横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    ドナルド・トランプ米大統領は2017年5月30日、アンゲラ・メルケル独首相が
    米国を批判したことを受け、ドイツの貿易戦略や防衛費について新たな批判を
    展開し、欧米間の外交上の溝が更に深まる動きとなった。

    先週、大統領就任後、初の公式外遊に臨んだトランプ大統領は、ベルギー・
    ブリュッセルと伊シチリア島でそれぞれ開催された北大西洋条約機構(NATO)と
    先進7か国(G7)の首脳会議において、各国から非難を浴びせられ、挙句の
    果てには、モンテネグロの首相を押し退けて、写真撮影の最前列に出るという
    暴挙により、世界中から非難をされて欧州を去っていた。



    今回の会談で、特に欧州各国首脳が失望している点は、トランプ大統領が2015年に
    締結された温暖化対策の国際的な枠組みである『パリ協定(Paris Agreement)』に
    対する支持への意向表明を拒んだこと、またNATOの集団自衛権の支持を公に表明
    しなかったところで、特に、ドイツのメルケル首相は、会談中にも非常に強い不満を
    感じていたようだ。

    つい最近まで欧州諸国の中では米国と最も密接な関係にあったドイツだが、両国の
    溝の修復は難しく、メルケル首相は、会議後直ちにドイツ国民に対し、『米国はもう
    以前のように頼りに出来ない』とトランプ氏をバッサリと切り捨てていた。



    これを受けてトランプ大統領は、5月30日早朝、自身のTwitte投稿を用いてドイツに
    対し、大西洋間貿易の条件の再交渉や、防衛費引き上げを要求。 『米国はドイツに
    対して巨額の貿易赤字がある。 その上、ドイツはNATOや軍事への拠出が少な
    過ぎる。 米国にとってとても悪いこと。 これから変わっていくことになる』
    と自ら書き込んだ。

    これに対してドイツ当局は、欧州連合(EU)加盟国という立場から、貿易に関して
    米国と二者協議は出来ないこと、また軍事費を大幅に増加させることも時期尚早
    であると主張した。

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    アンゲラ・メルケル独首相は2017年5月28日、ドイツ南部ミュンヘンでの
    選挙集会で、英国の欧州連合(EU)離脱やドナルド・トランプ米大統領の就任で
    欧米の同盟関係に亀裂が走る中、欧州は『その運命を自ら握らねばならない』と
    訴えた。

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    『われわれが他国を完全に頼りに出来た時代は終わりつつある。 私はそれを
    この数日間で経験した』。 聴衆に向けてこう述べたメルケル氏は、ドイツも欧州も
    米英との友好関係維持に努める一方で、『自らの運命のため闘わなければならない』
    と主張。 ドイツ政府はエマニュエル・マクロン仏新大統領との関係を強化する
    必要があると続けた。

    メルケル首相は、5月27日までイタリアで開催されていた先進7か国(G7)首脳会議
    から帰国したばかり。 サミットでは温暖化対策の国際枠組み『パリ協定
    (Paris Agreement)』をめぐり、米国とその他6か国の意見が対立し、合意に
    至らなかった。

    メルケル氏はこの『6対1』の議論の結果について『極めて不満とまでは言わないが、
    極めて困難だった』と評しており、『欧州人は自らの運命を自分たちの手に握らねば
    ならない。 自らの運命のために闘う必要があると知るべきだ』とまで踏み込んだ。

    選挙集会ででビールを飲むメルケル独首相
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    トランプ大統領は、サミットで温暖化対策の国際的な枠組み『パリ協定』について
    他の6カ国と対立した他、自由貿易やNATOの費用負担、難民問題をめぐっても
    欧州との摩擦が生まれている。 ドイツとアメリカの対立は深まっている。

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    つい最近、フランスでは、史上最年少の大統領が誕生したばかりだが、その妻は
    何と!24歳も年上の元中学校の恩師ということでも話題を振りまいた。

    現在のフランス共和国大統領は、フランソワ・オランド氏だが、その妻とは、
    婚姻関係のない属に言う『事実婚』となっている。 それでも外交上、何の支障も
    なく大統領としての仕事を全うしているのだが、元々、オランド氏の前妻も事実婚
    だった政治家のセゴレーヌ・ロワイヤル氏で、前回の大統領選挙でサルコジ氏に
    敗れている野心家。

