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    カテゴリ: 東ヨーロッパ

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    • チャイコフスキー国立体育大学付属
      冬季競技専用 フェデラル トレーニングセンター
    f46968



    ⑧『スニェジンカ』  1980年創立 ペルミ地方 チャイコフスキー市

    冬季スポーツ専用トレーニングセンター『スニェジンカ』はチャイコフスキー
    国立大学付属の施設であり、クロスカントリースキー、バイアスロン、
    スキージャンプ、ノルディック複合、フリースタイルスキーの5競技の
    トレーニングに特化している。 1980年6月、チェリャビンスク州立体育協会の
    支部がチャイコフスキーに開設され、冬季スポーツ競技の強化に力を入れはじめ、
    同時に、小さな山間にスキー場が新たな建設された。 1984年と1985年には、
    全長190メートルの跳躍橋の上に70メートルのジャンプ台が建設されたが、
    1990年代はジャンプ台は使用されず、施設状態が悪化した。

    2006年から2015年度に掛けての『体育とスポーツの発展』の下、スキーと
    バイアスロンをベースにしたウィンタースポーツのトレーニングセンターとして
    再建されることが決定され、2010年に2億3,000万ルーブル、2011年には22億
    ルーブルを費やして、施設は事実上、新たに建設され、ソチオリンピック用の
    トレーニングセンターとして、ロシアナショナルチームが使用した。

    【バイアスロン複合施設】
    人工降雪機と照明機器を備えた全長4kmのバイアスロントラック、ローラースキー
    トラック、30名が1度に参加可能な射撃場、並びに、2,000人収容の観客席がある。
    施設内にはトレーニングセンター、並びに、バイアスロン研究センターがあり、
    射撃の詳細な分析が可能。

    この施設では、筋骨格系の障害を持った選手、並びに、全盲選手向けに、
    レーザーと音声を用いたトレーニング、並びに、障害者競技を開催することが
    出来る。 ローラーコースは、ロシアでも最も優れたものの1つとなっている。

    2013年11月、国際バイアスロン連合により、カテゴリВでの6年間のライセンスが
    承認されたため、2014年1月、ノルディックスキー・コンバインドの大会が
    開催された。 2017年8月には、この施設で夏季バイアスロン世界選手権が
    開催された。

    【ナショナルチームトレーニング種目】
    • バイアスロン
    • クロスカントリースキー
    • スキージャンプ
    • ノルディック複合
    • フリースタイルスキー

    • 冬季競技専用 フェデラル トレーニングセンター
    sannobobslejnaya



    ⑨『パラモノヴォ』 2008年創立 モスクワ州 パラモノヴォ村

    フェデラル トレーニングセンター『パラモノヴォ』は、モスクワ州
    ドミトロフスキー地区パラモノヴォ村に位置し、モスクワからは約40km北の
    場所にある。 2006-2015年度の『体育とスポーツの発展』の下、2008年に
    新設され、ボブスレー、ルージュ、クロスカントリースキーにおける
    ナショナルチームの強化を目的としている。

    2011年の建設当初にボブスレー、リュージュ、スケルトンの施設が建設され、
    2015年には200名が宿泊可能なホテルタイプの宿泊施設が完成、最終的には、
    ジャンプ台付きのフリースタイル用の野外施設の建設が予定されている。

    現在、この施設は、2016-2020年度の『体育とスポーツの発展』の下、
    大規模な改築工事が行われており、ボブスレーのスタート練習用として、
    屋内に100メートルのコースが建設され、改修工事終了後は、通年使用可能
    となる。

    2011年-2012年には、リュージュ世界選手権、2012年にはリュージュヨーロッパ
    選手権がこの施設で開催された。

    【ナショナルチームトレーニング種目】
    • ボブスレー
    • リュージュ
    • クロスカントリースキー
    • ボブスレーコース

    • レズガフト記念 体育健康 国立大学付属
      冬季競技専用 フェデラル トレーニングセンター
    92e25020e1



    ⑩『カフゴロヴォ』 2012年創立 レニングラード州 トクソヴォ市

    トクソヴォ市にあるフェデラルトレーニングセンター 『カフゴロヴォ』は、
    2012年に設立され、サンクト・ペテルブルクからは約17kmの位置にある
    カフゴロスコエ湖に面している。

    この施設は、レズガフト国立体育大学に属しており、クロスカントリースキー、
    バイアスロン、モーグル、アクロバットスキーのロシアナショナルチームが
    主に使用しているが、ユースのトレーニングセンターとしても使用されている。
    2006-2015年度の『体育とスポーツの発展』の下で改築され、世界標準に完全に
    合致したスポーツ複合施設となった。

    オールシーズン型の屋内型スキーコースは全長3kmあり、施設内には、ホテル、
    スポーツジム、スパセンターがあり、客室、プール、トレーニングルームは、
    障害者向けの特別対応機器がある。

    【ナショナルチームトレーニング種目】
    • クロスカントリースキー
    • バイアスロン
    • モーグル
    • アクロバットスキー

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
    0232



    ⑪ ボロネジ国立体育大学 1979創立 ヴォロネシ州ヴォロネシ市

    スポーツ理論学科の教員は、サッカー、バスケットボール、ハンドボール、
    バレーボールを専門としており、この分野での専門的なトレーニングを
    提供している。 他学部への学生に対しては、バスケットボール、
    バレーボール、バドミントン、卓球に関する理論と方法論が基本的に
    教えられている。 サッカー特別専門コースは、大学創設と共に設立され、
    その後、多数のナショナルチームの選手を輩出している。 2010年に
    スポーツ複合施設が完成した。

    【トレーニング種目】
    サッカー、フットサル、バスケットボール、ハンドボール、バレーボール

    【学部】
    コーチング学部(通学のみ)
    通信教育学部
    ●スポーツ競技学科
    (サッカー、バスケットボール、ハンドボール、バレーボール)
    ●陸上競技学科
    ●クロスカントリースキー学科
    ●体操学科
    ●射撃学科
    ●個人競技学科
    (レスリング、柔道、サンボ、ボクシング、キックボクシング、テコンドー、空手)
    ●観光・スポーツオリエンテーリング学科
    ●スポーツマネジメント学科
    ●健康体育学科

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
    smolensk0018



    ⑫ スモレンスク国立体育スポーツ観光大学
    1950年創立 スモレンスク州スモレンスク市


    スポーツ総合施設は、学生向けのトレーニングセンターとして使用されて
    いる他、国際大会も開催されている。 この施設は2006年〜2014年に掛けて、
    建設費44億7,791万ルーブルを掛けて大規模な改築工事が行われ、B棟は2009年、
    2000人収容のスタジアム、屋内スケートリンクの改修は2012年に完了した。
    砲丸投げ、槍投げ、円盤投げ、ハンマー投げ練習場、屋内水泳プールが2013年に、
    会議室を備えたホテルタイプの宿泊施設は2014年に完成した。

    【学部】

    体育・スポーツ学部、体育・健康技術学部、通信教育学部、継続教育学部、
    個別教育技術学部


    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
    201006113365p



    1896年 レニングラード州 サンクト・ペテルブルグ市

    冬季スポーツにおけるロシアナショナルチームのトレーニングセンターとしての
    機能を有し、地域、および、全ロシアレベルでのスポーツイベントを開催。
    スポーツ施設には、クロスカントリースキー、バイアスロン、フリースタイル
    スキー、モーグル、アクロバットスキーなど、冬季スポーツ競技に対応した
    施設が整っている。

    2006年〜2013年に掛けて、建設費41億5,732万ルーブルを掛けて大規模な建設・
    改築工事が行われ、観客席を備えたサッカースタジアムの改築が2011年、
    フェデラルトレーニングセンター(多目的スポーツアリーナ、ユニバーサル
    総合ホール、レスリング場、体操場、プール(25mx15))、教育研究総合施設
    (健康センターを備えた学生寮)、陸上競技場、屋内スケートリンクが2013年に
    新たに建設された。

    【夏季オリンピック学部】
    自転車競技理論方法論学科
    ウォータースポーツ理論方法論学科
    体操理論方法論学科
    漕艇競技理論方法論学科
    陸上競技理論方法論学科
    水泳理論方法論学科
    スポーツ競技論方法論学科
    サッカー論方法論学科

    【冬季オリンピック学部】
    スピードスケート・フィギュアスケート理論方法論学科
    スキー理論方法論学科
    ホッケー理論方法論学科
    バイアスロン理論方法論学科
    カーリング理論方法論学科
    スポーツ施設産業学科

    【個人競技・非オリンピック学部】
    陸上競技理論方法論学科
    ボクシング理論方法論学科
    格闘技理論方法論学科
    フェンシング理論方法論学科
    非オリンピック競技理論方法論学科
    バイオメカニクス学科
    体育理論方法論学科
    健康リハビリテーション研究所

    【保健リハビリテーション学部】
    生化学学科
    予防医学・健康基礎学科
    大衆スポーツ・健康体育学科
    スポーツ医学・健康技術学科
    総合リハビリテーション学科
    スポーツ経営学科
    体育法律学科

    ※他スポーツに関連していない学科は省略

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
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    ⑭ クバン国立体育スポーツ観光大学
    1969年創立 クラスノダール地方 クラスノダール市


    大学生専用トレーニング施設、並びに、国際競技開催施設。 2010年~
    2012年に掛けて、建設費3億5,732万ルーブルを掛けてスポーツ施設の改築が
    行われ、2012年に完成した。

    【学部】
    スポーツ学部、体育学部、保健体育学部、観光サービス学部、
    スポーツマネジメント・教育心理学部、体育スポーツ通信学部、
    職業訓練学部オリンピック候補生養成科(オリンピック候補生養成専門)

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
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    ⑮ ヴォルゴグラード国立体育アカデミー
    1960年創立 ヴォルゴグラード州 ヴォルゴグラード市

    体育アカデミーの学生のためのトレーニング場の提供、並びに、国際競技の実施。
    2006年〜2013年に掛けて、建設コスト2億6,606万ルーブルを投じて、陸上競技場の
    改築工事が2006年に、屋外水泳プール総合施設の改築が2010年に完了した。
    外部とのネットワーク通信が可能な独立ボイラーハウスの建設が2013年に完了した。

    【学部】
    体育学部、体育スポーツ学部、通信教育学部、職業教育学部


    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
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    チャイコフスキー国立体育大学
    1980年創立 ペルミ地方 チャイコフスキー市

    大学付属の冬季スポーツ専用フェデラルトレーニングセンターは、ロシア
    ナショナルチームのみならず、各種指定選手のトレーニング施設としても
    使用され、年間を通して包括的なトレーニングが可能。 冬季スポーツで施設は、
    バイアスロン、ノルディック複合、クロスカントリースキー、スキージャンプ、
    フリースタイル、フリースタイルモーグル、アクロバット、また、冬季パラリン
    ピックでは、クロスカントリースキー、バイアスロンに対応している。

