多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    【古英語とバイキングの侵入】
     現代英語の元となった古英語は、実は、アングル族が持ち込んで来た言語
    であり、アングロサクソン人が1100年頃まで使っていた言葉である。 つまり、
    系統的には、インド・ヨーロッパ語族の中の西ゲルマン語群に属する言葉と
    なっている。 現代英語の基礎的な単語は、その殆んどが、アングロサクソンの
    言葉であると考えて差し支えない。

    やがて、紀元前597年には聖オーガスティンがケント州からキリスト教の布教を
    開始、イギリスがキリスト教化するに伴って、キリスト教に関連した多くの
    ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語起源の語彙が英語の中に入って来た。

    8世紀に入ると、バイキングと呼ばれる人々がスカンジナビアからイギリスへと
    侵入して来る。 彼らもまた、ゲルマン民族の一派であったが、彼らの言葉は
    同じゲルマン語でも北ゲルマン語群に属していた。 彼らは先住のアングロ
    サクソン人と激しい戦いを繰り広げた後、ローマ人の築いたウォトリング街道の
    北東部に定住することとなった。 その結果、その地域は、デーンロー地域と
    呼ばれ、現在もスカンジナビア起源の地名が残っている。 現代英語の中にも
    900語ほどスカンジナビア起源の語彙が残っている。

    globaler

    【フランス語の侵入】

    バイキングは、フランスのノルマンディーに国を建て、彼らは、やがて文化的には
    フランスに融合し、言葉もフランス語を用いるようになって行った。 1066年
    には、ノルマンディー公ウィリアムが、イギリスに侵入し、ヘイスティングスの
    戦いにおいて、ハロルド王を打ち破ってイギリスの王位に就いた。 いわゆる、
    ノルマン征服王朝の成立である。 この時、ウィリアムは、国政と宗教の主な
    ポストには、全てフランスから連れて来た家臣をあてたので、以後数世紀に
    渡って、イギリスの重要なポストには、フランス語を母国語とする人々で占め
    られることとなった。

    国王も例外ではなく、ハロルド王以後は、ほぼ300年の間、英語を用いる王は
    居なかった。 そして、この間に、英語は実に多くのフランス語の語彙が入った。
    それは、ちょうど今日の日本語に、本来、日本語にあった大和言葉と漢語と
    呼ばれる中国語が混在している状況と良く似ている。 日本語の中に漢語に
    あたるものが英語ではフランス語やラテン語となっている。

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    【英語の復活から世界支配へ】

    しかし、ウィリアムと共にイギリスへ渡って来た支配階層も、時が経つに連れて、
    土地の女性と結婚し、生まれて来る子供の世話をする乳母にも土地の女性を雇う
    などしているうちに、次第にフランス語を失って行った。 やがて、13世紀に
    入ると、中世英語で書かれた詩なども出て来るようになり、1337年にフランスとの
    間に百年戦争が起こると、英語に対する意識が急激に高まり、1362年には、議会の
    開会宣言が初めて英語で行われた。

    やがて、15~16世紀になると、現在の英語に近い近代英語が成立し、
    シェイクスピアを初めとする英文学史上でも良く知られた人々の活躍が始まる。
    ちょうどこの頃、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ
    大陸へ到達し、やがて英語を話す人々は、北アメリカ大陸へも移住を始めた。
    こうした歴史を反映して、アメリカの英語の中には、実は、シェイクスピアの
    時代のイギリス英語に近いものが残っていることがある。

    もちろん、近代的なテクノロジーや音楽、映画などの娯楽産業、それに政治、
    経済の先進国であるアメリカで生まれた言葉がイギリスに逆輸入されることも
    多いが、現代アメリカ英語の発音や、日常会話の語彙の中には、イギリスの
    この時代の発音や語彙が残っていることがあり、人々は、それとは知らずに
    使っていることが良くある。

    近代に入ってイギリスが広大な植民地を建設した結果、英語はアメリカ大陸のみ
    ならず、アジアやアフリカからオセアニアまで世界中の広い地域で使われるように
    なった。 そして、現在では、互いに英語を母語としない人々の間でも国際的な
    共通語の言語として使われている。

