多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。 かつては
    1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土にそれぞれ分かれた
    ところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が住んでいたことが分かっている。
    ポルトガル西部の古代の塚からは、陶器類や武器が発見されている。

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    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、北アフリカや地中海
    東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり着くと間もなく、小さな集団ごとに
    分かれて、ポルトガルの各地方に散って行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と
    呼ばれた遊牧や農業を営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別のグループが
    集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから自分の村むらを守って
    戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人たちは、北ヨーロッパのケルト人
    たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。 ケルト人たちは、
    金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルにもたらした。 ケルト人と
    ルシタニア人は、数百年に渡って結婚により血を分け合い、外界とほとんど接触
    しなかった。

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    他のヨーロッパ諸国に比べて、ポルトガルは人口が少なく、1058万人となっている。
    そのうち30%は、リスボン、ポルトなどの都市部に住んでいる。 地方は、農漁村で、
    それぞれ近くには中規模の市場が開かれている。



    【リスボン】


    大西洋岸に位置し、ポルトガルの首都、かつ最大の都市。 ポルトガルの主要港
    でもある。 リスボンの人口は、約80万7,000人で、周辺を含めた首都圏には、
    約200万人が住んでいる。 丘の斜面には新旧さまざまな建築様式が見られる。
    市の中心部には、広い18世紀時代の広場に面して近代的なビルが立ち並ぶが、
    1988年の大火で焼けたものもある。

    リスボンはその長い歴史を通して、多くの征服者たちが到達したところでもあった。
    ローマの軍隊や北アフリカからやって来たムーア人にリスボンを占拠されたことも
    ある。 1100年代にポルトガルは、このムーア人たちからリスボンを取り戻し、
    約150年後に、リスボンはポルトガルの正式な首都になった。

    15~16世紀には、ポルトガルが世界の探検と植民地化を進めた時代で、冒険家
    たちはリスボンの波止場から世界各地へと航海の旅に出て行った。 リスボンは、
    そうして海外へ築き上げた広大な帝国の中心地となった。 1775年、リスボンは
    地震で崩壊し、地震後に起こった津波と火災で更に大きな被害を受けた。 よって、
    リスボンの建物には、首都が再建された18~19世紀以来のものが多い。

    第二次世界大戦(1939年~1945年)以来、リスボンは港を広げ、製油所や貯蔵
    施設、造船所、修理工場、その他の産業コンビナートを作っていた。 ポルトガルの
    工業製品の多くは、このリスボン港から世界に出荷されて行ったのである。

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    【地方の中小都市】

    ドウロ川沿いのポルトは、ポルトガル北部の代表的な港町で、工業の中心地。
    首都リスボンに次ぐ大きな都市で、人口32万7,000人を超えている。 広域では
    約15万人が住んでいる。 1700年代以来、ポルトは、イギリスのワイン商人相手に
    貿易をし、ポートワインの生産、出荷の中心地となって来た。 ドウロ川沿いにざっと
    80軒のワイン貯蔵庫が立ち並んでいる。 更にポルトには、食品加工、石油精製、
    繊維加工、タイヤ、陶器類の製造など、各種工場が集まっているポルトガルの一大
    工業地となっている。

    リスボンの南、半島になった沿岸には、港町、セトゥーバル(人口約7万8,000人)が
    あり、セトゥーバル湾への出入口として栄えている。 この湾には、サド川が流れ込む。
    1966年には、この半島とリスボンを結ぶ橋が完成し、そのお陰でセトゥーバルにも
    何種類かの重要な産業が発展した。 造船施設、魚の缶詰工場、その他の企業が
    年中、忙しくしている。 毎朝、船体を明るい色に塗ったパトロール船が港に戻って
    来ては、採って来た魚で地元の魚市場はひとしきり賑わう。

    中西部、モンデゴ川沿いにあるコインブラ(人口約7万4,000人)は、歴史にとんだ街で、
    ローマ人によって造られたが、11世紀までは、ムーア人に占領されていた。 12~
    13世紀の間は、ポルトガルの首都になり、権力を持ったローマ・カトリック司祭の
    所在地でもあった。 ポルトガル最古の大学、主な図書館や美術館があるのも、
    このコインブラとなっており、歴史関係の建築物が市内に散在している。 小規模
    ながら、産業もあり、地元の人たちの仕事になっている。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと遠く
    航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化もなく、
    国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模ながら、
    家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、コルクを
    作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との輸出入
    貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思っている
    人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ不安が
    残っている。

