横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    オランダ議会下院の総選挙が2017年3月15日に行われ、台風の目となっていた
    極右政党、自由党のウィルダース党首は、反イスラムや移民の排斥を再三
    訴えたが、得票は伸び悩み、最終的に24議席となり、これまでよりも5議席
    増やしたが、第2党に留まった。 ウィルダース氏は敗北を認めた。

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    ヨーロッパ政治全体の行方を占うとして注目されていた、オランダの総選挙だが、
    与党が第一党を確保し、ヨーロッパ各国は『オランダのトランプ』と呼ばれる
    ウィルダース党首率いる極右政党の伸び悩みを歓迎した。

    4月に大統領選挙を控えるフランスでは、ルペン氏率いる極右政党の台頭が注目
    されているが、オランド大統領は『過激主義に大きな勝利を収めたことを祝福する』
    との声明を出した。

    また、9月に総選挙が行われるドイツのメルケル首相は、ルッテ首相に『EUの一員
    として今後も協力しあうことを楽しみにしている』と電話で祝意を伝えた。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    キリストとイスラムの戦闘が続き、数百年に渡って、両勢力の境界線は常に
    流動的だった。 11世紀半ばの記録によると、ポルトガルはミーニョ川と
    テージョ川の間に位置したキリスト教勢力下の地だった。

    1096年、当時イベリア半島の皇帝を称していたレオン・カスティーヤ王、
    アルフォンソ6世がポルトガルを準独立国にし、自分のムコにあたるフランス人、
    ブルガンティー王国のエンリケにその領土を与えてしまった。 エンリケは、
    その地にローマ・カトリック教会の権限を強化、フランスの修道士を呼び寄せて
    ブルガ、コインブラの宗教区の運営を任せた。

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    エンリケが死ぬと、ポルトガルは、その未亡人であるアルフォンソ6世の娘で
    あるテレサの手に任されたが、テレサは父親の友人たちにかなりの権限を与る
    ようなことをしたため、ポルトガル貴族たちの反感をかった。

    そしてついに、テレサの息子、アルフォンソの軍隊を破った。 アルフォンソ・
    エンリケスは、こうしてポルトガルを支配下に置いたが、レオン・カスティーヤ
    新王国でいとこに当たるアルフォンソ7世のなお支配下にあった。

    王子のアルフォンソ・エンリケスは、独立を求めてアルフォンソ7世を相手に
    およそ10年間も戦った。 ところが、ムーア人から領土を取り上げる好機を
    到来と見るや、その戦いをあっさりとあきらめてしまった。 1130年代末の
    ことである。 その頃、ムーア人も内部抗争で領土が分割、ポルトガル南部への
    統治力は弱まっていた。

    アルフォンソ・エンリケスは1140年代、サンタレンとリスボンを攻撃、敗北した
    イスラム側は、貢物として、現金と品物を供出させられた。 ムーア人は、
    領土境界線をテージョ川から最南端のアルガルベまで後退をせざるを得なく
    なった。

    戦いに勝ち、貢物を受けるに連れ、王子の権力はますます強くなり、1139年から
    ポルトガル国王アルフォンソ1世を名乗るようになった。 1143年、アルフォンソ
    1世の即位を正式に認めた。 ポルトガルのアルフォンソ王朝誕生である。

    12世紀半ばまでに、ポルトガルは、コインブラを首都に独立国となった。 しかし、
    ムーア人の脅威は去らず、1185年までのアルフォンソ時代を通してイスラムとの
    戦いは続いた。 その後、息子のサンチョ1世が後を継ぐと、ムーア人と戦い、
    貿易と農業が盛んになって行った。

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    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

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    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

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    700年代はじめに、西ゴート勢力内部分裂を起こし、反乱派は、北アフリカから
    戦術に長けてい軍隊を呼び寄せ、西ゴートを統治していたロデリック王に対して
    謀反を起こした。 この反乱軍がムーア人と呼ばれ、アラブ人とバーバル人の
    混成である。 彼らの宗教は、イスラム教と呼ばれる一神教で、アラビアで
    生まれ、後にイスラム教として知られるようになった。

    このイスラムによる、イベリア半島侵攻がスペインで始まったのが711年。
    ムーア人はロデリック王の軍隊を蹴散らし、王は戦死した。 侵攻したムーアの
    軍は北アフリカには帰らずに、コルドバやトレド(現在はスペインの都市)など
    豊かな街を次々と占領して行った。