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    【英語はドイツ語の兄弟】
    今や英語が国際語であることを疑う人はいない。 それどころか、子供を国際人に
    育てると証して、何の疑いもなく小学生から英語教育を行おうとしている。
    しかしながら、English がアングル族の言葉を意味する Englisc を語源とすること
    からも分かるように、英語は、ブリテン島のイングランドとスコットランドの
    低地地方で話される地域的な言葉でしかなかった。

    更に、近世に入るまでは、ラテン語やフランス語に比べて、その地位も低く
    見られており、神の言葉である聖書は、英語には翻訳出来ないという議論まで
    あった程である。 英語が国際語としての現在の地位を確立するまでには、
    その過程で征服や侵略や植民地化の歴史、そして辛く悲しい移民の歴史があった
    のである。

    英語の歴史的研究も、18世紀になって当時イギリスの植民地であったインドに
    駐在していたひとりのイギリス人判事ウィリアム・ジョーンズ卿の講演から
    始まったに過ぎない。

    ウィリアム・ジョーンズ卿は、古いインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)を
    研究し、サンスクリット語とラテン語それにギリシャ語の類似性に気が付いた。
    そして、1786年には、『これらの言語は、現在では既に消滅した共通の言語から
    枝分かれしたものである』ことを示唆する講演を行った。

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    これは、現在インドからヨーロッパに掛けての広大な地域で話されている様々な
    言葉は、実は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるひとつの言語グループに
    分類されうること、そして、そのインド・ヨーロッパ語族には、その元になった
    古い言葉、いわゆる『印欧祖語』と呼ばれる言語が存在したことが想定されうる
    という、驚くべき事実の発見であった。

    英語は勿論このインド・ヨーロッパ語族に属しており、その中でも、ドイツ語、
    オランダ語、フリースランド語などと同じく、ゲルマン語派の中の西ゲルマン語群
    に属している。 つまり、英語は、ドイツ語やオランダ語、それに、オランダの
    北西の沖合いに浮かぶ列島フリースランド地域で現在30万人程の人が話すだけに
    なったフリースランド語などと兄弟の言葉なのである。

    フランスの言葉や文化の影響をイギリスに持ち込んだ1066年のノルマン征服が
    なければ、現在のイギリス人は恐らく、オランダ語のような言葉を話していただ
    ろうとまで言われている。

    そもそも、最初にブリテン島に住んだのは、インド・ヨーロッパ語族の中でも、
    ケルト系の言葉を話すブリトン族であった。 その後、ブリテン島を支配して
    いたローマが、5世紀になって、ブリテン島から引き上げると、アングル族、
    サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族が現在のデンマークや北海沿岸の
    ドイツからブリテン島へと渡って来た。 この時の様子は、『アングロ・サクソン
    年代記』という古い書物などによって、うかがい知ることが出来る。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

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    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

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    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    初期ポルトガルの国王たちは、権力の強化にはローマ・カトリック教会と裕福な
    地主たち支持が不可欠と知って、1211年にアルフォンソ2世は、高位の宗教指導者と
    貴族たちをコインブラに集めた。 これが後のコルテスと呼ばれるポルトガル
    身分議会の始まりである。

    アルフォンソ2世とその後継者、サンチョ2世の時代は、教会と諸王が土地や収入、
    権限を取り合って争い、その結果、ローマ・カトリックの法王は1245年、サンチョ
    2世の王位を与えることを拒否、代って弟のアルフォンソ3世を王位に就かせた。

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    アルフォンソ3世の下、ポルトガル軍は、アルガルベからムーア人を追い出し、
    ポルトガルの領土を現在の広さにまでしたのだった。 ムーア人はこれで、
    イベリア半島のポルトガル側に持っていた最後の砦を失ったことになる。
    アルフォンソ3世は更に、1253年コルテスを創設し、初めて商人や町人も、
    牧師や貴族と同席出来るようになった。