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    ドイツの首都ベルリンでクリスマス・マーケットにトラックが突っ込み、これまでに
    12人が死亡し、48人が重軽傷を負った。 ベルリン警察は、トラックが意図的に
    突っ込んだ事件だと断定し、現在調査を行っている。

    事件があったのは2016年12月19日午後8時頃で、クリスマスを控えて最も
    にぎわう時間帯だった。 地元メディアなどによると、トラックは人ごみの中を時速
    60キロ以上で突き進んだという。



    警察はトラックを運転していたとみられる男の身柄を拘束して取り調べている。
    地元メディアによると、男はパキスタン国籍の男とみられている。 ドイツの南部を
    経由して今年の2月に入国した難民とみられ、その後、微罪を犯した履歴が残って
    いるという。 警察は男が難民登録をしていたとみられる収容施設を20日朝から
    捜索しているという。

    更に、このトラックの助手席からは、1人の遺体が発見された。 地元メディアによると、
    遺体はポーランド人で、トラックに付けられていたのも、ポーランドナンバーで、
    運送会社は、『ベルリンに資材を運ぶ予定だったが、運転手と連絡が取れない』
    という。

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    ドイツのメルケル首相は、この事件をテロ攻撃と見なして、各当局が作業を進めていると
    明らかにし、加害者に裁きを受けさせるため法を全面的に行使すると宣言した。
    メルケル首相はベルリンで全国向けのテレビ演説を行い、19日夜に発生した『恐ろしく、
    想像を絶する』事件によりドイツ全土が悲しみに暮れていると発言。 20日午後に
    現場を訪れる計画だと語った。 更に『犯人が、保護・難民認定を求めていた者だと
    したら、皆にとって特に耐え難いことだと認識している」と語った。

    トラックの前にいる警察官と比較すると、かなり大型であることがわかる。 トラックは
    12月19日夜、突然、ベルリン中心部のクリスマスマーケットに突っ込み、屋台や店舗
    などを次々となぎ倒した。

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    その後、過激派組織『イスラム国』が、犯行声明を出している。 警察は、事件が
    計画的犯行である見方を示し、その解明を急いでいる。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    スペイン語は、古代ローマで口語として使われていた『俗ラテン語』から派生した
    ロマンス語派の言語の1つで、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、ルーマニア語等の
    姉妹言語とは、多くの共通点が見られる。

    第一に、名詞には性の区別があり、形容詞や冠詞は、それに合わせて語形変化する。
    例:el toro negro(黒い雄牛)、la vaca negra(黒い雌牛)。 el や la は、定冠詞単数の
    男性形と女性形で、toro は 雄牛、vaca は雌牛、negro と negra は、形容詞の男性形と
    女性系となっている。

    第二に動詞は、法、時制、人称、数に応じて多くの活用形に変化する。 例:canto
    (私は歌う)、cante(あなたは歌いなさい)。 共にcantar (歌う)の活用形だが、前者は
    直説法現在1人称単数形、後者は接続法(仮定法)現在3人称単数形となっている。



    また、ラテン語の語彙は、英語にも取り入れられているため、他のロマンス語同様、
    英語と良く似た語彙が見られる。 例:petróleo(石油)、democracia(民主制)、
    arquitectura(建築)。

    スペイン語の特異性は、アラビア語の影響を強く受けているところで、これは、スペインが
    8世紀から数百年間に渡りイスラム教徒の支配下にあったことによるもの。 almohada
    (枕)。berenjena(ナス)のような名詞だけではなく、間投詞 ojalá (願わくば)や前置詞
    hasta(~まで)などもアラビア語が起源となっている。

    スペインは、15世紀の大航海時代以降、アメリカ大陸やアジア、アフリカに広大な
    植民地を作った。 その多くにスペイン語が根付き、世界有数の大言語のひとつとなった。