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    その前妻と現在の妻との確執が取り沙汰される中、オランド氏は、41歳の女優
    ジュリー・ガイエとの関係を暴露された。 どうやら2年も前から関係があったと
    言われているのだが、これには、大統領自身も『プライベートな事情だ』として
    態度を保留している。 一方のフランス国民は、『70%が政治とは関係ない』と
    至って冷静。 フランスでは約50%が離婚を経験しているため、不倫に関しては
    非常に寛容な国。

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    その前の大統領であるニコラ・サルコジ氏は、ヨーロッパで最もスキャンダラスな
    大統領とまで言われたが、42歳の美人環境大臣との不倫騒動がインターネット上を
    飛び交った後、最終的には、3度目の結婚相手として、スーパーモデルで歌手の
    カーラ・ブルーニを選んだ。 そのカーラ自身も年下の歌手との不倫の果てに
    サルコジ氏と夫婦となった。 

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    その前の大統領であるジャン・シラク氏は、金銭的なスキャンダルの他にも、
    日本人の愛人の間に子供がいた。 更にその前のミッテラン大統領は愛人、子供達
    との二重生活を公然と続けていたが、国民からは熱い支持を受けていた。

    総じて、フランスでは、恋愛も政治も一流でなければならないという逸話がある
    のかは分からないが、こと恋愛に関しては、かなり寛容な国民性であることは
    間違いない。 日本では、フダブル不倫や、本妻と愛人との二重生活を送っている
    大臣が許される訳もなく、即座に退陣を要求されるに違いない。 寛容性も必要
    なのだが、不倫に関しては、倫理に反しているため、ある程度の罰則は必要なの
    ではないだろうか?

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    フランス大統領選挙決選投票の結果、エマニュエル・マクロン氏が66.1%、
    マリーヌ・ルペン氏が33.9%で39歳のマクロン氏がフランス史上最も若い
    大統領として当選した。

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    マクロン氏はパリのルーブル美術館の中庭に集まった支持者を前に演説し、
    『選挙を通じて怒りや不安を表明したすべての国民の声を尊重して行く』と述べ、
    経済の立て直しや社会の格差の解消に取り組む姿勢を強調した上で、『世界は
    フランスが自由を守ることを期待している。 EUを立て直すために大きな役割を
    果たさなければならない』と述べ、EUとの関係を強化して行く考えを示した。

    しかし、選挙で敗北したルペン氏も極右政党の候補としてはこれまでで最も多い
    票を獲得し、EUや移民政策に対する国民の強い不満を反映した形となった。
    また、労働者や若者の間では、マクロン氏が現在のオランド政権の経済相として
    自由競争を推進して来たことに不信感が根強く、7日から8日にかけてパリなど
    少なくとも8つの都市でマクロン氏に抗議するデモが行われ、一部が警察と衝突
    する事態にも発展した。

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    マクロン氏は今月中旬に新大統領に就任する予定だが、激しい選挙戦を通じて
    分断が広がった国民の融和をいかに進めるかが大きな課題となる。 一方、
    ルペン氏は『フランスが直面する多くの課題を前にマクロン氏が成功することを
    祈っている』と述べ、敗北を認めた。

    EUとの関係を重視するマクロン氏の勝利したことで、市場ではEUがさらに混乱
    する事態は避けられたという受け止めが広がっている。 また、多様な社会の実現や
    国際協調を掲げるマクロン氏がフランスの大統領になることで、アメリカのトランプ
    政権の発足などを受け、世界に広がる自国の利益を優先する動きにも歯止めを掛ける
    ことになるのか注目されている。

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    一方で、ルペン氏も国民戦線の候補としては、これまでで最も多い1千万を超える
    票を獲得して、フランス国内で高まるEU統合や移民の受け入れへの国民の不満を
    反映した形となり、マクロン氏は大統領として、こうした不満を解消して行けるか
    どうかが問われることとなる。

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    一方、マクロン氏が妻に選んだのは、元高校教師の女性ブリジット・マクロンさん。
    しかも、彼女は現在64歳で、マクロン氏とは実に25歳の年齢差がある。 その
    馴れ初めは、マクロン氏が15歳の頃まで遡る。 高校教師をしていたブリジット
    さんに猛烈アタックをし、17歳の時にプロポーズ。 両親から反対され、パリの
    学校に転校までさせられているが、結局、18歳の時に交際をスタート。 ブリジット
    さんが離婚してから、2007年に見事ゴールイン。 マクロン氏は当時29歳だった。

