多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

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    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、ウィーンの
    東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、ハプスブルグ家の
    皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、
    ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、まさに
    血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの王位にすえ
    ようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。 スペイン継承戦争と
    呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド
    などを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく支配出来ず、
    各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーとベーメンの自治を求める
    動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。
    その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、ベーメンの富裕な属州
    シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め込んだ。 フランス、スペイン
    などの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアはやむなく
    フリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、シュレージエンの
    回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年にフリードリヒの勝利に
    終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を向けた。
    発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の政策だった。
    マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の資産を摂取した。 1774年
    彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられる
    ようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の近代化に努め、
    諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、農民達を領主への
    義務の多くから解放した。

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    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、イギリス
    国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学には入学出来ず、
    ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。  しかし、今はこのような差別は
    ない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、今では欠かさず教会に
    通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展して来た。
    ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は現在はなく、学校や教会を
    設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は40万人にも
    昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を逃れてやって来た。
    ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者のための福祉事業が運営
    されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク教徒、
    ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒はパキスタン、
    バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的伝統を保つため、独自の
    学校を運営している事が多い。

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    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。 英語は
    アングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、発達の段階に
    よって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。 アングロ・サクソン
    年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ1100年まで使われた。
    ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す英語には、
    地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、スカウスと呼ばれる方言、
    ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディーという方言を話す。 ロンドンっ子の
    中には、コックニーと言われるロンドン訛りを使う人もいる。

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    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオやテレビで
    標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の差を強めている
    事もある。

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、その
    世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と旧教の
    対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは中立の
    立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、スイスの独立と
    中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、国会と
    呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は定期的に
    召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、各州の重要な
    決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、ローマカトリックか
    プロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』と
    呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、フルブール、
    ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い都市州では、富裕な
    地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じだったが、
    支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、国家として
    団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか安定を保ち、
    紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    イングランドでは、5歳から16歳の子供は、義務教育を受けなければならないことに
    なっている。 識字率は、99%で、ほとんどの子供が公立の学校に通っている。
    これらの学校の中には、イギリス国教会やローマ・カトリック教会など、宗教的な
    つながりを持つものも多い。

    イートン校、ハロウ校、チャーターハウス校など私立の学校に通う者も少数いる。
    これらの学校では、授業料を取り、私立であるが、パブリックスクールと呼ばれて来た。

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    初等教育は大体11歳で終わり、中等教育は16歳までである。 中等教育のほとんどは、
    総合中学校で、生徒達は多くのコースの中から自分に合ったものを選ぶことが出来、
    また、能力によって区別されることはない。

    中等教育修了後は、技術や職業訓練を受ける学校に通うことも出来るし、大学に入る
    ための勉強を続けることも出来る。

    イングランドの最も有名な大学は、12世紀に創設されたオックスフォード大学と
    13世紀創設されたケンブリッジ大学である。 最高レベルの教育を誇るこれらの大学は、
    いくつものコレッジ(学寮)から成っている。 1945年以来、政府は放送大学などの
    大学を創設して来た。 放送大学はキャンパスを持たずにテレビ、ラジオ、ビデオ、
    郵便などを通じて授業をする大学である。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の変化も
    重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、ローマカトリックの
    忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合うものが出て来る。
    それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の運営について改革を求めた。
    その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身のツウィングリという
    カトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツとフランスの改革者と共に、カトリック
    教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰のもとにするより簡素な宗教、つまり、
    プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏のスイス都市に
    伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、自分達の信仰を攻撃
    するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。 スイスは、カトリック教徒と
    プロテスタントに二分され、両者は戦いによって、その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、グラールス、
    ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒのカッペルでツウィングリの一派
    と戦った。 ツウィングリは戦死するが、後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が
    認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人のカルバンが、
    自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。 カルバンは、教会と
    政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがてジュネーヴの有力者達は、
    カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と宗教を
    組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から独立した市参事会に
    与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン(すごろくに
    似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止された。 カルバンは
    また、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学になった。

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    現在、イギリスに住む人の多くはケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、デーン人、
    ノルマン人など、かつてイギリスに侵入し、住み着いたヨーロッパ民族の子孫である。
    イングランドには、ケルト人が刻んだ石灰石の像や、ノルマン人が建てた聖堂など、
    先祖の造った物が残っている。