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    ロデリック王を倒した西ゴートの反乱勢力もムーア人の進撃を阻止出来ず、18世紀
    半ばまでに、北部の山岳地帯を除くイベリア半島の大半がムーア人の支配下に
    入った。

    ポルトガル北部のカトリック教徒たちは、イスラム教のムーア人たちに抵抗した。
    キリスト教軍は、侵攻して来たムーア人を50年以内にドウロ川の南に追いやり、
    現在のポルトガルにあたる街とその周辺の領土を取り返した。

    11世紀半ばまでには、キリスト教軍は更に、コインブラの南にまで勢力を広げて
    行った。 貴族達はこうして、スペイン北部の広大な土地も含めてキリスト教の
    勢力下におさめた。 ポルトガル、および、コレインブラ周辺の一帯は、
    ガリシア地方として、レオン・カスティーリャと呼ばれる北イベリア王国の
    領土になった。

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    モスクワ経由のアエロフロート・ロシア国際航空で、ロンドンへ海外出張に行って
    来た。 成田空港から、モスクワまでは、約11時間の空の旅。 ソ連時代からある
    アエロフロートは、最新鋭のエアバスを使用しているため、モニター、USBコネクター、
    WiFi、美人キャビンアテンダント付きとなっております☆

    動物愛護の国であるため、アエロフロートの機内には、大型犬も機内持ち込み可能。
    実際に、猫を機内に持ち込んだことがあるのだが、キャビンアテンダント達も非常に
    親切で、水を持って来て貰ったことがある。 猫をひざの上に乗せていても周囲からも
    全く文句は言われない。

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    アエロフロートは、かつては、エコノミークラスの更に下のY2クラスに分類されていた
    のだが、今ではサービスにおいても、JALやANAを抜き去り、ヨーロッパへの最短
    ルートとなっている。

    途中、機内食は2回出るのだが、キャビンアテンダントに言えば、飲み物は何度でも
    無料で貰える。 WiFi使用料は30ドル。 英語とロシア語のみでその情報が記載
    されているため、何れかの言語を読めない限り、使えない。 機内では、ロシア語と
    英語でもアナウンスしていたが、日本語でのWiFiの案内はなかった。 アエロフロートの
    機内食は、大体、肉か魚を選べる。

    ソ連の時代のアエロフロートは、キャビンアテンダントが国外に勝手に逃げては困る
    という理由により、熊のような体格の女性ばかりがキャビンアテンダントを務めていたが、
    時代は代わり、美人ばかりを取り揃えてサービスを行っている。 尚、ソ連時代の
    アエロフロートは、機内はもちろんの事、シベリア上空を通過する際にも写真撮影禁止
    だった。 機内で撮影しているところを見つかると、フィルムを取り上げられた時代だった。
    機内なのに、雨漏りがするとかも普通で、キャビンアテンダントが、ガムテープで応急
    処置をするという凄まじい時代でもあった。

    成田空港からものの2時間でロシア領内に入り、そこから9時間ロシア国内を飛ぶことと
    なる。 中国領内を迂回して、ハバロフスク上空からロシア領に入るのだが、比較的
    北側を飛ぶため、上空から見える景色は、かなり寒々しいものとなっている。

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    約11時間の空の旅の後、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港ターミナルDに到着。 ソ連
    時代は、このターミナルDはシェメーチェボ第二空港という名前だった。 但し、建物は
    その時代とまったく同じ。 トランジットと言えども、空港内から外に出る際には、ビザが
    必須であるため、今回は空港の外には出ずに、ロンドン行きの飛行機を待つことにした。

    ロシアでは、2回用の入国ビザを所持していたため、降りようと思えば降りられたのだが、
    シェレメーチェヴォ空港は、中心部にあるベラルーシ駅まで特急で40分掛かるため、
    帰りにモスクワで降りようと考えていたところ、肝心の帰りの飛行機が3時間以上も遅れた
    ため、結局、この後、モスクワでは降りられないこととなった。 尚、モスクワ・
    シェレメーチェヴォ空港では、英語での表記はかろうじてあるものの、係員は誰も英語を
    喋れない。

