横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    カテゴリ: 西ヨーロッパ

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1328年にフィリップ4世の後継者、シャルル4世は、後継ぎが居ないままに
    死去した。 シャルル4世のいとこ、ヴァロフ家のフィリップが王位に就き、
    フィリップ6世としてヴァロワ朝の第1代となる。 ところが、イギリス王
    エドワード3世は、フランスのカペー朝フィリップ4世の直系だから、イギリスと
    フランスの両方を統治する資格があるとフィリップ6世の王位継承に意義を
    申し立てて、実力行使に出た。 エドワード3世は1337年、ノルマンディーに
    侵攻し、100年以上続く戦争に火がついた。

    百年戦争が始まると、イギリスの勝利が続いた。 1348年にマルセイユで発生
    した黒死病(ペスト)のため、フランスの戦力は低下した。 港に入る船に
    住むねずみが、ヨーロッパ中に疫病を伝染させていたのだ。 数年間でフランスの
    住民の3分の1近くが疫病で死んだ。

    14世紀後半は、不安、病気、戦争の時代だった。 物価は高騰し、兵士たちは、
    群れを成してフランス国内で略奪を働いた。 フランス国王ジャン2世は、
    イギリスに捕らえられ、フランスはその釈放のため巨額の身代金を支払った。
    もうひとりの国王シャルル6世は、精神異常をきたしながら、42年間も王位に
    就いていた。

    1415年に、イギリス国王ヘンリー5世が、カレー港近くのアザンクールで
    フランス軍を破った後、フランスの大半はイギリスの手に落ちた。 1422年に
    シャルル6世を継いだシャルル7世は、領土を持たない国王だった。 イギリス軍が
    田舎を占領している間、都市から都市へ移動ばかりしていた。

    athgtake

    フランスが悲惨のどん底に落ちていた1420年に、ロレーヌ地方の農家の娘、
    ジャンヌ・ダルクが現れる。 天使の教えに従ったと主張して、シャルル7世の
    宮廷に来たジャンヌは、百年戦争の行方を変えた。 カトリック教会と王に
    対するジャンヌの献身的な愛情は、フランス兵を奮い立たせ、ジャンヌ自身も
    軍隊を率いて、1429年に、オルレアンを包囲していたイギリス軍を粉砕した。

    オルレアンの戦いの後、イギリスの侵略軍は次々に破れ、海岸まで押し戻された。
    だが、ジャンヌは、イギリス軍に捕らえられて処刑されたが、フランスの抵抗を
    表すひとつの象徴となった。

    最後にシャルル7世は、イギリス軍を殆んどフランスから追い払い、百年戦争は
    1453年に終わった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

    1604094

    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

    imggfd1

    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

    poegffty52

    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    オーストリアは、1774年に、全国民を対象とする無料の公共教育制度を発足
    させた。 識字率、つまり、読み書き出来る成人の割合は、99%に達している。

    オーストリアの義務教育は6歳からの9年間で、4年間の基礎学校を終えると、
    中学校と一般教育中高等学校の2つのコースに分かれる。 授業は月曜~土曜日の
    午前8時~12時、または午後2時までとなっており、義務教育の間は科目が決まって
    いるが、6年生からは外国語、コンピュータ、宗教、生物実験、ダンス、チェス等の
    選択科目がある。 学校教育の最初の4年間は、フォルクスシューレ(公共の
    小学校)で行われる。 フォルクスシューレを卒業した後、一部の学童は8年制の
    中等学校で教育を受ける。

    wakayamag01

    年齢が18歳位になると、入学試験を受けて大学に入る。 その他の学童たちは、
    フォルクススシューレ卒業後、4年制のハウプトシューレに進学し、その後、更に
    4年間、技術研修所、または、職業訓練所で研修を重ねる。 研修所の中には、
    大学進学の道が開かれているものもある。

    オーストリアの教育施設の中で最も規模の大きいのは、ウィーン大学で、現在
    約3万人以上の学生を擁している。 創立は1365年で、ドイツ語圏で最も古い。
    法律、医学、実業、文学、美術等、多くの専門課程がある。 24歳以上の労働者
    には、成人教育センターでの教育の道が開けている。

    51VUpSIujjLjpg

    【言語と文学】
     殆んどのオーストリア国民は、ドイツ語を使っている。 但し、この国のドイツ語
    には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドにはハンガリー語を
    話す人達もいる。 ケルンテンに住む2万人のスロベニア人の多くは、スロベニア語を
    使う学校に子供を通わせている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