    2006~2012年に掛けて、建設コスト5億3497万ルーブルを投じて、新たに
    チャイコフスキー市郊外に冬季スポーツ専用の複合施設の建設が行われた。

    【学部】
    冬季スポーツ競技学部:
    クロスカントリースキー、ノルディックスキー、スキージャンプ、
    アルペンスキー、バイアスロンの跳躍理論とその技術を学ぶ。
    特別トレーニング学部

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
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    ⑰ イルクーツク オリンピック候補生養成 国立専門学校
    1943年創立 イルクーツク州 イルクーツク市

    2006~2011年に掛けて、スポーツ総合施設(格闘技、新体操、重量挙げ、
    卓球、エアロビクス、レスリング、空手、柔道対応)が建設され、国際大会が
    開催出来るようになった。 管理棟とメディカル・リカバリーセンターが
    2011年に完成した。

    【競技種目】
    格闘技個人種目、ボクシング、柔道、陸上、サッカー、レスリング、
    バレーボール、体操、バスケットボール

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
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    シベリア国立体育スポーツ大学 1950年創立 オムスク州 オムスク市

    大学生のトレーニングとスポーツ競技開催のため、2006~2009年に掛けて、
    建設費1億6,170万ルーブルを投じて、水泳プールの改築とテニスコートの
    建設が行われた。

    【学部】体育学部、スポーツ学部、科学教育学部、通信遠隔教育学部
    【競技種目】HPに記載なし


    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
    1394771231



    沿海オリンピック候補生専門学校 1996年創立 沿海地方 ウラジオストック市

    専門学校生のトレーニングとスポーツ競技開催のため、2006年~2010年に
    掛けて、建設費2億4,400万ルーブルを投じて、スポーツ健康総合センターが
    建設され、2010年に完成した。 メディカル・リカバリーセンターあり。

    【競技種目】
    バトミントン、水泳、テコンドー、セーリング、陸上競技、カヌー、
    カヤック、ウエイトリフティング、レスリング、柔道


    • ロシア連邦スポーツ省指定体育大学
    010fd329



    ウラル国立体育大学 1970年創立 チェリャビンスク州 チェリャビンスク市

    大学生のトレーニングとスポーツ競技開催のため、2006年~2008年に掛けて、
    建設費1億5,640万ルーブルを投じて、総合トレーニングセンターが建設され、
    2008年に完成した。

    【学部】
    夏季スポーツ学部、冬季スポーツ・武道学部、保健技術スポーツ医学部、法学部、
    観光・社会文化サービス研究所


    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
    1970年創立 モスクワ州 ブロンニツァ市

    2006年~2009年に掛けて、建設費8,270万ルーブルを投じて、ほぼ全ての競技に
    対応したトレーニングホールとメディカル・リハビリテーションルームが
    建設された。 特に、カヌーとカヤックに特化しているが、カヌー・
    スラロームと飛び込み、アーチェリーにも対応している。

    【競技種目】
    カヌー、カヌー・スラローム、アーチェリー、カヌー、カヤック、
    ショートトラック、スピードスケート

    • ロシア連邦スポーツ省指定体育学校
    (小中高一貫教育)『アイスト』 2006年創立
    スヴェルドロフスク州 二ジニー・タギル市

    ナショナルチーム用ジャンプ競技場。 2014年10月現在、567人の児童が
    この学校に通っている。 ジャンプ台は40m、60m、90m、120mの4本があり、
    スポーツ複合施設、フィットネスホール付きの管理棟、スキー場、スキー
    スタジアム、3つの宿泊施設がある。 1年に2回、児童は健康診断を受けており、
    給食は提供されていない。

    【ナショナルチームトレーニング種目】スキージャンプ

    【指導科目】
    ●マウンテンスキー(訓練期間10年)
    ●クロスカントリースキー(訓練期間9年)
    ●ノルディック複合(訓練期間9年)
    ●スキージャンプ(訓練期間9年)
    ●クレー射撃(訓練期間8年)

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    ロシアの体育学校の種類(小中高一貫教育11年生)
    青少年体育学校(子供と青少年のための体育学校)は、ロシア、CIS諸国にある
    6歳から17歳までの子供から若者の若いスポーツマンの育成、および、専門教育を
    行う教育機関。 殆ど全てのロシアのオリンピック選手は、これらの体育学校で
    スポーツのキャリアを開始している。 青少年オリンピック候補生育成体育学校と
    呼ばれることもある。
    • 青少年体育学校(детско-юношеские спортивные школы (ДЮСШ))
    • 体育学校(спортивные школы((СШ))
    • オリンピック候補生養成 青少年特別体育学校(специализированные детско-юношеские спортивные школы олимпийского резерва (СДЮСШОР))
    • オリンピック候補生養成体育学校(спортивные школы олимпийского резерва (СШОР))
    • オリンピック候補生養成学校(училища (колледжи, колледжи-интернаты, техникумы) олимпийского резерва (УОР))
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    ロシア国内のオリンピック出場選手を支える施設は、国内に約20ヶ所あり、
    これらの場所で、ロシア代表選手は日々厳しいトレーニングを行っています。
    ハイパフォーマンススポーツ専用施設は、主に、ロシア・スポーツ省の直轄
    機関が多いが、その他、モスクワ市営施設や、労働組合によって運営されている
    施設もある。
    • ロシア・スポーツ省 フェデラル トレーニングセンター
    ①『ノヴォゴルスク』 1966年創立 モスクワ州ヒムキ市

    1529563595



    このトレーニングセンターはロシア国内では最大規模となっており、
    アーチェリー、射撃、フェンシング、サッカー、ホッケー、レスリング、
    トランポリン、ミニサッカー、ラグビー、バスケットボール、バレーボール、
    ハンドボール、体操(個人とグループ)、リュージュ、フリースタイルスキー、
    フィギュアスケート、ショートトラック、カーリングなどを含む全32種目の
    トップアスリート競技のトレーニングが可能となっている。

    2006年から2015年度に掛けてのナショナルプラン『体育とスポーツの発展』の下、
    スキーとバイアスロンをベースにしたウィンタースポーツのトレーニングセンター
    として再建されることが決定され、2009年には、2010年に2億3,000万ルーブル、
    2011年には22億ルーブルを費やして、施設は事実上、新たに建設され、ソチ
    オリンピック用のトレーニングセンターとして、ロシアナショナルチームが
    使用した。 2014年に第一期拡張工事が完了し、既存施設や新センターが新たに
    建設され、約500名まで人員を受け入れ可能となった。

    【主な施設】
    ● 敷地面積約40ヘクタール(東京ドーム8個分)
    ● 独立したスポーツ複合施設×3
    ● 国際クラスの大会が開催可能な総合体育館×3
    ● 冬季スポーツセンター
    ● サッカー場×2
    ● 屋内アイスホッケー場、屋外ホッケー場
    ● 2014年にホッケーチーム専用のホテル棟が完成
    ● 新体操とトランポリン用の専用体育館
    ● 水泳プール
    ● トレーニングセンター
    • モスクワ市営 オリンピック トレーニングセンター
    ②『クルゥイラーツコエ』2004年設立 モスクワ市

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    モスクワ市営オリンピック トレーニングセンター 『クルィラーツコエ』の
    運営目的は、ハイパフォーマンス競技におけるロシア代表チームの選手、
    並びに、タレントプールを育成することであり、以下の18競技の
    トレーニングを行うことができる。

    ボート競技、カヌー、水上スキー、ゴルフ、バドミントン、バスケットボール、
    水球、バレーボール、ビーチバレー、卓球、アーチェリー、ラグビー、
    ホッケー、チェス

    【障害者スポーツ】
    卓球(筋骨格系疾患競技者)、卓球(聴覚障害者)、バドミントン(聴覚障害者)、
    シッティング・バレーボール(筋骨格系疾患競技者)

    【主な活動内容】
    ● ロシア連邦法により創設されたスポーツトレーニング方法の開発、承認、その実行
    ● アスリートの個別トレーニング計画の作成
    ● モスクワ市内でのスポーツイベントの開催
    ● スポーツセミナーの開催
    ● トレーニングの進捗管理を行い、 競技大会への参加を促す
    ● 国家基準に照らし合わせてコーチの人選を行う
    ● アスリートの運動能力を向上させる
    ● 医療、および、物的サポート
    ● スポーツ施設の一般開放
    ● スケートリンクは一般人も利用可能

    • モスクワ労働組合連盟 オリンピック トレーニングセンター
    ③『プラーネルナヤ』 1935年創立 ヒムキ市
    31141776514



    モスクワ労組連盟が運営するオリンピック  トレーニングセンター
    『プラーネルナヤ』は、オリンピックに向けたトレーニングを行う多機能な
    ハイパフォーマンス トレーニングセンターであり、センター内には、スポーツ
    複合施設、並びに、様々な長さのレーストラック付きの乗馬コースとスキー場が
    ある。 その他、水泳プール(25mx6)、スポーツジム、多目的屋内ホールが
    ある。

    【ナショナルチームトレーニング種目】
    近代五種

    • ロシア・スポーツ省 ナショナルチーム トレーニングセンター
    ④『クリムスキー』 1935年創立 クリミア半島

    567090f



    元ウクライナオリンピックスポーツセンター『スパルタクス』は、2014年
    3月11日にクリミアがロシアへと返還された後、ロシア スポーツ省の管轄へと
    移管され、現在ではロシア代表チーム専用の『クリムスキー』スポーツ
    トレーニングセンターとなっている。

    スポーツ理論学科の教員は、サッカー、バスケットボール、ハンドボール、
    バレーボールを専門としており、この分野での専門的なトレーニングを
    提供している。 他学部への学生に対しては、バスケットボール、
    バレーボール、バドミントン、卓球に関する理論と方法論が基本的に
    教えられている。 サッカー特別専門コースは、大学創設と共に設立され、
    その後、多数のナショナルチームの選手を輩出している。 2010年に
    スポーツ複合施設が完成した。

    2017年7月、クリミア共和国アルシュタにおいて、ロシア連邦スポーツ省が
    推進している『体育とスポーツの発展』プログラムの一環として、5つの
    スポーツ施設の大規模改築が開始され、 2年後には新しいスポーツ複合施設
    として生まれ変わる。

    大規模改築後は、世界レベルでの競技開催が可能となり、ロシア代表チーム
    のみならず、様々なレベルの競技が開催されることとなる。 2020年までには、
    ケルヒ、フェオドシア、スダック等、他のクリミア半島内にあるスポーツ
    複合施設の大規模改築も予定されている。

    【主な施設】
    ● 陸上競技場(2,800席) ● ボクシング場
    ● サッカー場 ● ビーチバレーボールコート
    ● 中央スタジアム  ● テニスコート
    ● 体育館 x2 ● 補助競技場
    ● レスリング場 ● 屋内多目的ホール x3
    ● 温泉

    • ロシア・スポーツ省 南部 フェデラル スポーツ トレーニングセンター
    ⑤『ユグ・スポルト』 2006年創立 クラスノダール地方 ソチ市
    ソチ オリンピックメイン会場