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    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、ポルトガルの
    通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、アルブケルケは、マレー半島の
    主要貿易港、マラッカも占領してしまった。 貿易協定によって、アジアの品物は
    ポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、アフリカ
    からの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培をはじめた
    ポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国にはワイン、
    オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は海外の植民地から
    吸い上げていたのである。

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    ハイドパークは、ヘンリー8世が鹿狩りのためにウェストミンスター寺院から
    入手したものであり、その最古の一角は、イーバリー卿の荘園跡であった。
    この荘園は、広さが当時の土地の単位で1ハイドであったことから、これが公園の
    名の由来となったと言われている。

    ハイドパークは、ウェスト・キャリッジ・ドライブと呼ばれる道路1本を隔てて
    ケンジントンガーデンはと一続きになって、ロンドンの真ん中に広大な緑地を
    提供している。 ケンジントンガーデンは、元々、ハイドパークの一部であった
    ものを1689年にウィリアム3世と王妃メアリとがケンジントン宮殿に移り住んだ
    際に、ハイドパークから分離して造ったものである。

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    ハイドパークはまた、1851年には万国博覧会が開催された事でも良く知られて
    いるが、とりわけ有名なのは、公園の北東角のマーブルアーチとスピーカーズ
    コーナーである。 現在、マーブルアーチの建っている近くには、18世紀まで
    タイバーンの処刑場があり、見せしめのために残酷な処刑が行われたが、人々は
    あたかも見世物でも見物するかのようにそうし絞首刑を見に行った。

    19世紀半ば頃からハイドパークは、労働者たちの集会の場所となっていたが、
    そのような中デスピーカーズコーナーは自由な演説と集会の保証された場所と
    考えられるようになり、イギリスの言論の自由を体現した象徴的な場所であると
    考えられた。 かつては、マルクスやレーニンといった革命家やジョージ・
    オーウェルなどのジャーナリストなどもスピーカーズコーナーで演説をした事が
    あるが、現在では、日曜日に脚立や木箱を演台にして色々な人が好き勝手な
    話をしており、それを観光客がとりまいて面白がっている光景が見られる。

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    英語の歴史は1500年以上にも及ぶ。 5世紀にアングロ・サクソン人たちによって
    イングランドにもたらされた英語は、イングランド全域に定着するだけでも1000年
    以上の歳月を要している。 イギリス諸島を離れて本格的に海外進出を始めたのは
    17世紀初頭になってからのこと。

    英国史上に残る様々な出来事は、英語の伝播においてもターニングポイントと
    なった。 1066年のノルマン征服を境にアングロ・サクソン人による支配が
    終わりを告げ、フランス出身の王たちがイングランドを支配するようになる。
    フランス語およびラテン語が公的な言語となり、標準語として徐々に発達しつつ
    あった英語は、一転して庶民の使う日常語という地位に甘んじることになった。

    しかし英仏百年戦争(1337~1453)によって、フランス語への敵意と、英語が自国語
    であるという意識が芽生えてくる。そして16世紀頃になると宗教改革が起こり、
    格調高いが専門家しか理解できないラテン語の書物よりも、多少拙くとも誰にでも
    わかる土着語による書物が重んじられ始めた。 さらに印刷技術の普及も相まって
    英語の「社会進出」は加速して行く。 

    そんな個々のプロセスから、さらに一歩視点を下げて大きな流れを見て行くと、
    他の言語から取り入れられた「借用語」が英語発展の鍵になっていることがわかる。

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    英語で洗練された文章を書こうとすると、語彙不足のために満足な表現ができない
    ことが度々あったため、表現力不足を解消する1つの方法として作家や翻訳家たちが
    行っていたのが、外国語から語彙を借用することだった。

    フランスからの借用語は政治や宗教、軍事、ファッション、食文化、学問などに
    関するものが多く、ギリシア語は専門的で高度な語が多い。 ラテン語は借用の
    時期によって傾向が全く異なる。 至るところで、おなじみの単語の意外な
    ルーツに出くわす。 語彙の乏しさによる劣等感をバネに、英語が他の言語を
    巻き込みながらうねるように広まっていた様子が分かる。

