多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    2014年12月24日、オランダ政府は、1912年に締結された「日蘭通商航海条約
    (The Treaty of Trade and Navigation between the Netherlands and Japan)」を
    根拠として、日本国籍者はオランダで労働許可なく労働が出来るとの判断を下した。
    これは、オランダ雇用者がその赴任者である被雇用者に関する労働許可申請を
    行う必要がないことを意味する。

    日本国籍者には「自由に労働が可能な居住許可(Residence Permit “work freely
    permitted - work permit (TVW) not required”)」が交付される。 したがって、
    日本国籍者の場合、知的労働者手続きを経る必要がなく、またオランダ雇用主は、
    スポンサー企業登録の必要がない。

    20130307164741

    これまで、EU内では、EU市民以外への労働ビザの発給には、かなり慎重で、
    実際に現地で働いていたとしても、労働ビザを得るのは至難の業であったため、
    今回の規制解除は、日本国籍者にとっては、かなりの朗報。 オランダ語圏は、
    経済的にもEU内ではトップクラスを維持しており、英語圏以外では、最も英語が
    通じる地域のひとつであるため、日本人には、最も行きやすいヨーロッパとも言える。 
    煩雑なビザの手続きが要らなくなっただけでも、日本国籍者にとっては、かなりの
    メリットがある。 

    日本国籍者以外の手続きは、従来通り。 日本人赴任者は、「自由に労働可能な
    居住許可」を取得した後は、居住する自治体での住民登録と、銀行口座を開設
    すれば良い。

    【オランダでの永住権取得の要件】
     
    オランダに合法的に継続して5年以上住んでいること
    現在、長期的な目的での滞在許可(家族との居住、長期的な雇用先など)を持っていること
    長期的に十分な生活手段(お金を稼ぐ方法)を持っていること
    社会にたいして危険をもたらさないこと
    オランダ社会に適合し、オランダ語を十分に理解(読み書き喋り)できること。
    (オランダ語コースを修了するか他の学位などを得る必要がある)

    詳細はこちらから
     
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    日本の政治 に参加中!

    ドイツのメルケル首相は、天皇陛下、そして、ロボットと握手をする機会がありました。
    メルケル首相は、2日間の日程で、日本を訪問中です。 訪日中、注目される議題は、
    文化、外交の他、次のG7首脳会議、過去の総括に関する慎重な意見、脱原発への
    アピールです。 現地からのリポートです。



    メルケル首相が、東京で出迎えを受けたロボットのアシモは、色々な事が出来ます。
    飛び跳ねたり、走ったり、ボールを蹴ったりする事も出来ます。 しかし、メルケル首相との
    握手だけは、上手く行きませんでした。 首相の訪日で、すれ違いとなったのは、これだけ
    ではありません。 日本の新聞社主催の講演会で、メルケル首相は、日本が、どのように
    過去の精算をすべきかについては、言及しないとしましたが、ドイツの過去については、
    次のように語りました。

    メルケル首相です: 隣国の寛容さがなければ、全ては成り立ちませんでしたが、ドイツも
    過去と向き合う用意があったのです。

    しかし、日本の安倍首相は前向きではないようです。 いわゆる、従軍慰安婦問題等に
    ついて、日本の過去を綺麗ごとで収めようとしているため、隣国との難しい関係が改善
    されません。 福島第一原発事故後の結論にも、意見の相違があります。 全国的に
    抗議行動が起きているのにも関わらず、安倍総理は、原発を再稼動する構えです。

    安倍総理です: 世界に認められた、厳しい安全基準によって、認可された原発は、
    再稼動すべきだと思います。

    原発事故から4年後の今、ドイツでは、脱原発、日本では、原発再稼動という事です。

    安倍総理とメルケル首相は、共通点もありますが、中心的な問題では、別の方向へ
    向かっています。 エネルギーや経済政策もそうですが、ドイツの視点から見て、最も
    危険と思われるのは、安倍総理のナショナリズムを持って、中国との関係が、更に
    悪化する事です。

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    最新ニュース に参加中!