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    『ユグ・スポルト』は海のすぐそば、ソチ市の中心部に位置し、コースト
    クラスターの敷地総面積は15ヘクタール(東京ドーム3個分)となっている。
    2009年には、ナショナルプラン「ロシア連邦における体育とスポーツの発展」
    (2006年〜2015年)の下で大規模改築工事が行われ、本館の建設他が行われた。
    スポーツ総合施設は、ソチ市中心部のコーストクラスター(オリンピック
    メイン会場)、マウンテンクラスター(クラースナヤ・ポーリャーナ)、
    キスロヴォツク市内と3ヶ所に大きく分かれており、全てのスポーツ施設を
    合わせると、東京ドーム25個分の広さとなる。 この施設の最大の特徴は、
    温暖な気候と温泉複合施設があることである、温泉療法を用いたリカバリー
    センターも併設している。

    屋外プール付きのビーチエリア、会議室、スポーツジム、温泉療法を用いた
    リハビリテーションセンター、託児所、ビジネスセンターと映画館、収納室と
    セイフティーボックス、サウナ(遠赤外線、ロシア式、トルコ式、フィンランド式、
    ローマ式、ハーブ)、ジャグジー風呂、ジャグジープール、アロマ風呂

    【対応競技】
    バスケットボール、バレーボール、フットサル、ラグビー、ハンドボール、
    体操、陸上競技、アーチェリー、フェンシング、レスリング、柔道、セーリング、
    ビーチバレーボール、水泳、ノルディック複合、スケルトン、ボブスレー等
    30種類以上の種目に対応

    • ロシア・スポーツ省 フェデラル トレーニングセンター
    ⑥『オーゼロ・クルーグロエ』 1953年創立 モスクワ州 アガフォニハ村

    kr2



    この施設は、創立70年以上の歴史を誇り、1979年に施設内に水泳プールが
    建設され、1980年のモスクワオリンピック開催時には、ソ連選手ナショナル
    チームの強化基地となった。 それ以来、この施設では主に水泳と体操ナショナル
    チームの強化を行っている。 施設内には、4つのホールがあり、フェンシング
    ナショナルチームがトレーニングを行っている。 屋内プール内には、2つの
    独立したラウンジがあり、水泳に特化したフィットネス機器や多目的ホールが
    あるため、パラリンピック選手を含むスポーツのトレーニングをすることができる。
    パークエリアではスキーにも対応している。 連邦政府が運営するこの施設は、
    サマースポーツのロシアナショナルチーム、ユースチームのトレーニングの
    ための主要拠点となっている。

    オリンピック: パラリンピック:
    水泳(シニア、ユース) 水泳 - 視覚障害者
    水泳自由形(シニア、ユース) 水泳 - 聴覚障害
    シンクロナイズドスイミング 水泳 - 精神障害者
    飛び込み(シニア、ユース) ゴールボール - 視覚障害者
    水球(ベーシック、ユース) フェンシング
    体操(シニア、ユース) アンプティサッカー
    フェンシング・エペ(シニア、ユース) トーボール
    フェンシング・サーブル(シニア、ユース) 柔道 - 視覚障害
    チェス(シニア)
    近代五種競技(ユース)
    フリースタイルスキー(シニア)


    • ロシア・スポーツ省 障害者専用
    ⑦スポーツ宮殿『オカ』 2011年創立 アレクシン市 / プシノ市

    ByGWAig



    スポーツ宮殿『オカ』は、ロシア初のパラリンピック選手が専門的な
    トレーニングを行う場として、連邦政府ナショナルプラン
    『体育とスポーツの発展』の下、2006年から2011年に掛けて建設された。

    このトレーニングセンターは、モスクワから約150km南のオカ川のほとりに
    位置し、アレクシン市(トゥーラ地方)にある。  『オカ』の施設全体が
    障害を持つ選手の使用を考慮して建設されており、1度に300人以上の選手を
    受け入れることができる。

    敷地内には、リハビリセンター、トレーニングジムとレスリング場を備えた
    レセプションセンター、ホテル、スポーツジムがある。

    ここでは、ホッケー、アイススレッジホッケー、水泳、アーチェリー、
    ゴールボール、サッカー、サンボ等、様々な専門的なトレーニングが行える。

    【対応競技】
     水泳 スケート
    アーチェリー ホッケー
    サッカー アイススレッジホッケー
    フットサル フィールドホッケー
    バスケットボール 射撃
    バレーボール サンボ(ロシア国技)

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    【スラブ祖語】
    スラブ語は、西は中央ヨーロッパのエルベ川中流域から、南はバルカン半島の
    大部分に渡り、東はウラル山脈を越えて、シベリアの太平洋岸まで、北は
    ユーラシア大陸の北極圏の西側の一部を除く、大部分を占める広大な地域に住む
    住民の間で話されている言語であり、方言を含むスラブ語の主要言語の数は、
    古い時代に書かれた資料でのみ伝わるものを含めると、20以上にも及ぶ。

    スラブ語は、語彙、発音、文法的な特徴が非常に良く似通っており、その共通点は、
    古い時代になるほど大きくなることから、全てのスラブ語は1つの共通の祖語から
    派生し、時代と共に分化、発達して今日に及んだものと考えられている。 この分化
    前までの共通言語を「スラブ祖語」と呼び、そこから分化、発達したと考えられる
    系統上の親縁言語を「スラブ諸語」と呼ぶ。 スラブ諸語は、その相互間の親縁
    関係により、「東スラブ諸語」、「西スラブ諸語」、および、「南スラブ諸語」の
    3つに大きく分類される。

    スラブ語は、同じインド・ヨーロッパ語族に属するロマンス語やゲルマン語と
    比較すると、文字の出現が遅かったため、実際には文字で表記されることが
    なかった「スラブ祖語」は、不明な部分が多いものの、記録に残るスラブ諸語に
    共通の主な特徴から、具体的な言語体系として全体的に把捉することは難しい
    ものの、個々の音韻や語の形態に関しては、かなりの確立で予測出来る場合が多い。

    スラブ語共通の特徴の一部は、バルト語、ゲルマン語、インド、イラン語などを
    含むインド・ヨーロッパ語族の古い特徴と著しい対応や一致を示している。 また、
    現代語と比較しても、ロシア語とドイツ語、英語、フランス語などの間には、
    文法や基礎語彙の面においても、偶然の一致では説明出来ないほどの体系的な一致や
    並行関係が見られる。 これは、スラブ語がこれら各言語と祖先を共有している
    ことを表しており、スラブ祖語は、かつて極めて古い時代に「インド・
    ヨーロッパ祖語」から分離したと考えられている。

    まず、紀元前3000年頃までに、インド・ヨーロッパ祖語が形成され、そこから、
    各々の言語の祖語の分離形成が始まったが、スラブ祖語はその一つとして比較的
    遅い紀元前1000年頃になって分離したと考えられている。 そして、そのスラブ
    祖語から、各スラブ語が分化する過程の中で、遅くとも5世紀頃までには、
    東スラブ祖語が分離し、東スラブ語の独自の分化が始まり、10世紀末には、現在の
    ロシア語の基礎となる東スラブ標準語の形成過程に入ったと考えられている。

    【スラブ語発祥の地】
    スラブ語発祥の地に関しては、カルパチア山脈の北東山麓(ポーランド、または、
    ウクライナ)とする説や、更に西にあるチェコ、ドイツ、ポーランド国境地域で
    あるズデーテン地方とする説など、これまでに様々な見解が発表されたが、
    いずれもはっきりとはしてない。 19世紀前半には、農耕系のスキタイ人を
    スラブ人の祖先と見なすスラブ人の起源説が現れたが、紀元前1000年頃に黒海
    北岸からカルバナア山脈に至るステップ地帯に分布したスキタイ人の言語は、
    実はイラン語系であったことが証明されている。

    紀元前7~8世紀頃に滅びた先住民のキンメリア人の言語は、スキタイ人をはじめ
    とするこの周辺地域の民族に受け継がれたと考えられているが、その後、民族
    大移動が起こり、現在の中欧と東欧地域の広範囲に進出して来たスラブ人もその
    影響を強く受けたとする考え方が最も有力となっている。 スラブ人の祖先の
    事が記された古文書が現れるのは、ヨーロッパの民族集団の分布を一変させた
    民族大移動の時代以後であったため、スラブ祖語に関する確実な資料や証拠は
    何一つ存在していない。

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    【スラブ諸族の形成と民族大移動】
    4世紀後半に現在のロシアのペルミ付近から黒海北岸へと侵入して来たフン族に
    よって土地を奪われたゲルマン族の一派である東ゴート族は、376年にドナウ
    流域のローマ帝国領内へと移動したが、このことに端を発する民族大移動は、
    東西ローマ帝国の分裂と、ゲルマン族の攻撃によって476年に西ローマ帝国が
    滅亡するという、ヨーロッパ史上における大変動をもたらしたが、東西ゴート族の
    勢力圏や東西ローマ帝国領内、あるいは、その隣接地に住んでいたスラブ人が、
    現在の居住分布に近い居住分布へと変化を遂げたのは、この時期であったと
    考えられている。

    350年、ゴ一卜人司教であるウルフィラがキリスト教布教のために考案した
    ゴート文字により、新約聖書のゴート語翻訳が行われたが、この頃には、ドナウ
    河口、ヴィスワ川上流域、並びに、ドニェプル川下流域の3地域に分かれて住む
    スラブ3部族が、現在の南、西、東の各スラブ人集団へと発展して行ったと考え
    られている。 民族大移動後の6世紀半ばには、スラブ人は既にこの3集団へと
    分化を遂げていたが、これ以降、スラブ人のバルカン半島全域への進州の勢いが
    強まり、いくつかの地域でスラブ人による国家形成の過程が進行した。 7世紀
    には、短命であったが、チェコ、スロバキアの大部分とクロアチア、スロベニアの
    一部に渡る広い地域を支配したスラブ人初の部族連合国家であるサモ王国
    (631年~658年)、ドナウ河口から黒海西岸とドナウの南岸一帯を広く支配した
    アジア系ブルガール人によるドナウ・ブルガール汗国(?~700年頃)、その後、
    その土地の南スラブ人と同盟して681年には、東ローマ帝国から独立を獲得した
    ことに始まる第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)へと発展して行った。

    9世紀には、サモ王国をも大幅に上回る大モラヴイア公国(833年~907年)や、
    ポーランドを最初に統一したピャスト王朝(960年頃~1370年)、更に、
    東スラブ人の最初の統一国家となったキエフ・ルーシ(862年~1240年)など、
    現代のスラブ諸国に深い関わりを持つ国々が誕生している。

    尚、セルビア人がブルガリアから自立したのは9世紀後半であり、925年には、
    クロアチア王国が建国されたとされているものの、スロベニア人は、古代には
    フランク王国、中世から近代に掛けては神聖ローマ帝国、その後、
    ハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配下にあり、同じ南スラブ人である
    セルビア人、クロアチア人と共に国家を形成したのは、第1次世界大戦後のこと
    であった。

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    【ブルガール人とブルガリア帝国】
    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    チュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラブ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれている。