    国際標準語として不動の地位を確立した英語。 メインの言語として話す
    「母語話者」がいない会話でも使われるほど、その影響力は大きい。だが元を
    辿れば、英語にも北ヨーロッパの片田舎で使われる言語に過ぎなかった時代がある。

    オランダやドイツの一部地域で使われる、フリジア語という言語があるそうだ。
    現在の話者は約50万人で、そのほとんどがオランダ語あるいはドイツ語との
    二言語併用者である。 実は、フリジア語と英語それぞれの元になった言語は、
    隣り合う地域で使われる方言同士だった。 英語史を勉強すると、英語と最も
    系統の近い言語としてフリジア語の名が出されるという。

    地理的にも言語的にも事実上同じところから出発したと言っていいような言語が、
    片や世界的な存在に、片や母語話者もほとんどいない状態になっているのは、
    英語史を紐解く上で、非常に興味深い。

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    残る14世紀の発展は、カスティーヤ王国との戦いが何度かあって、中断の憂き目に
    あった。 やがて、ガリシア、アラゴン、ナバラという新しい王国が、現在の
    スペインの中に形成されたが、カスティーヤ王国は、ずば抜けて大きく、強力な
    権力もあった。

    1383年、アルフォンソ王朝最後の王、フェルディナンド1世が死ぬと、夫人が後を
    継いだ。 夫人は、カスティーヤ王国のもとに嫁いでいる自分の娘に子供が出来る
    まで統治を続ける意向だった。 しかし、人望のある南部の地主で、アビス騎士団の
    団長でもあるジョアンに反対され、ジョアンは強力な軍を使ってフェルディナンド
    女王を追放してしまった。

    これに呼応して、カスティーヤ王国も王位を狙ってポルトガルに軍隊を差し
    向けたが、結局1385年、ジョアンがコルテスでポルトガルの王に選出された。

    ポルトガルにとって、主要な貿易相手国であるイギリスは、このアビス王家を支援、
    1386年、両国間の永久同盟を内容とするウィンザー条約が実現した。 この
    条約は、その後1387年に、ジョアン王がイギリスのフィリッパ妃と結婚する
    ことによって、一層堅固なものとなった。

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    【航海王子エンリケ】

    ジョアンとフィリッパとの間には5人の息子が出来、長男ヂュアルテが王位を継承、
    弟たちのうち、次男はアビス騎士団長を継いだ。 3男は広くアジア、アフリカへ
    航海に出掛け、4男はムーア人の牢の中で死んだ。

    このうち、最も有名なのが、航海に出掛けたエンリケ。 科学と探検を大いに
    奨励し、航海王子として名声を高めた。

    若い時、エンリケは1415年のセウタ攻略でその猛勇ぶりを見せ、ムーア人の要塞で
    北アフリカの貿易中心地でもあったセウタを占領した。 その後引退して、
    ポルトガル南西のサグレスに引っ込んだ。 エンリケは経験、知識に富んだ航海士や
    地図の専門家、数学者などを王室に連れて来て、航海学の向上を図った。
    エンリケはまた、自分の収入を増やすためにも海洋を利用しようと考えたのである。

    エンリケの兄のポルトガル国王は、セウタ攻略での功績を称えてアルガルベ地方
    からの収入を彼に与えた。 これらの資金を基にして、エンリケ王子は航海学校を
    運営した。 また、兄弟の中には、エンリケ王子以外にも広く航海に出て行った
    者もいて、それがまたエンリケ自身にとっての励みにもなった。

    ポルトガルの船乗りたちはリスボンやサグレスから出掛け、まず1419年に
    マディラ、1427年にアゾレス諸島にそれぞれ上陸した。 また、船乗りたちは、
    アフリカ大陸のガンビア川とセネガル川を探検、こうした航海によって、
    ポルトガル人は世界地理への知識を広め、金や塩を手に入れ、そしてアフリカの
    人たちを労働力として確保するようになって行った。

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    【古英語とバイキングの侵入】
     現代英語の元となった古英語は、実は、アングル族が持ち込んで来た言語
    であり、アングロサクソン人が1100年頃まで使っていた言葉である。 つまり、
    系統的には、インド・ヨーロッパ語族の中の西ゲルマン語群に属する言葉と
    なっている。 現代英語の基礎的な単語は、その殆んどが、アングロサクソンの
    言葉であると考えて差し支えない。