    シェレメーチェヴォ空港では、トランジットとは言え、パスポートと荷物のチェックがあるため、
    黄色い看板に従って進み、全てのチェックをうけなければならない。 一応英語表記も
    あるのだが、昔はロシア語のみの表記であった。 相当適当な成田空港のパスポート
    チェックとは異なり、ロシアのチェックはかなり厳しいため、変な物を持ち込むと、ここで全て
    没収されることとなる。 一昔前までは、手荷物を預けると、出て来ないのが当たり前で
    あったため、空港にはサランラップのお化けのようなものがあったのだが、今では、普通に
    荷物が出て来るようになった。 そもそも、アエロフロートの職員自体が泥棒という、
    やった者勝ちの航空会社だった。 郵便局も同様で、荷物をEMSで送っても届かない
    のが当たり前だった。

    パスポートコントロールを抜けて、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港のトランジットラウンジに
    到着。 お土産が色々と販売されているのだが、実は、この価格は、通常の市場の10倍
    ぐらいのぼったくり値段。 この3週間後に、ロシア連邦にあるウドムルト共和国とタタル
    スタン共和国に行ったのだが、シェレメーチェヴォ空港は、完全に0が一個多かった。
    ロシア人の間でも、シェレメーチェヴォ空港は、両替のレートがあり得ないぐらい高いと
    もっぱらの噂になっているので、空港での換金は、必要最低限にしおき、ベラルーシ駅に
    着いてから両替した方が賢い。

    ロシアでは、プーチン氏の人気が非常に高いということで、様々な大統領グッズが販売
    されていた。 ロシア土産の2大名物と言えば、マトリョーシカとシカトゥールカ。
    マトリョーシカは、こけしのような木工細工で、シカトゥールカは、木で作った小箱に装飾を
    施したもの。 ロシア軍のちょっとした軍服のようなものも人気。 また、ロシアでは、
    チェスも非常に人気がある。 日本ではチェスはゲームだが、ロシアではスポーツという
    括りになっているため、ロシア人の誰に訊ねても、チェスはスポーツだと答えるであろう。 

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    モスクワで乗り換え時間約3時間の後、再度、アエロフロートでロンドン・ヒースロー空港へと
    飛び立った。 ヒースロー空港の地下には地下鉄が通っており、ロンドンの中心地まで
    一本で行くことが出来るのだが、この地下鉄が建設から既に100年以上経過しているため、
    あちこちで工事中。 この日は、ロンドン時間の夜の10時過ぎに到着したが、ピカデリー
    ラインの途中駅で全員が地下鉄から降ろされ、バスでセントラルラインの終点駅、
    イーリング・ブロードウェイ駅まで強制的に連れて行かれた。 尚、ロンドンの地下鉄は、
    1駅4.9ポンド、約800円もする。

    ノッティングヒルは、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』の舞台だった
    場所で、今でも昼間は、かなりの観光客で込み合っている。 この日の目的地は、
    パディントンベアで有名なパディントン。 ホテルがパディントンにあるため、地下鉄で
    移動したのだが、後で調べたところ、パディントンへは、地下鉄よりも国鉄の方が遥かに
    便利であった。

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    独IFO経済研究所は、2016年のドイツの経常黒字が過去最高となる推定2,970億
    ドルに達し、中国を抜き、世界最大の経常黒字国となったようだと明らかにした。

    一方の日本は、2016年度、6年ぶりに3兆6,930億円の貿易黒字となる見通し。
    2015年度は1兆870億円の赤字だった。

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    年間3週間以上の有給休暇を存分に楽しみ、夜10時以降と日曜日は法律で労働を
    規制しているのに、日本を遥かに凌ぐドイツの経済力。 EU内でも独り勝ちをおさめ、
    他のヨーロッパ諸国の追随を全く許さないドイツの強さとは一体何なのか?