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部
    からヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は、5世紀
    頃から、アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ
    方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家である大ブルガリアを形成した。 しかし、
    ブルガール部族連合は分裂し、北方のヴォルガ・ブルガール、西方のドナウ・
    ブルガールへと分かれて移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、
    アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールや
    ドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの
    本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス
    北麓のチュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、
    ハザール可汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀の
    ハザールの滅亡と共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を
    遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン
    共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、後にアッバース朝と通商を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    チュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であると
    されている。 特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でも
    ブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。 一部の部族
    集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住したが、
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。

    彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地のスラブ人を支配する国家を形成し、
    680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・
    ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第に
    コーカソイドに属するスラブ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、
    ヴォルガ川中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語である。
    チュルク諸語の中での位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られ
    ている。 ブルガール語の話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを
    構成する民族集団に含まれていたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、
    他のチュルク諸語とブルガール語との間で見られる音韻上の対立が規則的に
    現れる事から、現在存在する言語の中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語で
    あるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の
    要素を一部含むものの、キプチャク系チュルク言語とブルガール語の混交言語と
    考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラブ化に伴い、バルカンでの話者は
    途絶したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラブ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者
    であった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収された
    と言う意味では、世界的に見ても、かなり珍しい言語となっているが、その
    被支配者であった言語が、共通スラブである古代教会スラブ語の基となった
    のは、非常に興味深い歴史的な事実である。 

    ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古チュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。 ブルガリア語は、元々アジア人
    であったブルガール人が、モンゴル・タタールの大軍に押し出されて、遥々
    ヨーロッパの地まで民族大移動してきた際に、そこに住んでいたスラブ人と
    同化し、スラブ語化された言語であり、支配者の言語が、被支配者の言語に
    吸収されたという、世界でも非常に稀な言語となっている。 この逆パターンが、
    ハンガリー語とフィンランド語で、アジアから押し出された、マジャール人と
    フィン人のアジア系言語は、そのまま、ヨーロッパに根付いた。

    【ブルガリア語の形成】
    ブルガリア語は、古くから、スラブ人の間では、宗教・学問の言語として
    使用されていた「古代教会スラブ語」であり、その元となった言語であるため、
    非常に古い文語の歴史を持っているものの、約500年間にも及ぶオスマントルコ
    支配の時代に、新たに教会用語となったギリシャ語に押されて、かなり衰退
    したが、18世紀後半に入って、ブルガリア人聖職者の間から、ブルガリア語
    復興の機運が生まれ、現代ブルガリア語の元となる新ブルガリア語が形成され、
    民族意識が高まり、ブルガリア語は、オスマン帝国からの独立運動を支える
    重要な役割を果たした。

    スラブ祖語は、元々、古代のブルガリア語でるため、ブルガリア語に似ている
    言語ほど、昔の文法体型を維持している事になるが、ブルガリア語自体が、
    オスマントルコ支配の時代に、かなり崩れてしまったため、文法的には、英語に
    かなり近い。 文法が崩れ去った言語は、どの言語も、ほとんど、英語のように
    なるという共通点がある。

    スラブ語の「私」は、ブルガリア語以外、全て「ja」だが、古代教会スラブ語では、
    「私」の事を「az」と言うのと、スラブ語では、「アルファベット」の事を
    「Azbuka」と言うため、スラブ人は、「az」が「私」という意味である事を
    皆知っている。 ロシア語とブルガリア語は、そのまま喋ってもほぼ内容が理解
    出来るぐらい似ている言語だが、スラブ語は、ゲルマン語他の言語と比較して、
    それぞれの言語に分かれたのがかなり遅かったため、ブルガリア語以外も全言語が
    かなり似通っている。 よって、スラブ語のうちの何れかの言語をある程度理解
    出来ていれば、その他の言語でも何を言っているのか、ほぼ理解可能である。

    【ブルガリア語とマケドニア語】
    ブルガリア語とマケドニア語は、方言程度の違いしかない、非常に似通った
    言語であるため、ブルガリア人は、皆マケドニア語の事を、ブルガリア語の
    方言だと考えている場合が多い。 スラブ語は屈折語であり、名詞類は6つ、
    あるいは、7つに格変化するが、ブルガリア語、マケドニア語では、この特徴が
    殆んど失われ、代名詞に格変化が残るのみである。 この格変化の消失に
    示されるように、ブルガリア語とマケドニア語は、その他のスラブ語とは異なる
    特徴を持ち、その異なる部分は、むしろ、系統関係を異にする近隣の
    ルーマニア語やアルバニア語等と共通する特徴を持っている。

    一般的に、地理的に隣接した複数の言語が、長期間の言語接触の結果、文法や
    語彙構造等、類型論的に相似した言語的な特徴を持つようになることが知られ
    ているが、系統関係に関わりなく、その様に類似した共有する言語的領域を
    「言語圏」と呼ぶ。 バルカン半島では、こうした「言語圏」の存在が早く
    から知られており、ブルガリア語とマケドニア語は、このバルカン言語圏に
    含まれるスラブ語である。

    バルカン言語圏の特徴としては、後置冠詞がある。 スラブ語には、語類
    としての冠詞はなく、必要に応じて、指示代名詞がその機能を果たしているが、
    通常、これらは形容詞と同様、名詞の前に置かれ、名詞の性、数、格に一致する。
    これに対して、ブルガリア語は、後置冠詞を用いて、「その」という指示代名詞を
    意味する。

    ブルガリア語とマケドニア語は、この他にも、共通スラブ語の持っていた時制
    体系を受け継ぎ、これを更に発展させたため、他のスラブ語と比較すると、
    時制に関する形態が豊富にあるという特徴を持っている。 時制形式が単純化
    されたロシア語では、現在形、過去形、未来形の3つの形式を区別するのみだが、
    ブルガリア語では、過去、未来の時制に複数の迂回形がある。

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    スラブ語は、それぞれの地理的な分布により、東、西、南スラブ語の3語群に
    区分される。

    【東スラブ語群】(地図の赤い部分)
    東スラブ語群に含まれるのは、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語であり、
    かつてのソ連邦内でも使用されていた言語となっており、現在もロシア、
    ウクライナ、ベラルーシにおけるそれぞれの公用語となっている。 東スラブ語は、
    類似性が比較的高く、ロシア帝国時代のウクライナ語とベラルーシ語は、ロシア語の
    方言とみなされていた。 ウクライナ語とベラルーシ語には、ポーランド語に類した
    特徴が多く、かつて、ポーランドの支配下にあったという歴史的な関係を示して
    いる。 また、ウクライナとスロバキアの国境付近には、ルシン語という少数
    言語がある。

    【西スラブ語群】(地図の青い部分)
    西スラブ語群に含まれるのは、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、ドイツ
    国内の少数言語であるソルブ語、またポーランド北部にあるカシュブ語である。
    このうち、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語は、それぞれの国家の公用語、
    並びに、欧州連合の公用語にもなっている。 ソルブ語は、ソルブ人が住むドイツの
    歴史的、地理的な影響を強く受けたため、ザクセン州の上ソルブ語とブランデン
    ブルク州の下ソルブ語に分かれて形成された。 現在、ソルブ語は、この両州では、
    地域的な公用語として学校教育にも取り入れられている。

    カシュブ語は、長くポーランド語の方言とされて来たが、系統的に、また歴史的に
    見て、ポーランド語と非常に近い関係ではあるものの、21世紀に入ってようやく、
    ポーランド国内の地域言語の地位を獲得した。 西スラブ諸語は、文法体系の
    基本こそ共通しているものの、音韻や語形の面で差異が目立ち、共通スラブ語から
    分岐して行く早い課程で、それぞれの言語が独自の特徴を持って形成された
    ことが予想出来る。

    【南スラブ語群】(地図の赤と紫の部分)
    南スラブ語群は、東・西スラブ語群から見て地理的に、ルーマニア、ハンガリー、
    オーストリアという異言語を使っている国家により隔てられ、バルカン半島に
    広く分布している。 南スラブ語群には、ブルガリア語、マケドニア語、
    スロベニア語、そして、ユーゴスラビア時代には、セルビア・クロアチア語と
    呼ばれていたセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語が含まれる。
    それぞれの言語を文法的な特徴から見ると、ブルガリア語とマケドニア語が、
    「バルカン言語圏」に含まれ、他のスラブ語とは異なる特徴を持っている。
    南スラブ語全体としては、このバルカン言語圏の特徴を持つブルガリア語と
    マケドニガ語の南東グループと、この特徴を持たないセルビア語・クロアチア語、
    並びに、スロベニア語の北西グループに2分される。

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    【文字で見るスラブ語】
    大きく3語群に大別されるスラブ語だが、使われている文字で見ると、2つの
    文化圏に大別することが出来る。 1つは、ラテン文字、いわゆる、ローマ字で、
    もう1つはキリル文字である。 ラテン文字は、地理的に見ると、西半分の
    西スラブ語群と、南スラブ語の北西グループで使用され、キリル文字は東半分の
    東スラブ語群と、南スラブ語群の南東グループで使用されている。 セルビア語と
    モンテネグロ語は、伝統的には、キリル文字を使用しており、セルビアの公用
    文字もキリル文字だが、最近では、日常的にラテン文字が使用されている。 また、
    クロアチアやボスニアでも、歴史的にはキリル文字も使用されており、重要な
    文章は、キリル文字でも残されている。

    スラブ語の文字文化は、キリスト教の受容と発展とは切り離すことが出来ない。
    スラブ語圏の西半分のラテン文字の使用は、西方カトリック教会の影響であり、
    また東半分のキリル文字の使用は、東方正教会を受け入れたため、独自に創られた
    ものである。 これらの文字は、聖書や宗教文書の翻訳を行う際に用いられため、
    ラテン文字は「西方教会」、キリル文字は「東方教会」の象徴となり、それぞれの
    スラブ人たちに受け入れられて行った。

    【キリル文字】
    キリル文字は現在、スラブ語圏以外でも使われており、旧ソ連の諸言語、例えば、
    シベリア東部のエヴュンキ語、や中央アジアのタジク語等でも使用され、モンゴル語
    でも使用されている。 キリル文字の使用範囲が広まったのは、ユーラシア大陸の
    広い範囲に政治的、文化的影響力を及ぼしたロシア、つまり、ロシア語で使用されて
    いる文字であったからである。 ロシア語のキリル文字は、33文字から成っており、
    Ь, Ъは、それぞれ「硬音記号」と「軟音記号」と呼ばれ、子音の硬軟を表すために
    使われるため、現代ロシア語では、これらの文字に音はない。

    【東スラブ語の文字の表記方法】
    ロシア語とベラルーシ語のアルファベットは、殆んど同じだが、ロシア語にはない
    I と ’ を使用している。 また、ウクライナ語とベラルーシ語では、子音を2つ繋げた
    二重音字を比較的多く用いている。 東スラブ語のキリル文字は、それぞれ少しずつ
    異なるが、特に注意すべきは点は、全く同じ文字の発音が異なることがあるところ。
    特に、ウクライナ語のアルファベットには、ロシア語とは異なる文字が4文字が
    あり、逆に、ロシア語のЭは存在しない。