    原発事故を起こしても、それを過小評価し、更に原発施設を海外へと輸出しようと
    している首相と、原発事故を真摯に受け止め、国内の原発を止めようと努力して
    いる首相の違いは、やはり、教育の違いでしょう。 ドイツの場合は、嫌な事は
    ハッキリと嫌と言えますが、日本の場合は、何でもうやむやにされるため、状況は
    改善されません。

    merukeru02

    社会を批判するためには、知識が必要ですが、日本の大学教育では、その知識を
    与えないどころか、むしろ、何でも上司のいいなりになる人間だけしか評価されません。
    その上司の方も、自分の部下が働きやすい環境を整えるのが仕事であるという
    意識は一切なく、単に適当に部下を締め上げて、更に上にエスカレートするのが
    仕事とされているため、支配社会から脱却出来ません。

    日本とドイツとの原発に対する最大の差は、安全が第一なのか、それとも利益が
    優先されているかの違いです。

    メルケル首相とベルリン工科大学の井上教授とのインタビュー

    以下ドイツ大使館からの引用:

    メルケル首相はこの度の来日に先駆けて、ベルリン工科大学の井上教授との
    インタビューに答えています。 日本の安倍首相とは何度も国際的な舞台で顔を
    あわせてはいるものの、久しぶりとなるメルケル首相の今回の訪日では、G7サミットの
    議長国としてプログラムを紹介すると同時に、日独2国間の関係ももちろん重要な
    テーマとして、様々な議論や意見を交換します。

    今回は日本の科学者・研究者の方々との対話も行われます。 何百年も前から日本と
    ドイツは科学分野で交流があり、現在でも医学のみならず物理や化学の分野にも多く
    共通点があります。 意見交換を通し、今後の日独がさらにどう協力していけるか、また
    少子高齢化等の共通の問題を抱える2国間にとっていかに科学分野での協力が重要か
    等についても話されます。
     
    エネルギー問題についても言及しています。

    ドイツは2011年の福島第1原発の事故を受け、すぐさま原子力発電からの撤退を決定し、
    再生可能エネルギーの活用・整備拡充に注力しており、今回はその点に関しても話を
    する予定です。 島国である日本とは資源の問題など相違点も多く、日独が原子力に
    関して必ずしも同じ道を進めるとは限りませんが、福島の経験から、安全が第一であり、
    そのためにドイツの首相として私は出来るだけ早く原子力発電からの撤退を進めるよう
    力を尽くしている、と述べています。

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    『ロック・ミー・アマデウス』の世界的なヒット曲で知られる、ファルコは、オーストリア、
    ウィーン出身のアーティスト。 当初は、ハードロック・パンクバンドのベーシストとして、
    音楽活動を開始したが、1981年にソロアーティストとしてデビューし、『秘密警察』
    (原題: Der Kommissar)をヨーロッパでヒットさせる。 この曲はアフター・ザ・ファイアー
    による英語バージョンもリリースされ、アメリカでもヒットした。 この曲が出た頃はまだ
    ラップやヒップホップという言葉が馴染む前であった。



    1985年、『ロック・ミー・アマデウス』(原題: Rock Me Amadeus)をリリース。 刺激的な
    ヒップホップのビートに乗せて、モーツァルトの生涯をラップで歌い込んだこの曲は、
    地元オーストリアを皮切りに、ヨーロッパ各国でヒットチャート第1位を獲得し、翌1986年
    には、アメリカの「Billboard Hot 100」でも第1位の大ヒットを記録する。 アメリカでは、
    英語圏出身以外の外国人アーティストが大ヒットを飛ばすのは非常に難しく、しかも、
    色物扱いされる類の曲であったが、英語とドイツ語を交互に操ったラップの面白さと、
    1984年公開の映画『アマデウス』のヒットを受けた話題性、クラシックの偉人を茶化した
    痛快さが、異例の大ヒットにつながったといわれている。



    その後は世界的なヒットはなかったものの、オーストリアでは安定した音楽活動を続け、
    出したアルバムは国内チャートでほぼ全て1位であった。

    1996年にドミニカ共和国に移住。 1998年2月6日、ドミニカ共和国サント・ドミンゴで
    自動車事故により死去。 尚、検死結果では、血液中から高濃度のアルコールとコカインが
    検出された。 遺体はオーストリアのウィーン中央墓地に埋葬されており、墓には
    『Nachtflug』のジャケットに使われた写真が飾られている。



