東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ: 西ヨーロッパ

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    南フランスの地中海に面した都市ニースの東側にモナコがある。 面積は約2k㎡で
    世界で2番目に小さい国である。 ここには3万2,000人が住んでいる。 気候は
    温暖な地中海性気候で海岸沿いにはぶどう、オリーブ、いちじく等が育っている。
    国土は全体的に山がちで、三方をフランスに囲まれている。 住民の半数近くは
    フランス人で、モナコ人は2割に満たない。 公用語はフランス語となっている。

    モナコはかつてジェノバ出身の貴族によって統治され、中世にはジェノバの
    支配下に置かれていた。 その後、スペインやフランス等によって守られて
    いたが、1861年に独立しフランスの保護下に入った。 この頃からモナコは
    避暑地として注目され、公営カジノが開かれ、観光地として発展を始めた。
    1911年には立憲君主制に改め、憲法を制定した。 1918年にフランスとの間で
    外交・軍事に関する条約を結び、2005年までは外交や大公の即位にはフランスの
    同意が必要だった。

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    【世界中から集まる観光客】
     『地中海の宝石』とも言われるモナコは、古くから貴族や裕福な人々の保養地
    であり、今日も世界でも有数の高級リゾート地として人気が高い。 豪華な
    ヨットや地中海を巡るクルーズ船等が停泊する港湾地区は、ブランド店や販売等の
    商業地区となっていて、買い物客で賑わっている。 モナコの国家財政は観光
    収益や美しい切手の販売等でまかなわれているため、住民の所得に税金が掛から
    ない。 そのため、近隣のフランスやイタリアだけでなく、世界中の富豪も集まる。

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    モナコを代表するものと言えば、カジノとモナコグランプリである。 モナコに
    いくつかあるカジノのうち最も大きなグラン・カジノは、ステンドグラスや彫刻等の
    美しい装飾が施された豪華な建物で、夕方になるとドレスやタキシードを着た人々が
    集まり、夜遅くまでスロットやルーレット等のゲームが繰り広げられる。 毎年
    5月頃に開催される自動車のF1レースであるモナコグランプリは、カジノやホテルが
    建ち並ぶ狭くてカーブの多い市街地を走り抜け、すぐそばでレースを観戦出来るため
    観光客の人気を集めている。 この時期のホテルは満室になり、コース沿いにある
    高級リゾートホテルの部屋からの観戦も人気が高い。

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    1914年になると、協商と同盟の2つの国家グループが、ついに衝突した。
    フランス、イギリス、ロシアは、ドイツ、オーストリアと直ちに戦争に入った
    (イタリアは三国協商側についた)。 ドイツ軍はベルギーを横切ってフランスに
    侵入したが、戦闘は行き詰った。

    4年にも及んだ戦争で、双方共決定的な勝利をあげられなかった。 1918年に
    なって、イギリス、アメリカ、および、フランスの連合軍が、やっとドイツ軍を
    撃退することが出来た。 1918年11月11日、ドイツは降伏した。 フランス
    北部一帯は戦争の損害を受け、フランス国民の死者は150万人近くにのぼった。

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    【両大戦の間】
    ドイツは、1919年に調印されたヴェルサイユ条約によって、アルザス、ロレーヌの
    両地方をフランスに返した。 条約はまた、戦争の被害について、ドイツが巨額の
    賠償を支払うことを要求した。

    再びヨーロッパで戦争が起きるのを避けるために、フランスは1928年に多くの国と
    ケロッグ=ブリアン条約(ケロッグ不戦条約)を結んだ。 フランス政府は軍隊を
    再建し、東方からの侵略を防ぐために、ドイツ国境沿いにマジノ・ラインと
    呼ばれる要塞線を築いた。

    世界大恐慌が1932年にフランス経済を襲うと、失業が増え、工場は閉鎖され、労働
    組合員によるストライキと暴動が起きた。 不満を抱えた多くのフランス国民は、
    急進社会党、社民党、共産党による人民戦線に参加した。 人民戦線派は1936年の
    総選挙で勝ち、下院の多数派を占めた。

    レオン・ブルムを首班とした人民戦線内閣は、週40時間への労働時間短縮等労働者の
    要求の多くを認めた。 ブルムはまた、ドイツの軍事脅威の高まりに直面していた。
    1933年以来、ドイツはアドルフ・ヒトラーを指導者として、工業を再建し、新しい
    戦車、航空機、軍艦を生産していた。