    18、19世紀に激しかった貧富の差は、2回の世界大戦で縮まった。 社会的差別は
    尚もあるものの、以前ほど厳しいものではない。 例として、1964年以降、どの首相も
    中流ないし、労働者階級の出であることがあげられる。 また、若者は、独自の流行や
    言葉を生み出し、かつては服装や言葉遣いにハッキリ見られた階級差は消えた。

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    20世紀にはヨーロッパ、インド、パキスタン、香港、カリブ諸島から難民として、あるいは、
    かつての植民地からよりよい暮らしを求めて、大勢の人がイングランドに移住して来た。
    1990年代前半には、移民は500万人にも上った。 その多くは、都市のスラム街に
    住んでおり、少数派であるがために、住居や職を探すのに差別を受けることがある。

    民族の違いから来る都市生活の不安も、イギリスにおける新しい問題である。 ロンドン、
    リバプール、ブリストル、バーミンガムなどでは、黒人や東洋人の住んでいる地区で
    暴動が起きている。 原因は、失業率の高さなどの経済問題や、警察と住民の関係の
    悪さにあると考えている人が多い。

    しかし、最近の総選挙では、東洋系や黒人の下院議員が誕生しており、また、少数
    民族が地域ごとに、自分達自身の力で問題解決の計画を立て、運営するなど、明るい
    動きも見られる。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていたハプスブルグ家の
    狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス越えの重要ルートを管理
    する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し
    (モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの各州が、
    スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州(カントン)同盟』)。
    軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いてハプスブルグ軍を打ち破る。
    同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に領土をめぐって何度か戦いを交わし、
    そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の東方と
    南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、それに
    対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、同盟軍は、
    1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。 オーストリアとフランスの
    援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、スイス側に付いたフリブールと
    ゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の支配権を
    握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ神聖ローマ帝国に
    属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、同盟軍は、
    反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国からの独立を
    獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、イタリア
    北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、フランス軍に
    敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練していたので、
    他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大する必要性が
    あったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、領主から
    強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を構成する
    ドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に分散した
    ハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、トルコからの脅威に
    絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、
    この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と
    考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。 この和議で、
    ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認められた。 フェルディナント
    1世も、オーストリア領内にカトリック教会の権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年退位して、
    スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土はこれ以後、オーストリア
    系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントとカトリックの
    対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの貴族達は、プロテスタントの
    教会や大学を支持した。 だが、チロルのようないくつかの州では、カトリック教会に
    好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威の脅威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、フェルディナントは、
    ベーメン王となった。 しかし、1619年にフェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に
    選出されると、ベーメンのプロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。 ハプスブルグ
    家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来るプロテスタント教徒軍と戦った。
    戦争末期には、スウェーデン軍が勝利をおさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を
    引くことになった。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の
    宗教を選択する権利を再確認した。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に司法、
    警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、1998年に
    結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに渡る
    プロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々がテロの犠牲に
    なった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教という
    『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪だと思わせる
    効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。 そもそも、
    イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀にローマ法王が
    イギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住むカトリック系
    住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の武装蜂起が頻発
    したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、人口の60%に当たる
    500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、プロテスタント系
    の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。 1949年、アイルランド
    共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のままだった。 危機感を抱いたのは
    北部に残された少数派のカトリック系住民だった。 彼らは、イギリス自治権を要求
    したが、これを押し潰そうとする多数派のプロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めたことに
    反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という武力組織を結成、
    イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団だとするイギリスと、
    イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの間で、一切の妥協はなく、
    犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなったとは言え、北アイルランドは紛争
    では、被害者が出なかった家族はないと言われる程癒しがたい傷を残した。 住民達は
    今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ亀裂も深く、
    本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた若者2人が
    変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、フランス全土に広がり、
    死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、ヨーロッパ
    中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、スペインや
    イタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど、
    かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ諸国を始め、中東、アジアからの移住が
    本格化した。

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    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、戦後は
    自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足があった。
    政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに対しては、ほぼ無制限に
    滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりもあまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労目的の移民
    受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働条件や劣悪な環境の
    地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、政治的問題に発展する
    ことを恐れたことがあると言われている。

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    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに1万フラン
    (約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。 1981年、ミッテラン
    大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の権利の確立が保障されたが、
    その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の縮小や、1993年には改定移民法、
    国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の保護も大幅に制限された。 また、
    1997年の移民法は、滞在許可証の更新を認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、移民たちと
    フランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、3K(きつい、汚い、
    危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか貰えない。 にも関わらず、移民達が
    自分達の仕事を奪っていると考えるフランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした
    風潮の高まりが、大きな社会問題となって来ている。

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