を与えられ、保護を
    受けた。 その身分は、法的に領地に属し、領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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    キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて成立した
    宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい禁止令を設けて信者達を
    迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、キリスト教は、帝国領土内の人々の
    間に着実に広まり、4世紀には、帝国の国教として公認された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の広がりを見せ、
    8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としてのカトリック教会が成立した。

    この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は両地域の
    境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の大司教管区と
    定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していたシャルル
    マーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を征服し、ここを
    『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。 東からフランク帝国を攻撃して
    来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の意味を持つ名称となっている。 この
    名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』と変えられ、オーストリアの正式な国名と
    なった。

    814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。 817年
    オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配するバイエルン王国の一部と
    なった。 834年にヴァルダン条約が締結されて相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、
    東フランク王国を創設した。 これは、現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む
    広大な領域である。

    876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人とアヴァール人は
    東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や農場を破壊した。 955年、
    ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いでマジャール人を破り、オーストリアを独立の
    領邦、つまり、小国家と定めた。

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