    2000年にドイツ・ベルリンでミュージカル『Falco meets Amadeus』が初上演され、その後も
    ドイツ語圏各地で上演されている。 没後10年となった2008年には、最後のアルバム名を
    タイトルとした伝記映画『Falco - Verdammt wir leben noch!』が製作され、オーストリア、
    ドイツ、チェコにて公開(日本では未公開だが2010年にキュリオスコープより
    『ROCK ME AMADEUS - ファルコ 運命に翻弄されたスーパースター』のタイトルでDVD
    発売)。 2010年10月、ヨーロッパ圏では代表作『Falco 3』の発売25周年を記念して、
    スペシャル・エディションがデジタルリマスター盤として再発売された。これは、
    『ロック・ミー・アマデウス』が収録された通算3作目のアルバムで、日本盤のタイトルも
    『ロック・ミー・アマデウス』であった。

    Falco_Grab

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    ワールドミュージック に参加中!

    日本では、『ネーナ』として知られている、ネーナ・ケルナーは、1980年代
    初頭に、『ロックバルーンは99』で世界的な大ヒットを飛ばしたドイツ出身の
    歌手、並びに、女優。 ドイツ人は、長期休暇の際に、好んでスペインに行くが、
    『ネーナ』の語源は、スペイン語で『小さな女の子』を意味する『ニーニャ』が
    元になっており、3歳の頃から周囲からは、『ネーナ』の愛称で呼ばれていた。

    nena

    ハーゲンのギムナジウムに通っていたが、17歳の時に中退、手に職をつける
    ために、両親の勧めで金細工の技術を習っていた。 1977年11月にディスコで
    ギタリストのライナー・キッツマンと知り合い、そのバンドThe Stripesの
    ヴォーカルに誘われたのが音楽活動の始まりだった。 1978年には、ライブ
    活動を開始し、翌年最初のシングルである『Strangers』を発表した。

    1980年には、アルバム『The Stripes』を発表したが、シングルの方こそ、
    そこそこの販売を記録したが、アルバムは余り売れなかった。 1981年にこの
    バンドは解散した。

    ネーナは、当時の伴侶であったThe Stripesの元ドラマー、ロルフ・ブレンデルと
    共に、西ベルリンへと移ったが、そこで知り合ったキーボードのウヴェ・
    ファーレンクローク=ペーターゼン、ベーシストのユルゲン・デーメル、
    ギタリストのカルロ・カルゲスと共に、ロックバンド『ネーナ』を結成し、
    1982年に最初のシングル『Nur geträumt』を発表。 その後、テレビにも
    出演して知名度が急上昇した。



    1983年、2枚目のシングル『ロックバルーンは99』を発表すると、ドイツ国内で
    ヒットチャート第1位を獲得するだけには留まらず、この曲を偶然聞いた
    カリフォルニア州のDJの耳に止まり、アメリカ西海岸にあるラジオ局を通じて
    大ヒットとなり、ついには、アメリカ国内チャート第2位を獲得し、更に、
    そこから火が付いて、全世界(スイス、オーストリア、イギリス、オランダ、
    スウェーデン、ポーランド、ニュージーランド、オーストラリア、日本、カナダ、
    メキシコ、コロンビアでヒットチャート第1位)規模での大ヒットとなった。 尚、
    この曲はヨーロッパでは反戦歌として定着している。



    しかし、その後発表したシングルに数曲のヒットがあったものの、次第に
    人気が衰え、低迷期へと突入し、映画出演で知り合った俳優との間に最初の
    子供を妊娠したため、バンドは活動休止へと追い込まれ、1987年には
    バンドが解散した。



    バンドの解散後も、ネーナ自身は、1989年からソロ活動を続けていた。
    子育ての時期の楽曲は子供向けの性格が強く、余りヒットしなかったが、
    音楽活動の傍ら、声優、司会者などとして出演していたものの、歌手としての
    キャリアは完全に忘れられつつあった。

    ところが、ドイツにおける長期的な80年代ブームの中、2002年に『ネーナ』の
    元キーボード、ウヴェ・ファーレンクローク=ペーターゼンと組んで、かつての
    大ヒット曲である『ロックバルーンは99』を新ヴァージョンで発表すると、
    瞬く間に人気が復活、奇跡的なカムバックを果たした。