    071951205b8

    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フランス北部の平野を流れるセーヌ川沿いにあるパリは、10世紀以来、フランスの
    首都となって来た。 パリとその周辺地域を合わせた首都圏の人口は、国全体の
    約6分の1の870万人となっている。 中央政府の所在地であるパリは、国の金融と
    教育の心臓部でもある。

    市内には世界最大のルーヴル美術館など、美術館が沢山あり、芸術家や観光客を
    引き付けている。 一般のパリ市民は、観光産業、銀行業、コミュニケーションなど
    サービス産業に従事している。

    gfhj5af1

    パリ市内の多くの建物は、フランス帝国が絶頂期にあった18世紀と19世紀に建て
    られたもの。 19世紀にフランスの芸術家たちは、狭くて混雑の酷いパリの街路を
    幅の広い大通りに設計を変えた。

    これらの魅力ある素晴らしい大通りは、ショッピング、娯楽、住宅などの様々な
    建造物を保護するために、摩天楼のような高層ビルは、市の中心部から離れた
    ところにしか建設が認められていない。

    パリでは人口と商業活動が極狭い地区に集中しているので、ところによっては、
    混雑と騒音が甚だしい。 交通混雑と環境汚染がパリ中心部で深刻な問題となって
    いる。 政府は、企業や新しく建設するビルは、パリを取り巻く郊外に移す努力を
    している。

    seespots

    【その他の主な都市】
    フランス第二の都市は、リヨン(人口約120万人)で、2000年以上に渡って
    重要な都市となって来た。 ローヌ川の流域のちょうど真ん中にあるリヨンは、
    フランスの化学産業の中心地となっている。 また、繊維と自動車の生産でも
    重要な街でもある。 1983年には、パリとリヨンを結ぶフランス最初の超特急
    TGVが開業した。

    マルセイユ(人口90万人)は、フランスの最も重要な港であり、フランス第三の
    都市である。 自然の良港なので、約2600年前に古代ギリシャが植民地化した。
    市内には移民が大勢住み付き、世界中の船が港に停泊している。 色とりどりの
    ビル、活気溢れたが街路、ヤシやシュロが縁取る大通りもマルセイユの魅力と
    なっている。

    トゥールーズ(人口35万人)は、南西部のガロンヌ川沿いにある。 フランス
    航空産業の本拠地となっている。 また、ヨーロッパの宇宙計画に参加している
    企業も進出している。 エレクトロニクス、化学、食品加工の会社もある。 市の
    中心部の建物は、珍しい色付きの石材を使って建てられている。

    地中海の港町ニース(人口34万人)は、イタリア国境際、アルプスの麓にある。
    夏には、フランス内外から大勢の観光客が、美しいホテルや広々とした浜辺、
    余り暑くないからりとした気候を求めてやって来る。 ニースには、香水、
    オリーブ油、石鹸、セメントの工場もある。 ニースは、リヴィエラの中心都市
    となっている。

    フランスの各地方の中心都市となっている他の都市は、大きな川の流域で発展して
    来た。 例えば、ボルドーは、アキテーヌを流れるガロンヌ川沿いにあって、
    フランスワインの中心である。 ライン川沿いのストラスブールは、ヨーロッパの
    他の地方との河岸貿易の拠点となっている。 イギリス海峡に面した海岸には、
    カレー、ルアーブル、シェルブールの港がある。 これらの港には、出入りする
    漁船、貨物船、客船によって、イギリスと結び付いている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    英ロンドン西部の24階建て高層住宅で14日未明に発生した大規模火災で、近隣
    住民らは、安全性への懸念が以前からあったにもかかわらず、富裕層が住む地域
    ではないため無視されてきたと、憤りをあらわにしている。

    火災が起きたグレンフェル・タワーの入居者団体の元会長、ダミアン・コリンズ氏は
    AFPの取材に対し、住民らは昨年完了した同タワーの大規模改装の対処について
    地元議会に苦情を申し立てていたと説明。「私たちは、実際に悲劇が起きないと
    皆の目は覚めないし、ビル管理者が責任を問われることもないと言っていた」と
    述べた。

    ansdieour

    コリンズ氏によると、入居者らは建物内の火災非常口が足りないことを特に懸念
    していた。 また、暖房と照明システムにも欠陥があり、改善を求める2015年の
    請願書に住民の90%が署名したが、それも無視されたと述べた。