    ポルトガルは、アルフォンソ3世の息子、ディニス王(1279~1325年)の長い
    時代を通じて繁栄した。 ディニス王は、初めて大学を創設し、農業の開発、
    造船工業の育成にも力をつくした。 漁業と貿易も発展し、外国から金属類や
    武器、繊維がリスボンに入るようになった。 一方、ポルトガルからは、ワインを
    始め、ロウ、みつ、オリーブ油が北ヨーロッパに向け出荷されて行った。

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    リスボンは、その富と重要性から、当然のように新しい首都になり、1298年までに、
    政府の所在地は、コインブラからリスボンに移った。 ところが、1340年代、
    リスボンに停泊中の船の中に居たネズミがペストをポルトガルにもたらすことに
    なり、ポルトガル国民の3人に1人がこの伝染病に掛かって死んで行った。 この
    結果、労働人口の減少から農業生産はガタ落ちとなり、その後数十年もの間、
    政府は、荒地となった農地の再開発に取り組まなければならなかった。

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    オランダ議会下院の総選挙が2017年3月15日に行われ、台風の目となっていた
    極右政党、自由党のウィルダース党首は、反イスラムや移民の排斥を再三
    訴えたが、得票は伸び悩み、最終的に24議席となり、これまでよりも5議席
    増やしたが、第2党に留まった。 ウィルダース氏は敗北を認めた。

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    ヨーロッパ政治全体の行方を占うとして注目されていた、オランダの総選挙だが、
    与党が第一党を確保し、ヨーロッパ各国は『オランダのトランプ』と呼ばれる
    ウィルダース党首率いる極右政党の伸び悩みを歓迎した。

    4月に大統領選挙を控えるフランスでは、ルペン氏率いる極右政党の台頭が注目
    されているが、オランド大統領は『過激主義に大きな勝利を収めたことを祝福する』
    との声明を出した。

    また、9月に総選挙が行われるドイツのメルケル首相は、ルッテ首相に『EUの一員
    として今後も協力しあうことを楽しみにしている』と電話で祝意を伝えた。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    キリストとイスラムの戦闘が続き、数百年に渡って、両勢力の境界線は常に
    流動的だった。 11世紀半ばの記録によると、ポルトガルはミーニョ川と
    テージョ川の間に位置したキリスト教勢力下の地だった。

    1096年、当時イベリア半島の皇帝を称していたレオン・カスティーヤ王、
    アルフォンソ6世がポルトガルを準独立国にし、自分のムコにあたるフランス人、
    ブルガンティー王国のエンリケにその領土を与えてしまった。 エンリケは、
    その地にローマ・カトリック教会の権限を強化、フランスの修道士を呼び寄せて
    ブルガ、コインブラの宗教区の運営を任せた。

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    エンリケが死ぬと、ポルトガルは、その未亡人であるアルフォンソ6世の娘で
    あるテレサの手に任されたが、テレサは父親の友人たちにかなりの権限を与る
    ようなことをしたため、ポルトガル貴族たちの反感をかった。

    そしてついに、テレサの息子、アルフォンソの軍隊を破った。 アルフォンソ・
    エンリケスは、こうしてポルトガルを支配下に置いたが、レオン・カスティーヤ
    新王国でいとこに当たるアルフォンソ7世のなお支配下にあった。

    王子のアルフォンソ・エンリケスは、独立を求めてアルフォンソ7世を相手に
    およそ10年間も戦った。 ところが、ムーア人から領土を取り上げる好機を
    到来と見るや、その戦いをあっさりとあきらめてしまった。 1130年代末の
    ことである。 その頃、ムーア人も内部抗争で領土が分割、ポルトガル南部への
    統治力は弱まっていた。

    アルフォンソ・エンリケスは1140年代、サンタレンとリスボンを攻撃、敗北した
    イスラム側は、貢物として、現金と品物を供出させられた。 ムーア人は、
    領土境界線をテージョ川から最南端のアルガルベまで後退をせざるを得なく
    なった。