    2005年に発表したシングル『Liebe ist』は、ドイツの人気ドラマ
    『Verliebt in Berlin』の主題歌になったこともあり、『ロックバルーンは99』
    以来、22年振りのヒットチャート1位を獲得した。 アルバム
    『Willst du mit mir gehn』もヒットチャート2位を記録。 同年には、
    フランクフルト・ブックフェアでアルバムと同名の自伝を発表、その年3位の
    売上となり、ベストセラーとなった。 ドイツ、オーストリア、スイスでの
    ツアーも開始。 携帯電話のコマーシャルにも出演。 2007年にはマレーネ・
    ディートリッヒのカヴァー曲を発表している。

    ただし、かつてのようなドイツ語圏の枠を超えてのヒットは今のところ
    見られない。



    【お勧めの一枚】


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    音楽好きな母方の親類の影響により、8歳でピアノを習い始め、学校でも合唱団に
    加わっていたが、高校在学中に、演技の才能も見出され、音楽活動の他にも、舞台に
    立つようになった。 演劇学校に通った経験はないものの、テレビドラマにも出演して
    おり、1977年には映画にも初出演し、同年にはジャズロック・バンドのリードヴォーカル
    として、初めてのレコードを発表した。
     
    groenemeyer

    1979年には、出演したテレビドラマにより、ドイツ国内では広く知られるようになり、
    1981年には、ヴォルフガング・ペーターゼン監督の映画『Uボート』に出演、世界的な
    大ヒットとなり、俳優としては、成功を修めた。 翌年には、東西ドイツの合作映画
    『Frühlingssinfonie』でナスターシャ・キンスキーと共演、ロベルト・シューマン役を演じて、
    俳優業は順調だったものの、最も力を入れていた音楽活動の方は、不遇の時代が続き、
    コンサートには殆ど客が入らず、中止が相次ぎ、1983年にはついにレコード会社との
    契約を打ち切られた。

    1984年、EMIと契約して再起を期し、アルバム『4630 Bochum』を発表、これが大ヒット
    となり、79週に渡りドイツのアルバム売上げチャートで100位以内に入った。 当時は、
    マイケル・ジャクソンの『スリラー』が世界的に大ヒットしていた時期だったが、
    『4630 Bochum』はその年、ドイツ国内で最も売れたアルバムとなった。 その
    アルバムの中のシングル曲『Bochum』と『Männer』で流行歌手としての彼の地位は
    ゆるぎないものとなった。



    1988年には、アルバム『Ö』を発表し、初めて英語詞の曲を収録した。 その後、初の
    海外ツアーとして、カナダ・ツアーを行った。 1993年、アルバム『Chaos』を発表、
    これもヒットチャート1位を獲得、ツアーには60万人を動員した。 1994年には、
    非英語圏のアーティストとして、初めてMTVのMTVアンプラグドに出演した。

    1998年には、家族と共にロンドンに移住したが、音楽活動はドイツ語で続けた。 同年
    アルバム『Bleibt alles anders』を発表、4週間足らずでプラチナ・ヒットとなった。 ツアー
    には35万人を動員。 しかし、この年11月に兄と妻が相次いで死去し、ショックの
    あまり1年間の音楽活動休止に追い込まれた。

    2000年のハノーファー万博に合わせて、オーケストラ用の曲を発表。 2002年、アルバム
    『Mensch』を発表、大ヒットとなり、同名のシングル曲でも初めてヒットチャート1位を
    獲得した。 その年に始めたツアーは、2003年7月に終了する予定だったが、150万人を
    動員し、更に2005年1月までツアーが延長された。



    2006年に開催された、『2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会』に合わせて、シングル
    曲である『Zeit, dass sich was dreht』を発表たが、この曲はマリ共和国の歌手との
    合作だった。 6月9日のミュンヘン・アリアンツ・アレナにおける開会式でも、全世界が
    注目する中この曲をライブで披露した。 この曲も大ヒットとなり、彼にとって2度目の
    ヒットチャート1位となったが、地元ドイツ代表は、この大会は3位に終わった。



    2007年にはアルバム『12』を発表。 シングル曲『Lied 1 – Stück vom Himmel』は彼に
    3度目のヒットチャート1位をもたらしている。