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    【スペイン語の今】

    現代のスペイン語の言語事情には、相反する2つの側面が見られる。 1つは、東部の
    カタルーニャ語、北西部のガリシア語、北東部のバスク語などの地方言語が伸びて来て
    いるところ。 かつて、これらの言語は、使用を禁じられ、弾圧された時代があったが、
    1978年に公布された現憲法で復権を果たし、現在では、スペイン語と並んで、各々の
    自治州の公用語となっている。 どの自治州も地方言語の普及に力を入れているため、
    今度は、むしろ、スペイン語の地位が微妙になるケースも生じている。

    もう1つの側面は、スペイン語を母国語としない人々の流入で、1998年には人口の
    2%に過ぎなかった外国籍人口が、2007年には10%(約450万人)に達した。 この中には
    スペイン語圏であるラテンアメリカの出身者もかなり含まれているが、EUの拡大に伴って、
    ルーマニアやブルガリアなどの東欧からの移民が急増している。 こういう人々は、
    必要に迫られて懸命にスペイン語を習得し、新たなスペイン語人口を形成しつつある。

    ラテンアメリカのスペイン語は、使用域の広さの割りには均質で、人口1億を越すメキシコが
    世界最大のスペイン語国となり、また、アメリカ合衆国内にも約2,500万人のスペイン語
    話者が存在しているため、スペイン語を左右しているのは、ラテンアメリカだと言えるだろう。

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    オランダ語は、英語やドイツ語と同じくゲルマン系の語派に属しているため、これらの
    言語と基礎語彙がかなり良く似ている。 また、歴史を振り返ってみると、オランダ人が
    荒波を乗り越え、世界の隅々まで出掛け、言語を含めて文化的影響を残したという
    一時代があった。 日本もその恩恵に浴した国であることは言うまでもない。 もっとも、
    オランダ語の語彙も、他言語からの影響を少なからず被っている。 主に英語や
    フランス語の語彙を取り込み、その多くの借用語がオランダ語には欠かせないものと
    なっている。



    今日、最も多くの語彙を借用するのは英語からで、実際、単語に留まらず、成句や諺に
    まで及んでおり、今やほとんど全く英語を話さないオランダ人ですら口にするように
    なっている。 例えば、tram、flat、fift-fifty、up to date などが挙げられる。 ただ、逆に、
    オランダ語の語彙は、例えば、ドイツ語などの隣接の言語と外見上良く似ているのに、
    意味の上で微妙な違いがあることもあって、注意が必要となっている。

    例えば、蘭:aardig 素敵な、独:artig 行儀が良い、蘭:aandacht 注意、独:Andacht
    敬虔さ、蘭: verzoecken 懇願する、独:versuchen 試みるなどがある。

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    【オランダ語の今】

    現在の標準オランダ語は、パタビア共和国以来の中央集権によって発達したホラント州の
    社会的上流階級の言葉が1900年ごろから標準語として認められるようになったもので、
    そもそも、オランダ語の呼称に関して言うと、その国名はHolland あるいは、Netherlandと
    して知られているにも関わらず、その国民名と言語名は Dutch という言語名で呼ばれる
    ことが普通となっている。

    12~13世紀以降、ドイツは Deutschland という国名で知られていた。 そして、15~16
    世紀になると、英語の Dutch は、オランダ国内の諸方言を含んだ意味でのドイツ語の
    ことを指すようになった。 オランダが独立し、大航海時代(17世紀)に入ると、英国との
    接触が頻繁になり、英語において Dutch という語は、次第に意味が狭まって行き、単に
    現在のホラント州を中心としたオランダ北部統一7州として知られる地域を指すように
    なった。

    日本におけるオランダ語の研究の歴史は長く、江戸時代の『ハルマ』や『訳鍵』といった
    蘭日辞書の編纂に始まる。 蘭学とは、広義には、当時の日本人がオランダ語を通じて
    学んだ西洋の学問一般を指し、医学をはじめとする西洋の学問は、オランダ語を媒体
    として日本に取り入れられた。 わずか4000坪の長崎の出島は、日蘭貿易の拠点で
    あったのみならず、近代科学や思想が日本に流入する唯一の窓口でもあった。