    グレンフェル・タワーは1974年建築のコンクリート製高層ビル。昨年、総額870万
    ポンド(約12億円)の改装を終えたばかりで、住民はこの改装の際に使われた
    新たな外装材が火事を広げた原因となったと批判している。

    近隣住民の男性(46)は、同地域の住民は自力に頼ることが習慣になっている
    と語る。 男性は住民が過去に何度も苦情を申し立てていたことを指摘し、
    「もしこれが(高級地区の)ナイツブリッジ近くで起きていたら、既に解決し、
    問題にはならなかっただろう」と述べた。

    この建物は公営住宅として造られた。大部分が高級地区となっているケンジントン&
    チェルシー王立区内の労働者階級地域に位置するが、同地域は急速に高級化
    している。

    住民団体「グレンフェル・アクション・グループ」のメンバーで、自身も長い間
    苦情を申し入れ続けていたというエディーさん(55)はAFPの取材に対し、
    タワーの基礎構造に特に懸念を抱いていたと説明。この構造により、消防車の
    通行が阻害されたと主張した。

    「これは大量殺人であり、責任者はこのコミュニティーに対する扱いについて、
    裁判にかけられるべきだ」(エディーさん)

    出典: AFP

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ家王朝時代に教会や修道院で演奏
    された宗教的ナ賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガーたちの叙事詩は、
    各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者たちの人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けて、ドイツの音楽家たちがオーストリアへ来て、合唱団や
    楽団の指揮を執った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、オーストリアの
    作曲家たちは、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合させて、
    ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族たちの後援を受けて、ウィーンその他の都市で盛んに
    なった。 富裕な貴族エステルハージ公の音楽指揮者だったヨーゼフ・ハイドンは、
    管弦楽やソナタを数多く書いた。 彼は生前に多数の作品の楽譜を出版し、
    ヨーロッパで最も有名な作曲家の1人となった。 こうしてクラシック音楽は誕生
    した。



    モーツアルトは幼少時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、優れた歌劇、
    管弦楽、器楽などを含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の作品の多くは批評家
    たちに賞賛されたが、演奏家や歌手たちにとってモーツアルトの作品は演奏し
    にくかった。 生活苦と戦いながら、モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(1770年~1827年)は、ドイツ生まれ
    だが、成人してからの生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートーベンは、
    作曲とピアノ演奏で、ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の
    絶頂期に聴力を失い始めた、聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った
    後も、表現力豊かで力強い音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家たちに
    影響を与えた。

    フランツ・シューベルト(1797年~1828年)は、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を
    数百曲も作曲した。 彼の作品の中で最もポピュラーなのは、ピアノ伴奏付きの
    歌曲、リートである。



    グスターフ・マーラーとアントン・ブルックナーはどちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。 ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・
    ワルツを多数作曲し、父は『ワルツの父』、息子は『ワルツ王』と呼ばれた。
    フランツ・フォン・ズッペとフランツ・レハールは、オペレッタの作曲家で、
    彼らの作品は、今でもウィーンでは人気が高い。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ヨーロッパでは、日本人とドイツ人は、良く似ていると比較されることが多い
    のだが、日本人とフランス人の場合はどうなのだろうか? 余り共通点がない
    ようの思われる両民族なのだが、真逆とまでは行かないが、ほぼそれに近い。

    仕事に対する情熱に関しては、完全に真逆と言っても過言ではなく、フランス語
    には『頑張る』という表現が存在しないことからも分かる通り、あくまでも無理を
    しないのがおフランス流の働き方。 上司よりも先に帰宅することに関しては、
    誰も罪悪感を持っていないばかりではなく、仕事が暇な時には、日本人のように
    わざわざ仕事をしている振りをしなくても良いため、ストレスという観点から見た
    場合でも、フランスの職場は、かなり楽かも知れない。

    有給休暇の消化率は、常にほぼ100%、職場でも常に次のバカンスの話ばかりして
    いるフランス人から見た日本の職場は、一体どうなっているのだろうか? ろくに
    有給休暇すら取れず、その有給を消化出来ないのであれば、企業側がその休暇を
    買い取るべきなのだが、そのような気の利いたシステムを導入している日本企業は
    非常に少ない。

    gjnhic3

    仕事に関する情熱ばかりではなく、特に違うのは、転職に関する意識で、何十年も
    同じ職場に居座り続けるのは、フランスではあり得ない。 少しでも給料や条件が
    良い企業があれば、さっさと乗り換えるのがフランスでは常識なのだが、日本の
    場合は、転職自体が悪とされてしまうため、転職でキャリアアップなどという
    考え方は、そもそも存在しない。 むしろ、転職の回数だけ、社会を裏切って来た
    と拡大解釈をされてしまうため、日本企業での転職ほど命取りなものはない。