    【南スラブ語の文字の表記方法】
    南スラブ語群のうち、南東地域はキリル文字圏に含まれる。 ブルガリア語は、
    ロシア語の33文字のアルファベットから3文字を除いたもので構成され、順序も
    ロシア語と同じである。 但し、「Ъ」は、文字は同じだが、機能がロシア語とは
    異なる。 ロシア語では音を持たない補助記号であるが、ブルガリア語では、母音を
    表すため、この文字が語頭に出てくる単語も存在する。

    【セルビア語のキリル文字】
    セルビア語のキリル文字は全30文字だが、東スラブ語圏とは若干文字が異なる。
    セルビア語は近年では、ラテン文字でも表記するが、キリル文字による
    アルファベットの基本的な順序はロシア語と概ね同じだが、Ђ, Ј, Љ, Њ. Ћ, Џの
    6文字は、東スラブ語にはない文字であり、逆に、ロシア語にはある、Ё, Й, Щ, Ъ,
    Ы, Ь, Э, Ю, Яの9文字がない。 これは、言語の特徴に合わせて現代的な
    アルファベットが後から作られたためである。

    言語的にはセルビア語と同じ、モンテネグロ語(ツルナゴーラ語)の場合は、
    最も新しく独立宣言を行ったスラブ語であり、2009年、セルビア語の
    アルファベットを元に、これまでのキリル文字にはない文字としてЗ́, Ćの2文字を
    加えたアルファベットが新たに制定された。 これらの文字は、ラテン文字では、
    Dž, Śとそれぞれと表記される。 これまで、長くセルビア語の一方言として
    扱われて来たモンテネグロ語は、セルビアとは多少発音的に異なる部分が
    あったため、こうした発音上の特徴を、国家独立と共に、異なる文字を用いて
    書き表そうとしたのである。 但し、これらの文字の現時点での導入は余り
    進んではいない。

    マケドニア語は、第二次世界大我の終結と共に、マケドニアという独立国家がした
    ことで正式に言語として認められ、正書法も定められている。 マケドニア語
    キリル文字は、セルビア語のキリル文字をモデルとして作られた。

    【キリル文字の発祥】
    スラブ世界で生まれたキリル文字は、スラブ民族と国家形成の歴史、周辺諸国との
    関係に深く結び付いている。 キリル文字は、ギリシャ文字を元にして作られたが、
    キリル文字の考案者は分かってはいない。 恐らく、10世紀末頃のブルガリアが
    発祥の地だろうと考えられており、ブルガリアは、7世紀頃にバルカン半島に
    移動して来た東方チュルク系ブルガール人と、既にこの地に住んでいたスラブ人が
    融合して形成された国である。 8~9世紀には、国家としての基盤が固められ、
    ビザンツ帝国の西側に台頭した。 864年には時の支配者ボリス(在位852~889年)
    がビザンツ教会からキリスト教を受容、後継者シメオン帝(在位893~927年)の
    時代に中世ブルガリア国は最盛期を迎えた。 当初、ブルガリアの文化は、
    ビザンツの文字と言語、つまり、ギリシャ文字とギリシャ語に依拠していたため、
    スラブ人の独自の文字文化は、ギリシャ文字が元として作られ、これによって、
    スラブ人の言葉が表記されるようになったが、これがキリル文字の始まりである。

    スラブ民族は、ヨーロッパ大陸の東、紀元後の数世紀の間に現れ、9世紀~10世紀に
    至る頃には、およそ、現在のスラブ諸国がある辺りに民族国家を形成した。
    この頃、スラブ人の西には、カール大帝のフランク王国の継承国である東フランク
    王国が、南東にはビザンツ帝国があり、また、キリスト教会は東西に分裂の途上に
    あった。 現在チェコ、スロバキアがある一帯には、スラブ人として初の国家で
    あるモラヴイア王国が建国され、9世紀には、そこに西方教会の一大勢力であった
    フランク教会の影響力が及んで来た。 しかし、モラヴイア王は、このフランク
    教会側からの介入を嫌い、860年代に入って間もない頃に、ビザンツ教会に対して、
    スラブ人のためにスラブ語で神の教えを説く「牧師」を派遣して欲しいと依頼した。

    これに応じて、ビザンツ皇帝ミカエル(在位842~867年)は、側近のギリシャ人
    キュリロスとメゲイオスを派遣したと伝えられている。 モラヴイアの地でこの
    兄弟は、ギリシャ語聖書のスラブ語翻訳に着手したが、その活動はフランク教会に
    妨害され、2人の死後、弟子たちは追放された。 追放が始まったのは885年頃で、
    彼らは、その後、ブルガリアに迎え入れられた。

    モラヴイアからやって来たスラブ人たちが使っていた文字は、キリル文字ではなく、
    それよりも古い文字で、キュリロスが考案した「グラゴル文字」と呼ばれる、異なる
    文字であった。 但し、グラゴル文字は、次第に廃れて行き、最終的には、ギリシャ
    文字がスラブ語を表記するための文字として使われるようになったが、グラゴル
    文字を取り入れた文字体系は、いつしか、かつてグラゴル文字を考案した
    キュリロスの名を冠して、「キリル文字」と呼ばれるようになり、東方正教会の
    キリスト教を受け入れた東スラブ世界へと広まって行ったのである。

    【ラテン文字のスラブ語の世界】
    日本では「ローマ字」とも呼ばれているラテン文字は、歴史をたどれば、
    キリル文字と同く、ギリシャ文字から派生した文字体系である。 ラテン文字は、
    その文字の発祥の地であるローマ帝国が領土を広げ、キリスト教がそれぞれの国で
    国教となったことにより、ヨーロッパ大陸全体へと拡大し、欧州言語を表記する
    ための文字としては、最もメジャーな表記文字となった。 しかし、言語が
    異なると、発音も大幅に異るため、1つの文字では表記出来ない発音上の問題が
    発生し、2つ以上の文字を組み合わせたり、補助的な記号を付けて音を区別したり
    するようになった。

    スラブ語を母音文字で分けた場合、ブルガリア語以外の南スラブ語は、基本的に、
    A, E, I, O. Uの5つの母音があるだけであるが、そもそも、スラブ譜は、印欧祖語
    から分かれて形成される過程において、母音体系を単純化し、古い時代には
    あった二重母音を全て単母音化した。 南スラブ語では、この単純化した母音
    体系のままの状態で残ったため、ほとんどの南スラブ語の標準語では、5つの母音
    文字だけで構成されている。

    但し、西スラブ語の状況は少し異なっており、チェコ語、スロバキア語では母音が
    長短の区別を持つようになったため、Áのように、長母音を表す文字があり、Uは
    長母音を表すÚ, Ůの合計3つが存在するが、Ůは、発音上の異なる起源を文字に
    よって表したものである。 ポーランド語では、古代スラブ語から引き継いだ
    鼻母音を表すためのĄ, Ęの文字が必要となった。

    これら特殊文字の発祥の地は15~16世紀頃のチェコであると言われており、
    現代では、南スラブ語でも導入されている。 これらの特殊文字が定着する前の
    スラブ語は、西欧諸語で用いられているCH, CZ等の2重文字を用いていたが、
    チェコで生まれたスラブ民族による活動が他のスラブ語圏に波及するに従って、
    特殊ラテン文字が西スラブ語の中で定着して行った。 スラブ語の中で最も子音
    文字が多いのはポーランド語であるが、チェコ語とは異なった特殊文字が使用
    されており、子音体系が複雑化したポーランド語では、CH, DZ, Dź, SZ, RZ, CZ,
    Dżの2重子音文字が使用されている。 スラブ語は、基本的な語彙の多くが共通
    しているが、ラテン文字とキリル文字に文字表記の体系が大きく分かれている
    ため、全く異なる言語のように見えるが、発音上は、非常に共通点が多い言語群で
    あると言うことが出来る。

    sec02img01

    【グラゴル文字の発明】
    キリル文字という名称は、スラブ人に布教を行った東方正教会の宣教師、キュリロス
    (キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟の名前に由来している。 彼らは、
    モラヴィア王国のラスチスラフ王が862年に東ローマ帝国にキリスト教の伝道師
    派遣を要請した際に送られたが、その布教活動のため、スラブ語を表記する
    ための文字を発明した。 しかし、彼らが実際に考案した文字は、グラゴル文字と
    呼ばれるキリル文字とは異なる文字であった。 862年から863年頃に考案された
    グラゴル文字は、スラブ語を表記するための初めての文字であり、スラブ語圏に
    おいて広く使用されるようになったが、彼らの布教活動は、ローマ教会の圧力に
    よって失敗に終わり、885年のメトディオスの死後、弾圧された彼らの弟子たちは、
    全員ブルガリア帝国へと移り、ブルガリア皇帝のボリス1世によって庇護され、
    そこで布教活動を続けた。

    Russianalphabet

    【キリル文字の誕生】
    グラゴル文字はスラブ語の特徴を良く捉えたものであったが、いくつかの問題が
    存在した。 形が複雑過ぎて、使い辛かったことに加えて、当時ブルガリアでは、
    既にギリシャ語を使う層が一定数存在しており、ブルガリア語をギリシャ文字で
    表すことが頻繁に行われていた。 弟子たちは、ブルガリアに移った後に、グラゴル
    文字を改良し、900年前後には、よりギリシャ文字に近い形の新しい文字を開発した。
    キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字
    では表現出来ないものは、グラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。
    しかし、彼らは、キュリロスを偲び、新しい文字をキュリロスの文字「キリル文字」
    と呼んだ。 この名称により、後世では、キリルが創作した文字がキリル文字と
    信じられるようになったが、上記のように弟子たちが弾圧を受けたこともあり、
    キリル文字成立期の資料がほとんど残ってはいないため、19世紀前半までは、
    グラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていた。 その後、19世紀
    中頃に古い音韻を残したグラゴル文字による資料がいくつか発見され、グラゴル
    文字の方が早く成立したことが明らかとなった。

    キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(在位
    893年~927年)で使用が始まったと考えられている 。 文字の開発当初、キリル
    文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする
    北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においては、グラゴル
    文字が使用されていた。

    【文字の広まりと変遷】
    教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様、東方正教会内で
    普及して行き、徐々にグラゴル文字に取って変わった。 シメオン時代にブルガリア
    統治下にあったセルビアにもキリル文字が広まり、更に、988年にはキエフ大公の
    ウラジーミル1世が正教会を受け入れたため、ロシア全体にもキリル文字が広まる
    こととなった。

    各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられて行った。
    ロシアにおいては、18世紀初頭にピョートル大帝が文字改革を行い、いくつかの
    文字を廃止し、あるいは、字体がラテン文字に近付けられた。 更に、20世紀に
    入ると再び文字改革が行われることになり、1912年に改正改革案が発表され、
    1917年には、ロシア臨時政府によって旧文字体系から4つの文字が削除された
    現在のロシア文字体系が施行された。 セルビアにおいても19世紀半ばにヴーク・
    カラジッチによって言文一致を目指した改革が行われ、不要な文字の削除とラテン
    文字のJの導入等が行われ、セルビア語のキリル文字によるアルファベットが
    成立した。 1945年にはブルガリアにおいても文字改革が実施された。