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    ドイツを代表する『パンクの母』こと、ニーナ・ハーゲンは、有名女優のエヴァ・
    マリア・ハーゲンと脚本家ハンス・オリヴァ・ハーゲンの娘として、ベルリンで
    生まれた。

    父方の祖父は、ユダヤ人の銀行家・経済学者であったが、1942年にユダヤ人強制
    収容所で死去している。 ニーナの養父となったのは、母親と一時同棲していた事の
    ある高名な詩人、ヴォルフ・ビーアマン。 裕福な家庭の令嬢が、何を理由に、
    エキセントリックで過激なパンクを歌うようになったのかは、本国ドイツでも謎と
    されている。



    元々は、旧東ドイツで女優を志していたが、演劇学校の入学試験であえなく不合格
    となった。 この時期から、ポーランドでバンドのボーカルとして活動を開始し、
    1974年に歌手養成コースを修了した後は、ドイツ国内のバンドである『
    アウトモビール』に参加。

    その後、アウトモビールは、彼女のバックバンドと化して行く。 1975年に
    アウトモビールを脱退した後は、別のバンドでの活動を開始するものの、1976年に
    音楽家のヴォルフ・ビーアマンが、旧東ドイツ政府により市民権を剥奪されると、
    公然とビーアマン支持を行い、国外での演奏活動の帰りに旧東ドイツから再入国を
    拒否されたため、そのまま西側へと亡命し、イギリスへと渡った。



    1977年の秋には、イギリスから旧西ドイツに帰国後し、ニーナ・ハーゲン・
    バンドを結成。 世界的なヒットを飛ばすも、4人のバックミュージシャンとの
    間に埋めようのない確執が生じた。 この時、 レコード会社とは既に二枚目の
    アルバムの契約が締結されていたため、アルバムのレコーディングは、バックの
    演奏とは別に、歌の追加録音という不規則な形で行われた。 80年代には、
    独自のUFO論を前面に押し出し、1985年3月には、日本での公演も実現している。

    1998年、演出家ベルトルト・ブレヒトの生誕100年に際し、ようやく生まれ故郷の
    ベルリンへと戻った。



    ニーナ・ハーゲンの特長は、エキセントリックでスピリチュアルな感性、歌詞の
    メッセージ性、並びに、並外れた歌唱力だが、ドイツ国内では、絶大な人気を誇る
    ものの、それ以外の国々では、本国ほどの成功を収められていない。



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    オーストリア共和国は、ヨーロッパにある連邦共和制国家で、首都は、いわずと
    知れた、音楽の都ウィーン。 約650年もの間、中央ヨーロッパにおいて、
    ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦前までは、イギリス、ドイツ、
    フランス、ロシアと並ぶ欧州五大列強国とされていた。 1918年、第一次世界大戦
    での敗戦、並びに、革命により、1867年より続いたオーストリア=ハンガリー
    帝国が解体し、共和制となった。

    かつては、多民族国家であった旧帝国のうち、支配的な民族であった
    ドイツ民族が多数を占める地域のみにおおむね領土が削られ、現在に至っている。
    1938年には、ナチス・ドイツに併合され、敗戦後の1945年から1955年に掛けては、
    連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年に独立を回復した。 EU加盟
    以降は、同言語同民族でありながら、複雑な国家関係が続いていたドイツとの
    距離が再び縮まりつつあり、一部では、ドイツ民族至上主義が台頭している。



    ドイツ語での国名、Österreich は、『東の国』という意味であり、フランク
    王国の頃にオストマルク東方辺境領が設置された事に由来する。 オーストリアは、
    しばしばオーストラリアと間違われるが、オーストラリアは、ラテン語で
    『南の地』を意味しているため、オーストリアとは語源的にも無関係である。

    日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、
    東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の
    『オーストラリア大使館』への地図が掲げられている。

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    オーストリアとオーストラリアの国名の混同は日本だけではなく、英語圏の
    国にも広く見られ、聞き取りにくい場合には "European" (ヨーロッパの
    オーストリア)が付け加えられる場合がある。 2006年10月に、駐日
    オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の
    日本語表記を『オーストリア』から『オーストリー』に変更すると発表した。

    オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた
    『オウストリ』という表記に基づいている。 発表は大使館の一部局である
    商務部によるものだったが、署名は、当時のペーター・モーザー大使と
    エルンスト・ラーシャン商務参事官の連名で行われ、大使館および商務部で
    変更を検討し、オーストリアの国名の全面的な変更を思わせるものであった。
     