    やがて、紀元前597年には聖オーガスティンがケント州からキリスト教の布教を
    開始、イギリスがキリスト教化するに伴って、キリスト教に関連した多くの
    ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語起源の語彙が英語の中に入って来た。

    8世紀に入ると、バイキングと呼ばれる人々がスカンジナビアからイギリスへと
    侵入して来る。 彼らもまた、ゲルマン民族の一派であったが、彼らの言葉は
    同じゲルマン語でも北ゲルマン語群に属していた。 彼らは先住のアングロ
    サクソン人と激しい戦いを繰り広げた後、ローマ人の築いたウォトリング街道の
    北東部に定住することとなった。 その結果、その地域は、デーンロー地域と
    呼ばれ、現在もスカンジナビア起源の地名が残っている。 現代英語の中にも
    900語ほどスカンジナビア起源の語彙が残っている。

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    【フランス語の侵入】

    バイキングは、フランスのノルマンディーに国を建て、彼らは、やがて文化的には
    フランスに融合し、言葉もフランス語を用いるようになって行った。 1066年
    には、ノルマンディー公ウィリアムが、イギリスに侵入し、ヘイスティングスの
    戦いにおいて、ハロルド王を打ち破ってイギリスの王位に就いた。 いわゆる、
    ノルマン征服王朝の成立である。 この時、ウィリアムは、国政と宗教の主な
    ポストには、全てフランスから連れて来た家臣をあてたので、以後数世紀に
    渡って、イギリスの重要なポストには、フランス語を母国語とする人々で占め
    られることとなった。

    国王も例外ではなく、ハロルド王以後は、ほぼ300年の間、英語を用いる王は
    居なかった。 そして、この間に、英語は実に多くのフランス語の語彙が入った。
    それは、ちょうど今日の日本語に、本来、日本語にあった大和言葉と漢語と
    呼ばれる中国語が混在している状況と良く似ている。 日本語の中に漢語に
    あたるものが英語ではフランス語やラテン語となっている。

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    【英語の復活から世界支配へ】

    しかし、ウィリアムと共にイギリスへ渡って来た支配階層も、時が経つに連れて、
    土地の女性と結婚し、生まれて来る子供の世話をする乳母にも土地の女性を雇う
    などしているうちに、次第にフランス語を失って行った。 やがて、13世紀に
    入ると、中世英語で書かれた詩なども出て来るようになり、1337年にフランスとの
    間に百年戦争が起こると、英語に対する意識が急激に高まり、1362年には、議会の
    開会宣言が初めて英語で行われた。

    やがて、15~16世紀になると、現在の英語に近い近代英語が成立し、
    シェイクスピアを初めとする英文学史上でも良く知られた人々の活躍が始まる。
    ちょうどこの頃、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ
    大陸へ到達し、やがて英語を話す人々は、北アメリカ大陸へも移住を始めた。
    こうした歴史を反映して、アメリカの英語の中には、実は、シェイクスピアの
    時代のイギリス英語に近いものが残っていることがある。

    もちろん、近代的なテクノロジーや音楽、映画などの娯楽産業、それに政治、
    経済の先進国であるアメリカで生まれた言葉がイギリスに逆輸入されることも
    多いが、現代アメリカ英語の発音や、日常会話の語彙の中には、イギリスの
    この時代の発音や語彙が残っていることがあり、人々は、それとは知らずに
    使っていることが良くある。

    近代に入ってイギリスが広大な植民地を建設した結果、英語はアメリカ大陸のみ
    ならず、アジアやアフリカからオセアニアまで世界中の広い地域で使われるように
    なった。 そして、現在では、互いに英語を母語としない人々の間でも国際的な
    共通語の言語として使われている。

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    【英語はドイツ語の兄弟】
    今や英語が国際語であることを疑う人はいない。 それどころか、子供を国際人に
    育てると証して、何の疑いもなく小学生から英語教育を行おうとしている。
    しかしながら、English がアングル族の言葉を意味する Englisc を語源とすること
    からも分かるように、英語は、ブリテン島のイングランドとスコットランドの
    低地地方で話される地域的な言葉でしかなかった。

    更に、近世に入るまでは、ラテン語やフランス語に比べて、その地位も低く
    見られており、神の言葉である聖書は、英語には翻訳出来ないという議論まで
    あった程である。 英語が国際語としての現在の地位を確立するまでには、
    その過程で征服や侵略や植民地化の歴史、そして辛く悲しい移民の歴史があった
    のである。