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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じくロマンス語の
    1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の中間的な特徴を
    少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、フランス語の母音がそれぞれ
    5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の母音は8つとなっている。 スペイン語と
    違い、曖昧母音 ə もあるが、フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、『ビール』は、
    cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって西仏どちらかに似ている
    ことが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞にあたるものは、スペイン語では
    ser と estar の2つがあり、フランス語では être 1つとなる。 スペイン語には見られない
    副詞的代名詞の hi、en があるのは、フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも異なり、
    カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように全体的には、
    お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて出会って、自分達の
    言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常にさらされて
    いる。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que (接続詞)という表現の
    影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+不定詞という表現を使う人が
    少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】

    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的背景、
    政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州、
    マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスやイタリアに含まれる
    地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャでは、
    2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。 方言
    としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準カタルーニャ語は、
    東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、スペイン語と
    共に自治州の公用語とされている。



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    ドイツ語の初学者は、名詞の性に悩まされ、動詞や形容詞のめまぐるしい語尾変化に
    挫折感を感じてしまう。 しかし、その峠を越えて、文法体系をマスターしてしまえば、
    後は結構自由自在で、分かりやすい。

    西ゲルマン語の代表であるドイツ語は、同系統の英語と異なることろも多く、まずは、
    語彙が本来のゲルマン語起源の単語を多く堅持しており、一方の英語は、ロマンス系の
    語彙を多く取り入れている。

    deutsch

    ドイツ語は、動詞が文の2番目に来る(従属節では文末)。 この原則さえ守っていれば、
    後は自由な語順となっている。 その他は、語順自由という日本語とも通じるところが
    ある。 未来のことを表すのも現在形で大丈夫というところも日本語と似ている。 他にも、
    複合語を得意、格がある(日本語の格助詞に相当)、ローマ字発音でかなり通じるなど、
    日本語話者には、比較的取り組みやすい言語となっている。

    日本人にとって、少々手ごわい発音は、3つのウムラウト(変母音)と、lとrの区別だろう。
    äは、アの口の形でエと、öはオの口の形でエと、üは口唇を丸めたウの形でイと発音
    する。 lは舌の先を上の歯茎の裏側に付けて、rは水なしでうがいをするように口蓋垂
    (喉仏)を震わせて出すのラ行の音となっている。 大聖堂、オーデコロン(ケルンの
    水の意味)、カーニバルで有名なケルンは、Kölnと表記する。



    【ドイツ語の今】


    ドイツ語も他の多くの言語の例にもれず、昨今英語の影響を強く受けている。 それも
    単語の流入だけではなく、文法にまで及んでいる。 ドイツ語は文法が複雑と言われて
    いるが、それでも簡略化の道を進んでおり、教科書では再帰動詞として紹介される
    Ich erinnere mich daran(私はそれを思い出す)が Ich erinnere das のように一般的な
    他動詞として使われ、Ich kenne den Student(en)(私はその学生を知っている) では
    不規則な語尾変化が消失しつつある。

    また、ドイツで最大の外国人居住者のトルコ語が数世代に渡る紆余曲折を経ながら
    新しいドイツ語の形成に一役買っている。 それに加えて、若者言葉の革新性も入りつつ、
    伝統的な造語力も今尚健在となっている。

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    フランス語は、ラテン語から形成された言語で、大部分の常用語は、撥音的に2音節
    だが、音韻変化の過程で、ラテン語の音頭音節とアクセント音節のみが残ったため、
    こうなったと言われている。 しかし、新しい概念を言い表すことが必要となる場合には、
    そのつど、ラテン語に適当な語を求め。、語尾だけをフランス語風に単純化して、
    多音節語を作る。 こうした、2音節以下の短い常用語と数音節からなる長めの
    専門用語という語彙の多様性が、フランス語に豊かな表現力を与えている。

    また、フランス語は美しい響きを持つ言葉としても有名。 その秘密は、単語それ自体が
    固有のアクセントを持たない点に求められる。 フランス語は通常、リズム・グループと
    いって、意味的なまとまりを持った数語(通常5~6音節、長くても8音節を超えない)を
    一息に発音するが、アクセントは、その最後の音節に落ちる。 適度な単調さとそれを
    被るアクセントとの組み合わせが、フランス語に落ち着きと絶妙のリズムを与えている。