    【キリル文字使用言語】
    古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、スラブ語群と正教会の
    重なる範囲にほぼ一致し、東スラブ語群のロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、
    南スラブ語群では、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア語、モンテネグロ語
    である。 スラブ語群でも、カトリック圏であるポーランド語、チェコ語、
    スロバキア語、スロベニア語、クロアチア語はラテン文字を使用しており、
    イスラム教に属するボスニア語もラテン文字を使う場合が多い。 また、スラブ語
    とは全く関係がないモンゴル語、ジョージア(グルジア)では、南オセチア自治州の
    オセット語(イラン語群)もキリル文字を使用している。

    また、東方正教会に属するスラブ語群以外の言語は、かつてはキリル文字が使用
    されていた言語が多いものの、現代においては使用されていない。 ルーマニアは
    正教会であるため、以前は、キリル文字を使用していたが、18世紀以降、民族主義の
    高まりにより、ラテン文字化運動が広がり、1859年~1860年に掛けて、正式に
    ラテン文字が採用されることとなった。

    その他、正教会に属する言語では、ギリシャ語はギリシャ文字、ジョージア語は
    ジョージア文字、アルメニア語はアルメニア文字となっている。

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    世界遺産の『モスタルの古い橋』では、ある一定の時間になると、
    橋の上から飛び降りて、見物客から小銭を稼ぐという見世物を行って
    いますが、なかなか飛び込まないのと、しょっちゅう小銭を集めに
    来るため、若干離れた場所から望遠を使って撮影するのが古い橋を
    撮影するコツ (^^)

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    こんな世界の果てとも言えるべき場所に、どうしてここまで観光客が集まって
    来るのかが非常に疑問ですが、モスタルの古い橋は、日中は激混みします。
    橋の袂でソフトクリームを購入する際に、日本語で『こんにちは』と言われ
    ましたが、こちらからすかさず、『ロシア語は喋れますか?』と聞いたところ、
    挨拶だけは出来ましたw 海外では、日本語では一切話し掛けて欲しくは
    ないのと、基本的に、ロシア語で喋っている方が楽なので、海外で日本語で
    話し掛けられた場合は、意味不明な場合が多いため、大概無視しますw
    ロシア語で話し掛けられた場合は、大体、話に乗りますw

    【モスタルの古い橋】
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    ここでは、イスラムのランプが欲しかったものの、かさばるため、断念しました。
    全く異なった文化に触れることは、好奇心を非常に掻き立てるため、ボケ防止にも
    良いと思いますw

    モスタルの古い橋の袂には、非常に多くのお土産屋が軒を連ねているため、
    いつまで見ていても飽きません。 モスタルでは、これ以外、特に見る物も
    ないため、朝からバスが出発する昼過ぎまでずっとこの場所に居ましたが、そ
    の後、大事件が起きました。

    【Hostel Lena】
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    モスタルからドゥブロヴニク行きの最終バスの時間は午後12時30分。
    準備万端でバスに乗り込み、出発を待っていた際に、念のためパスポートを
    チェックして見ると、ないことに気付きました(滝汗)。 大急ぎでバスを
    降りて、ホステルまで戻って見ると、朝から観光に行った際に、既にベット
    メイキングを終えていたため、毛布の下に隠していたパスポートと貴重品が、
    その毛布にくるまれて見えなくなっていたため、持って行くのを忘れて
    いました(涙)

    【モスタルの古い橋】
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    元々、このホステルに泊まる予定はなく、別のホステルに予約を入れて
    いましたが、宿の都合で、急遽3日間だけ閉鎖になっていました。 ホステルの
    係員は、何度呼び鈴を押しても、出て来ることすらなかったため、通りすがりの
    人に近所の安宿を紹介して貰い、このホステルに泊まることにしたのですが、
    何の予約もなしに急に訪れたのにも関わらず、英語でしっかりとした対応をして
    頂き、モスタルに行ったら、またこのホステルに宿泊しようと思っております。

    尚、同室の人は、イランからの初めての海外旅行でボスニアに来たと申して
    おりましたw 最終的には、このバスに乗り遅れたため、宿に帰って、もう一泊
    することとなりましたが、旅にハプニングは付き物なので、モスタルで焦らず
    ゆっくりとすることにしました。 尚、この影響により、計画していたコソボと
    マケドニアのには行けないこととが決定しました。

    画像では余り分からないものの、この日の気温は、9月中旬なのに32度(大汗)。
    外を歩いているだけでも非常に暑いため、カフェでほっと一息。 サラエボを
    含めて、3回目のボスニア風コーヒーを注文してみましたが、やはり、非常に
    濃くて苦い。 付け合せの水とスイーツがないと、ちょっと厳しい大人の
    ほろ苦さですw 尚、ボスニアは、イスラム教であるため、このような
    ファッションが普通です。

    【モスタルのお土産】
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    その後、モスタルで知り合いになった人と夕食(ボスニア風ケバブ)を食べに
    行きましたが、クロアチア語(ボスニア語)は、ロシア語と似ているため、
    こちらからはクロアチア語は大体理解出来るものの、ムスリム人のそのお方は、
    ロシア語が全く聞き取れない。 英語もドイツ語もダメとの事で、こちらからは
    ちゃんちゃってクロアチア語(ロシア語に適当なクロアチア語を混ぜるw)で
    何とか対応しました。

    そこでの話では、ボスニアの平均給与は約100ユーロ(約13万円)で、学校で
    選択出来る外国語は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語とのことでした。

    【モスタル⇒ドゥブロヴニク】
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    前日に乗り遅れたドゥブロヴニク行きのバスに乗り、いざボスニアの国境越えへと
    挑みます。 クロアチアとの国境でパスポートチェックがありますが、何故か、
    パスポートをホテルに忘れたと言う人が続出。 特に、クロアチアはEUで
    あるため、ボスニア側からの入国が厳しく規制されており、このようなことは
    許されません。 よって、ここで数名バスから降ろされ、その後、別の場所に
    連れて行かれたため、恐らく、モスタルに強制的に連れ戻された模様。 前日に
    パスポートがないことをバスの中で気付いたが、もし、気付いていなければ、
    自分も危うく、こういう目に遭っていたと思うと、ドキドキワクワクしますw

    ようやく、クロアチアの国境を越えたかと思ったら、ほんの数キロ走ったところで、
    またまた、ボスニアへと入国。 ここは、ボスニアで唯一の港町であるネウム。
    ボスニアは、内陸国に見えるものの、実はほんの数キロ程、海があります。
    ドゥブロヴニクは、クロアチアの飛び地であるためボスニア→クロアチア→
    ボスニア→クロアチアと激しく国境を跨ぎまくりました。 トイレすらない場所で
    20分程度休憩の後、ネウムを離れて、更にドゥブロヴニクへ向けて出発しました。

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    ボスニアの首都であるサラエヴォからバスで約3時間強で、ヘルツェゴビナの
    中心都市であるモスタルに到着します。 宿は、バスターミナルから歩いて
    数分のところに予約をしていたため、安心していたところ、その宿が一切何の
    連絡もなしに、急に3日間も閉鎖となり、急遽、すぐそばの宿に泊まることに
    なったものの、こちらの奥さんが凄く親切なお方で英語も堪能であったため、
    むしろ、こちらの方が良かったと思いました。

    とりあえず、モスタルに到着したら、世界遺産である『古い橋』を見なければ
    何も始まらないため、バスターミナルから約1キロほど離れた世界遺産へと
    出掛けました。

    【夜のモスタル】
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    モスタルでは、モスクが乱立しており、完全にイスラムの世界。 もしろ、
    ヨーロッパ的な要素は何もありません。 強いて言えば、石造りの街並みが、
    若干ヨーロッパ的なだけで、街中から聞こえて来るのは、コーランばかり。
    1ヶ所だけカトリックの教会がありましたが、単なるお慰み程度の教会であるため、
    稀にしかないクロアチア人のためだけにある教会なのでしょう。 尚、
    Julius Meinl は、オーストリアでは、BILLAと並んで、非常にメジャーな
    スーパーですが、何故かモスタルにもありました。

    この日は実は、夜まで何も食べていなかったため、モスタルの雰囲気のある橋の
    たもとで食事を取ることにし、ボスニア風ケバブとボスニアのビールを注文
    しました。

    翌朝は、午後12時30分にドゥブロブニク行きの最終バスが出てしまうため、
    朝一番でバス乗り場に行き、切符を購入し、そのまま、街中の観光へと繰り出し
    ました。 と言っても、モスタルは、基本的に、『古い橋』以外、特に見る物が
    ない街であるため、今度は中心部を通って、『古い橋』へと向かう途中、銃弾の
    跡が、あちらこちらに残っていました。

    【モスタル中心部】
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    モスタル市中心部を流れる川を渡る途中、山頂にある十字架が見えましたが、
    カトリック教会は、ボスニアでは、存在感が極めて薄いため、至る所で、これ見よ
    がしに巨大な十字架が建っていました。 この十字架を見て、このすぐそばには、
    カトリック教会があるという風に分かるシステムの様です。

    海外に行って、最も行く場所と言えば、マクドナルドw 基本的に、地元の料理
    なんぞは一切食べませんので、時間の掛からない、かつ、味が予想出来るマックで
    十分w 材料すら分からない得体の知れない食べ物は、非常に苦手。

    単に、橋の反対側を歩いて来ただけで、川のどちら側から来ても、『古い橋』
    までの距離は、余り変わりません。 ボスニアではカトリック教会は多少なりとも
    あるものの、セルビア正教の教会は見掛けなかったため、恐らく、内戦で破壊
    されたものと思われます。

    【モスタル市中心部】
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    それ以外は、100%イスラムの世界であるため、観光客もほぼ全員イスラム教徒
    ばかりでした。 その後に行った、ドゥブロヴニクとは、客層が全然違っています。
    正に、イスラムがイスラムを呼ぶという感じでした。 世界遺産である
    『モスタルの古い橋』は、内戦中に破壊されてしまったため、内戦が収まった後に
    再建されたため、よくよく見ると、修復後の境界線が分かります。 イスラム教徒に
    大人気の観光スポットであるため、昼間に行くと、満員電車並みの混雑に遭遇する
    こととなります。

    毎日、定時になると、川のほとりに複数あるモスクから、コーランの祈りが響き
    渡るため、ヨーロッパに居るとは思えない程の完璧なイスラムの世界です。 尚、
    ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴ内での民族浄化等により、ヨーロッパでも
    最貧国の部類に入りますが、月給にして2万円程度のウクライナと比較すると、
    平均月収は13万円程度あるそうなので、ウクライナと比較すると、相当ましです。
    物価も日本よりは若干安い程度なので、東京とさほど差はないと感じました。
    恐らく、東京での現在の平均給与は25万円程度で、横浜だと20万円程度しか
    ありません。

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    サラエヴォ駅前にそびえ立つAvaz Twist Towerは、入場料は1マルク(約135円)で、
    サラエヴォの街並みを高所から見下ろすことが出来ます。 このタワーからは、
    サラエヴォ・オリンピックスタジアムと共に、墓地も見えました。