    フランスは第一次世界大戦の後20年間、イギリスと密接な関係を保って来た。
    だが、両国の力だけでは、1938年のヒトラーによるオーストリアのドイツ併合や、
    1939年のチェコスロバキア侵略を阻止出来なかった。 フランス、イギリス両国
    政府は、ヒトラーに侵略した土地の保有を許して、戦争を防ごうと試みたが、この
    戦略は失敗した。 1939年夏、ドイツ軍の戦車、航空機、および、歩兵軍は、
    イギリスとフランスの同盟国ポーランドを電撃的に征服してしまった。 同年9月、
    第二次世界大戦が勃発した。

    【第二次世界大戦】
    1940年5月、ドイツ軍戦車がフランス北部に侵攻した。 数週間でパリは陥落し、
    フランス政府は6月17日、和平を求めてドイツと休戦協定に調印した。 フランスが
    降伏した時、フランス本土は分断され、3分の2がドイツ占領地域になり、残り
    (南部と南東部)がヴィシーに本部を置くアンリ・ペタン首相のフランス政権に
    管理が委ねられた。 ヴィシー政権は、ドイツ占領軍に何の抵抗もしなかった。

    他方、フランスのシャルル・ドゴール将軍はイギリスに亡命して自由フランス運動を
    はじめ、ドイツ占領軍と戦おうと全フランス将兵に訴えた。 フランスの国内では、
    海から連合軍が侵入するのを防ぐため、北西部海岸に陣地を築いたドイツ軍に
    対して、地下抵抗運動家達が秘密闘争を繰り広げた。 連合軍の主力はイギリス、
    アメリカ、カナダだった。 1944年、カナダ、アメリカ、イギリスの連合軍は、
    イギリスに集結して、フランス海岸からヨーロッパ大陸に反撃する準備を整えた。

    1944年6月6日、連合軍はノルマンディー海岸から上陸し、8月26日にパリを
    開放した。 ドゴール将軍はパリに戻り、政府を組織した。 1945年5月、ドイツが
    降伏すると、ドゴールは第4共和制を敷き、初代大統領になった。

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    平和になっても、フランスは国王支持の王党派と下院(国民議会)を支える共和派に
    分裂していたが、ナポレオン戦争の荒廃から、次第に立ち直った。 ルイ18世の後、
    1824年に国王になったシャルル10世は、中央集権制度を強化し、参政権など多くの
    個人の自由を制限した。 下院を解散して選挙法を改正しようとしたため、1830年
    7月に3日間、パリで革命が起き、シャルル10世は王位を追われた。 下院は
    ブルボン家のルイ・フィリップを新国王にした。

    ルイ・フィリップ国王の治世下で、フランスは工業化が急激に進んだ。 経済は、
    新しい工場や製造技術によって変化した。 労働者は、村や農場から大都市に移って
    来た。 政府は、鉄道や学校を建設した。 だが、王政は労働者に参政権を与える
    ことを拒否した。

    1846年に経済不況になると、都市では人民の代表を選出しようとする気運が
    高まった。 1848年に、パリで街頭デモ行進が行われると、暴動が広まった。
    反乱者は憲法も国王も葬り、共和派の指導者は第2共和制を打ち立てた。

    1848年2月の革命の後、社会改革を一層推し進める要求が続き、都会の暴動は
    日常的になった。 共和派は政権を保ち、新憲法を採択した。 これによって
    全ての男性市民参政権、選挙による大統領選出と1院政議会が保障された。
    ナポレオン・ボナパルトの甥のルイ・ナポレオンが最初の大統領選挙で勝ったが、
    議会が大統領の権限を制限するのではないかと恐れて、憲法を廃棄して自ら
    皇帝ナポレオン3世を宣言し、第2帝政の時代となった。

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    【第3共和制】
    ナポレオン3世は経済開発を進めた。 諸外国との貿易を奨励し、田舎や都市での
    公共事業計画を認可した。 フランスに限らず、ヨーロッパではこのようにして
    工業化が進んだ。 他方、プロイセン(現在のドイツ)は近代陸軍を創設、幾つかの
    ドイツ民族国家を統一して強力な帝国を築こうとしていた。 この脅威を防ぐため、
    フランスは1870年にプロイセンに宣戦を布告した。 フランス陸軍は初めから
    敗戦が続き、ナポレオン3世は捕虜となり、フランス軍はプロイセンに降伏した。
    この結果、フランス北東部の重要なアルザスとロレーヌの2地方をプロイセンに
    取られてしまった。