    フランスでは、仕事などではなく、愛情や家族に重きが置かれているため、皆定時
    ピッタリで帰宅し、その後は、それぞれの自分の人生を楽しむのが普通なのだが、
    そのため、フランスでは先進国の中でも、最も出生率が高く、先進国では深刻に
    なるつつある人口減少社会に一石を投じている。 総じて、時間的な余裕があれば、
    当然、私生活も幸福になれる訳で、日本のように、会社に人生まで奪われてしまう
    社会の方が異常だと言える。

    特に、40代を過ぎてからの日本社会の扱いは酷く、転職出来ない、恋愛出来ない、
    更には、人生を謳歌出来ないと、3重苦の様相を呈しているのだが、それでも誰も
    文句ひとつすら言わずに大人しくしていられるのは、洗脳教育の賜物としか言い様が
    ない。 政治もダメで企業はブラックばかり、アジアの中でも衰退が激しい日本の
    未来に楽観的な見方をするのは容易ではないが、日本人も少しはフランス人を
    見習って、自分の人生を歩んで見た方が良いと思う。

    600400

    また、フランスでは、黙っていれば、文句も異議も無い、最悪、何も考えていない
    バカと思われることもあるため、非常に自己主張が強い国民性と言える。
    基本的に、フランス人は、非常におしゃべりで、相手の意見を全て否定するのが
    フランス流の話し方であり、単にはいはいと何でも相手を受け入れることしか
    しない日本人の場合は、フランスでは、人の話を聞いていないとしか思われない。
    逆に、日本人の場合は、人前で自己主張どころか、自分の意見を述べただけでも
    平気で村八分にされたりと、自己主張やコミュニケーション方法に関しては、完全に
    真逆な思考回路を持っていると考えて間違いない。

    フランス人は、総じて、余り細かいことには固執せずに、おおらかな性格だと
    言われているのだが、それは、日常の生活で不便を感じることが多く、我慢強い
    ためと思われる。 日本の場合は、今日注文した品物が明日届かなければ、即座に
    クレームとなるため、輸送業界のブラック化が叫ばれて久しい。 余り害にならない
    程度の不便さであれば、むしろ、忍耐力を鍛えるという意味でも、歓迎すべき事柄
    なのではないだろうか。

    フランスでは、しっかりと仕事さえしてれば、政治家が不倫や略奪愛をしたとしても
    誰も特に口出しをしないのだが、日本の場合は、政治家がまともに仕事をしなく
    とも、誰も何も言わないため、悪徳政治家にとって、日本はかなりの天国となって
    いる。 むしろ、そのような場合にこそ、国民が政治家に対して、目を光らせる
    べきなのではないだろうか?

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ドナルド・トランプ米大統領は2017年5月30日、アンゲラ・メルケル独首相が
    米国を批判したことを受け、ドイツの貿易戦略や防衛費について新たな批判を
    展開し、欧米間の外交上の溝が更に深まる動きとなった。

    先週、大統領就任後、初の公式外遊に臨んだトランプ大統領は、ベルギー・
    ブリュッセルと伊シチリア島でそれぞれ開催された北大西洋条約機構(NATO)と
    先進7か国(G7)の首脳会議において、各国から非難を浴びせられ、挙句の
    果てには、モンテネグロの首相を押し退けて、写真撮影の最前列に出るという
    暴挙により、世界中から非難をされて欧州を去っていた。



    今回の会談で、特に欧州各国首脳が失望している点は、トランプ大統領が2015年に
    締結された温暖化対策の国際的な枠組みである『パリ協定(Paris Agreement)』に
    対する支持への意向表明を拒んだこと、またNATOの集団自衛権の支持を公に表明
    しなかったところで、特に、ドイツのメルケル首相は、会談中にも非常に強い不満を
    感じていたようだ。

    つい最近まで欧州諸国の中では米国と最も密接な関係にあったドイツだが、両国の
    溝の修復は難しく、メルケル首相は、会議後直ちにドイツ国民に対し、『米国はもう
    以前のように頼りに出来ない』とトランプ氏をバッサリと切り捨てていた。