    1984年に開催されたサラエヴォ・オリンピックのメインスタジアムでメイン
    テーマ曲を歌ったのが、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・
    ストヤコヴィッチでした。 現在は、同じボスニア連邦とされるものの、
    未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカで眠っています。

    【サラエヴォ】

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    この墓地があった場所は、元々は、オリンピックのサブ競技場であった場所で、
    内戦により、余りにも死者が出てしまったため、仕方なくこの場に埋葬したもの。
    戦時中は、銃弾の飛び交わない早朝や深夜に遺体の埋葬が行われました。
    スタジアム内には、オリンピック博物館が併設されています。 サブ競技場は、
    全てお墓にされてしまったため、スタジアム周辺は、この様な風景になって
    います。 墓地の向こう側に見えているのが、オリンピックの塔。

    このお墓を見ていると、違う民族(実際は、殆んど同じ民族で宗教が違うだけ)
    と言う理由だけで、次々と殺された人達の無念さが伝わって来ます。 墓標を
    見ると、20代~30代で死亡した人達が多かったことが分かります。
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    ユーゴスラビアは、東欧の中では、最も進んだ国で、大昔から日本人にはビザが
    必要ない唯一の国でしたが、進み過ぎていたがために、周辺国と足並みが揃わず、
    そこをアメリカに付け入られたため、泥沼の戦争となりました。 ポーランドや
    チェコがもう少しだけ早くユーゴに追い付いていたら、また全く別の道を歩んで
    いたと思うと、残念でなりません。

    昔、そのことをヤドランカに話した時に、『ユーゴは昔は進んでいたのに、今では
    500年前まで戻ってしまった』と言っていたのを思い出しました。 父親が
    セルビア人で母親がクロアチア人のヤドランカは、最後まで自分は『ユーゴ人』だと
    言っていましたが、最後は、バーニャ・ルーカに行くことになったため、最終的
    には、この景色を見て、どう思ったのかについては、知る術がありません。
    もし、自分が同じ立場だったら、やはり、バーニャ・ルーカに行くと思います。

    【オリンピックスタジアム】

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    サラエボともこれでお別れ。 最後に、キオスクのおばさんとボスニア語で話して
    いたのですが、急に『あなた、ボスニア語が凄く上手いけど、ここで習ったの?』と
    聞かれたため、『ロシア語が分かるので、ボスニア語も大体分かる』と答えた
    ところ、『私もロシア語でちょっとだけ喋れる』と言い出したため、ロシア語で
    話したところ、元々、父親がタタール人で、子供の頃にロシアのカザンから、
    親族全員でサラエヴォに引っ越して来たとのこと。 ロシア連邦タタールスタン
    共和国も同じイスラム教ですが、完全にヨーロッパ化しているため、ボスニアの
    本格的なイスラム教とは、全く違うものの、やはり、イスラム教徒は、同じ
    イスラム教圏内が良いらしく、この後のモスタルでは、その現実をまざまざと
    見せ付けられることとなりました。 サラエヴォからモスタルへは、バスで
    3時間半弱。 尚、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国旗、スルプスカ共和国には、
    全くありませんでした。

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    サラエヴォの旧市街から3番トラムに乗車して、トンネル博物館へと向かいます。
    その道すがら、通称『スナイパー通り』を通りました。 この通りでは、内戦時、
    女子供老人を含む、動く者全ての人間が射殺されました。 ボスニア側の説明に
    よると、セルビア連邦軍が射殺したとの説明でありましたたが、セルビア連邦軍で
    なくとも、そこまでやる必要性があったのか、いくら戦争とは言え、他の民族を
    手当たり次第に殺戮しまくった旧ユーゴにおける内戦は、アメリカが介入して
    来なければ、『民族浄化』まではエスカレートすることはなかったと思います。

    【ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦】
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    【サラエヴォ包囲網】
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    上記の図は、サラエヴォ包囲の図と、肌色っぽい場所は、現在のスルプスカ
    共和国の国土を表しています。 旧ユーゴでの内戦中、サラエヴォは、セルビア
    連邦軍に完全に包囲されたため、サラエヴォ空港の真下にトンネルを掘り、物資を
    輸送して、皆何とか生き延びました。 そのため、別名『希望のトンネル』と
    呼ばれています。 このトンネルは、空港のすぐ隣にあるのではなく、空港
    滑走路の真下にあり、そのうち25mのみが一般公開されています。

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    元々、ユーゴスラヴィアでは、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人、
    スロヴェニア人、マケドニア人、アルバニア人、ハンガリー人が共存して
    いましたが、北部にある経済力のあるクロアチアとスロヴェニアが、南部にある
    マケドニアやボスニアとの経済格差に対して、不公平感の是正を求めて独立を
    宣言しましたがが、これが戦争の始まりでした。 その後、セルビア連邦軍が
    介入し、更に、アメリカを中心としたNATO軍が介入し、クロアチアと
    スロヴェニアでは、内戦はそこまでは泥沼化しなかったものの、ここ
    ボスニア・ヘルツェゴビナでは、宗教が全く異なる3民族が共存していたため、
    内戦が泥沼化し、最終的には、セルビア人の共和国であるスルプスカ共和国が
    ボスニア連邦からは完全に分離し、停戦となりました。 今でも、火種は
    あるものの、今のところは、3民族が完全に住み分けを行うことで、平和が
    保たれている状況です。

    希望のトンネルとそこにある展示品は、実際に戦争で使われた物ばかり。
    希望のトンネルは、現在は埋め立てられており、この25mのみが一般公開されて
    います。 空港滑走路の真下を通っているため、恐らく、安全上の理由により、
    埋め立てられたのだと思いますが、緊急物資を運ぶためとは言え、短期間で
    この様なトンネルを掘るのは、至難の技だと思います。 しかも、天井が非常に
    低いため、相当屈まないと頭がぶつかります。

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    壁の銃弾は、当時のまま。 旧ユーゴの時代は、民族や宗教の違いを超えた
    理想郷の様に言われていたサラエボも、最終的には、こんな有様になりました。
    余りにも違い過ぎる場合は、諦めが付いて許せるものの、民族的に非常に似ていて、
    かつ、思考回路が全く違うため、血みどろの戦争へと突入しました。 アメリカが
    介入して来なければ、ここまで大規模な戦争にはならなかったと思います。
    アメリカを中心とするNATO軍に対して、セルビアを身を挺して守ったのは、同じ
    スラブの兄弟国家であるロシアだけでした。

    サラエヴォ・トンネル博物館は、サラエボ空港の真下にあるため、帰りは空港を
    見ながら、歩いて路面電車の駅へ行きました。 正確に言うと、ボスニア・
    マルカの手持ちがゼロになったため、バスに乗れませんでしたw よって、帰り道の
    ショッピングモールにあった、ロシアのズベルバンクでユーロからマルカへと
    両替をしました。 旧ユーゴ諸国で一番メジャーな銀行は、ズベルバンクだと
    思います。 尚、セルビア人のスルプスカ共和国は、サラエボに大きく食い込んで
    いるため、この山を越えた向こう側はもうスルプスカ共和国です。

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    再度、スナイパー通りを抜け、途中、西側報道陣が内戦時に最後の最後まで
    立て篭って報道を続けたという『いわく付き』のホテルでおトイレを借りましたw
    サラエボでは、セルビア連邦軍のことを余り良くは語られてはいませんでしたが、
    私の場合は、セルビアやスルプスカ共和国側の状況を先に見て来てからボスニアに
    やって来たため、一切その様には感じませんでした。 『真実はひとつだけ』と
    良く語られているものの、見方によっては、真実はひとつだけではないため、
    多角的に物事を見るべきです。 ムスリム人やクロアチア人から見た場合はそう
    なのかも知れませんが、セルビア人から見た場合は、全く違うと思います。

    この施設は、サラエヴォ市内からは、合計2時間近く掛かる施設ですが、
    サラエヴォを訪れた際には、1回は絶対に見ておくべき施設です。

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    第一次世界大戦勃発の地である『ラテン橋』。 この橋のたもとで、
    オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が
    始まりました。 第一次世界大戦での敗北により、オーストリア=ハンガリー
    二重帝国は崩壊、それと共に、ハプスブルグ家の支配が終わり、オーストリアは、
    ドイツ民族以外の土地を全て失い、共和制へと生まれ変わりました。

    元々、ドイツ民族の中心国家は、オーストリアであり、このため、現在の
    ドイツの国歌は、オーストリアのお古w よって、オーストリア人は、今でも
    頻繁に、『帝国時代は良かった』と言います。

    【ラテン橋】
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    ラテン橋は、『ヨーロッパ側』にあるものの、ものの数分も歩くと、また
    イスラムの景色に戻ります。 数百メートルおきに、モスクが大量に乱立して
    いるため、歩いている間に見飽きて来ました。 以前、タタールスタンの
    ニジェネカムスクで、ヨーロッパ化したモスクに入った際には、1時間ほど、
    ロシア語でコーランの説明を受けたため、今回は、モスクには入らないことに
    しましたw

    基本的に、食べ物には関心がないため、旅先では、余り食事と言う物を取り
    ませんが、この日は朝ごはんを食べずに歩き回ったため、お昼は、ボスニア名物の
    ケバブとトルコ・コーヒーにしました。 正確に言うと、ボスニア風ケバブと
    ボスニア風コーヒーらしい。

    バシチャルシアの水飲み場付近
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    モンテネグロの現在の首都の名前は、ポドゴリツァですが、旧名は、チトー
    大統領に因んで、『チトーグラード』と言う名前でした。 ベオグラードに
    埋葬されているのも知っていたものの、そこまでチトーが好きな訳でもないので、
    次回ベオグラードに行く時に持ち越しました(←既に行く気満々♪)。

    ひとつひとつが手作りのトルコ・コーヒーのカップ。 このコーヒーセットが
    結構欲しかったのですが、予想外に高かったたのと、リュック1つしか持参して
    いないため購入を断念。 次回は、しっかりとトランクを持参して、コーヒー
    セットとイスラムランプを購入したいと思います。 こういう自分の常識に
    囚われないエキゾチックな場所が大好きなので、サラエヴォには、また来たいと
    思いました。

    【ムスリム人居住区】
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    サラエヴォのムスリム人居住区。 内戦時、サラエヴォはセルビア軍に包囲された
    ため、完全に孤立し、これらの建物の多くが破壊されました。 セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人による血で血を洗う戦争は、民族浄化まで引き起こし、
    最終的には、国連の指導の下、3民族が分かれて住み分けを行うことで最終的に
    合意しました。 セルビア人、クロアチア人、ムスリム人は、元々は同じ
    南スラヴ人で、同じセルボ・クロアチア語を話す民族ですが、支配されていた国が、
    オスマン・トルコとオーストリアに分かれていたため、一部の人たちがイスラム化
    してムスリム人に、セルビア正教を受け入れた人達がセルビア人に、カトリックを
    受け入れた人達がクロアチア人へと完全に分化しました。 この3民族を分けて
    いるのは宗教だけ。 セルボ・クロアチア語は、ブルガリア語と非常に似て
    いますが、イントネーションが完全にイタリア語寄りのため、ロシア語からは、
    非常に聞き取りづらいのが特徴。