    プロイセン戦争に敗れると、フランスの官僚は第2帝政を覆し、第3共和制を
    宣言した。 だが、新政府は内輪もめして、力がなかった。 共和派と王政派の
    争いは1880年代を通じて続いたが、社会の改良は進んだ。 19世紀末になると、
    工業が拡大した。 労働者は労働組合を結成した。 政府は全ての小学校児童の
    教育を無料とし、義務化した。

    この期間に、フランスは、2つの重要な同盟を結んだ。 ロシアとの同盟
    (1894年)とイギリスとの協商(1907年)である。 ロシアとイギリスも1907年に
    同盟を結んだので、この3カ国の関係は三国協商と呼ばれた。 これは、ドイツの
    ビスマルク首相がイタリア、オーストリアとの間に三国同盟(1882年)を
    結んだ上、ドイツの軍事力が高まっていたので、ドイツと力の均衡を保とうと
    したものだった。

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    共和制が成立し、新しい議会(国民公会)の選挙が行われても、広がる不安と
    外国の侵略は阻止出来なかった。 秩序を確立し、まだ王政を支持する者を
    排除するために、国民公会の一部議員が公安委員会を設けた。 公安委員会は、
    1974年まで続いた恐怖政治の間、沢山の平民、貴族、僧侶を処刑した。 一方で、
    新政府の軍隊は外国軍を追い払った。

    1795年に国民公会は新しい憲法を制定した。 この憲法で、5人の総裁から成る
    総裁府と、2院制の立法府が置かれた。 この変革で、フランスは政治の安定を
    多少取り戻したが、更に不安と暴力は4年間続いた。 王政復古を願うフランス
    国民は、新政治体制に反対した。 総政府に不満だった王党派は、1799年に
    共和制を覆すと宣言した、若く精力的なナポレオンを支持した。

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    【ナポレオンの治世】
     優れた軍事・政治の戦略家であるナポレオンは、軍と政府を掌握した。
    ナポレオンの指令で、法律家達は国家の新たな法律として、ナポレオン法典を
    編纂した。 この法典は、言論の自由、宗教の自由、および、職業選択の自由を
    確立した。 新政府は、経済を完全に組み替えて、フィリップ4世以来続いて来た
    王宮の会計検査院を廃止し、国立中央銀行としてフランス銀行を創設した。

    再びフランスの軍事力をヨーロッパ最大のものにするために、ナポレオンは
    イタリアやヨーロッパ中部のハプスブルグ家支配の各地に攻め入って勝ちまくった。
    これらの国の支配者は、ただちに講和を申し入れて来た。 ナポレオンはまた、
    イギリスとの貿易、軍事上の紛争を解決し、ローマ・カトリック教会と宗教協約を
    結んだ。 こうしてナポレオンは、ヨーロッパ大陸を支配するフランス大帝国の
    創設を着々と計画して行った。

    ナポレオンは1804年に、自ら皇帝を宣言し、再びヨーロッパ中央部の侵略を
    始めた。 ナポレオンの敵は速やかに、フランスに対抗する同盟を結んだ。
    イギリスは制海権を握ってフランスの港を封鎖し、フランスとって重大な海外
    植民地との貿易を阻んだ。 ナポレオンのロシア攻撃は失敗し、ナポレオン自慢の
    大陸軍は崩壊した。 反仏同盟軍は1813年、ナポレオンをドイツから追い払い、
    皇帝は1814年に遂に退位した。 戦勝国はブルボン朝の王位を復活させ、ルイ
    16世の弟、ルイ18世を王位に就けた。

    ナポレオンに反抗した同盟軍は、ナポレオンをイタリア領エルバ島に流した。
    しかし、ナポレオンは1815年3月、強力なフランス陸軍を率いてフランスに
    上陸した。 同年6月18日、同盟軍はベルギーの街ワーテルロー付近に集結して
    ナポレオン軍を迎え撃って破った。 皇帝はイギリスに降伏した。 イギリスは
    今度は遠いセント・ヘレナ島にナポレオンを流した。 1821年、この島で
    ナポレオンは死んだ。 同盟諸国は平和のための最善の道として、再びルイ18世を
    王位に戻した。 また同盟軍は、民衆を抑えるために、フランスに駐留した。