    英語の歴史的研究も、18世紀になって当時イギリスの植民地であったインドに
    駐在していたひとりのイギリス人判事ウィリアム・ジョーンズ卿の講演から
    始まったに過ぎない。

    ウィリアム・ジョーンズ卿は、古いインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)を
    研究し、サンスクリット語とラテン語それにギリシャ語の類似性に気が付いた。
    そして、1786年には、『これらの言語は、現在では既に消滅した共通の言語から
    枝分かれしたものである』ことを示唆する講演を行った。

    1761081

    これは、現在インドからヨーロッパに掛けての広大な地域で話されている様々な
    言葉は、実は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるひとつの言語グループに
    分類されうること、そして、そのインド・ヨーロッパ語族には、その元になった
    古い言葉、いわゆる『印欧祖語』と呼ばれる言語が存在したことが想定されうる
    という、驚くべき事実の発見であった。

    英語は勿論このインド・ヨーロッパ語族に属しており、その中でも、ドイツ語、
    オランダ語、フリースランド語などと同じく、ゲルマン語派の中の西ゲルマン語群
    に属している。 つまり、英語は、ドイツ語やオランダ語、それに、オランダの
    北西の沖合いに浮かぶ列島フリースランド地域で現在30万人程の人が話すだけに
    なったフリースランド語などと兄弟の言葉なのである。

    フランスの言葉や文化の影響をイギリスに持ち込んだ1066年のノルマン征服が
    なければ、現在のイギリス人は恐らく、オランダ語のような言葉を話していただ
    ろうとまで言われている。

    そもそも、最初にブリテン島に住んだのは、インド・ヨーロッパ語族の中でも、
    ケルト系の言葉を話すブリトン族であった。 その後、ブリテン島を支配して
    いたローマが、5世紀になって、ブリテン島から引き上げると、アングル族、
    サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族が現在のデンマークや北海沿岸の
    ドイツからブリテン島へと渡って来た。 この時の様子は、『アングロ・サクソン
    年代記』という古い書物などによって、うかがい知ることが出来る。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

    oesterrei01

    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

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    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    初期ポルトガルの国王たちは、権力の強化にはローマ・カトリック教会と裕福な
    地主たち支持が不可欠と知って、1211年にアルフォンソ2世は、高位の宗教指導者と
    貴族たちをコインブラに集めた。 これが後のコルテスと呼ばれるポルトガル
    身分議会の始まりである。

    アルフォンソ2世とその後継者、サンチョ2世の時代は、教会と諸王が土地や収入、
    権限を取り合って争い、その結果、ローマ・カトリックの法王は1245年、サンチョ
    2世の王位を与えることを拒否、代って弟のアルフォンソ3世を王位に就かせた。

    227211330

    アルフォンソ3世の下、ポルトガル軍は、アルガルベからムーア人を追い出し、
    ポルトガルの領土を現在の広さにまでしたのだった。 ムーア人はこれで、
    イベリア半島のポルトガル側に持っていた最後の砦を失ったことになる。
    アルフォンソ3世は更に、1253年コルテスを創設し、初めて商人や町人も、
    牧師や貴族と同席出来るようになった。

    ポルトガルは、アルフォンソ3世の息子、ディニス王(1279~1325年)の長い
    時代を通じて繁栄した。 ディニス王は、初めて大学を創設し、農業の開発、
    造船工業の育成にも力をつくした。 漁業と貿易も発展し、外国から金属類や
    武器、繊維がリスボンに入るようになった。 一方、ポルトガルからは、ワインを
    始め、ロウ、みつ、オリーブ油が北ヨーロッパに向け出荷されて行った。

    941346

    リスボンは、その富と重要性から、当然のように新しい首都になり、1298年までに、
    政府の所在地は、コインブラからリスボンに移った。 ところが、1340年代、
    リスボンに停泊中の船の中に居たネズミがペストをポルトガルにもたらすことに
    なり、ポルトガル国民の3人に1人がこの伝染病に掛かって死んで行った。 この
    結果、労働人口の減少から農業生産はガタ落ちとなり、その後数十年もの間、
    政府は、荒地となった農地の再開発に取り組まなければならなかった。

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