    戦いに勝ち、貢物を受けるに連れ、王子の権力はますます強くなり、1139年から
    ポルトガル国王アルフォンソ1世を名乗るようになった。 1143年、アルフォンソ
    1世の即位を正式に認めた。 ポルトガルのアルフォンソ王朝誕生である。

    12世紀半ばまでに、ポルトガルは、コインブラを首都に独立国となった。 しかし、
    ムーア人の脅威は去らず、1185年までのアルフォンソ時代を通してイスラムとの
    戦いは続いた。 その後、息子のサンチョ1世が後を継ぐと、ムーア人と戦い、
    貿易と農業が盛んになって行った。

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    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

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    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

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    700年代はじめに、西ゴート勢力内部分裂を起こし、反乱派は、北アフリカから
    戦術に長けてい軍隊を呼び寄せ、西ゴートを統治していたロデリック王に対して
    謀反を起こした。 この反乱軍がムーア人と呼ばれ、アラブ人とバーバル人の
    混成である。 彼らの宗教は、イスラム教と呼ばれる一神教で、アラビアで
    生まれ、後にイスラム教として知られるようになった。

    このイスラムによる、イベリア半島侵攻がスペインで始まったのが711年。
    ムーア人はロデリック王の軍隊を蹴散らし、王は戦死した。 侵攻したムーアの
    軍は北アフリカには帰らずに、コルドバやトレド(現在はスペインの都市)など
    豊かな街を次々と占領して行った。

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    ロデリック王を倒した西ゴートの反乱勢力もムーア人の進撃を阻止出来ず、18世紀
    半ばまでに、北部の山岳地帯を除くイベリア半島の大半がムーア人の支配下に
    入った。

    ポルトガル北部のカトリック教徒たちは、イスラム教のムーア人たちに抵抗した。
    キリスト教軍は、侵攻して来たムーア人を50年以内にドウロ川の南に追いやり、
    現在のポルトガルにあたる街とその周辺の領土を取り返した。

    11世紀半ばまでには、キリスト教軍は更に、コインブラの南にまで勢力を広げて
    行った。 貴族達はこうして、スペイン北部の広大な土地も含めてキリスト教の
    勢力下におさめた。 ポルトガル、および、コレインブラ周辺の一帯は、
    ガリシア地方として、レオン・カスティーリャと呼ばれる北イベリア王国の
    領土になった。

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    モスクワ経由のアエロフロート・ロシア国際航空で、ロンドンへ海外出張に行って
    来た。 成田空港から、モスクワまでは、約11時間の空の旅。 ソ連時代からある
    アエロフロートは、最新鋭のエアバスを使用しているため、モニター、USBコネクター、
    WiFi、美人キャビンアテンダント付きとなっております☆

    動物愛護の国であるため、アエロフロートの機内には、大型犬も機内持ち込み可能。
    実際に、猫を機内に持ち込んだことがあるのだが、キャビンアテンダント達も非常に
    親切で、水を持って来て貰ったことがある。 猫をひざの上に乗せていても周囲からも
    全く文句は言われない。

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    アエロフロートは、かつては、エコノミークラスの更に下のY2クラスに分類されていた
    のだが、今ではサービスにおいても、JALやANAを抜き去り、ヨーロッパへの最短
    ルートとなっている。

    途中、機内食は2回出るのだが、キャビンアテンダントに言えば、飲み物は何度でも
    無料で貰える。 WiFi使用料は30ドル。 英語とロシア語のみでその情報が記載
    されているため、何れかの言語を読めない限り、使えない。 機内では、ロシア語と
    英語でもアナウンスしていたが、日本語でのWiFiの案内はなかった。 アエロフロートの
    機内食は、大体、肉か魚を選べる。

    ソ連の時代のアエロフロートは、キャビンアテンダントが国外に勝手に逃げては困る
    という理由により、熊のような体格の女性ばかりがキャビンアテンダントを務めていたが、
    時代は代わり、美人ばかりを取り揃えてサービスを行っている。 尚、ソ連時代の
    アエロフロートは、機内はもちろんの事、シベリア上空を通過する際にも写真撮影禁止
    だった。 機内で撮影しているところを見つかると、フィルムを取り上げられた時代だった。
    機内なのに、雨漏りがするとかも普通で、キャビンアテンダントが、ガムテープで応急
    処置をするという凄まじい時代でもあった。