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    ドイツに統合されたオーストリアは、ドイツ、イタリア、日本と共に、枢軸国として
    第二次世界大戦に加わった。 相手はイギリス、フランス、ソビエト等の連合国で、
    1941年にはアメリカ合衆国も連合国側に付いて参戦した。

    枢軸国側は何度か勝利を収めた後、敗北を重ねた。 連合国側の飛行機は
    オーストリアを爆撃し、1945年にはソビエト軍がオーストリアに侵入した。
    1945年に戦争は終結したが、戦闘によってオーストリアの多数の都市と産業が
    打撃を被った。 イギリス、アメリカ、フランス、ソビエトの軍隊が領内に駐留し、
    オーストリアを4つの占領地域に分割した。

    第二次世界大戦直前のヨーロッパ
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    カール・レンナーを首班とする臨時政府は、オーストリア第2共和国を創立した。
    政府は各政党の連立によって運営された。 社会党(元の社会民主党)、人民党
    (元のキリスト教社会党)、共産党の3党である。 この連立政府は1960年代まで
    政権を維持した。 共産党はソビエトとの関係が密接だったが、1940年代以降、
    その勢力を失って行った。

    戦後のヨーロッパは東西の両ブロックでに分裂した。 東側ブロックはソビエト
    連邦の影響下に置かれ、西側ブロックでは、第二次大戦に勝った、イギリス、
    フランス、アメリカの3国が主要な地位を占めていた。 オーストリアは
    ヨーロッパの中央部に位置する上、これら4カ国全部の占領下にあったため、
    対立する東西両ブロックの間に挟まれることになった。

    外国の援助と戦後の経済計画の力で、オーストリアはその都市と産業を再建する
    ことが出来た。 労働組合、雇用者側、政府の3者は賃金と物価に関する協定を
    結び、努力して国の経済の回復を助けた。 しかし、戦後の10年間、オーストリアを
    占領している4カ国は、オーストリアとの講和条約について意見が一致しなかった。

    1955年の春、ソビエト連邦は、この国から撤退するにあたっての経済上と政治上の
    条件を明らかにした。 オーストリアはソビエト政府に戦時賠償を支払うことに
    なった。 オーストリアは、また中立政策を採る事に合意した。 将来の軍事的な
    紛争に、一切関わらない決意の表明である。 1955年5月、オーストリアは国家条約に
    調印し、占領4カ国は軍隊を撤退させた。

    1966年、人民党が国民議会の多数党となった。 1970年の総選挙の結果、社会党が
    ブルーノ・クライスキーの下で政権を獲得した。 社会党は1975年と1979年の
    2回の総選挙にも勝利を収めて政権を維持した。

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    ポルトガル帝国が拡大するに連れ、南米ブラジルから中国大陸の沿岸マカオまでに
    広がった植民地との行き来に、船乗そのものをますます多く必要とするように
    なった。 船の難破、疫病、あるいは、ポルトガルの権益そ認めようとしない
    地元民との戦い等で多くのポルトガル人男性が死んで行った。 1500年代末まで
    には、遠隔の領土がポルトガルの財政と国民にとって重荷になって来たのである。

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    加えて、ポルトガルはローマ・カトリックの信仰を広めようとしたため、ポルトガル
    新領土や本国の非キリスト信仰者を動揺させることになった。 キリスト教会は、
    イベリア半島の人々、特に、イスラム人とユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと
    した。 キリスト教会は、更に、異教を禁じてしまおうと考えた。

    ローマ・カトリック教会は、異教、ないし、非キリスト教的信仰の疑いのある者は
    全て罰しようとし、異端審理のための宗教裁判所を作った。 冷酷な措置と厳しい
    裁判のため、一部のポルトガル人キリスト教徒さえも含む多くの非キリスト教徒達が
    異端のそしりを受け、投獄、あるいは、処刑の憂き目にあった。

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    ベルギーは立憲君主の下での議会制民主主義の国である。 内閣は正式には
    閣僚評議会と呼ばれている。 実際には国王は、極めて僅かな権力しか持たず、
    主な決定は閣僚によって行われる。 首相は閣僚評議会の議長であり、閣僚評議会は
    ベルギー国会の信任がある限り、その権限を行使出来る。 国王は連立政権の成立に
    ついて大きな発言権を持ち、また首相の承認の下に閣僚評議会のメンバーを
    指名する。