    20061115-01

    しかし、2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、
    日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記は
    『オーストリア』のままであると発表した。 ただし、オーストリーという
    表記が広まる事により、オーストラリアと混同される事が少なくなる事を
    願っているとされた。
     
    その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに
    『オーストリー』を使う動きは見られない。 昨年度から、旧ソ連邦構成
    国家であった、グルジアが、『ジョージア』と改名されたが、こちらも
    その名前が、どれほど定着するのか、かなり懐疑的である。

    オーストリアのドイツ語は、ドイツのドイツ語とは差異が大きく、ドイツ語の
    一方言とするのか、または、別言語とするのか、言語学的に見ても、かなり
    難しいところ。 民族と言語はドイツと同じだが、国家とその歴史がドイツとは
    異なるのがオーストリア。 国が異なれば、言語も別であろうとするウクライナ
    とは対極を行っている国。 普段は、100%オーストリア・ドイツ語だけで
    話しているが、基本的に、標準的なドイツ語も喋れるのがオーストリア人。

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    イタリアのボルツァーノ自治県は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・
    アディジェ特別自治州に属する県で、県都はボルツァーノ。 イタリアでは
    唯一、イタリア語・ドイツ語・ラディン語の3つの公用語を併用する県と
    なっている。 歴史的には、「チロル」と呼ばれた地域の一部で、「南チロル」
    とも呼ばれている。 この地域では、ドイツ語を母語とするドイツ系住民が
    人口の半分以上を占める他、レト・ロマンス語群の言語である、ラディン語の
    話者も居るため、地域内での言語事情が非常に複雑となっている。
    tirol
    1922年にムッソリーニ政権が誕生すると、ボルツァーノ県では、イタリア化
    政策が推進されたため、ドイツ語の使用が禁止となり、人名、地名は全て
    イタリア語に変更された。

    学校教育もイタリア語で行われるようになった他、イタリア南部からの移住も
    推奨され、徐々にイタリア語系住民の比率が高まって行った。 1939年、
    ムッソリーニは、アドルフ・ヒトラーから、ドイツ語系住民に、ドイツへの
    移住か、イタリアに留まり、イタリア人との同化政策を受け入れるかの選択を
    させる事を提案され、同意した。 住民は、故郷を捨てるか、母語を捨てるか
    という苦渋の選択を迫られた。

    第二次世界大戦後期の1943年、イタリア王国が連合国に降伏すると、直ちに
    ドイツ軍はイタリア北部を占領する。 ボルツァーノ県域は、名目上、イタリア
    社会共和国に属するとされたものの、ドイツ軍の占領統治下に置かれた。
    1945年5月のドイツ降伏に先立ち、4月27日にドイツからの独立を宣言した
    オーストリアの臨時政府は、1938年の独墺合邦の無効を宣言し、チロル州も
    オーストリア領に復した。 ボルツァーノ県の住民も南チロル人民党を結成
    するなど、オーストリアへの復帰を望んだが、国際情勢がそれを許さなかった。

    1946年9月5日、パリにおいて、イタリアのデ・ガスペリ首相兼外相と
    オーストリアのグルーパー外相との間で会談が行われ、同県のイタリア領有、
    および、ドイツ語系住民への自治権の付与について合意に達した。 1948年
    1月の法律で、自治権が保障されたが、パリでの合意に及ぶものではなく、
    ドイツ語系住民にとっては、不十分な内容であった。

    また、中央政府が南イタリアからの移住を推進した事に対しても不満があった。
    このため、完全自治、あるいは、チロル再統一を要求する組織が作られ、
    1950年代半ば以降、テロ活動が続き、1960年代には激しさを増した。
    1960年には、国際連合でも議題にあげられ、平和的解決が求められた。


    家庭内の会話における使用言語全国
    イタリア語のみ、あるいは主にイタリア語45.5%25.2%
    地方言語のみ、あるいは主に地方言語16.0%1.5%
    イタリア語と地方言語の双方32.5%4.1%
    他の言語5.1%65.5%