    成田空港からものの2時間でロシア領内に入り、そこから9時間ロシア国内を飛ぶことと
    なる。 中国領内を迂回して、ハバロフスク上空からロシア領に入るのだが、比較的
    北側を飛ぶため、上空から見える景色は、かなり寒々しいものとなっている。

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    約11時間の空の旅の後、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港ターミナルDに到着。 ソ連
    時代は、このターミナルDはシェメーチェボ第二空港という名前だった。 但し、建物は
    その時代とまったく同じ。 トランジットと言えども、空港内から外に出る際には、ビザが
    必須であるため、今回は空港の外には出ずに、ロンドン行きの飛行機を待つことにした。

    ロシアでは、2回用の入国ビザを所持していたため、降りようと思えば降りられたのだが、
    シェレメーチェヴォ空港は、中心部にあるベラルーシ駅まで特急で40分掛かるため、
    帰りにモスクワで降りようと考えていたところ、肝心の帰りの飛行機が3時間以上も遅れた
    ため、結局、この後、モスクワでは降りられないこととなった。 尚、モスクワ・
    シェレメーチェヴォ空港では、英語での表記はかろうじてあるものの、係員は誰も英語を
    喋れない。

    シェレメーチェヴォ空港では、トランジットとは言え、パスポートと荷物のチェックがあるため、
    黄色い看板に従って進み、全てのチェックをうけなければならない。 一応英語表記も
    あるのだが、昔はロシア語のみの表記であった。 相当適当な成田空港のパスポート
    チェックとは異なり、ロシアのチェックはかなり厳しいため、変な物を持ち込むと、ここで全て
    没収されることとなる。 一昔前までは、手荷物を預けると、出て来ないのが当たり前で
    あったため、空港にはサランラップのお化けのようなものがあったのだが、今では、普通に
    荷物が出て来るようになった。 そもそも、アエロフロートの職員自体が泥棒という、
    やった者勝ちの航空会社だった。 郵便局も同様で、荷物をEMSで送っても届かない
    のが当たり前だった。

    パスポートコントロールを抜けて、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港のトランジットラウンジに
    到着。 お土産が色々と販売されているのだが、実は、この価格は、通常の市場の10倍
    ぐらいのぼったくり値段。 この3週間後に、ロシア連邦にあるウドムルト共和国とタタル
    スタン共和国に行ったのだが、シェレメーチェヴォ空港は、完全に0が一個多かった。
    ロシア人の間でも、シェレメーチェヴォ空港は、両替のレートがあり得ないぐらい高いと
    もっぱらの噂になっているので、空港での換金は、必要最低限にしおき、ベラルーシ駅に
    着いてから両替した方が賢い。

    ロシアでは、プーチン氏の人気が非常に高いということで、様々な大統領グッズが販売
    されていた。 ロシア土産の2大名物と言えば、マトリョーシカとシカトゥールカ。
    マトリョーシカは、こけしのような木工細工で、シカトゥールカは、木で作った小箱に装飾を
    施したもの。 ロシア軍のちょっとした軍服のようなものも人気。 また、ロシアでは、
    チェスも非常に人気がある。 日本ではチェスはゲームだが、ロシアではスポーツという
    括りになっているため、ロシア人の誰に訊ねても、チェスはスポーツだと答えるであろう。 

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    モスクワで乗り換え時間約3時間の後、再度、アエロフロートでロンドン・ヒースロー空港へと
    飛び立った。 ヒースロー空港の地下には地下鉄が通っており、ロンドンの中心地まで
    一本で行くことが出来るのだが、この地下鉄が建設から既に100年以上経過しているため、
    あちこちで工事中。 この日は、ロンドン時間の夜の10時過ぎに到着したが、ピカデリー
    ラインの途中駅で全員が地下鉄から降ろされ、バスでセントラルラインの終点駅、
    イーリング・ブロードウェイ駅まで強制的に連れて行かれた。 尚、ロンドンの地下鉄は、
    1駅4.9ポンド、約800円もする。