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    国会は下院と上院から成り、立法権を行使する、 国会議員の選挙は少なくとも
    4年に1回行われる。 国民は定員212名の下院議員を直接選挙によって選ぶ。
    下院は上院より権限が強い。 上院議員の定員は183名で、うち106名は直接選挙に
    よって選ばれ、51人は州議会で選出され、26人は同僚の上院議員によって任命
    される。 ベルギー王位の継承者は上院議員でもある。

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    ベルギーの司法制度の最高法廷は最高裁判所である。 最高裁判所の裁判長は、
    内閣によって専任される。 高等裁判所は州レベルで職務を行い、民事および
    刑事上の大きな事件を扱う。 高等裁判所は、ベルギーでは唯一の陪審法廷である。
    上訴院は地方裁判所の事件の再審にあたる他、公務員の犯罪の審理にあたる。
    地方裁判所は治安判事を裁判長として、比較的、重要度の低い民事および刑事の
    事件の審理にあたる。

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    ベルギーの3つの地域圏、フラマン、ワロン、ブリュッセルは、それぞれの地域圏の
    人々によって選ばれた強力な政府を持っている。 地域圏の指導者達は経済、社会、
    行政上の事柄については大きな権限を持っているが、ベルギーの9つの州政府内では
    公務員と協力している。

    各州にはそれぞれの議会と知事が居て、知事は閣僚議会によって専任される。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んでカール1世が
    皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は経済状態の悪化に抗議した。
    中央政府の弱体化に連れて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人等が次々とオーストリアから独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツと共に遂に連合国側に降伏した。
    降伏後、カール1世は退位し、600年以上に渡ったハプスブルグ家の支配は
    終わった。 社会民主党の指導で、臨時国会が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれて、共和国の現在の
    国境が画定した。 この条約はまた、ハンガリー、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

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    オーストリアの国内の不安はなおも続き、共和国の経済は少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人達は、元のハプスブルグ帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合、ドイツ語で
    アンシュルスを支持する声が、1930年代初期に高まった。 世界的な経済不況と、
    ウィーンにある大銀行の倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は
    ますます苦しくなった。 このためにアンシュルス運動はますます力を得た。

    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党、ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府にはドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を受けて
    いた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者クルト・フォン・シュシニックは
    何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーはそれでも満足せず、1938年、
    ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によってアンシュルスを成し遂げた。
    オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者とユダヤ系住民を逮捕し、
    ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。 1939年、ドイツの
    ポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まった。

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    近代化に伴ってヨーロッパでは、領土や貿易をめぐる対立が激化していた。
    この対立が戦争になりかねないことを見て取ったヴェルヘルム2世は、1888年、
    権力の座に就くと、強力、かつ、近代的な海軍の組織作りを命じた。 既に、
    ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでおり、戦争になれば協力する
    ことで合意していた。 また、ドイツの戦力を恐れたロシア、フランス、イギリスは
    後に三国協商を結成、この2つの対立するブロックは、それぞれ軍隊を整備し、
    全ヨーロッパを巻き込む戦争に備えた。

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    1914年6月、オーストリア皇太子が、ヨーロッパ南東のセルビアで暗殺されるという
    事件が起きる。 これに対してオーストリアは、セルビアに宣戦布告をした。
    一方、セルビアはロシアの同盟国であったので、三国協商の国々はセルビア救済の
    ために軍隊を終結した。 ドイツもオーストリアとの同盟の下、戦時体制を敷き、
    8月、ヴィルヘルム2世はフランスへの進軍を命じた。 こうしてヨーロッパの
    国々の対立は、第一次世界大戦(1914~1918年)へと広がって行った。

    ドイツは東部戦線でロシアを破るなど、初めは優勢であった。 ところが、
    1917年にはアメリカがイギリスなど連合国側に参加する。 また、北フランスでも
    ドイツはイギリス、フランス、アメリカとにらみ合っていたが、海上封鎖を受け、
    ヴィルヘルム2世下の軍隊にとって、次第に形勢は不利になって行った。 こうして
    1918年11月、ドイツは遂に降伏した。

    これに対し政府の政策や上官の命令に不満を抱いていたドイツの労働者や軍人達は、
    国中で暴動を引き起こした。 このためヴィルヘルム2世は退位を迫られ、
    社会民主党は新しい民主的な政府の設立を宣言することになる。 ヴェルサイユ条約
    (第一次世界大戦後の講和条約)の下、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに
    返還、プロイセンの大部分をポーランドに割譲することを余儀なくされた。 また、
    連合国はドイツに多額の賠償金を要求し、ラインラントとザール地方を占領し、
    産業を摂取した。