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    名目上は、ボスニア連邦第二の都市であるバーニャ・ルーカから、ボスニア
    連邦の首都サラエボまでは、バスで約3時間半の道のり。 途中、スルプスカ
    共和国からボスニア連邦に入った途単に、風景が一気にイスラム化し、キリル
    文字からローマ字に切り替わりました。 ボスニア連邦の中心民族は、
    ムスリム人でクロアチア人は、余り多くはありませんでした。

    と言っても、元々は同じ民族であるため、見た目は同じであるものの、イスラム教徒
    独特の風貌をしているため、見てどちらかが分かります。 ムスリム人の見た目の
    主な特徴は、男性はひげを生やし、女性はスカーフを巻いています。 一部、
    ブルカを着ている人もいましたが、恐らく、別のイスラムの世界からやって来た
    観光客だと思われます。 余り敬虔ではないイスラム教徒は、ここまではして
    いませんが、話し方がやはり独特であるため、やはり、ムスリム人だと分かります。

    【バーニャ・ルーカ⇒サラエヴォ】
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    サラエヴォで宿泊したのは、市中心部で、鉄道駅と高速バスターミナルからは、
    歩いて20分程度の場所にあり、むしろ、駅とバスターミナルの方が街の外れに
    あるため、こちらが本当の中心地。 旧ユーゴでの内戦で死亡した人達の魂を
    鎮めるためなのか、『永遠の炎』が宿のすぐそばにありました。 これが歩行者
    天国への入り口で、こちらはヨーロッパ側。

    歩行者天国を入って、10分程度は、ヨーロッパ的な石造りの街並みが続きますが、
    『ここが境界線』という場所で、目に見えて景色が一変します。 サラエヴォには、
    基本的に、カトリック教会もありますが、数百メートルおきに、イスラム教の
    モスクが乱立しているため、カトリックは圧倒的に少数派。

    セルビア正教会もお慰み程度にはありますが、内戦後、セルビア人の多くは、
    サラエヴォからは出て行き、ここから見て、山を越えたスルプスカ共和国側に
    住んでいるため、サラエヴォにはセルビア人は余り残っていません。

    サラエヴォ】
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    この通りから先が、ムスリム人居住区。 景色が一気にイスラム化し、ヨーロッパ
    ではなくなります。 サラエヴォには、イスラム教の他にも、カトリック教会、
    セルビア教会、ユダヤ教が共存していますが、圧倒的多数なのは、イスラム教。
    ユダヤ人はここでは、かなりの少数派だと思います。 尚、現在イスラエルに
    住んでいるユダヤ人の多くが、旧ソ連邦からの移民であるため、イスラエルでは、
    実は、多くの人達が、ロシア語で話しています。 ユダヤ人は、見た目が非常に
    特徴的であるため、見てすぐに分かります。

    ロシア連邦のタタールスタン共和国や、カザフスタン等の中央アジアも、完全に
    イスラム教の世界なのですが、完全にヨーロッパ化しているため、同じイスラム
    教徒でも、サラエヴォは趣が全然違いました。 ここは、完全なるイスラムの世界。
    街を歩いていても、あちらこちらからコーランが普通に聞こえて来ます。

    ユーゴスラヴィアは、『民族のモザイク』、特に、複数の宗教が混在している
    サラエヴォは、『コスモポリタン』とも呼ばれていましたが、むしろ、ここまで
    思想が異なる同じ民族をひとつにまとめていたチトー元大統領が物凄いのだと
    改めて気付きました。 旧ユーゴ内戦後に、それぞれの民族ごとに『住み分け』が
    実施たことでも分かるように、宗教が異なり、思想が異なると、やはり、共存は
    無理だと思います。

    ムスリム人居住区内にあるサラエヴォ市庁舎。 内戦でボロボロになりましたが、
    修復を終えて、美しい姿に戻りました。 露店に並ぶお土産は、トルココーヒーの
    セット。 結構欲しかったのですが、意外に高いのと、かさばるため、購入は
    我慢しました。 尚、今回の旅は、リュックサック1つのみで出掛けております。

    【ムスリム人居住地区】
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    川のある場所から、山が見えますが、その山を越えた場所が、セルビア人居住区の
    スルプスカ共和国。 よって、サラエヴォからセルビア人が出て行ったと言う
    よりは、山を越えた向こう側に引っ越したが一番正しい表現だと思います。 尚、
    ボスニア連邦⇔スルプスカ共和国間には、国境があるものの、同じ国内であるため、
    パスポートチェックはなく、通貨も同じ。 但し、見た目的にも、思想的にも、
    全く別の国。

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    スルプスカ(セルビア人)共和国の首都バーニャ・ルーカの中心部。
    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府の支配は受けていないため、
    ボスニアの国旗はひとつもなく、セルビア国旗しかありません。 中心部は、
    こじんまりとしており、歩行者天国を中心に、商店街が軒を連ねています。

    【セルビア正教会】
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    バーニャ・ルーカ中心部にあるセルビア正教会。 ボスニア・ヘルツェゴビナ
    には、3つの宗教がありますが、そのうちの教会の1つ。 基本的に、正教国家は、
    キリル文字を使用しています。 セルビア正教会には、ろうそく立てがなく、
    この教会には、ろうそく自体もありませんでした。

    歩行者天国を中心としたバーニャ・ルーカの中心部。 『未承認国家』と聞くと、
    暗いイメージがありますが、全く逆で、かなり明るい雰囲気です。 未承認国家
    とは、単にアメリカに認められるか否かの違いだと思います。 ボスニア・
    ヘルツェゴビナでは、旧ユーゴ内での内戦の後、各民族間による住み分けが進み、
    多くのセルビア人がサラエボからこのバーニャ・ルーカへと移り住んだそうです。
    雰囲気的には、同じボスニアでも、ムスリム人とクロアチア人が中心のボスニア側
    とは、全く雰囲気が異なります。

    【市中心部】
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    バーニャ・ルーカの中心部には、恐らく、内戦で死亡したであろう、英雄を祀る
    場所があります。 スルプスカ共和国は、ほぼセルビアと同じであるため、現地で
    最大の銀行は、ロシアのズベルバンクです。 ロシアとセルビアは、非常に仲が良い
    国であるため、この他にも、ガスプロム、ラーダ等のロシア企業もところどころに
    ありました。

    スルプスカ共和国博物館。 過去の歴史を一同に展示していますが、途中からは、
    戦争の展示に変わります。 スラブ人は、大きく分けると、ロシア人等の
    東スラブ人、ポーランド人等の西スラブ人、セルビア人等の南スラブ人に大別
    出来ますが、他のゲルマン民族やラテン民族とは異なり、分化したのが遅かった
    ため、スラブ語は、それぞれの言語で喋っても、大体理解出来る程似ています。

    【スルプスカ共和国博物館】
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    スルプスカ共和国の展示物。 民族衣装の展示ですが、南スラブ人は、オスマン・
    トルコの影響を強く受けているため、かなりアジアっぽい雰囲気が入っています。
    セルビアは、長らくオスマン・トルコの支配を受けていましたが、イスラム化
    せずに、セルビア正教を貫きました。逆に、イスラム化したのが、ムスリム人
    ですが、元々は、セルビア人とクロアチア人がイスラム化した人達。 ヤドランカが
    弾いていたサズの展示もありましたが、元々は、シルクロードを通って、ペルシャ
    から伝来した物。 日本にもシルクロードを通って、ほぼ同じ物が伝来し、琵琶に
    なりました。

    何故かキリル文字とローマ字が混在しているプレートを発見。 どちらも同じ
    アルファベットなので、文字変換は以外に簡単。 ロシア語をローマ字で書くと、
    ほぼチェコ語になりますw 最後の一枚は、バーニャ・ルーカの平均的な家屋。
    内戦後にリフォームされているため、外観的に新しい家が多いです。

    バーニャ・ルーカを後にして、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都サラエボを
    目指します。 バーニャ・ルーカからサラエボまでは、約3時間半の道のり。
    ボスニアは山がちの国であるため、途中はほぼ全て山脈で、厳しい山越えが待ち
    受けていました。 途中でボスニア側に入りますが、国境を越えた途端に雰囲気が
    一気にイスラム化するため、見た目で分かりました。

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    未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを訪れることに
    したのは、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・ストヤコヴィッチの
    お墓がこの街の郊外にあるため。

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    現地に到着してから思い立ち、急遽、そのヤドランカが死ぬまで入院をしていた
    高齢者介護施設を訪れることにしました。 たまたま、前日宿泊していた宿の
    すぐそばにあり、歩いて15分程度の場所にあったため、ホームセンター
    (この建物がこの施設への目印)で、ヤドランカにお供えする造花のバラを
    購入しました。 最後、この施設を撮影していたところ、施設係員の方から、
    怒られたのですが、『ここはヤドランカ・ストヤコヴィッチが死んだ場所ですか?』
    と尋ねたところ、『そうだ』という答えが返って来ました。

    ヤドランカが死亡した施設のすぐ隣りで、エスプレッソを飲みました。
    ヤドランカもここに来たのかな?などと考えてしまいましたが、その後、
    その斜め後ろにある教会へ移動。 カトリック教会なので、ヤドランカには
    関係がないかも?とも思いましたが、すぐ隣りにある教会なので、とりあえず、
    お祈りをしておきました。

    【ヤドランカが入院していた施設】
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    その間、宿泊先のセルビア人の管理人にメールを送り、中心部からかなり
    離れたヤドランカのお墓に車で連れて行って貰えることになりました。 実は、
    ヤドランカが眠る共同墓地は、中心部からは、8.5キロも離れており、歩くと
    2時間強の道のり。 管理人の話では、新しく造った市営墓地なので、郊外に
    あるそうす。

    ヤドランカが入院したのは、東日本大震災直後の2011年のことで、その後、
    2016年まで5年間もこの施設に入院していました。 不治の病のALSで、現代の
    医学では、治療をすることすら出来ませんでした。 バーニャ・ルーカに
    行きたいと思ってから、この地に来るまでに、7年半もの歳月が掛かってしまい
    ましたが、この7年間、東京は、地獄のどん底で、ヨーロッパ旅行など、出来る
    ような経済状態ではありませんでした。。 遅れてもバーニャ・ルーカに来れた
    ので、ヤドランカはきっと許してくれると思います。

    Gradsko groblje Vrbanja
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    【Gradsko groblje Vrbanja】


    造花のバラをお墓の上にお供えして、30分ほど、このお墓の前で色々お話しした後、
    ヤドランカのお墓を後にしました。 サラエボで生まれ育ったヤドランカですが、
    最後、どうして、バーニャ・ルーカを終の棲家にしたのかは、謎のまま。 管理人の
    話では、恐らく、サラエボが完全にイスラム化したためだと言っていました。。

    その管理人とは、次回、バーニャ・ルーカを訪れる際には、絶対にセルビア語で
    喋れるようになってここに戻って来ると約束しました。



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