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    更に、独特の響きを持つ母音の働きがある。 例えば、鼻母音は、母音の後に
    鼻子音nが続く場合には、そのnを発音せずに、代わりに母音の呼気の一部を鼻腔に
    送って発音する。 現在フランス語には[ɑ̃][ɔ̃][ɛ̃][œ̃]の4つの鼻母音がありますが、
    それぞれの母音の鼻腔における共鳴音がnという子音に取って代わった訳で、
    これが深くて柔らかい響きをフランス語に与えている。 また、脱落音のeといって、
    アクセントを受けない位置にある母音はeは、多く無強勢音に弱まり、かつ、リズム・
    グループの中では、消失する。 これもまた、フランス語に軽やかな響きを与えることに
    大きく関わっている。



    【フランス語の今】

    グローバリゼーションの進行する現在、フランスにいやおうなく英語が押し寄せている。
    しかし、英語をフランス語に言い換え、自分達の言葉の純粋性を保とうとする努力が
    官民を問わずに払われている。 ある統計によれば、高級紙ル・モンドには、
    165語に1語の割合でしか外来語が混じっていない。 脱落性のeが頻繁に省略されて、
    耳障りな子音の連続が増えたが、4つの鼻母音の区別があいまって、 [ɑ̃]と[ɔ̃]の
    中間の鼻母音ひとつで済まされる傾向が現れている。

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    ポルトガル語は、イタリア語やフランス語と同じロマンス語系統の言語で、イベリア半島
    では、ガリシア語やスペイン語と国境を接している。 ガリシア語とは近い関係にあり、
    少し離れたスペイン語でもネイティブ同士であれば、相互理解可能な言語となっている。

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    他のロマンス語に比べ、ポルトガル語は、仮定表現の条件説に、接続法未来形が依然
    として残っていることや、フランス語やイタリア語で顕著である複合過去が発達せず、
    ラテン語の完了形に起源する単純系を過去の表現に使い続けていることなどが特徴と
    して挙げることが出来る。

    また、不定詞に統語上の主語に対応する人称語尾が付いた人称不定詞と呼ばれる
    形式は、近隣のロマンス語には見当たらない珍しい特徴となっている。

    Vou preparar umas sandes para voces levarem.『君達が持って行くようにサンド
    ウィッチを用意しよう』という文では、para(~のために、前置詞)、voces(君達、主語
    代名詞3人称複数)、levarem(原型の不定詞levarに3人称複数の人称語尾emが
    付いたもの)という構成で、『誰が持って行く』のかという点を強調した文にすることが
    出来る。

    同じ内容をVou preparar umas dandes para que voces levem.として文接続詞の
    queを挿入し、動詞をlevem(接続法現在3人称複数)にして従属文を用いた表現にも
    出来るが、後半部分をpara levarと語尾なしの不定詞にしてしまうと、単にテイクアウトの
    意味にしかならない。 人称不定詞は、法と時制と人称(と数)を備えた動詞の定形と
    それに関して中立的な不定詞の中間に位置するもので、準定詞と呼ぶべきであるという
    主張がある。

    音声面では、鼻母音の多いことが特徴で、5つの単鼻母音の他に、ポルトガル語に
    特有の二重鼻母音(ポルトガルで4つ、ブラジルで5つ)がある。 音節の構造が比較的
    単純で、日本人には学習しやすい言語と考えられているが、実際には、無強勢母音の
    弱化現象をはじめとして、聞き取りが難しい他、日本語の音体系から来る干渉もあり、
    日本人には致命的な落とし穴が少なくない。



    【ポルトガル語の古今】

    ポルトガル語が話されるようになる地域が独立して歴史に姿を現すのは、1096年で、
    この年、レオンとカツティーリャの王アルフォンソ6世が、ブルゴーニュの騎士エンリケに
    ポルトガル北部かあコインブラ辺りまでを伯爵領として譲渡した。 レコンキスタと
    呼ばれるイスラム教徒側に対するキリスト教の側からの国土回復戦争を通じて、
    南に領土が拡大する中、エンリケの子、アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王
    (1143年~)となる。