    【ドイツ語】
    ドイツ語話者は、県人口の約70%を占める。 2011年の「言語集団調査」に
    よれば、県の116コムーネのうち、103コムーネでドイツ語話者が過半数を占める。
    住民のほぼ全てが、ドイツ語話者であるコムーネも多く、ドイツ語話者が人口の
    90%以上を占めるコムーネが77コムーネ、98%以上を占めるコムーネが
    26コムーネある。 マルテッロでは、ドイツ語話者が100%となっている。
     
    公文書や教育・メディアなどでは、標準ドイツ語が用いられている。 ただし、
    この地域で話されているドイツ語は方言で、県内でも地方ごとに差異があり、
    東部はバイエルン人/バイエルン語話者、西部はアレマン人/アレマン語話者が多い。

    【イタリア語】
    イタリア語話者は、県人口の約25%で、県都ボルツァーノをはじめとする南部に
    多い。 2011年の「言語集団調査」によれば、イタリア語話者が過半数を占める
    のは、5コムーネで、ボルツァーノ(73.80%)、ライヴェス (71.50%)、
    ブロンツォーロ (62.01%)、サロルノ (61.85%) 、ヴァーデナ(61.50%) となって
    いる。 これに次ぐのは、メラーノ (49.06%) で、ドイツ語話者と拮抗している。

    【ラディン語】
    ラディン語は、レト・ロマンス語群の言語で、イタリア語とは同じロマンス
    諸語に含まれる。ラディン語話者は、オルティゼーイをはじめとする、県東南部の
    ヴァル・ガルデーナ、および、ヴァル・バディーアに集住しており、8コムーネで
    過半数(いずれも80%以上)を占める。 2011年の「言語集団調査」によれば、
    ラディン語話者が最大の比率を占めるのはラ・ヴァッレ (97.66%) である。
    8コムーネ以外では、オルティゼーイに隣接するカステルロットで15.37%を占める。

    ラディン語話者はボルツァーノ自治県、トレント自治県、ベッルーノ県に
    またがる山間地域に集まっており、これらの地域は、「ラディニア」と呼ばれる。
    ラディン語話者は、全体で約3万人とされており、ユネスコの「危機に瀕する言語」
    では「危険」と評価されている。 ボルツァーノ県にはこのうち約2万人が
    暮らしている。



    オーストリアは、長年に渡り、イタリアに対して、ドイツ語話者の多い南チロルの
    返還を求めているが、イタリアは、これに応じず、南チロルは、未だイタリア領の
    まま現在に至っている。

    世界には、このような、国境と言語が一致していない個所が多く見られるが、
    むしろ、日本のように、国境と言語が一致している国の方が珍しいのかも知れない。

    【お勧めの一品】


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    西ヨーロッパに行くと、必ず1度は体験するであろうもの、それは、『差別』。
    欧米社会では、あくまでも、自分たちが正しい事が大前提となっているため、
    それ以外のものは、全て差別の対象となります。 それを生み出す最大の
    要因は、自分と異なる人間を認めない、『心の狭さ』と『無知』です。
    欧米では、この『差別』的な心理が、常に、社会の根底にある事を忘れては
    なりません。

    charlie13n-1-web
    全ては許される

    日本でも、最近では、『ヘイトスピーチ』が問題となっていますが、今回
    事件が起きたフランスの『表現の自由』と比較すると、まだ相当可愛い
    部類に入ります。 そもそも、『言論の自由』とは、何でも無責任に吐き
    捨てて良い権利などではなく、社会批判等を行う際に、自分の意思表示や、
    異なる意見の人たちに対して、異を唱える権利の事である筈が、どこで
    間違ったのか、『誹謗中傷を助長する権利』、または、『無責任に何でも
    言える権利』にまで成り下がっています。

    5cf5c337

    東日本大震災が起きた際にも、欧米系のメディアは、一切に大袈裟な報道を
    しましたが、それは、自分達からは遠く離れた話であり、特に自分達には、
    そのしっぺ返しが返って来ない事が大前提となっており、今回のフランスのみ
    ならず、ドイツや、アメリカの報道にも、未確認な情報が多々見受けられました。

    『美味しんぼ』騒動の際にも、『表現の自由』云々の騒動が起こりましたが、
    不確定要素を大袈裟、または、それをさも事実のように述べるのは、
    『表現の自由』などでは、決してなく、単なる『デマ』です。