    戦後の焼け跡から大きく発展したことから、日本人とドイツ人は似ていると良く言われるが、
    日本人とドイツ人は全く似ていない。 無駄なことはしないドイツ人。 無駄なことしか
    しない日本人。 何でも結果に残そうとするドイツ人。 何も結果に残せない日本人。
    見た目よりも中身を重要視するドイツ人。 中身より見た目しか重要視しない日本人。
    移民を受け入れ続けて来たドイツ人。 移民は受け入れない日本人。 過去を振り返り、
    周辺諸国と上手くやろうとしているドイツ人。 過去は振り返らずに、周辺諸国とは
    ますます溝が深まっている日本人。

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    この両者の決定的な違いとは、教育にあると思う。 何でも話し合いによって解決しようと
    するドイツ人と、何も話し合いで解決出来ない日本人とでは、思考回路が全くの真逆。
    個人の考えを尊重し、全体の調和を大切にするドイツ人と、全体ばかりを気にして、
    個人を無視している日本人とでは、話にもならない。

    日本人もドイツ人を見習うべきところは多い。 アメリカ偏重の日本の社会にも
    色々と歪が出て来た。 明治初期の志に立ち戻り、再び遣欧使節団を送るべきなの
    ではないだろうか?

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    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア北東部
    沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊がポルトガルにやって来た。
    これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点をつくり、地元の住民を相手に商売を
    はじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちによって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル将軍は、
    戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を舞台に通商権を
    求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、軍を率いて現在の
    スペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、交戦した。 紀元前201年、
    ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア半島をローマ共和国に奪われた。

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    【ローマの支配】

    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りはヨーロッパとの
    貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、ローマによる支配を
    安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が繰りかえされてローマ軍に
    よる征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は北進してルシタニア人と戦ったが、地元の
    抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の
    指導者が戦いに敗れると、抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や基地の町を
    次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、いずれも当時建設
    された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、ローマの法律を適用した。
    地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、ローマ人の衣服を身に付け、
    ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの大半は、
    そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の代表的な都市は
    アウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。 4世紀までに、宣教師たちに
    よってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、このキリスト信仰は、その後、ローマン・
    カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、
    オッソノバ(現在のファロ)やアウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】

    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島攻撃が
    始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め入っては
    領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、ガリシアに侵攻した
    のはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系のスエビ人が
    アランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人と呼ばれる別の
    ゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までにスエビ王国を西ゴート
    王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国がイベリア半島のローマ人の領土の
    大半を支配下におさめ、ゲルマン法による統治体制を敷いたのである。 選挙によって
    対抗する派閥勢力も生まれ、6~7世紀に掛けて互いに覇を争った。

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。 かつては
    1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土にそれぞれ分かれた
    ところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が住んでいたことが分かっている。
    ポルトガル西部の古代の塚からは、陶器類や武器が発見されている。

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    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、北アフリカや地中海
    東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり着くと間もなく、小さな集団ごとに
    分かれて、ポルトガルの各地方に散って行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と
    呼ばれた遊牧や農業を営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別のグループが
    集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから自分の村むらを守って
    戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人たちは、北ヨーロッパのケルト人
    たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。 ケルト人たちは、
    金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルにもたらした。 ケルト人と
    ルシタニア人は、数百年に渡って結婚により血を分け合い、外界とほとんど接触
    しなかった。

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    他のヨーロッパ諸国に比べて、ポルトガルは人口が少なく、1058万人となっている。
    そのうち30%は、リスボン、ポルトなどの都市部に住んでいる。 地方は、農漁村で、
    それぞれ近くには中規模の市場が開かれている。



    【リスボン】


    大西洋岸に位置し、ポルトガルの首都、かつ最大の都市。 ポルトガルの主要港
    でもある。 リスボンの人口は、約80万7,000人で、周辺を含めた首都圏には、
    約200万人が住んでいる。 丘の斜面には新旧さまざまな建築様式が見られる。
    市の中心部には、広い18世紀時代の広場に面して近代的なビルが立ち並ぶが、
    1988年の大火で焼けたものもある。

    リスボンはその長い歴史を通して、多くの征服者たちが到達したところでもあった。
    ローマの軍隊や北アフリカからやって来たムーア人にリスボンを占拠されたことも
    ある。 1100年代にポルトガルは、このムーア人たちからリスボンを取り戻し、
    約150年後に、リスボンはポルトガルの正式な首都になった。

    15~16世紀には、ポルトガルが世界の探検と植民地化を進めた時代で、冒険家
    たちはリスボンの波止場から世界各地へと航海の旅に出て行った。 リスボンは、
    そうして海外へ築き上げた広大な帝国の中心地となった。 1775年、リスボンは
    地震で崩壊し、地震後に起こった津波と火災で更に大きな被害を受けた。 よって、
    リスボンの建物には、首都が再建された18~19世紀以来のものが多い。