    当時の言語で書かれたテキストが現れるのは12世紀後半だが、この頃のポルトガル語は
    北のガリシア語との区別がまだはっきりとせず、書き言葉もラテン語が主体だった。
    ポルトガル語が現在の形となって来たのは、国の中心がリスボンからコインブラ辺りの
    中南部に移り、ルネッサンスの影響を受けて、言語規模が徐々に確立して行く16世紀に
    なってからである。

    1572年に出版された長編叙事詩の『ルタニアの人々』は、ギリシャやローマの古典的
    作品に範を取りながら、バスコ・ダ・ガマのインド航海やポルトガルの歴史を優雅な
    文体で詠いこんだもので、古典期のポルトガル語が結晶したものと言える。

    この頃、ポルトガル語は、アフリカ沿岸からインドやアジアに至る広い地域で通商目的に
    用いられており、日本が最初に直接接触したヨーロッパの言葉でもあった。 日本人で
    ポルトガル語を最初に習得したのは、フランシスコ・ザビエルの通訳を務めた鹿児島の
    弥次郎(生没年不明)と言われている。 1822年にブラジルが独立した後もポルトガル
    帝国の版図はアフリカからインド、中国のマカオまで広がっていた。

    1974年にクーデターで本国の独裁政権が打倒され民主化した後、アフリカの旧植民地は
    独立したが、公用語にはポルトガル語を採用している。 アフリカ諸国では、ポルトガル
    語はますます普及する傾向にあり、アンゴラのポルトガル語、モザンビークの
    ポルトガル語という変種が認められるのもそう遠くはないのかも知れない。

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    1815年のウィーン会議で、ナポレオンに占領されていたジュネーヴ、バレー、
    ヌーシャテルの旧同盟州が新たにスイス連邦に加わえられることが決定され、
    22州の連邦が成立する。 この時、スイスの永世中立と独立も承認された。

    ウィーン会議では、スイス憲法の問題は取り上げられなかった。 ナポレオンの
    敗退後、スイス憲法は効力を失い、スイスの領土は殆んど2、3の有力な家に
    よって支配され、半ば独立した州(カントン)のゆるやかな連合体に戻った。

    工場労働者や農民から、政府の民主化に強化する要求が盛んに出され、それに
    連れて再び宗教と社会の対立が激しくなった。 1880年代になると、改革運動が
    強まり、政府が倒される州もあった。

    1834年に、最も自由な都市州において、教会の所有する土地への課税、信仰の
    自由、教会から独立した公立学校制度を要求する運動が高まった。 これに
    反感を抱いた保守的なカトリック派の7州が同盟を結んで、この運動に対抗した。
    連邦政府は、同盟の解散を命じるが、7州が拒絶したため、1847年に、3週間に
    渡って内乱が起きた。 7州の同盟軍は敗北し、翌年、新憲法が制定された。

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    【1848年憲法】

    新憲法は、州と連邦政府間の権限を慎重に分けるものだった。 将来ヨーロッパで
    いかなる紛争が起きても、スイスの中立を守るため、外敵の攻撃に備える軍隊と
    防衛制度を区別する条項が盛り込まれた。 更に、商取引の効率を上げるため、
    慣習と度量衡と通貨にそれぞれ同一の基準が設けられた。

    新憲法によって、スイスが抱えていた最もやっかいな政治上の問題が解決し、
    経済活動に集中出来るようになった。 その結果、19世紀中頃には、景気が著しく
    向上した。 自由貿易政策により貿易が増大し、産業も発展した。 スイスは、
    貿易相手国がスイスからの輸入品に関税を掛けなかった。 スイスは、小国だが、
    自由貿易の政策のお陰で、外国に多くの市場を獲得出来たのである。

    政府の制約を受けないスイスの商業は、瞬く間に発展した。 教育を受けた
    商人階級と政府の力で、政界の産業界と市場の変化にうまく対応することが出来た。

    自国の製品を輸出するため、鉄道と道路網が整えられ、生産性を高めるため
    機械化して、諸外国と有利な通商協定を結んだ。 スイスの繁栄には観光も
    役立った。 アルプスの雄大な自然を求めて、外国から大勢の人々が観光や
    保養にやって来たからである。

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