    『表現の自由』が何でもまかり通るのであれば、今度は、それを受け取る側が、
    自分の頭を使って、それらの情報を正しく選別すべきです。 そもそも、
    感情的にものを述べている人のところには、同じレベルの人間しか集まりません。
    よって、『同属嫌悪』同士での応酬合戦となり、いつまで経とうが、話が先に
    進まなくなります。

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    異なる意見や文化の人たちに対して、敬意のない『言論の自由』は、単に
    差別でしかありません。 まず、相手に対して、敬意を示さない限り、
    自分も完全に同じ扱いを受けます。 これを因果応報と言います。 自分の
    権利だけを主張する人は、まず、相手を認めない限り、自分の権利も当然
    認められません。

    『表現の自由』は、弾圧や、いじめ等々を受けている側が保障されるべき
    ものであり、逆に弾圧や、いじめを行っている側に、そのようなものが堂々と
    保障されてしまうと、ますます勢いに乗るため、むしろ、ある程度、規制を
    入れてしかるべきもの。

    その明確は判断は、やはり、ひとりひとりの意識に寄るところが大きいの
    ですが、道徳力の欠如と、差別の助長は、必ず比例します。 そもそも、
    自分以外の人間は、全員異なるという意識がない人の場合は、他人を受け入れる
    事すら困難なため、それを政治家に利用されると、歪んだ『愛国主義』へと
    容易に発展するため、ますます扱いづらいものへと変貌します。

    Charlie


    自由には、責任が伴うという事を忘れてしまうと、このような事態になると
    言う事を、まざまざと見せ付けられたのが、今回のフランスでの事件だと
    思います。 テロ行為や、殺人行為は、もちろん、非難されるべきですが、
    その原因を作ったのは、逸脱した過激な『表現の自由』であるため、それを
    保障しろと言われても、お門違いも甚だしいと思います。 

    ヨーロッパでは、『エゴイスト』が多く、東ヨーロッパでは、『ファシスト』が
    多いので、個人主義と全体主義が過剰反応したものが、フランスとウクライナの
    事件であるとも言えます。

    むしろ、日本の場合は、『事なかれ主義』が花盛りであるため、一切何も言わない、
    言わせない、監視社会へと変貌を遂げております。 よって、フランスよりも、
    日本の方が、『表現の自由』が保障されてしかるべき。 中央メディアに至っては、
    既に、『表現の自由』すら一切ありません。 日本の情報公開度は、既に地に
    落ちています。

    日本とフランスとでは、完全に両端を行っているため、どちらに傾き過ぎても、
    問題だらけです。 このような状況を防ぐためには、何でも情報を鵜呑みには
    せずに、自分の頭で考え、何が正しくて、何が間違っているのか、正しい情報を
    元に、正確な判断を下す事が非常に重要になってくると思います。

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    В эти дни, в Германии и во Франции везде проходят протесты, чтобы больше
    не приехать иностранцы туда, особенно мусульманы, но одновременно им нужно
    экономически активное население, так как им нуждаются длинные отпуска.
    Это полное противоречие. 

    Они хотят отдохнуть но одновременно хотят еще зарабатывать деньги, так что
    им все равно нужные дешевые рабочие. Эти протесты можно сказать просто
    дискриминация против муслиманов.



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    フランス政府が、本年度より、日本を『渡航注意国』に指定した。 最新情報によれば、
    昨年、代々木公園で発生した、『デング熱』によるもの。 親日国のフランスが、日本を
    渡航注意国に指定するのは、かなりのリスクを伴うと思われますが、それでも、あえて
    指定をしたと言う事は、日本国民もそれなりの覚悟が必要なのか?

    ミシュランガイドをひも解くと、本場、おフランスを除いた、星の数では、日本が一番との
    事だが、ミシュランも、大幅な改定を迫られそうだ? やはり、大袈裟大国、おフランスの
    情報は、余りあてにしない方が、賢いと思います。

    『Pays sensibles』(ペイー・ソンシーブル)とは、元々は、『Pays à risque』危険国という
    名称だったものをオランド大統領が、『そんな呼び方は当該国に失礼』という理由により、
    名称が変わったもの。

    27-05-2013_JAPON-FCV_chartee_web_copie_cle8d163f-1

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