    第二次世界大戦(1939年~1945年)以来、リスボンは港を広げ、製油所や貯蔵
    施設、造船所、修理工場、その他の産業コンビナートを作っていた。 ポルトガルの
    工業製品の多くは、このリスボン港から世界に出荷されて行ったのである。

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    【地方の中小都市】

    ドウロ川沿いのポルトは、ポルトガル北部の代表的な港町で、工業の中心地。
    首都リスボンに次ぐ大きな都市で、人口32万7,000人を超えている。 広域では
    約15万人が住んでいる。 1700年代以来、ポルトは、イギリスのワイン商人相手に
    貿易をし、ポートワインの生産、出荷の中心地となって来た。 ドウロ川沿いにざっと
    80軒のワイン貯蔵庫が立ち並んでいる。 更にポルトには、食品加工、石油精製、
    繊維加工、タイヤ、陶器類の製造など、各種工場が集まっているポルトガルの一大
    工業地となっている。

    リスボンの南、半島になった沿岸には、港町、セトゥーバル(人口約7万8,000人)が
    あり、セトゥーバル湾への出入口として栄えている。 この湾には、サド川が流れ込む。
    1966年には、この半島とリスボンを結ぶ橋が完成し、そのお陰でセトゥーバルにも
    何種類かの重要な産業が発展した。 造船施設、魚の缶詰工場、その他の企業が
    年中、忙しくしている。 毎朝、船体を明るい色に塗ったパトロール船が港に戻って
    来ては、採って来た魚で地元の魚市場はひとしきり賑わう。

    中西部、モンデゴ川沿いにあるコインブラ(人口約7万4,000人)は、歴史にとんだ街で、
    ローマ人によって造られたが、11世紀までは、ムーア人に占領されていた。 12~
    13世紀の間は、ポルトガルの首都になり、権力を持ったローマ・カトリック司祭の
    所在地でもあった。 ポルトガル最古の大学、主な図書館や美術館があるのも、
    このコインブラとなっており、歴史関係の建築物が市内に散在している。 小規模
    ながら、産業もあり、地元の人たちの仕事になっている。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと遠く
    航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化もなく、
    国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模ながら、
    家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、コルクを
    作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との輸出入
    貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思っている
    人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ不安が
    残っている。

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    ドイツの首都ベルリンでクリスマス・マーケットにトラックが突っ込み、これまでに
    12人が死亡し、48人が重軽傷を負った。 ベルリン警察は、トラックが意図的に
    突っ込んだ事件だと断定し、現在調査を行っている。

    事件があったのは2016年12月19日午後8時頃で、クリスマスを控えて最も
    にぎわう時間帯だった。 地元メディアなどによると、トラックは人ごみの中を時速
    60キロ以上で突き進んだという。



    警察はトラックを運転していたとみられる男の身柄を拘束して取り調べている。
    地元メディアによると、男はパキスタン国籍の男とみられている。 ドイツの南部を
    経由して今年の2月に入国した難民とみられ、その後、微罪を犯した履歴が残って
    いるという。 警察は男が難民登録をしていたとみられる収容施設を20日朝から
    捜索しているという。

    更に、このトラックの助手席からは、1人の遺体が発見された。 地元メディアによると、
    遺体はポーランド人で、トラックに付けられていたのも、ポーランドナンバーで、
    運送会社は、『ベルリンに資材を運ぶ予定だったが、運転手と連絡が取れない』
    という。

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    ドイツのメルケル首相は、この事件をテロ攻撃と見なして、各当局が作業を進めていると
    明らかにし、加害者に裁きを受けさせるため法を全面的に行使すると宣言した。
    メルケル首相はベルリンで全国向けのテレビ演説を行い、19日夜に発生した『恐ろしく、
    想像を絶する』事件によりドイツ全土が悲しみに暮れていると発言。 20日午後に
    現場を訪れる計画だと語った。 更に『犯人が、保護・難民認定を求めていた者だと
    したら、皆にとって特に耐え難いことだと認識している」と語った。

    トラックの前にいる警察官と比較すると、かなり大型であることがわかる。 トラックは
    12月19日夜、突然、ベルリン中心部のクリスマスマーケットに突っ込み、屋台や店舗
    などを次々となぎ倒した。

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    その後、過激派組織『イスラム国』が、犯行声明を出している。 警察は、事件が
    計画的犯行である見方を示し、その解明を急いでいる。

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