    これを受けてトランプ大統領は、5月30日早朝、自身のTwitte投稿を用いてドイツに
    対し、大西洋間貿易の条件の再交渉や、防衛費引き上げを要求。 『米国はドイツに
    対して巨額の貿易赤字がある。 その上、ドイツはNATOや軍事への拠出が少な
    過ぎる。 米国にとってとても悪いこと。 これから変わっていくことになる』
    と自ら書き込んだ。

    これに対してドイツ当局は、欧州連合(EU)加盟国という立場から、貿易に関して
    米国と二者協議は出来ないこと、また軍事費を大幅に増加させることも時期尚早
    であると主張した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アンゲラ・メルケル独首相は2017年5月28日、ドイツ南部ミュンヘンでの
    選挙集会で、英国の欧州連合(EU)離脱やドナルド・トランプ米大統領の就任で
    欧米の同盟関係に亀裂が走る中、欧州は『その運命を自ら握らねばならない』と
    訴えた。

    9416940645_n

    『われわれが他国を完全に頼りに出来た時代は終わりつつある。 私はそれを
    この数日間で経験した』。 聴衆に向けてこう述べたメルケル氏は、ドイツも欧州も
    米英との友好関係維持に努める一方で、『自らの運命のため闘わなければならない』
    と主張。 ドイツ政府はエマニュエル・マクロン仏新大統領との関係を強化する
    必要があると続けた。

    メルケル首相は、5月27日までイタリアで開催されていた先進7か国(G7)首脳会議
    から帰国したばかり。 サミットでは温暖化対策の国際枠組み『パリ協定
    (Paris Agreement)』をめぐり、米国とその他6か国の意見が対立し、合意に
    至らなかった。

    メルケル氏はこの『6対1』の議論の結果について『極めて不満とまでは言わないが、
    極めて困難だった』と評しており、『欧州人は自らの運命を自分たちの手に握らねば
    ならない。 自らの運命のために闘う必要があると知るべきだ』とまで踏み込んだ。

    選挙集会ででビールを飲むメルケル独首相
    RS=^ADB

    トランプ大統領は、サミットで温暖化対策の国際的な枠組み『パリ協定』について
    他の6カ国と対立した他、自由貿易やNATOの費用負担、難民問題をめぐっても
    欧州との摩擦が生まれている。 ドイツとアメリカの対立は深まっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    つい最近、フランスでは、史上最年少の大統領が誕生したばかりだが、その妻は
    何と!24歳も年上の元中学校の恩師ということでも話題を振りまいた。

    現在のフランス共和国大統領は、フランソワ・オランド氏だが、その妻とは、
    婚姻関係のない属に言う『事実婚』となっている。 それでも外交上、何の支障も
    なく大統領としての仕事を全うしているのだが、元々、オランド氏の前妻も事実婚
    だった政治家のセゴレーヌ・ロワイヤル氏で、前回の大統領選挙でサルコジ氏に
    敗れている野心家。

    f4d92335639

    その前妻と現在の妻との確執が取り沙汰される中、オランド氏は、41歳の女優
    ジュリー・ガイエとの関係を暴露された。 どうやら2年も前から関係があったと
    言われているのだが、これには、大統領自身も『プライベートな事情だ』として
    態度を保留している。 一方のフランス国民は、『70%が政治とは関係ない』と
    至って冷静。 フランスでは約50%が離婚を経験しているため、不倫に関しては
    非常に寛容な国。

    c61d77473

    その前の大統領であるニコラ・サルコジ氏は、ヨーロッパで最もスキャンダラスな
    大統領とまで言われたが、42歳の美人環境大臣との不倫騒動がインターネット上を
    飛び交った後、最終的には、3度目の結婚相手として、スーパーモデルで歌手の
    カーラ・ブルーニを選んだ。 そのカーラ自身も年下の歌手との不倫の果てに
    サルコジ氏と夫婦となった。 

    219381361a

    その前の大統領であるジャン・シラク氏は、金銭的なスキャンダルの他にも、
    日本人の愛人の間に子供がいた。 更にその前のミッテラン大統領は愛人、子供達
    との二重生活を公然と続けていたが、国民からは熱い支持を受けていた。

    総じて、フランスでは、恋愛も政治も一流でなければならないという逸話がある
    のかは分からないが、こと恋愛に関しては、かなり寛容な国民性であることは
    間違いない。 日本では、フダブル不倫や、本妻と愛人との二重生活を送っている
    大臣が許される訳もなく、即座に退陣を要求されるに違いない。 寛容性も必要
    なのだが、不倫に関しては、倫理に反しているため、ある程度の罰則は必要なの
    ではないだろうか?

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