    ノッティングヒルは、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』の舞台だった
    場所で、今でも昼間は、かなりの観光客で込み合っている。 この日の目的地は、
    パディントンベアで有名なパディントン。 ホテルがパディントンにあるため、地下鉄で
    移動したのだが、後で調べたところ、パディントンへは、地下鉄よりも国鉄の方が遥かに
    便利であった。

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    独IFO経済研究所は、2016年のドイツの経常黒字が過去最高となる推定2,970億
    ドルに達し、中国を抜き、世界最大の経常黒字国となったようだと明らかにした。

    一方の日本は、2016年度、6年ぶりに3兆6,930億円の貿易黒字となる見通し。
    2015年度は1兆870億円の赤字だった。

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    年間3週間以上の有給休暇を存分に楽しみ、夜10時以降と日曜日は法律で労働を
    規制しているのに、日本を遥かに凌ぐドイツの経済力。 EU内でも独り勝ちをおさめ、
    他のヨーロッパ諸国の追随を全く許さないドイツの強さとは一体何なのか?

    戦後の焼け跡から大きく発展したことから、日本人とドイツ人は似ていると良く言われるが、
    日本人とドイツ人は全く似ていない。 無駄なことはしないドイツ人。 無駄なことしか
    しない日本人。 何でも結果に残そうとするドイツ人。 何も結果に残せない日本人。
    見た目よりも中身を重要視するドイツ人。 中身より見た目しか重要視しない日本人。
    移民を受け入れ続けて来たドイツ人。 移民は受け入れない日本人。 過去を振り返り、
    周辺諸国と上手くやろうとしているドイツ人。 過去は振り返らずに、周辺諸国とは
    ますます溝が深まっている日本人。

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    この両者の決定的な違いとは、教育にあると思う。 何でも話し合いによって解決しようと
    するドイツ人と、何も話し合いで解決出来ない日本人とでは、思考回路が全くの真逆。
    個人の考えを尊重し、全体の調和を大切にするドイツ人と、全体ばかりを気にして、
    個人を無視している日本人とでは、話にもならない。

    日本人もドイツ人を見習うべきところは多い。 アメリカ偏重の日本の社会にも
    色々と歪が出て来た。 明治初期の志に立ち戻り、再び遣欧使節団を送るべきなの
    ではないだろうか?

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    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア北東部
    沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊がポルトガルにやって来た。
    これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点をつくり、地元の住民を相手に商売を
    はじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちによって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル将軍は、
    戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を舞台に通商権を
    求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、軍を率いて現在の
    スペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、交戦した。 紀元前201年、
    ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア半島をローマ共和国に奪われた。

    hannibal01

    【ローマの支配】

    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りはヨーロッパとの
    貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、ローマによる支配を
    安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が繰りかえされてローマ軍に
    よる征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は北進してルシタニア人と戦ったが、地元の
    抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の
    指導者が戦いに敗れると、抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や基地の町を
    次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、いずれも当時建設
    された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、ローマの法律を適用した。
    地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、ローマ人の衣服を身に付け、
    ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの大半は、
    そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の代表的な都市は
    アウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。 4世紀までに、宣教師たちに
    よってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、このキリスト信仰は、その後、ローマン・
    カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、
    オッソノバ(現在のファロ)やアウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】

    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島攻撃が
    始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め入っては
    領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、ガリシアに侵攻した
    のはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系のスエビ人が
    アランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人と呼ばれる別の
    ゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までにスエビ王国を西ゴート
    王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国がイベリア半島のローマ人の領土の
    大半を支配下におさめ、ゲルマン法による統治体制を敷いたのである。 選挙によって
    対抗する派閥勢力も生まれ、6~7世紀に掛けて互いに覇を争った。

    【お勧めの一冊】



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