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    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

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    公益財団法人・日本生産性本部がOECDののデータを基に、12月20日に
    発表した結果によると、日本の2016年度の労働生産性は、主要7カ国(G7)の
    中で最低だった。 日本の労働生産性は、時間当たり46.0ドル(約4,700円)で、
    OECD加盟35カ国中20位であった。 日本は前年度から1.2%上昇したものの、
    順位は変わっていない。 データを取得している1970年以降、G7の中で日本は
    最下位の状況が続いている。

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    【労働生産性】
    労働生産性とは、従業員一人当りの付加価値額を示す指標であり、
    「付加価値 ÷ 従業員数」で表される。 投下した労働量(労働時間の量や時間に
    よって算定)とその結果得られる生産量の割合となる。

    日本でも労働時間が以前と比べると短くなったとも言えるのだが、しかし、この
    減少の理由については「労働時間が比較的短い非正規労働者の割合の上昇が
    平均を押し下げて来たため」と指摘している。

    現在、日本の雇用状況は、約4割強が非正規(パートタイマー・アルバイト)
    労働者となっており、年々増加を続けている。 実は、フルタイム社員に限定
    すると日本の1人あたり年間総労働時間は20年以上「2,000時間前後」で横ばい
    となっている。

    日本の1時間あたりの労働生産性は、20位前後で横ばいですから、極端な言い方を
    すれば「フルタイム社員の時間あたり生産性は1980年代から変わっていない」
    という表現も出来てしまう。

    総労働時間が減っているのに生産性が上がっていない理由

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    平均年間総実務労働時間のグラフを見ると一目瞭然だが、正社員の労働時間も
    短縮する動きが広がれば、「労働生産性をあげる一因にもなると考えられる」
    としている。

    レポートによると、日本と比べて、1人あたりの労働生産性と労働時間あたりの
    生産性がいずれも高い国には、デンマークやオランダ、ドイツ、フランス等がある。
    これらの国は労働時間が日本よりも10~20%程度短いが、「短い労働時間で効率的に
    成果を生み出すことで経済的に豊かな生活を実現している」とみられる。

    尚、ドイツでは1日10時間を超える労働は法律で禁止されおり、違反すると罰金が
    科される。 おもしろいのは、この罰金を支払うのは会社ではないという点で、
    最高1万5,000ユーロ(180万円)の罰金は、長時間残業をさせていた部署の
    管理職が、ポケットマネーで支払うということになるのだという。

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    日本でも、率先して無意味な残業ばかりしている上司や労働生産性が極端に悪い
    社員に対しては、何らかのペナルティーがあっても良いと思う。 日本の労働環境の
    最大の問題点は、極端に労働生産性が低い社員に限って、他人を蹴落とす能力だけは
    ずば抜けて高いというところなので、ある程度の生産性の数値を出せない人材は、
    早々に企業からは退職して貰うぐらいの覚悟がなければ、日本の労働生産性など
    何も変わりはしない。

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    ヴェストファーレン条約によりザクソン、バイエルン、ブランデンブルグ、
    プロイセンなど、ドイツの主な領邦国家は支配力を強め、これらの諸侯は、
    ヨーロッパの貿易や領土をめぐる対立において、重要な役割を果たすようになる。
    一方、ハプスブルグ家の領地は『オーストリア』と呼ばれるようになっていたが、
    その権力は次第に下降線をたどっていた。

    18世紀初頭までにホーエンツォレルン家は、北ドイツにあるプロイセン、
    ブランデンブルグ両地域を支配するようになり、無駄のない優れた政治組織と、
    強力で精鋭な軍隊を誇った。 1740年にはプロイセン王国フリードリッヒ2世
    (大王)が、ハプスブルグ家の支配下にあった、豊かな鉱山を有する
    シュレージエンを侵略、占領した。

    Preussen

    このシュレージエンをめぐる抗争は1756年、オーストリアとプロイセンの新たな
    対立に繋がり、フリードリヒ大王は、オーストリアとその同盟国ロシア、フランス、
    バイエルン、ザクセンに攻撃を仕掛けた。 この7年戦争で大きな犠牲を払った末、
    ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは1763年、講和を申し入れ、
    ブベルトゥスブルグ条約によって、プロイセンのシューレジエン条約によって、
    プロイセンのシュレージエン領有が確定した。 その後、ホーエンツォレルン家は
    北ドイツに版図を広げ、ドイツにおける最大で最強の王国に発展して行った。

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